江戸言葉 月ごよみ
棚橋正博(たなはしまさひろ)氏プロフィール
1947年秋田県生まれ。 早稲田大学エクステンション(中野校)講師。神奈川大学エクステンション(横浜KUポートスクエア)講師。早稲田大学大学院講師。早稲田大学大学院修了。日本近世文学専攻。文学博士。 黄表紙研究の第一人者で、知られざる江戸の風俗文化を多くの人々に伝えることを使命としている。テレビや講演会などでも活躍中。著書は『式亭三馬』(ぺりかん社)、『十返舎一九』(新典社)、『江戸の道楽』(講談社)、『江戸戯作草紙』『教科書が載せられない名文』『捏造されたヒーロー遠山金四郎』(小学館)など多数 (Web日本語より加筆転載)  

 私たちが何気なく使っていることばの多くが、じつは江戸生まれだってご存じでしたか? 「江戸っ子」なことばたちを、江戸の人たちがどうやって生み出し、どのように育てていったのか、「へえ〜」と思わずいいたくなる知識を、黄表紙や浮世絵の絵などとともにご紹介していきます。 

► CONTENTS
一 月 旧正月と名刺、江戸の大雪、正月の餅、湯屋の正月、七福神詣
二 月 二八(にっぱち)と品川遊郭、「べらぼうめ」と「べらんめえ」、節分と豆男、出替りと契約社員
三 月 雛祭り、隅田川は暴れ川だった、寺子屋入り、江戸の花見、春の夜の夢と千両
四 月 江戸のサラリー事情、藤の花と銭の花、江戸の虫除けと油虫、卯の花と豆腐、デパート商法は
五月 江戸のベストセラーと付録、野暮・通、端午の節句、初鰹、おへそが茶を沸かす
六月 山王祭と喧嘩、梅雨と番傘、6月の花嫁、江戸っ子と傘と日傘、大山詣
七月 七夕、江戸の売り声、江戸の朝顔ブーム、スイカと料理茶屋百川、江戸の花火
八月  年寄の冷や水、江戸の「狆」ブーム、「八朔(はっさく)」とは、冷や水売りと白玉、江戸っ子とそうめん
九月  芋名月、弥次さん北さん、重陽の節句、秋を告げる松虫、初ナスは高級品
十月  にべもない、紅葉狩りと吉原、飲み食べ笑う「えびす講」、戯作者たちの繁忙期
、十一月 江戸の紅葉めぐり、酉の市と熊手、江戸の時計と季節 、酉の市と大火、顔見世興行と千両役者、「七五三」は縁起がいい
十二月  浅草寺の年の市、フグは食いたし命は惜しし、江戸の宝くじ・千両富






 三月





雛祭り

 3月3日は雛(ひな)祭り、女の子のつつがない成長を祝って内裏雛(だいりびな)などを飾っておこなう年中行事である。江戸時代には「上巳(じょうみ)の節句」とも、「桃の節句」とも呼ぶようになった。庶民が子どもの成長を願ってする雛流しや、宮中の女の子がする雛遊び(ままごと遊び)が起源だったようで、雛遊びは『源氏物語』などにも見える。江戸時代になってから、3月3日の雛祭りとなり年中行事化したわけである。
ビルの階段にひな壇を数十段作って雛人形を飾り、こんにちではコロナ禍でも、それが話題になるご時世である。
  雛人形について徳川幕府は慶安2年(1649)2月に、金箔や銀箔を塗った華美な雛人形にすることを町触(まちぶ)れで禁止しているから、この頃にはすでに綺麗に着飾った人形になっていたことがうかがわれる。
さらに享保の改革のさなか、享保6年(1721)7月には、雛人形のサイズを八寸(約24僉飽焚爾砲垢襪茲Δ砲箸猟触れが出されている。これは正月の羽子板や破魔弓(はまゆみ)が賛沢(ぜいたく)に作られる風潮を抑制する一環であった。これ以後、幕末までサイズは八寸以下と定められている。現在の雛人形の大きさにも、このときの名残りがあって、これが大きな雛人形のひとつの基準になっている。
  面白いところでは、安永8年(1779)2月に出た町触れで、豪華な雛人形を家に飾り、往来の人びとにも見えるように障子(しょうじ)などを開け放って見せびらかすことを禁じている。三段飾りや五段飾りとか、町人のあいだでは豪勢な飾りを競っていたことがわかる(図版参照)。いかにも当時、田沼時代のバブル経済の時代を反映している。本来の女の子のつつがない成長を祝う素朴なお祭りの意識が消えて、とにかく立派なものを誂(あつら)える、現代の風潮にも似たようになっていたことがうかがえるのである。
  江戸の雛人形の売り出しの雛市は、十軒店(じっけんだな、今の中央区室町)の人形問屋街で開かれてにぎわった。5月の端午(たんご)の節句の兜(かぶと)人形もやはり十軒店で売られた。この市は尾張町(中央区銀座)や麹町(千代田区)、浅草茅町(かやちょう。台東区)、 池之端仲町(同)などでもおこなわれていたが、やはり十軒店が本場だった。
松尾芭蕉(ばしょう)が「おくのほそ道」の旅(元禄6年〈1693〉〜)に出るとき、世を捨てたような自分が住んでいた草庵に、こんどは娘のある人が住むことになったと聞き、きっと雛人形を飾り華やかになるだろうと、「草の戸も住み替わる代(よ)ぞ雛の家」の一句を残して長旅に出た。この頃から、雛飾りがだんだんと豪華になりだしたようだ。



