アルバムトップ : sibugaki Total:129

並び替え:  タイトル () 日時 () ヒット数 ()
現在の並び順: 日時 (新→旧)

1 番〜 20 番を表示 (全 129 枚)(1) 2 3 4 5 6 7 »



【江戸の物売り】夏商いの各種売り声で(金魚売り、ところてん売り、茄子売り、水売り、植木売等々)で町は賑やか。

【江戸の物売り】夏商いの各種売り声で(金魚売り、ところてん売り、茄子売り、水売り、植木売等々)で町は賑やか。
投稿者sibugakisibugaki さんの画像をもっと!   カテゴリー新着PHOTO    前回更新2024-7-4 8:53    
ヒット数38  コメント数0    
朝早くに来る、売り声が「アッサリ、死んじめえ」と聞こえるという「アッサリ、シジミ」という掛け声の浅蜊(あさり)・蜆(しじみ)売りは子どものアルバイトであった。納豆売りや豆腐売りも朝早くやってきた。
 今は、こういった街中を売り歩く物売りそのものがいなくなってすっかり久しい・・・

関連コラムはこちら>
>江戸言葉 月ごよみ『江戸の売り声』
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/index.php?id=8

画像> 『今様職人尽歌合』* 金魚売より

*「今様職人尽歌合」(イマヨウショクニンズクシウタアワセ)は、江戸時代中期に成立した狂歌集。銕廼屋大門と五柳園一人が編纂、紹真が筆写して、文政八年(1825年)に刊行。
狂歌は、俳句の一種で、風俗や職業についての歌を詠んでいる。

■金魚
金魚(錦魚)は元和年中に南支那あたりから輸入された事は「和事始」や「大和本草」等にあり、 賞玩用としての流行は元禄以前からで、品評会風のものを、金魚の狂言と云った。

>金魚屋・金魚うり
金魚屋は「江戸鹿子」や「西鶴置土産」に、下谷池之端しんちうや市(郎)右衛門の名がある。幕末には本所割下水、谷中、根津、白金あたりに多くあった。金魚うり(物売り)の者はこれらの店から金魚を受けて、売り声も「目高かアー、金魚ウー」とよんで売りあるいた。

>金魚の種類・価格
守貞漫稿」*に「形小、尾大にし大腹のものあり、常に尾を上に首に下に遊ぐ、京坂これを蘭虫(らんちゅう)と云う、まるっ子と云うは江人の訛りなり。 大腹に非ずして尾大の者を三都とも朝鮮と云う。各必ず尾は三尖なり。貴価の者は三五両に至る」とある。

>人々の寸評・見立

○『硝子(びいどろ)の金魚の命すき通り』 武玉川*

○『およし遊ばせ死ますと金魚売り』    柳樽*


*「守貞漫稿」(もりさだまんこう、守貞漫稿とも)
「江戸時代後期の三都(京都・大阪・江戸)の風俗や事物を説明した一種の類書(百科事典)。著者は喜田川守貞(本名:北川庄兵衛)で、1837年(天保8年)から約30年間にわたり執筆され、全35巻(「前集」30巻と「後集」5巻)にまとめた。この書籍は約1600点の図版と詳細な解説によって、近世風俗史の基本文献とされている。

*「武玉川」(むたまがわ)
江戸時代の俳諧の高点付句集『誹諧武玉川』。江戸座俳諧の宗匠、慶紀逸撰。1750年(寛延3)から56年までに10編,以後《燕都枝折(えどしおり)》と改題して5編,紀逸撰。1771年から76年まで2世紀逸撰で3編,計18編。

*柳樽(やなぎだる)
単に「柳多留」とも「柳樽」とも呼ばれる誹風柳多留(はいふうやなぎだる)とは、江戸時代中期から幕末まで、ほぼ毎年刊行された川柳の句集。呉陵軒可有編、花屋久次郎版。明和2年から天保11年(1765–1840)にかけて167編が刊行された。







