江戸の夏行事~今に継承されているものの由来~

 現在の夏は6月から8月までですが、江戸時代は4月から6月まででした。

一見、季節が前倒しされているようですが、旧暦と新暦のずれから生じたものです。従って、今は6月に行っている衣替えを、当時は4月にしていました。一方では季節を考慮せず、同じ暦日を踏襲した行事もあります。そんな江戸の夏行事の中から、今も続いているものとその由来をご紹介します。

暦日を踏襲した行事

 お釈迦様の誕生を祝う 「灌仏会(かんぶつえ) (48)「端午の節句」 (55)などは、季節を意識することなく昔も今も同じ暦日です。 そのため元は夏の行事でしたが、今は春の行事として行われるよ に変わりました。 同じように、七夕 (77)盂蘭盆(うらぼん) (713日~15) などは秋の行事でしたが、現在は夏の行事として定着しています。 しかし、まだ梅雨が明け切っていないことが多々あります。全国的には1カ月遅らせて、8月に行う所が多いのはそのためです。

旧暦と新暦

 ここで旧暦と新暦の違いに触れておきます。
江戸時代の暦は「太陰暦」と呼ばれ、月の満ち欠けによって1カ月の単位を決めていました。
つまり新月から満月を経由して新月までが1ヵ月です。平均すると29.5日でした。
 実際には、1日が 0.5日ということはありません。1ヵ月が30日ある「大の月」と、29日しかない「小の月」に分けて運用していました。
 これを表す暦が「大小暦」ですが、1年に換算すると354日前後です。そのため「太陽暦」(現在の暦)に対し不足する日数分を23年に1度、1年が13ヵ月ある間を置くことによって調整していました。
 閏月を何月にするかは、幕府の天文方が季節とのずれを考慮しながら決めていました。

夏から春の行事へ

 元々夏の行事であった灌仏会(花祭り)や端午の節句(こどもの日)が春の行事になったことにより、変わったこと変わらないことを見てみたいと思います。
 灌仏会は花御堂の真ん中へ誕生仏を置き、甘茶を注ぐ風習は今も変わりません。しかし春の4月は時に肌寒く、害虫も潜んだままです。だから誕生仏へ注いだ甘茶で墨を摺り、「千早振る卯月八日は吉日神さけ虫を成敗する」と書 いて柱に貼った、毒虫退散の風習は絶えてしまいました 。

端午の節句は菖蒲の節句ともいわれるように、どこでも手に入る菖蒲が主役でした。子供たちが刀(菖蒲 刀)にして、チャンバラ遊びができたのも、菖蒲が豊富だったからです。季節が前倒しになった現在では、 温室育ちのため、菖蒲湯にしか使われないほど高くなりました。幟(のぽり)も鯉幟ではなく、鐘馗(しょうき)などの豪傑を描いた幟幢(のぼりばた)を立てるのが一般的でした。 
 江戸時代も後期になると、江戸を中心に柏の葉を使った「柏餅」が出てきます。柏の葉は新芽が出るまで 古い葉が落ちないことから、子孫繁栄に通じると武士の間で喜ばれたようです。しかし、童謡 「背比べ」にも ・・・まき食べ食べ兄さんが・・・と歌われているように「粽(ちま) 」が圧倒的でした。柏餅が全国に拡がるのは昭和になってからです。

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東都歳事記 「端午市井図」

両国の夕涼み

 隅田川の「川開き」 といえば、すぐに両国の花火を連想するのは、江戸時代も同じです。 両国で花火を打ち上げるようになったのは享保19(1733)からです。前年に始まった大飢饉(享保の飢饉)とコレラの大流行に伴い、江戸でも多くの死者を出しました。  
 そんな死者の霊を慰めるためと病魔退散を願い、幕府は両国で水神祭を実施しました。その際に花火を打ち上げたのが、隅田川花火の始まりです。当時は川開きより「夕涼み」という言い方が一般的でした。花火も528日の初日だけでなく、828日の千秋楽まで、スポンサーさえ付けば、毎日のように打ち上げていたからです。その花火を作っていたのが「鍵屋」「玉屋」です。