竜宮城の乙姫(おとひめ)の家。
浦島太郎の人形を雛壇に飾ろうとしている乙姫(右)と浦島(左)。豪華な雛棚の供え物には、白酒や、竜宮ならではのタイやサザエやハマグリなど。(『二度目の竜宮』安永9年刊] )

享保の改革…八代将軍・徳川吉宗(よしむね)の行なった幕政改革。綱紀粛正(こうきしゅくせい)、質素倹約、農村対策など、政治・財政の立て直しをはかった。

田沼時代…田沼意次(おきつぐ)が、十代将軍・徳川家治(いえはる)の側用人(そばようにん)・老中(ろうじゅう)として政治の実権をにぎった、明和4年(1767)〜天明6年(1786)をいう。経済の発展を背景に、新しい文化が発達した。


隅田川は暴れ川だった

  「春のうららの隅田川(すみだがわ)♪」の歌が似合う季節になった。隅田川は東京を代表する河川であり、隅田川沿いの堤(つつみ)は江戸時代から続く桜の名所で、今年も多くの花見客がその風情を楽しみに訪れることであろう。
 そんな隅田川が、江戸時代以前には暴(あば)れ川で氾濫(はんらん)を繰り返していたことは案外知られていない。
 その昔、平安時代には、入間川(いるまがわ)・利根川(とねがわ)・元荒川(もとあらかわ)・渡良瀬川(わたらせがわ)・鬼怒川(きぬがわ)などが合流して江戸湾(東京湾)に注いで大河となっていた。
 流浪(るろう)し東下(あずまくだ)りをする在原業平(ありわらのなりひら)は、武蔵国(むさしのくに)の高台に立ち、隅田川を一望すると、大河というよりは限りなく遠く下総国(しもうさのくに)を望む泥湿地帯の荒涼とした光景に身をすくめた。渡し守(もり)に誘われて舟に乗ろうとすると鳥が飛んでおり、渡し守に鳥の名を訊(き)くと都鳥(みやこどり)だと言う。都と聞いて故郷に残した妻を思い出し詠(うた)う。

名にし負はばいざ言問(ことと)はむ都鳥わが思ふ人ありやなしやと (『古今集』)

