第七回「偉大ではないが、しぶとく消極的であることがもつ価値」

書名「江戸=東京の下町から 生きられた記憶への旅」(岩波書店)
著者 川田順造
 著者の川田順造は東京の下町・江東区の高橋で生まれ育ち、パリ大学でレヴィ・ストロース*1)に師事した文化人類学者である。
 実家が江戸時代から続く商人である著者は、幼少の思い出の中にある江戸の町人文化の面影を手がかりにして、江戸=東京下町の文化を見直し、そこに明治維新で分断されなかった、ひとつの連続した「市民社会」のモデルを見いだそうと試みている。そのアプローチは多岐にわたり、「深川女」「都鳥」「梅若伝説」「芭蕉」「川と橋」「恩師レヴィ・ストロースの日本観」など、興味深くておもしろい話の連続で、全てを紹介したい誘惑にかられてしまう。
ここでは特に印象深かった「町火消」にまつわる話題にしぼって紹介したい。
 ご存じのように江戸は火事の多い都市だった。
三度の大火*2)以外にも、毎年のように火事に見舞われ、長屋の密集した下町では、焼かれては建て直すことを数年ごとに繰り返していた。中でも明暦の大火(1657年 *3)では、江戸城は天守閣ごと焼け落ち、ほとんどの大名屋敷は倒壊したという。

 この大火の翌年に幕府は、従来からの「大名火消」(6万石以上の大名16家が、1万石につき30名の人足を出した火消)に加えて、旗本による「定火消(じょうびけし)」の制度を設けた。さらに、江戸城や重要な社寺、橋、蔵などの消防を大名に分担させたり(所々火消)、出火後の飛び火を防ぐ「方角火消」、大名が近隣の消火のために出勤する「各自火消」など、消防組織を強化した。余談だが、浮世絵師になる前の安藤(歌川)広重は、八重洲町(現在の八重洲)の旗本定火消同心だったという。

 しかしながらこれらすべての消防組織を動員しても頻発する火事にはとうてい対処できなかった。そこで享保年間に、町奉行大岡忠相*4)によって、町方の店火消(たなびけし)、すなわち、いろは48組に本所・深川16組を加えた町火消64組が組織された。
 これらの町火消は、土木工事人足である鳶(とび)の者を中心に、大工、左官などの職人によって組織された。火事場では職人も武士と対等であり、威勢のよさや、梯子や鳶口*5)を使う仕事の馴れで、町火消が大名火消や定火消をしのぐ活躍をすることが多かったという。

 当時の消火方法は、隣接する家を壊して類燃をくいとめる、いわゆる"破壊消防"であった。木製の手押しポンプの龍吐水(りゅうどすい)(*6)はあったが、消火能力も貧弱であまり普及しなかったらしい。消火活動は命がけで、とりわけ屋根上で燃えさかる炎に勇敢に立ち向かう纏持ち(まといもち)は、江戸町民にとってヒーローであった。
 纏持ちは、市川団十郎*7)、魚河岸の若い衆とともに、「江戸の三男」ともてはやされた。江戸っ子の代名詞である「いなせ」、「いきおい」、「いさみ」の体現者として、町火消しは憧れの的であった。
 荒くれ男の集団であった町火消衆の間では、功名争いによる喧嘩も絶えなかった。 当時、消火に成功した火消組は、鎮火したあとに所属する組の名前が書かれた「消し札」を立てた。消火活動は共同で行ったので、どこの組がこの消し札を立てるかという、いわゆる「消し口争い」で町火消同士の喧嘩が絶えなかったのである。喧嘩の相手は同じ町火消とは限らず、大名火消や相撲取り*8)との喧嘩もあり、死傷者が出ることもあった。
 ただし、江戸町民は町火消の喧嘩を楽しんだ。町火消の喧嘩は、黄表紙や講釈、あるいは芝居にも取り入れられて人気を呼んだという。

