2022年3月アーカイブ

書名 懐旧九十年(1983年 岩波文庫
著者 石黒 忠悳(いしぐろただのり

『  』部分 本書より引用

 陸軍衛生部軍医制度に生涯を捧げた医師、石黒忠悳の回顧録である。
後編では兵部省へ転じてからの石黒に焦点を当てる。

兵部省からは、軍医頭であった松本良順が、直接石黒の勧誘にやって来た。
もはや断ることはできないと観念していた石黒だが、文部省時代の官僚采配にこりていたので、入省にあたって五つの条件を提示することにした。
一つ目は、松本の在職する間10年間は石黒の在任を保証すること。二つ目は、医官は試験によって採用し、薩・長・土・肥の藩閥による採用は行わないこと。三つ目は、現職の医官にも試験を受けさせ、成績の劣るものは辞めさせること。四つ目は自分(石黒)について風評がたった場合には、必ず本人に真偽を確認してから判断を下すこと。そして五つ目は軍医寮で奏任官*1以上の位につくものは必ず医学者であること。
石黒の提示した五つの条件を、松本は快諾した。そして、責任はすべて負うので失敗を恐れずに思い切って取り組むようにと、石黒に伝えた。


 石黒は、兵部省に入省して軍医制度制定のために精神誠意尽くすことを決心する。
明治4年(1871年)、石黒は26歳だった。

 『は松本先生の知遇に感じて兵部に入ろうかとは考えましたが、これまでの経験に懲りていますから、その際、松本先生へ条件を提出しました。第一、松本先生在職の間は、十ヶ年私の在任を保証すること。第二、兵部には薩・長・土・肥出身の人が多く、随って医官にもその藩の人が多いが、医学はその学術において優劣判然たるものゆえ試験を行って人を採用し、毫も藩閥によらぬこと。第三、学術試験を行って現在の医官を淘汰すること。第四、何ごとにても拙者のことにつき風評を生ずる時は、善悪共に必ず親しく拙者にその評言を聞かせた上にて判定を下されたきこと。第五、軍医療の奏任官以上は、必ず医学者を以て補任すること。以上五ヵ条を申し出でたところ、松本先生は悉く快諾して申されるには、それらの個条は皆僕が行わんと期するところで、君の意を労するを須(もち)いぬ。このほかに念のために申しおきたいのは、一旦、君に委ねたことは君の思う通りやってもらいたい、その間に過失が生じた節は責はすべて自分が負う。創業の際、躊躇逡巡*2するのは好くない、大胆に果敢にやってくれるように、とのことでした

 その後石黒は、西南の役や日清・日露戦争などを経て実績を積んでいく。そして明治20年(1887年)、42歳にして陸軍省医務局次長に昇進すると、同年5月にドイツ陸軍衛生制度視察のため、欧州に旅立った。この洋行には、乃木希典陸軍少将*3や医師の北里柴三郎*4森林太郎(鴎外)*5らも同行していた。9月にはバーデンで第四回赤十字国際会議*6が開催され石黒も代表委員として列席した。会場には、若き日に学んだ教科書「医学七科」の著者であるポンペが、オランダ代表として列席していた。石黒は初対面のポンペと、勉学に励んだ頃を懐かしく語り合った。

 『明治20年の9月、私はバーデンの国都カルルスルーエに開かれた第四回赤十字国際会議に代表委員として参列し、バーデン大公の厚遇を受けました。
この時、各国から来集した代表のなかに、和蘭(オランダ)からは往年我が国に来て医術を伝えたポンペ氏が代表として来ておられました。~中略~そのポンペ氏とこの機会に会合することは私にとって大なる喜びで、初見ですが甚だ懐かしく種々話しました

 会議の二日目、「赤十字条約中にある列国は相互に恵み、病傷者を彼我の別なく救療する。」という条項を、欧州以外の国にも適用するべきかが、一委員から議題として提出された。
これは石黒にとって、きわめて心外なことであった。欧州以外の加盟国である日本国を代表して、(石黒が)ここに列席しているではないか。それなのに、欧州以外の国に条項を適用するべきかどうかを議題にするのは、おかしいではないか。
納得のいかなかった石黒は、憤然と立ち上がって抗議した。このときドイツ語に通訳したのは、森林太郎すなわち後の文豪・森鴎外である。

 『この会議の第二日目に、一委員から「赤十字条約中にある列国は相互に恵み、病傷者を彼我の別なく救療する。」という明文は、これを欧州以外の国にも適用すべきか、という議題が提出されました。私は実に心外のことと憤慨したのです。現にわれわれ亜細亜(アジア)の邦国がこの事業に加盟し、私は日本国の代表としてこれに参列しているのに、かくの如き議題を持出すとは何ごとであるか、この議題がいよいよ討論に付せられようという際、米国からクララバルトン嬢が米国代表で出席していたから、必ず一論あるだろうと待っていたところ、これも一言もない。そこで私は奮然起って、独逸語精通の森林太郎君を通訳として抗議しました

 「赤十字事業は地域や人種に関わらないと確信したから、日本はこれに加盟し、この会議に出席しているのである。それなのに、欧州以外の国にも条項を適用するべきかなどという議題が提出されるのは意外である。もしこの提案が議題とされるならば、遺憾ながら退席するしかない」。

 石黒の抗議に場内は騒然となる。
石黒に加勢して、ポンペが立ち上がった。
欧州以外にも日本のような文明国が、既に加盟して代表を派遣しているのだから、このようなことは問題にならない」とポンペは主張した。これにロシア代表が続き、他にも同意する委員がいたので議題は撤回された。
このことにより、東洋に日本という歴史と文化のある国があることを、欧州に知らしめるところとなった。

