☆勝海舟(1823~1899)
勝 麟太郎。本所にて生まれる、父は旗本小普請組 勝小吉。直心影流剣術免許皆伝。赤坂にて蘭学塾「氷解塾」を開く。長崎海軍伝習所に入所。咸臨丸にて渡米。神戸海軍操練所を開設。江戸城無血開城を実現。明治維新政府の参議・海軍卿・伯爵。
Ⅱアメリカの土を踏む
陸地になるVallejo(ヴァレーホ) には、遥かなる異国からやって来た日本人を一目見ようと市民たちが蟻のように集まっていた。湾内には各国の船舶が停まっている。
それを眺めながら船将の勝は「どうだい。長さ三十間の小艦が、とうとう二三○○里の荒海を渡り切ったぜ」と、アメリカの海軍士官ブルックに向かってきっぱりと言った。
ブルックも勝の両手を握って、喜んだ。
ただちに、軍艦奉行の木村は、これからの事について打ち合わせをさせるためにブルックと佐々倉桐太郎、浜口興右衛門、吉岡勇平、中浜万次郎を上陸させた。
その夜、つまりアメリカでの第一夜は、昨日までの悪天候が嘘のようだった。勝は甲板に出た。夜空に浮かぶ月が静かに波を照らしていた。勝は懐紙を取出し、矢立の筆を抜いて悠然と漢詩を書いた。
瓢 花 無 限 界
烟 浪 一 維 船
遥 瞻 鷲 嶺 月
不 以 故 山 天
2月27日、テシュメーカー市長ら市幹部が来船し、木村、勝、山本、小野、肥田、岡田、牧山、中浜を馬車に乗せて、波止場から1500メートルほど離れたジャクソン街のインターナショナル・ホテル(848 Kerney St.)まで案内した。みんな馬車に乗るのは初めてである。「何か、偉くなったような気分だな」と岡田が言う。車内から眺める市街には三、四層の煉瓦造りの家屋が並び、窓はガラスが張ってあった。牧山は目をキョロキョロしっ放しである。道端には見たこともない、花や樹木が植えてある。聞けば、市の人口は6~7万ほどだという。そのアメリカ人たちが東洋からやって来た人間を一目見ようと集まって来ている。その騒ぎは、まるで三社権現様か、神田明神様か、山王大権現様の祭の日のようであった。
28日正午、ド~ン、ド~ン、と大砲の音がサンフランシスコ湾に響き渡った。両国で祝砲の交換が行われたのである。日本側は佐々倉が撃った。撃ち終わったとき、佐々倉は晴々とした顔をしていた。
29日、奉行の木村はシスコにおける心掛として、「私に酒食すること、外泊すること、単独行動をすることは絶対まかりならぬ」とのお達しを出した。
サンフランシスコは市をあげての歓迎大勢だった。連日、市長、役人、議員、軍人、各国領事、新聞記者、そして彼らの連れの女性らが応対してくれた。皆、金髪、赤い髪、青い目ばかりである。
3月1日、ワシントン街のピーター・ジョブス・ホテルで、軍楽隊付きの大宴会だった。彼らが奏でる曲は驚くほど勇壮で、こんな音楽は日本では太鼓の演奏以外に耳にしたことがなかった。「こんなに、うるさい所で飯を食うのは初めてだ」と指で耳を蓋う者もいた。
席上、軍鑑奉行の木村は日本を代表して挨拶をし、「もう一度、健康を祝して乾杯をしようではないか。」と呼びかけた。
そうしたヤリトリをこの国の人間は喜ぶ。木村の紳士振りと礼儀正しさに多くのアメリカ人が好感をもった。
中浜は、「勝さんは時代を読むことに鋭いが、木村さんは人の気持をくむのに長けている」と感心した。
乗組員たちも、木村が出したお達しのお蔭で、規律を守る日本人として評判がよかった。
そんななかで腰の日本刀と絹地の衣服は物珍しかったのか、多くの人が「ちょっと触らせてくれ」とばかりに馴れなれしく近寄ってきて、刀の柄や袴を引っ張ろうとする。反対に、日本人たちは靴のまま歩くホテルのブ厚い絨氈が珍しかった。絨氈の上で子供のようになって嬉しそうに飛び跳ねる者もいた。ともあれ、訪ねる者も、迎える者も、互いの好奇心を満足させ、歓迎会は大成功だった。
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