江戸言葉 月ごよみ
棚橋正博(たなはしまさひろ)氏プロフィール
1947年秋田県生まれ。 早稲田大学エクステンション(中野校)講師。神奈川大学エクステンション(横浜KUポートスクエア)講師。早稲田大学大学院講師。早稲田大学大学院修了。日本近世文学専攻。文学博士。 黄表紙研究の第一人者で、知られざる江戸の風俗文化を多くの人々に伝えることを使命としている。テレビや講演会などでも活躍中。著書は『式亭三馬』(ぺりかん社)、『十返舎一九』(新典社)、『江戸の道楽』(講談社)、『江戸戯作草紙』『教科書が載せられない名文』『捏造されたヒーロー遠山金四郎』(小学館)など多数 (Web日本語より加筆転載)  

 私たちが何気なく使っていることばの多くが、じつは江戸生まれだってご存じでしたか? 「江戸っ子」なことばたちを、江戸の人たちがどうやって生み出し、どのように育てていったのか、「へえ〜」と思わずいいたくなる知識を、黄表紙や浮世絵の絵などとともにご紹介していきます。 

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 八月



  「八朔(はっさく)」とは8月1日のことをいう。江戸時代は旧暦(太陰暦)であったから、現在の新暦(太陽暦)でいうと8月30日あたり、盛夏すぎの暑さも少し和らいだ頃の気候ということだったろう。
  江戸時代、この日には、武士たちが江戸城に登城して将軍にお目見えする「八朔」の儀式がとり行われた。 旗本(はたもと)・御家人(ごけにん)・大名たちが、白帷子(しろかたびら)に長袴(ながばかま)をつけて将軍に祝辞を申し述べた。
 この儀式は、天正18年(1590)8月1日(新暦8月30日)、徳川家康が江戸入りしたことからはじまり、江戸城の年中行事となったわけである。
  「八朔」はもともと、鎌倉時代頃から行われた農民が収穫の無事を願う儀式に由来するようである。早稲(わせ)の実り具合を見て豊作を祈願する儀式や、早稲の実を入れた盃(さかずき)に酒を注ぎ、農事の共同作業の成就を祈願する早稲の「田(た)の実(み、「む」とも)」の儀式である。これらは、今日も全国各地で見られる。鎌倉武士たちは、「田の実」を語呂合わせで「頼む」とし、主従関係において「頼み」「信頼」を築く日を八朔と定めて儀式化していったのである。
 さて、江戸庶民にとって八朔といえば、吉原の年中行事がピンときた。
 吉原の遊女は、図版のように、八朔には白い小袖(こそで)を着てお客を迎えた。残暑のなか、客は白い雪を見るような涼しげな景観を楽しんだのである。小袖はもとは礼服の下に着用する下着だったが、江戸時代になると一般的な着物となる。浴衣(ゆかた)が湯上がりに着る下着だったのが現代では外出着物になったのと似ている。
江戸のはじめ頃、吉原の遊女たちは八朔に白い袷(あわせ。裏地付きの着物。)を着るのが慣例化していたが、ある年、ひどく寒い八朔だったので、夕霧(ゆうぎり)という遊女が白い袷ではなく、白い小袖を着たことより、以後、白い小袖を着ることが慣例化したと、吉原の起源記録書『洞房語園(どうぼうごえん)』には記されている。
 一方、図版に示した『青楼絵本年中行事(せいろうえほんねんじゅうぎょうじ)』の編著者は、十返舎一九(じっぺんしゃいっく)であるが、その本文には、元禄年間(1688〜1703)に、遊女高橋がひどい高熱の病気をおして馴染(なじ)みの客を迎えるのに白無垢(しろむく。上着・下着ともに白の着物)の小袖で出たことから、その姿のあでやかさに皆が感賞し、以来、吉原の遊女はこぞって白無垢を着るようになったと、『古今吉原大全(ここんよしわらたいぜん)』から引用している。
 一九の記す伝説のほうが怪しいのだが、事実はどうであれ、妍(けん)を競って白無垢の世界となる吉原の八朔を楽しみに客は吉原へ足を運んだ。




八朔の日の吉原の遊女屋の風景。花魁(おいらん)、新造(しんぞう)、禿(かむろ)、茶屋の女房が集まっている。花魁と禿は白い小袖を着ている。元禄の頃には白無垢を着たようだが、この絵が描かれた文化頃には、その名残をとどめた着物姿となっている。(『青楼絵本年中行事』文化元年〈1804〉)刊より)

『洞房語園』…著者は、江戸の元吉原に遊廓を初めて開いた庄司甚右衛門(しょうじじんえもん)の末裔(まつえい)の又左衛門勝富(またざえもんかつとみ)。吉原の傾城町免許(元和3年〈1617〉)以来、享保年間(1716〜35)までの吉原の歴史・制度・風俗・流行などや、遊女や大尽(だいじん)客のエピソードを書き記したもの。元文3年(1738)の刊行本をはじめ、増補されたりした異本も多く存在する。

