江戸言葉 月ごよみ
棚橋正博(たなはしまさひろ)氏プロフィール
1947年秋田県生まれ。 早稲田大学エクステンション(中野校)講師。神奈川大学エクステンション(横浜KUポートスクエア)講師。早稲田大学大学院講師。早稲田大学大学院修了。日本近世文学専攻。文学博士。 黄表紙研究の第一人者で、知られざる江戸の風俗文化を多くの人々に伝えることを使命としている。テレビや講演会などでも活躍中。著書は『式亭三馬』(ぺりかん社)、『十返舎一九』(新典社)、『江戸の道楽』(講談社)、『江戸戯作草紙』『教科書が載せられない名文』『捏造されたヒーロー遠山金四郎』(小学館)など多数 (Web日本語より加筆転載)  

 私たちが何気なく使っていることばの多くが、じつは江戸生まれだってご存じでしたか? 「江戸っ子」なことばたちを、江戸の人たちがどうやって生み出し、どのように育てていったのか、「へえ〜」と思わずいいたくなる知識を、黄表紙や浮世絵の絵などとともにご紹介していきます。 

► CONTENTS
一 月 大人の凧揚げ 、江戸の流行語大賞、吉原の正月、旧正月と名刺、江戸の大雪、正月の餅、湯屋の正月、七福神詣
二 月 初卯と梅見、命の洗濯、初午は乗ってくる仕合せ、二八(にっぱち)と品川遊郭、「べらぼうめ」と「べらんめえ」、節分と豆男、出替りと契約社員
三 月 「花見酒」の経済、潮干狩り、遊女のアリンス言葉 ,雛祭り、隅田川は暴れ川だった、寺子屋入り、江戸の花見、春の夜の夢と千両
四 月 らくだの見世物と落語、菜の花と吉原、江戸のサラリー事情、藤の花と銭の花、江戸の虫除けと油虫、卯の花と豆腐、デパート商法は
五月 遅まき唐辛子、江戸のベストセラーと付録、野暮・通、端午の節句、初鰹、おへそが茶を沸かす
六月 「歩きタバコ」の禁止、山王祭と喧嘩、梅雨と番傘、6月の花嫁、江戸っ子と傘と日傘、大山詣
七月 「つんつるてん」と「テンツルテン」、七夕、江戸の売り声、江戸の朝顔ブーム、スイカと料理茶屋百川、江戸の花火
八月  遊女瀬川のファッションセンス、年寄の冷や水、江戸の「狆」ブーム、「八朔(はっさく)」とは、冷や水売りと白玉、江戸っ子とそうめん
九月 手鎖は「てじょう」と読む! 、芋名月、弥次さん北さん、重陽の節句、秋を告げる松虫、初ナスは高級品
十月  七ツ屋、十三屋、十七屋、にべもない、紅葉狩りと吉原、飲み食べ笑う「えびす講」、戯作者たちの繁忙期
、十一月 猫ばば、江戸の紅葉めぐり、酉の市と熊手、江戸の時計と季節 、酉の市と大火、顔見世興行と千両役者、「七五三」は縁起がいい
十二月  焼きがまわる、大掃除と忠臣蔵、とどのつまり、浅草寺の年の市、フグは食いたし命は惜しし、江戸の宝くじ・千両富

生活とお金  大福と才蔵市、「景気」と「経済」、江戸歌舞伎観劇は贅沢だったか、「先払い」と「着払い」、小判の話、江戸時代に「お札」が使われていたら、銭の話、お金の話〜両替〜、江戸っ子と小判、






 五月





遅まき唐辛子

  桜の季節が終わると、ガーデニングの季節である。
緑のカーテンが夏のエコ対策として推奨され、ベランダや庭でゴーヤやヘチマなどを育てる方も多いだろう。夏にこれらの葉を繁々(しげしげ)と繁らせるためには、今頃、種をまかねばならないが、ついつい忘れてしまうことがある。梅雨が過ぎてからあわてて苗を買ってきたのでは、夏のエコ・カーテンにならずに終わってしまう。
 
時機に遅れてしまうことを、「遅まき唐辛子(とうがらし)」と言う。「遅まき」は「遅く蒔(ま)く」こと。
唐辛子の栽培は種をまく時機が問題で、少し遅れると、熱帯地方が原産地だけに日本では日照時間が足りないせいか、辛味がとぼしくなり、唐辛子の実がつかなくなることもある。時節に合った種まきをしなかった「遅まき唐辛子」は、ピリリとする辛みが少ないことから、気が抜けていることや、今ひとつ反応の遅い人間、間抜けな者をさす言葉にもなった。

