江戸言葉 月ごよみ
棚橋正博(たなはしまさひろ)氏プロフィール
1947年秋田県生まれ。 早稲田大学エクステンション(中野校)講師。神奈川大学エクステンション(横浜KUポートスクエア)講師。早稲田大学大学院講師。早稲田大学大学院修了。日本近世文学専攻。文学博士。 黄表紙研究の第一人者で、知られざる江戸の風俗文化を多くの人々に伝えることを使命としている。テレビや講演会などでも活躍中。著書は『式亭三馬』(ぺりかん社)、『十返舎一九』(新典社)、『江戸の道楽』(講談社)、『江戸戯作草紙』『教科書が載せられない名文』『捏造されたヒーロー遠山金四郎』(小学館)など多数 (Web日本語より加筆転載)  

 私たちが何気なく使っていることばの多くが、じつは江戸生まれだってご存じでしたか? 「江戸っ子」なことばたちを、江戸の人たちがどうやって生み出し、どのように育てていったのか、「へえ〜」と思わずいいたくなる知識を、黄表紙や浮世絵の絵などとともにご紹介していきます。 

► CONTENTS
一 月 旧正月と名刺、江戸の大雪、正月の餅、湯屋の正月、七福神詣
二 月 二八(にっぱち)と品川遊郭、「べらぼうめ」と「べらんめえ」、節分と豆男、出替りと契約社員
三 月 雛祭り、隅田川は暴れ川だった、寺子屋入り、江戸の花見、春の夜の夢と千両
四 月 江戸のサラリー事情、藤の花と銭の花、江戸の虫除けと油虫、卯の花と豆腐、デパート商法は
五月 江戸のベストセラーと付録、野暮・通、端午の節句、初鰹、おへそが茶を沸かす
六月 山王祭と喧嘩、梅雨と番傘、6月の花嫁、江戸っ子と傘と日傘、大山詣
七月 七夕、江戸の売り声、江戸の朝顔ブーム、スイカと料理茶屋百川、江戸の花火
八月  年寄の冷や水、江戸の「狆」ブーム、「八朔(はっさく)」とは、冷や水売りと白玉、江戸っ子とそうめん
九月  芋名月、弥次さん北さん、重陽の節句、秋を告げる松虫、初ナスは高級品
十月  にべもない、紅葉狩りと吉原、飲み食べ笑う「えびす講」、戯作者たちの繁忙期
、十一月 江戸の紅葉めぐり、酉の市と熊手、江戸の時計と季節 、酉の市と大火、顔見世興行と千両役者、「七五三」は縁起がいい
十二月  浅草寺の年の市、フグは食いたし命は惜しし、江戸の宝くじ・千両富






 四月





江戸のサラリー事情

  ピッカピッカの一年生が背負う黄色いランドセルが大きく見える時季である。同時に、新しいスーツに身を包んだ新人サラリーマンたちの姿もちらほら見うけられる。もっとも、コロナ禍のご時世なので今年は少し地味である。
  今年の春闘ではベースアップ満額回答の企業もあったのであろうか。新入社員諸君にとっては、初めてもらう「賃金」が気になるところでもあろう。
 
 今回は、江戸時代の賃金の話である。
 まず、「賃金」と書いてなぜ「ちんきん」と読まず「ちんぎん」と読むのか、ご存知であろうかという雑学からの質問。
 答えは、江戸時代の職人たちの報酬が「銀貨」で支払われ、「賃銀」(ちんぎん)と呼ばれていたからである。
 今のサラリーマンは、江戸時代ではさしずめ「奉公人」というところであろうか。サラリー(賃銀)は江戸時代から、「月給」「給与」「給料」「給金」とさまざまな呼び方があった。「給金」は今も相撲界の専門用語のようになっていて、プロスポーツでは、「年俸」という呼び方が一般的であろう。
 江戸時代の武士たちも年棒制度であった。主君から米の石高(こくだか)でいただくことから、「俸禄(ほうろく)」あるいは「俸禄米(まい)」と呼ばれていた。幕府の御家人(ごけにん)や旗本は原則として米支給だった(一部、現金支給もあった)。
 幕臣(幕府の家臣)と陪臣(ばいしん。諸国の大名の家臣)とでは格差があって、陪臣の俸禄は幕臣の1/2程度であった。それだけ昔の首都江戸も物価が高かったということでもある。
 