 元々鍵屋だけでしたが、文化5(1808)に鍵屋の番頭だった清七が独立し、玉屋市兵衛を名乗ったのが玉屋の始まりです。その後は両国橋の上流と下流で技を競いあったと伝わります。実際には「橋の上 玉屋々々の声ばかり なぜに鍵屋といわぬ情(錠=鍵屋の掛詞)なし」の狂歌が残るように、玉屋の方が圧倒的に人気だったようです。ところが天保14(1843) 玉屋は火事を起こし、所払いになってしまいました。以来、鍵屋だけが歴史を伝えていました。

 明治以降は時々中断しましたが、その都度復活しました。直近の中断は、昭和37(1962) から52年まででした。その後都民の声に押されさて、同53年に「隅田川花火大会」と名前を変えて復活し、現在に続いています

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東都名所 両国の涼 歌川国芳

山開き

  61日は、「氷室(ひむろ)御祝儀」として、幕府は貯蔵していた天然氷を取り出して食べる日でした。
民間では、寒の時期について網()に入れ保存しておいた「氷餅(こおりもち) <かき餅>」を、代わりに食べていました。「東都歳事記」が「町屋にても旧年寒水を以て製したる餅を食してこれに比(なぞ)らう」と載せています。
 富士山や大山などの山開きもこの日行われました。当時の登山は宗教活動の一環でしたから、登拝する人 は、水垢離(みずこり)などで身を清めて山へ向かいました。数ある山のなかでも富士山は古くから霊峰と呼ばれ、別格の存在でした。とりわけ角行東覚(かくぎょうとうかく<15411646>) の始めた富士講は、庶民に富士山信仰を広めるきっかけとなりました。

 しかし、富士講が江戸市民の間で爆発的にはやるのは、食行身緑 (じきぎょうみろく<16711733>) が富士山烏帽子岩で断食修行を続けたまま入定したことによります。享保17年から始まった享保の大飢饉は、翌年には江戸へ飛び火、初めて打ち壊しがありました。それでも何ら手を打たなかった幕府へ抗議の意味を込めてです。そのことを知った江戸の人々は競って富士講信者となり、俗に八百八講といわれるほど隆盛するようになりました。

しかし当時の富士山は女人禁制だったので、女性は登拝することが許されませんでした。 打開策としてミニチュア富士「富士塚」が築かれるようになりました。こちらは女性も含め誰でも登拝できたのでみるみるたくさんの富士塚が築かれるようになりました。中でも北方探検で知られる近藤重蔵が目黒の別邸に築いた「新富士」は、すぐ近くの「元富士」と共に、広重が名所江戸百景に描いたほど知られていました。 
 富士塚自体の高さは512m前後と幅がありますが、風光明媚で本物の富士山が望める高台などに築かれたものは特に人気がありました。しかも本物へ登拝したのと同じご利益が得られるとされていました。ですから富士塚へ登拝する人たちも、61(現在は71)は、白衣に着替えて「六根清浄」と唱えながら登拝を行いました。 品川富士や下谷富士などは、今もなお登拝行事を継承しています。

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富士講の一行(東都歳事記)着色:福島信一

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二代歌川国輝 富士山諸人参詣之図

盆踊り

 盆踊りは元来、盂蘭盆(うらぼん)の時期に先祖を慰める先祖供養の一環として踊られました。 だから古くからのものは、念仏踊りの面影を残しています。 東京都指定無形民俗文化財である佃島に伝わる盆踊りも、 先祖供養の形を今に伝えています。 
 踊り会場には、南無阿弥陀仏」と書かれた提灯が飾られ、正面には精霊棚が建てられます。 棚の真ん中に「無縁仏」と書かれた掛け軸を掛け、野菜を供えるのが習わしです。精霊棚の前には、山盛りに線香を入れた火鉢が置かれ火がつけられます。 踊り手はその前で精霊棚に手を合わせてから踊るのが習わしです。なぜそんなことをするようになったかは、 佃島の位置と歴史に関係しているようです。

 開府以来、江戸の街には死者が大勢出る大火事がたくさんありました。中でも明暦3(1657)の大火は、 江戸の大半を焼き尽くす大惨事でした。このとき避難民が殺到したのが、浅草見附門です。しかし、役人たちは門を閉ざしたまま開けなかったため、火の手に追われた人々は塀を乗り越え次々と隅田川へ落ち溺死しました。 その数3万人以上といわれます。溺死者の多くは、三途の川 (隅田川)を下り、六道の辻 (佃島)に流れ着いて止まりました。 そんな溺死者を慰め、供養するために始まったのが、佃島の念仏踊り(盆踊り)です。

