江戸言葉 月ごよみ
棚橋正博(たなはしまさひろ)氏プロフィール
1947年秋田県生まれ。 早稲田大学エクステンション(中野校)講師。神奈川大学エクステンション(横浜KUポートスクエア)講師。早稲田大学大学院講師。早稲田大学大学院修了。日本近世文学専攻。文学博士。 黄表紙研究の第一人者で、知られざる江戸の風俗文化を多くの人々に伝えることを使命としている。テレビや講演会などでも活躍中。著書は『式亭三馬』(ぺりかん社)、『十返舎一九』(新典社)、『江戸の道楽』(講談社)、『江戸戯作草紙』『教科書が載せられない名文』『捏造されたヒーロー遠山金四郎』(小学館)など多数 (Web日本語より加筆転載)  

 私たちが何気なく使っていることばの多くが、じつは江戸生まれだってご存じでしたか? 「江戸っ子」なことばたちを、江戸の人たちがどうやって生み出し、どのように育てていったのか、「へえ〜」と思わずいいたくなる知識を、黄表紙や浮世絵の絵などとともにご紹介していきます。 

► CONTENTS
一 月 旧正月と名刺、江戸の大雪、正月の餅、湯屋の正月、七福神詣
二 月 二八(にっぱち)と品川遊郭、「べらぼうめ」と「べらんめえ」、節分と豆男、出替りと契約社員
三 月 雛祭り、隅田川は暴れ川だった、寺子屋入り、江戸の花見、春の夜の夢と千両
四 月 江戸のサラリー事情、藤の花と銭の花、江戸の虫除けと油虫、卯の花と豆腐、デパート商法は
五月 江戸のベストセラーと付録、野暮・通、端午の節句、初鰹、おへそが茶を沸かす
六月 山王祭と喧嘩、梅雨と番傘、6月の花嫁、江戸っ子と傘と日傘、大山詣
七月 七夕、江戸の売り声、江戸の朝顔ブーム、スイカと料理茶屋百川、江戸の花火
八月  年寄の冷や水、江戸の「狆」ブーム、「八朔(はっさく)」とは、冷や水売りと白玉、江戸っ子とそうめん
九月  芋名月、弥次さん北さん、重陽の節句、秋を告げる松虫、初ナスは高級品
十月  にべもない、紅葉狩りと吉原、飲み食べ笑う「えびす講」、戯作者たちの繁忙期
、十一月 江戸の紅葉めぐり、酉の市と熊手、江戸の時計と季節 、酉の市と大火、顔見世興行と千両役者、「七五三」は縁起がいい
十二月  浅草寺の年の市、フグは食いたし命は惜しし、江戸の宝くじ・千両富






