江戸言葉 月ごよみ
棚橋正博(たなはしまさひろ)氏プロフィール
1947年秋田県生まれ。 早稲田大学エクステンション(中野校)講師。神奈川大学エクステンション(横浜KUポートスクエア)講師。早稲田大学大学院講師。早稲田大学大学院修了。日本近世文学専攻。文学博士。 黄表紙研究の第一人者で、知られざる江戸の風俗文化を多くの人々に伝えることを使命としている。テレビや講演会などでも活躍中。著書は『式亭三馬』(ぺりかん社)、『十返舎一九』(新典社)、『江戸の道楽』(講談社)、『江戸戯作草紙』『教科書が載せられない名文』『捏造されたヒーロー遠山金四郎』(小学館)など多数 (Web日本語より加筆転載)  

 私たちが何気なく使っていることばの多くが、じつは江戸生まれだってご存じでしたか? 「江戸っ子」なことばたちを、江戸の人たちがどうやって生み出し、どのように育てていったのか、「へえ〜」と思わずいいたくなる知識を、黄表紙や浮世絵の絵などとともにご紹介していきます。 

► CONTENTS
一 月 旧正月と名刺、江戸の大雪、正月の餅、湯屋の正月、七福神詣
二 月 節分と豆男、出替りと契約社員
三 月 寺子屋入り、江戸の花見、春の夜の夢と千両
四 月 江戸の虫除けと油虫、卯の花と豆腐、デパート商法は
五月 端午の節句、初鰹、おへそが茶を沸かす
六月 6月の花嫁、江戸っ子と傘と日傘、大山詣
七月 江戸の朝顔ブーム、スイカと料理茶屋百川、江戸の花火
八月  「八朔(はっさく)」とは、冷や水売りと白玉、江戸っ子とそうめん
九月  重陽の節句、秋を告げる松虫、初ナスは高級品
十月  紅葉狩りと吉原、飲み食べ笑う「えびす講」、戯作者たちの繁忙期
十一月  酉の市と大火、顔見世興行と千両役者、「七五三」は縁起がいい
十二月  浅草寺の年の市、フグは食いたし命は惜しし、江戸の宝くじ・千両富







一 月


旧正月と名刺

日本にいる中国の人たちが旧正月(旧暦、太陰暦。今年は太陽暦で2月12日)を祝うために帰国ラッシュになるのが、年中行事になったようでもある。もっとも今度の旧正月は、 コロナ禍で帰国ラツシュの光景は見られないことだろう。日本でも、江戸時代までは太陰暦を採用していたから、正月といえば旧正月のことだった。
 太陰暦が太陽暦に変更されたのは、明治5年11月9日(旧暦、太陰暦)のこと。この日、大蔵省参与の要職などを歴任する大隈重信(おおくましげのぶ)は、来たる12月3日を明治6年1月1日にすると布告した(太政官布告337号)。これには人々は驚いた。
  当時、役人たちの給与はすでに月給制になっていたから、こうすれば12月のひと月分の給与を明治政府は払わなくてもよくなったわけである。財政窮乏を打開する大隈重信の起死回生の妙策だった。大晦日の決算日も消えてしまうので、役人たちは抵抗し重信と役人のあいだでの綱引きがあったらしく、太政官布告が連発されていて混乱している。
  大隈重信の念頭にあった暦(こよみ)は、現在の太陽暦であるグレゴリオ暦であったのかユリウス暦であったのか、また、街の金融業などの利息は12月1日と2日の分をどうしたのかなど、よくわかっていないことが多い。暦屋(カレンダー屋)は印刷に追われただろうと想像するだけである。もちろん年賀の挨拶回りをする人たちも、暮れがなかったのだから、しっくりこなかっただろう。
  江戸時代、年賀の挨拶回りに欠かせなかったのは、名前と屋号などを書いた(印刷した)細長い札(「名札」(なふだ))で、現在の名刺となる紙片である。十返舎一九(じっぺんしゃいっく)が年始に行くのに「ホイ、名札を忘れた」と、黄表紙(きびょうし)『初登山手習方帖(しょとうざんてならいほうじょう)』で言っているが、それほど必携の札であった。
 年始に訪問するとき、相手も外出していて不在で留守だったりすると、玄関の脇に立てられていた竹の棒とか、図版にあるように柱に刺さっている棒に、この名札を刺して挨拶代わりとしたものだった。今で言うところの名刺代わりというわけである。
 名刺の「刺」は、昔の中国では竹木を削って姓名を書いたもののことをいった。その竹木が紙に代わり、日本の貴族や僧侶たちは目上の人に自己紹介する時に、自分の姓名などを記した紙を「名刺」と呼び献上する習わしとなった。中国では「刺」だけで姓名を書くという意味があったところへ、さらに「名」を冠して意味を二重にさせ「名刺」と呼んだ。
  江戸時代になると、文字通り年始恒例の挨拶用の刺す紙となり名札と呼んだのだが、明治時代になると、古来「名刺」と呼ばれていた自己紹介の風習と、年始回りに使った名札とが合体し「名刺」に統一され、こんにちでは「名刺」はサラリーマンなどの必携のものとなったわけである。



