江戸言葉 月ごよみ
棚橋正博(たなはしまさひろ)氏プロフィール
1947年秋田県生まれ。 早稲田大学エクステンション(中野校)講師。神奈川大学エクステンション(横浜KUポートスクエア)講師。早稲田大学大学院講師。早稲田大学大学院修了。日本近世文学専攻。文学博士。 黄表紙研究の第一人者で、知られざる江戸の風俗文化を多くの人々に伝えることを使命としている。テレビや講演会などでも活躍中。著書は『式亭三馬』(ぺりかん社)、『十返舎一九』(新典社)、『江戸の道楽』(講談社)、『江戸戯作草紙』『教科書が載せられない名文』『捏造されたヒーロー遠山金四郎』(小学館)など多数 (Web日本語より加筆転載)  

 私たちが何気なく使っていることばの多くが、じつは江戸生まれだってご存じでしたか? 「江戸っ子」なことばたちを、江戸の人たちがどうやって生み出し、どのように育てていったのか、「へえ〜」と思わずいいたくなる知識を、黄表紙や浮世絵の絵などとともにご紹介していきます。 

► CONTENTS
一 月 大人の凧揚げ 、江戸の流行語大賞、吉原の正月、旧正月と名刺、江戸の大雪、正月の餅、湯屋の正月、七福神詣
二 月 初卯と梅見、命の洗濯、初午は乗ってくる仕合せ、二八(にっぱち)と品川遊郭、「べらぼうめ」と「べらんめえ」、節分と豆男、出替りと契約社員
三 月 「花見酒」の経済、潮干狩り、遊女のアリンス言葉 ,雛祭り、隅田川は暴れ川だった、寺子屋入り、江戸の花見、春の夜の夢と千両
四 月 らくだの見世物と落語、菜の花と吉原、江戸のサラリー事情、藤の花と銭の花、江戸の虫除けと油虫、卯の花と豆腐、デパート商法は
五月 遅まき唐辛子、江戸のベストセラーと付録、野暮・通、端午の節句、初鰹、おへそが茶を沸かす
六月 「歩きタバコ」の禁止、山王祭と喧嘩、梅雨と番傘、6月の花嫁、江戸っ子と傘と日傘、大山詣
七月 「つんつるてん」と「テンツルテン」、七夕、江戸の売り声、江戸の朝顔ブーム、スイカと料理茶屋百川、江戸の花火
八月  遊女瀬川のファッションセンス、年寄の冷や水、江戸の「狆」ブーム、「八朔(はっさく)」とは、冷や水売りと白玉、江戸っ子とそうめん
九月 手鎖は「てじょう」と読む! 、芋名月、弥次さん北さん、重陽の節句、秋を告げる松虫、初ナスは高級品
十月  七ツ屋、十三屋、十七屋、にべもない、紅葉狩りと吉原、飲み食べ笑う「えびす講」、戯作者たちの繁忙期
、十一月 猫ばば、江戸の紅葉めぐり、酉の市と熊手、江戸の時計と季節 、酉の市と大火、顔見世興行と千両役者、「七五三」は縁起がいい
十二月  焼きがまわる、大掃除と忠臣蔵、とどのつまり、浅草寺の年の市、フグは食いたし命は惜しし、江戸の宝くじ・千両富

生活とお金  大福と才蔵市、「景気」と「経済」、江戸歌舞伎観劇は贅沢だったか、「先払い」と「着払い」、小判の話、江戸時代に「お札」が使われていたら、銭の話、お金の話〜両替〜、江戸っ子と小判、






 十二月



焼きがまわる
                                    
 ペットブームで「猫」や「犬」がブームである。なかでも女性誌やさまざまなグッズにもブームが到来し焼きがまわりすぎて、かえってブームも平凡になってしまった観がないでもない。
 
日本もいよいよ高齢化社会を迎え、年配の人たちは時折、「俺も焼きがまわった」というような言い方をする。若い人には馴染(なじ)みの薄い言葉かも知れない。頭の働きや腕前などが往時の鋭さがなく衰えたことを形容する語である。「焼きが戻る」も同義だとするが、こちらはあまり一般的に使われずに廃(すた)ってしまったようである。

江島其磧(えじまきせき)の浮世草子(うきよぞうし)『世間娘気質(せけんむすめかたぎ)』(享保2年〈1717〉序)に、「亭主手の物(得意なこと)と料理自慢の包丁の焼(やき)がむねへまはり、鰒汁(ふぐじる)の仕ぞこなひに客も其身(そのみ=本人)も大きにあてられ(死んでしまう)」とある。

