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【安政江戸地震】安 政2年10月2日(1855)関東地方南部で発生した大地震。

【安政江戸地震】安 政2年10月2日(1855)関東地方南部で発生した大地震。
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【安政江戸地震】

安政2年10月2日(1855)関東地方南部で発生した大地震。
この地震により、江戸では約1万4千軒の家屋が全壊または焼失し、死者数は7千人近くにのぼった。


安政江戸地震の後、江戸では多くのかわら版や浮世絵が発行さた。その中でも特に有名なのが「鯰絵(なまずえ)」。鯰絵は、地震を引き起こすと信じられていた鯰をテーマにした風刺画で、地震後の混乱や復興の様子を描いている。

*鯰絵
鯰絵は、地震を引き起こすとされた鯰を描いた浮世絵。地震後の混乱を風刺し、鯰が人々に懲らしめられる様子や、逆に鯰が復興の象徴として描かれることもありました。鯰絵は非常に人気があり、短期間で多くの種類が制作された。

関連情報はこちら
錦絵に見る安政大地震>消防防災博物館 
https://www.bousaihaku.com/fireillustration/3957/

画像> 「大鯰江戸の賑わい」絵 (東京大学地震研究所蔵)
ここでは、鯰がクジラのようにお金を噴き上げ、人々が喜んでいます。このように、地震直後の混乱の過程を経て、復興景気がひろまってくると、鯰は災厄の象徴から福をもたらす世直しの象徴へとかわっていった、と読み解くことができます。

【豊島の鎌倉街道】 「南北に 村を貫く  鎌倉街道」。 鎌倉時代のなごりの道は当地からほとんど消えてしまったが、かすかに地誌をたより地図でたどることができる。

【豊島の鎌倉街道】 「南北に 村を貫く  鎌倉街道」。 鎌倉時代のなごりの道は当地からほとんど消えてしまったが、かすかに地誌をたより地図でたどることができる。
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【豊島の鎌倉街道】

鎌倉街道は「・・・面影橋を渡り、 南蔵院境内を抜けて高田村宿坂の関所跡にかかるのである。さらに護國寺裏から西巣鴨の鎌倉橋に出で中仙道を横切り、谷村・瀧野川村を経て王子豊島村に出で、千住にぬけるのである。」との記述がある。


新着コラムはこちら
>神田川界隈物語
・「謎多き鎌倉街道 豊島区のどこを通っていたか?」
  http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd6/


画像>豊島区の鎌倉街道
「雑司が谷 いろはかるた」(絵と文 矢島勝昭)より

【天保通宝】江戸時代、天保6年(1835))から発行された長円形の銅銭。

【天保通宝】江戸時代、天保6年(1835))から発行された長円形の銅銭。
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【天保通宝】江戸時代、天保6年(1835))から発行された長円形の銅銭。
裏面に「当百」の文字があり、はじめての百文通貨として流通された。

天保通宝を金座所属の江戸浅草橋場町の銭座で鋳造、発行した。
これは小判を模した楕円形で、中央に正方形の穴が開いている銅貨、
量目は5.5匁(20.6g)であった。明治維新後も通用し,明治4年(1871)には1枚で8厘の通用となったが,明治24年(1891)12月末日をもって通用停止となった。


関連情報はこちら
「19世紀前半 文政・天保の改鋳」>貨幣博物館
 https://www.imes.boj.or.jp/cm/history/content/#HistoryEarlyModern

画像>「天保通宝」 重さは約20.6グラム、縦50mm、横30mm程度

「大根役者」江戸時代では、街中へ大根売りがやって来ると、いよいよ本格的な冬の到来となる。

「大根役者」江戸時代では、街中へ大根売りがやって来ると、いよいよ本格的な冬の到来となる。
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江戸時代では、街中へ大根売りがやって来ると、いよいよ本格的な冬の到来となる。

