会場>台東一丁目区民館 多目的ホール
住所>台東区台東一丁目25番5号
問い合わせ>台東区 文化振興課 03-5246-1118
講師>小澤 弘
江戸東京博物館名誉研究員・淑徳大学人文学部客員教授
日時>
第1回 開催日時 10月19日(土)14時〜(90分)
第2回10月26日(土)14時〜(90分)
観覧料> 無料
公式サイト >https://www.culture.city.taito.lg.jp/ja/events/00001c00000000000002000000541714
概要
>【第1回】浮世絵の成立から錦絵の誕生へ
「浮世絵」は、近世に江戸で興った新しい絵画様式です。その成立の背景には、近世初期風俗画がありました。
17世紀後半、菱川師宣が創始したという浮世絵は、新興都市江戸の歌舞伎と遊里吉原の当世風俗を画題とした作品で、当時「江戸絵」と呼ばれました。浮世絵は、肉筆画のみならず木版画による制作により、多くの人びとの目に触れる情報媒体となりました。また上方から芝居絵を画業とした鳥居派が江戸へ来たことによって、江戸の役者絵、芝居絵が作られるようになり、また版元兼絵師の奥村政信による画題の広がりや浮絵の工夫により、より多くのタイプの浮世絵が世の中に広まりました。
>【第2回】浮世絵の黄金期と版元・蔦屋重三郎
浮世絵は、18世紀中頃に大きな展開がありました。それが「吾妻錦絵」と呼ばれた多色摺り木版画の誕生です。その錦絵草創期に活躍したのが鈴木春信です。
その背景には、旗本大久保巨川や文人平賀源内などがおり、安永天明期の狂歌の流行と大小絵暦の交換会が拍車をかけました。その後、役者似顔絵の勝川春章などが出ましたが、とくに新興版元の蔦屋重三郎が喜多川歌麿を登用し、大首絵という新機軸をたてて浮世絵の黄金期を迎えました。
蔦屋重三郎は、遊里吉原の入口で細見売りの店から始め、通油町に耕書堂の店を構え、錦絵をはじめ多くの版本を出版しました。蔦屋重三郎は、寛政の出版取締令によって罰せられましたが、東洲斎写楽による雲母摺りの役者大首絵を手がけて再起を図りました。その後の浮世絵界は、歌川豊春、広重、豊国などの歌川派や「冨嶽三十六景」で有名な葛飾北斎などを輩出し、幕末明治維新期の赤絵、大正期の新版画へと受け継がれて現在に至ります。
江戸時代の食事は日に二度というのが、1700年代も半ばすぎ頃までの商家などでは普通だったが、それ以降は三度の食事が定着してくる。
当時の江戸歌舞伎のスーパースター五代目団十郎 作
『楽しみは春の桜に秋の月夫婦仲良く三度食う飯』
江戸庶民たちが日に三度食膳を囲み一家団欒(だんらん)を楽しんだことを、この狂歌は伝えている。
コラム詳細はこちら>
・江戸ことば 月ごよみ 『三度の飯と団十郎』
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/
2025年放送の大河ドラマ「べらぼう 〜蔦重栄華乃夢噺〜」。主人公の「蔦重」こと蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)。
蔦屋重三郎は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した著名な版元(出版人)で喜多川歌麿や東洲斎写楽などの作品を世に送り出し江戸の出版文化をリードした。
関連情報はこちら>
台東区文化芸術総合サイト
特設コンテンツ「2025年大河ドラマ主人公 蔦屋重三郎」ページ
https://www.culture.city.taito.lg.jp/ja/tsutaju
富士講(ふじこう)は、江戸時代に広まった富士山信仰の一形態で、特に関東地方で盛んに行われた。
富士講の信者たちは、富士山を神聖な山として崇拝し、登山を通じて精神的な浄化や祈願を行なった。
富士山に登ることが難しい人々のために、各地に富士塚と呼ばれる人工の山が築かれ、 地元でも富士山信仰を実践できるようになった。
【江戸七富士】
品川富士(品川神社境内)
千駄ヶ谷富士(鳩森八幡神社境内)
下谷坂本富士(小野照崎神社境内)
江古田富士(茅原浅間神社境内)
十条富士(十条冨士神社境内)
音羽富士(護国寺境内)
高松富士(富士浅間神社境内)
これらの富士塚は、現在でも多くの人々に親しまれ、富士山信仰の文化が受け継がれている。
*富士講が江戸幕府からしばしば禁じられた理由として、檀家制度を乱す可能性の懸念や一揆や打ち壊し運動の温床になる危惧などあげられる。
関連コラムはこちら>
・江戸から今に伝わる伝統芸能「大道芸」
江戸の夏行事〜今に継承されているものの由来〜山開き
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「朱引図」(しゅびきず)は、江戸幕府が江戸の範囲を定めるために地図上に朱色の線を引いた。江戸の範囲はその地図上に、江戸城を中心とする朱色の線(朱引線)で囲まれた区域として示されている。
朱引の範囲は、江戸城を中心に北は荒川、東は中川、西は神田上水、南は目黒川まで広がっていた。この範囲は「御府内」とも呼ばれ、この外側は朱引外(しゅびきそと)と呼ばれ、江戸の公式な市域として認識された。「朱引」は1818年(文政元年)に初めて定められ、その呼称は明治時代に至るまで使われた。
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江戸十万日 「江戸下町は文化創造センターだった」
・http://www.edoshitamachi.com/web/fuyugaki/2021/04/
どうして日本の東西で農耕馬と農耕牛と、飼う動物が異なっていたかというと、農地と気候の問題があったからである。
江戸では馬の数が圧倒的に多かった。いざ戦陣という場合に備え大名や旗本などは家格や石高(こくだか)に応じ、ある一定の数の馬を飼っておく必要があったから、武家屋敷の玄関の横には「馬の口」という厩舎があり、そこでは馬の嘶(いなな)きが聞こえていた。
コラム詳細はこちら>
・江戸ことば 月ごよみ 『江戸の馬いろいろ』
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/index.php?id=9
姫路藩主榊原政岑(さかきはら まさみね)にみそめられ、高尾太夫を1800両で落籍する。高尾大夫を秤に乗せてそれと同じ重さの小判を積み重ねたという話もある。
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・神田川界隈物語『榊原家の菩提寺「本立寺」に眠る 名妓·高尾大夫』
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd6/index.php?id=50
関東に入府した家康は、江戸を拠点とすることとし、 江戸城を築きながら、
戦いに備えたインフラを築造します・・・・・
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・武蔵國・江戸物語 〜 No30 戦いに備えた江戸の最初のインフラ
http://www.edoshitamachi.com/web/suitoedo/PDFNo30.pdf
江戸時代の橋梁は、 木製で老朽化が激しく (耐用年数、 約20年)、 さらに水害による流失があって、維持管理するのが大変でした。
両国橋は、架け替えの度に道幅を狭くしてコスト縮減され、また幕府が維持管理しない橋梁は、地元 (町方)に委譲されていきました。
関連コラムはこちら>
・武蔵國・江戸物語 〜 『永代橋にみる民間活力導入の惨劇』
http://www.edoshitamachi.com/web/suitoedo/PDFNo46.pdf
江戸は火事の多い都市だった。三度の大火以外にも、毎年のように火事に見舞われ、
長屋の密集した下町では、焼かれては建て直すことを数年ごとに繰り返していた・・・・・
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・江戸十万日 月日の鼠 『江戸=東京の下町から生きられた記憶への旅』
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd8/index.php?id=13