年賀の挨拶回りをする礼者(れいしゃ)の一行を描いた黄表紙の挿絵
左の礼者は、名札(名刺)を名札受けの串に刺し、年礼帳に記帳を済ませているところ。小僧がお供。右は、礼者にお供と年玉の扇子を盆にのせた小僧が従っている。頭の上に手足をのせているのは、手足を擬人化した趣向。(『足手書草帋画賦〈あしでがきそうしのえくばり〉』享和元年〈1801〉より)。

大隈重信…1838〜1922。政治家。佐賀藩士。明治15年(1882)、立憲改進党を結成し、総裁となる。同年、東京専門学校(現、早稲田大学)を創立。伊藤・黒田内閣の外相となり条約改正を断行し、反対派に爆弾を投げつけられ右足を失う。同31年(1898)、板垣退助とともに最初の政党内閣を組織。内閣総辞職後は、早稲田大学の総長に就任。

グレゴリオ暦…太陽暦の1つ。1582年、ローマ教皇グレゴリウス13世がユリウス暦を改正して制定した。ユリウス暦では400年に100回の閏年をおくのに対し、97回の閏年として調整した。現在、世界の各国で用いられている暦法。

ユリウス暦…太陽暦の1つ。紀元前46年、古代ローマのユリウス・カエサルが、天文学者のソシゲネスに命じて作らせた。平年を365日とし、4年に1度、366日の閏年をおく。

十返舎一九…1765〜1831。江戸後期の戯作者。『東海道中膝栗毛』は江戸のベストセラー。黄表紙、洒落本、滑稽本など、さまざまなジャンルにわたり作品を多数刊行した。