  今の隅田川に架(か)かる言問橋(ことといばし)で詠(よ)んだとされるのは怪(あや)しいようだが、とにかく隅田川は一筋の大河でなく広大な浅瀬川で、人を寄せつけず、ひとたび雨になれば濁流となっていたのである。
  徳川家康が江戸へはじめてやってきたとき(天正18年〈1590〉8月1日。この日を記念して8月1日を八朔の祝い日とした)も、業平の頃とさほど変わる光景ではなかった。家康は、この川を制しない限り江戸の発展はないと考えた。豊臣秀吉の言を受け入れて江戸への赴任を家康に勧めた伊奈備前守(びぜんのかみ)忠次(ただつぐ)も考えはおなじであったろう。そこで家康は四男松平忠吉(ただよし)と忠次に、利根川・渡良瀬川・鬼怒川などを現在のように千葉県の銚子沖に抜く瀬替(せが)えの大工事に着手するよう命じ、隅田川は入間川を主流にする計画を立てた。
  そして着手からおよそ半世紀たって、利根川等の瀬替えは承応3年(1654)に完了し、隅田川はほぼ現代の流域となる。ただし隅田川は飲み水にならないとわかる。そこで前年の承応2年、多摩川から水を引くことになり、やがて神田上水と並んで玉川上水も江戸の水道となって江戸の水は確保された。
隅田川の大工事の着手と時を同じくして、家康は江戸城の周囲をはじめ江戸の街を造築する大事業も始めた。全国の大名に禄高(ろくだか)千石(せんごく)あたりに一人の人夫を拠出(きょしゅつ)させ(千石夫。慶長8年〈1603〉)、そうして江戸に集められた2万人を超す若い屈強な人夫(にんぷ)たちが江戸の街を造ることになった。彼らの旺盛な食欲をまかなうための食料を運ぶために街道や海路の整備が進み出し、まさに江戸時代の日本列島改造が始まったと言っても過言ではない。また余談ではあるが、若い労働者や単身赴任の陪臣(ばいしん。各藩の家臣)の性欲を満たすために、元和3年(1617)に遊廓・吉原もできた。
江戸の工事がほぼ完成した頃、明暦(めいれき)3年(1657)、江戸の大火(振袖火事)が発生した。本郷丸山の妙法寺(みょうほうじ)で行われた、若くして亡くなった娘たちの振袖を焼いて供養する仏事から飛び火し、江戸が全焼してしまう。まだ利根川等の瀬替えの完了する前のことで、隅田川に架(か)かる橋は上流の千住大橋ばかりだったため、人々は隅田川の向こうに逃げられず川での溺死者も多く、10万人の命が奪われたという。
  これを奇禍(きか)として、再び江戸の街は都市計画のもとに改造され、両国橋も架けられた。江戸幕府開闢(かいびゃく)以来半世紀余が過ぎて、現在の東京の原型となる江戸ができあがったのである。
  こうして江戸の歴史を振り返ると、江戸幕府が成立してまもなくの頃は、まさに江戸建設の大工事が繰り広げられている最中であった。大勢は決していたとはいえ大坂冬の陣、夏の陣は、言わば、片手に武器を持ち、片手にシャベルを持つという二刀流の時代であった。
  歴史に「もしも」はないと言うが、真田幸村(さなだゆきむら)が家康の首級を取ることがあったなら、江戸建設は頓挫(とんざ)し、隅田川も元の暴れ川のままで「春のうららの隅田川♪」とはならず、建設途上の江戸は廃墟と化し、日本の地図はまったく違ったものになっていただろう。
 


隅田川の堤を花を愛でながら歩く女性と付き人の一行。
隅田川を江戸市中から眺めた景色で、新大橋のもとを舟が上り下りしている。右手の向こうには深川の万年橋が見える。葛飾北斎画の狂歌絵本『絵本隅田川両岸一覧』(文化元年〈1804〉頃刊か)より。

在原業平…825〜880。平安初期の歌人。六歌仙、三十六歌仙のひとり。『伊勢物語』の主人公とされる。情熱的な和歌が多く、『古今集』から『新古今集』までの勅撰集に収められる。

真田幸村…1567〜1615。安土桃山時代の武将。信濃国(しなののくに)上田城主・真田昌幸(まさゆき)の二男。関ヶ原の戦いでは西軍に属し、父とともに徳川秀忠の大軍を阻止。大坂冬の陣では、豊臣方の武将として活躍し、夏の陣で戦死。



寺子屋入り

 春は卒業・入学のシーズンである。最近では国際化という事情から、秋に入学式をしようという大学があらわれている。だが、まだ春を年度とすることはつづいており、新型コロナウィルス流行が沈静化しないとひと騒動になるかもしれない。
 江戸時代、初午(はつうま)、すなわち旧暦2月の初めての午(うま)の日は(今年は3月4日)、学齢期(数え歳7、8歳)に達した子どもが「寺子屋入り」をする日であった。親に伴われて、先生であるお師匠さんに挨拶に行くのである。寺子屋に入ることを、山登りになぞらえて「初山踏(ういやまぶみ)」とも「初登山(しょとうざん)」とも言った。この伝統が明治の学制に引き継がれ、それ以降、学校の入学式は春の行事になったというわけなのである。
 