謎かけでは、「遅まき唐辛子」と掛けて「花は咲けども実がつかず」と解くのは、遅まき唐辛子はピリリとした実がつかないというわけである。
 
唐辛子は、16世紀半ばにポルトガル人が日本に伝えたとする説もあるが、太閤秀吉(豊臣秀吉)が朝鮮出兵した際、銅活字の印刷機などと一緒に唐辛子の種を日本に持ち帰ったことから栽培がはじまったという説が有力でもあるが、唐辛子も印刷技術も、日本へやって来た宣教師が早くもたらしたというのが実情に近かろう。

関西では「高麗胡椒(こうらいこしょう)」と呼ばれていたようである(高麗は昔の朝鮮半島の国名)。関東以北では「南蛮(なんばん)」とも呼ばれた。
 
近ごろでは激辛ラーメンなどや激辛スープの料理が流行(はや)っていて、真っ赤なスープのラーメンを汗をかきながら食べるシーンがテレビなどで紹介されているが、その激辛のもとは唐辛子である。
 江戸時代には、内藤新宿(現在の新宿区新宿御苑)で栽培される唐辛子が佳品(かひん)で、「内藤唐辛子」「南蛮胡椒」と呼ばれ、江戸っ子の珍味とされたようである。

香辛料としては辛味の代表で、これに胡椒・陳皮(ちんぴ。ミカンの皮の乾かしたもの)・芥子(けし)・菜種(なたね)・麻の実・山椒(さんしょう)などを砕いて混ぜ合わせた「七色唐辛子」は江戸時代からよく使われている。
「七色唐辛子売り」は、赤い大きな唐辛子の形をした袋をかついで(図版参照)、

『 とんとん唐辛子、ひりりと辛いが山椒の粉(こ)、
すはすは辛いが胡椒の粉、芥子の粉、胡麻(ごま)の粉、陳皮の粉、とんとん唐辛子』


という売り声で街中を売り歩いて、人気が高かった。
 ところで、江戸時代の深川遊廓では「唐辛子を食わせる」という隠語(仲間内の言葉)が羽織芸者(辰巳芸者、深川芸者)のあいだで流行していた。

人をだますことを言ったのだが、そのこころは、唐辛子だけに真っ赤なウソという意味か、辛(から)い目にあわせるということなのか、そのへんは不明である。




川にはまった酔っ払いを助ける唐辛子売り。

「辛(から)き命」を唐辛子売りが救うというジョーク。
山東京伝(さんとうきょうでん)の黄表紙(きびょうし)『御誂染長寿小紋(おんあつらえぞめちょうじゅこもん)』
(享和2年〈1802〉刊)より。













江戸のベストセラーと付録

  GW(ゴールデンウィーク)と呼ぶにも、このコロナ禍では憚(はばか)られるが、連休も明けると書店やコンビニエンスストアに並んでいる新社会人向けのファッション雑誌も売れるであろう。
ピッカピッカの小学一年生が、重たそうに背負っていたランドセルも、しだいに板についてくる季節となった。
  現代では、雑誌は日本全国津々浦々まで遅れることなく配送され、週刊誌などは全国同時発売が当たり前になっている。しかし、トラック便などなかった江戸時代は、全国で本を同時発売するということは無理であった。
 
江戸時代半ばすぎ、大人のコミックとして人気沸騰した「黄表紙(きびょうし)」は、正月の刊行予定であったが、江戸では早いときには11月から刊行されていて、版元は暮れにかけて全国の本屋へ送る田舎向けの本の発送に大忙しであった。
  江戸では、正月向けの本は12月下旬には読者の手に届き、江戸から遠い地方での売り出しは正月以降だった。今の月刊誌が、4月号としているのにひと月前の3月に売られているのはそもそも、江戸時代の刊行物が地方によってタイムラグがあった、その名残でもある。
  そうした事情から、地方でひと月後に見られる刊行物を「月おくれ」と称していた。江戸の貸本屋では、刊行後間もなく届いた新本の見料(けんりょう。レンタル料)は高かった。それが、ひと月遅れで借りると、「月おくれ」ということで見料は安くなった。
 そんなことから俗語(スラング)で、話題にすぐに反応できないような人をからかって「月おくれ」と言った。反応が鈍い人を「蛍光灯」と言ったのに似ているが、最近は蛍光灯もグローランプがありLEDになり、「月おくれ」と同様、鈍い人をいう「蛍光灯」も死語になりかけている。
 