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江戸の大雪

  関東では春先に思わぬ大雪が降り、首都圏の交通機関が動かなくなることがある。 この冬はひと 足先に12月半ばから、ドカ雪に見舞われてニユースとなっている。
 江戸時代、荷商いの小商人(こあきんど)は、大雪になると行商に出られず、それを待っていた庶民も困った。昔から、都市は雪に弱いのである。
  しかし一方では、めったに見られない一面の銀世界となった江戸の名所を愛(め)でる風流人たちもいて、隅田川へ雪見舟を漕(こ)ぎ出し、仲間で向島や浅草の雪景色を望んだあと、川を下って深川の茶屋街へ出向いて雪見酒と洒落ていた(図版参照)。
  19世紀に入ってまもなくの文化・文政期(1804〜1830)には、江戸で何度も大雪が降った記録が残っている。この時期は、日本全体が寒冷期になっていたのかも知れない。文化5年(1808)正月9日(新暦2月 5日)には、江戸で二尺(約60僉砲箸いΓ毅闇このかたの大雪、翌文化6年12月(新暦1月6日〜)には、積雪一尺(約30僉砲魃曚溝臉磴妨舞われている。
  正月元旦の大雪ということもあった。文政5年(1822)(新暦1月23日〜)には、「正月元旦、雪尺に満つ」(『武江年表』)と書かれているように、江戸に降った大雪は一夜にして一尺を越したという。この大雪の中、江戸城へ御三家(ごさんけ)の使者が将軍徳川家斉(いえなり)のお見舞い伺いにやって来て、城内はあわただしかった。五千石の旗本(はたもと)の登城の従者は10人(寛永5年〈1628〉2月に定める)であったから、御三家の使者とはいえ登城となれば、ちょっとした雪中の行軍の体だったろう。
  文化・文政期の天候不順は、江戸の経済まで冷え込ませてしまったようだ。そこで幕府は、財源を確保し、景気の回復を期して、じつに80余年ぶりに、小判などの貨幣改鋳(かいちゅう)をする(文政2年)。貨幣改鋳は、家斉の大御所政治による、大奥をはじめとする幕政の放漫経営に起因し、幕府の財政立て直しのためのものだったのだが、久しぶりの貨幣改鋳によって、経済における副作用が起こってしまった。
  この貨幣改鋳の特徴は、小判・一分金の金貨、そして銀貨、もうひとつ銭(銅)という江戸時代の三貨制度のなかで、銀貨の品位(含有率)を特に落とし、改鋳した銀貨を大量に市場へ出すこと、つまり「銀安」にしたことにあった。現代でも「ちんぎん」(賃銀・賃金とも書くが)と呼びならわしているように、大工の職人や武家・商家の奉公人たちの給与は銀払いだったから、銀安は職人や奉公人たちの実質賃銀の目減りという事態になったわけである。
  銀安はインフレーションを招いた。現今、政府が日銀紙幣を大量に市場に流し、デフレを脱却させインフレを起こそうというのと原理は同じなのだが、 銀安は職人たちなど奉公人を直撃した。インフレによる物価の騰貴(とうき)はボディブローとして効(き)いてきて、庶民たちの懐(ふところ)はだんだん寒くなっていった。場当たり的な思い付きの幕府の経済政策が下層町人の上にまず、積もる大雪のようにジワリと、重くのしかかってきたのである。



深川の二軒茶屋での雪見の様子。 広い庭一面の雪に戸を開け放して、火鉢と料理を囲んで宴を楽しんでいる。『江戸名所図会』(天保5年〈1834〉刊)より。

徳川家斉…1773〜1841。江戸幕府第十一代将軍。天明7年(1787)将軍となる。松平定信を老中に任じて寛政の改革を行ったが、定信失脚後は、家斉の親政となって幕政がゆるみ、江戸町人文化全盛の文化文政時代をむかえた。将軍を譲った後もなお、大御所(おおごしょ)と称して実権をにぎった。


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正月の餅 「賃餅屋(ちんもちや)」

 正月といえば、神棚に餅(もち)を備え、元旦には雑煮やおせち料理をいただいたものであるが、最近は、デパ地下や通販のおせち料理の「お取り寄せ」が花盛りで、雑煮とおせち料理をホテルで堪能するというような手抜き派も多くなったようだ。カレーを食べて新春を祝おうというTVコマーシャルにも驚かなくなった。
 私は、十代の頃からほぼ30年間、暮れに餅搗(つ)きをしたのを思い出す。相撲や柔道で鍛(きた)えた猛者(もさ)たちの餅搗きの腕は別格であったが、案外、スポーツ選手は餅搗きが下手であった。華奢(きゃしゃ)で小柄な年配の方が、「それでは!」と杵(きね)を持つと、見違えるように見事に杵を臼(うす)に打ち込む姿を目の当たりにして、「昔とった杵柄(きねづか)」という諺(ことわざ)を実感させられたものだった。餅搗きばかりは、力を入れるコツがある。

 さて、江戸時代には、餅を搗く「賃餅屋(ちんもちや)」という商売があった。お客さんの自宅を回って搗く形もあったし、搗いた餅を届ける店もあった。そして、餅の値段は目方(重さ)によって付けられていた。図版は、賃餅屋の店の様子。左では、蒸籠(せいろ)で米を蒸しており、店先にはいろいろな形の餅が並べられている。

