��.静炎お嶋
��-1.西村屋のお嶋
棚の藤波が紫雲のように匂っていた。ここは小石川、大御所(家康)様の御生母於大の方様の墓所として知られる傳通院の、塔中昌林院の一室であった。
話好きの住職正真は、壇家である西村屋の内儀お嶋を相手に話していた。そのお嶋は清楚な美人である。
西村屋というのは小石川水戸家用達の御菓子司であった。昌林院にとっては大事な檀家だった。西村屋の始祖五郎兵衛日水(1616年歿)は参河の出身、家康の11男、水戸徳川の祖頼房の代からのお供であり、新石町(内神田3丁目)に居を構えていた。二代目は清西(1642年歿)、三代目は清伝(1664年歿)といった。そして四代目が清休(1699年歿)、現在は五代目廓清、お嶋の夫であった。
お嶋の実家は本郷の河内屋だった。元和のころ（1615-1624）から同じく水戸家麪粉類用達をつとめていた。
父半兵衛は本郷森川宿に地所を持っていた。そこを借りて住んでいたのが八百屋市左衛門である。彼にも娘がいた。名をお七といった。お嶋より一つ年下だった。二人は姉妹のように共に遊んで暮らした。やがてお嶋とお七は眩いほどの美しい娘に育ったが、幼馴染みの二人は離ればなれにならなければならなくなった。お嶋が水戸家へ女中として上ることになったのである。親友のお七は、餞別にと手づから袱紗を縫って贈ってくれた。だが、そのお七は恋に狂って、あろうことか火炙りの刑に処せられてしまった。
お嶋は、餞別の袱紗が永久の別れの遺品になろうとは思いもしていなかった。表が緋縮緬、裏は紅絹の袱紗 ― それを彼女はお七の代わりにと水戸家に奉公しているときも宝のように大事にしていたのであった。
ところが、異変はお嶋の身の上にも起きた。ある年のある夜のこと、お嶋は二代目藩主光圀(1628〜1701)の伽を命じられた。光圀は還暦前、島は二十歳前のころであった。光圀の求めは数度に及び、お嶋は光圀の子を身籠ってしまった。お七がこの世を去った年のことだった。
お嶋は光圀の用人半太夫から宿下がりを言い渡された。徳川家には、主君を守るために老獪かつ冷静に知恵を巡らす家臣が必ずいた。水戸家の場合は半太夫がそうであった。光圀様は大御所家康様の孫であり、嶋が宿している胤は家康様の曾孫にあたる。だからといって、イヤそれ故に大騒ぎするようなことは絶対にしない。飯を食ったら茶碗を洗うように、淡々と処理をする。水戸家は「長居は無用」とばかりに嶋に暇を遣ったのである。その上で菓子屋の西村五郎兵衛清休を呼び出し、「嶋を息子の廓清の妻にせい」と内命し、「生まれた子が男児なら申し立てよ、女児ならばその儀には及ばぬ」と当然のように言い渡した。半太夫のような番頭的な男は、「そもそも家臣や用達というものは、主のお蔭で一生をおくることができる。ありがたいことだ」と心から信じていた。それゆえに、お嶋や西村五郎兵衛を切るのではない。「なおも水戸家に尽くせ」と言っているのである。半太夫は西村屋に、端午(5月5日)、重陽(9月9日)、歳暮(12月21日)の三季には米百俵が届けられるようにした。まるで半太夫が鵜飼、西村屋は鵜、そんな恩義関係が構築されるのである。
そんななか、お嶋は西村屋の五代目の妻になって、男児を生み落した。
さっそく、清休は半太夫に「男児誕生」を報告した。だが、水戸家からは特別な沙汰はなかった。清休は、生まれた赤児は水戸家から預かりものではない、つまり水戸家に入る資格のない男児であることを悟った。とはいっても、血筋は血筋である。万が一、世の中が逆転し、お迎えが来る日が来ないともかぎらない。西村屋が生まれた赤児を敬愛をもって育てなければならないことはいうまでもなかった。それをふまえて清休は息子の廓清に「この児を西村五郎兵衛の六代目として立派に育てるように」と命じた。
こうした任務のような感じはお嶋にとっても同じだった。実のところ、お嶋は光圀の顔も性格もよく分からなかった。暗闇のなかで数回抱かれただけである。だから、光圀に�狠豊瓩箸�、�爐錣�子の実父�瓩箸�の思いをもったことがなかった。あくまでも、西村屋、河内屋にとっての�犲膈畤絽容狙邁箸箸いβ減澎奮芦進�でもなかった。それからお嶋はつくづくと思うのだった。「私は、自分というものが見えない愚かな人間だ」と。それゆえに、お嶋は義父と夫に仕え、そしてわが子を育てることに専念し、それ以外何も望まなかった。ただ黙々と尽す毎日をおくっていたのである。そうしているかぎりお嶋には悩みということがなかった。周りの者から敬われ、大事に扱われる。しかし一方では、清休も、廓清も、お嶋も、水戸家という鵜飼の鵜であることにかわりはなかった。おそらくお嶋が嫁いで来て以来西村屋は晴れた日がないのだろう。それはお嶋にも何となく分かっていた。だから、私は罪深い女なのであろうかと時折深い溜息を吐くこともあった。だが、それ故にお嶋は私が私であるための、わが子は宝物だとも思うのであった。
わが子東清が10歳になったころ、光圀は隠居し、3代藩主の座を甥の綱條に譲った。光圀は自分が藩主の座に就くとき、兄ではなく弟の自分が就いていたことが心苦しかった。だから、兄頼重の子にその座を返したつもりであったらしい。
それから5年後の1695年11月23日のことだった。義父は水戸屋敷で開催された能会から真っ蒼な顔をして帰ってきて、すぐに夫を部屋に呼んだ。
会の客人用の菓子はすべて、義父が手配していた。「そのことで何か落度でもあったのだろうか。」お嶋はそう思った。
しかし、後で夫から聞いたところによると、そんな菓子程度のことではなかった。光圀様がご家老の藤井紋太夫徳昭様をお斬りになったという。能会は最初からそのための企てであったというのだ。光圀様は黙して語られないため、真相は不明であった。だが、光圀の力、イヤ水戸藩失脚を画策する柳沢吉保にご家老様が内通したためとの噂も密かに流れていた。
義父は言っていたという。「光圀様は、大御所様のお孫様というお立場をよくわかっておられる方だ」と。つまり、「水戸家に内紛の種などあり得ない」というわけである。だから「東清の水戸家入りはない」とまでは義父も、夫も云わないが、お嶋には何となく伝わってきた。元より、お嶋はそんなことは望んではいなかった。
とにかく義父は水戸様第一の人だった。しかしそんな義父も1699年の閏九月十日にこの世を去った。
同年、わが子は15歳になった。水戸家から初御目見得の命令が来た。夫と東清は小石川の屋敷へ出向いた。そのときに光圀から東清に西村家相続が仰付けられ、さらに「真志屋」号を拝領し、三百石を賜ることとなった。
安堵したのか、光圀は2年後に歿した。
光圀と清休がいなくなった西村屋は、イヤ廓清とお嶋夫婦は、何か鵜飼から解き放たれた鵜のように緊脹感が薄らいだのであった。そのためか、二人の間に十五年目にして赤児が誕生した。娘だった。お嶋は、これでやっと真の夫婦になれたような気がすると思ったとき、娘は宝物だと思うのであった。
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