大根は、どんな食べ方をしても食い合わせが悪いということがなく、食中毒にもならないことから「当たらない」食材だといわれた。
そのことから、どんな役柄を演じても「当たらない」俳優を「大根役者」というようになったとの語源説がある。
また、大根は色が白いことから「シロウト」に通じ、演技が下手な素人役者のことを「大根役者」と呼ぶようになったともいわれる。

新着コラムはこちら
>江戸言葉 月ごよみ
・『大根3題―「千六本」「大根役者」「練馬大根」』
 http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/

画像>江戸野菜の振り売り(棒手振り)の絵。

*「振り売り」:江戸時代の振り売り(棒手振り)は天秤棒の両端に商品を吊り下げて街中を歩き回りながら販売する行商人。特に野菜を売る振り売りは「青物売り」として知られ、江戸の庶民の生活に欠かせない存在。
(『熈代勝覧』(きだいしょうらん)絵巻 べルリン東洋美術館蔵)

*『熈代勝覧』(きだいしょうらん)絵巻
文化2年(1805年)頃、江戸最大の繁華街-日本橋通を今川橋から日本橋を描いた絵巻。
(縦43.7cm、横1232.2cm/人物:1671名/犬:20匹/馬:13頭/牛:4頭/猿:1匹/鷹:2羽/店舗:89店描画)

【富士塚】(ふじづか) 富士信仰に基づき、富士山に模して造営された人工の山や塚。

【富士塚】(ふじづか) 富士信仰に基づき、富士山に模して造営された人工の山や塚。
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江戸時代に多く作られ、富士山に登ることが難しい人々が代わりに登拝するためのものとして利用された。

江戸時代の中期に富士信仰が盛んになると、江戸を中心に多くの富士講が生まれ、それに伴い富士塚も多数つくられ、現在東京都内には約50か所に存在するとされる。 当時は「江戸八百八町講中八万人」と言われ、江戸市中の有名な富士塚は特に「江戸八富士」と呼ばれた。

画像は>
歌川広重作『名所江戸百景』に描かれた目黒富士(新富士) ブルックリン美術館蔵。
手前のミニ富士は1819年に建てられた。斜面に沿ったジグザグの道は、実際の山を登るスイッチバックルートを模倣している。

関連コラム詳細はこちら>  
・江戸から今に伝わる伝統芸能「大道芸」 江戸の夏行事〜今に継承されているものの由来 ≪山開き≫
http://www.edoshitamachi.com/web/daidougei/

【新着コラム】江戸歌舞伎(後期)のスパースター五代目市川団十郎公演の『暫』(しばらく)を描いた浮世絵。

【新着コラム】江戸歌舞伎(後期)のスパースター五代目市川団十郎公演の『暫』(しばらく)を描いた浮世絵。
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江戸歌舞伎(後期)のスパースター五代目市川団十郎公演の『暫』(しばらく)を描いた浮世絵。

五代目市川団十郎:元文6年(1741年)〜文化3年 (1806年)は、江戸時代の歌舞伎役者で、成田屋の屋号を持ち、俳名は梅童・男女川(おながわ)・三升・白猿などがある。

『暫(しばらく)』:この演目は、初代市川団十郎が始めたもので、五代目もその伝統を受け継ぎ、特に鎌倉権五郎の役で知られ、豪華な衣装と派手な隈取(くまどり)で観客を魅了した。

上方(かみがた)で観劇といえば人形浄瑠璃(文楽)である。しかし、江戸では人形浄瑠璃は盛んではなかった。
人形を使った筋書通りにキッチリとやる舞台よりも、アドリブと決めゼリフたっぷりの団十郎の豪華な舞台を江戸っ子が好んだ。

画像は>
歌川国政作の寛政8年(1796)五代目市川団十郎公演の『暫』を描いた浮世絵。

コラム詳細はこちら>  
・江戸ことば 月ごよみ  『三度の飯と団十郎』
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/