 「火事と喧嘩は江戸の華」といわれるが、その火事と喧嘩の両方にかかわっていたのが町火消であった。町火消たちの威勢の良さや武士を圧倒する活躍に、江戸町人たちは拍手喝采したのである。
しかしながら、(著者が言うように)"消防夫"に人気役者が扮して何代にもわたって当たりをとるなどというのは、やはり異常なことに違いない。その異常が当たり前のように成立するところに江戸町人世界の不思議さと面白さがあると著者は言う。
 町火消が歴史の変動期で果たした役割を、彰義隊*9)による上野の戦いに見ることができる。
このとき町火消は、彰義隊の側について上野に籠もり、寛永寺*10)や輪王寺宮*11)を守ったという。
 とくに新門辰五郎*12)を頭とする10番の「を」組は、上野に籠もって纏を立て、寛永寺に謹慎中の慶喜を警護した。辰五郎自身は、上野の戦いの前に慶喜に同行して江戸を離れたが、「を」組の子分たちは、彰義隊と共に上野に籠もった。戦後、明治新政府は町火消制度を、江戸奉行所に代わる警視庁管轄下の市部消防組として存続させたが、「を」組は廃止させられたという。
 彰義隊に同情したのは町火消だけではなかった。
266体の彰義隊戦死者の遺骸が雨の中(梅雨の時期だった)に放置され、腐るに任されているのを見兼ねた下谷・円通寺*13)の23世・佛磨大和尚は、斬首覚悟で遺体を回収し供養した。また、上野には西郷隆盛像の背後に二つの墓石からなる彰義隊の墓が密かに作られた。小さい方の墓石は、明治2年(1869)、大きい墓石は明治14年(1881)に造立されている。そこには明治政府にはばかって彰義隊の文字はなく、山岡鉄舟*14)による「戦死之墓」とだけ刻まれている。
 江戸町民は火事場で武士を圧倒する町火消に拍手喝采した。その一方、上野の戦いでは彰義隊とともに江戸と徳川家の菩提寺寛永寺を守った町火消を支持し、自らも落ちのびた彰義隊員をかくまうなどして助けた。この心情の違いはいったいどこから来るのか。上野の戦いでは、侍と町人の対立を越えて、将軍慶喜をも含めた江戸への愛着が勝ったとみるべきなのであろうか。しかしながら、このとき、江戸町民の行動は決して組織的ではなく計画性もなかった。心情的な共感はあったが積極的に組織的行動を起こすことはなかったのである。
 江戸町人は、生きる権利を守るために、消極的だがしぶとかったと著者は言う。その「消極的でもしぶとく生き抜く覚悟」は、徳川治世下の江戸生活においても、維新の動乱期にも、軍国主義下でも、そして現代においても変わっていないのではないか、それはひとつの価値として認めてよいのではないか。著者は言う。
 「どちらから見ても雄偉ではないもの、偉大ではないが、しぶとく消極的であることがもつ価値を、歴史研究、人文研究においても、認めるべきではないだろうか。」
 はっきりと意思を表明し、計画的かつ組織的に行動して目的を達成するのではなく、心情的に共感して消極的な支援はするが組織的な行動には出ない、ただし、しぶとく生き抜く覚悟はある。面々と受け継がれてきたこの江戸町人の特徴は、戦争や災害を生き抜いてきた江戸=東京下町人が見いだしたひとつの価値であり、同時に生きていく知恵であった。

 江戸=東京下町人はこの価値をこれからも守り、継承していくに違いない。
*1)クロード・レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss、1908年11月28日 - 2009年10月30日)は、フランスの社会人類学者、民族学者。ベルギーのブリュッセルで生まれ、フランスのパリで育った。アカデミー・フランセーズ会員。専門分野である人類学、神話学における評価もさることながら、一般的な意味における構造主義の祖とされ、現代思想としての構造主義を担った中心人物のひとり。代表作に「悲しき熱帯」(中央公論新社、のち中公クラシックス、1955年)、「野生の思考」(みすず書房、1962年)など。