包丁のむね(刀のみね)を引用し、焼きが包丁のむねのほうへまわるといっている。この『世間娘気質』の譬(たと)えの場合、「焼き」(刀剣などを鍛えるために熱処理すること)が、本来あるべき包丁の刃の部分に回らず、むねのほうに回ったというのだから、得意としていた料理の腕前の包丁さばきが発揮されなかったという意味にとれる。ちょっと現代のニュアンスと違う感じがする。
 
もともとは「焼きが○○○のところへまわる」という言い方であったもので、たとえば「焼きが足へまわる」といった具合に、とんでもないところの足が鍛えられて、肝心なところの腕が鍛えられずにおろそかになるという言い方だったのが、省略されて「焼きがまわる」という言い方になり、それが本来の力が発揮されない意味の否定的なニュアンスとなったものと考えられる。 
 「焼き」を使った似たような言葉で「焼きを入れる」(鍛えなおす)というのがある。 『日葡(にっぽ)辞書』を見ると、「焼き上げる」というのは、刀がよく切れるようにすることの意味としている。

焼きを入れるにしても、焼き上げるにしても、刀剣について「焼き」をするということは、刀剣の切れを鍛えることで肯定的な意味として元来使われていたものと知られる。その意味では、「焼きがまわる」とは、焼き入れに際して火が行き渡りすぎ、かえって刃物の切れ味がわるくなることからの譬えとする語源説は疑問である。

山東京伝(さんとうきょうでん)の黄表紙(きびょうし)『奇事中洲話(きじもなかずわ)』(寛政元年〈1789〉刊)には、地獄が繁昌し(当時、江戸隅田川の中洲にできた土地が繁華街となり、「地獄」と称される私娼が人気を呼んでいた)、「地獄の主閻魔(えんま)大王、だんだん焼きが回り給ひければ、十王たち勧め奉りて、御隠居させ申し」(図版参照)と、閻魔大王が以前ほど権威も威厳も発揮できなくなったので、二代目の閻魔様が登場する。江戸時代も半ば1800年頃になると、こんにちと表現もニュアンスも、おなじになったとしてよかろう。




地獄の閻魔様の前にある「浄玻璃(じょうはり)の鏡」には、「地獄」と称される私娼のいる「中洲」の様子が描かれている。山東京伝作『奇事中洲話』(寛政元年〈1789〉刊)より。
江島其磧…1666〜1735。江戸中期の浮世草子作者で、庶民の生活を活写した。作品に『傾城色三味線(けいせいいろじゃみせん)』『世間子息気質(せけんむすこかたぎ)』など。
『日葡辞書』…慶長8年(1603)刊行のイエズス会宣教師による日本語辞書。当時の日本語の発音がわかる貴重な資料。
山東京伝…1761〜1816。江戸後期の戯作者。黄表紙・洒落本の第一人者。『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』など作品多数。浮世絵師・北尾政演(まさのぶ)としても活躍。京橋に煙草(たばこ)入れの店を持っていた。

*「山東京伝」参考書籍
近著 : 棚橋正博著『吉原と江戸ことば考』 出版社 ぺりかん社2022

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大掃除と忠臣蔵
                                    
 暮れの12月13日というと、江戸では大掃除の日で、どこの家もてんてこ舞いだった。これが終わるといよいよ年末の大晦日(おおみそか)と正月を迎えるわけである。大掃除は、竹箒(たけぼうき)で天井の煤(すす)を払ったりするので、「煤払い」とも呼ばれていた。
 一家総出で「煤払い」が無事に終わると、家人の誰彼となく胴上げされる習わしがあった。ふだんは嫌なことばかり言って叱る番頭が胴上げされて、放り上げられたまま落下させられたり、ツンとすましている若い女性の奉公人などは、裾(すそ)がめくれて恥ずかしくなるように胴上げされたりという光景もあったようである。
 「煤払い」は、武家の屋敷でも行われていた。
 
