小正月(1月15日) ころに「餅網(もちあみ)売り」が来ると、子供たちも正月遊びをやめさせられ、正月が終わったことを実感しました。
この餅網は、餅を焼く網ではありません。 富士山の氷溶(こおりとかし:6月1日の山開き、現在は7月1日)まで餅を保存しておくための網です。
餅は短冊(が多い)に切り、乾燥させたもの(欠き餅)を餅網にいれ、風通しのいいところへ掛け富士山山開きの日まで置き、山開きの日に下ろして火にあぶって食べました。加賀藩が献上した氷を幕府が食べる6月1日に合わせ、氷に見立てて氷餅(こおりもち)と呼びました。
こうして正月が終わり、 大人も子供も楽しみにしていた2月の初午(はつうま)・ 稲荷まつりの準備が始まるのでした。
【江戸時代の四季】
旧暦(明治6年1月1日以前)は月日は月の満ち欠け(太陰)から決め、季節は太陽から決める方式をとった「太陰太陽暦」。季節は「春」1月~3月 、「夏」4月~6月、「秋」7月~9月、「冬」10月~12月
初 午 (はつうま)
▲楊洲周延画(ヨウシュウ, チカノブ)
『江戸風俗十二ヶ月之内二月初午稲荷祭之図』(ニガツ ハツウマ イナリサイ ノ ズ)国立国会図書館所蔵
「初子=はつね(大黒)」や「初不動=はつふどう(不動明王)」など、自家の信ずる神仏への初詣は、正月(一月)最初の縁日にお参りする のが普通であった。ちなみ に現在のように自家の信仰とは全く関係ない寺社への初習慣が始まったのは、明治も半ば以降の事である。その頃漸く盛んになった民営鉄道が、自社の沿線にある寺社へ乗客を乗せるために持たれた行事であった。
それはともかく、正月はじめの「午の日」を飛ばして二月初めの午の日を「初午」と呼ぶのも考えてみればおかしな話である。
訳のない話で、全国稲荷の総本社たる京都の伏見稲荷の祭神 「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」が降臨したのが二月初めの午の日だったからである。これに全国の稲荷が従った 結果、二月初めの午の日を初午と称するようになったのである。
初縁日へのお参りが初詣であるに拘わらず、稲荷神社だけは二月に行うのはそんな理屈である。
伊勢屋稲荷に犬の糞と言われるほど稲荷神社(町内毎の祠も含む)が多かった江戸では、町中至る所で初午祭りを行っていた。
子供達は太鼓を叩きなが各家を廻と、都度お菓子がもらえたから、太鼓は必需品であった。それ用の太鼓を、早ければ小正月の終わった翌日から。 遅くも二十五日頃までには、天秤棒を担いだ振り売り(棒手振り)が、太鼓を賑やかに叩きながら競争で売り歩いていた。
一方大人にとっても初午は楽しみであった。その第一は、普段堅く門を閉じている大名屋敷が一斉に門を開けを 開放したからである。中には邸内に櫓を組み賑やかに踊るものもあった。
「武家邸内なる初午稲荷祭は邸の前町なる町家の子供等を邸内に入ることを許して遊ばしめられ邸内にて屋台出来廿五三十五座の神楽を奏し又は手踊の催しより種々なる作り物あり 花笠掩(おお)へる地口画灯籠(えとうろう)を数多く庭裏より家中の長屋の門口へ立つ 夜に入るや武骨の武士 女子のいでだちして俄踊りの余興など始まるもあり 殿君奥方若君姫君より御殿女中方の透し見もし給ふあり 去れば二月初午は例年市中賑はうことおびただし( 『絵本 江戸風俗往来』)
太鼓売りが来るのは、遅くも初午の前日まで。当日になると早暁から油揚売りが売り歩きました。
こんち(今日=今日と狐の鳴き声コンを掛けた売り声)イ
うまアの日イ
あぶらげ(油揚)エ
狐の好物とされるあぶらげをお供え用に、又後でお下がりを皆でいただくために、いなり寿司 (三角稲荷は 狐の耳、俵型は米俵)にして供えるために買い求めた。 初午が終わる (参考・今年の初午は二月五日)と、桃の節句の準備に切り替えた。
▲「初午祭用太鼓売り」 江戸府内絵本風俗往来 (国立国会図書館所蔵)