 さて、江戸時代の町人たち奉公人の賃銀はどのくらいだったのだろうか。
 京都の職人の手間賃については、寛政元年(1789)の皇居造営時前後の突出して高騰した時期を除き、江戸時代を通じて、おおよそ銀1・5匁(もんめ)から3匁のあいだで推移したと、三井呉服店の資料にある。
 江戸も末期に近くなる頃では、仮に1日の手間賃を銀2匁だとすると、休日なしで働いたとして年収は銀700匁ほど、小判に換算すると12両前後となる。江戸末期頃は江戸初期と比べてインフレがかなり進み、1両の価値はずいぶん下落している。コメの値段で現代と比較すると、1両=約10万円に相当するゆえ、銀2匁は約3000円見当となる。とすると、年収は100〜120万円くらいということになる。
 職人の場合は、衣類と住居代は自分持ち(食事は仕事先や親方などが出してくれることが多い)だから、借家住まいだと店賃(たなちん。家賃)が問題である。江戸市中にあるごく狭い九尺二間(くしゃくにけん。間口2・7メートル、奥行き3・6メートル。バス・トイレなしの6畳の部屋にちょっとした台所付き)の借家で月々銀5匁(2日半の賃銀分)といったところで、江戸の家賃は狭いわりにはけっこう高かった。
一月分の家賃が二日半の賃金相当と安いけれど、なかなか「狭いながらも楽しい我が家」とは いかないかも知れない。安いが狭いアパートということになると、なんだか日本へ出稼ぎに来て いる留学生などの住宅事情のような話でもある。

ところで、奉公先の家事をする下女の場合だとどうか。彼女らは、夜中に寝床へちょっかいを出しに来る手代(てだい)たちには御用心だが、相部屋ながらも部屋を与えられ、三度の食事は心配いらない。
  お仕着せという季節ごとの着物の支給もあり、半季1両2分(1年で3両)もらうのは待遇がよいほうであったろう。図版の右に見える年増の下女は、年季奉公のベテラン(今風に言えばお局〈つぼね〉さん)で、夜なべの針仕事をしながら、前に奉公していた家の奥様は気前がよかったと、山出し(田舎者)の新人下女に話を聞かせているところである。
 正月と盆、暮れに、給金のほかに2朱銀ずつくれて、奥様の着たお古をいただくこともあったと述懐している。2朱銀といえば1両の8分の1に相当するし、女の単衣物(ひとえもの)の着物も奥様が着るようなものだと1両はくだるまいから、古着でも願ってもない副収入だったろう。
  江戸の賃銀、とくに女性の賃銀は、現代と比較してみてどうであろうか?そんなに女性差別でもないと思われるが。



年季奉公の下女たち。
右がベテラン、左が新人。行灯(あんどん)の明かりで仕事をしながら、よもやま話をしている。式亭三馬作・歌川豊国画の『早替(はやがわり)胸のからくり』文化7年(1810)刊より。この本は、仕掛絵本の体裁の滑稽本(こっけいぼん)で、口絵に描かれた人物像が、切り取ると着せ替え人形になる工夫で好評、大当りした。

奉公人…雇い人。奉公人が給料取りとなったのは、明治5年(1872)から明治新政府が役人に与える米の官禄を廃し、等級に応じて金銭で月給を支給する月給制度が定着して以来のことである。 