赤穂浪士(あこうろうし)たちは、本所(ほんじょ)松坂町の吉良邸の「煤払い」から翌日の茶会に吉良上野介(きらこうずけのすけ)が出席することを確認し、翌14日に討入りすることにしたのである。
 吉良邸を、煤竹(竹箒)売りに変装して監視していたのが、大高源吾(おおたかげんご)であった。子葉(しよう)という俳号をもつ彼は、両国橋で師匠の榎本其角(えのもときかく)とバッタリ出会った。其角の詠んだ上の句「年の瀬や水の流れと人の身は」に、「あした待たるるこの宝船」と源吾が下の句をつけたことで、其角は明日が討ち入りだとピンときた。
 はたして翌日、元禄15年(1703)12月14日、寅(とら)の上刻(じょうこく、午前4時頃)に赤穂浪士は討入った。正確に言えば15日の午前4時頃ということになるのだが、江戸時代は卯(う)の刻(午前6時頃)から一日が始まるとされる習慣があったから、まだ12月14日であった。
 12月半ばというのに雪の中の討入りで、江戸時代はさぞや寒かったと思われるだろう。しかし、討ち入りの12月14日は陰暦であって、太陽暦でいえば翌年1月30日になる。新聞の見出し風に表現するならば、「1月31日未明、赤穂浪士討入り」となり、雪の日であっても不思議ではないのである。

江戸時代の旧暦と現代の新暦(グレゴリオ暦)では、ずいぶん季節感に違いがある。 赤穂浪士の討入りは現代の1月末のことだったが、この事件より半世紀ほど前の明暦3年(1 657)にあった、江戸の街を総なめに焼失させた「明暦の大火(旧暦1月18日~20日)」(振袖 火事とも)も正月のことではなかった。
明暦の大火について「冬の凍るような強風にあおられて大惨事になった」と書かれることが多 いが、これは新暦では3月2日〜4日にわたる大火だった。凍るように強風ではなく、今で言う「春 一番」という春の嵐に乗って延焼したわけである。江戸時代と現代の季節感の違いを考える材料 には事欠かない。



赤穂浪士の討ち入りと料理のパロディ作、山東京伝(さんとうきょうでん)の黄表紙『忠臣蔵即席料理(ちゅうしんぐらそくせきりょうり)』より。四十七人の料理人が美味い料理を作り、腹いっぱいの家来たちを追いかけ回して無理やり食べさせるところ。ラストは、満腹で炭部屋に隠れた殿を探し出し、「もう一膳」と迫る。(東京都立中央図書館加賀文庫蔵)

赤穂浪士…赤穂義士。吉良義央を襲って主君の仇を討った旧赤穂藩士47名。

榎本其角…1661〜1707。江戸前期の俳人。芭蕉に学び蕉門十哲のひとりとなる。芭蕉没後、軽妙で洒落た俳諧の一派、江戸座をひらいた。




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とどのつまり
                                    落語「木乃伊(みいら)取り」

