事務員、女工、カフェーの女給など様々な職業を転々とし、作家を志した林芙美子。 昭和5(1930) 年、市井に生きる若い女性の生活を綴った「放浪記」を出版し、 発売数カ月で60万部以上も売れたという。時代は第一次世界大戦後の不安定な社会の中、逞しく生きる女性の姿を赤裸々に描いた作品は多くの読者を魅了し、一躍流行作家となり、その鮮烈な筆致は多くの人々に愛された女性である。
さて、林芙美子(本 名フミコ)は明治36(1903)年12月31日 (戸籍上)に林久吉の姪として入籍された。 生誕地は「放浪記」の記述か ら下関生まれとされてきたがいろいろな調査の結果、門司市(現・北九 州市門司区)が正しいようである。
大正5(1916)年5月に広島県尾道市に転居。6月に広島県尾道市第二尋常小学校5年に編入し た。その時、教師・小林正雄が芙美子の文学や絵の才能を見出し女学校進学をすすめる。 この頃、 因島から忠海中学校に通っていた岡野軍一 と親しくなる。 大正11(1922) 年3月に尾道高等女学校を卒業。 明治大学商科専門部に在学し、初恋の相手であった岡野軍一を頼って上京。 19歳の林芙美子の東京生活の第一歩は、雑司ヶ谷から始 まった。
「さて、東京に着いみますと私の空想以上に東京は賑やかな大都会でした。私は賑やかな街路を走ってゐる赤い市内電車に驚いたものです。 (略) 電車から降りると、ひろい坂を下って、つつじの咲きかけている護国寺と云ふ大きな寺の前を通り、水車小屋のある雑司ヶ谷の墓地の方へ歩いていきました。小川があって水車小屋があって、素人下 宿でもしていそうな、障子のすがすがして二階家が黄昏近い薄陽にしづもつていました。 魚やの前を通ると、生きの悪い魚が、苔のぬるぬるしてた板の上へ並べてあったりも しました。 木村屋のパンと書いてあるハイカラなパン屋さんだの、果物屋の美しさは、夢に見たインドの景色のゆやうだと思ひました。 雑司ヶ谷の、その尺八の先生邊は大変さびしいところで聾唖学校や女子大学があるのださうです」(「一人の生 涯」より)
上京してから一か月ほどして尾道の友人に近況報告の葉書 (尾道市立図書館蔵)を出している。 5月2日消印で差出人の住所は「東京市小石川区雑司ヶ谷四八」。林芙美子はここに住んでいたのであろう。 (「雑司が谷旧宣教師館だより/2015年3月25日付」)。
「雑司ケ谷四十八」の近くには鬼子母神堂の本尊となる鬼子母神像が出土したと言われる清戸鬼子母神堂がある。近くには弦巻川も流れ、今もなお豊富な地下水が溢れる井戸(写真)があった。水車小屋は弦巻川のほとりにあったのだろうか。

▲文京区目白台2丁目と豊島区雑司が谷1丁目区界近く
自噴する井戸

▲「豊島区教育委員会発行 豊島区地域地図第4集」 1921(大正10)年をもとに作図。
取材協力:豊島区立郷土資料館
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