 十一月



江戸の紅葉めぐり
                                    
  凩(こがらし)の季節を迎え、関東も各地で紅葉の見頃となるのはもうすぐである。TVの宣伝文句ではないけれど、桜の名所は楓(かえで)の名所でもあることが多いという。
  ソメイヨシノで有名な染井村(豊島区・駒込)は、江戸時代、秋の風物詩の楓見物でにぎわっていた。隣接する菊作りで人気があった巣鴨村からここまでずっと植木屋が並び、植木職人が競って秋を彩る種々の楓を育てていた土地柄だった。
 染井村の名前が全国的に有名になったのは、この村の植木屋の手によって桜の品種改良がなされ、古来桜の名所として名高い奈良の吉野と染井村から命名したソメイヨシノが生まれたからである。明治になって全国に植えられ、桜といえばソメイヨシノになったわけだ。染井村は、桜や楓だけでなく四季の草花の苗木を育てる植木職人の村でもあった。
  「染井植木屋、百種の楓あり」と、幕末生まれの俳人・時雨庵尋香(しぐれていじんこう)が安政6年(1859)に書き記した『武江遊観志略(ぶこうゆうかんしりゃく)』にある。幕末の江戸周辺の年中行事と風物詩を紹介しながら、「紅楓(もみじ)、立冬より7、8日目ごろより」見頃になるとして、江戸と近郊の名所を挙げている。もう9年ほど経つと明治になるという時代である。今年の立冬は11月7日ということである。
  現在は、六義園(りくぎえん)小石川後楽園(こうらくえん)など、かつての大名の庭園が紅葉の名所となっているが、江戸時代は大名屋敷や江戸城は開放されていなかったから、庶民が楽しめた紅葉の名所は、おもに神社仏閣の境内などであった。
  『武江遊観志略』に挙げられる紅葉の名所をたどってみようと思うが、幕末から今までのわずか150年のあいだに、紅葉の名所もだいぶ移り変わっているようだ。
 「東叡山(とうえいざん。上野寛永寺)」、「根津権現(ねづごんげん)境内」、「浅草観音奥山」などは、今では観光名所となり外国からの観光客でにぎわっていたが、思わぬコロナ禍で寂しいところだろうけれど、風情が戻ってかえって興趣は良いかも しれない。
 「谷中(やなか)天王寺(てんのうじ)」は「東叡山」から「根津権現境内」へ回るコースにあったろうし、北へ向かうと「滝の川(北区・滝野川)」、ついでに飛鳥山(あすかやま)を見て王子稲荷(おうじいなり)の参詣ということだったろう。
 また、西へ向かうと「大塚護国寺(ごこくじ)境内」や早稲田の「高田穴八幡(あなはちまん)境内」、そしてもう少し足を伸ばすと、新宿の宿場に近い「角筈(つのはず)十二所権現(じゅうにしょごんげん)社内」や「大久保西向(にしむき)天満宮境内」、南に向かうと「増上寺(ぞうじょうじ)弁天池辺」も、幕末には紅葉が盛りだったようである。
 江戸の南には紅葉の名所が多くあった。「品川東禅寺(とうぜんじ)」や「鮫洲(さめず)海晏寺(かいあんじ) 」が代表格で、「目黒竜泉寺(りゅうせんじ。目黒不動)近年少し」とあるから、明治に近い幕末には竜泉寺の紅葉は盛りが過ぎていたのかもしれない。川柳では、こう詠(よ)まれている。

目黒から廻るはまだも律儀者(りちぎもの) 
(『誹風柳多留』19編)

目黒不動の縁日28日(正月・5月・9月)には不動参詣を口実に品川遊廓へ遊びに行く者が多かった。この川柳は、いちおう不動参詣してから紅葉見物を終えると品川遊びをするのは律儀者だとするわけである。参詣と品川泊まりになったので、家人のご機嫌をうかがうために目黒不動の門前で売られていた名物の餅花(もちばな)や、名代の桐屋で売られていた飴を手土産にした者も多かったろう。



