小説「江戸人紀」
ほしひかる著
ほしひかる氏プロフィール
エッセイスト、 江戸ソバリエ認定委員長 (江戸ソバリエ協会副理事長)
著書・共著に「江戸蕎麦めぐり」(幹書房)、『新・神奈川のうまい蕎麦64選』(幹書房)、 『埼玉のうまい蕎麦75選』(幹書房)、『静岡・山梨のうまい蕎麦83選』(幹書房)、 『休日の蕎麦と温泉巡り』(幹書房)、『至福の蕎麦屋』(ブックマン)など。 他に、「解体新ショー」(NHK-TV)、「江戸のススメ」(BS−TBSテレビ)、「幸福の一皿」(BS朝日テレビ)、「コレスタン」(日本テレビ)、「シルシルミシル」(テレビ朝日)などや各講演会に出演。ネットでは江戸ソバリエ協会、江戸東京下町文化研究会、フードボイスなどに発信中。これまでの活動により、各関係団体より感謝状を授与される。

第五巻 広重、葵坂で蕎麦を啜る

☆歌川広重(1797〜1858)
 江戸の定火消安藤家に生まれる。歌川豊広(1776〜1828)に入門、1823年火消し同心を辞めて絵師に専念、1832年に浮世絵師として独立。1862年ごろは日本橋大鋸町、その後は常盤町に住していた。