 私が初めて佃踊り見学へ行ったとき、世話人と思える人に山盛りの線香を焚く由来を尋ねたところ、「死体の匂いよりはいいでしょう」 と言われたことを今も思い出します。 
 実際、 隅田川が三途の川であったことは、遊女や夜鷹の末路を見れば分かります。
年取って商品価値のなくなった夜鷹を橋場で殺して捨てた、などという古川柳も残っています。
 「橋場」は吉原に近い人通りの少なかった隅田川上流、白髯橋付近のことです。夜鷹に限らず、隅田川を流れてきた無縁の人々をも一緒に供養する念仏踊りを、何時までも続けて欲しいと願うのは私だけでしょうか。平成30年から踊りの主催者が分裂し、それぞれが別々の日に行うようになりました。
  例年通りの日程(713日~15)は新興の団体が、都無形民俗文化財の方は1月遅れの81315日の間に行うことで決着がついたようです。 無形民俗文化財の方はこれまで通りを踏襲とのことですが、新興の方は精霊棚を仏壇に変え掛け軸の文字も 「南無阿弥陀仏」に変更、火鉢に大量の線香もありませんでした。

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佃踊り(絵本江戸風俗往来)

参考資料
ボストン美術館
国立国会図書館
早稲田大学図書館
『東都歳事記』
『絵本江戸風俗往来』
『武江年表』
『中央区史』 (東京都中央区編)
『佃島物語』 (豊田靖人ほか編)他
江戸東京博物館友の会会報『えど友』 令和元年5-6 第109号 

江戸の春の楽しみ~「初午」と「桃の節句」~

 小正月(1月15日) ころに「餅網(もちあみ)売り」が来ると、子供たちも正月遊びをやめさせられ、正月が終わったことを実感しました。
 この餅網は、餅を焼く網ではありません。 富士山の氷溶(こおりとかし:6月1日の山開き、現在は7月1日)まで餅を保存しておくための網です。
 餅は短冊(が多い)に切り、乾燥させたもの(欠き餅)を餅網にいれ、風通しのいいところへ掛け富士山山開きの日まで置き、山開きの日に下ろして火にあぶって食べました。加賀藩が献上した氷を幕府が食べる6月1日に合わせ、氷に見立てて氷餅(こおりもち)と呼びました。
 こうして正月が終わり、 大人も子供も楽しみにしていた2月の初午(はつうま)・ 稲荷まつりの準備が始まるのでした。

【江戸時代の四季】
旧暦(明治6年1月1日以前)は月日は月の満ち欠け(太陰)から決め、季節は太陽から決める方式をとった「太陰太陽暦」。季節は「春」1月~3月 、「夏」4月~6月、「秋」7月~9月、「冬」10月~12月

 「初子=はつね(大黒)」や「初不動=はつふどう(不動明王)」など、自家の信ずる神仏への初詣は、正月(一月)最初の縁日にお参りする のが普通であった。ちなみ に現在のように自家の信仰とは全く関係ない寺社への初習慣が始まったのは、明治も半ば以降の事である。その頃漸く盛んになった民営鉄道が、自社の沿線にある寺社へ乗客を乗せるために持たれた行事であった。

 それはともかく、正月はじめの「午の日」を飛ばして二月初めの午の日を「初午」と呼ぶのも考えてみればおかしな話である。

  訳のない話で、全国稲荷の総本社たる京都の伏見稲荷の祭神 「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」が降臨したのが二月初めの午の日だったからである。これに全国の稲荷が従った 結果、二月初めの午の日を初午と称するようになったのである。

  初縁日へのお参りが初詣であるに拘わらず、稲荷神社だけは二月に行うのはそんな理屈である。

  伊勢屋稲荷に犬の糞と言われるほど稲荷神社(町内毎の祠も含む)が多かった江戸では、町中至る所で初午祭りを行っていた。

 子供達は太鼓を叩きなが各家を廻と、都度お菓子がもらえたから、太鼓は必需品であった。それ用の太鼓を、早ければ小正月の終わった翌日から。 遅くも二十五日頃までには、天秤棒を担いだ振り売り(棒手振り)が、太鼓を賑やかに叩きながら競争で売り歩いていた。