 落語の「木乃伊(みいら)取り」を聴いたことがあるだろうか。
若旦那が吉原に流連(りゅうれん。居続け)し、番頭、鳶の頭(かしら)が迎えに行っても若旦那は帰らない。そこで思いあまった両親は飯炊きの田舎者の清蔵を迎えにやる。すると、これも駆けつけ三杯などとおだてられ酔っ払い、若旦那が「清蔵、帰るぞ」と言うと、「あんただけ帰(けえ)れ、俺はもう二、三日ここにいるだ」がサゲになる。
この落語の原話が山東京伝の洒落本『京伝予誌』(寛政2年〈1790〉刊)にある。
吉原に流連する息子に留守の家では上を下への大騒ぎとなり、「とゞのつまり二番番頭が迎いに来て」と、しかつべらしい顔をして番頭が説教すると、そんなに真面目を言わずと一杯いこうとなり、そのまま番頭は碇(いかり)を下ろし、木乃伊取りがミイラになる。
おなじ京伝の黄表紙『世上洒落見絵図(よのなかしゃれけんのえず)』(寛政3年刊)にも、京伝が洒落た黄表紙を書くということなので、天帝(心学でいうお天道様)が京伝の家にやって来て言う、「洒落のとゞのつまりを見せんため来た」と。そして洒落てばかりいると曝(しゃ)れ朽ちてしまうと説教する。ここにも「とどのつまり」が出てくる。
 「とどのつまり」とは、「行き着く先、結局」という意味である。『俚言集覧』では、「とど」は魚の名に由来するとの説もあると断りも述べながら、「とゞ ○止の義にて終りを云(いう)」とし、「とゞのつまり こみ入りし事の終りに至るをいふ」と増補している。
この「とど」は、出世魚(成長するに従って呼び名の変わる魚)の鯔(とど)のことで、イナ→ボラ→トドと変わり、最後は「とど」となって成長が終わるところから、「終わる、詰まる」という意味であるとの俗説がある。
また京伝の黄表紙『孔子縞于時藍染(こうしじまときにあいぞめ)』(寛政元年〈1789〉刊)では、当時、関東郡代(関東地方にある広大な幕府の所領地を支配管理する役職)として天明大飢饉で救い米を施し、江戸庶民のあいだで人気が高かった伊奈半左衛門(いなはんざえもん)を「ぼら長左衛門」として登場させているので、イナ→ボラと、鯔(いな)が出世魚であることを京伝は知っていての諧謔(かいぎゃく)だったと考えられる。
しかし、「とど」は出世魚の最後であるとしても、「とどのつまり」という言葉は歌舞伎用語からいっぱんに広まった可能姓がある。歌舞伎の楽屋通だった式亭三馬の歌舞伎の図説解説書『戯場訓蒙図彙(げじょうきんもうずい)』(図版参照)に、正本通言(しょうほんつうげん。歌舞伎の脚本で使われる言葉の解説)として、「とゞ 立廻りとゞまりてという事の略」とある。つまり、チャンバラの立ち回りが止む、終わる場面を指して「とど」と言い、物事の進行が終わり行き詰まることをいうのである、というわけである。
  「とどのつまり」という言葉を多用している京伝は、明らかに歌舞伎の楽屋用語を念頭に入れて「とどのつまり」の語を「そこで終わる、とどまる」の意味として使っていると考えてよい。京伝は歌舞伎作者の桜田治助と昵懇(じっこん)の仲であり、「とどのつまり」の「とど」は魚ではなく、歌舞伎用語「演技の終り、終了」から借用したものだったと考えられる。




下段の見出し「正本通言」の後ろから3番目に「とゞ」とあり、その下に「立廻りとゞまりてという事の略」とある。歌舞伎の楽屋内の情報を絵入りで説明した『戯場訓蒙図彙』(享和3年〈1803〉刊)より。

山東京伝…1761〜1816。江戸後期の戯作者(げさくしゃ)・浮世絵師。洒落本は、遊里の風俗や男女の遊びを写実的に描いたも。『京伝予誌』は吉原の遊女が起こした著名な情死事件などに取材した作品で、四書の注解書『経典余師』から書名をもじる。

黄表紙…安永4年(1775)〜文化3年(1806)まで江戸で刊行された絵入り小説群のことをいう。大人のマンガ・コミックといった内容で、江戸土産としても珍重された。『世上洒落見絵図』はお天道様が京伝に対して、あまり洒落たこと(いいかげんな滑稽なこと)ばかりするなと諭すもので、『孔子縞于時藍染』は不景気な世の中の現実を、金が余る世の中と逆さに見立てた作品。

『俚言集覧』…江戸後期の国語辞典。26巻。太田全斎編。寛政9年(1797)以降に成立するが、その後、幕末まで補遺される。俗語・ことわざなど多岐にわたって集成したもの。

式亭三馬…1776〜1822。江戸後期の戯作者。黄表紙や滑稽本作者として活躍し、とくに『浮世風呂』(18
09〜13)は江戸の銭湯を舞台に市井生活を活写した滑稽本で江戸語の宝庫でもある。