【閻魔賽日】(えんまさいじつ)七月十六日は閻魔賽日(えんまさいじつ)といって閻魔の休日。 "

【閻魔賽日】(えんまさいじつ)七月十六日は閻魔賽日(えんまさいじつ)といって閻魔の休日。 "
投稿者sibugakisibugaki さんの画像をもっと!   カテゴリー新着PHOTO    前回更新2024-7-4 8:05    
ヒット数31  コメント数0    
お盆休みには「地獄の釜の蓋(ふた)が開く」と言った。
地獄で罪障(ざいしょう)を犯した者を裁く閻魔様も、
江戸時代も後半になった江戸では、お盆休み(7月16日前後の休み「藪入〈やぶいり〉」)になると、
休暇をとることになるだろうと見立てたところから生まれた言葉だった。
藪入(やぶいり)で奉公先から休みをもらった人々も、閻魔詣で繰り
その日は閻魔大王を祀る寺では縁日として大変に賑わった。

▲挿絵 『地獄極楽図』河鍋暁斎画 東京国立博物館蔵

関連コラムはこちら
>江戸言葉 月ごよみ『地獄とエンマ様』
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/

>江戸の夏行事〜今に継承されているものの由来〜
http://www.edoshitamachi.com/web/daidougei/




【天明の浅間焼け】 7月6日天明3年(1783) 浅間山が大噴火、江戸に灰がふる。

【天明の浅間焼け】 7月6日天明3年(1783) 浅間山が大噴火、江戸に灰がふる。
投稿者sibugakisibugaki さんの画像をもっと!   カテゴリー新着PHOTO    前回更新2024-7-4 8:02    
ヒット数36  コメント数0    
1783年(天明3年)7月6日、浅間山が噴火し、降下した火砕物により家屋の焼失や倒壊、用水被害や交通遮断等が起こすとともに、鎌原火砕流/岩屑なだれと天明泥流により浅間山北麓から利根川流域を中心とする関東平野に甚大な被害をもたらした。(死者:1624人、流失家屋:1151戸、焼失家屋51戸、倒壊家屋130戸余り)

絵>浅間山の天明大噴火を描いた「浅間山夜分大焼之図」

関連コラムはこちら>
・武蔵國・江戸物語 〜  No45「浅間山噴火により、 関東郡代が潰れる」
http://www.edoshitamachi.com/web/suitoedo/PDFNo45.pdf

【土蔵造り】壁を土で塗った土蔵のような造りの家屋 7月22日享保9年(1724)日本橋通に、塗屋土蔵造りが命じられる。

【土蔵造り】壁を土で塗った土蔵のような造りの家屋 7月22日享保9年(1724)日本橋通に、塗屋土蔵造りが命じられる。
投稿者sibugakisibugaki さんの画像をもっと!   カテゴリー新着PHOTO    前回更新2024-7-4 7:57    
ヒット数37  コメント数0    
「火事と喧嘩は江戸の華」といわれた江戸は、大小数えきれぬ火事に見舞われた。
江戸時代の日本橋通りの商家は、屋根に瓦を葺いた。当初は町人の家で瓦を載せることは許可されず、享保五年(1720年)に町屋の土蔵造・塗屋造や瓦葺が奨励され、逆に瓦葺を勧めて板葺や茅葺を禁止した。江戸は火事が多発したため、大店では瓦葺が一般的になった。この目抜き通りの商家は、ほとんどが二階建てで瓦葺されており町並みが統一されていた。しかし木造建築だったため、飛び火すれば炎上は免れなかった。大店をはじめ資力のある者たちは、土蔵や穴蔵を設けて大事な品物を保管し、いざ火事となれば目塗りをして被害を避けた。

絵>
約220年前の江戸一番の繁華街、日本橋通りの「熈代勝覧」(きだいしょうらんえまき)絵巻の一部。
文化2年(1805年)頃、江戸最大の繁華街-日本橋通を今川橋から日本橋を描いた「熈代勝覧」(きだいしょうらん)(縦43.7cm、横1232.2cm/人物:1671名/犬:20匹/馬:13頭/牛:4頭/猿:1匹/鷹:2羽/店舗:89店描画 / べルリン東洋美術館蔵