  一方大人にとっても初午は楽しみであった。その第一は、普段堅く門を閉じている大名屋敷が一斉に門を開けを 開放したからである。中には邸内に櫓を組み賑やかに踊るものもあった。

 「武家邸内なる初午稲荷祭は邸の前町なる町家の子供等を邸内に入ることを許して遊ばしめられ邸内にて屋台出来廿五三十五座の神楽を奏し又は手踊の催しより種々なる作り物あり 花笠掩(おお)へる地口画灯籠(えとうろう)を数多く庭裏より家中の長屋の門口へ立つ 夜に入るや武骨の武士 女子のいでだちして俄踊りの余興など始まるもあり 殿君奥方若君姫君より御殿女中方の透し見もし給ふあり 去れば二月初午は例年市中賑はうことおびただし( 『絵本 江戸風俗往来』)

太鼓売りが来るのは、遅くも初午の前日まで。当日になると早暁から油揚売りが売り歩きました。

  こんち(今日=今日と狐の鳴き声コンを掛けた売り声)イ

  うまアの日イ

  あぶらげ(油揚)エ

 狐の好物とされるあぶらげをお供え用に、又後でお下がりを皆でいただくために、いなり寿司 (三角稲荷は 狐の耳、俵型は米俵)にして供えるために買い求めた。 初午が終わる (参考・今年の初午は二月五日)と、桃の節句の準備に切り替えた。

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▲「初午祭用太鼓売り」 江戸府内絵本風俗往来 (国立国会図書館所蔵)

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▲「江戸市中の初午祭り」 江戸府内絵本風俗往来 (国立国会図書館所蔵)

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▲「邸内の初午祭り」 江戸府内絵本風俗往来 (国立国会図書館所蔵)

桃の節句

 弥生三月三日は「上巳節」といわれ、女の子の成長を祝う節句として、桃の節句、 雛祭りと呼ばれることも多い。 初午にもまして賑やかに、終わるのを待ち受けるように、桃の花や桜山吹の花などを売り歩く花屋さんの出番である。うる花売りは、雛祭りが近いことを知らせる春の風物である。

 花鋏をちょんちょん鳴らしながら「花イ花イ」と声を上げつつ来る花売りは、雛祭りが近いことを知らせる春の風物である。桃や桜の花は欠かせない花として、節句前には大変な忙しさとなる。

 一方、雛祭りに欠かせないものとして「白酒」があるが、これの販売は、神田鎌倉河岸の豊島屋が独占的に販売していた。『江戸名所図会』に限らず諸書をひもといてみると、必ず出てるのが豊島屋である。

 更にひな祭り当日に欠かせない魚介として「栄螺(さざえ) 、(はまぐり)、「公魚(わかさぎ)」の三点セットがあった。

 何れも宮中の節句料理に由来する。
早暁より「サザイにハマグリ、ワカサギヤア」と売り声をたてて売り歩いた (『江戸府内絵本風俗往来参照』)。 「サザエ」でなく「サザイ」というのが江戸流の言い立てである。サザエに限らず「え」や「う」発音したのは、「うお」と振りがなすべき処に「いお」と書いたり、本所の五百羅漢寺にあった「さざえ堂」 に「さざゐ堂」とあるのを見ても納得出来る。或いは、「苗売り」も「朝顔の苗やあ夕顔の苗、糸瓜冬瓜白瓜の苗(へちまとうがんしろうり)」皆「ない」と発音していた。

 宮中で現在も行われている「節句料理(三月三日 御所での夕食)」を 『宮中 季節のお料理』(天然生活) から紹介すると下記の通り(二人分)。 真ん中の魚が 「公魚(わかさぎ)」。