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浅草寺の年の市
                                    
  新型コロナウイルス禍といえども街のあちこちから、ジングルベルの音楽が聞こえて来るだろう。
  最近では、11月からサンタクロースの人形やクリスマスツリーが飾られ、おせち料理の宣伝もにぎやかに、季節の風物詩が先取りされるようになったが、「年の瀬」の季節感はだんだんと失われつつあるようだ。
  「年の瀬」と聞くと、宝井其角(たからいきかく)の「年の瀬や水の流れと人の身は」の発句を思い起こす方があるかも知れない。
  赤穂浪士(あこうろうし)の大高源吾(げんご)は煤払(すすはら)いの笹竹売りに身をやつし、両国橋近くの本所松坂町にある吉良邸の様子を探った帰途、両国橋で同じ俳諧グループの宗匠である其角とバッタリと出会う。時は12月13日、江戸は大掃除であわただしい日のことであった。
  久しぶりの挨拶を交わした其角は橋の上で、くだんの「年の瀬や…」の発句5・7・5を詠(よ)むと、すぐに源吾は「あした待たるるその宝船」の付句(つけく)7・7を詠む。これで其角は、赤穂浪士が明日、吉良邸に討ち入るのだなと察知したという。はたして14日に討ち入りは行われた。
 江戸の「年の瀬」は、13日の煤払いにはじまって、17、18日の浅草寺(せんそうじ)の「年(とし)の市」で盛り上がりをみせた。この2日間は、昼も夜も、浅草寺を訪れる客の絶えることはない。境内だけでなく、周辺の町までも露店が立ち並び、注連飾(しめかざ)り、破魔弓(はまゆみ)などの縁起物、さまざまな正月用品が売りさばかれた。多くの人々が群集して歩けないほどの混雑で、人を押しのける「馬じゃ馬じゃ」の掛け声がとびかっていた。
  図版は、十返舎一九(じっぺんしゃいっく)が描いた浅草寺の年の市のにぎわいである。仁王門から観音堂の境内に人があふれている。向こうには、羽子板を売る店があり、その隣の店は、五徳(ごとく)や焼き餅用の網を売ってお り、現代のライターである火打鎌(ひうちがま)を売る幟(のぼり)も見える。
  浅草以外の年の市では、15日の深川八幡宮、20日の神田明神、24日の愛宕(あたご)神社、24日の麹町(こうじまち)天神の年の市がつづいた。日本橋近くの十軒店(じっけんだな)などでは、羽子板市が立っていた。
 映画 「赤ひげ」 で有名な小石川療養所の医師も勤めていた小川顕道(あきみち)が書き残した随筆『塵塚談(ちりづかだん)』では、かつては浅草観音の年の市ばかりだったのが、近頃(文化11年〈1814〉頃)では神田、深川、芝愛宕、麹町などへ出掛ける人も多くなって、浅草観音の年の市は、ひと頃のにぎわいではなくなったと記している。
  新興埋立地だった深川や、江戸の住宅地の真ん中の神田、武家屋敷も並ぶ愛宕や麹町の年の市もにぎわい出すと、浅草ばかりが人出の雑踏(ざっとう)とはならなくなったわけである。それでも、縁起物を求める年中行事だけに、本場の浅草でなければならないという人も多かった。




浅草寺の年の市のにぎわい。
十返舎一九の狂歌絵本『夷曲東日記(いきょくあずまにっき)』(寛政12年〈1800〉刊)より。

宝井其角…1661〜1707。江戸前期の俳人。蕉門十哲のひとり。芭蕉とともに俳諧の革新につとめた、芭蕉没後、軽妙で洒落た俳諧の一派「江戸座」を生んだ。


赤穂浪士…元禄15年(1702)12月14日、吉良義央(よしなか)を襲って、主君浅野長矩(ながのり)の仇を討った旧赤穂藩士47名のこと。

十返舎一九…1765〜1831。江戸後期の戯作者(げさくしゃ)。ベストセラー『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』をはじめ、黄表紙(きびょうし)、洒落本(しゃれぼん)、滑稽本(こっけいぼん)、絵本など、様々なジャンルで活躍した作者。

小川顕道…1737〜1816。江戸中期の医師。祖父の代から受け継いだ小石川養生所の肝煎(きもいり)をつとめた。『塵塚談』は、青年期から78歳までに見聞した江戸の風物や流行を123条にわたって記したもの。文化11年(1814)成立。



