神田川界隈物語
吉田枯露柿氏プロフィール
昭和29年東京は麹町生まれ。 国立劇場が出来る前、まだ、原っぱで、そこで、おままごとをした記憶が強く残っている。 6歳で文京区小石川に越す。 日本女子大学文学部を卒業後、サンケイリビング新聞社に勤務。 平成16年3月独立し、フリーランスで単行本取材・執筆を始める。 株式会社『吉田事務所』を設立(平成19年5月)。 豊島区では平成23年、地域情報誌『豊島の選択』創刊とともに取材・編集。 また中央図書館専門研究員として地域文化講座(戦後闇市・映画館など)の企画する。 NPO法人「としまの記憶」をつなぐ会を設立(平成24年7月)。副代表理事。第二次世界大戦・戦前戦中戦後の記憶を持つ語り部の「記憶の遺産」として動画編集をする。 地震をテーマにした童話「なまずの太郎大冒険」(平成29年11月)上梓。
▲ブログ http://www.ichiko.tv/

神田川は井の頭池から隅田川に合流する流路延長24.6km、流域面積105.0km2の河川で、徳川家康が江戸に入府(1590年/天正18年)以来、江戸っ子に親しまれてきた。その沿線界隈のゆかりの地名、寺社の建物、江戸の文化人などを、絵(挿絵・浮世絵)、草双紙で紹介します。
静かな「四ツ家町」で起こった 不可思議な事件の真相は?

 岡場所のあった護国寺から鬼子母神の門前町に通ずる道に古く から四ツ家町通りと呼ばれる辻があった。今の目白通りであろう。 四 ツ家町の呼称は南朝の遺臣と伝えられている四軒の家があり、居住 していたからだと言われている。 四軒は四ツ家町四辻東北の角に住んでいた大沢三右衛門、大沢の東方向に住んでいたのが大平七五郎、 上町新倉四郎右衛門、次に大醍醐権兵衛の四軒で、何れも酒店を営み当時の水帳には「酒林」と記されていたようだ。
 
 延享2(1745)年四ツ家上町一円が町方支配となり、ぽつぽつ家も軒を連ねるようになったとい う。町並みは茅葺で方桁造りの前通りを葺きおろし雨の時も笠をつけずに通行できたそうだ。

 さて、寛政4(1792)年11月 1日に、このような静かなところに不可思議な事件が起こった。 早稲田の孫太郎支配の農地である後の入寂原(にゅうじゃくばら)に突然 一人の旅僧が来て、穴を掘り、 棺をつくりその中に入り座禅の姿勢をとった。 右の足を左の腿の上に、 左足を右腿の上に置くという結 跏趺坐(けっかふざ)、人々はこの姿を高僧の入滅と信じて手を合わせる。奇特な事と信じ、たちまち話題になり参詣者も増えた。7日ばかりすると、僧は多くの賽銭をかき集め、そして闇に消えていったという。この不可思議な事件があってから、草原一帯は「入寂原」と呼ばれたという。

  その後、伊勢谷彌兵衛という商人がお休み処として酒などを売り出したが「入寂原」と聞いただけで 誰も近寄らなかった。 しかし、道筋の馬糞を肥料として売るようになり客も増えて繁盛したというもの の、この呼び名はいつのまにか消えていったようだ。


岡場所 (おかばしょ)
江戸時代に江戸において、唯一幕府公認の遊女屋を集めた遊廓である吉原に対 して、それ以外の非公認の私娼屋が集まった遊郭のこと。 護国寺の門前すぐそばの音羽町の大通りは、江戸時代は1丁目から九丁目まであり特に六丁目から九丁目にかけて江戸有数の盛り場だったと いわれる。

水帳:検地帳 (土地代)のこと。

酒林:酒を造り、あるいは酒を売ったりしているので字名を酒林とする。

 
「宇四ツ谷」 (本当は 「字四ツ家」) が記された1925年の地図。 「入寂原」の記載はない。


取材協力:豊島区立郷土資料館
取材協力 :写真提供: 特定非営利活動法人としま遺跡調査会


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