 『われわれは日本帝国の代表は本来赤十字事業なるものには、地理的もしくは人種的差別を設けるものでないと確信してこれに加盟し、ここに出席しているのである。しかるに、かくの如き議題が神聖なる議場に提出せられることは真に意外である。もしこの提案が議題となるならば、われわれは遺憾ながら議席を退くほかない。」と抗議したので議場は騒然となってしまいました。そこで和蘭代表のポンペ氏は、直ちに立って欧州以外にも現に加盟して代表を派遣している日本の如き立派な文明をもっている国があるゆえ、かくの如きことは問題にならぬと主張し、露国代表の一医家、その他の一法律家があいついで同意を表したので、この議題は遂に撤回されるに至りました。これが動機となり、同盟各国の委員は、東洋に我が日本帝国という古い文化の歴史を有する国のあることを明らかに認めた次第でありました

 石黒*7は、敷かれたレールに乗って育成されたエリートではなかった。
佐久間象山との出会いがなければ、石黒は医師を志すことはなかったかもしれない。仮に志したとしても、故郷で開業医として、平穏に一生を終えたに違いなかった。石黒も、そして象山もまた、幕末の変革期であればこそ輝いた人材であった。

 国の形が大きく変わろうとしていた。新政府によって、法律、医療、軍事などあらゆる分野で見直しが進められようとしていた。古いレールをいかにして新しいレールに敷き替えるか。それは、古いレールしか知らないエリートだけでは成し遂げられない難題であった。自ら人生を切り開いてきた、強靭な意思力とバイタリティのある石黒のような人材が求められていた。維新の功労者の多くがエリートではなく、下級武士出身だったのは、理由のないことではなかった。

 令和に入ってからも、日本の経済成長率*8は鈍化し続けている。強みであった先端技術力にも陰りが見られ、一人当たりGDPは他の先進国に大きく水を空けられた。識者の中には、このままでは日本が先進国*9の地位を維持できないという者すら出てきた。

 日本が再び輝きを取り戻すためには、思い切った改革が必要であるということに、今や異論はないように思われる。明治維新のように、時代に合わなくなった古いレールを、新しいレールに敷きなおさなければならない時期に差し掛かっているのかもしれない。もしそうであるならば、石黒のような人材が再び必要とされているのではないだろうか。 了

1 任官(そうにんかん) 明治官制で、天皇が内閣総理大臣や主管大臣または宮内大臣の奏薦によって任ずる官。三等以下九等までの高等官。(精選版 日本国語大辞典)

2 躊躇逡巡(ちゅうちょしゅんじゅん 決心がつかず、ためらってぐずぐずすること。▽「躊躇」はためらう、「逡巡」はしり込みする意。「躊躇」と「逡巡」は類義語で、二語を重ねて意味を強調した言葉。(三省堂 新明解四字熟語辞典より)

3 乃木希典(のぎまれすけ [1849〜1912]軍人。陸軍大将。長州藩出身。西南戦争・日清戦争に出征。日露戦争では第三軍司令官として旅順を攻略。のち、学習院院長。明治天皇の死に際し、妻とともに殉死。(小学館 デジタル大辞泉より)

4 北里柴三郎(きたざとしばさぶろう)[1853〜1931]細菌学者。熊本の生まれ。ドイツに留学、コッホのもとで研究し、破傷風菌の純粋培養に成功、さらに抗毒素を発見。帰国後ペスト菌を発見し、血清療法を研究。伝染病研究所所長を務めたが、その東大移管に反対し、私財を投じて北里研究所を創立した。(小学館 デジタル大辞泉より)

5 森林太郎(鴎外)(もりりんたろう もりおうがい[1862〜1922]小説家・評論家・翻訳家・軍医。島根の生まれ。本名、林太郎。別号、観潮楼主人など。森茉莉の父。陸軍軍医としてドイツに留学。軍医として昇進する一方、翻訳・評論・創作・文芸誌刊行などの多彩な文学活動を展開。晩年、帝室博物館長。翻訳「於母影(おもかげ)」「即興詩人」「ファウスト」、小説「舞姫」「青年」「雁」「ヰタ‐セクスアリス」「阿部一族」「高瀬舟」「渋江抽斎」。(小学館 デジタル大辞泉より)

6 明治19年(1886年)、日本はジュネーブ条約に加盟し、その翌年の明治20年(1887年)には佐野常民 (つねたみ) らが設立した博愛社を「日本赤十字社」に改称して、世界で19番目の国際赤十字社として認証された。

7 石黒の孫である原もと子は次のように述懐している。「幕末から明治初年へかけて日本医学界の先駆者となり、指導的役割を果たした人物は総じて、緒方洪庵大先生はもとより松本順、佐藤尚中、長与専斎諸先生をはじめ多くは、れっきとした幕臣・御典医あるいは雄藩藩医の子弟、またはそれに準ずる裕福な家庭の出であった。これらの人びとは藩侯の庇護のもとに、それぞれの藩校を経て大阪、長崎、江戸と学習所や私塾で青春を謳歌しつつ学を修めた知識人であって、国の内外に留学するのも思いのままに、学術を磨くにまたとない環境のうちに、さまざまの恩恵を享受していた。」(本書 あとがきより)

8 経済成長率 定期間(四半期または1年間)に経済規模が拡大する割合。国民総生産または国民所得の実質値の伸び率で表す。(小学館デジタル大辞泉より)

9 先進国 政治・経済・文化などが国際水準からみて進んでいる国。「先進国首脳会議」(小学館デジタル大辞泉より)。近年になって、一橋大学名誉教授の野口悠紀雄氏やソフトバンク社長の孫正義氏、ユニクロ社長の柳井正氏など著名な学者や経営者から、日本の先進国脱落の危機が警告されている。

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