『青楼絵本年中行事』…十返舎一九編著、喜多川歌麿画。文化元年〈1804〉刊。青楼は吉原のこと。吉原の年中行事を描いた色刷りの絵本。


十返舎一九…1765〜1831.江戸後期の戯作者。『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』など、ベストセラーを次々刊行した。


『古今吉原大全』…洒落本(しゃれぼん)。明和5年(1768)刊。酔郷散人(沢田東江か)著。吉原の起立や風俗、遊興論などが綴られ、以後の洒落本作者たちの吉原バイブルともなる。『吉原大全』とも。



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冷や水売りと白玉
                                           落語「両国百景」
今では年中、アイスクリームなど冷たい物を食べる習慣となったが、それでも特に冷たい飲み物が恋しい季節となった。
江戸時代には、「冷(ひ)や水売り」という商売があった。冷たい水を入れた荷台を担ぎ、街中を次のような呼び声で売り歩いていた。  

氷水あがらんか、冷(ひやつこ)い。汲立(くみたて)あがらんか、冷(ひやつこ)い
(『浮世風呂』4編〈文化10年(1813)刊〉)

暑い日に、日陰で飲むお椀一杯の冷や水は、格別だったことだろう。
江戸は水質が悪い土地柄だったから、すでに1600年代には、冷や水売りは商売として成り立っていたことが、井原西鶴(いはらさいかく)の浮世草子(うきよぞうし)『万(よろず)の文反古(ふみほうぐ)』(元禄9年〈1696〉刊)に見えている。
お椀に白砂糖を入れて、それに冷水を注ぐのである。冷や水には、「白玉(しらたま)」を入れた。白玉は、白玉粉で作った団子。ほかに、道明寺(どうみょうじ)こごめや葛(くず)を入れたりもした。紅(べに)で赤い斑(まだら)模様にした白玉を望む客には、それを入れてサービスした。
  冷や水一杯は、はじめは銭(ぜに)1文(もん)だったのが、インフレが進んだ1800年頃から幕末には4文(現代の約100円程度)で売られていた。幕末の大坂では、「冷や水売り」ではなく「砂糖水屋」と呼ばれて、砂糖を入れた甘い冷や水は一杯6文で売られていたと、大坂生まれの喜多川守貞(きたがわもりさだ)は伝えている(『守貞謾稿』)。
容器は錫(すず)製のお椀である。涼感を呼ぶところから、現代でも、冷酒などに使う店もあるが、錫製のお碗での冷や水は、白玉をたくさん入れて、一杯8文とか12文で売られていたようである。
  ところで、この「白玉」、もうひとつおなじ名前で呼ばれる江戸時代の発明品があるのをご存じだろうか。
  江戸時代、冷や水を入れるのに使われた錫製の茶碗とか徳利などの容器は、「白鑞」(びゃくろう)と呼ばれる錫と鉛の合金によって作られていた(『和漢三才図会』)。
ちなみに、この「白鑞」とよく間違われるものに「白蠟(はくろう)」がある(「金」偏と「虫」偏の違い)。「白蠟」は、多くミツバチの巣から精製された、当時贅沢品だった照明のロウソクの原料である。安永年間(1772〜81)から寛政初年(1789〜)にかけて、経済バブル期の田沼時代以後、中国より突出して大量の「白鑞」が輸入されたと永積洋子編『唐船輸出入品数一覧』に書かれているが、これは「白蠟」のことらしい。この頃より、江戸の夜は、魚油(ぎょゆ)を使った暗い灯油の時代から明るい贅沢品のロウソクの時代となったのである。
  さて、「白鑞」に戻ろう。「白鑞」の合金の成分である鉛を炭酸と合成して鉛白(えんぱく。「唐の土」)を作った。それが白色の粒子であることから「白玉」と呼ばれ、これを使って瀬戸物(せともの)の「焼継(やきつぎ)」がおこなわれた。
「白玉」による焼継は、割れた瀬戸物を接着して修復する画期的な方法であった。これが始まったのは、寛政初年以降とされ、随筆『親子草』によると、江戸の大和屋伝六が「白玉」発明の元祖だったという。江戸時代の遺跡調査で、この焼継があると年代が分かることになる。
  落語「両国百景(りょうごくびゃっけい)」では、大道(だいどう)でやる「焼継屋」の様子が口演されている。今ではめったに高座にかかることのない噺(はなし)のようだが、八代目の雷門助六(かみなりもんすけろく)は、焼継を扇子と茶碗で演(や)っていた。落語は師匠譲りの芸だから、江戸時代の焼継の正写(しょううつ)しだったと考えてよかろう。






右に「冷や水売り」が、冷や水の荷台をおろしている。通りを駕籠(かご)の一行がゆく。江戸の一年の風俗を描いた山東京伝(さんとうきょうでん)の『四季交加(しきのゆきかい)』(寛政10年〈1798〉刊・北尾重政画)より、6月(旧暦)の風景の部分。

井原西鶴…1642〜93。江戸前期の浮世草子作者、俳人。大坂の人。『日本永代蔵』『世間胸算用』『好色一代男』『好色五人女』などの名作を数多く残した。

喜多川守貞…1810〜?。江戸後期の風俗史家。大坂から江戸に移る。著書の『守貞謾稿』は、前集30巻、後集4巻。天保8年(1837)から嘉永6年(1853)までの江戸時代の風俗をまとめた大著。