 江戸時代は運送手段が限られていたから、出版版元が多かった江戸や京都・大坂と、他の地方とでは本の売出しのタイムラグは埋めようがなかった。それでも幕末になると、「田舎送り」という本輸送の専門業者も現れたらしく、版元は貸本屋向けの本の輸送を優先させた。貸本屋向けの本は、輸送や読書の際の傷みに耐えられるように特装本となっており、何倍かの高値で売れるからであった。

日本で最大の名古屋の貸本屋大惣(だいそう。大野屋惣八)は、2万部を超える貸本を擁(よう)していた貸本屋で、坪内逍遥(つぼうちしょうよう)も大惣の恩恵に浴したと語っている。現在残されている大惣旧蔵の黄表紙などは、現在、国立国会図書館に多く所蔵されていて、それらは高いレンタル料に見合った立派な装幀本である。
 貸本屋には割高で配本できたとしても、江戸時代の全国の貸本屋の数はきまっていて、需要に限りがあった。ベストセラーになるには、一般の読者の関心(歓心)を買って発行部数を伸ばさなければならない。江戸のベストセラーといえば、十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』だが、この十返舎一九先生はなかなかの智恵者で、読者サービスもおさおさ抜かりなかった。
彼は、『東海道中膝栗毛』の続編である『続膝栗毛』の最終第12編刊行の前々年の文政3年(1820)正月刊行の第11編を袋に入れて売り出した。その袋には、本と一緒に歌川国貞(うたがわくにさだ)が描いた江戸吉原の遊女たちのブロマイドならぬ一枚絵を付録に付けたのである(図版参照)。
 その昔、学年雑誌や漫画の月刊誌の付録を楽しんだ記憶がある方も多いことだろうが、この「付録」という企画は、十返舎一九が考えたものを嚆矢(こうし)とする。



十返舎一九『続膝栗毛』11編(文政3年〈1820〉刊)の付録の国貞画の一枚絵。吉原の遊女が色刷りで描かれており、「いろいろに名は変(か)はれども借(か)りてくる太夫(たゆう)はおなじ盃(さかずき)の所作」と書かれている。



黄表紙…江戸後期、安永4年(1775)から文化3年(1806)頃にかけて多数刊行された草双紙(くさぞうし)。洒落(しゃれ)、滑稽、風刺を織り交ぜた大人向きの絵入り小説。1冊5丁(10ページ)から成り、2、3冊で一部とした。代表作者には、恋川春町(こいかわはるまち)、山東京伝(さんとうきょうでん)。


十返舎一九…1765〜1822。江戸後期の戯作者。東海道を旅する弥次さん喜多さんがナンセンスな笑いをくり広げる滑稽本(こっけいぼん)『東海道中膝栗毛』は、初編(享和2年〈1802〉)から八編(文化6年〈1809〉)まで刊行され、続編も次々出されて文政5年(1822)まで続いた。一九は、黄表紙、洒落本(しゃれぼん)、読本(よみほん)、咄本(はなしぼん)など、さまざまなジャンルに多くの作品を残している。


歌川国貞…1786〜1864。江戸後期の浮世絵師。役者似顔絵の錦絵と草双紙の挿絵を得意とした。三世豊国(とよくに)を襲名。










野暮・通

落語「木乃伊(ミイラ」取り」

今でも若い人たちは「KY」(空気を読めない)というであろうか。その場の雰囲気や状況判断のできない「野暮」な人をさす。
  「あいつは野暮な奴だ」などということは、今でもしょっちゅう会話のなかで耳にする。
  「野暮」は言わずもがな、世情、人情の機微を理解できない人をさす言葉である。とくに男女間のことに配慮のきかないような人や、田舎くさく行動などが洗練されていない人もさす言葉で、不粋(ぶすい)ともいう。

  「野暮」はもちろんあて字で、黄表紙(きびょうし)に『野暮大臣南郭遊(やぼだいじんなんかくあそび)』(天明4年〈1784〉刊)という題名の作品があるくらいで、世に言う田沼意次の時代(1767〜86)には江戸っ子たちは、「野暮と化物は箱根の先にしかいない」などと悪態をついて、江戸っ子に野暮な者はいないと強調していた。天明頃に「野暮」の字をあてるのが一般的になってきていたと考えてよかろう。