藤の花と銭の花

  江戸時代から、江戸の藤の名所・亀戸天神(かめいどてんじん)では、毎年4月下旬から5月上旬ごろまで藤祭りがおこなわれ、歌川広重(ひろしげ)の絵に描かれたような見事な藤を今も見ることができる。例年、遅咲きの棚では5月中旬まで見られるが、今年は暑い年になりそうで早く終わってしまいそうだ。
  江戸の人びとは、桜が散り終わると藤の花に興じた。歌舞伎通の方なら、真っ暗な舞台が一転して明るくなり、大津絵から抜け出したように塗笠をかぶり島田に藤の簪(かんざし)、藤の花模様の着物に藤の枝を片手にかついだ華やかな「藤娘」が躍る姿を思い浮かべるかもしれない。
  また、「草臥(くたびれ)て宿かる頃や藤の花」という芭蕉の『笈(おい)の小文(こぶみ)』や『徒然草』の「山吹の清げに、藤のおぼつかなきさましたる(夕暮れのようにぼんやりとした様子)、思ひ捨てがたき事多し」(19段)の一文を思い出す方もあるだろう。藤は、何とも詩情あふれる風雅な花である。
 
 藤の花の季節になると、江戸の人びとは夏の陽気を迎えたと、ほっとした。それというのも、寒暖の定まらない季節はまだ暖房の季節でもあり、火事早い江戸では火の元の不用心な時節の火事が怖かったからである。
 例えば、江戸の街並みが初めて大火災に遭(あ)ったのは、幕府開闢(かいびゃく)半世紀を迎えた明暦3年(1657)1月18日(新暦2月21日)の明暦の大火(振袖火事)だった。だが、10万人を超す死者となったとされる大火災を契機に火除地(ひよけち)をもうけ、防災と都市計画の練り直しをする奇貨とすることができた。
 ちょっと江戸の廓(くるわ)遊びに興味がある人なら、元吉原が全焼し千束村(現台東区千束) へ移転することになった大火だな、とウンチクを傾けるかも知れない。
その後の明和9年(1772)2月29日(新暦4月1日)の目黒行人坂(ぎょうにんざか)火事、文化3年(1806)3月4日(新暦4月23日)の牛町火事(丙寅〈へいいん〉の大火)など、火を扱う極寒の時節は用心したから、それより寒さの和(やわ)らぎだす春の季節にかえって大火は多かった。
 
 ところで、江戸時代、藤の花の名所だった亀戸天神のすぐ隣に、銭を鋳造する広大な敷地の「銭座(ぜにざ)」があったのをご存じだろうか。
  亀戸天神は、寛文3年(1663)、太宰府天満宮を模して亀戸村に遷座、神殿や心字池などが造営された。それから30年ほど後の元禄8年(1695)8月に元禄の貨幣改鋳が行われ、翌々年の元禄10年、亀戸村の検地と同時に1万5000坪余の土地に銭を鋳造する銭座がこの地に造られた。銭座ができた場所(今の江東区亀戸2、3丁目)は亀戸天神と隣接することから、「天神町」とも俗称されていた。
 
 銅銭の一文銭が本格的に鋳造されたのは、寛永13年(1636)のことである。これより幕末までに造られた銅銭はすべて「寛永通宝(かんえいつうほう)」の文字が打ち出されていて「寛永通宝」と呼ばれていた。この銭座が本格的に稼働し、「寛永通宝」を大量に鋳造すると、それまで銭不足で高騰していた銭の相場が、幕府のガイドラインに近い相場に修正された。
  銭座は一度廃業し、明和2年(1765)に再開したが、その頃にはすでに亀戸天神は藤の名所となっていた。亀戸村には、風雅な「藤の花」と通俗な貨幣である寛永通宝の「銭の花」が咲き誇っていたのである。7年後、再び銭座は廃止され、跡地は参拝と藤見客相手の料理茶屋が建ち並び町家となった。
  現在の亀戸天神は藤祭りのほかに、「鷽替(うそか)え神事」が正月に行われ、また受験シーズンになると湯島天神と並んで合格祈願でにぎわっている。今年はコロナ禍もあって例年に較べると合格祈願は少なかったということだが、さて皆さんはどうでしたか。



