江戸言葉 月ごよみ
棚橋正博(たなはしまさひろ)氏プロフィール
1947年秋田県生まれ。 早稲田大学エクステンション(中野校)講師。神奈川大学エクステンション(横浜KUポートスクエア)講師。早稲田大学大学院講師。早稲田大学大学院修了。日本近世文学専攻。文学博士。 黄表紙研究の第一人者で、知られざる江戸の風俗文化を多くの人々に伝えることを使命としている。テレビや講演会などでも活躍中。著書は『式亭三馬』(ぺりかん社)、『十返舎一九』(新典社)、『江戸の道楽』(講談社)、『江戸戯作草紙』『教科書が載せられない名文』『捏造されたヒーロー遠山金四郎』(小学館)など多数 (Web日本語より加筆転載)  

 私たちが何気なく使っていることばの多くが、じつは江戸生まれだってご存じでしたか? 「江戸っ子」なことばたちを、江戸の人たちがどうやって生み出し、どのように育てていったのか、「へえ〜」と思わずいいたくなる知識を、黄表紙や浮世絵の絵などとともにご紹介していきます。 

► CONTENTS
一 月 江戸の流行語大賞、吉原の正月、旧正月と名刺、江戸の大雪、正月の餅、湯屋の正月、七福神詣
二 月 命の洗濯、初午は乗ってくる仕合せ、二八(にっぱち)と品川遊郭、「べらぼうめ」と「べらんめえ」、節分と豆男、出替りと契約社員
三 月 潮干狩り、遊女のアリンス言葉 ,雛祭り、隅田川は暴れ川だった、寺子屋入り、江戸の花見、春の夜の夢と千両
四 月 菜の花と吉原、江戸のサラリー事情、藤の花と銭の花、江戸の虫除けと油虫、卯の花と豆腐、デパート商法は
五月 遅まき唐辛子、江戸のベストセラーと付録、野暮・通、端午の節句、初鰹、おへそが茶を沸かす
六月 「歩きタバコ」の禁止、山王祭と喧嘩、梅雨と番傘、6月の花嫁、江戸っ子と傘と日傘、大山詣
七月 「つんつるてん」と「テンツルテン」、七夕、江戸の売り声、江戸の朝顔ブーム、スイカと料理茶屋百川、江戸の花火
八月  遊女瀬川のファッションセンス、年寄の冷や水、江戸の「狆」ブーム、「八朔(はっさく)」とは、冷や水売りと白玉、江戸っ子とそうめん
九月 手鎖は「てじょう」と読む! 、芋名月、弥次さん北さん、重陽の節句、秋を告げる松虫、初ナスは高級品
十月  七ツ屋、十三屋、十七屋、にべもない、紅葉狩りと吉原、飲み食べ笑う「えびす講」、戯作者たちの繁忙期
、十一月 猫ばば、江戸の紅葉めぐり、酉の市と熊手、江戸の時計と季節 、酉の市と大火、顔見世興行と千両役者、「七五三」は縁起がいい
十二月  焼きがまわる、大掃除と忠臣蔵、とどのつまり、浅草寺の年の市、フグは食いたし命は惜しし、江戸の宝くじ・千両富

生活とお金  大福と才蔵市、「景気」と「経済」、江戸歌舞伎観劇は贅沢だったか、「先払い」と「着払い」、小判の話、江戸時代に「お札」が使われていたら、銭の話、お金の話〜両替〜、江戸っ子と小判、




生活とお金




大福と才蔵市

 大福(だいふく)とは、餡(あん)を餅(もち)で包んだ「大福餅」のことを今ではいう。大福餅は江戸時代にすでにあったが、その歴史はあんがい新しい。
 今では、イチゴを大福餅の餡の中に入れたイチゴ大福なるものもあり、イチゴと大福餅ではミスマッチかと思いきや、これが以外とマッチするから人間のアイディアは面白い。ただ、甘い餡と少し酸っぱいイチゴの取り合わせだからいいのであって、塩餡にイチゴだったらどうだったろうか。大福餅の中味が砂糖の餡になったのも、歴史はさらに浅い。

 江戸時代の大福餅は、現在のものとはだいぶ違ったものであった。
 天保元年(1830)ごろ成立した『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』という随筆には、大福餅は、はじめは「鶉焼(うずらやき)」「鶉餅」とか「腹太(はらぶと)」と呼ばれて、餡も塩餡であったと書かれている。鳥の形をした餅で、腹が丸くふくれているところから腹太などとも称されたわけで、砂糖を入れない塩味の餡を餅皮でくるんだものだった。江戸の中橋(なかばし)広小路(中央区八重洲)あたりの屋台で売られていた手軽に食べる餅だったという。

 そして、すでに寛政年中(1789〜1800)には、冬場の夜などにも売り歩くようになっていて、荷商いの籠(かご)の中へ火鉢と焼き鍋を入れて、鳥の形ではなく、丸い形の餅を蒸し焼きにして温かくして食べさせていたようだ。『柳多留(やなぎだる)』には、「大福へ紅(べん)がらで書く伊勢屋の賀」とあり、めでたい事のある家から頼まれると、お祝いに配る大福餅に紅がらで「寿」の赤い文字を書いて売ったりもした。