井原西鶴(さいかく)の『日本永代蔵(にっぽんえいたいぐら)』(元禄元年〈1688〉刊。巻2ノ1)には、この賃餅にまつわる吝嗇(りんしょく)な男の話が書かれている。
 自分一代で金持ちになった京都に住む藤屋市兵衛(ふじやいちべえ)は、徹底的なケチを身上(しんじょう)としている。年の暮れ、正月気分をただよわせる、まだ温かい賃餅ができあがって、餅屋が届けにきた。手代(てだい)がそのことを市兵衛に伝えると、市兵衛は聞こえぬふりをして帳場でソロバンをはじいている。忙しい時節だから早くしてくれと餅屋に催促されて、手代は代金を払って餅屋を帰してしまった。2時間ほど経ってから、市兵衛は手代に、「餅屋はどうした」と訊(き)くと「代金を払って帰しました」と手代が答える。すると、市兵衛は、「お前はこの家に奉公する資格がない奴だ。まだ餅の温(ぬく)もりは冷めていないではないか」と言う。
 市兵衛が言いたかったのは、餅が冷めるまで待つと水分が蒸発して軽くなるから、支払い代金がそれだけ少なくて済む、ということなのである。市兵衛のケチぶりに手代は呆(あき)れて、まだ食べてもいない餅を前に、ただ口を開けているばかりだった。
たしかに、供え餅などは飾って数日経つと、ひび割れがしてきて、それだけ水分が抜けて固くなった。そして、やがてカビが生えてきた。

 噺家(はなしか)の先代林家正蔵(はやしやしょうぞう)(のち林家彦六〈ひころく〉)について真偽は不明だが、こんな楽屋噺がある。物知りだからと、楽屋で若い噺家が、「師匠、どうして餅にカビが生えるのでしょうかねぇ」と訊くと、即座に「バカヤロー、早く食わねえからだ」と答えたというエピソードは、落語界では知られたものである。
こんにちでは、便利な真空パックの鏡餅も登場して、黴(か)びない餅の御時世になった。



▲賃餅屋(ちんもちや)。お客さんの注文に応じて餅を搗いたり、店でいろいろな餅を売ったりした。「ちんもち」と書かれた看板が出ている。(黄表紙『縁組連理鯰〈えんぐみれんりのなまず〉』天明元年〈1781〉刊より)

井原西鶴…1642〜93。江戸前期の浮世草子作者・俳人。大坂の人。西山宗因(そういん)の門下で談林風の俳諧を学び、矢数俳諧を得意とした。『好色一代男』『好色五人女』をはじめ多くの作品を残す。『日本永代蔵』『世間胸算用(せけんむねさんよう)』などは、世の中と金を描いた経済小説ともいうべき側面をもつ。

林家正蔵…1895〜1982。八代。人情噺、怪談噺、正本芝居噺にすぐれ、三遊亭円朝(えんちょう)の芸風を伝えた。晩年、林家彦六と名乗った。





湯屋の正月 「鏡開き」 「藪入(やぶいり)」

 正月11日は「鏡開き」であった。
 神に供えた鏡餅を雑煮や汁粉に入れて食べる祝い事である。現代では鏡餅も真空パックに包まれて各家庭の神棚に飾られる御時世となり、なかの鏡餅が切餅になっているものもあって、手間いらずに美味しく食べられる。
 この年中行事が庶民のあいだに定着したのは、江戸時代になってからのことである。商家では「蔵開き」ともいう。武家では「具足(ぐそく)開き」といって、武具の鐙(あぶみ)や冑(かぶと)に供えた具足餅(鏡餅)を食べて祝った。