亀戸天神の藤見の風景。
太鼓橋の手前には、子どもを連れた母親と武家の一行が歩いている。向こうの藤棚の下には連歌の興行が行われた「連歌堂」が見える。『絵本物見岡』天明5年(1785)刊より。


歌川広重…安藤広重。1797〜1858。江戸後期の浮世絵師。江戸の人。代表作は「東海道五十三次」。「名所江戸百景」の「亀戸天神境内」には、満開の藤の花の向こうに太鼓橋が描かれている。

大津絵…江戸時代、近江国(おうみのくに。滋賀県)大津の追分、三井寺あたりで売り出された大衆的な絵画。旅人の土産としても用いられた。代表的な画題は、鬼の念仏・藤娘・瓢箪鯰(ひょうたんなまず)・座頭と犬など。

太宰府天満宮…福岡県太宰府市太宰府にある神社。元官幣中社。祭神は菅原道真。延喜3年(903)没した道真を葬り、その後、勅命で殿舎を造営したのにはじまる。学芸の神様として信仰される天満宮の総本社

鷽替え神事…太宰府天満宮、亀戸天神などで、参詣人が木製の鷽を取り換え、神主から別のものを受ける神事。昨年の凶をうそにして今年の吉に変える意味があるという。太宰府は正月7日、亀戸は正月25日に行う。









江戸の虫除けと油虫

 4月8日はお釈迦様の誕生日の灌仏会(かんぶつえ)、仏生会(ぶつしょうえ)、花祭りといって、江戸では釈迦像にかけた甘茶をもらった参拝者が、その甘茶を飲んで祝った日である。
江戸の人びとは、台所や便所などに、「千早振(ちはやふ)る卯月八日(うづきようか)は吉日(きちにち)よ、かみ下虫(さげむし)を成敗ぞする」と書いた紙を逆さにして貼り、ゴキブリやウジ虫などの虫除(むしよ)けの呪(まじな)いとしていた。
 
  山東京伝(さんとうきょうでん)の黄表紙(きびょうし)『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』(天明5年〈1785〉刊)では(図版)、便所の隣の最下級の部屋で寝そべっている艶二郎(えんじろう)は色男気分になっている。間夫(まぶ)の色男が馴染みの遊女とこっそり密会する部屋である。ここは吉原の大見世(おおみせ。高級遊女屋)である扇屋の二階の様子であるとされ、便所の様子が詳しく描かれている。食器が無造作に置かれた横に下駄があって、客はこれを履いて用を足す。板囲いの下方に札が貼ってあるが、これが「ちはやふる」の歌を書いて逆さに貼ったものである。
 この歌が、どうして虫除けの呪い歌として詠まれたのか、今ひとつ理由は不明だが、旧暦の4月8日頃には暖かくなって花の季節となり、ゴキブリなどが這(は)い回るので御用心、ということで詠(よ)み込まれたのかもしれない。
 
 ゴキブリと聞くだけで悲鳴をあげる女性もいる。これほど嫌われた虫もいない。その姿がちょっと不気味で、台所とか便所などの湿気のおおい所を徘徊することから、とくに女性に嫌われているようだ。
 もともとは熱帯に棲息(せいそく)していた昆虫で、本州以南にしかいないとされたが、最近では飛行機などの交通手段の発達で北海道でも見られるという。熱帯性の昆虫なので江戸時代は春頃から動きだしていたものが、家屋の暖房が行き届いてきたせいでもあろう、近年は年中、この虫に悩まされるようになった。
 ところで、江戸時代は、「ゴキブリ」という名で呼ばずに「油虫(あぶらむし)」と呼んでいた。
 井原西鶴(いはらさいかく)の浮世草子(うきよぞうし)『懐硯(ふところすずり)』(元禄7年〈1694〉刊)には、「麹屋(こうじや)から蝉の大きさしたる油虫どもわたり来て、五器箱(ごきばこ)をかぶり」とある。五器は御器、つまり食器のことで、五器箱はそれを入れた箱である。また、『和漢三才図会(わかんさんさいずえ)』の「蜚蠊(あふらむし)」にも、「俗云油虫/大キサ五六分…色ヤ油ノ如シ。故ニ油虫ト名ヅク…蠅ト同ジク憎ムベキ者也/五器囓(ゴキカフリ)」とあって、「油虫」は江戸時代から嫌われものだったようである。
 
