江戸言葉 月ごよみ
棚橋正博(たなはしまさひろ)氏プロフィール
1947年秋田県生まれ。 早稲田大学エクステンション(中野校)講師。神奈川大学エクステンション(横浜KUポートスクエア)講師。早稲田大学大学院講師。早稲田大学大学院修了。日本近世文学専攻。文学博士。 黄表紙研究の第一人者で、知られざる江戸の風俗文化を多くの人々に伝えることを使命としている。テレビや講演会などでも活躍中。著書は『式亭三馬』(ぺりかん社)、『十返舎一九』(新典社)、『江戸の道楽』(講談社)、『江戸戯作草紙』『教科書が載せられない名文』『捏造されたヒーロー遠山金四郎』(小学館)など多数 (Web日本語より加筆転載)  

 私たちが何気なく使っていることばの多くが、じつは江戸生まれだってご存じでしたか? 「江戸っ子」なことばたちを、江戸の人たちがどうやって生み出し、どのように育てていったのか、「へえ〜」と思わずいいたくなる知識を、黄表紙や浮世絵の絵などとともにご紹介していきます。 

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 六月





6月の花嫁
                                              落語「うどん屋」
 近頃はジューンブライドといっても結婚式を派手にやらず、二人だけで教会で挙式するウェディングドレス姿をと夢見ている女性も少なくないことだろう。
 江戸時代、将軍や大名、大家(たいけ)の旗本(はたもと)の結婚式は儀式化した豪華なもので、小身(しょうしん)の旗本や御家人(ごけにん)の結婚式は質素だった。これらは結婚という名の閨閥(けいばつ)作りでもあった。家禄があり、それを守るため子孫を絶やすとお家断絶となる。そうした事態を避けるための結婚で、それは富豪な町人も同じことで後継ぎを絶やせなかった。
 富豪町人とは違って、ごく庶民的な生活をしている江戸っ子たちの結婚はかなり自由であったものの、江戸という土地柄は男性が女性より多い人口構成だったから、女性の売り手市場で、男性が嫁を貰(もら)うのにひと苦労することも珍しくなかった。
そうして、ようやく伴侶を迎える結婚式も自宅での宴(うたげ)は夜に終わる。 江戸時代の庶民の婚礼は「初夜」(夜の8時頃)前後には佳境に入り、やがて参列者たちは家に帰る。
川柳に、
   宵よりも今朝かぶりたき綿ぼうし(『誹風柳多留』41編)
とあるのは、宵からの婚礼で新婦が被る綿帽子は顔がよく見えないほど深く被るが、床入りから一夜明けた朝こそ、家人に顔を見せたくないと恥じらう女性心理をうがった句である。
 
 落語の「うどん屋」では、婚礼帰りの酔っ払い男が夜中に街中を振り売りするうどん屋の足を止める。酔っ払いは婚礼の話をくどくど何度も繰り返し、結局、うどんを食べずに帰ってしまう。そのあと大きな商家の前を通ると小声で呼び止められ、今度は何杯も注文されるだろうと張り切るうどん屋の期待が外れ一杯だけ、遠慮して小声でうどん屋が対応したことから、「うどん屋さん、お前さんも風邪をひいたかい」といわれるのがサゲになる。三代目柳家小さんのこの落語を、最晩年の夏目漱石が聴いて絶賛したと伝えられる。
 ところで、庶民は嫁入り道具といってもわずかなもので、持参金などの額は知れたものだったろう。それに対し、持参金や着物などの嫁入り道具が多かった嫁は、その持参金を鼻にかけて、舅(しゅうと)や姑(しゅうとめ)を軽くあしらう(図版参照)。
 結婚後すぐに、夫婦仲がこじれ離婚となると、嫁の父親(舅)の出番となる。持参金(持参した田畑の不動産なども含める)は嫁の父親が稼いだ財産であり所有権は父親にあるということで、父親はその返還を別れた亭主に請求できるというシステムだった。だから持参金などの多い嫁を貰うと、その亭主は嫁の舅が生きている限り、舅に頭が上がらなかったわけである。
  今はジューンブライドで、バージンロードを歩くだけの「花嫁の父」でしかないが、江戸時代には、娘に多額の持参金を持たせた父親は威厳のある「花嫁の父」だったのである。



