��.静炎お嶋
��-3.お七25回忌
そんな祐天上人様の名前ぐらいは耳にしていたお嶋だったが、それ以上の詳しい事情は知る由もなかった。
暮らしが落ち着きをもったある日のことだった。棚を整理していたとき、偶々幼馴染みのお七の餞別の袱紗を取り出した。
お嶋は畳に座り込み、思わず袱紗を胸に抱き、亡きお七のことを忍んだ。そして指折り数えてみると、お七が刑場で無念の死を遂げてから、はや十二支は二巡し、今年は25回忌に当たるではないか。ああ、八百屋の母さまは、今ごろ何処でどうなさっておられるのだろうか。お嶋の瞼には涙が滲みはじめていた。思えば、あの赤穂の方々は1年後に見事主君の無念をお払いなられたというのに、私は、私は幼馴染みのお七を見捨ててしまっている。このままではいけない、罰が当たる。せめて、せめて25回忌ぐらいこの手で･･････。とはいっても、確かお七の実家は日蓮宗だったはずだが、私は旦那寺の昌林院しか知らない。住職に相談するしかない。こうしてお嶋は昌林院を訪れたのであった。
「七のう･･････」と言うや、昌林院の住職正真は、目と口を閉じてしまった。「うーむ」24年も経っているとはいえ、お七が罪人であることは赤穂の浪人の快挙とともの知らぬ者はいない。刑死した者を扱うわけにはいかぬが、と言うても大切な檀家の願いも聞き入れてやらねばならん。と、彼なりに頭を巡らせているのである。「そうだ！」とばかりに住職は膝を叩いた。傳通院の祐天様にご相談申し上げてみよう。拙僧のような者より、徳川様の子女たちにも人気のある高名な祐天上人様なら、上手に事を運ばれるだろう。
昌林院の正真は傳通院の祐天上人に話をもって行った。
祐天は「ほー」とお七とお嶋に関心をもった。やはり平凡な男ではなかった。祐天は西運と名を改めた左門が、今もなお目黒・浅草を往復する念仏行を続けていることを知っていた。「厄介なことが大好き」というわけでもないが、世間の常識にとらわれない祐天だからこそ、ここまで上り詰めることができたのであろう。祐天は、あの七を取りまく、お嶋と西運の行末に関心をもった。
ある日のことだった。早朝のうちに降っていた小雨は止んでいた。
お嶋は昌林院の住職の仲立ちで祐天上人と会うことになった。なにしろ�犖僂陵甘鍬瓩叛ぞ絮修里△訃綽佑任△襦２颪Δ泙任和疹�緊張していた。
祐天上人は本堂に入って来るや『観無量寿経』を唱え始めた。
「･･････。命欲終時、遇善知識、為讃大乗十二部経、首題名字。以聞如是経名放、除却干劫極重悪業。智者復教、合掌叉手、称南無阿弥陀仏。称仏名故、除五十億劫、生死之罪。･･････。」
うっとりするようないい声であった。長い時が流れた。
一通り終わると、祐天はお嶋の方を向いて、声をかけた。
「真志屋のお内儀どのか。」
やや太り気味の祐天上人は優しそうだった。
お嶋はすこしほっとした。
「昌林院殿から話を伺うたが、七の25回忌をの。いい心がけじゃ。」
何とも返事のしようがなかったので、お嶋は目を伏せて小さく肯いた。
祐天は、「罪人ゆえに表立ってはできぬから、せめて『六字名号』を」とは言わなかった。逆である。「拙僧は七どののためには『六字名号』が一番いいと思う。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。」そう言いながら、祐天は漆の箱の蓋を開けて、用意していた六字名号をお嶋の前に置いた。
お嶋はそれを拝むようにして頂き、拝見した。中央に「南無阿弥陀仏」、その両辺には「天下和順」「日月清明」と四字づゝに分けて書いてあった。
「天下和順」とは今の世情の中のことだろうか。「清明」とは、二四節気の一つ、春分の日から15日、つまりは今日3月19日を指す。下には「祐天」と署して、華押がしてあった。表装は葵の紋のある錦である。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。」祐天は続ける。「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏イトシズカ。名号に身を任せるとは永久に自己が休むことじゃ。どんなに、波瀾があろうとも六字の境地はいとも静がある。静けさそのものこそ六字の本体である。」
祐天は声がいい。その声の良さを活かすように一つひとつ論すように話す。横で聞いている真正はそれに感心する。正直にいって真正は、祐天上人と会うまではもっとギラギラした人物かと思っていた。そんな方が傳通院に見えるのか! と少々落胆していたのだが、お会いしているうちに祐天の魅力に引き込まれていったのであった。
「お嶋どのは、何か七の遺品はお持ちでござるか。」
「はい。生前お七さんが贈ってくれた袱紗を」
「おー、それはいい。それにお包みなされ。七も静かに六字の境地になれるじゃろう」
「は、はい。」お嶋は頭を畳すれすれにまで下げ、心から御礼を言った。「祐天上人さま、ありがとうございました。」
帰りに、真正が「一服、いかがか」とお嶋を誘った。
お嶋は御礼を述べた。
昌林院の、庭の藤蔓が松の幹に伸びて巻き、その白い花が眩しかった。
小坊主が茶菓を恭しく運んできた。お嶋は、目の前に置かれた菓子を見て、震えた。それはお嶋が若いころ水戸屋敷に奉公していたとき、火事見舞いとしてお七に贈った壺屋の饅頭であった。
真正は勧めたが、とてもその気にはならなかった。代わりにお茶だけを頂き、饅頭は包んでもらうことにした。
それから、真志屋に戻ったお嶋は、お七の袱紗に「六字名号」を大切に大切に包んだ。そして昌林院から頂いた饅頭と一緒に、西村家代々のご先祖様のいる仏壇に供えた。お嶋はまたもや涙ぐんでいた。だが、それは至福の涙だった。「お七さん。これは私と貴女の永久の宝物よ。」
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