 諸国の方言を集めた『物類呼称(ぶつるいこしょう)』(安永4年〈1775〉刊)にも、「あぶらむし ○伊勢にて、ごきくらひむし…肥州(ひしゅう)にて、ごきかぶらう」とある。明治になって、「御器かぶり」→「ゴキブリ」と誤って書かれて学術名になったとの説もあり、明治維新で肥州(佐賀や熊本地方)の方言が標準語になったとの説もある。
 
 ところで江戸時代には、「油虫」というと、もうひとつの意味があった。
歌舞伎芝居などで、無料の見物客のことも「油虫」と言った。「油虫故(ゆえ)、舞台の後ろにて見物する」と山東京伝作『無匂線香(においんせんこう)』(天明5年〈1785〉刊)にある。おそらく劇場の隅っこで、ただ見客はコソコソと油虫のように動くことから名付けられたもので、嫌な奴を罵倒(ばとう)する言葉にもなってゆく。





▲『江戸生艶気樺焼』(天明5年〈1785〉刊)より

山東京伝…1761〜1816。江戸後期の戯作者(げさくしゃ)・浮世絵師。黄表紙・洒落本(しゃれぼん)の第一人者。『江戸生艶気樺焼』は、京伝黄表紙の代表作。醜男(ぶおとこ)なのにうぬぼれ屋の仇気屋艶二郎(あだきやえんじろう)が、色男の浮名を流したいため、さまざまな芝居を打つが、すべて失敗する話。



井原西鶴…642〜93。江戸前期の浮世草子作者・俳人。大坂の人。写実的な庶民文学である浮世草子の代表的作者であり、『好色一代男』『好色五人女』など多くの名作を残した。『懐硯』は、行脚僧(あんんぎゃそう)による回顧談形式の諸国怪奇物語。

『和漢三才図会』…江戸時代中期の図入百科事典。全105巻。寺島良庵著。正徳2年(1712)自序。明(みん)の『三才図会』にならい、和漢古今の万物を天・地・人三才に分けて、絵図を付して漢文で解説したもの。








卯の花と豆腐

  「卯(う)の花をかざしに関の晴着かな」。芭蕉に随行して奧の細道に旅出った門弟の河合曾良(かわいそら)が、元禄2年(1689)4月20日、奥州への玄関口である白河の関址(せきし)を越えるときの挨拶句である。
 「卯の花」は、空木(うつぎ)の花のことで、初夏に白い花が咲き乱れる。江戸時代まで、俳諧では初夏4月の季語とされていたが、明治5年11月に新暦(太陽暦。グレゴリオ暦)が公布されてから5月の季語となった。
 
江戸では、4月8日のお釈迦様の誕生祝いの日である「灌仏会(かんぶつえ)」には、家ごとにお釈迦様の花とされる卯の花を棹(さお)の先に付けて高く掲げる風習があった。寺院の境内では(図版参照) 、今でも見られる光景である。
 
さて、「卯の花」といえば、豆腐の「おから」の別名でもある。雅味がある名前で面白い。「おから」はまた、「雪花菜(きらず)」とも書く。豆腐を作ったあとの絞りカスは、細かくて切る必要がないところから「切らず」と呼ばれ、それはまるで卯の花か、雪のように白いということで、「雪花菜」の漢字を宛てたとされる語源説に従ってよかろう。
 どの世界でも忌(い)み言葉というものがあって、結婚式では、「終わる・切る・去る・出る・別れる」が禁句、閉会を告げる司会者が出口を「お開き口」と言い、苦笑させられることがある。豆腐のおからは、「から(空)」に通じて忌み嫌うから、空っぽの反対に得られることと変えて「得(う)る」、そして、色合いが白いことから「卯の花」と言うようになったという。烏賊(いか)のスルメのことを、バクチなどで使い果たす意の「スル」を嫌い「当たりめ」、スリッパのことを無理して「アタリッパ」と言うのと似ている。