▲「江戸市中の初午祭り」 江戸府内絵本風俗往来 (国立国会図書館所蔵)
▲「邸内の初午祭り」 江戸府内絵本風俗往来 (国立国会図書館所蔵)
桃の節句
弥生三月三日は「上巳節」といわれ、女の子の成長を祝う節句として、桃の節句、 雛祭りと呼ばれることも多い。 初午にもまして賑やかに、終わるのを待ち受けるように、桃の花や桜山吹の花などを売り歩く花屋さんの出番である。うる花売りは、雛祭りが近いことを知らせる春の風物である。
花鋏をちょんちょん鳴らしながら「花イ花イ」と声を上げつつ来る花売りは、雛祭りが近いことを知らせる春の風物である。桃や桜の花は欠かせない花として、節句前には大変な忙しさとなる。
一方、雛祭りに欠かせないものとして「白酒」があるが、これの販売は、神田鎌倉河岸の豊島屋が独占的に販売していた。『江戸名所図会』に限らず諸書をひもといてみると、必ず出てるのが豊島屋である。
更にひな祭り当日に欠かせない魚介として「栄螺(さざえ) 、蛤(はまぐり)、「公魚(わかさぎ)」の三点セットがあった。
何れも宮中の節句料理に由来する。
早暁より「サザイにハマグリ、ワカサギヤア」と売り声をたてて売り歩いた (『江戸府内絵本風俗往来参照』)。 「サザエ」でなく「サザイ」というのが江戸流の言い立てである。サザエに限らず「え」や「う」発音したのは、「うお」と振りがなすべき処に「いお」と書いたり、本所の五百羅漢寺にあった「さざえ堂」 に「さざゐ堂」とあるのを見ても納得出来る。或いは、「苗売り」も「朝顔の苗やあ夕顔の苗、糸瓜冬瓜白瓜の苗(へちまとうがんしろうり)」皆「ない」と発音していた。
宮中で現在も行われている「節句料理(三月三日 御所での夕食)」を 『宮中 季節のお料理』(天然生活) から紹介すると下記の通り(二人分)。 真ん中の魚が 「公魚(わかさぎ)」。
▼桃の節句料理/節句料理
(三月三日 ご夕餐/ 御所・お和室にて)
次に「お供え」 風景を見ると、下記の通り。
▼桃の節句 お和室のしつらい
▼九個並ぶ三方のうち、「栄蝶」は右から四番目。
▼ 「蛤」は七番目の三方に飾られる。
▼一つおいて、ひときわ大きな三方に載るのは主役の菱餅である。
【上記料理写真 / 『宮中 季節のお料理』(天然生活)】
上の三点に対し、現在では、「公魚」の存在感がまるでないのは、上の三点がお供え物であるのに対し、公魚は行事食であるから省略されたのであろう。
お供え物であっても資力や財力によって省略される事は多い。上に述べた三点以外は、右から「桃型」、「大海原(羊羹)」「雛あられ」 (栄螺) 「寿司(鯛押寿司・細巻寿司)」「桜餅(紅白)」(蛤) 「笑顔饅=えがおまん(饅頭)」と続き最後にひとき大きい(菱餅)で〆る。
【註=( )内は、上記三点の位置を示すために加えた供え物であっても、省略出来ない三点と、ほかで代用したり省略出来るものに区分した。
蛤の殻は二つと同じものがない。だから貝合に使われるといわれるように、貞淑の象徴と言われる。しかし栄螺のいわれがどうしてもわから ない。ネットを駆使してみたら次のようにあった
関東では、栄螺に限らず桃の節句に巻貝を供えると願いが叶うと言う風習があったらしい。だから神仏へ捧げた後のお裾分けをいただくという事らしいが、今ひとつ納得出来ない。宮廷の風習が全平安朝まで遡るとは思わないが、東京へ転居して未だ百五十年である。 関東の風習だとしたら、根付くのが早すぎる。
上巳の節句、桃の節句自体、元は西の風習である。栄螺だけが入り込むというのには、どうしても無理がある。将来の課題として、納得出来る答えが出るまで不明のままにしておく。
▲葛飾北斎 「十軒店 雛市」(ボストン美術館蔵)
【参考資料】
ボストン美術館
国立国会図書館 『絵本 江戸風俗往来』 『大道芸通信』(第374号) 『宮中 季節のお料理』(天然生活)