【蔦屋重三郎】(つたや じゅうざぶろう)版元として出版物に登場した肖像画。屋号を蔦屋、耕書堂。版元印=富士山型に蔦の葉のマーク。

【蔦屋重三郎】(つたや じゅうざぶろう)版元として出版物に登場した肖像画。屋号を蔦屋、耕書堂。版元印=富士山型に蔦の葉のマーク。高ヒット
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蔦屋重三郎
寛延3年1月7日(1750年2月13日)〜寛政9年5月6日(1797年5月31日)天明3年(1783)9月蔦屋重三郎が、吉原から日本橋通油町(とおりあぶらちょう)に進出。

蔦屋重三郎は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した著名な版元(出版人)で喜多川歌麿や東洲斎写楽などの作品を世に送り出し江戸の出版文化をリードした。

2025年放送の大河ドラマ「べらぼう 〜蔦重栄華乃夢噺〜」。主人公の「蔦重」こと蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)。

画像は>山東京傳 作 『箱入娘面屋人魚 3巻』, 蔦唐丸,[寛政3 (1791)]. 国立国会図書館デジタルコレクション

「箱入娘面屋人魚(はこいりむすめめんやにんぎょう)」は、江戸時代の作家山東京伝による作品で、1791年に出版されました。この物語は、江戸時代の風俗や文化を背景に、ユーモアと風刺を交えた内容

関連情報はこちら>
台東区文化芸術総合サイト特設コンテンツ
「2025年大河ドラマ主人公 蔦屋重三郎」ページ
https://www.culture.city.taito.lg.jp/ja/tsutaju

【江戸朱引図】(しゅびきず)江戸幕府が江戸の範囲を定めるために地図上に朱色の線を引いた。この朱引は、1818年(文政元年)に初めて定めらた。

【江戸朱引図】(しゅびきず)江戸幕府が江戸の範囲を定めるために地図上に朱色の線を引いた。この朱引は、1818年(文政元年)に初めて定めらた。
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概要
1590年(天正18年)の江戸城築城以来、江戸の市域は拡大を続け、19世紀初頭にはすでにその範囲は不明確となっていた。
1818年(文政元年)9月26日、江戸の範囲を町奉行・勘定奉行が若年寄に区域を答申。それを受けて同年12月、老中・阿部正精(あべまさきよ)によって示された幕府の公式見解が朱引。
江戸の範囲はその地図上に、江戸城を中心とする朱色の線(朱引線)で囲まれた区域として示されている。

画像は>
「旧江戸朱引内図」(1818年、東京都公文書館所蔵)
江戸の範囲はその地図上に、江戸城を中心とする朱色の線(朱引線)で囲まれた区域として示されている。

関連コラムはこちら>
江戸十万日 「江戸下町は文化創造センターだった」
http://www.edoshitamachi.com/web/fuyugaki/2021/04/

【永代橋崩落】8月19日文化4年(1807)深川富岡八幡宮祭礼の人出で永代橋が崩れ落ち、1730余人が死亡・・・・・

【永代橋崩落】8月19日文化4年(1807)深川富岡八幡宮祭礼の人出で永代橋が崩れ落ち、1730余人が死亡・・・・・高ヒット
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江戸時代の橋梁は、 木製で老朽化が激しく (耐用年数、 約20年)、 さらに水害による流失があって、維持管理するのが大変でした。
"両国橋は、架け替えの度に道幅を狭くしてコスト縮減され、また幕府が維持管理しない橋梁は、地元 (町方)に委譲されていきました。

画像は>
「文化四年八月富岡八幡宮祭礼永代橋崩壊の図」歌川豊国(3代目)画  江戸東京博物館蔵

「永代橋崩落の図」に描かれている人々の服装や表情は、当時の江戸の風俗をよく反映している。(法量/27.5cm x 76.5cm)


