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5月15日、上野の山で戦争

5月15日、上野の山で戦争高ヒット
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明治元年(1868)5月15日、上野の彰義隊を官軍が攻撃。(上野戦争)
上野、下谷、本郷付近に火災が起こり、焼失1200戸。

絵は『本能寺合戦之図』(歌川芳盛画、明治2年)上野戦争を明智光秀が織田信長を襲った本能寺の変の名を借りて描かれた浮世絵。この頃、上野戦争に関する絵や本の出版が憚られ過去の合戦名を使用した画。


関連コラムはこちら>
江戸十万日「月日の鼠」
http://www.edoshitamachi.com/web/fuyugaki/2019/12/post-6.html

感染防止対策 〜 昔「ハンケチ」 今「マスク」

感染防止対策 〜 昔「ハンケチ」 今「マスク」高ヒット
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*ポスターは昭和初期に作成。/日本赤十字社 所蔵

日本赤十字社の歴史は、感染症との戦いでもあります。
日本赤十字社の成り立ちは、明治10年(1877)に西郷隆盛が九州で挙兵した西南戦争で、敵味方の区別なく傷病兵の救護にあたった博愛社がはじまりです。
後に政府がジュネーブ条約に加盟した明治20年(1887)日本赤十字社と名を改めました。

石黒 忠悳は明治維新という騒乱期にあって,日本の医学の向上と軍医制度の改革と同時に日本赤十字社社長(第4代)として陸軍に女性による看護を導入しました。
また、森鴎外の上官として知られています。(『舞姫』の「官長」のモデル)

>詳しくは
*江戸十万日「月日の鼠」 陸軍衛生部軍医制度に生涯を捧げた医師、石黒忠悳の回顧録
http://www.edoshitamachi.com/web/fuyugaki/2022/02/
http://www.edoshitamachi.com/web/fuyugaki/2022/03/

*日本赤十字社 赤十字WEBミュージアム
https://www.jrc.or.jp/webmuseum/


江戸時代の感染症対策。疱瘡(ほうそう)には「赤絵」、麻疹には「はしか絵」、コロリも流行のたびにたくさんのまじない絵がつくられました。

江戸時代の感染症対策。疱瘡(ほうそう)には「赤絵」、麻疹には「はしか絵」、コロリも流行のたびにたくさんのまじない絵がつくられました。高ヒット
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>絵は葛飾北斎「朱描鍾馗図」(しゅがきしょうきず) すみだ北斎美術館蔵

鍾馗(しょうき)図は中国で疫病神を祓って魔を除くと信じられ、日本でも古くからよく描かれた画題。
朱描きの鍾馗図は赤絵(あかえ)と呼ばれる疱瘡除けの願いを込めて描かれた絵のひとつで、
特に疱瘡除けには絶大な効果があると信じられていました。

>詳しくは
*神田川界隈物語 『 いつの世も変わらぬ子をおもう親心 疱瘡除けの「赤色」』
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd6/

「池袋」地名の由来とされる池を水源とする弦巻川

「池袋」地名の由来とされる池を水源とする弦巻川高ヒット
投稿者sibugakisibugaki さんの画像をもっと!   前回更新2023-7-13 0:22    
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弦巻川(つるまきがわ)は池袋から雑司ヶ谷を経由して江戸川橋に至る神田川の支流で東京都豊島区と文京区との間を流れていた河川。昭和7年(1932年)に当時の北豊島郡高田町により暗渠化工事が行われ、現在では川の流路はまったく残っていない。
池袋の地名の由来とされる丸池が存在したこを後世に残すため、水源の池である丸池(袋池とも呼ばれた)は豊島区立元池袋史跡として公園になっている。

>写真は豊島区立元池袋史跡公園 (東京都豊島区西池袋1丁目9-12)

関連コラム>神田川界隈物語
「起伏にとんだ土地に水を湛えて流れた弦巻川」
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd6/

池袋駅構内にあるフクロウの石像 「いけふくろう」

池袋駅構内にあるフクロウの石像 「いけふくろう」高ヒット
投稿者sibugakisibugaki さんの画像をもっと!   前回更新2023-7-13 0:22    
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>写真は待ち合わせ場所の定番となった「いけふくろう」の像。 (地下1階JR改札付近)