▼桃の節句料理/節句料理
(三月三日 ご夕餐/ 御所・お和室にて)
桃の節句料理 節句料理 _2023-02 JPG.JPG

















次に「お供え」 風景を見ると、下記の通り。
▼桃の節句 お和室のしつらい

桃の節句 和室のしつらい _2023-02 .JPG























▼九個並ぶ三方のうち、「栄蝶」は右から四番目。

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▼ 「蛤」は七番目の三方に飾られる。

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▼一つおいて、ひときわ大きな三方に載るのは主役の菱餅である。
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【上記料理写真 / 『宮中 季節のお料理』(天然生活)】

 上の三点に対し、現在では、「公魚」の存在感がまるでないのは、上の三点がお供え物であるのに対し、公魚は行事食であるから省略されたのであろう。

 お供え物であっても資力や財力によって省略される事は多い。上に述べた三点以外は、右から「桃型」、「大海原(羊羹)」「雛あられ」 (栄螺) 「寿司(鯛押寿司・細巻寿司)」「桜餅(紅白)」(蛤) 「笑顔饅=えがおまん(饅頭)」と続き最後にひとき大きい(菱餅)で〆る。

【註=( )内は、上記三点の位置を示すために加えた供え物であっても、省略出来ない三点と、ほかで代用したり省略出来るものに区分した。

 蛤の殻は二つと同じものがない。だから貝合に使われるといわれるように、貞淑の象徴と言われる。しかし栄螺のいわれがどうしてもわから ない。ネットを駆使してみたら次のようにあった

  関東では、栄螺に限らず桃の節句に巻貝を供えると願いが叶うと言う風習があったらしい。だから神仏へ捧げた後のお裾分けをいただくという事らしいが、今ひとつ納得出来ない。宮廷の風習が全平安朝まで遡るとは思わないが、東京へ転居して未だ百五十年である。 関東の風習だとしたら、根付くのが早すぎる。

 上巳の節句、桃の節句自体、元は西の風習である。栄螺だけが入り込むというのには、どうしても無理がある。将来の課題として、納得出来る答えが出るまで不明のままにしておく。

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▲葛飾北斎 「十軒店 雛市」(ボストン美術館蔵)

【参考資料】
ボストン美術館
国立国会図書館                                                              『絵本 江戸風俗往来』                                        『大道芸通信』(第374号)                            『宮中 季節のお料理』(天然生活)






江戸の正月風景  

 お正月を迎えるとすがすがしい気持ちになるのは江戸の昔も今も変わりません。しかし、比べてみると変わったことも多いようです。江戸時代には現代のような曜日や休日感覚はなく、正月と盆に加え五節句や寺社の縁日を中心に、仕事を休んでいただけです。また正月2日は、新年の顔合わせ的な要素も強く、仕事は午前で 終え、午後からは祝い膳を囲むことが多かった ようです。 改めて江戸の正月風景を見てみましょう。

初日の出

 江戸の正月は、静かだが朝は早い。中でも「初日の出」を拝む人たちは、月明かりの全くない大晦日 《(おおつごもり)大月籠(おおつごもり)・新月)》の夜道を、 目的地まで黙々と歩きました。 当時、 初日の出 を迎える名所は高輪、 芝浦、 愛宕山、神田、湯島、深川洲崎堤防などです。いずれも海に面しているか、海の見える高台にありました。
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▲『江戸名所図会』 挿絵: 長谷川雪旦 着色: 広報部会 福島信一

新年の祝い  

 一方、町中(まちなか)は綺麗(きれい)に掃き清められ、 前夜遅くまで続いた喧噪がうそのように全ての見世 (店)は雨戸を閉め、物音一つしない静けさの中で新年を迎えました。それでも初日の出を拝み終えた人たちが家路につく頃には、皆起き出しました。 家長を中心に若水(わかみず)を汲み、その水で雑煮を煮、福茶(ふくちゃ)を飲んで新年を祝うためです。

 「若水」は新年の最初に汲みあげる井戸水のことです。 江戸の水道は、蛇口をひねると水が出るものではありません。文字通り水の通る道、水路のことです。四谷大木戸までは露天のまま、そこから先は地下に埋設された木樋を通って市中を巡っていました。 木樋には、所々に水を溜める枡が設置され、地上と枡は井戸でつながっていました。 その井戸から最初に汲みあげる水が若水です。 汲みあげた水はいったん瓶(かめ)に入れ、必要の都度手桶で器に移して利用しました。お正月にはこの手桶も新調して輪飾りをかけ、瓶から水を汲む場合は恵方に向かって汲むのが習わしでした。