 江戸時代の大福餅は、「福」を呼ぶめでたい名前の餅にして、お祝いに使ったり、冬には餅を温かくして売ったりした。街中を売り歩くか、簡単な屋台店で売られていた大福は、ひとつ四文(もん)が相場であった。
 図版は、『江戸名所図会(えどめいしょずえ)』に描かれた大福餅屋の屋台である。店先に大福餅が並べられ、奥に湯気がたっている。屋台の前を塩鮭や門松(かどまつ)をかついだ人が行き交い、右には提灯(ちょうちん)を持った人々が歩いているから、歳末の夕暮れの風景であると思われる。奥の店のほうには長い笹竹や松の枝が立てかけられ、蜜柑や、うらじろなどが並べられている。

 ここは日本橋南詰(みなみづめ)であり、多くの人が集まっているのは、今まさに「才蔵市(さいぞういち)」が行われているところである。   「才蔵」とは、正月を寿(ことほ)ぐ門付芸(かどづけげい)「三河万歳(みかわまんざい)」の「太夫(たゆう)」の相方(あいかた)のことである、毎年暮れ、三河から江戸にやってくる太夫は、才蔵の希望者が集まるこの「才蔵市」で相方を雇い、「才蔵囃(はや)して参れ」と掛け合いで家々を回って新年を寿ぐ。烏帽子(えぼし)をかぶり刀を差しているのが太夫で、それと対面して話しているのが才蔵。
 歳末のお江戸日本橋界隈の活気がただよう光景である。




画大福餅の屋台と才蔵市の様子。
『江戸名所図会』(天保5年〈1834〉刊)より。右上に「三河万歳 江戸に下りて毎歳極月(しはす)末の夜 日本橋の南詰に集りて 才蔵をえらみて抱(かか)ゆるなり 是を才蔵市といふ」と書かれてる。

『嬉遊笑覧』…江戸時代後期の随筆集。12巻、付録1巻。喜多村信節(のぶよ)著。江戸時代の風俗習慣、歌舞音曲などについて私見を述べたもの。

『柳多留』…川柳集『誹風柳多留』のこと。167冊。明和2年(1765)〜天保11年(1840)刊。24編前半までは川柳の考案者・柄井川柳、以下5世まで代々の選集。挙げた句は第67編(文化12年〈1815〉)に収録。

『江戸名所図会』…江戸の地誌。7巻20冊。斎藤幸雄・幸孝・幸成(月岑〈げっしん〉)の親子三代で完成。寛政から天保にいたる江戸やその近郊の名所が収録されている。

「三河万歳」…愛知県の三河地方を本拠地として発展した万歳。烏帽子に紋付の太夫と鼓(つづみ)を打つ才蔵とが、正月に家々を回り祝言(しゅうげん)を述べた。現在、国の重要無形民俗文化財。


*参考書籍
・棚橋正博著『吉原と江戸ことば考』 ぺりかん社2022
・棚橋正博著『山東京伝の黄表紙を読む―江戸の経済と社会風俗』ぺりかん社2012




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「景気」と「経済」

 日本経済の失速とデフレからの脱却、景気回復に政府は躍起になっているようだ。でも、実効のあがる経済政策の舵取りはなかなか難しいようである。我が国の宰相は「経済、経済、経済」と唱えているが正念場を迎えるのは、案外早いことになるかも知れない。

 江戸時代、公共事業を増やして景気拡大を図った政治家が老中田沼意次(たぬまおきつぐ)である。意次といえば、相変わらず時代小説では悪役として君臨しているようだ。意次の膨張経済政策というか殖産経済政策が、そして世界に先がけて日本を金本位制にしたことなど、こんにちでは経済学の方面では意次の政治手腕は見直されているのに、小説家は不勉強である。

 ところで、なぜ経済活動のことを「景気」と書くのだろう。「景気」とはもともと、自然現象の様子、気配、景色、眺望などを意味する文字であることは、漢字の母国である中国でも日本語でもおなじことである。このところ好況感というものを味わったことがないせいで、政府に八つ当たりしていると言われそうだが、「景気指標」は経済状況を他人事のようにただ眺めた結果を公表するだけだから、皮肉にも意味としてはピッタリである。

 中国の「経紀(けいき)」(生活、商売する、売買の仲立人、旅商いする人の意味)という語が日本に渡ってきて、その「経紀」が「景気」という漢字と混用されたという、江戸時代からある説がどうも正しいようで、「経紀」を「景気」にすり替えたところに、経済活動とは模様眺めで人間の操作ではどうにもならない自然現象だとする江戸人の諦(あきら)めがあるような気がする。徳川幕府の経済政策は、それほどアテにならないものだったということでもある。

 田沼意次の時代から「ふけいき」と人びとが盛んに言うようになる。経済用語としての「景気」よりも「不景気」という言葉のほうが先に生まれたというと、奇妙に思われる人が多かろう。
 この「景気」とならびよく使われる言葉が「経済」である。江戸時代は「ケイサイ」と発音し、「ケイザイ」と濁らなかった。この言葉がやたら流行(はや)ったのも田沼時代からである。