持参金にのぼせている嫁をもらった家族の様子を、人の心が見えてしまう覗替眼鏡(のぞきめがね)でのぞいてみると、右にいる姑と小姑は嫁と気が合わなくて頭から角を出していてる。左では鼻に持参金の小判の包を掛ける嫁に旦那が鼻毛を読まれて翻弄(ほんろう)されており、向こうにいる息子は、思い切り買い食いしてやると銭の束を持ち上げている。
式亭三馬作・歌川豊国画の黄表紙(きびょうし)『人間一心覗替繰(にんげんいっしんのぞきからくり)』寛政6年(1794)刊より。

旗本…江戸時代、将軍直属の家臣のうち、将軍に御目見得(おめみえ)する資格のある者をいう。御目見得以下を御家人という。小身は、身分の低い者の意。

三代目柳家小さん…1857〜1930。明治〜昭和前期の落語家。安政4年生まれ。常磐津(ときわず)の太夫から転じて落語家になる。初代柳亭(のち談洲楼)燕枝(えんし)、2代小さんらに入門し、明治28年に3代小さんを継ぐ。上方落語を東京にうつした。夏目漱石が「小さんは天才である」と言ったという。



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江戸っ子と傘と日傘
                                           「振り売り」 「日庸座」
 ツツジとサツキの花が終わると間もなく梅雨入りだが、今年は梅雨空に新型コロナウイルス騒動だから、にわかの天候変わりに備えて傘を持ち歩き風邪に用心しなければいけない季節でもある。最近では梅雨入り前の突然の猛暑に襲われ、傘が日傘に変わることもあるので、江戸っ子の傘と日傘事情について書いてみようと思う。
 
 江戸時代も平和になって少しずつ豊かになってきた万治2年(1659)、町中を傘を「振り売り」する商売人(日傭人。ひようにん)たちが多くなり、その日傭人たちに幕府は鑑札を渡して管理することになった。寛文5年(1665)に日庸座(名主が兼務し日傭人を管理し、鑑札一枚につき一か月24文〈もん〉を徴収した)を設け、その後、実に150年近く日庸座は日傭人たちを管理し、寛政9年(1797)に日庸座は廃止される。
 傘の轆轤(ろくろ。頭部にある開閉させる仕掛け)を作るのに特殊な技術が必要だったが、江戸でも傘職人たちが育ち、傘を売る店もできて組合(株仲間)も結成される。江戸で傘が贅沢品でなくなったのは田沼意次(たぬまおきつぐ)の時代(1772〜86)の消費文化が花開いた時期のことだが、江戸以外の農村部では傘はまだ贅沢品として制限されていた。しかし、農作業を傘を差しながらするわけにはいかなかったから、そんなに苦情が出るわけではなく、農村では昔ながらの笠を被り蓑(みの)を着て出掛けるのが主流であった。
 
 世の中は皮肉なもので、田沼時代、お供の小僧に傘を持たせ、加賀国(石川県)産の上等な蓑を着て笠を被り、遊所である深川へ遊びに行く遊び人もいた。これは、わざわざ雨の日に通ってきたという、深川芸者にアピールするための手段でもあった(図版参照)。
 傘を差して道をすれ違うとき、お互いに傘を傾けてぶつからないようにするのを「江戸しぐさ」などと表現していた人がいたが、実は江戸では狭い道を譲らず傘をぶつけあって喧嘩(けんか)することが絶えなかった。気が短い江戸っ子は喧嘩早い。だが、降る雨の中で喧嘩をしていたのでは濡れてたまらないから、喧嘩腰で悪態の一言を言い合って別れた。腹に据えかねた短気な者は奉行所へ駆け込む始末でもあった。
  これが日傘になると、ぶつかっても濡れる心配がないから、怒鳴り合いがはじまる。このマナーの悪さによって風紀が乱れることに業(ごう)を煮やした町奉行は、文政11年(1828)8月、体の弱い女性や子供、医者を除いて日傘を差すことは自粛せよと町触れを出している。しかし、いったん流行したことは止むことがなく、それから天保2年(1831)6月まで立て続けに3度も、日傘を差して外出することを禁止する町触(まちぶ)れが出された。
 それでも日傘でのトラブルは多発した。ついに幕府は見せしめもあったのであろう、天保2年7月11日の午後2時、三味線弾きが日傘を差して外出したとたん、町廻りの役人が逮捕し手鎖(てじょう)をかけ町役人(ちょうやくにん)も呼びつけ、白洲で過料(罰金刑)3000文を申し渡す。現代のお金に換算すると5万円くらいの罰金になろうか。
  この処罰された三味線弾きは大坂出身で江戸へ出て来た者だった。だから、どうも日傘禁止令のことをよく知らなかったらしい。伝統的な商業都市の大坂では、傘や日傘を差すマナーは悪くはなかったが、江戸という町は傘や日傘を差すマナーは芳しくなかった。それだけ江戸っ子は気性が荒く喧嘩早かったということにもなろう。