 「福茶」とはお茶に梅干または結び昆布、あるいは両方を入れたものです。西日本各地では現在も広く行われて いますが、 東京では絶えた風習のようです。

●正月 汲若水.jpg▲汲若水 広重画「狂歌四季人物」 メトロポリタン美術館蔵

恵方参りと年籠・初縁日詣

 新年の祝いが終わると、再び静けさが戻ります。 その後は恵方参りや氏神への初詣に出かける者もありましたが、 多くは終日のんびり過ごしました。 当時は現在のような初詣習慣はなく、初子(大黒天)や初不動(不動明王)などへの初縁日詣がいわば初詣のようなものでした。

 「恵方参り」は、歳徳神《とくとくがみ (その歳の福徳を司る神で、干支によって毎歳変わる)》のいる寺社へ参詣することです。氏神への初詣は、元来「年籠」(としごもり)でした。家長が大晦日の夜から元日の朝にかけて氏神のところへ籠る(年を越えて籠る)ことです。 今年一年無事に過ごせたことへの感謝と、新年の無事と平安をお願いするためでした。これが、大晦日の「除夜詣」と 元日の朝の「元日詣」の二つに分かれたのです。 除夜詣(じょやもうで)は除夜の鐘突きに残り、元日詣は初詣に変化したとされています。 なお、今のような氏神と全く切り離された初詣をするようになったのは、明治も半ば以降のことです。その頃発達した鉄道各社が、自社の経営する鉄道沿線にある寺社への誘客運動の一環として行ったのが最初とされます。

鳥追いと小鰭の売り

 元日をゆっくり過ごしたからでもないでしょうが、2日になると早朝より全てのものが動きだしました。初荷、町火消しの出初(でぞめ)、太神楽(だいかぐら)、鳥追(とりおい)、万歳、小鰭の鮨売り、宝船売りや暦売り、文武の稽古始めなども一斉に始まります。中でも江戸に独特なのが「鳥追」と 「小鰭の鮨売り」でした。

「鳥追」は元来、農村での害鳥駆除と豊作を願う小正月(こしょうがつ)行事です。拍子木や太鼓などを賑々(にぎにぎ)しく敲きながら大声をあげて歌い歩くのは、害鳥を追い払うための有効手段だからです。これを真似たのが年末に現れる「節季候」(せきぞろ)であり、年始の「鳥追」です。『嬉遊笑覧』が「毎年臘月《ろうげつ (12月)より節季候となり、元日より15日まで鳥追となる」》と書いているように、現れる時期が違うだけで、元は同じものでした。

 鳥追については『守貞謾稿』が「今は京坂にはいないが、江戸には沢山いる。 しかも男ではなく、女太夫がしている」と書いています。 「女太夫」は普段から2、3人連れで三味線や胡弓を弾き語り歌う、いわばストリートミュージシャンのことです。 これを元日(実際には2日)から15日までの間に限り「鳥追」と呼びました。普段の菅笠を編笠に換え一段とおめかしして着飾り、目出度(めでた)い歌を歌い、金銭を受けていました。江戸の鳥追が女太夫であったのは、江戸が極端な男社会だったからです。 単身赴任の武士が人口の半分、 残り の半分も農家の次男、 三男などの出稼ぎ者が多かったからです。 そんな男社会だから、女太夫にとっては普段でも武家屋敷長屋は最も稼げる場所でした。一度に市中の10倍20倍ともらえたからです。逆に言えば、武家長屋住まいはそれほどの侘び住まいでした。 まして人恋しくなる正月は、普段にも増して心寂しく気は立っていました。そんな処へボロをまとって割竹を激しく叩きながら大騒ぎする節季候姿で現れたら、騒動のタネを持ち込むようなものです。ここは一つ、割竹を三味線に持ち換えた女太夫の方が相応(ふさわ)しい。「鳥追」に変じた女太夫が、市中へ繰り出していきました。