 さて、寺子屋は、あくまでも民間の私的な教育機関である私塾だったわけだから、地域によって、形態や月謝などもさまざまだった。江戸にかぎったことでいえば、浪人や武家たちがおもに師匠となり、月謝は金納だったようである。江戸時代後期、狂歌に「内にゐて四文(しもん)四文とうるさいぞ 師匠にやればそのうちが楽(らく)」と詠まれていて、1日4文、月謝にすると120文が相場であった。現在に換算すれば3000円くらいだろうか。
 武士が多く住む武家屋敷街のなかにあった寺子屋は、習う寺子たちも、とうぜん武士の子弟が多く、読み、書き、算盤(そろばん)のなかでは、論語や太平御覧(ぎょらん)や唐詩選などの素読(そどく)に重点がおかれていた。町人街の寺子屋なら、読み・書きのほかに算盤を教えることも熱心だったし、女の子には、師匠の奥さんやほかの女性の手助けを借りながら、裁縫やお花の稽古もつけていた。

 だいたい寺子たちは、朝7〜8時ごろに寺子屋に集まって勉強をはじめ、午後2〜3時ごろに帰宅していた。お師匠さんの自宅を教室にしていたので、勉強のはじまりと終わりには、部屋の掃除をするのも躾(しつけ)の一環としておこなわれていた。年少の子どもは、年長(12、3歳)の子どもを模範として寺子屋生活をしていた。
 朝から午後までずっと勉強時間だったから、寺子屋の昼食はどうしたのだろうか、という疑問があるだろう。町家街にあった寺子屋では、子どもたちは昼食をとるため一時帰宅していたようだ。雨の日などは、弁当を持参していた。弁当のおかずに好物をねだる子どもの姿が、式亭三馬(しきていさんば)の滑稽本(こっけいぼん)『浮世風呂(うきよぶろ)』に描かれている。

寺子屋の習字の手本などに使われた教科書を「往来物(おうらいもの)」と呼ぶ。これをいちばん多く書いたのは十返舎一九(じっぺんしゃいっく)である。あの弥次さん喜多さんの滑稽本『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』を書いた、戯作者(げさくしゃ)の一九である。意外と思われるむきがあるかも知れないが、一九は駿府(すんぷ、今の静岡市)の奉行所の六十人同心(どうしん)を父にもち、一九自身も大坂で町奉行勤めをした常識人でもあった。一九には、寺子屋嫌いの長松(ちょうまつ)が天神様の導きで手習い学問に精をを出すまでをマンガで描いた黄表紙『初登山手習帖(しょとうざんてならいじょう)』(寛政8年〈1796〉刊)もある。




寺子屋で手習いをする寺子たち。黄表紙『多羅福長寿伝(たらふくちょうじゅでん)』(享和2年〈1802〉刊)から。師匠が読み上げると、子どもたちがいっせいに書き出している。女の子には師匠の奥さんが教えている。(国立国会図書館蔵)


式亭三馬…1776〜1822。江戸後期の戯作者。江戸の社交場・銭湯や髪結床(かみゆいどこ)での人々の会話や様子をおもしろく活写した『浮世風呂』や『浮世床』が有名。

十返舎一九…1765〜1831。江戸後期の戯作者。駿府生まれ。大坂の町奉行所勤めをするが、寛政初年(1789〜)にやめて大坂で浄瑠璃作者となり、江戸に出て戯作者として成功。東海道を弥次さん喜多さんが旅してナンセンスな笑いをくりひろげる『東海道中膝栗毛』は、当時の大ベストセラーとなる。さまざまなジャンルにわたり健筆多作で知られる。

*「式亭三馬」参考書籍 『式亭三馬―江戸の戯作』棚橋正博(著) 出版社: ぺりかん社; 新装版 (2007/05) 詳細をみる
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd5/

*「十返舎一九」参考書籍 『笑いの戯作者 十返舎一九』棚橋正博(著) 出版社・新典社 1999 詳細をみる
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd5/








江戸の花見

 桜の開花予想などが出てくる季節になると、江戸っ子ならずとも、どこか浮かれた気分になってくる。その浮かれ気分が花見酒となるせいで、東日本大震災(3・11)の直後、東京でも花見が自粛されたことは記憶にあたらしいところである。今年は記録的に早い開花になるようだが、これも異常気象ということだろうか。
  花の季節といえば、西行(さいぎょう)の「願わくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月(もちづき)のころ」という和歌を思い起こすむきもあろう。西行は果たして願い通りに、文治6年(1190)2月16日(旧暦。太陽暦では3月30日)、桜の盛りに73歳で亡くなっている。