関連コラムはこちら>
・江戸一番の繁華街〜日本橋通りを江戸人と一緒に歩く!
 >http://www.edoshitamachi.com/web/e/

【玉川上水】	6月20日承応3年 (1654)完成。玉川庄右衛門・清右衛門、褒賞として300両をうける。

【玉川上水】 6月20日承応3年 (1654)完成。玉川庄右衛門・清右衛門、褒賞として300両をうける。高ヒット
投稿者sibugakisibugaki さんの画像をもっと!   カテゴリー新着PHOTO    前回更新2024-6-6 11:13    
ヒット数125  コメント数0    
画像>
玉川上水の取水口である羽村堰付近にある銅像。
正面から見て、右側に立っているのが兄の庄右衛門。左側が弟の清右衛門。庄右衛門が持っている縄のようなものは「間縄(けんなわ)」、清右衛門が持っている棒状のものは
「間竿(けんざお)」でどちらも当時の測量道具。

・関連情報はこちら
>「暦から読み解く江戸東京」 玉川上水年表
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd8/PDF/tamagawanenpyo.pdf

>水から読み解く江戸東京「玉川上水物語」
http://www.edoshitamachi.com/web/suitoedo/PDFNo36.pdf

>「羽村市郷土博物館蔵」
 https://www.city.hamura.tokyo.jp/0000001544.html






【江戸野菜】・・・新着コラム>大根は練馬より雑司ヶ谷がよりうまい。

【江戸野菜】・・・新着コラム>大根は練馬より雑司ヶ谷がよりうまい。高ヒット
投稿者sibugakisibugaki さんの画像をもっと!   カテゴリー新着PHOTO    前回更新2024-6-6 11:11    
ヒット数123  コメント数0    
画像>雑司が谷 いろはかるた 絵と文: 矢島勝昭
(ね) 練馬(ねりま)をしのぐ巨大根献上(きょだいこんけんじょう)

いま、江戸野菜に注目されている。
江戸時代の大根といえば「練馬大根」が有名であが、
雑司ヶ谷産の巨大根(長さ30センチあまり、胴回り45センチあま)が
珍重され大奥へ毎年冬の時期に届けられた。

関連コラムはこちら
>神田川界隈物語
・『地域特産の「大だいこん」は冬期に大奥へ献上』
 http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd6/

【江戸百万都市】	・・・新着コラム>江戸の人口調査では、江戸の武士は「2億3600万人余」居住していたとされる。?!

【江戸百万都市】 ・・・新着コラム>江戸の人口調査では、江戸の武士は「2億3600万人余」居住していたとされる。?! 高ヒット
投稿者sibugakisibugaki さんの画像をもっと!   カテゴリー新着PHOTO    前回更新2024-6-6 11:09    
ヒット数130  コメント数0    
画像>『熈代勝覧』絵巻_日本橋北詰絵
 日本橋に至る手前で魚河岸のすぐ近くの風景で、一帯は群衆で立錐の余地もない有様を描かれている。

*『熈代勝覧』絵巻
文化2年(1805年)頃、江戸最大の繁華街-日本橋通を今川橋から日本橋を描いた「熈代勝覧」(きだいしょうらん)照覧絵巻。
(縦43.7cm、横1232.2cm/人物:1671名/犬:20匹/馬:13頭/牛:4頭/猿:1匹/鷹:2羽/店舗:89店描画 / べルリン東洋美術館蔵)

天明6年(1786)、江戸の町人だけで100万人を超えていたという。それから5年後の寛政3年(1791)の江戸の人口調査では、江戸の武士は「2億3600万人余」居住していたとされる。現在の日本の人口より多いではないかと驚かれるだろうが、その心配は・・・

・関連コラムはこちら
>江戸ことば月ごよみ『百川と百万都市・江戸』
 http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/index.php?id=7