関連コラムはこちら>
・武蔵國・江戸物語 〜 『永代橋にみる民間活力導入の惨劇』

 http://www.edoshitamachi.com/web/suitoedo/PDFNo46.pdf








【新着コラム】江戸の昔、馬はとくに東日本の農家で農耕馬として飼われ、西日本の農家は牛を飼って農耕に使ったようであるが・・・

【新着コラム】江戸の昔、馬はとくに東日本の農家で農耕馬として飼われ、西日本の農家は牛を飼って農耕に使ったようであるが・・・高ヒット
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どうして日本の東西で農耕馬と農耕牛と、飼う動物が異なっていたかというと、農地と気候の問題があったからである。
江戸では馬の数が圧倒的に多かった。いざ戦陣という場合に備え大名や旗本などは家格や石高(こくだか)に応じ、ある一定の数の馬を飼っておく必要があったから、武家屋敷の玄関の横には「馬の口」という厩舎があり、そこでは馬の嘶(いなな)きが聞こえていた。

画像は>
馬並の客に驚き、床から逃げて泣き出す振袖新造。
山東京伝(さんとうきょうでん)の黄表紙(きびょうし)
『九界十年色地獄(くがいじゅうねんいろじごく)』(寛政3年〈1791〉刊)より。


コラム詳細はこちら>  
・江戸ことば 月ごよみ 『江戸の馬いろいろ』

 http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/index.php?id=9

【新着コラム】 高尾太夫(たかおだゆう)は、江戸時代の吉原で最も有名な遊女の一人で、歌舞伎や浄瑠璃などで多く取り上げられている・・・

【新着コラム】 高尾太夫(たかおだゆう)は、江戸時代の吉原で最も有名な遊女の一人で、歌舞伎や浄瑠璃などで多く取り上げられている・・・ 高ヒット
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姫路藩主榊原政岑(さかきはら まさみね)にみそめられ、高尾太夫を1800両で落籍する。 高尾大夫を秤に乗せてそれと同じ重さの小判を積み重ねたという話もある。

画像は>
・『古代江戸絵集』 「三浦屋高尾」 歌川豊国画 国会図書館蔵  

『古代江戸絵集』の「三浦屋高尾」は、歌川豊国(3代目)が描いた浮世絵。
豊国は美人画や役者絵で名を馳せた浮世絵師で、この絵は、文久元年(1861)  に制作され、三代目岩井粂三郎が高尾太夫を演じた姿が描かれていいる。

コラム詳細はこちら>  
・神田川界隈物語  『榊原家の菩提寺「本立寺」に眠る 名妓·高尾大夫』

 http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd6/index.php?id=50

【いろは48組】8月7日享保5年(1720)町火消し組合が改正、「いろは」48組となり、纏幟の制度が設けられる。

【いろは48組】8月7日享保5年(1720)町火消し組合が改正、「いろは」48組となり、纏幟の制度が設けられる。 高ヒット
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江戸は火事の多い都市だった。三度の大火以外にも、毎年のように火事に見舞われ、
長屋の密集した下町では、焼かれては建て直すことを数年ごとに繰り返していた・・・・・

画像は>
「江戸の華-いろは組の内“を組”組を立て火に迎ふの景」は、歌川広重が描いた浮世絵の一つで、江戸時代の火消し(消防士)をテーマにしている。この絵は、江戸の町火消し「いろは47組」の一つである「を組」が火事に立ち向かう様子を描いている。
*下部に描かれている大刺股は家屋を押し倒す際に使われ、四間<約7m>位


関連コラムはこちら>
・江戸十万日 月日の鼠 『江戸=東京の下町から生きられた記  憶への旅』

http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd8/index.php?id=13

【江戸の物売り】夏商いの各種売り声で(金魚売り、ところてん売り、茄子売り、水売り、植木売等々)で町は賑やか。

【江戸の物売り】夏商いの各種売り声で(金魚売り、ところてん売り、茄子売り、水売り、植木売等々)で町は賑やか。高ヒット
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朝早くに来る、売り声が「アッサリ、死んじめえ」と聞こえるという「アッサリ、シジミ」という掛け声の浅蜊(あさり)・蜆(しじみ)売りは子どものアルバイトであった。納豆売りや豆腐売りも朝早くやってきた。
 今は、こういった街中を売り歩く物売りそのものがいなくなってすっかり久しい・・・

