小説「江戸人紀」
ほしひかる著
ほしひかる氏プロフィール
エッセイスト、 江戸ソバリエ認定委員長 (江戸ソバリエ協会副理事長)
著書・共著に「江戸蕎麦めぐり」(幹書房)、『新・神奈川のうまい蕎麦64選』(幹書房)、 『埼玉のうまい蕎麦75選』(幹書房)、『静岡・山梨のうまい蕎麦83選』(幹書房)、 『休日の蕎麦と温泉巡り』(幹書房)、『至福の蕎麦屋』(ブックマン)など。 他に、「解体新ショー」(NHK-TV)、「江戸のススメ」(BS−TBSテレビ)、「幸福の一皿」(BS朝日テレビ)、「コレスタン」(日本テレビ)、「シルシルミシル」(テレビ朝日)などや各講演会に出演。ネットでは江戸ソバリエ協会、江戸東京下町文化研究会、フードボイスなどに発信中。これまでの活動により、各関係団体より感謝状を授与される。

第三巻 お七とお嶋、涙の袱紗     


.情炎お七

-1. 圓乗寺
「オイ、てえへんなことになったな」
「火の元は狐火だっていうぜ」
「え〜、うす気味悪いことを言うなよ」
「江戸中に火がまわったらしいぜ。本郷、神田、日本橋、下谷、浅草とな」
「お大名様のお屋敷も、旗本様のお屋敷も、町家も、みんな焼けちまったってさ。」
「火だけは、分け隔てがねえからな。」
「ちげえねえ。お社やお寺さんだって、燃えちまってるからな。」

遠く、南西の空が夕焼けのようにまだ赤くなっていた。辺りはいつまでも火の匂いが消えない。人々は不安だった。だからこそ、それを打ち消すかのように耳に入った話をペラペラと口にするのであろう。
この度の大火事は天和3年12月28日(1683.1.25)のことであった。駒込の大圓寺(文京区向丘1-11-3) から出火した炎は、北東の風に煽られ28日正午ごろから翌29日の朝5時ごろまで猛火となって荒れ狂ったのであった。
焼け出された人たちは、近辺の、敷地の広い寺に逃げ込んだ。風向のお蔭で何とか火から免れることのできた寺もあったのである。そんな寺のひとつが、ここ圓乗寺(文京区白山1-34-6)であった。天正9年(1581)に円栄によって開創された寺であったが、今は上野寛永寺の末寺の一つである。
境内は避難民たちで溢れていた。
その中に中山道森川宿(本郷6丁目付近)の、加賀5代藩主前田綱紀様のお屋敷の前近くで八百屋を営む市左衛門一家がいた。圓乗寺は、市左衛門家の檀那寺であったから、一家は一早く寺の一室に避難していた。その部屋に住職の乗詮が入ってきた。
「市左衛門さん。大変なことになりました。亡くなった方は2000人とも3000人ともいわれておりまするぞ。」そう言いながら、住職は宙に向かって掌を合わせた。住職は小柄で、痩せていた。
「あの明暦の大火は、もう26年前でしたか。」実直な顔付をした市左衛門が指を折りながらそう言う。
「さよう、思い出すのも嫌ですな。あのときは、5万人もの方がお亡くなりにられたという話ですな。」
「似てますな。今日のように北東の風の寒い日でした。」
「本郷丸山のお寺から出火した明暦のあれは、本郷、小石川、麹町三か所同時に火がついた。今日のとは違いまするな。」
「でございますから、これ以上、新たな火が出なけりゃいいって申し上げたいのでございます。」
「まことに。さて、皆の衆はどうしていますかな。さぞや腹も減ってるじゃろう。」
「先ほど、炊き出しを見てまいりましたが、火が怖いと言って近づかない女や子供たちがおります。」
「ふむ。火が怖い、それはよう分かりまする。しかしそれじゃ寒かろう、困りましたな。」
「それに、これからが問題です」と言いながら、市左衛門はこの火事後、町はどのように変っていくのだろうか、と考えあぐねていた。
先の明暦の大火後、幕府は防火対策として江戸城附近にあった大名屋敷、旗本屋敷、寺社を周辺地域の台地の上に移転させた。そのため今の本郷の町が生まれ、市左衛門らは大名、旗本屋敷相手の商いという道を得た。しかし、これからの本郷の町は再び変わるのか? 元に復すだけなのか? あるいは被災から立ち直ることは難しいのか?
「さよう。市左衛門さんのように、すぐ建て直すことのできるお方はよろしかろうが、住むところがない人たちは大変ですな。それはそうと、先程お七さんに会うたが、お春さんに似て色白で、びっくりするほど美しゅうなりましたな。」
「いや、まだまだ子供でございます。」
「気風がよさそうで、それに目に魅力というか、力がある。寺の小坊主や小姓どもが何やら色めき立っておりますわい。ホホ、まるで掃溜に鶴、ですな。」
「何をおっしゃいますか。ただ気性が強いだけで、困ったものでございます。私の父に似ているところがございまして、男の子だったらよかったと思うておりまする。」
二人が話している外の方では、幼な子が激しく泣きわめく声がしていた。
境内では、医師の順庵が火傷や怪我をした者の手当をしていたが、市左衛門の妻お春や娘のお七と、それに下女たちも、その手伝いで走りまわっていた。お七、いやお春と共に、この母子はなかなかの美人で、避難民の中では一際目立っていた。
動きまわって働いていたためか、冬だというのに身体が汗ばむ。「暑いわ、」お七は袖で額を押さえた。
そのとき手拭を差し出してくれた若者がいた。
思わずお七は若者をじっと見た。「きれいな方!」 
若者の方もお七を見つめたが、先に目を伏せてしまった。
「ありがとう。」お七は手拭を受け取ったが、そのとき彼女の指が、若者の手に触れた。お七は胸がときめいた。「あの」と思わず声を掛けはしたものの、何を言うでもなかった。
若者は小走りに去って行った。
「ね、お松。あの方のお名前を訊いておいて。」お七は下女に頼んだ。
「左門様ですよ、小堀左門様。」
「えっ、お松は知っていたの。」
「お嬢様の方こそご存知なかったのですか。旦那様がお預けなさったのでございますよ」
「エッ、父様が、どうしてッ」
「さ、存じません。それより圓乗寺のお小姓、左門様っていえば、この辺りじゃ役者よりいい男だって、有名ですよ。本郷界隈の娘たちの間では。」
次の日から、お七は仲間を引き連れて左門を追っかけた。仲間といっても、この圓乗寺にいるのは下女のお松と、同じく森川宿から避難してきた幼馴染のトメの二人だけであった。森川宿でのお七の仲間には五、六人はいた。そのうちの一人お嶋からお見舞いのお菓子が届けられた。お嶋は、お七の家の地主、河内屋半兵衛の娘で、もちろんお七とは幼馴染であったが、今は行儀見習として、水戸徳川家のお屋敷に上っているのであった。