 田沼意次が失脚してすぐ、徳川家斉(いえなり)が14歳の若さで第11代将軍になると、戯作者の恋川春町(こいかわはるまち)は黄表紙(きびょうし)『鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち)』で、家斉を延喜帝(えんぎてい)に寓して(図版参照)、「ケイサイとは何の事だ、夜食の菜(軽菜、軽い食事、お茶漬け)のことか」と家斉を経済オンチに描いてみせて読者の笑いを誘っている。この家斉は経済オンチのまま将軍を50年勤めた。

 宰相たる者、経済オンチでは困る。かといって生半可(なまはんか)な考えで「景気」や「経済」を唱えながら、庶民の口から「ふけいき」という諦めの言葉が出ないように願いたいものだ。




上の延喜帝は徳川家斉、左の菅秀才は松平定信に見立てて描かれている。「経済」にうとい将軍を皮肉った場面。(『鸚鵡返文武二道』寛政元年〈1789〉刊より)


田沼意次…1719〜1788。江戸中期の幕政家。明和4年(1767)に第10代将軍家治(いえはる)の側用人(そばようにん)、安永元年(1772)に老中となる。積極的な膨張経済政策をすすめ、江戸のバブル期ともいえる「田沼時代」を築いた。

徳川家斉…1773〜1841。江戸幕府第11代将軍。一橋治済(はるさだ)の長男。天明7年(1787)将軍となり、田沼意次を排して松平定信を起用して「寛政の改革」を行った。

恋川春町…1744〜1789。江戸中期の戯作者・狂歌師。駿河小島(おじま)藩士。本名は倉橋格。狂名は酒上不埒(さけのうえのふらち)。『金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)』によって黄表紙の作風をうちたてた。寛政の改革を風刺した『鸚鵡返文武二道』にかかわる召喚に出頭せず、その年に亡くなったことから、自殺説もとなえられている。

延喜帝…醍醐(だいご)天皇(885〜930)のこと。平安前期の天皇。宇多天皇の第一皇子。藤原時平(ときひら)、菅原道真(みちざね)を左右大臣として天皇親政を行った。後世、延喜の治と呼ばれ、公家の理想時代とされる。


*参考書籍
・棚橋正博著『吉原と江戸ことば考』 ぺりかん社2022
・棚橋正博著『山東京伝の黄表紙を読む―江戸の経済と社会風俗』ぺりかん社2012




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江戸歌舞伎観劇は贅沢だったか

 太平洋戦争に向かう戦前に「贅沢(ぜいたく)は敵だ」という国威発揚の標語があった。
 「贅沢は敵だ」という標語は江戸時代にも唱えられていた。もっとも、言葉としては「贅沢」の法律語でもあった「奢侈(しゃし)」禁止で、とくに天保の改革は厳しかった。

 戯作者(げさくしゃ)の山東京山が戯作者になる以前、寛政の改革以前の天明年間(1781〜88)頃には「ぜいたく」という言葉は使われず、「贅を尽くす」という表現だったが、天保年間(1830〜43)頃から江戸で使われだしたと京山が『蜘蛛(くも)の糸巻』に書いている。
 そして、江戸の照降町(てりふりちょう。中央区日本橋小舟町界隈)に絹や木綿の精製した品を並べ、上品な織物として市中の相場の倍額で売っていた店があり、俗称「ぜいたく屋」と呼ばれていた。だが、天保13年(1842)の天保の改革で処罰され、店主は牢獄死したという。

 同じく天保13年3月に5代目市川海老蔵(7代目団十郎)は北町奉行の遠山金四郎景元(遠山の金さん)に呼び出され、妾(めかけ)を3人も持つなど奢侈贅沢の禁止を破ったとして手鎖(てじょう)の刑罰の上、江戸十里四方追放に処されている。

 歌舞伎役者が贅沢できたのは、江戸人の唯一と言ってもよい娯楽であった歌舞伎への出演ギャラが高かったからなのだが、そのギャラになる入場料も高かった。その江戸の歌舞伎にとって11月は顔見世狂言の季節で、役者にとって稼ぎ時でもある。

 芝居小屋や演目で観劇料は違ってくるものの、文化元年(1804)の河原崎座の当たり狂言だった秋芝居の値段を見てみると、桟敷席(二階などの特別席)が銀15匁(もんめ)(小判1両の約4分の1)、土間席(一階の舞台正面席)が銀12匁(小判1両の約5分の1)、土間割合(他の客と相席)が172文(小判1両の約23分の1)、観客を追い込んで詰め込む大衆席の切落しは64文というところであった。小判一両は、おおよそ現代の12、3万円というところだから、観劇料がだいたい分かろう。

 大名、上級武士や富豪町人と、下級武士と職人などの庶民とでは金銭感覚が違い、いわゆる格差社会でもあったから、歌舞伎の観劇料に対する認識や価値観も違っていた。
 寛政の改革では、大工の職人の日当を3匁前後より高くしてはいけないという町触れが出されて以来、それが守られていたから、一人前(いちにんまえ)の大工職人にとって桟敷席は5日分の稼ぎに相当する。職人などの庶民にとって、土間席でも贅沢だった。だから、どうしても桟敷席、土間席をはじめとする高い席は、富豪の商家の娘たちや、大名、上級武士の家族など、そして江戸見物をする金持ちたちで占められることになる。