関連コラムはこちら>
>江戸言葉 月ごよみ『江戸の売り声』
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/index.php?id=8

画像> 『今様職人尽歌合』* 金魚売より

*「今様職人尽歌合」(イマヨウショクニンズクシウタアワセ)は、江戸時代中期に成立した狂歌集。銕廼屋大門と五柳園一人が編纂、紹真が筆写して、文政八年(1825年)に刊行。
狂歌は、俳句の一種で、風俗や職業についての歌を詠んでいる。

■金魚
金魚(錦魚)は元和年中に南支那あたりから輸入された事は「和事始」や「大和本草」等にあり、 賞玩用としての流行は元禄以前からで、品評会風のものを、金魚の狂言と云った。

>金魚屋・金魚うり
金魚屋は「江戸鹿子」や「西鶴置土産」に、下谷池之端しんちうや市(郎)右衛門の名がある。幕末には本所割下水、谷中、根津、白金あたりに多くあった。金魚うり(物売り)の者はこれらの店から金魚を受けて、売り声も「目高かアー、金魚ウー」とよんで売りあるいた。

>金魚の種類・価格
守貞漫稿」*に「形小、尾大にし大腹のものあり、常に尾を上に首に下に遊ぐ、京坂これを蘭虫(らんちゅう)と云う、まるっ子と云うは江人の訛りなり。 大腹に非ずして尾大の者を三都とも朝鮮と云う。各必ず尾は三尖なり。貴価の者は三五両に至る」とある。

>人々の寸評・見立

○『硝子(びいどろ)の金魚の命すき通り』 武玉川*

○『およし遊ばせ死ますと金魚売り』    柳樽*


*「守貞漫稿」(もりさだまんこう、守貞漫稿とも)
「江戸時代後期の三都(京都・大阪・江戸)の風俗や事物を説明した一種の類書(百科事典)。著者は喜田川守貞(本名:北川庄兵衛)で、1837年(天保8年)から約30年間にわたり執筆され、全35巻(「前集」30巻と「後集」5巻)にまとめた。この書籍は約1600点の図版と詳細な解説によって、近世風俗史の基本文献とされている。

*「武玉川」(むたまがわ)
江戸時代の俳諧の高点付句集『誹諧武玉川』。江戸座俳諧の宗匠、慶紀逸撰。1750年(寛延3)から56年までに10編,以後《燕都枝折(えどしおり)》と改題して5編,紀逸撰。1771年から76年まで2世紀逸撰で3編,計18編。

*柳樽(やなぎだる)
単に「柳多留」とも「柳樽」とも呼ばれる誹風柳多留(はいふうやなぎだる)とは、江戸時代中期から幕末まで、ほぼ毎年刊行された川柳の句集。呉陵軒可有編、花屋久次郎版。明和2年から天保11年(1765–1840)にかけて167編が刊行された。







【閻魔賽日】(えんまさいじつ)七月十六日は閻魔賽日(えんまさいじつ)といって閻魔の休日。 "

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お盆休みには「地獄の釜の蓋(ふた)が開く」と言った。
地獄で罪障(ざいしょう)を犯した者を裁く閻魔様も、
江戸時代も後半になった江戸では、お盆休み(7月16日前後の休み「藪入〈やぶいり〉」)になると、
休暇をとることになるだろうと見立てたところから生まれた言葉だった。
藪入(やぶいり)で奉公先から休みをもらった人々も、閻魔詣で繰り
その日は閻魔大王を祀る寺では縁日として大変に賑わった。

▲挿絵 『地獄極楽図』河鍋暁斎画 東京国立博物館蔵

関連コラムはこちら
>江戸言葉 月ごよみ『地獄とエンマ様』
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/