 さて、江戸の花を詠んだものといえば、やはり芭蕉の句「花の雲鐘は上野か浅草か」が江戸っ子には馴染みの句であっただろう。隅田川河畔にあった芭蕉庵から、上野や浅草方面に霞(かす)んで見える白い桜の花を眺めながら、聞こえてくる時の鐘は、上野寛永寺の鐘か浅草寺(せんそうじ)の鐘だろうかと、芭蕉は聞いていたのである。
 このとき芭蕉が眺めた桜は、ソメイヨシノではなく山桜の一種だった。ソメイヨシノは明治になってから新種の桜で花が咲いてから葉がつくが、山桜などは花と葉が同時にでてくる。私たちがイメージするこんにち花見の桜の風景とはだいぶ異った趣であった。寺社や大名屋敷の甍(いらか)が並ぶなかに、桜の木の緑の葉にかこまれて、白い花がぽっかり浮かぶように見えたのが、江戸時代の桜の花の眺めなのである。
 余談だが、鼻が低く歯の出ている器量のよくない女性のことをスラングで「山桜」とも言ったという。その謎々は、「歯(葉)が鼻(花)より前」。

 江戸の桜の名所といえば、やはり上野の山が代表的であった。あるいは、王子の飛鳥山(あすかやま)。浅草寺の裏手の千本桜も有名だったが、これが植えられたのは享保18年(1733)だから、芭蕉が没したあとのことなので芭蕉は見ていない。
 この千本桜は、吉原の遊女たちも寄進したもので、その木々には遊女の自筆になる和歌などを書いた札が下がっていたという。翌年春には、花と遊女の筆跡を、江戸っ子たちは楽しんだわけである。もちろん吉原では桜の季節になると、メーンストリートである仲の町に桜の木々をわざわざ植樹して、盛大に花見をしたものだった(図版参照)。

 玉川上水が流れる小金井(こがねい)の土手も、桜が植えられて名所になった。隅田川の川堤に桜が植えられたのもこのころ、享保年間(1716〜1736)である。八代将軍吉宗などは、桜をはじめ植樹を盛んに行なった。
 これは、植樹をして土手を固めて強化しようとしたことによるようだ。「桃李(とうり)もの言わざれどもおのずから蹊(みち)をなす(桃やスモモは何も言わないが、その花にひかれて多くの人が集まる)」(『史記』)という思想からなのであろう。こうして、桜見物に人が集まることによって地面が固まるという発想で、江戸の各地へ次々に桜の木が植えられていったのである。
 品種改良がすすんで、より多くの花をつけるようになった桜は、もともと日本人の心にひびくものでもあったから格好の植樹の木となり、やがてアメリカのポットマック河畔にも植えられることにとなった。





吉原の花見。毎年、桜の木がメーンストリートいっぱいに植樹され、花見の宴がくりひろげられた。(『江戸名所花暦』巻1)


西行…1118〜1190。平安末期、鎌倉初期の歌人。俗名・佐藤義清(のりきよ)。鳥羽院に北面の武士として仕えたが、23歳で出家。陸奥(みちのく)から中国・四国までを行脚(あんぎゃ)してまわり、歌を詠んだ。歌集に『山家集(さんかしゅう)』など。

八代将軍吉宗…徳川吉宗。1684〜1751。享保元年(1716)、紀州家五代藩主から将軍となり、幕政や経済の立て直しをはかる「享保の改革」を行なった。

・「江戸名所隅田川」参考書籍
『江戸名所 隅田川 絵解き案内』
棚橋 正博 [著] 出版社: 小学館
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春の夜の夢と千両

短くはかないことの譬(たと)えに「春の夜の夢」という言葉がある。

春の夜の夢ばかりなる手枕にかいなく立たむ名こそ惜しけれ (『千載集』)
 
 春の短夜に(みじかよ)戯(たわむ)れにあなたの手枕を借りると、素晴らしい恋をしたいのに、浮名だけが立つのは惜しいことですと周防内侍(すおうのないし)が詠(よ)んだこの歌は、宮廷の女房と貴公子の恋愛歌として百人一首にも採られている。
 そんな春の夜の恋も、江戸人たちの手にかかると、前句付(川柳)にはこんなふうに詠まれることとなる。