・関連情報はこちら
>水都江戸・東京物語『江戸時代の歴史人口が語るもの』
 http://www.edoshitamachi.com/web/suitoedo/PDFNo29.pdf/

【寛永通宝】	1636年(寛永13)6月1日鋳造、1953年(昭和28)12月まで通用した長寿貨幣。

【寛永通宝】 1636年(寛永13)6月1日鋳造、1953年(昭和28)12月まで通用した長寿貨幣。高ヒット
投稿者sibugakisibugaki さんの画像をもっと!   カテゴリー新着PHOTO    前回更新2024-6-5 11:25    
ヒット数136  コメント数0    
6月1日寛永13年 (1636)芝・浅草と近江坂本に銭座を置き、初めて【寛永通宝】を鋳造。
幕末までに造られた銅銭はすべて「寛永通宝(かんえいつうほう)」の文字が打ち出され「寛永通宝」と呼ばれた。

画像>寛永通寳:寛永13年(1636)称浅草銭 御蔵銭 
(Wikimediaより」

・貨幣価値は、裏面に波形が刻まれているものが4文、刻まれていないものが1文として通用。当時96文を銭通しに通してまとめると100文として通用(短陌・省陌)し、通し100文と呼ばれていた。

・1枚の重量は1匁(3.75グラム)、銭径は8分(2.4センチ)が標準であったが、後には軽量、縮型のものや、鉄銭も鋳造された。

関連コラムはこちら
>江戸ことば月ごよみ 『藤の花と銭の花』
 http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/index.php?id=4

関連情報はこちら
・「日本銀行貨幣博物館」 『17世紀金・銀・銅の貨幣の統一』
 https://www.imes.boj.or.jp/cm/history/content/#HistoryEarlyModern

【三社祭】 2024年5月17日(金)〜19日(日)

【三社祭】 2024年5月17日(金)〜19日(日)高ヒット
投稿者sibugakisibugaki さんの画像をもっと!   カテゴリー新着PHOTO    前回更新2024-5-5 22:49    
ヒット数158  コメント数0    
江戸期の三社祭。「江戸名所図屏風」(寛永年間初期/出光美術館蔵)の中に祭礼が大きく描かれているのは三社祭。江戸期初期、三社祭が祭礼の歴史の古さ、親しまれ方では神田明神、山王権現(日枝神社)より三社祭のほうが江戸の庶民の間においては人気があったようだ。

現在は東京の初夏を代表する風物詩の一つ。江戸風情の残る下町浅草に三日間で約200万人の人出を超え1年でもっとも活気つく。
浅草神社の祭礼。土曜は氏子44カ町約100基の神輿の連合渡御が行われ、日曜には本社神輿3基の渡御が実施される。

氏子>四十四ヶ町
浅草寺を中心に東/隅田川、西/かっぱ橋道具街通り、南/春日通り、北/吉原のエリア

<東部>花川戸一 浅草馬一 花川戸二 聖天 猿若 田聖睦 浅草馬二 浅草象一 浅草象潟 浅草象三 浅五会 浅草馬三

<西部>浅草二 芝崎東 芝崎西 芝崎中 西浅三北 堤 千草 浅草中 浅草千和 千二西 千二光月 千一南 浅三東 浅草町一 浅草町二 浅草清三

<南部>仲見世 浅草東 浅草中央 浅草西 浅草公園 浅一三栄 西浅草一 寿二 寿一 寿三東 駒形 寿四 雷門田原 雷門西部 雷門中部 雷門東部

日程 >
■5月16日(木) 本社神輿神霊入れの儀 19:〜
■5月17日(金) 大行列 13:00〜
                      びんざさら舞奉納14:20〜
          各町神輿神霊入れの儀15:30〜
■5月18日(土)  町内神輿連合渡御 12:00〜
           巫女舞奉奏(神楽殿) 16:00〜
■5月19日(日) 宮出し 6:30〜
           本社神輿各町渡御 宮出し終
           宮入り 20:00〜

