江戸は火事の多い都市だった。三度の大火以外にも、毎年のように火事に見舞われ、
長屋の密集した下町では、焼かれては建て直すことを数年ごとに繰り返していた・・・・・
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・江戸十万日 月日の鼠 『江戸=東京の下町から生きられた記憶への旅』
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【新着コラム】
お盆休みには「地獄の釜の蓋(ふた)が開く」と言った。地獄で罪障(ざいしょう)を犯した者を裁く閻魔様も、休暇をとることになるだろうと見立てたところから生まれた言葉だった。と言っても、本物の閻魔様は、あの世の地獄にいて、六道(ろくどう)の辻から地獄へ行かないと逢えないわけだが。その閻魔様を祀(まつ)った閻魔堂は江戸のあちこちのお寺にあり、幕末成立の『東都歳事記(とうとさいじき)』によれば66箇所だったというから、閻魔堂を巡る閻魔様もなかなか忙しかったようである。
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・江戸言葉 月ごよみ『地獄とエンマ様』
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・ 『地獄極楽図』河鍋暁斎画 東京国立博物館蔵
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「きんぎょーや、きんぎょー」、江戸の街を金魚売りがゆく。
金魚は、元和6年(1620)に朝鮮半島から渡来したとされる(『武江年表』)。半世紀もすぎると、品種改良された金魚は初鰹(はつがつお)より高い5両以上の高値で売れ、ヒマな大名や金持たちは金魚の品種改良に血道を上げたという。
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・江戸言葉 月ごよみ『江戸の売り声』
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・江戸の夏行事〜今に継承されているものの由来〜
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・ 『今様職人尽歌合』 金魚売より
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1783年(天明3) は、6月にアイスランドのラキ山が、8月に浅間山が噴火。
火山灰は、北半球を覆って太陽光を遮り、異常気象を引き起こします。
これが凶作を招きフランスでは6年後に革命が起こるのですが、
日本はどうだったのでしょうか?
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・武蔵の国 江戸物語 No45『浅間山噴火により、 関東郡代が潰れる』
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・浅間山の天明大噴火を描いた「浅間山夜分大焼之図」
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「火事と喧嘩は江戸の華」といわれた江戸は、大小数えきれぬ火事に見舞われた。
瓦屋根に蔵造りの店構へで防火対策を施した目抜き通りの商家も、所詮は木造建築だったため、飛び火すれば炎上は免れなかった。大店をはじめ資力のある者たちは、土蔵や穴蔵を設けて大事な品物を保管し、いざ火事となれば目塗りをして被害を避けた。
(*土蔵造り:壁を土で塗った土蔵のような造りの家屋)
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・江戸一番の繁華街〜日本橋通りを江戸人と一緒に歩く!
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【土蔵造り】 壁を土で塗った土蔵のような造りの家屋
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玉川上水の取水口である羽村堰付近にある銅像。
正面から見て、右側に立っているのが兄の庄右衛門。左側が弟の清右衛門。
庄右衛門が持っている縄のようなものは「間縄(けんなわ)」、清右衛門が持っている棒状のものは「間竿(けんざお)」でどちらも当時の測量道具。
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>「暦から読み解く江戸東京」 玉川上水年表
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd8/PDF/tamagawanenpyo.pdf
>水から読み解く江戸東京「玉川上水物語」
http://www.edoshitamachi.com/web/suitoedo/PDFNo36.pdf
>「羽村市郷土博物館蔵」
https://www.city.hamura.tokyo.jp/0000001544.html
いま、江戸野菜に注目されている。
江戸時代の大根といえば「練馬大根」が有名であが、
雑司ヶ谷産の巨大根(長さ30センチあまり、胴回り45センチあま)が
珍重され大奥へ毎年冬の時期に届けられた。
雑司が谷 いろはかるた 絵と文: 矢島勝昭
(ね) 練馬(ねりま)をしのぐ巨大根献上(きょだいこんけんじょう)
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>神田川界隈物語
・『地域特産の「大だいこん」は冬期に大奥へ献上』
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6月1日寛永13年 (1636)芝・浅草と近江坂本に銭座を置き、初めて【寛永通宝】を鋳造。
幕末までに造られた銅銭はすべて「寛永通宝(かんえいつうほう)」の文字が打ち出され「寛永通宝」と呼ばれた。
貨幣価値は、裏面に波形が刻まれているものが4文、刻まれていないものが1文として通用。
当時96文を銭通しに通してまとめると100文として通用(短陌・省陌)し、通し100文と呼ばた。
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寛永通寳:寛永13年(1636)称浅草銭 御蔵銭 (Wikimediaより」
1枚の重量は1匁(3.75グラム)、銭径は8分(2.4センチ)が標準であったが、
後には軽量、縮型のものや、鉄銭も鋳造された。
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>江戸ことば月ごよみ 『藤の花と銭の花』
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・「日本銀行貨幣博物館」 『17世紀金・銀・銅の貨幣の統一』
https://www.imes.boj.or.jp/cm/history/content/#HistoryEarlyModern
*『熈代勝覧』絵巻
文化2年(1805年)頃、江戸最大の繁華街-日本橋通を今川橋から日本橋を描いた「熈代勝覧」(きだいしょうらん)照覧絵巻。(縦43.7cm、横1232.2cm/人物:1671名/犬:20匹/馬:13頭/牛:4頭/猿:1匹/鷹:2羽/店舗:89店描画 / べルリン東洋美術館蔵)
天明6年(1786)、江戸の町人だけで100万人を超えていたという。それから5年後の寛政3年(1791)の江戸の人口調査では、江戸の武士は「2億3600万人余」居住していたとされる。現在の日本の人口より多いではないかと驚かれるだろうが、その心配は・・・
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>『熈代勝覧』絵巻_日本橋北詰絵
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>江戸ことば月ごよみ『百川と百万都市・江戸』
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関連情報はこちら
>水都江戸・東京物語『江戸時代の歴史人口が語るもの』
http://www.edoshitamachi.com/web/suitoedo/PDFNo36.pdf
川幅を3間切り広げて、両岸に築堤樹木が命じられる.
完成後は、町年寄が管理する。
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水から読み解く江戸東京「玉川上水物語」
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