>駅の待合せ場所として、渋谷駅のハチ公、東京駅の銀の鈴、新宿駅のアルタ前などと共に定番になっている。
「いけふくろう」とは、「池袋」の地名はかつて湿地帯で池があり、そこに多くのふくろうが生息していたので
「池+ふくろう」で「池袋」となったという説に由来。
今は池袋のシンボル、フクロウのモニュメントとして池袋の各所に「いけふくろう」がいる。
 
 昔から雑司が谷の「すすきみみずく」は、お土産や安産と子育てのお守りとして有名。
明治末期から大正にかけて「雑司ヶ谷の梟」のあだ名で呼ばれた人物がいた。
こよなく雑司が谷を愛した秋田雨雀で、仲間たちを呼び、鬼子母神境内の茶屋に文人や画家たちが参集した。

関連コラム>神田川界隈物語
こよなく雑司が谷を愛した秋田雨雀
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd6/

江戸時代、浴衣の丈(たけ)は 短かかった?!

江戸時代、浴衣の丈(たけ)は 短かかった?!高ヒット
投稿者渋柿渋柿 さんの画像をもっと!   前回更新2023-7-13 0:22    
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>絵は式亭三馬の滑稽本『浮世風呂』4編(文化10年〈1813〉刊)の口絵より。

 もともと浴衣というものは、江戸時代、浴場(銭湯)から出て、ほてった体を冷ますときに着るものだったから、丈が短いのは仕方のないことなのだ。江戸時代は、夏冬の季節に関係なく、浴場(銭湯)を出ると「つんつるてん」の浴衣に着替えたらしい。
。江戸時代は、夏冬の季節に関係なく、浴場(銭湯)を出ると「つんつるてん」の浴衣に着替えたらしい

*関連コラム>江戸言葉 月ごよみ   
七月「「つんつるてん」と「テンツルテン」
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/index.php?id=8

玉川上水の石枡(千代田区紀尾井町 清水谷公園に展示)

玉川上水の石枡(千代田区紀尾井町 清水谷公園に展示)高ヒット
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この石は1970年(昭和45年)に国道20 線(麴町大通り)の共同溝拡幅工事の際に麹町3丁目2番地先で発見された玉川上水施設一部。
玉川上水は、4代将軍家綱の命で1653年(承応2年)に着工し 、翌年に竣工したと伝えられています。多摩川上流の羽村で取水し、四谷大木戸に至る43kmを開渠で導水し、江戸市中へは石樋や木樋による暗渠で配水。
江戸市中へは石樋や木樋による暗渠で配水。 この石枡は江戸市中における本管の一部で、地中深く4段に積んだ大規模な構造。1段と2段目にまたがる部分に木樋の挿入口があります。

玉川上水関連の展示・講演会情報
2022年9月23日(金) 〜9月25日(日)
展示会 ・「武蔵野台地の新田開発と玉川上水」
講演会 ・「新田開発の面影を留める玉川上水・中流部」
    ・「玉川上水・分水網関連遺構100選について」
    ・「玉川上水の歴史的文化的価値について」

詳しくは> http://plant2.qcweb.jp/tamagawajousui-net/images/tj10/tj10_3.pdf

四谷区民ホール前の玉川上水の碑

四谷区民ホール前の玉川上水の碑高ヒット
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史跡説明版(写真:左)
【玉川上水水番所跡】(たまがわじょうすいみずばんしょあと)所在地 新宿区内藤町八十七番地
 玉川上水は、玉川の羽村堰で取水し、四谷大木戸までは開渠(かいきょ)で、四谷大木戸から江戸市中へは石樋・木樋といった水道管を近く埋設して通水した。
水番所には、水番人一名が置かれ、水門を調節して水量を管理したほか、ごみの除去を行い水質を保持した。当時、水番所構内には次のような高札が立っていた。
         定
一、此上水道において魚を取水をあび
  ちり芥捨べからず 何にても物あらひ申間敷
  並両側三間通に在来候並木下草
  其外草刈取申間敷候事
 右之通相背輩あらば可為曲事者也
  元文四巳未年十二月   奉行