*2 )明暦の大火(明暦3年)、明和の大火(明和9年)、文化の大火(文化3年)

*3)振袖火事とも言う。死者は最大で10万7000人と推計される。山の手3箇所から出火し、両日とも北西風により延焼。江戸の大半が被災し江戸城天守も焼失した。江戸時代最大の被害を出した大火であり、江戸の都市計画や消防制度に大きな影響を与えた。(Wikipedia)

*4)大岡忠相(1677~1751)。江戸時代中期の江戸町奉行として有名。山田奉行時代,紀伊領と関係のあった問題を紀州藩に気がねせずに解決して,徳川吉宗に認められ,後年,吉宗が将軍に就任したとき江戸町奉行に抜擢されたといわれる。忠相は江戸南町奉行の職にあって越前守と称せられ,その事績と活躍ぶりは「大岡政談」となって世に親しまれている。(ブリタニカ国際百科事典より抜粋)

*5)鳶口(とびぐち)とはトビの嘴(くちばし)のような形状の鉄製の穂先を長い柄の先に取り付けた道具。丸太や原木など木材の移動・運搬・積み上げや、木造の建築物の解体や移動(曳き屋)に使用される。古くは鳶職を中心に組織された町火消の消防作業に使われた。このため鳶職という名が冠されたともいわれる。(Wikipedia)

*6)消火に用いる手押しポンプ。水のはいった大きな箱の上に押し上げポンプを取りつけ、横木を動かして中の水をふき出させる装置のもの。(精選版日本国語大辞典)

*7)市川 團十郞(いちかわ だんじゅうろう、新字体:団十郎)は歌舞伎役者の名跡。屋号は成田屋。市川團十郎家は歌舞伎の市川流の家元であり、歌舞伎の市川一門の宗家でもある。その長い歴史と数々の事績から、市川團十郎は歌舞伎役者の名跡のなかでも最も権威のある名とみなされている。(Wikipediaより抜粋)

*8)文化二年二月(1805年3月)に起きた町火消し「め組」の鳶職と江戸相撲の力士たちの乱闘事件。講談や芝居の題材にされた。(Wikipediaより抜粋)

*9 )幕末期の慶応4年(1868)、江戸幕府の征夷大将軍であった徳川慶喜の警護などを目的として渋沢成一郎や天野八郎らによって結成された部隊。江戸幕府より江戸市中取締の任を受け江戸の治安維持を行ったが、戊辰戦争の一環である上野戦争で明治新政府軍に敗れて解散した。(Wikipediaより抜粋)

*10)東京都台東区上野桜木一丁目にある天台宗関東総本山の寺院。山号は東叡山(とうえいざん)。東叡山寛永寺円頓院と号する。開基(創立者)は徳川家光、開山(初代住職)は天海、本尊は薬師如来である。徳川将軍家の祈祷所・菩提寺であり、徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠る。17世紀半ばからは皇族が歴代住職を務め、日光山、比叡山をも管轄する天台宗の本山として近世には強大な権勢を誇ったが、慶応4年(1868年)の上野戦争で主要伽藍を焼失した。(Wikipediaより抜粋)

*11)北白川宮能久親王(きたしらかわのみや よしひさ しんのう、1847年4月1日〈弘化4年2月16日 〉- 1895年〈明治28年〉10月28日)は、日本の皇族。陸軍軍人。幼名は満宮(みつのみや)。最後の輪王寺宮(りんのうじのみや)として知られる。孝明天皇の義弟、明治天皇の義理の叔父に当たる。
彰義隊が寛永寺に立て篭もった後の5月4日には熾仁親王が江戸城に招いているが、この使いには病であると称して会わなかった。5月15日に上野戦争が発生したが、彰義隊の敗北により寛永寺を脱出、25日に羽田沖に停泊していた榎本武揚率いる幕府海軍の手引きで長鯨丸へ乗り込み東北に逃避、平潟に到着した。東北では輪王寺宮執当覚王院義観ら側近とともに会津、米沢を経て仙台藩に身を寄せ、7月12日に白石城へ入り奥羽越列藩同盟の盟主に擁立された。(Wikipediaより抜粋)