宮神輿>
■一之宮(鳳凰) 吹き返しがない延軒屋根と蕨手が軒下から巻き上がっている 胴に晒を巻く

祭神/土師真仲知命 台座/三尺七寸(112僉法〃造/昭和25年 製作者/浅草・宮本重義
■二之宮(疑宝珠) 吹き返しがない延軒屋根と蕨手が軒下から巻き上がっている 胴に晒を巻く
祭神/槍前浜成命 台座/三尺七寸(112僉法〃造/昭和25年 製作/浅草・宮本重義
■三之宮(疑宝珠) 吹き返しがない延軒屋根と蕨手が軒下から巻き上がっている 胴に晒を巻く
祭神/槍前竹成命 台座/三尺七寸(112僉法〃造/昭和27年 製作者/浅草・宮本重義

由来>
推古天皇三十六年(西暦六二八年)三月十八日の早朝、隅田川で漁をしていた檜前浜成(ひのくまのはまなり)・竹成(たけなり)の兄弟の投網に仏像がかかり、土地の長の土師中知(はじのなかとも)がこれを観音像と確認、中知が屋敷を寺に改め、出家して深く帰依したのが浅草寺の起こりとされる。寺に隣接する浅草神社には、この三人が神として祭られ、五月には三社祭が催される。(浅草寺縁起)

詳細情報> https://www.asakusajinja.jp/sanjamatsuri/

【彰義隊】  明治元年(1868)5月15日上野の彰義隊を官軍が攻撃・・・

【彰義隊】 明治元年(1868)5月15日上野の彰義隊を官軍が攻撃・・・高ヒット
投稿者sibugakisibugaki さんの画像をもっと!   カテゴリー新着PHOTO    前回更新2024-5-5 22:45    
ヒット数143  コメント数0    
上野、下谷、本郷付近に火災が起こり、焼失1200戸に及ぶ。
彰義隊に同情した江戸っ子の町火消は、彰義隊の側について上野に籠もり、寛永寺や輪王寺宮を守ったという。
とくに新門辰五郎を頭とする10番の「を」組は、上野に籠もって纏を立て、寛永寺に謹慎中の慶喜を警護した。
辰五郎自身は、上野の戦いの前に慶喜公に同行して江戸を離れたが、「を」組の子分たちは、彰義隊と共に上野に籠もった

絵>『本能寺合戦之図』(歌川芳盛画、明治2年)上野戦争を明智光秀が織田信長を襲った本能寺の変の名を借りて描かれた浮世絵。
この頃、上野戦争に関する絵や本の出版が憚られ過去の合戦名を使用した画。
絵は『本能寺合戦之図』(歌川芳盛画、明治2年)上野戦争を明智光秀が織田信長を襲った本能寺の変の名を借りて描かれた浮世絵。
この頃、上野戦争に関する絵や本の出版が憚られ過去の合戦名を使用した画。

関連コラムはこちら>
・江戸十万日「月日の鼠」
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/

"【江戸の出版取締】  町奉行遠山金四郎による幕末天保の「好色本」出版取締令・・・ "

"【江戸の出版取締】  町奉行遠山金四郎による幕末天保の「好色本」出版取締令・・・ "高ヒット
投稿者sibugakisibugaki さんの画像をもっと!   カテゴリー新着PHOTO    前回更新2024-5-5 22:43    
ヒット数126  コメント数0    
幕府は、性描写に関する出版物の製作刊行については、幕末まで大らかに黙認していたのである。出版取締令によって取り締まられた「好色本」とは、色街などを舞台に社会風俗を乱すような淫(みだ)らな小説の謂(いい)であった。

絵>山東京伝(さんとうきょうでん)画『艶本枕言葉(えほんまくらことば)』(天明5年〈1785〉刊)より

関連コラムはこちら>
・江戸言葉 月ごよみ 「春画と春本」
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/