ところで、江戸時代の豆腐は今より大きかったと、江戸の料理専門家などが言うので通説となっているが、実際はどうだったのであろうか。現在でも地方によっては、豆腐屋へ直接買いに行くと、スーパーマーケットの棚に並ぶバック入りの豆腐より大ぶりなものが売られている。江戸の料理専門家の言う大きさ云々は、どの豆腐を基準にしているのかは曖昧で、表現が不親切である。
 
じつは江戸の豆腐は、宝永3年(1706)に値段が高騰し、それ以後、なかなか値段が下がらなかった。それは大豆の不作がずっと続いたからである。幕末の天保15年(1844)には、高い豆腐の値段に手を焼いた幕府は豆腐のサイズを縦7寸(約21僉法横6寸、厚さ2寸の木製の型箱で作るように規定した。それを9つに分割して売り、油揚は豆腐1丁を12等分して作られていた。豆腐屋の店先で豆腐庖丁でいくつかに切ってもらったという体験は、年配の方ならあるだろう。大家族の家では1丁のまま、少人数の家では半丁か4半分に小売りしてもらう。豆腐が大きかったのではなく、家族構成に応じ小売りする合理的な商売だったのである。
 
ちなみに、寛政3年(1791)には、豆腐1丁38文、油揚4文、半世紀後の幕末天保13年(1842)には、サイズは変わらず、豆腐1丁52文、油揚5文に高騰していた。
  幕末まで生きた俳人小林一茶の句に、「卯の花の垣(かき)に名代(なだい)の草鞋(わらじ)哉(かな)」がある。名代は名高いの意味、卯の花が咲き誇る垣根に丈夫だと評判の草鞋が何足かぶら下がっていて、お代は竹筒に入れて下さいというわけである。今日でも路傍で自家製の野菜などが売られている光景と同じであった。旅の田園風景のなかに、のどかで純朴な信用商売を見て一茶は詠(よ)んだのである。






▲芝・増上寺(ぞうじょうじ)の灌仏会。大勢の参拝客でにぎわっている。右中央にあるのが花御堂。釈迦像が安置され、像に甘茶をかけているところ。子どもを連れた男性、外出用の揚帽子(あげぼうし)をかぶった女性、日傘をさした一行もいる。(『絵本吾妻抉〈えほんあずまからげ〉寛政9年〈1797〉刊より』


河合曾良…1649〜1710。江戸時代前期の俳人。信濃の国の人。芭蕉に師事。「鹿島紀行」「奥の細道」の旅に随行して師を助けた。主著「曾良日記」。

小林一茶…1763〜1827。江戸後期の俳人。信濃柏原の人。14歳の時に江戸に出る。俳諧を二六庵竹阿(にろくあんちくあ)に学び、全国俳諧行脚(あんぎゃ)の生活を送ったのちに、晩年は故郷に帰り俳諧の宗匠となるが、妻子を亡くすなど不幸であった。日常生活を平明に表現した多くの句を残す。主著に「おらが春」「父の終焉日記」など。








デパート商法は、江戸時代からはじまった?