 「野暮」の語源説はいくつかある。田舎者の「野夫(やぶ)」が訛(なま)ったという説や、薮(薮は先が見渡せないところなので、相手のことや事態をよく見渡せないようなダメな奴の意味。病状を見通せない医者のことを藪医者というのと同じ)説である。

  吉原で居続けする若旦那を迎えに行くが、誰一人として帰ってこなくて、ミイラ取りがミイラになる噺が落語の「木乃伊(ミイラ」取り」である。そこで田舎者の飯炊きで野暮な清蔵(せいぞう)なら若旦那を連れて帰るだろうと迎えにやるが、この野暮な清蔵もミイラになる。これは山東京伝作の洒落本『京伝予誌』(寛政2年〈1790年〉や黄表紙『化物和本草(やまとほんぞうし)』(同10年刊)に原話が見え、田舎者の代名詞が野暮でもあった。
いずれにせよ、「野暮」という語は遊里吉原が発生源だったようである。黄表紙『通人(つうじん)いろはたんか』(天明3年刊)(図版参照)には、遊廓で野暮が騒ぎ出す場面がある。

  野暮の反対が「通」で、「あの人は、なかなか歌舞伎通だね」という風に現代でも言う。物事によく通暁(つうぎょう)していることや、そんな人を指して言う言葉である。この「通」も「野暮」と似て、花柳界などの事情や遊びにくわしかったり、そこで生活する人(遊女や芸者など)の人情をよく心得たことをいう言葉だった。とくにそんな人のことを指して「通人」とも言うし、「通り者」とも言った。

  「通人」と「通り者」では、「通り者」のほうが言葉の成立としては早く、江戸時代も初期頃の1650年代にはすでに使われ出していたようで、「通人」は明和期(1764〜71)に吉原で生まれた語で、同時に「大通」という言葉も明和6、7年頃から流行しだし、田沼時代に盛んに使われた語のようだったが、20年ほどの生命で天明7年頃には廃(すた)りだした。

  「大通」を使った語に「十八大通」という語がある。札差(蔵宿)や日本橋小田原町あたりの魚問屋の旦那衆たちのことで、江戸の遊び人ベスト18を言った語でもあるが、田沼時代の好景気というか、バブル景気の終焉とともに「十八大通」という言葉も消えた。

「大通」があれば「小通」があってもいいわけで、「小通」は「大通」に比較して、未熟な年若い者を指し、あまり遊びに金をかけない者(かけられない者)を指す言葉であった。

 「大通」は商売で財を成し、金に糸目をつけず豪勢に遊ぶ大金持ちだったとすると、「小通」はさしずめ、今日でいえばIT産業の若手の経営者やビットコインなどの仮想通貨(暗号通貨)などで、金儲けのために投資はするけれど、遊びに大胆な散財はしない、ちょっとした遊び人といったところであろうか。何十億円という身銭を切って豪遊し、一世を風靡するような「大通」が現れて、コロナウイルスを吹っ飛ばしてもらいたいところである。



遊女屋での「口説喧嘩(くぜつげんか)」の場面。たばこ盆を振り上げて怒る野暮な客を、遊女屋の人たちが止めに入っているところ。フンと言って逃げ出す遊女(左)『通人いろはたんか』(天明3年〈1783〉刊)より。



黄表紙…安永4年(1775)〜文化3年(1806)まで刊行された絵入りの読み物。大人のマンガ・コミックといった内容で、表紙が黄色であったところからの呼称。


田沼意次…江戸中・後期の幕政家で相良藩の藩主。第9代将軍徳川家重と10代将軍家治の信任を得て小姓から大名、老中に立身、商業資本の活用による殖産興業政策と新田・鉱山開発、外国貿易を推進する積極財政政策をおこなうが、大奥や武士階級にも反発を招き蝦夷地開発などの計策の途中で失脚する。その政策推進時代を「田沼時代」という。













端午の節句

 5月5日のことを、近頃では、「端午(たんご)の節句」という言い方はあまりせず、もっぱら「子どもの日」と呼ぶようになった。  そもそも端午の節句とは、中国の厄払(やくはら)いの行事が日本に渡来し、大化の改新(645)以後に5月5日の行事に定められ、軒先に菖蒲(しょうぶ)や蓬(よもぎ)を掛けて邪気をはらう風習になったというから、歴史のある年中行事である。江戸時代になり宮中行事としては簡素化されたが、いっぱん庶民のあいだで盛んになったようである。
 