【天明のうちこわし】 5月20日天明7年(1787)市中に米騒動おこり、関東郡代伊奈忠尊に飢民救済を命じる

【天明のうちこわし】 5月20日天明7年(1787)市中に米騒動おこり、関東郡代伊奈忠尊に飢民救済を命じる高ヒット
投稿者sibugakisibugaki さんの画像をもっと!   カテゴリー新着PHOTO    前回更新2024-5-5 22:39    
ヒット数156  コメント数0    
大飢饉の影響(天明2年<1782>以来、全国的飢饉)による米価高騰による米騒動。
大打ち合わせは20日夜の赤坂辺からはじまり、赤坂中の米屋を残らず打ちこわした。
翌21日は芝金杉・高輪・新橋・日本橋・小網町の玄米屋、舂米屋を残らず打ちこわし、
22日から24日まで米屋だけでなく、日用必需品の商家約8000余軒が襲撃された。
発生当初は参加者の間には盗みをしない, 火の用心をし、打ちこわしの対
象(米屋など豪商)の近隣に迷惑をかけないようにする、 という規律があった。

絵>『幕末江戸市中騒動記』 東京国立博物館蔵
慶応2年(1866)江戸でおこった打ちこわしを描いた絵。
米屋を襲い、家屋を破壊、商品を台無しにする場面。

関連コラムはこちら>
江戸十万日「月日の鼠」
http://www.edoshitamachi.com/web/fuyugaki/2021/07/post-5.html

【願人坊主(がんにんぼうず)】 取り締まりを受ける。

【願人坊主(がんにんぼうず)】 取り締まりを受ける。高ヒット
投稿者sibugakisibugaki さんの画像をもっと!   カテゴリー新着PHOTO    前回更新2024-4-7 17:07    
ヒット数189  コメント数0    
4月26日享保14年(1729) 判じ物などで金銭をとる願人坊主が取り締まりを受ける。

願人坊主(がんにんぼうず)は、江戸時代に神仏への代参を生業(なりわい)としながら、日頃は門付芸(かどつけげい)を見せてお施せを求めていた日本の大道芸人。彼らはさまざまな芸を披露し、米や銭を乞うことで生計を立てていました。住吉踊りやかっぽれなどは、願人坊主によって諸国に広まりました。

画像> 絵本御伽品「鏡願人坊主」長谷川光信画 元文4年 (1739)国立国会図書館蔵


関連コラムはこちら>
・江戸の四季を彩る「物売り」
http://www.edoshitamachi.com/web/e/

・江戸から今に伝わる伝統芸能「大道芸」
http://www.edoshitamachi.com/web/daidougei/

【江戸の見世物】 寛永4年(1851)この4月、浅草寺奥山に鯨の見世物

【江戸の見世物】 寛永4年(1851)この4月、浅草寺奥山に鯨の見世物高ヒット
投稿者sibugakisibugaki さんの画像をもっと!   カテゴリー新着PHOTO    前回更新2024-4-7 8:29    
ヒット数221  コメント数0    
日本人は舶来ものが大好きである。江戸時代には、ラクダ、ゾウ、ロバ、ヒョウなど、異国の動物が次々と日本にやってきている。そして珍獣の見世物として庶民に親しまれていた。
文政4年(1821)、長崎に雌雄一組の「らくだ」が輸入され、翌年から大坂・江戸で見世物として評判になった。

画像>
『和合駱駝之世界』(2巻)江南亭唐立作・歌川国安絵 文政8年(1825)国立国会図書館蔵

「和合駱駝之世界」は、江戸時代に浅草奥山と両国河岸で行われた見世物小屋の一つ。この興行は、駱駝をテーマにしたもので、人々にエキゾチックな体験を与えた。

関連コラムはこちら>
・江戸言葉 月ごよみ「らくだの見世物と落語」
  http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/