 歌舞伎の見巧者(みごうしゃ)は安い切落し席と相場が決まっていた。職人の家族5人で土間割合席での歌舞伎観劇でも、銀12匁くらいになる。およそ土間席と同じ料金になろうから、これだったら庶民も楽しめた。贔屓(ひいき)の役者を間近に見たい若い女性たちは、どうしても舞台に近い土間席で見たかったろう。だが、奉公する身分の女性では3月分の給金が消える。歌舞伎はやはり江戸の庶民にとって”高値の花”、贅沢なことだった。




歌舞伎の桟敷席の様子。茶屋から届いた食べ物が並び、舞台を見ながら盃を手にする客。女芸者や太鼓持ち、陰間(かげま。舞台に出ない男色を売った俳優)たちが相手をしている。『京伝憂世之酔醒(きょうでんうきよのえいざめ)』(寛政2年〈1790〉刊)より。

山東京山…1769〜1858。江戸後期の戯作者。山東京伝の弟。篆刻(てんこく)をなりわいにしていた傍ら、合巻(ごうかん)などの戯作活動もしていて、随筆に『蜘蛛の糸巻』(弘化3年〈1846〉編)がある。



*参考書籍
・棚橋正博著『吉原と江戸ことば考』 ぺりかん社2022
・棚橋正博著『山東京伝の黄表紙を読む―江戸の経済と社会風俗』ぺりかん社2012




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「先払い」と「着払い」

 猛威をふるったコロナも五類になり、解放気分になったような、この夏のボーナスを目当てに、セールやお中元商戦が繰り広げられていた。このWeb「江戸言葉 月ごよみ」を見ている方はインターネットをやっておられるだろうが、ネット通信販売でお中元を贈るというのが当たり前の時代が来るかもしれない。
 ネット通販だと、商品代と送料を合わせた代金を発送前に支払い、代金到着を待って商品を発送するシステム、料金「先払い」制度を利用するか、商品を先に発送してもらい、商品が到着すると代金を支払うシステム、「着払い」制度を利用することになるだろう。
 テレビコマーシャルでも通販という名で「先払い」と「着払い」を顧客に呼びかけ、振込みで支払う方法が主流になっているから、詳しい数字はわからないものの、郵便為替や銀行振込みにおける手数料もかなりの総額になっているのではないだろうか。

 明治時代、全国津々浦々まで同一料金で手紙が届く制度が前島密(ひそか)によって導入され、切手を貼りポストへ投函するだけで届けられるようになって便利になったが、しかし、切手を貼ることにより、手紙を投函する人が郵便料金を支払うことになって、「着払い」は消滅してしまった。

 江戸時代、手紙を出すのは、かなり手間とお金のかかることだった。わざわざ飛脚屋(ひきゃくや)まで足を運んで頼まなければならなかった。送り先が遠ければ、飛脚が走って届けるだけに日数もかかり料金は高くなるなど、料金は距離によってまちまちだった。でも、当時としては私信を届けてもらう唯一の手段だったのだから、飛脚に頼らざるを得なかったわけである。
 町飛脚(まちびきゃく)と呼ばれる一般の人びとが利用する飛脚制度は、幕府の公用飛脚や大名飛脚の制度に遅れて、寛文4年(1664)8月に大坂4軒・京都3軒・江戸7軒が三度飛脚(月に3度の定期便)の名目で仲間の組織化がなされ、これによって民間の飛脚屋業務が軌道に乗る。
 それまでの江戸では、日本橋の橋の袂(たもと)に届け先を書いた大きな板が並べられ、わざわざ日本橋へ人びとはやって来て、届け先へ手紙を置いて郵送料を支払ったとされる。

 図版は山東京伝(さんとうきょうでん)黄表紙(きびょうし)『福徳果報兵衛(ふくとくかほうひょうえがでん)』(寛政5年〈1792〉刊)の最後の1コマで、老婆が飛脚屋に西方浄土の阿弥陀様へ手紙を届けてもらいたいと頼む場面である。
 老婆は、まだ当分は死ぬつもりはないので、十万億土のあの世から阿弥陀様がお迎えに来るのは遠慮してもらいたいという手紙を出したいが、十万億土という遠い世界なので状賃(手紙料金)も高いことだろうから、届け先のあちらの阿弥陀様の「先払い」にしてもらえないだろうかと、虫のいい頼みをしているのである。
 「先払い」は送られる前に代金を支払うシステムを現在では言うが、江戸時代の「先払い」というのは、届けた先方(せんぽう)の人が送料を支払う、今の宅配便などで荷物を受け取った人が支払う「着払い」の意味で使われていたのである。言葉は時代で変遷して、むずかしい。



煙管をくわえて向こうに座っているのが、飛脚屋をはじめて大金持ちになった福徳果報兵衛。左の老婆が、あの世に手紙を「先払い」で出したいと頼みに来ているところ。 山東京伝作画『福徳果報兵衛』(寛政5年〈1792〉刊)より。

前島密…1835〜1919。明治時代の政治家。越後国(新潟県)高田藩士の家に生まれ、幕臣前島家の養子となる。維新後、明治政府の駅逓頭(えきていがしら)として近代郵便制度を創設。郵便切手、全国均一料金を採用した。下野ののちは、実業界で活躍した。