 江戸時代になって半世紀近くの慶安元年(1648)、この節句に飾る甲(かぶと)の豪華な拵(こしら)えを禁止する町触(まちぶ)れが出された。金糸・銀糸や梨子地(なしじ。うるし塗りに金銀の粉末で描く蒔絵〈まきえ〉)にしてはならないとの触れである。このことから立派な甲人形をあつらえる家もあったことがうかがわれる。   この町触れには、甲を飾ると同時に、軒先に飾る鍾馗(しょうき)や武者、鯉(こい)などを描いた小旗(今のような吹き流しではない)は、絹製ではなく布か木綿にするようにとある。また、豪華でない甲人形なら2、3体を飾ってもよろしいと書かれている。
 
 昭和30年代以前の生まれの世代には、端午の節句といえば、柏餅(かしわもち)や粽(ちまき)を食べ、童謡「せいくらべ」や「こいのぼり」を歌ったことや、青空を壮観に泳ぐ「鯉のぼり」を思い出すむきもおおかろう。夜は菖蒲湯に入浴した記憶もあるだろうが、江戸時代は翌日の6日に銭湯で菖蒲湯に浸(つ)かるのが庶民の楽しみであった。
 「鯉のぼり」は武家の風習といわれるが、江戸時代中期までの資料には、その絵はなかなか見つからない。幕末から明治になると、現代のような吹き流しの鯉のぼりが多くなる。広重(ひろしげ)の「名所江戸百景」には空に泳ぐ大きな鯉のぼりが描かれており、明治の文献には、三越デパートの屋上で飾られたなどと見える。吹流しスタイルの鯉のぼりは、案外新しい。
 
逆に、むかし端午の節句に行われていたが、今ではすっかりすたってしまったことがある。  この日、若者たちが「梵天(ぼんてん)」という縁起物を担いで街中を練り歩いた風習である。梵天とは、細長い紙片や布で鯉の形をつくった幣束(へいそく)を棒の先の藁束〈わらたば〉へ刺したもので、若者たちは川で水垢離(みずごり)をしてから、これを担いで歩いて回った。そして、厄払いのお呪(まじな)いにこの幣束を売り、使いおわった梵天の棒は川べりなどに刺して棄てた。寛政元年(1789)4月には、大きな梵天を大勢で担いで練り歩くことを自粛するようにとの町触れが出ている。梵天の一行から縁起物の幣束を求めた人もおおかった。
 この風習は、明治になっても東京では行われていたが、自然消滅してしまったようだ。






天保9年(1838)刊の『東都歳事記(とうとさいじき)』に描かれた、江戸の端午の節句の風景。道には、鍾馗様ののぼり、家紋を染めた旗、鯉のぼりや吹流しがはためき、店には、甲をはじめ武者人形が並べられている。中央手前の笠を被った人物が左肩に担いでいるのが「梵天」。鯉の形をした幣束がたくさん刺さっている。ちまきを肩にのせた人が続く。武士の一行の前で、使いの子どもが柏餅を落としてしまった。中央の子どもたちは、菖蒲打(菖蒲を束ねた縄を地面に叩きつけ音の大きさを競う)、印地打(いんじうち。石投げ合戦)遊びに興じている。



「名所江戸百景」…安政3年(1856)から同5年にかけて出版された、歌川広重(1797〜1858)最晩年の風景版画シリーズ。江戸名所を119枚の絵で紹介している。









初鰹

 初鰹(はつがつお)と聞けば、山口素堂(そどう)の句「目には青葉山時鳥(やまほととぎす)初鰹」(延宝6年〈1678〉)を思い出す人もおおかろう。甲斐国(かいのくに、山梨県)から江戸へ出てきて松尾芭蕉(ばしょう)などと親交を結んだ俳人・素堂が、江戸人たちが初鰹を珍重賞味する初夏の風物を詠(よ)んだものである。
 