東京都指定有形文化財(古文書)
【水道碑記】(すいどうのいしぶみのき)
        指定年月日 昭和五年十二月
 玉川上水開削の由来を記した記念碑で、高さ四六〇センチ、幅二三〇センチ。上部の篆(てん)字は徳川家達、撰文は肝付兼武、書は金井之恭、刻字は井亀泉によるもので、表面に七八〇字、裏面に一三〇字が陰刻されている。
 碑の表面には明治十八年の年紀が刻まれているが、建立計画中に発起人西座真治が死亡したため、一時中断し、真治の妻の努力により、明治二十八年(一八九五)に完成したものである(裏面銘文)。


【四谷大木戸跡碑】(よつやおおきどあとひ)
 四谷大木戸碑(この説明版の裏側にある)は、昭和三十四年十一月、地下鉄丸ノ内線の工事で出土した玉川上水の石樋を利用して作られた記念碑である。
実際の大木戸の位置は、ここより約八〇メートル東の四谷四丁目交差点のところで、東京都指定旧跡に指定されている。
      平成二十四年六月  新宿区教育委員会

*玉川上水は、承応3年(1654) に多摩川の羽村堰〜四谷大木戸まで約43kmを開削
〈「羽村取水口」の標高は126m、43卆茲痢峪傭大木戸」は92mの自然流下〉
玉川上水は武蔵野台地の稜線を流れ南北に分水を引くことができ、33の分水が穿たれ、集落と新田開発に大きく寄与。

関連情報>
玉川上水ネット10周年事業
第5回 地区別展示・講演会  11月17日(木)〜20日(日)
http://plant2.qcweb.jp/tamagawajousui-net/index.html


「男神が多い武蔵国」

「男神が多い武蔵国」高ヒット
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東京の未来づくりには、地歴を抜きに考えられません。
この物語は、土木技術者の視点から、地理や文化を織り交ぜ、豆知識としてどこを読まれても良いスタイルになっています。 東京の未来づくりを議論されるとき、この物語が、ささやかでもお役に立てば、望外の喜びです。

8世紀頃、地球温暖期を迎え、西欧も東洋も開墾が盛んとなり、食物生産を押 し上げました。
そして文明が、古代から中世へ移行。この時代の特徴が、国際宗教の誕生です。宗教が国際化できるほど、 広範囲に生産力が向上したことを示唆しています。
中国では、隋唐が国家を再統一し、仏教治国政策が行われます。 日本は中国に学び、豪族たちの氏神を日本神話の体系に位置付け、氏神に冠位を与えてそれに応じた供物を与える仕組みとし、また仏教治国政策も取り入れ、全国に国分寺を立てました。
では辺境の武蔵国では、どのような状況だったのでしょうか?
国司は、大国魂神社敷地 (東京都府中市) に置かれ、有力豪族の氏神を順番に詣りました。それは豪族の所有地の調査も兼ねてのことだったでしょう。その順番が一之宮等の神社のランクになったといわれています。
武蔵国の神様で特徴的なことは、開墾開拓に相応しい“力の男神”が圧倒的に多いということです------

詳しくは>〜水都江戸・東京物語〜「第一部「武蔵國・江戸物語」 No5.「男神が多い武蔵国」
      http://www.edoshitamachi.com/web/suitoedo/

*画像〜No5.「男神が多い武蔵国」

「万葉集に見る武蔵国の水土」

「万葉集に見る武蔵国の水土」高ヒット
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東京の未来づくりには、地歴を抜きに考えられません。
この物語は、土木技術者の視点から、地理や文化を織り交ぜ、豆知識としてどこを読まれても良いスタイルになっています。 東京の未来づくりを議論されるとき、この物語が、ささやかでもお役に立てば、望外の喜びです。

《万葉集に見る武蔵国の水土≫
奈良時代編纂の万葉集には、東歌や防人 (さきもり) 歌が特集され、そこには、武蔵国の水士が色濃く滲み出ています。 ここでは、東歌3 首、防人歌1首を紹介しましょう。
まず「多摩川に曝 (さら)す手作り さらさらに何そこの子のここだ愛 (かな)しき」 という歌があります。 カラムシから織った布を多摩川に晒している女性を愛でている詩です。“さらさら”という言葉から、流れの速さが連想されるとともに、“更 更に”愛情が増す意味も加わり、秀作といえるでしょう。
次に、「埼玉の津に居る船の風をいたみ綱は絶ゆとも言(こと)な絶えそね」という歌があります。
“港の船を繋ぎ止める 綱が風で切れても好きな人の便りは絶えませんように” と願っている詩です。
読まれた場所は行田市であり、船が生活上欠かせない低湿地であったことが分かります。----------