☆「虎の門外あふひ坂」
12月10日の夕暮れだった。浮世絵師の広重(1797〜1858)は溜池から葵坂まで歩いてやって来た。
陽は落ちて辺りは薄暗くなっていた。坂の右側には肥前佐賀藩鍋島三十五万石の屋敷、左には日向延岡藩内藤十万石の屋敷があった。坂を下ると、正面は讃岐丸亀藩京極五万石の屋敷であった。これが江戸の街だ。
広重は版元からよく言われていた。「江戸は大名屋敷と寺の街です。それを描くだけで犢掌有瓩砲覆襦廚函
「成る程」とも思う。しかし、それだけでは能がない。だから、絵師広重は何かを求めて歩き回るのであった。
暗くなってきた。人影もまばらになり、女性の姿が見なくなった。遠くで犬が吠えている。
広重はブルっと肩を震わせた。「さすがに寒いな」と思いながら、広重はお濠のそばに並んでいる二軒の屋台の方に足を向けた。
屋台は二八蕎麦屋であった。一軒は、水でも汲みに行っているのか誰もいなかった。
蕎麦が好きな広重は、日本橋通一丁目の「東橋庵」にはよく顔を出していた。「東橋庵」は高級蕎麦屋だったが、今宵のような屋台で食べることも慣れていた。広重はもう一軒の屋台に近寄るや、親父に声をかけた。 
蕎麦を待っているあいだ後を振り返り、あらためて辺りの景色を眺めてみた。溜池の水の落し口からは水が音を立てて流れ落ちていた。空の月は冴え、星が煌めいていた。坂上の榎木の枯れた姿ですら、絵になる光景であった。このよう景色に出会うために広重は毎日、歩くのだった。歩いてその場に行って、情景を身体で感じる。いえば、歩くのも仕事のうちであった。
広重は、天保2年に『東都名所』10枚を、天保4年に『東海道五十三次』55枚を世に出してから、「旅の絵師」、「風景の画家」と呼ばれるようになり、その仕事一筋に邁進してきたのだった。とくに、江戸における名所絵の数は千枚にも及び、題材となった名所は江戸150ケ所は数えられた。日本橋、神田明神、品川御殿山、高輪、洲崎、飛鳥山、不忍弁天、待乳山などは何回も通った。そして昨年から今年にかけては、江戸城の周りをさかんに歩き回っていた。『江戸名所百景』の、「外桜田弁慶堀糀町」、「糀町一丁目山王祭ねり込」、「紀乃国坂赤坂溜池遠景」、「霞かせき」を描くためであった。
ところで、広重は界隈を散策する度に、というよりか若いころ火消同心だっただけに感心することがあった。それは江戸城の濠の巧みさであった。
江戸城のお濠の水源は三つあった。
一つは江戸の高台に降る雨であった。その雨が集まる低い谷筋と川筋、つまり局沢と平川を掘り下げて、お城のぐるりを囲んだのが江戸城のお濠であった。その濠の分水嶺になっているのが半蔵門で、一方が「局沢の沢筋」。これは桜田濠、日比谷濠と連なり、さらに数寄屋橋、八丁堀などへ流れて海へ行くのである。反対側が「平川筋」。この水は平川濠、千鳥ヶ淵、清水濠へと移動していた。
水源の二つめは自然の湧水であった。広大な江戸城内には鬱蒼とした森林があり、湧水や、池があった。城内の濠のなかで最も上流にある道灌濠の水は蓮池濠へ、乾濠へと移っていくのであった。
そして三つめの水源は人工の玉川上水であった。玉川の水は四谷大木戸から桶管によって、一部は四谷御門 → 半蔵御門まで運ばれて城内へ、もう一つは桜田濠に補給されているのであった。
当然、豊富な水に囲まれた江戸城付近には名水と讃えられる井戸も多くあった。たとえば、桜田御門内の「亀井」、虎の御門内の「柳の井」、幸橋御門土手の「姫か井」である。
知り合いの唐人が「江戸は世界一の水の都だ」と言っていたが、その原点は江戸城の濠にあると思っていた。その唐人というのは、オランダ舶来の染料である「ベロ藍」を扱っている商人であった。「ベロ藍」は今までの日本の藍色とは違っていた。英泉、北斎ら意欲的な絵師たちはこの新しい色に飛びついた。むろん広重も使った。広重得意の海、川、濠、池の水を描くためにであった。  
広重が水辺の景色にこだわるのは、火消同心の子として生まれた彼にとって、社会生活には水が不可欠であることを生まれる前から認識していたせいであるかもしれなかった。広重の水観は、「人間から見れば水とは生活であるが、絵師から観れば水とは景観である」ということだった。元火消同心の、広重の景観は水なくしては景観ではなかった。江戸の名所とは、いや日本の景観とは、川、海、池、堀そのものであると認識していた。水がなければ日本ではないとさへ思っていたから、広重が描く絵のほとんどは川、海、池、堀、そして雨が多かった。そして川にせよ、海にせよ、広重の水はひとしくベロ藍で処し、さらにぼかしを使っていた。この「ベロ藍とぼかし」が犢重瓩任△辰燭里任△襦
そんなこと思っているとき、屋台の親父が広重に《かけ》を手渡した。「へい、お待ちド」。
「お」と声にもならない声を出しながら蕎麦を受け取り、箸を取りながら前方の京極屋敷の方に目をやった。金毘羅宮の幟が寒風を受けていた。
そこへ、晒木綿の後鉢巻に腹巻と姿褌姿の、素足の若者が二人、駆足で通り過ぎて行った。1人は20歳ぐらいの若者、1人はちょっと見たところまだ14、5ぐらいだった。
「直ぐそこの、金毘羅さまへの寒三十日裸参りでごぜえますよ」と親父が言った。
元武士であった広重は話すことがあまり好きでなく、とくに50歳を過ぎたら、喋ることが億劫になっていた。広重はむっつり顔のまま頷き、熱い汁を一口啜り、「あ〜」と満足気な声を出した。やはり、寒い夜は熱い汁を飲むのに限る。そして広重は「寒の裸参りか・・・・・・」と声にならない声で呟いた。
寒の参りとは、立春に至る30日の間に、江戸職人の子弟が自分仕事の腕が上達するようにと神仏へ祈誓することであった。いつごろから始まったか知らないが、20歳前後の若者が多く、たいていは二人三人と連れ立って詣でることが多いようだ。家を出るときに水垢離をして、手に「日参」と書いてある長提灯を持って、鈴を打ち鳴らしながら、駆足で日ごろ信じている神仏が在す寺社に至る。江戸では、ここ金比羅社や、すぐ近くの山王神社、あるいは神田明神や、根津社、上野東照宮、浅草の三社、深川の不動尊などに詣でることになっている。目的の寺社に着いたら、再び水を浴びて祈願し、また駆足で戻るのである。
裸の若者の背中を見送りながら屋台の親父が言った。「江戸っ子だねエ」。
その言葉に広重はハッとして、箸を止めた。広重も江戸っ子である。だからこそ、版元の魚屋栄吉のすすめで、「江戸の名所」を絵にして残そうと思い立ったのである。「ならば、寒の裸参りを描かなけゃ話にならぬ」と広重は思った。先には「王子装束榎木大晦日の狐火」を描いたばかりであった。そこでは群れる狐の動きの、ある瞬間を切り取ったように描いて、「狐火」という猯邉き瓩鯑海出すことに成功した。今度の、この「葵坂の寒の裸参り」では、冬の夜の猯箋き瓩鮴擇蠎茲辰読舛い討澆茲Α△塙重は自分に言い聞かせるのであった。

東路へ 筆を残して 旅の空 西のみくにの 名どころを見む」。
旅の画家といわれた広重の辞世の歌である。広重がいかに歩くことや旅好きだったかが窺われる。

参考:望月義也コレクション著『広重名所江戸百景』(合同出版)、村松梢風著『本朝画人伝 安藤広重』(中公文庫)、中野重治著「広重」(光文社文庫)、原信田実著『謎解き広重「江戸百」』(集英社新書)、永井荷風著『江戸の芸術』(岩波文庫)、鹿島萬兵衛著『江戸の夕栄』(中公文庫)、菊池貴一郎著・鈴木棠三編『東洋文庫50―絵本江戸風俗往来』(平凡社)、富山和子著『水の旅』(文春文庫)、封中如雲監修『司馬江漢―東海道五十三次帳』(ワイズ出版)、
ほしひかる「蕎麦談義」第186、148、87話 (フードボイスhttp://fv1.jp/) 

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