「初物(はつもの)を食えば七十五日長生きする」という俗説は、江戸ばかりでなく大坂でも言われていたようだが、とくに江戸では初鰹を珍重するところから、初物といえば初鰹をさしていたと言ってもいいだろう。江戸人は、川柳に「聞いたか聞いた初鰹」とあるのは、時鳥の初音(はつね)と初鰹の初値(はつね)を聞いたかと、江戸っ子たちの興味はそこにあったということである。
鎌倉沖や小田原沖で獲れた初鰹は、急ぎ江戸へ運ばれて高価で売られた。素堂の句が生まれてからほぼ1世紀後にあたる天明年間(1781〜88)、石町(こくちょう、東京都中央区)のさる金持ちは、初鰹1本を2両2分(現在の価格にすると約35万円前後)で買い求めたと、山東京山(さんとうきょうざん)は随筆『蜘蛛糸巻(くものいとまき) 』で伝えている。
  現代のグルメでは、鰹や鮪(まぐろ)などの中落ち(骨についた身)は脂がのって美味だと珍重するが、江戸っ子は魚の中落ちなどは食べなかった。京山の兄・山東京伝(きょうでん)は、洒落本(しゃれぼん)『総籬(そうまがき)』(天明7年〈1787〉刊)で、「金の鯱(しゃちほこ)をにらみ神田上水(じょうすい)で産湯(うぶゆ)をつかった江戸っ子は、隅田川で獲れる白魚の中落ちでさえ食べないと自慢している」と書いている。
 
そんな江戸に対して、大坂は実利をとる風土であったが、初物については少しこだわっていたようである。
  井原西鶴(さいかく)の『日本永代蔵(にっぽんえいたいぐら)』(元禄元年〈1688〉刊、巻二ノ一「世界の借屋大将」)には、こんな話がある。 1つで2文(もん)、2つで3文と、初茄子(はつなすび)を売りに来た。2つで3文のほうが得だと言って皆が買うが、そこの主人藤市(ふじいち)は1つで2文のほうを買った。その理由は、最盛期になれば茄子は大きくなり、1つ1文で買えるようになる。同じ2つで3文でも、最盛期には大きなものになるから得だというわけである。こんな徹底した合理主義の始末屋である大阪人は、江戸っ子ほど初物にこだわらない。
 ところで、京山が、初鰹1本を2両2分で買った人がいたという話を父親にすると、鰹好きの父親は、秋の最盛期になれば大ぶりなものが2百文(当時の相場でいえば、2両2分の約60分の1相当=約6000円くらい)なのにと嘆息したという。
 
幕末には金持ちたちはすでに零落し、初鰹を2百文で買う者はいない時節になったと、京山は書いている。明治維新を前に、贅沢を言えない不景気となって、江戸っ子気質が消えかけていた。







右の鰹売りから初鰹を買おうとしている亭主は、高値だと言いながらも七十五日長生きするために、女房の袷(あわせ)の着物を質に入れるという。女房の手には質屋の通い帳が。その手前で命の棒をのばそうと懸命になっているのは、隣家の亭主。女房は火のし(今のアイロン)で命のしわをのばそうとしている。(山東京伝『御誂染長寿小紋(おんあつらえぞめちょうじゅこもん)』享和2年〈1802〉刊、東京都立中央図書館加賀文庫蔵)


山口素堂…1642〜1716。江戸前期の俳人。江戸に出て漢学を修め、一時、京にのぼり和歌、書、俳諧を学ぶ。晩年は葛飾に住んだ。

山東京山…1769〜1858。江戸後期の戯作者(げさくしゃ)。山東京伝の弟。篆刻(てんこく)をなりわいとした。読本(よみほん)や合巻(ごうかん)も書いた。

山東京伝…1761〜1816。江戸後期の戯作者、浮世絵師。黄表紙(きびょうし)、洒落本の第一人者として活躍するが、寛政の改革で筆禍ののちは、読本や考証随筆に転じた。

洒落本…遊里での男女の会話をたくみに描いた、江戸戯作の代表的な短編小説。山東京伝の『総籬』は、遊里をめぐる最新の話題や流行を、実在の人物をモデルにして写実的に描いたもの。