        【泥絵「水戸屋敷」:文京ふるさと歴史舘作成の冊子より】


お嶋から贈られてきたお菓子は母のお春からまわってきた。それを見て「わあ、『壺屋』のお饅頭ですよ、うわぁ美味しそう」とお松が歓声を上げる。「ネ、お嬢様、水戸様のお屋敷ではこんなお饅頭が毎日食べられるのですか。」
「さ、知らないわよ。お嶋ちゃんに聞いてみたら。」
「ああ、美味しいお菓子が食べられて。お嶋さんは幸せですよね。」お松は遠くを見るような目でそう言った後、「そうだ、お嬢様。このお饅頭を、あのお方にも差し上げたら、いかがですか。」お松は下女でも、お七より三つ年上である。何やかやと入知恵をする。若者は親の言うことより、刺激のある意見に耳を傾けるものだ。
お七はお松の顔を見ながら「これで左門様に会える」と言い捨てるや、お菓子を掴んで走って行った。と、すぐに戻ってきた。探しても見当たらないという。空振りのせいか、その夜は眠れなかった。翌日も溜息ばかり吐いている。
見かねたお松が、また助け舟を出した。「お嬢様、文をお書きになったら。短くていいですよ。お嬢様の思いがあのお方に伝われば。私がお届けします。」
「短くていい。私がお届けします。」この台詞にお七は背中を押され、両親の目を盗んで筆を取った。何回も、何回も書き直した結果は、「お会いしとうございます。七」、たったこれだけの短い文だった。それでも、お七は納得していた。「思いがあのお方に伝わればいい」というお松の言葉を信頼して、お七はお松に文を託した。
そのお松といえば、お七お嬢様には姉さんぶっていたが、いざ色男に文を渡すとなると、自分のことのように躊躇していた。二日ほどは懐に入れたままであった。しかし、遅くなればなるほど手紙を渡さなくてはならないという重圧が、お松の胸に負担となってかかってきたが、却ってそのことが、迷いの壁を突破する素となった。「えーい、どうなったって知らない」とばかりに、左門を見つけるや走り寄り、その手に無理に手紙を握らせたのである。お松はすぐ逃げた。そして境内の片隅で一人、涙を流していた。自分でも何の涙なのか判らなかったが、たぶんお嬢様のお役に立てたことと、いやそれ以上に色男の手を握れた喜びもあったのだろう。
数日後、江戸の火はだいたいが鎮まったようだった。
そんなところへ、「ご住職、なんて書いてあるでしょうか?」と粘土版のような粗末な刷り物を拾ってきた者がいた。
乗詮が見ると、それには早くも、この度の火災の被害が記してあった。それを見て、住職はその被害の大きさに息を呑んだが、皆は「何と書いてあるか」としきりにせがむ。止む無く、「死者3500名以上。大名屋敷75、旗本屋敷166、寺社95、町家5万以上が延焼・・・・・・。」読み上げてから住職は、「被害は少なくないが、何も心配、そう心配することはないゾ。そなたたちも行く所が決まるまで、この寺におればいい」とだけ言って奥の部屋に戻った。
そこへ市左衛門が顔を出し、建て直している家がもう直ぐ完成すると報告した。
「よかった、よかった」と乗詮は目を細めて喜ぶ。
市左衛門は「私は、何度でも起き上がります。」
「そうじゃろう、それが市左衛門さんじゃ。」
「しかし、それにしてもこれから江戸はどうなりましょうか?」と市左衛門が付け加えた。
「うん」。と暫く間をおいてから、「大丈夫じゃろう」と自分に言い聞かせるようにして言った。
市左衛門は住職の顔をじっと見つめた。商人とは、社会の盛衰に浮かぶ舟のようなものである。流れが急なのか、穏やかなのか、滞ってしまうのか、それによってどう棹させばいいのかが変わってくる。
「江戸の人口は約35万人、うち死者は約3000名だという。恐らくほとんどは町人じゃろう」。そう言って乗詮は瞼を閉じて合掌し、そして続けた。「人の数、すなわち失われた人命は町人の方が多い、しかし損害額は武家が多いじゃろう。江戸の街のほとんどが武家地(約70%)、次いで寺社地(10%強)、町人地(約10%)であるからの。武家の損害の負担はお国元の百姓に皺寄せが及ぶ。泣くのは百姓。じゃが、この国の百姓はへこたれん。」

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別巻2:「鉄舟」を歩く
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-2.八百屋市左衛門