 同じ頃、 渋いながらもよく通る声で売り歩いたのが「小鰭の鮨売り」です。「坊主騙して還俗(げんぞく)させて小鰭の鮨でも売らせたい」という都々逸が流行ったほど、声の魅力で売っていました。蓋の上に紅木綿(べにもめん)をかけた鮨箱を重ねて肩へ担い、水浅葱(みずあさぎ)の染手拭はもちろん、衣類股引腹掛から足袋(たび)草履(ぞうり)にいたるまで新調し、正月2日の朝から「こはだのすしイ」と呼び歩いていました。『守貞謾稿』も「重ね筥(ばこ)に納めて之を肩にす。 (中略) 初春には専ら小はだの鮨を呼び売る」とあります。 これも江戸の正月には欠かせない光景でした。

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▲歌川国貞画 鳥追 「江戸名所百人美女」 東京都立図書館蔵

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▲節季候 (せきぞろ)「人倫訓蒙図彙」

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▲歌川国貞画 女太夫 『江戸名所百人美女』 東京都立図書館蔵

●正月 小鰭の鮨売-2.jpg▲小鰭の鮨売 『狂歌四季人物』 国立国会図書館蔵

扇箱買と餅網売り

当時年始の挨拶廻りにつきものだったのが、扇を入れた「扇箱」(おうぎばこ)でした。 扇といっても立派なものより、「ばらばら扇」などと陰口をたたかれた粗悪品が多かったようです。 それでも売れたのは、来客の多さを誇る見得のため、箱のまま井桁に組んで玄関先へ積み上げておく風習があっ たからです。ですから貰いの少ない家では、わざわざ扇箱を買ってまで積み上げていたといわれます。

 そうまでして集めた扇箱も、松の内を過ぎると不要になります。心得 たもので、来年用に扇箱を買い集める人がいました。それが 「扇箱買」です。「売る内にもう買いに来る扇箱」という川柳は、人より先に買い集めようと繰り出す扇箱買を皮肉ったものです。

 小正月(1月15日) ころに「餅網(もちあみ)売り」が来ると、子供たちも正月遊びをやめさせられ、正月が終わったことを実感しました。この餅網は、餅を焼く網ではありません。 氷餅《こおりもち(かき餅)》を網に入れ、富士山の氷溶(こおりとか)し(6月1日の山開き、現在は7月1日)まで保存しておくための網です。 こうして正月が終わり、 大人も子供も楽しみにしていた2月の初午(はつうま)・ 稲荷まつりの準備が始まるのでした。

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▲払扇箱買 『狂歌四季人物」 国立国会図書館蔵

【参考資料】 『東都歲事記』 『江戸府内 絵本風俗往来』 『嬉遊笑覧』 『守貞謾稿』 他
江戸東京博物館友の会会報『えど友』 平成31年1月 第107号 引用

日本の大道芸と物売り芸

江戸から今に伝わる伝統芸能「大道芸」

Profile

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光田 憲雄( みつだ のりを)

日本大道芸伝承家、東京都ヘブンアーティスト、日本風俗史学会会員。現住所、東京都世田谷区北烏山。1946年1月山口県に生まれる。1970年頃から大道芸の世界にのめり込む。
1995年3月記録(『大道芸通信』の発行)・伝承(伝承者養成のための講習会・講演会開催等)・復活再生(イベント等へ出演)を目的に、「日本大道芸・大道芸の会」立ち上げ。
2002年8月東京都主催、第1回ヘブンアーティストコンテスト合格。
主な著書『日本大道芸事典』(岩田書院)『江戸の大道芸人』-庶民社会の共生(<つくばね叢書)など。
大道芸の記録・伝承・復活再生に活動中。



江戸から今に伝わる伝統芸能「大道芸」 概説

『古来から伝わる日本の大道芸は、大きく物売り系と芸能系に分けられる。何れも青息吐息、絶滅まで秒読み段階となった。かつては祭や縁日になくてはならないものであったが、何時の間にか忘れ去られようとしている。
そんな日本の大道芸を伝承するために、25年前に立ち上げたのが、私たち「日本大道芸・大道芸の会」である。元々啖呵口上で人を集め商売するものであったが、物が溢れる現在では商売としては成り立たなくなった。話芸話術のプロセスを研究し伝承することを目標に活動を続けている。現在では聞かれなくなった 「振り売り」の声や「願人坊主」がやっていたものまで、各種資料に基づき復活披露もしている。』