詳しくは>〜水都江戸・東京物語〜「第一部 「武蔵國・江戸物語」No4「万葉集に見る武蔵国の水土」
      http://www.edoshitamachi.com/web/suitoedo/

*画像〜No4. 「万葉集に見る武蔵国の水土」

富士山噴火が鎌倉幕府を創った?

富士山噴火が鎌倉幕府を創った?高ヒット
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富士山噴火が鎌倉幕府を創った?

平安遷都の6年後の800年 (延暦19) そして864年(貞観6) に、 富 士山が噴火。
噴火により、大量の火山灰が相模国に降り長期間かけ沿岸域の陸化を促進。
それを地域豪族が開拓し私領地化して力をつけてゆく・・・・・
[ 画像 : 宝永噴火を描いた古絵図(滝口文夫氏所蔵) ]

詳細はこちら>
水都江戸・東京物語〜「第一部「武蔵國・江戸物語」
No8. 富士山噴火が荘園化を加速!
http://www.edoshitamachi.com/web/suitoedo/

3月3日、日本橋架橋 今年420年。

3月3日、日本橋架橋 今年420年。高ヒット
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慶長8年(1603)3月3日、
家康はどうして、日本橋をかけのか?
関東に入府した家康は、 江戸を拠点とすることとし、江戸城を築きながら、 戦いに備えたインフラを築造します。 水と米と塩です。
家康は、江戸を人流物流の中心にするため、 日本橋を築造して五街道の起点
とするとともに、 江戸湊を造成し・・・・・
詳細はこちら>
「武蔵國・江戸物語」戦いに備えた江戸の最初のインフラ
http://www.edoshitamachi.com/web/suitoedo/PDFNo30.pdf

画像 : 歌川豊広「江戸八景 日本橋清風」1790年代(ボストン美術館蔵)

江戸時代の庶民の貨幣は何と言っても、『寛永通宝』

江戸時代の庶民の貨幣は何と言っても、『寛永通宝』高ヒット
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江戸時代、藤の花の名所だった亀戸天神のすぐ隣に、銭を鋳造する広大な敷地の「銭座(ぜにざ)」があった。
元禄8年(1695)8月に元禄の貨幣改鋳が行われ、翌々年の元禄10年、亀戸村の検地と同時に1万5000坪余の土地に銭を鋳造する銭座がこの地に造られた。銭座ができた場所(今の江東区亀戸2、3丁目)は亀戸天神と隣接することから、「天神町」とも俗称されていた・・・・・
(寛永通宝は、裏面に波形が刻まれているものが4文、刻まれていないものが1文)

画像 >「寛永通宝」寛永13年 鋳造

関連コラムはこちら>
・江戸ことば月ごよみ 『藤の花と銭の花』
 http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/index.php?id=4
・江戸ことば月ごよみ『江戸っ子と小判』
 http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/index.php?id=16
・江戸ことば月ごよみ 『遊女のアリンス言葉 「ざんす」「チャキチャキ」』
 http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/index.php?id=3
・江戸ことば月ごよみ 『初午は乗ってくる仕合せ」』
 http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/index.php?id=5

4月11日明治元年(1868) 江戸城が開場

4月11日明治元年(1868) 江戸城が開場高ヒット
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4月11日明治元年(1868) 江戸城が開場

1867年(慶応) 11月9日、 大政奉還。
江戸城総攻撃が3月15日と決まり、事態は緊迫。 その前日に、江戸の薩摩藩邸において、幕府側の勝海舟と新政府側の西郷隆盛の会談が行われ、 交渉は無事成立。
こうして1868年4月11日、江戸城無血開城が実現しました。 この会議に当って、勝海舟は、交渉決裂を想定し、徹底抗戦に備え江戸焦土作戦を立てて・・・・・

画像 > 西郷・勝無血開城会見の碑 (東京都港区芝 5-33-11 三菱自動車ビルの一角に存在) ( 細見寛撮影)