*12)新門辰五郎の義父町田仁右衛門は、輪王寺宮の衛士で浅草十番組の頭領だったが、かつて輪王寺が浅草寺の別院伝法院に隠棲した時、新設した通用門を辰五郎が守ったため、「新門辰五郎」と呼ばれるようになった。辰五郎の娘お芳は、慶喜の愛妾だった(本書より抜粋)

*13)坂上田村麻呂が開創、源義家が再興したとされる、歴史的にも古い寺院である。特に、源義家が奥州の戦役からの帰途に賊の首を埋めて、この地に塚を築いたことから"小塚原"の地名が起こったともされている。また時代がくだって江戸時代には「下谷の三寺」としてもつとに有名であった。現在、円通寺の境内の一角には、旧幕府軍の幹部によって建てられた碑が並ぶ。そして彰義隊供養を助けた三河屋幸三郎(寛永寺の御用商人)が、戊辰戦争で命を落とした旧幕府軍を弔うために密かに建てた「死節之墓」も境内にある。新政府にたてついた賊軍の戦死者を供養することが憚られた時代(遺体の埋葬を禁ずるというお触れを官軍が出したとも言われるほどのタブーであった)、円通寺だけは埋葬供養の許可を得た唯一の寺院ということで、大っぴらに供養ができるとの理由から参詣する者も多かったといわれる。さらに明治40年(1907)には、上野戦争の最大の激戦地にあった黒門も円通寺に移設された。(日本伝承大鑑より抜粋)

*14)天保7年6月10日(1836年7月23日)- 明治21年(1888年)7月19日)は、幕末から明治時代の幕臣、政治家、思想家。剣・禅・書の達人としても知られる。(Wikipediaより抜粋)
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竜吐水(りゅうどすい)
竜吐水(りゅうどすい)は江戸時代から明治時代にかけて用いられた消火道具(火消しの道具)。名称は、竜が水を吐く様に見えたことからとされる。 自身番屋に常備された。木製であり、外観形式としては箱型であり、駕籠にも似た江戸時代の消火器。


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歌川広重の火事絵「江戸乃華」 国立国会図書館蔵
「町火消が火事に出場する様子を画いたもので,いろは組の内"を組"というのは,浅草,下谷を受持区域とする十番組に所属する組で,289人からなり,浅草,阿部川町,浅富町,六軒町,大工屋敷,辻番屋敷,下谷小島町を受持区域としていた。"を組"の火消たちが竜吐水,青竹の梯子などを持出し,わらぢの紐をしめ,揃いの組名を染めぬいた火事装束の仕度をし,いざ出場という姿を画いたもので,この絵を題材にしたのも定火消同心の広重ならではの作品である」
*解説は日本消防写真史編集委員会発行「江戸乃華」より
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歌川芳盛 『本能寺合戦之図』野田市立図書館所蔵
上野戦争を明智光秀が織田信長を襲撃した本能寺合戦に見立て描いた錦絵。( *上野戦争とは慶応4年(1868)5月、現在の東京・上野公園を戦場に、薩長中心の東征軍と旧幕府の彰義隊との戦い)
本能寺を攻める洋装の東征軍を"天下の大罪人明智光秀にして、徳川幕府に謀反する悪だと描いた。歌川芳盛がこの作品を描いたのは、上野戦争翌年の明治2年(1869)。旧幕府側として戦い、敗れた彰義隊士たちを弔うことすらできなかった頃で、薩長の手前、この戦争をストレートに描くことはできなかった。

このブログ記事について

このページは、江戸東京下町文化研究会が2019年12月 5日 00:00に書いたブログ記事です。

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