山東京伝…1761〜1816。江戸後期の戯作者・浮世絵師。黄表紙・洒落本(しゃれぼん)の第一人者。寛政の改革による筆禍後は、読本(よみほん)と考証随筆に力をそそいだ。

黄表紙…安永4年(1775)〜文化3年(1806)まで刊行された絵入りの読み物。大人のマンガ・コミックといった内容で、表紙が黄色であったところからの呼称。

洒落本…近世後期小説の様式。遊里での遊びを題材にして、会話体で遊里の内部や恋の手くだを写実的に描いた。


*参考書籍
・棚橋正博著『吉原と江戸ことば考』 ぺりかん社2022
・棚橋正博著『山東京伝の黄表紙を読む―江戸の経済と社会風俗』ぺりかん社2012




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小判の話

 箸休めに江戸のお金の話を書きたい。
 深夜の江戸、千両箱を肩に乗せた盗賊が走るという場面が、時代劇ドラマでよく見られる。 この千両箱の重さは、いったいどれくらいだっただろうか。
 千両箱に入っている小判は、時代によって重さや価値が違ってくる。徳川家康が慶長6年(1601)に造らせた慶長小判なら、一両4.76匁(もんめ)、すなわち17.85g。千両なら17.85圈千両箱そのものの重さが、5〜6圓箸い辰燭箸海蹐世ら、千両箱1箱は約25圓箸い辰燭箸海蹐任△襦そんなものを担いで走ったら、なんだかすぐに息切れしそうである。

 ところが、江戸幕府が発行した小判のなかでも、安政6年(1859)のものは、一両2.4匁(9.0g)。これだと、千両箱は20毀にだろうから、まだ走れるかもしれない。
 安政の頃の一両は、現代の価値で換算すると5万円前後なので、1箱なら五千万円を担ぐようなもの。それに比べて、慶長小判が通用していた頃だと、その3倍の15万円前後になろうから、1箱で1億5千万円の大仕事になる。

 吉原の遊女の身請(みう)けに、遊女の体重分の金を払ったというエピソードがある。図版は、寛政3年(1791)に刊行された山東京伝(さんとうきょうでん)作の黄表紙(きびょうし)『九界十年色地獄(くがいじゅうねんいろじごく)』より。この遊女は、千両箱2箱よりは軽かったようだ。 この頃の小判なら2箱で50毀にだろうから、衣裳などの重さを引くと、遊女の体重は40圓らいということになろうか。

 さて、慶長小判と大判は、徳川家康が造らせたものだが、それより先には、豊臣秀吉が天正16年(1588)に天正大判を、文禄年間(1592〜96)には金100%に近い金貨(375g)も鋳造している。秀吉の大判は、大坂城で家臣たちが居並ぶなか、功績のあった家臣へ褒賞(ほうしょう)として与えるパフォーマンスのために造った金貨で、通貨が目的ではなかった。
 それに対し家康は、大判は秀吉と同じく報奨金貨としたが、小判は経済政策を実行するための柱になる通貨として造った。これは武田信玄の金貨鋳造に倣 (なら) ったものだったろう。

 通貨である小判は、いくら金貨とはいえ、摩耗したり欠けたりする。そうした欠陥小判(不完全貨幣)はどう処理されたのか。
 両替商(現在の銀行業)を通じて回収し、「足し金」という補修をして完全貨幣にもどし、六角形の中に「本」の刻印を打って再び流通させた。どうしてそんな補修ができたかというと、小判は、叩いて仕上げる鍛造(たんぞう)方法で造られていたからである。
 小判は、金と銀の合金として、棒状に鋳造された地金を適当な長さに切り、いわゆる小判型に槌(つち)で叩いて平らに延ばした(小判に横に凹みのある茣蓙〈ござ〉の目模様があるのは、槌で叩いた跡なのである)。ハサミでカットしながら、何度も重さを量り所定の重さにした。そして、炉火で焼き、食塩で摩擦し、色揚げして完成。鍛造ゆえに、叩いて埋め込むなどの補修ができたのである。

 先に紹介した安政小判は、慶長小判と比べやや小ぶりで、金の含有量は3分の1、厚さは3分の2である。これは、明治の開国前夜、金貨の小判の海外流出がとまらないため、幕府がとった苦肉の策だった。薄かったから、歯の丈夫な人は噛んで曲げられたかもしれない。





遊女と千両箱2箱を秤にかけて、金のほうが重かったので、身請けの相談がまとまる。 この千両箱は端が金属でできた頑丈で重いものだ。 『九界十年色地獄』(寛政3年〈1791〉刊、東京都立中央図書館加賀文庫蔵)より。



山東京伝…1761〜1816.江戸後期の戯作者(げさくしゃ)・浮世絵師。黄表紙・洒落本(しゃれぼん)の第一人者。吉原に精通し、遊女を妻とした。

黄表紙…洒落(しゃれ)、滑稽(こっけい)、風刺を織り交ぜた大人向けの絵入り小説。1冊5丁(10ページ)から成り、2、3冊で一部とした。安永4年(1775)から文化3年(1806)頃にかけて多数刊行された。代表作者に、恋川春町(こいかわはるまち)、山東京伝(さんとうきょうでん)など。