【新着コラム】花見の季節。うきうきと浮かれる気分になるのは、江戸の頃からもおなじ

【新着コラム】花見の季節。うきうきと浮かれる気分になるのは、江戸の頃からもおなじ高ヒット
投稿者sibugakisibugaki さんの画像をもっと!   カテゴリー新着PHOTO    前回更新2024-3-4 1:04    
ヒット数204  コメント数0    
花見の落語といえば、「花見酒」や「長屋の花見」、「花見の仇討(あだうち)」が頭に浮かぶ人もあろう。番頭さんが花見で、はめを外して旦那にばったり出会う「百年目」や、頭に桜の木が生えてくるナンセンス噺(ばなし)の「あたま山」を思い浮かべた人は、相当な落語通である・・・・・
 
コラムの続きはこちら>
・江戸言葉 月ごよみ『「花見酒」の経済』
  >http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11

・画像>
『江戸名所図会 隅田川堤春景』長谷川雪旦画(一部) 国立国会図書館蔵
隅田川堤の花見の風景。堤いっぱいに広がって子どもたちや女性たちが歩いている。賑やかな声が聞こえてくるようだ。手前の一行の荷物には毛氈や角樽(つのだる)が見え、若い衆が弁当の包みを解いている。

コラムの続きはこちら>
・江戸言葉 月ごよみ『「花見酒」の経済』
  >http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11

【上巳の節句(桃の節句、雛祭り)】 

【上巳の節句(桃の節句、雛祭り)】 高ヒット
投稿者sibugakisibugaki さんの画像をもっと!   カテゴリー新着PHOTO    前回更新2024-3-4 1:02    
ヒット数224  コメント数0    
3月3日は、五節句の1つである上巳(じょうし)の節句で、「桃の節句」とも呼ばれます。中国の水辺での厄払いの風習と、日本の身を清める風習や人形を流す風習が混ざって生まれた祭りです。雛人形はこの人形が源流です。 江戸時代には、京都から江戸に広まり、雛市が立ちました。日本橋十軒店(じっけんだな)が有名で、『江戸名所図会』などに描かれています。江戸後期には、雛人形飾りが豪華になりました。 明治時代には、五節句の廃止で一時期衰退しましたが、明治半ばには復活しました。百貨店でも雛人形が売り出されました。 雛市で人形を買い、家で雛人形を飾る習慣は、今も続いています。

画像>
『江戸名所百人美女_十軒店』歌川豊国(三代)、歌川国久(二代)画 東京都立図書館蔵

内裏雛の前で雛人形の冠を持つ女性、コマ絵(右枠内の絵)には雛人形を売る十軒店の風景があります。十軒店は現在の中央区日本橋室町にあった町で、仮設のお店が10軒並んでいたから名付けられました。  江戸では雛市がいくつかありましたが、十軒店が一番盛況でした。十軒店の人形師・原舟月が作った古今雛は、現代の雛人形の元になりました。江戸時代には豪華な雛人形が禁止されるほど、様々な雛人形が作られました。

関連コラムはこちら>
・江戸の春の楽しみ 『初午」と「桃の節句』
 >http://www.edoshitamachi.com/web/daidougei/

【江戸城無血開城】3月13日慶応4年(1868)勝安房・西郷隆盛、江戸城会場につき会談

【江戸城無血開城】3月13日慶応4年(1868)勝安房・西郷隆盛、江戸城会場につき会談高ヒット
投稿者sibugakisibugaki さんの画像をもっと!   カテゴリー新着PHOTO    前回更新2024-3-4 0:59    
ヒット数191  コメント数0    
いよいよ、江戸城総攻撃が3月15日と決まり、事態は緊迫。その前日に、江戸の薩摩藩邸において、幕府側の勝海舟と新政府側の西郷隆盛の会談が行われ、交渉は無事成立。
こうして1868年4月11日、江戸城無血開城が実現しました。この会議に当って、勝海舟は、交渉決裂を想定し、 徹底抗戦に備え江戸焦土作戦を立てていました・・・・・

・画像>
勝・西郷血開城会見の碑 (東京都港区芝5-33-11 三菱自動車ビルの一角に存在) (細見撮影)


関連コラムはこちら>
 ・水都江戸-東京物語〜第一部武蔵國・江戸物語「No53 東京への改称 」
   >http://www.edoshitamachi.com/web/suitoedo/PDFNo53.pdf