>江戸の夏行事〜今に継承されているものの由来〜
http://www.edoshitamachi.com/web/daidougei/




【天明の浅間焼け】 7月6日天明3年(1783) 浅間山が大噴火、江戸に灰がふる。

【天明の浅間焼け】 7月6日天明3年(1783) 浅間山が大噴火、江戸に灰がふる。高ヒット
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1783年(天明3年)7月6日、浅間山が噴火し、降下した火砕物により家屋の焼失や倒壊、用水被害や交通遮断等が起こすとともに、鎌原火砕流/岩屑なだれと天明泥流により浅間山北麓から利根川流域を中心とする関東平野に甚大な被害をもたらした。(死者:1624人、流失家屋:1151戸、焼失家屋51戸、倒壊家屋130戸余り)

絵>浅間山の天明大噴火を描いた「浅間山夜分大焼之図」

関連コラムはこちら>
・武蔵國・江戸物語 〜  No45「浅間山噴火により、 関東郡代が潰れる」
http://www.edoshitamachi.com/web/suitoedo/PDFNo45.pdf

【土蔵造り】壁を土で塗った土蔵のような造りの家屋 7月22日享保9年(1724)日本橋通に、塗屋土蔵造りが命じられる。

【土蔵造り】壁を土で塗った土蔵のような造りの家屋 7月22日享保9年(1724)日本橋通に、塗屋土蔵造りが命じられる。高ヒット
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「火事と喧嘩は江戸の華」といわれた江戸は、大小数えきれぬ火事に見舞われた。
江戸時代の日本橋通りの商家は、屋根に瓦を葺いた。当初は町人の家で瓦を載せることは許可されず、享保五年(1720年)に町屋の土蔵造・塗屋造や瓦葺が奨励され、逆に瓦葺を勧めて板葺や茅葺を禁止した。江戸は火事が多発したため、大店では瓦葺が一般的になった。この目抜き通りの商家は、ほとんどが二階建てで瓦葺されており町並みが統一されていた。しかし木造建築だったため、飛び火すれば炎上は免れなかった。大店をはじめ資力のある者たちは、土蔵や穴蔵を設けて大事な品物を保管し、いざ火事となれば目塗りをして被害を避けた。

絵>
約220年前の江戸一番の繁華街、日本橋通りの「熈代勝覧」(きだいしょうらんえまき)絵巻の一部。
文化2年(1805年)頃、江戸最大の繁華街-日本橋通を今川橋から日本橋を描いた「熈代勝覧」(きだいしょうらん)(縦43.7cm、横1232.2cm/人物:1671名/犬:20匹/馬:13頭/牛:4頭/猿:1匹/鷹:2羽/店舗:89店描画 / べルリン東洋美術館蔵

関連コラムはこちら>
・江戸一番の繁華街〜日本橋通りを江戸人と一緒に歩く!
 >http://www.edoshitamachi.com/web/e/

【玉川上水】	6月20日承応3年 (1654)完成。玉川庄右衛門・清右衛門、褒賞として300両をうける。

【玉川上水】 6月20日承応3年 (1654)完成。玉川庄右衛門・清右衛門、褒賞として300両をうける。高ヒット
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画像>
玉川上水の取水口である羽村堰付近にある銅像。
正面から見て、右側に立っているのが兄の庄右衛門。左側が弟の清右衛門。庄右衛門が持っている縄のようなものは「間縄(けんなわ)」、清右衛門が持っている棒状のものは
「間竿(けんざお)」でどちらも当時の測量道具。

・関連情報はこちら
>「暦から読み解く江戸東京」 玉川上水年表
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd8/PDF/tamagawanenpyo.pdf