上等な蓑を着て笠を被り、お供の小僧に傘を持たせ、遊所である深川へ遊びに来た遊び人(恋川春町画作『金々先生栄花夢』安永4年〈1775〉刊より)。



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大山詣
                                              落語「大山詣」
 6月末は山開き。江戸っ子たちは、講中(こうじゅう)で大山詣(おおやまもうで)へと出かけた。
 大山とは、神奈川県にある標高1253メートルの山である。江戸からは富士山や大山を望める地がおおくあり、たとえば駿河町(するがちょう)の三井呉服店からは、富士山の手前に大山が望めた。
 大山詣は、江戸人にごく親しまれた信仰である。旧暦の6月27日の山開きから7月17日までの盆山の期間に、大山へ登るというものである。享保年間(1716〜35)以降、幕末にかけて江戸人の信仰熱が高まり、一種のレジャーをかねた信仰となった。もちろん富士詣にも行ったが、気軽に登れるので大山詣は人気があった。
 参詣コースは、東海道でも表街道・裏街道(旧の東海道)とあった。帰りに江の島参詣や鎌倉見物をするなど、3〜4日の小旅行といった趣(おもむき)で、江戸っ子たちはいろいろ楽しんでいたようだ。
 大山詣の様子は、落語の「大山詣」でも知られている。この噺(はなし)を高座にかけることもあった古今亭志ん朝は、若い時、雪駄履(せったば)きのままで大山に登って困ったという逸話が伝わっている。
 江戸の人々は大山詣に出かける前に、隅田川で水垢離(みずごり)をした。両国橋の袂(たもと)にある水垢離場で、「懺悔懺悔(さんげさんげ)、六根清浄(ろっこんしょうじょう)…」と唱えながら、道中の無事と悪病の退治を願ったのである(図版参照)。そして、「奉納大山石尊(せきそん)大権現」と書いた納太刀(おさめだち、奉納する木太刀)を持って白衣に鈴を下げ出かけた。
 健脚な人たちは、大山の山頂にある阿夫利(あふり、雨降りのなまりと伝えられる)神社まで詣で、ここに納太刀を奉納して、他の講中が納めた別の納太刀をもらって帰る。だが、体力のない手合いは、中腹にある石尊不動堂で終わることも少なくなかった。
 
 女だけの大山詣の講中もあったようで、その様子が黄表紙(きびょうし)に描かれている(『通人寝言(つうじんねごと)』享和2年〈1802〉刊)。女たちも水垢離をして出かけた。
ただ、女性差別の時代でもあり、女性は前不動までで奥の院は行かれなかったという。
 江戸の戯作者(げさくしゃ)・十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の黄表紙『怪談富士詣(かいだんふじもうで)』(寛政12年〈1800〉刊)には、見越入道(みこしにゅうどう)を頭(かしら)に、化物たちが大山詣をした足で富士参詣をする。途中、足柄山(あしがらやま)に住む坂田金時(さかたのきんとき)に出会ったり、雷に遭遇しながらも参詣を無事に終え、借金や貧乏神を追い払うという話である。
  大山詣の頃は、お盆の支払いの決算期にあたり、借金取りから逃れて山へ行く人もあったらしい。
  川柳に、
   十四日ゆだんをすると山へぬけ(『誹風柳多留』10編)

お盆の支払日(旧暦7月15日)を前に大山詣を口実に借金逃れをする者を詠んだ句である。




隅田川での水垢離の様子。奉納の木太刀をささげて、講中の人々皆で川に入り、「懺悔懺悔、六根清浄…」と唱えた。手前にわらしべを持った人がいるが、1回唱えるたびに1本ずつ川に流した。(『通略三極志』安永9年〈1780〉刊より)

講中…神社・仏閣への参詣などの目的で作られた信者の団体。

古今亭志ん朝…1938〜2001。落語家。5代古今亭志ん生の次男。江戸前の古典落語の名手。TV・映画・舞台でも活躍した。

水垢離…神仏に祈願する時、冷水をあびて汚れを除き、心身を清めること。

六根清浄…仏語。眼・耳・鼻・舌・身・意の6つの感官が、汚れを払って清らかになること。

十返舎一九…1765〜1831。江戸後期の戯作者。ベストセラー『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』をはじめ、黄表紙・滑稽本・噺本などさまざまなジャンルにわたり作品を残した。




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