 江戸時代、湯屋では番台に鏡餅を飾った。番台は入口で客から湯銭(ゆせん。入浴料)をもらい、脱衣所で客の着物や履物が盗まれたり、取り替わったりしないように銭湯の主人などが見張りをする一段高い場所だった。いまでは銭湯に番台はなくなってしまったが、古い銭湯で昔風な番台を発見することもある。
  山東京伝(さんとうきょうでん) の黄表紙(きびょうし)『賢愚湊銭湯新話(けんぐいりこみせんとうしんわ)』(享和2年〈1802〉刊)は、江戸の銭湯での人間模様をスケッチし、 式亭三馬(しきていさんば) のヒット作『浮世風呂』(文化6〜10年〈1809〜13〉刊)に影響を与えた作品である。その『賢愚湊銭湯新話』は、大きな鏡餅が置かれた番台の絵からはじまる(図版参照)。正月の湯屋の風景である。
 鏡餅の前の三方(さんぼう)には、客からの湯銭のお捻(ひね)りがうず高く積まれていて、すでに多くの客が訪れていることがわかる。おやじが火箸(ひばし)を差す手焙(てあぶり。火鉢)には、貸し糠袋(ぬかぶくろ)が掛けられ、番台の後ろには貸手拭が掛けられている。こういう貸出のシステムは、すでに江戸時代からあった。手に草履(ぞうり)をもった男が番台のおやじに「かぼちゃのような頭のじいさまが、履き違えていったということだ。裸足では帰られずこれは当惑千万」と困っている。落語「湯屋番」のオチのワンシーンでもある。

 湯屋は湿度が高い場所だから、番台の鏡餅にもかびが生えやすかったろう。いまはエアコンがあるからそんな心配はないが、餅のかびを払いながら焼いて食べた昔を思い出す。
 鏡餅などに生える菌類のことを「かび」と呼び、「かびる」と言っていたのは平安時代に遡る。「かびる」ことを「かびが生える」と一般的に言うが、 『日葡辞書』 によると「かびがつく」とも、「かびが寝る」とも呼んでいて、これは菌類のかびが、あたりに寝そべるように広がっている様子を表現したものであろう。江戸時代から「かびが生える」という言い方が一般的に使われるようになり、ほかには「かびがたかった」などとも表現している。漢字では「黴」と書くが、江戸時代の代表的な字典 『康煕(こうき)字典』には「黴」を「かび」とは読んでおらず、この当て字の歴史は案外浅く、化学や細菌類の研究が進歩して「黴菌(ばいきん)」と書くようになってからのようである。

 さて、江戸の町内に一軒か二軒あった湯屋は、正月元旦から営業していた。「初湯」に入る老若男女が訪れてにぎわっていた。
 正月三が日は、女湯では、板の間に茶釜を据えて大福茶(おおぶくちゃ)を振る舞い、男湯のほうは、男湯だけにあった二階で大福茶を振る舞った。そして、11日の鏡開きの日には、二階で鏡餅の入った雑煮や汁粉に舌鼓を打つ馴染(なじ)みの男の客もいた。
 正月の三が日と七草(7日)、11日の鏡開きは、湯屋でも特別な日という意味の「紋日・物日(もんび・ものび)」であった。紋日・物日には、客は普段の湯銭に2文(もん)足した金をお捻りにして番台に置いた。寛政6年(1794)からは湯銭は10文となり、2文高い12文をお捻りにした。
 正月16日は奉公人たちの 藪入(やぶいり) の日であったが、湯屋は休業にすることができず営業していて、「明日休」と書かれた木札が下げられていた。ただし、この日は「貰(もら)い湯」といって、すべての入浴料が湯屋の奉公人のボーナスになった。そして、その翌17日が湯屋の奉公人にとっての藪入りとなり、湯屋は休日になったのである。




▲正月の湯屋の番台には、鏡餅とお捻りを載せた三方が置かれている。山東京伝作『賢愚湊銭湯新話』(享和2年〈1802〉刊)より。

山東京伝…1761〜1816。江戸後期の戯作者・浮世絵師。黄表紙・洒落本(しゃれぼん)の第一人者。

式亭三馬…1776〜1822。江戸後期の戯作者・狂歌師。薬屋・化粧品店を生業とした。会話文で庶民の暮らしを活写した滑稽本(こっけいぼん)『浮世風呂』『浮世床』をはじめ多くの著作がある。

『日葡辞書』…イエズス会宣教師数名が編集し、慶長8年(1603)に刊行した日本語―ポルトガル語の辞書。翌年に補遺刊行。ポルトガル式のローマ字で見出しをつけているので、当時の発音がわかる。

『康煕字典』…中国の字書。清の康熙帝の勅命で編集され、康熙55年(1716)に成立。4万7035字を214部・画数順に分類配列して解説を加えたもの。以後の辞書の規範となっている。