【日本橋】慶長8年(1603)3月3日 初めて日本橋架橋。

【日本橋】慶長8年(1603)3月3日 初めて日本橋架橋。高ヒット
投稿者sibugakisibugaki さんの画像をもっと!   カテゴリー新着PHOTO    前回更新2024-3-4 0:55    
ヒット数220  コメント数0    
関東に入府した家康は、 江戸を拠点とすることとし、江戸城を築きながら、 戦いに備えたインフラを築造します。 水と米と塩です。このため、水を江戸城に引くため神田上水が築造され、 近郊生産地確保のため 亀有にため池が造られ塩を運ぶために小名木川が開削されます。
さらに家康は、江戸を人流・物流の中心にするため、 日本橋を築造して五街道の起点とするとともに、 江戸湊を造成します。


画像>
・『江戸名所図会_日本橋』 国立国会図書館蔵

関連コラムはこちら>
・武蔵國・江戸物語『戦いに備えた江戸の最初のインフラ』
 > http://www.edoshitamachi.com/web/suitoedo/PDFNo30.pdf

【初午(はつうま)】 二月初めの午の日を江戸中至る所で初午祭りを行っていた。

【初午(はつうま)】 二月初めの午の日を江戸中至る所で初午祭りを行っていた。高ヒット
投稿者sibugakisibugaki さんの画像をもっと!   カテゴリー新着PHOTO    前回更新2024-2-10 2:06    
ヒット数236  コメント数0    
「伊勢屋稲荷に犬の糞」 と言われるほど稲荷神社(町内毎の祠も含む)が多かった江戸、
町中至る所で初午祭りを行っていた。

>楊洲周延画(ヨウシュウ, チカノブ)『江戸風俗十二ヶ月之内 二月初午稲荷祭之図(ニガツ ハツウマ イナリサイ ノ ズ)』国立国会図書館所蔵

全国稲荷の総本社たる京都の伏見稲荷の祭神 「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」が降臨したのが二月初めの午の日だったからで 、二月初めの午の日を初午と称するようになった。
稲荷神社の「稲荷」は「稲生り」に由来するとされ、その年の豊作を予祝する意味の祭りといえる。

関連コラムはこちら>
・江戸の春の楽しみ〜「初午」と「桃の節句
http://www.edoshitamachi.com/web/daidougei/




【玉川上水】2月11日承応2年(1653)幕府代官伊奈忠治が玉川上水開削の奉行を命じられる。

【玉川上水】2月11日承応2年(1653)幕府代官伊奈忠治が玉川上水開削の奉行を命じられる。高ヒット
投稿者sibugakisibugaki さんの画像をもっと!   カテゴリー新着PHOTO    前回更新2024-2-10 2:01    
ヒット数253  コメント数0    
>玉川上水開削工事の画像
線香・提灯の灯りを使って夜間に測量をした想像図
(羽村市郷土博物館蔵)

玉川上水は、承応2年(1653)に多摩川の羽村堰〜四谷大木戸まで約43劼魍削し、江戸市中に配水した水道の大動脈である。その配水エリアは隅田川沿岸に達していた。また、開削から161年後の寛政3年(1791)には武蔵野台には33の分水が穿たれ、集落と新田開発に大きく寄与した。分水は、南の多摩川の崖線と北の新河岸川・荒川まで達していた。またその落水は、武蔵野台地を開析する中小の河川の流頭へ流れ込み、沿岸の田畑を潤した。さらに、その浸透水は崖線の湧水を涵養した。この意味で玉川上水と分水網は、まさに江戸・東京の水循環の基軸でもあった。

関連資料はこちら>
玉川上水物語り「水と緑の回廊・玉川上水と分水網」
https://drive.google.com/file/d/1QMUuq73BYg6gb9NQEMySPxe2B-7kYmW-/view?pli=1

1 番〜 20 番を表示 (全 129 枚)(1) 2 3 4 5 6 7 »