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フグは食いたし命は惜しし

                                          落語「らくだ」: 落語「フグ汁」

鍋物が恋しい季節となった。
  今はどこでも全国の名物鍋が食べられ、東京でも鍋物フェアなどが開催される御時世となった代わりに、鍋物の季節感も失われたように感じる。しかし、寒い日の鍋物の代表はやっぱりフグ鍋、 関西の人なら 「てつちり 鍋」という人も多かろう。
  江戸時代にはフグ鍋は、「鰒汁(ふくとじる)」と呼ばれていたようで、関西人だった松尾芭蕉も井原西鶴も「鰒汁」の文字を用いて、そう呼んでいる。フグ汁はまた、「鉄砲汁」とも呼ばれた。当たると死ぬからである。
  かつてフグ鍋など、食中毒を起こすものを食べるときには、「気象庁、気象庁」と唱えると当たらないという笑い話があったが、近頃では気象情報のコンピュータのデータ解析が進み、天気予報が「当たる」ようになったから、この呪(まじな)いはもう使えない。
  フグを食べて当たった噺(はなし)といえば、落語の「らくだ」を思い出す人もいるだろう。「らくだ」と渾名(あだな)されている、大酒飲みで暴れん坊、長屋の嫌われ者の大男が、フグの毒に当たって死んでしまい、その兄貴分の男が長屋へ訪ねて来るところから噺は始まる。
  昭和30年代に亡くなった八代目の三笑亭可楽(さんしょうていからく)は、フグは当たる憂いがあるので、お屋敷(武家屋敷)などでは「フグはお家のきつい御法度(ごはっと)」、というマクラをこの噺の前にふっていたが、近頃の落語家はこのマクラでは演(や)らないようである。「不義はお家の御法度」(武家では男女の密通は厳禁)の駄洒落だが、これがピンとくる聴衆も少なくなり、クスグリにもならなくなったのであろう。
ほかに「フグ汁」という落語もある。もとネタは、 十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『臍(へそ)くり金』の中の小噺(こばなし)「鰒汁」で、旦那が出入りの者にフグの毒見をさせようとするが、逆に自分が毒見させられてしまうという噺である。
  江戸の街では、冬も盛りになると「フグ売り」が売り歩き、江戸の風物詩となっていた。しかし、フグ料理に煤(すす)が入ると当たりやすいという俗信があったため、煤掃きの日(12月13日)だけは、江戸の街からフグ売りの姿が消えたようである。図版は、フグ売りから買った一尾をぶら下げて帰る、寒い雪の日の光景である。
  フグをぶら下げている人物は獅子鼻の醜男 (ぶおとこ )で 、吉原の遊里では遊女に振られつぱな しの艶二郎(えんじろう )。 吉原で振られて帰り、 家でフグ鍋で一杯やるというところか。
そのフグの狂歌を一首。「捨果(すてはて)て身はなきものと悟らねど雪の降る日は河豚(ふぐ)をこそ思へ」は、戯作者(げさくしゃ)の式亭三馬(しきていさんば)が詠んだ狂歌である(『人心覗からくり』)。西行の和歌と伝えられる「すてはてて身はなきものと思へども雪のふる日は寒くこそあれ」をもじった狂歌である。
  酒飲みで美食家の江戸っ子の三馬は、酒太りからくる肥満に悩んでいたようだが、寒い雪の日とくれば、「フグは食いたし命は惜しし」と言いながら、フグ鍋に舌鼓を打って一杯というところだったろう。現代のように調理師試験がなかった江戸時代では、フグの調理は素人料理だったようで、フグ料理屋の看板を見ることはほとんどない。




雪の日に蛇目傘(じゃのめがさ)でフグを手にする男は、戯作者の山東京伝(さんとうきょうでん)。「雪の日や鰒に価(あたへ)の銀世界」と風流な句が添えられたこの絵は、京伝の黄表紙(きびょうし)『龍宮羶鉢木(たつのみやこなまぐさはちのき)』(寛政5年〈1793〉刊)の巻末にある。竜宮を舞台とした魚たちの騒動は、騒動の張本人のフグが征伐されて終わり、この場面につづく。

十返舎一九…1765〜1831。江戸後期の戯作者。『東海道中膝栗毛』など、ベストセラーを次々出版した。落語のルーツともいえる噺本(はなしぼん)『臍くり金』は、享和2年(1802)刊。

式亭三馬…1776〜1822。江戸後期の戯作者・狂歌師。会話体を用いた滑稽本(こっけいぼん)『浮世風呂』『浮世床』で知られ、『人心覗からくり』は文化11年(1814)刊。