*参考書籍
・棚橋正博著『吉原と江戸ことば考』 ぺりかん社2022
・棚橋正博著『山東京伝の黄表紙を読む―江戸の経済と社会風俗』ぺりかん社2012




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江戸時代に「お札」が使われていたら

 お金の話をもうひとつ。
 山東京伝(さんとうきょうでん)の黄表紙(きびょうし)に、天から小判や一分金(いちぶきん)がばらばら降ってくる挿絵がある(図版参照)。困窮する世の中を風刺して描いたものだ。もしも江戸時代に紙幣が使われていたら、天からお札がはらはら降ってくる絵になるのだろうが、紙幣ではどこかありがたみがない。

 江戸幕府が全国に通用する貨幣としてお札(紙幣)を発行したことはなかった。と言うと、慶応3年(1867)に幕府は藩札(はんさつ)と同じような金札を発行したではないかと言われそうだが、これは関八州(かんはっしゅう)で通用される金札で、ほとんど使われることなく終わっている。
 明治政府は、明治元年(1868)に太政官札(だじょうかんさつ)、翌年には民部省札(みんぶしょうさつ)などの政府紙幣をつぎつぎに発行する。現代の経済学の泰斗(たいと)ケインズが、「今日すべての文明社会の貨幣は、議論の余地なく表券主義的〈貨幣〉である」と説くように、近代国家は紙幣による名目貨幣化の道をたどっており、日本も明治政府になって紙幣が使用されるようになり、近代国家の仲間入りをしたわけだ。

 徳川家康が小判や銀貨を造って以来、日本は本格的な金属貨幣の時代を迎え、いろいろ曲折を経て、小判1両=金4分(ぶ)(1分金4枚)=銀60匁(もんめ)=銭4000文(もん)を基調にした交換レートで推移してゆく。  しかし、家康が造った「慶長小判」が1両の品位(金の含有量)は84.29%だったのに比較し、万延元年(1860)に江戸幕府が最後に発行した「万延小判」は、56.78%(重量は5分の1以下)というひどい代物だった。まさに粗悪貨幣の発行であった。

 ところで、「慶長小判」の発行からおよそ百年後の元禄8年(1695)、勘定吟味役(かんじょうぎんみやく)の荻原重秀(おぎわらしげひで)によって貨幣が改鋳(かいちゅう)され、「元禄小判」となった。その品位は57.37%まで落とされ(重量は同じ)、慶長小判2枚を鋳造し直すと、元禄小判3枚が鋳造発行できるという魔術であった。 市場へ小判(貨幣) を多く投入して景気浮揚を図るという、現代と似たような経済理論からである。
 その後の貨幣改鋳も新井白石(あらいはくせき)の改鋳を除き、金の総量を減らして小判を軽量化して品位を落としてゆくばかりであった。
 この荻原重秀という人物、貨幣は瓦でも構わないし、悪貨だといっても紙幣よりはいいという考えの持ち主だった。とくに外国貿易の主取引貨幣だった銀貨の品位を落とし、これは果たして銀貨と呼べるのかどうかというほどの、じつに20%の品位の銀貨(80%は銅)を発行している。
 重秀の悪貨鋳造の裏には、最大の貿易国である中国の清王朝が銀取引を原則としながらも、銅不足に悩み、銅の貿易取引きも仕方なしとした足元を見すかすようにして銅の決済で済ませ、日本からの銀の流出を阻止したかった思惑が働いていたのではないかとも思われる。

 しかし、重秀は新井白石によって糾弾追放され、貨幣の品質は「慶長小判」に戻った。白石の経済理論は、家康が金貨を神聖視し、西欧でも金銀が珍重されていたことや、貨幣を良貨にして市場における数量を限定すると、貨幣の価値が上がり相対的に物価は下落するという、今日では荒唐無稽だと笑われそうなものであった。
 歴史に「もしも」はないが、重秀が追放されなかったなら、日本はヨーロッパ諸外国より一足先に、ケインズのいうところの表券貨幣(紙幣)の時代を迎えていたかもしれない。




寛政の改革で世の中が不景気で混乱した様子を逆に描く。これでもかと小判や一分金が降る中を傘をさして歩く人々。このあと、世の中は金で埋め尽くされてしまうと話は結ばれている。『孔子縞于時藍染(こうしじまときにあいぞめ)』(寛政元年〈1789〉刊、東京都立中央図書館加賀文庫蔵)より。


山東京伝…1761〜1816。江戸後期の戯作者、浮世絵師。黄表紙、洒落本(しゃれぼん)の代表的作者。

藩札…江戸時代に諸藩が発行した領内限り通用する紙幣。領分札、国札ともいわれた。明治初年まで発行されたが、藩の財政難のため乱発されて混乱を生じ、明治4年以降、廃藩のため通用禁止となり、政府が新紙幣と交換した。

関八州…関東八州の略。相模(さがみ)、武蔵(むさし)、安房(あわ)、上総(かずさ)、下総(しもうさ)、常陸(ひたち)、上野(こうずけ)、下野(しもつけ)の8か国。およそ現在の首都圏。
太政官札…太政官会計局から発行された政府紙幣。日本最初の政府紙幣。金札で、10両、5両、1両、1分、1朱の5種類があった。10両、5両は明治8年5月末限り、1両札以下は明治11年6月末でいちおう通用禁止となった。