おへそが茶を沸かす

  新茶の美味しい季節はもうすぐである。
 お茶が現代のように気軽に飲めるようになったのは江戸時代になってからである。そしてお茶が庶民の飲み物になった江戸中期以降、さまざまな「茶」にまつわる言葉も発生してゆく。
 それは挙げるとキリがないほどであるが、「お茶の子さいさい」(簡単にできる)「お茶をにごす」(ごまかす)「茶にする」(馬鹿にする)「茶番」(茶番狂言、茶番劇の略。見えすいたこと)などは日常的に今でも使われている言葉である。
  なかでも、「おへそが茶を沸(わ)かす」という言葉は、江戸の人びとが大好きで、さまざまな文芸作品に登場する。ちょっと軽蔑したようなニュアンスを含み、おかしくてたまらないことの形容として言う言葉で、「おへそで茶を沸かす」ともいう。
 しかしどうして、おかしくてたまらないと、へそが茶を沸かすのか。
 同義語としてある「おへそが笑う」「おへそが捩(よじ)れる」「片腹痛い」という語がヒントになりそうである。お腹(なか)を抱えるほど笑い、お腹が痛くなったとき、おへそのあたりが煮え立つように沸騰するから、そこへ煎茶(せんちゃ)を沸かす急須(きゅうす)でも置くと、お茶が沸くという謎解きと考えてよさそうである。
 
 山東京伝(さんとうきょうでん)黄表紙(きびょうし)に、「おへそで茶を沸かす」をもじった書名の『笑語於臍茶(おかしばなしおへそのちゃ)』(安永9年〈1780〉刊)という作品がある。日ごろ安く使われているへそから下の膝(ひざ)や足の各部が、とかく大事にされるへそから上の各部にたいして反乱を起こすが、「臍(へそ)の翁(おきな)」の説得によっておさまるというのがそのストーリーである。
 図版はこの物語の最初の挿絵から。さる人の腹のまん中に「臍の翁」という安楽隠居が住んでいて、茶釜で茶を沸かし面白おかしく暮らしていた。さる人がとろとろとまどろんだすきに臍のあたりから「臍の翁」があらわれ出て、膝や足の各部に教訓して諭(さと)すという内容で、この絵のところには、「人を茶にしたといふ事は此(この)翁より始まりける」と書かれている。
 この後に「へそも西国(さいこく)」という言葉も登場する。これは「へそが茶を沸かす」とおなじ意味であり、あまりにおかしくてへそが西国(関西以西の国)に行ってしまうこと。当時の国語辞典『俚言集覧(りげんしゅうらん)』には、「甚(はなはだ)しく嘲(あざけ)り笑ふを云」とある。同様の言葉に「へそが入唐(にっとう)渡天(とてん)する」(あまりおかしくて、へそが唐(中国)から天竺(インド)までも渡ってゆく)、「へそが宿替えする」もある。
 この黄表紙が書かれた安永の頃には、「へそが茶を沸かす」や「人を茶にする」「へそも西国」などの言葉がすでに広まっていて、江戸っ子たちに好まれて使われていたことがわかる。京伝はそういった流行語をすかさず取り入れて、黄表紙を書いたのである。
 
 ところで、インターネット情報に「おへそが茶を沸かす」と同義語ということで「踵(かかと)が茶を沸かす」という言葉があると、物知り風に書き込まれているものがあった。調べてみたら、これは『俚言集覧』を編纂(へんさん)した太田全斎編の『諺苑(げんえん)』に拠(よ)ることらしく、『諺苑』には、「踵(カヽト)カ茶ヲワカス 御臍カ笑フ (片腹イタキ喩〈たとえ〉)」とあった。
 踵は別に「きびす」とも呼ぶ。煎茶を沸かす急須は、キビショウ→キビショ→キビス→キュウスなどと音変化しており、「急須(きびす)が茶を沸かす」を「踵が茶を沸かす」と洒落れて言ったことの謎解きであった。






『笑語於臍茶』(安永9年〈1780〉刊)より。心学(しんがく)の談義本(だんぎぼん)『臍隠居(へそいんきょ)』(安永3年〈1774〉刊。岡田驚光著)を平明な絵本化したものである。

山東京伝...1761〜1816。江戸後期の戯作者・浮世絵師。黄表紙・洒落本(しゃれぼん)の第一人者。

黄表紙…江戸後期の安永4年(1775)から文化3年(1806)頃にかけて流行った草双紙(くさぞうし)のひとつ。洒落、滑稽、風刺をおりまぜて絵と文で面白く作った小説だが、大人のコミックに近い。

『俚言集覧』…江戸中期の国語辞典。26巻。太田全斎編。寛政9年(1797)以降の成立。俗語、方言、ことわざなどを収録。

『諺苑』…江戸時代末期のことわざ辞典。太田全斎編。『俚言集覧』はこれを増補改編した国語辞典。







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