 4月になると、新入社員の真新しいユニフォームがまぶしい季節となるが、今年は新型コロナウイルスでどうなることか。
 社員のユニフォームといえば、駅員や銀行員などとならんで、デパートの女性店員が思い浮かぶ。そのデパートも閉店が相つぐご時世となった。
  デパートといえば、昔の楽しみは食堂であった。以前、江戸っ子を自認する人に、親に三越デパートへ連れて行ってもらうと、食堂で御子様ランチを食べるのが楽しみだったと言われたことがある。戦後の地方生まれの私も、デパートの食堂へ行くのは嬉しかったと答えると、「戦前の東京のデパートの話ですよ」と、自慢げに懐かしそうに言い返された。
 この「デパートに食堂」というのは、江戸時代の呉服店からはじまったことである。
江戸の川柳に、次のようなものがある。


 盗人(ぬすっと)にあつて三井の飯を喰ひ
      (『誹風柳多留』10編、安永4年〈1775〉刊)
 
  三井とは三井呉服店(越後屋=三越伊勢丹デパート)のこと。泥棒に入られて着物をごっそり盗まれてしまい、仕方なく三井呉服店へ着物を誂(あつら)えに行くと、おなじみのお得意様だったので、昼食の接待を受けることになったという句意である。
 大店(おおだな)の呉服店に食堂があったのは、明治になってデパート商法が普及してからではなく、江戸の昔からあったことなのである。御子様ランチまではなかったろうが。
戯作者(げさくしゃ)の曲亭馬琴(きょくていばきん)も潤筆料(原稿料)などで稼いでいたせいか、呉服屋の上得意であったようで、『曲亭馬琴日記』には、妻と孫を連れて大丸呉服店へ買い物に行ったと見える。


お百・太郎同道にて大伝馬町大丸へ、おさち宮参(みやまいり)衣服、其外(そのほか)とも買物罷越(かいものまかりこし)、大丸にて昼飯食べ

                (天保4年〈1833〉11月8日)

  大丸呉服店(大丸松坂屋デパート)でも、なじみの顧客には昼食をサービスしていた。
  とくに大丸呉服店の場合、荷商いも盛んで、顧客の要望があれば店員が荷を担いで客宅へ伺い営業した(図版参照)。上顧客の家に最新流行の反物(たんもの)を持参して顧客の購買意欲を高めていたのである。今で言えば、デパートの外商部といったところであろう。現代のデパート商法は、海外から来た新しい商法ではなく、何のことはない、江戸時代からの呉服屋商法として存在していたのである。
 
呉服屋の店頭では、流行の反物が引き立つように店員たちが地味な着物を着ていたのは、客の注目を集める現代のデパートガールのユニフォームとは趣が違うが、ひとつの商法である。顧客の家を回る店員の場合は違って、流行の反物を上手に着込み、客の目を引く商売をしていたのである。






一夜で三百両使ってもよいと言われた女房が、日頃着てみたいと思っていた着物をこしらえようと、呉服屋(大丸)を呼び出して、あれこれ反物を見ているところ。
山東京伝(さんとうきょうでん)作の黄表紙(きびょうし)『江戸春一夜千両(えどのはるいちやせんりょう)』(天明6年〈1786〉刊)より。

曲亭馬琴…1767〜1848。江戸後期の戯作者。代表作に、長編の読本(よみほん)『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』『南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)』など。



*参考書籍
『絵でよむ江戸のくらし風俗大事典』  棚橋 正博 (編集), 村田 裕司 (編集)
単行本: 589ページ 出版社: 柏書房 (2004/09)
江戸がもっとも輝いていた時代、「江戸っ子」が生まれた今から200年前、西暦1800年の江戸市中。同時代の黄表紙、絵本の挿し絵3000点を収録。想像や憶測、思い込みを廃した、江戸庶民生活を読み解く事典。
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd5/





前のページ
江戸ことば月ごよみ 3月
コンテンツのトップ 次のページ
江戸ことば月ごよみ 5月
地名から読み解く江戸・東京
水から読み解く江戸・東京
本から読み解く江戸・東京
人から読み解く江戸・東京
味から読み解く江戸・東京
祭(歳)事から読み解く江戸東京
会員ページ ログイン
ユーザ名:

パスワード:


パスワード紛失
新規登録
twitter江戸東京下町文化研究会

江戸東京博物館

錦絵で楽しむ江戸の名所

すみだ北斎美術館寄付キャンペーンサイト