藪入り…正月と盆の16日、あるいはその前後に、奉公人が主人から暇を貰って実家に帰ること。





七福神詣 「宝船絵」 「回文」

 正月といえば初詣だが、今も各地で七福神詣が行われている。
 最近では、七福神めぐりをするとご利益(りやく)があるうえに、七福神のキャラクターグッズも集められるとあって、外国からの観光客や若い女性たちの姿も多く見かけるようになった。

 七福神とは、恵比寿(蛭子、えびす)・大黒天(だいこくてん)・毘沙門天(びしゃもんてん)・弁財天(べんざいてん)・布袋(ほてい)・福禄寿(ふくろくじゅ)・寿老人(じゅろうじん)の七人の福神(地方によって変わることもある)をまつる信仰である。これは、室町時代、中国の「竹林(ちくりん)の七賢人(しちけんじん)」にならい、あるいは仏教の経典の「七離即滅(しちりそくめつ)、七福即生(しちふくそくしょう)」にもとづくともいわれる。 中国では奇数は縁起のよい数字とされるが、特に「七」は珍重された。歌舞伎の名題も七字が多いのは、それに倣(なら)ったものである。
 江戸庶民が「七」というと、音(おん)が同じなので質屋のことを言った。 質に入れることを、字体の「十」の下部分を曲げると「七」になることから、「曲げる」と言った。

 江戸後期、商業資本主義の発達した 田沼時代になると、お金をたくさん儲けたいと夢みる町人たちが増え、一年の福運を祈って正月に七福神を参詣するようになる。江戸では、隅田川七福神、目黒七福神などが有名であった。

 七福神詣のはじまりは、安永3年(1774)の夏、庶民が講中(こうじゅう、参詣の集団)を結び、小石川伝通院(でんづういん)の大黒天へ、その縁日の甲子(きのえね)の日に詣でたことだったようだ。ふだん気軽に外を歩けなかった江戸の女性たちも、講中ならば堂々と出歩くことができたのである。
 これがさらに盛んになったのは、天明年間(1781〜89)のことである。その流行にのって、七福神や七福神詣を趣向にした黄表紙(きびょうし)も多く作られた。図版は、七福神を七人の通人になぞらえた『通神多佳楽富年(つうじんたからぶね)』(天明2年刊)より。 大田南畝(おおたなんぽ)も、『返々目出度鯛春参(かえすがえすめでたいはるまいり)』(天明4年刊)で、深川八幡の恵比寿、上野不忍池(しのばずいけ)の弁財天、小石川伝通院の大黒天、麹町善国寺の毘沙門天などを回る七福神詣を描いている。

 そして、文政年間(1818〜29)以降、七福神詣は大流行して、江戸の人々の正月の一大レジャーとなった。各寺社では、縁起物の 宝船絵がさかんに配られた。この宝船絵には、回文(かいぶん、上から読んでも下から読んでも同じ文句)で、「ながきよのとおのねぶりのみなめざめなみのりぶねのおとのよきかな(永き世の遠の眠りのみな目ざめ波乗り船の音のよきかな)」といった歌などが書かれていて、これを正月二日、枕の下に入れて寝ると吉夢を見るといわれた。



▲七人の通神が毎日遊び暮らしている。あるとき、弁天に振られた毘沙門天が、腹いせに大黒らを酔わせて悪さをするが、その後仲直りをして、皆で再び 宝船に会したところ。右上の歌は、 回文「とおくただなずなになずなたたくおと(遠くただ薺に薺叩く音)」。薺は春の七草のひとつで、叩いて七草粥(ななくさがゆ)に入れる。(『通神多佳楽富年』)

田沼時代…田沼意次(おきつぐ)が十代将軍徳川家治(いえはる)の側用人(そばようにん)・老中(ろうじゅう)として活躍した明和4年(1767)〜天明6年(1786)。商業経済が発達して新しい文化が起こった、江戸のバブル期ともいうべき時代。

大田南畝…1749〜1823。江戸後期の狂歌師。幕臣。別号、蜀山人(しょくさんじん)、四方赤良(よものあから)。洒落本、黄表紙などの作者としても知られる。
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