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江戸っ子とそうめん
                                  
 真夏に涼感を呼ぶ食べ物は、こんにちでは沢山ある。麺類では「冷麺」、「冷やし中華」などと呼ばれるものが代表で、「冷やしうどん」といった看板も珍しくなくなった。
このなかで「うどん」の伝来は江戸時代になつてからのことで、九州平戸の出島に中国より伝来し、平戸の殿様と親しかった讃岐と秋田の殿様に製法が伝授され、現代の讃岐うどんと秋田の稲庭うどんとして受け継がれたともいわれている。
江戸時代の「冷麺」の代表格なのが「そうめん」である。もともと中国の食文化が発祥で、「索麺」(中国語でサクメンと発音)と呼ばれていた。中国から渡来したそのままの作り方が日本で広まったかどうかは微妙で、ラーメンが日本流に作られるようになったように、徐々に日本流に改良されてきて、今の「そうめん」になったものと考えてよかろう。
  小麦粉に水と塩を混ぜてこねあげ、それに植物油のゴマ油などを入れたり塗ったりして細い紐状にしたものを天日干しにし、適当な長さに切った麺の一種が「そうめん」である。
  おそらく鎌倉・室町時代に中国へ渡った僧侶たちが「索麺」とその製法を持ち帰ったと思われるが、伝来したときはサクメンと呼んでいたようである。それが日本語流に訛(なま)って「そうめん」となった。『日葡辞書』にはSomen、女性語としてZoro(ゾロ)とあるから、江戸時代初期には「そうめん」という呼び方が一般的になり、宮中に仕える女御(にょうご)や女性たちは「ぞろ」と呼んでいたと思われる。
  この「そうめん」が夏の食材になったのは、そんなに古いことではなかっただろう。「そうめん」を醤油や味噌汁で煮た「にゅうめん(煮麺・入麺)」が、すでに室町末期にはあったようだからで、17世紀末の井原西鶴(いはらさいかく)の浮世草子(うきよぞうし)には、冬の食べ物として「煮麺」がしばしば出てくる。
  それが「そうめん」は夏の風物詩というか、真夏の食欲減退を克服する食べ物として定着したのは、どうも江戸の半ば頃だったようである。川柳に、
 
索麺を配るを見れば御用也 
(誹風柳多留12編〈安永6年(1777)刊〉)

とあり、「そうめん」を配って歩く人の様子をよく見ると、盂蘭盆(うらぼん。陰暦7月13日〜15日、今年は8月31日〜9月2日に相当)の贈答品であったというわけである。
  川柳では三輪索麺(奈良県桜井市三輪地方産の索麺)がよく詠(よ)まれているから、江戸っ子の町人ばかりでなく、武士たちの贈答品としても三輪「そうめん」はブランド品になっていたのかもしれない。江戸っ子の好みの麺類の仲間を擬人化した恋川春町(こいかわはるまち)の黄表紙(きびょうし)『化物大江山(ばけものおおえやま)』(安永5年〈1776〉刊)では、「そうめん」は、位の高い大納言に擬せられているほどである。
  その安永年間(1772〜1781)頃に流行った童謡に、「どうどう巡(めぐ)れ、どう巡れ、粟の餅もいやいや、米の餅もいやいや、蕎麦切り索麺食いたいな」というのがある。この時期から江戸っ子は「蕎麦っ食い」となり、風鈴を屋根にぶら下げていることから、風鈴と呼ばれる屋台店も商売繁盛するようになった。冬はズルズルと蕎麦をたぐって暖をとり、夏は冷たい「そうめん」を食うに限ると、江戸っ子の自慢が一つ増えたのである。




そうめんを食べる亭主(右)とそうめんを冷やして用意している女房(左)。二人とも額から汗をダラダラ流している。6月に大寒となり、寒いから「煮麺」にするところを、「冷(ひや)煮麺」を食べている。温かくして食べるのが「煮麺」、冷たくして食べるのが「そうめん」なのだが、未来は真夏に大寒になるから、冷たい「煮麺」を食べるようになると予想した諧謔(かいぎゃく)。食べると汗をかき、その汗は、つららになっている。江戸の未来はどうなるか、未来の風俗などを滑稽に予想し、うがってみせた、恋川春町作・画の黄表紙『無題記』(『無益委記』とも)より(天明元年〈1781〉刊)。


井原西鶴…1642〜93。江戸前期の浮世草子作者・俳人。『好色一代男』『好色五人女』『日本永代蔵』『世間胸算用』などの名作を数多く残した。

恋川春町…1774〜1789。江戸後期の戯作者・狂歌師。本名、倉橋格。狂名、酒上不埒(さけのうえのふらち)。自画作『金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)』で、黄表紙の作風を確立した。


『化物大江山』…蕎麦の流行を大江山の鬼退治になぞらえて、「そば切」の一党が「うどん」の一党を退治するという話に仕立てたもの。さまざまな薬味や麺類が登場して戦いを繰り広げる。





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