>水から読み解く江戸東京「玉川上水物語」
http://www.edoshitamachi.com/web/suitoedo/PDFNo36.pdf

>「羽村市郷土博物館蔵」
 https://www.city.hamura.tokyo.jp/0000001544.html






【江戸野菜】・・・新着コラム>大根は練馬より雑司ヶ谷がよりうまい。

【江戸野菜】・・・新着コラム>大根は練馬より雑司ヶ谷がよりうまい。高ヒット
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画像>雑司が谷 いろはかるた 絵と文: 矢島勝昭
(ね) 練馬(ねりま)をしのぐ巨大根献上(きょだいこんけんじょう)

いま、江戸野菜に注目されている。
江戸時代の大根といえば「練馬大根」が有名であが、
雑司ヶ谷産の巨大根(長さ30センチあまり、胴回り45センチあま)が
珍重され大奥へ毎年冬の時期に届けられた。

関連コラムはこちら
>神田川界隈物語
・『地域特産の「大だいこん」は冬期に大奥へ献上』
 http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd6/

【江戸百万都市】	・・・新着コラム>江戸の人口調査では、江戸の武士は「2億3600万人余」居住していたとされる。?!

【江戸百万都市】 ・・・新着コラム>江戸の人口調査では、江戸の武士は「2億3600万人余」居住していたとされる。?! 高ヒット
投稿者sibugakisibugaki さんの画像をもっと!   カテゴリー新着PHOTO    前回更新2024-6-6 11:09    
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画像>『熈代勝覧』絵巻_日本橋北詰絵
 日本橋に至る手前で魚河岸のすぐ近くの風景で、一帯は群衆で立錐の余地もない有様を描かれている。

*『熈代勝覧』絵巻
文化2年(1805年)頃、江戸最大の繁華街-日本橋通を今川橋から日本橋を描いた「熈代勝覧」(きだいしょうらん)照覧絵巻。
(縦43.7cm、横1232.2cm/人物:1671名/犬:20匹/馬:13頭/牛:4頭/猿:1匹/鷹:2羽/店舗:89店描画 / べルリン東洋美術館蔵)

天明6年(1786)、江戸の町人だけで100万人を超えていたという。それから5年後の寛政3年(1791)の江戸の人口調査では、江戸の武士は「2億3600万人余」居住していたとされる。現在の日本の人口より多いではないかと驚かれるだろうが、その心配は・・・

・関連コラムはこちら
>江戸ことば月ごよみ『百川と百万都市・江戸』
 http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/index.php?id=7

・関連情報はこちら
>水都江戸・東京物語『江戸時代の歴史人口が語るもの』
 http://www.edoshitamachi.com/web/suitoedo/PDFNo29.pdf/

【寛永通宝】	1636年(寛永13)6月1日鋳造、1953年(昭和28)12月まで通用した長寿貨幣。

【寛永通宝】 1636年(寛永13)6月1日鋳造、1953年(昭和28)12月まで通用した長寿貨幣。高ヒット
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6月1日寛永13年 (1636)芝・浅草と近江坂本に銭座を置き、初めて【寛永通宝】を鋳造。
幕末までに造られた銅銭はすべて「寛永通宝(かんえいつうほう)」の文字が打ち出され「寛永通宝」と呼ばれた。

画像>寛永通寳:寛永13年(1636)称浅草銭 御蔵銭 
(Wikimediaより」

・貨幣価値は、裏面に波形が刻まれているものが4文、刻まれていないものが1文として通用。当時96文を銭通しに通してまとめると100文として通用(短陌・省陌)し、通し100文と呼ばれていた。

・1枚の重量は1匁(3.75グラム)、銭径は8分(2.4センチ)が標準であったが、後には軽量、縮型のものや、鉄銭も鋳造された。

関連コラムはこちら
>江戸ことば月ごよみ 『藤の花と銭の花』
 http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/index.php?id=4

関連情報はこちら
・「日本銀行貨幣博物館」 『17世紀金・銀・銅の貨幣の統一』
 https://www.imes.boj.or.jp/cm/history/content/#HistoryEarlyModern

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