民部省札…太政官札は高額紙幣が多かったため、民部省通商司から発行された少額紙幣。2分、1分、2朱(しゅ)、1朱の4種類があった。明治11年6月末でいちおう通用禁止となった。

ケインズ…1883〜1946。イギリスの経済学者。1930年代の世界大不況の経験をふまえた名著『雇用・利子および貨幣の一般理論』によって、革新的な経済学理論をうちたてた。

荻原重秀…?〜1713。江戸中期の幕府役人。徳川綱吉の時代に才能を認められて躍進。幕府財政の窮乏を貨幣改鋳と増発によって凌(しの)ごうと、改鋳を繰り返して幕府の財政を立て直したが、飢饉(ききん)や富士山噴火などによって出費が重なり帳消しとなる。新井白石により糾弾を受けて失脚する。

新井白石…1657〜1725。江戸中期の儒者、政治家。徳川家宣、家継に仕え、幕政を補佐。武家諸法度(ぶけしょはっと)の改正などの改革に尽力した。


*参考書籍
・棚橋正博著『吉原と江戸ことば考』 ぺりかん社2022
・棚橋正博著『山東京伝の黄表紙を読む―江戸の経済と社会風俗』ぺりかん社2012




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銭の話

 お金の話をもうひとつ。銭の話である。いまでは銭といえばドルと円の為替レートなどで登場するだけだが、その銭の話である。
  江戸時代、金銀の高額貨幣のほかに、銅や鉄でつくられた「銭(ぜに)」が少額貨幣として使われていた。まん中に穴があいている丸い銭は、紐(ひも)や緡(さし)で束ねられるようになっていた。銭形平次が投げたのもこれで、四文銭(しもんせん)である。

  慶長13年(1608)の暮れの12月19日、江戸幕府は、人びとが使っていた銭「永楽通宝(えいらくつうほう)」の通用を禁止した。江戸幕府が樹立してから5年後のことだった。じつは、その永楽通宝というのは、もともと中国(明の時代)で鋳造発行された銭だった。今でたとえるなら、中国の通貨「元」や「角」がそのまま日本で使われていたようなものである。さしずめ銭は少額だから、「角」を使っていたというところだろうか。

  永楽通宝は古くから使われており、『太平記』や『徒然草』には、銭にまつわる話がしばしば登場する。だが、人びとがそれをどのように使用していたのかは、残念ながら具体的にわかっていない。
 日本人は、中国から漢字を移入しても、簡略化し平仮名やカタカナを作り、新たな文化として自立させたのに比べ、経済の面では中国の銭をそのまま使っていた。正確に言うならば、上質な貨幣であった明の永楽通宝が大量に日本へ移入されると、京都をはじめ日本各地で大量に模造銭(ニセ銭)の永楽通宝が鋳造され、流通していたということなのである。
  この和製の銭は、質が劣るところから「鐚銭(びたせん)」と呼ばれた。「鐚」という漢字は「金」と「悪」を合わせた国字。「ビタ一文(いちもん)だって渡さねえ」などというセリフにみえる鐚銭である。

  江戸幕府の初期の貨幣政策は、この鐚銭を追放するために知恵を絞り続けたともいえる。永楽通宝1000文に対し鐚銭4000文を交換レートにして、小判一両につき永楽通宝1000文、鐚銭4000文を為替レートと定め、永楽通宝の通用を禁止し、幕府は永楽通宝の回収を急いだ。そしてついに、寛永元年(1624)、江戸幕府は上質な通貨「寛永通宝(かんえいつうほう)」を鋳造発行することになる。

 諸説あるものの奈良時代の「和同開珎(わどうかいちん〈ほう〉)」は、日本で初めて流通した銭であるとされるが(708年、和銅元年に発行)、それから平安時代の天徳2年(958)に乾元大宝(けんげんたいほう)が発行されるまで12種類の銭(これを「皇朝十二銭〈こうちょうじゅうにせん〉」という)が貨幣として鋳造発行された。それ以来、日本の中央政府が久々に銭を発行したのが寛永通宝であり、約660年ぶりのことであった
 その結果、寛永通宝が市場を席巻し、なんと戦後の昭和28年(1953)まで通用していたことは、年配の人なら記憶されているだろう。
 寛永通宝は上質な貨幣だったことから、こんどは、清王朝時代の中国で通用することになるのだから、歴史はわからない。また同時に、イギリスの財政家・グレシャムが唱えた「悪貨は良貨を駆逐(くちく)する」という「グレシャムの法則」も、「良貨の寛永通宝は鐚銭を駆逐した」というわけで、良貨が悪貨を駆逐し、日本ではこの法則を逆転させていたのである。



お金は天下の回り物ということで、両替商がいる店先、銭の母親から姉と弟の銭が引き離され、旅に出て、さまざまな目に遭ったのちに再会するという話。安寿(あんじゅ)と厨子王(ずしおう)の話のをふまえている。江戸後期の戯作者(げさくしゃ)・唐来参和(とうらいさんな)の黄表紙(きびょうし)『再会親子銭独楽(めぐりあいおやこのぜにごま)』より。