      寝そびれた夜は千両使つてみ
      寝そびれた夜は金をため蔵を建て

 春の日の夜には、せめて夢でもいいから千両使ってみてみたい、金をたんと貯めて大きな蔵でも建ててみたい、というわけである。

 この夢のような願いを小説にしたのが山東京伝(さんとうきょうでん)の黄表紙(きびょうし)『江戸春一夜千両(えどのはるいちやせんりょう)』(天明6年〈1786〉刊)である。
 ある日、主人が番頭に、五百両を一夜で使い切ったら倍の千両をくれてやるという夢のような話を持ち出す。手代(てだい)には二百両、丁稚(でっち)には七両二分、そして息子には千両を渡し、一夜で使い切ったら倍額をプレゼントするというのである。
 大金を使うことは意外にも大変なことであった。番頭は、金を田舎へ仕送りをして田圃(たんぼ)を買うか日頃世話になっている人へ礼をしてと、いろいろ算段するうち夜が明けてしまう。丁稚や手代も使い切れなかった。ただ、放蕩(ほうとう)息子だけは吉原の遊女遊びで一夜豪遊して千両を使い切って褒(ほ)められて、身代(しんだい)をもらもらえることになる。金は貯めるより使え、という田沼時代のバブル経済の世相風潮をよく描いた一作である。

 そもそも江戸時代、商家の奉公人が千両を貯めるというのは、ほぼ不可能に近かった。一両小判の価値が下がった幕末でも、千両となれば現代の一億円を超す金額になろう。奉公人のなかでも季節労働、今で言えば出稼ぎ者も結構いたようだが、基本的には年季奉公といって、ある程度の年限を契約して雇う雇われるという関係にあった。男性の奉公人にはランクがあり、丁稚(小僧)・手代・番頭とランクが上がってゆく。
  奉公人と言っても、江戸時代も270年近くあるから、初期と幕末では呼び方に違いが見られ、番頭は「ばんがしら」とか「ばんとう」「重手代」(おもてだい)と呼ばれ奉公人のトップで、会社で言えば部長や重役といったところであろう。手代は係長か課長といったところであった。
 このほかに下男(飯炊き)・下女などもいて、武家で言えば草履(ぞうり)取りクラスであった。もちろん給金(サラリー)は20歳くらいの手代で年収7、8両といったところだったろう。番頭といっても、その2、3倍といった程度で、彼らには退職金がなかった。あったとしても10年奉公した手代が辞めて手にするのが2両前後、今の30万円ほどであろう。

 退職金制度は明治以降のことである。 よく「のれん分け」をするということが江戸時代の小説や時代劇などに出てくるが架空の話で、仲間組織がガッチリあった時代だけに、彼らはコツコツ貯めて職種による「空き株」を買って商売に参入する仕組みになっていた。たとえば江戸では質屋株は2000軒ほどだったから、誰かが廃業した質屋の「空き株」を買って質屋商売するしかなく、春の夢でもいいから千両の金が欲しいというのは切実な願いであった。





▲『江戸春千夜一両』(天明6年〈1786〉刊)より。右は番頭。二階部屋に閉じこもって五百両を前に、その使い途に思案に暮れている。左は手代。二百両で深川の遊里の遊女を全部買い上げようと、意気込んで出かけるところ。

周防内侍…1110〜13。平安時代後期の女流歌人。後冷泉天皇から堀河天皇までの四朝にわたり宮廷に仕えた。

山東京伝…1761〜1816。江戸時代後期の戯作者(げさくしゃ)・浮世絵師。遊里を写実的に描いた洒落本(しゃれぼん)、大人向けの絵入りコミック小説・黄表紙の第一人者。

田沼時代江戸中期、第十代将軍家治(いえはる)の側用人(そばようにん)・老中(ろうじゅう)として田沼意次(おきつぐ。1719〜88)が政治の実権を握った明和4年(1767)から天明6年(1786)までをいう。積極的な膨張経済政策がすすめられた。

*「春の夜の夢と千両」参考書籍
『新編日本文学全集79』 『黄表紙・川柳・狂歌』の「江戸春一夜千両」
棚橋正博(著) 出版社: 小学館;
詳細をみる
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd5/

*「山東京伝」参考書籍
『山東京伝の黄表紙を読む―江戸の経済と社会風俗』
棚橋正博(著) 出版社: ぺりかん社;

『山東京伝全集』1〜20巻 ・ 棚橋正博(著)
出版社・ぺりかん社
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