関連コラムはこちら>
・水都江戸・東京物語り 第一部「武蔵國・江戸物語」≪東京への改称≫
 http://www.edoshitamachi.com/web/suitoedo/PDFNo53.pdf

幕末の物価騰貴の諷刺画。

幕末の物価騰貴の諷刺画。高ヒット
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時世(とうせい)のぼり凧(いか)絵 「慶応二年寅夏」

この絵は慶応二年(1866)に描かれた『時世のぼり凧』という錦絵。当時流行していた凧あげの様子を描いて
凧に品物の名称が書かれている。
実はこの絵、慶応二年の物価上昇について描いたもの。
上方にある凧に書かれた品物ほど、物価が高騰していたことを示している。


関連コラムはこちら>
江戸十万日「月日の鼠」
http://www.edoshitamachi.com/web/fuyugaki/2021/07/post-5.html

幕末、慶応の打ちこわし

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慶応2年(1866)5月28日 、米価高騰のため、打ちこわしが発生する。
江戸でおこった打ちこわしを描いた絵。
米屋を襲い、家屋を破壊、商品を台無しにする場面。
『幕末江戸市中騒動記』 東京国立博物館蔵/部分

関連コラムはこちら>
江戸十万日「月日の鼠」
http://www.edoshitamachi.com/web/fuyugaki/2021/07/post-5.html

昭和から続く郡上八幡大寄席の誕生秘話

昭和から続く郡上八幡大寄席の誕生秘話高ヒット
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永六輔さんの肝いりで第一回の郡上八幡大寄席は1975年(昭和50年)スタート。
【出演】司会>永 六 輔・小沢昭一  落語>桂米朝・柳家小三治・入船亭扇橋 
今も、郡上八幡在住の俳優近藤正臣さんや、桂米團治さんたちの尽力で、「郡上八幡上方落語の会」として続いている。

詳しくは>コラム 「寄席à la carte(アラカルト)」 「柳家小三治と郡上八幡大寄席」

http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd8/

漢字で「鮸」とも「鮸膠・鰾膠」とも書く魚。

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「ニベ」という魚のこと。成魚になると全長は約80僂肪する大形魚である。
大きな浮き袋をもち、その付随筋(ふずいきん)でグーグーと音をたてることから鳴く魚としても知られる。
江戸後期の博物家・毛利梅園(もうりばいえん。1798〜1851)が描いたニベ。
梅園は幕臣で書院番をつとめ、鳥、魚、菌類などの正確な写生図譜を残した。
(『梅園魚品図正』〈天保6年序〉国立国会図書館蔵)

*詳細は>コラム 江戸言葉 月ごよみ 「にべもない」
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/

豊島区雑司ヶ谷産の名品

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竹本焼は、明治初年から大正期にかけ旧旗本の竹本家3代(要斎・隼太・皐一)にわたって作った陶磁器です。窯と工場は神田川に近い竹本家の屋敷「含翠園」にありました。やきものに必要な水は敷地から湧き出る豊富な清水を利用し、土は瀬戸などから取り寄せたほか、地元雑司が谷や落合の粘土も使用していました。竹本焼はまさしく豊島区の水と土から生まれたやきものです。
写真は竹本隼太作
紫薇釉紅葉文丸形花瓶 (しびゆうもみじもんまるがたかびん)  高18.4 口径4.9 胴径18.7  
美術展覧会(明治24年1891)銀牌受賞 東京芸術大学大学美術館蔵
*詳細>神田川界隈物語 雑司ヶ谷物語〜「豊島の土」を美術品として海外へ送り出した竹本隼太
 http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd6/

昔から、旅は道連れ二人旅!

昔から、旅は道連れ二人旅!高ヒット
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いまも、二人旅をするときに「弥次さん・北さんみたいだね」と言うことがある。

絵は小田原の宿の旅籠(はたご)に泊まったふたり。五右衛門(ごえもん)風呂の湯につかる弥次さんと、その様子をのぞきに来た北八。このあと、北八が風呂の底を下駄で踏み抜き、大騒ぎとなる。(『東海道中膝栗毛』初編一部」

*詳細>コラム 江戸言葉 月ごよみ「弥次さん北さん 」
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/

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