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江戸の宝くじ・千両富
                                        落語落語「御慶(ぎょけい)」
 今年の年末ジャンボ宝くじは、前後賞を合わせて10億円。宝くじ売り場の長蛇の列に並ぼうという方も多かろう。大晦日の抽選で、億万長者が何人も誕生する。
  今回は、江戸の宝くじ、千両富(せんりょうとみ)の話である。
千両富に当たると、今のお金に換算するとどれくらいもらえたのか。江戸前期の1700年頃(元禄時代)は1両が13〜15万円くらいだから、千両当たると1億5千万円くらい。ところが、江戸後期の1800年頃(寛政〜文化年間)になると、インフレが昂進していて10万円くらいだから、1億円といったところになる。
  千両富を1枚買うのに1分=1両の4分の1が相場だったようであるから、賞金は4千倍にしかならない。現在の宝くじ10枚(3千円)を買った倍率で計算するなら1千2百万円にしかならないということになり、夢がしぼんでしまうようだ。逆に言えば、富くじ1枚の単価が現在の2.5万円に相当するほど高かったということになり、それだけ射幸心(しゃこうしん)が煽(あお)られたということでもあろう。
  この千両富をネタにした落語には 「宿屋の富」と 「御慶(ぎょけい)」が知られている。今も正月の寄席の定番となっているのが「御慶」。先代の五代目柳家小さんの高座を聴いて記憶している人も多かろう。
  鶴が梯子(はしご)に登る夢を見た八五郎は、鶴は 「千」 年、 梯子(8・ 4・ 5)は登る も のだから下から順に 「 5・ 4・ 8」 、 「鶴の1548」 が夢判断だと易者に教えら れ富札を買つ て千両が当たり、喜んだ八五郎は裃(かみしも)姿で年始に回り、大声で「御慶」と挨拶して、晴れて正月を迎えた。このめでたい噺(はなし)には、小さんのあの丸い顔がいかにもふさわしかった。
  五代目小さんはこの噺のなかで、芭蕉の門人の志太野坡(しだやば)の正月を詠(よ)んだ発句(ほっく)「長松(ちょうまつ)が親の名で来る御慶哉(かな)」を紹介しているが、この発句から思いついて、長松という少年を主人公にした黄表紙(きびょうし)『初登山手習方帖 (しょとうざんてならいほうじょう)』 を書いたのは、十返舎一九(じっぺんしゃいっく) である。
  一九は、『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』8編(文化6年〈1809〉刊)のなかで、弥次郎兵衛(やじろべえ)と北八(きたはち)が大坂坐摩(ざま)神社の富くじを拾い、百両当てたと思い込んで遊廓で豪遊するが、じつは組違いで借金だけが残ってしまう、というドタバタ喜劇を描いている。二十代の青春時代を浄瑠璃作者などをしながら大坂で暮らしていた一九だから、もしかしたら富くじにまつわる実話を聞いていて書いたのかもしれない。
  ところで、小さんの「御慶」は境内の富くじにしているが、マクラで江戸の三富(さんとみ)、すなわち谷中の感応寺(かんのうじ。今の天王寺)、目黒の泰叡山(たいえいざん。目黒不動)、湯島の天神での富くじが、天保の改革で禁止されたと言っている。天保13年(1842)には、江戸の富興行が全面的に禁止ということになった。
  天保の頃の三富は、寺門静軒(てらかどせいけん) 『江戸繁昌記(えどはんじょうき)』にくわしく見える。静軒が実際に見た富興行はすでに千両富ではなく、一の富(一等)が百両の時代だった。一の富の賞金が下がった分だけ富くじ1枚の値段も半分以下になり、富くじはやがて廃止されることとなった。
 



富くじの抽選会。木箱の中に番号の書かれた木札がたくさん入っており、棒の先で1枚突いて出すと、それが当たり札となる。(『初夢宝山吹』天明元年〈1781〉刊)


志太野坡‥1662〜1740。江戸前期の俳人。越後(新潟県)の人。江戸に出て両替店の番頭となり、のちに大坂に移り住む。芭蕉に入門して活躍し、蕉門十哲のひとりと言われる。

『初登山手習方帖‥寛政8年(1794)刊。長松少年が、夢の中で天神様から諭されて、手習いに励んで上達するという話。「長松が〜」の句を芭蕉の発句と間違えているのは、一九のご愛敬。

十返舎一九‥1765〜1831。江戸後期の戯作者。駿府(静岡市)生まれ。『東海道中膝栗毛』をはじめ、ベストセラーを次々刊行する。

寺門静軒‥1796〜1868。江戸後期の漢学者。常陸国(茨城県)水戸の人。山本緑陰に師事、ついで上野寛永寺で仏典を学び、江戸で私塾を開く。『江戸繁昌記』を刊行したことで幕府から処分を受け、剃髪して各地で放浪生活をおくる。

『江戸繁昌記』‥天保3〜7年(1832〜36)刊。相撲、吉原、両国花火、浅草寺、湯屋、芝居など、江戸市中の繁栄を記し、武士、僧侶、儒者のありようを厳しく風刺したため、天保の改革により絶版処分となる。










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