グレシャム…1519〜1579。エドワード六世、エリザベス女王(一世)に仕えた王室財務官。「グレシャムの法則」を提唱して、貨幣の改鋳に努力した。


*参考書籍
・棚橋正博著『吉原と江戸ことば考』 ぺりかん社2022
・棚橋正博著『山東京伝の黄表紙を読む―江戸の経済と社会風俗』ぺりかん社2012

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お金の話〜両替〜

 消費税10パーセントになって久しいが、 またぞろ消費税アップの増税の話が出てきている。
さて、今回は、お江戸の商売とお金の話。
 江戸の三井呉服店(越後屋=三越伊勢丹デパート)は、新しい商法で成功した。ひとつは、店に商品を並べて売る方法。井原西鶴(いはらさいかく)の『日本永代蔵(にっぽんえいたいぐら)』(元禄元年〈1688〉刊)には、三井八郎右衛門の話が書かれている。江戸の駿河町(するがちょう。中央区室町)に間口(まぐち)が9間(けん)(約16メートル)、奥行き40間の棟(むね)の高い店を構え、主に武士客が好む反物を揃え、手代(てだい)40人余りに反物の種類別の売り場を担当させ、客の要望に応えて布地(きれじ)を切売りもして、急ぎの客には即座に仕立てて渡したという。
 そして、三井呉服店は、「掛値(かけね)なし現金大安売り」が看板であった。「掛値なし」とは、値段を高くせず薄利多売ですということだが、ただし、「掛売り(代金を後日支払う約束で売ること。現代のクレジット・カード支払い)」は致しません、すべて現金支払いですよ、というわけである。
 江戸時代以前から商業都市だった大坂では、商品とお金を交換する現金売買の取引きより、帳面に記帳して大晦日(おおみそか)などの節季ごと(他に3月3日、5月5日、7月16日、9月9日)に決済する信用取引きが主流であった。
 それに対し新興都市だった江戸では、古くから住んでいた商人も少なく、取引きのしきたりや商道徳が未成熟だったため、売買するその場でお金を授受して決済する現金支払いが主流だった。そうした現金支払いの風土に三井呉服店の商法がマッチしたともいえるわけで、もし、同じ商法を大坂で展開させても、おそらく成功はしなかったと思われる。

 ところで、当時の小判一両は、現代価格にするとおよそ15万円相当だから、小判は高額貨幣になり、これで日常の買い物をするのは不便だった。だが、旗本(はたもと)や御家人(ごけにん)といった武士たちの俸禄は小判か米で支給されていたので、どうしても日常生活で使う場合、低額貨幣である銭に両替しなくてはならない。そこで小判を銭に専門に両替する銭両替屋が大はやりであった。
 小判や一分金(いちぶきん。小判の4分の1)といった高額貨幣の金貨を、銀貨(1両=銀60匁〈もんめ〉)や低額貨幣である銭(1両=4000文)に両替する必用に迫られ、これを両替することを「切る」、その両替賃を「切賃(きりちん)」と言った。その反対に銭4000文を1両に両替することを「打つ」と言い、両替賃のことを「打賃(うちちん)」と言った。
 江戸市中を両替して歩く銭両替屋へ武士が「小判を切ってくれ」と頼むわけである。
 しかし、幕末期になると、大→小、小→大に両替することの両方を「切る」(「切賃」)とも「打つ」(「打賃」)とも言うようになった。そして明治政府が金属貨幣から紙幣に切替えて「両」から「円」の時代を迎え、両替商は銀行と衣替えして「両」は消えた。  だから、円の紙幣を他の貨幣、銭(せん)などと交換することを「円替」「銭替」と呼び方も変わってよさそうだったのだが、江戸の昔の「両替」という言葉がそのまま残って現在でも使われている。





世の中は金が余って捨てどころに困る時代になったと、金回りがわるくなった世相を逆さ見立てにした黄表紙(きびょうし)『孔子縞于時藍染(こうしじまときにあいぞめ)』(山東京伝作・画 寛政元年〈1789〉刊)の挿絵より。
真ん中の看板には「かけねあり(掛値あり)大高売(おおたかうり)仕候(つかまつりそうろう)掛売りずいぶん仕候」と書かれている。三井呉服店など江戸の呉服屋の看板をパロディー仕立てにしている。


井原西鶴…1642〜93。江戸前期の浮世草子作者・俳人。大坂の人。西山宗因(そういん)の門下で談林風を学び、矢数俳諧を得意とした。『好色一代男』『好色五人女』をはじめ、世の中と金を描いた経済小説ともいうべき『日本永代蔵』『世間胸算用(せけんむねさんよう)』など、多数の作品を残す。


山東京伝…1761〜1816。江戸後期の戯作者・浮世絵師。北尾重政(しげまさ)に浮世絵を学び、北尾政演(まさのぶ)としても活躍。黄表紙・洒落本(しゃれぼん)の第一人者となりベストセラーを次々発行。寛政の改革で洒落本が発禁になり刑を受け、以後は読本(よみほん)と考証随筆を書いた。

*参考書籍
近著 : 棚橋正博著『吉原と江戸ことば考』 出版社 ぺりかん社


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