海晏寺の紅葉見物。茶店の床几(しょうぎ)で紅葉を愛(め)でながら飲食する客たち。『江戸名所図会(えどめいしょずえ)』(天保5年〈1834〉)刊より。

時雨庵尋香…小川氏。1819〜1901。文政2年生まれ、明治34年没。幕臣。幕末・明治の俳人。高梨一具の門弟となり一具庵と称した。

六義園…東京都文京区本駒込にある庭園。元禄15年(1702)に完成した柳沢吉保(やなぎさわよしやす)の下屋敷の庭。池泉回遊式庭園。

小石川後楽園…東京都文京区小石川にある旧水戸藩中屋敷の庭園。回遊式庭園。明暦(めいれき)の大火で全焼したが、寛文9年(1669)頃に光圀(みつくに)が完成した。

海晏寺…東京都品川区南品川にある曹洞宗の寺。建長3年(1251)、北条時頼の創建、大覚禅師の開山と伝えられる。


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酉の市と熊手
                                    
  年末の商家では、酉(とり)の市(いち)で熊手(くまで)を買い替えて、歳(とし)の市で迎春の縁起物を買い揃える。どちらも年の瀬の風物詩として今も行われている。
  酉の市は、11月の酉の日に行われる鷲(おおとり)神社の祭礼で、江戸時代に盛んになった。今年は三の酉まであった。
  三の酉まである年は火事が多いといわれる。江戸の三大大火と称される明暦3年(1657。振袖火事)と文化3年(1806。丙寅〈へいいん〉の火事)は三の酉の年だったけれど、安永元年(1772。目黒行人坂〈ぎょうにんざか〉の火事)は違うなど、三の酉まである年は火事が多いというのは俗説である。
  もともと武士が武運長久を祈願した行事だったのが、江戸中期の明和・安永年間(1764〜81)頃に、それまで流行(はや)っていた江戸の郊外の花又村(足立区花畑)にある長国寺から、浅草竜泉寺の鷲神社がとって代わり、浅草の酉の市とも呼ばれ、商売繁盛・開運のご利益を願う庶民で賑(にぎ)わうようになった(『東都歳時記』)。
  酉の市といえば、すぐにお多福面(たふくめん)や宝船などが飾られている熊手を思い起こすが、もともと「酉」は「とりこむ」という縁起担ぎに由来されているとされ、熊手も富や幸運をかき集めるという縁起物として売り出されたようである。
  熊手とは、熊の手に似た鉄製の爪を棒に付けて何かを引っかけたり、物を掘り起こしたりする道具のことであった。それが、散っている穀物や落ち葉をかき集めたり庭掃きなどに使うために、先端を曲げた竹を扇状に並べ熊手箒(ぼうき)とも呼ばれる軽く便利な竹製となり、これが酉の市の熊手として売られた。
  ところで、この熊手をトレードマークにしていた江戸時代の戯作者(げさくしゃ)がいた。『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』で一躍ベストセラー作者となり、筆一本で暮らせる幸運を手に入れた返舎一九(じっぺんしゃいっく)十である。明和2年(1765)酉年生まれの一九は、生まれた酉年にちなんで熊手を印章に使ったのである。今年は、一九の没後190年であった。
  『続道中膝栗毛』二編で次の予告は下総松戸宿で女郎買いをするというものだったが、一転して最近その存在が知られた二編追加(文化10年〈1813〉刊)では、弥次郎兵衛(やじろべえ)と喜多八(きたはち)のコンビは、播州高砂(ばんしゅうたかさご。兵庫県高砂市)へ相生(あいおい)の松を見ようとやって来る。
 相生の松とは、その木の下に熊手箒を持った老人の翁(おきな)と、横に妻の媼(おうな)が立っている図のことである。永(なが)の偕老同穴(かいろうどうけつ)を祝う、結婚式で謡われる謡曲などの「高砂」もこれである。
 高砂神社の手前で肥桶(こえおけ)を担いだ百姓と弥次郎兵衛がぶつかり、怒る弥次郎兵衛と百姓のあいだでひと悶着(もんちゃく)があったあと、二人は高砂神社に参拝し相生の松を見る。
 境内の茶屋で百年寿命が延びるという寿命餅(じゅみょうもち)を食べた二人は、餅を10個も食べて喉(のど)につかえた70過ぎの欲張り老婆を介抱(かいほう)してやる騒動となるが、ここは高砂神社の相生の松の茶屋のことなれば、老婆も絵で画かれる熊手を持つ翁や媼に負けないくらい千年も長生きできるだろうと笑って慰め、播州旅行をつづけるのであった。




老人が神様に祈願して遊里に遊び、米寿の姥玉(うばたま)となじみになって、めでたく相生の松の下の翁と媼となる二人。古阿三蝶(こあみちょう)の黄表紙(きびょうし)『昔々相生松(むかしむかしあいおいのまつ)』天明6年(1786)刊より。

戯作者…近世後期の娯楽を主とした通俗小説などの作者。

十返舎一九…1765〜1831。江戸後期の戯作者。本名・重田貞一。はじめ大坂で浄瑠璃作者となったが、江戸に出て黄表紙作者となり、その後、洒落本(しゃれぼん)、滑稽本(こっけいぼん)、読本(よみほん)、咄本(はなしぼん)などに多くの作品を残した。


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酉の市と大火
                                    
  今年は、酉(とり)の市が三の酉まである(旧暦も同じ)。「酉の市」は、毎年11月に台東区の鷲神社(おおとりじんじゃ)、新宿区の花園神社などで行われている祭礼で、幸福や富を引き寄せるという熊手(くまで)を売る店が参道に並び、参詣の人々で大変にぎわう。11月のはじめの酉の日を「一の酉」、以下「二の酉」「三の酉」と呼ぶ。「三の酉」まである年は、災厄が多い年といわれている。
 酉の市の発祥は、郊外の花又村(はなまたむら。足立区花畑)にあった大鷲神社(おおとりじんじゃ。鷲大明神〈わしだいみょうじん〉とも)だったとされる。花又村は、幕末近くに別荘地となり、ようやく人々が住むようになった農村地帯だった。
  そんな地理的な条件もあって、安永・天明期(1840〜56)には、浅草の裏手、新吉原に近い竜泉寺村にある鷲大明神の酉の市がにぎやかになりだし、現在に続いている。竜泉寺村といえば、のちに明治の女性作家・樋口一葉(ひぐちいちよう)が一時住み、『たけくらべ』の舞台として描かれたことを思い出す方もあるだろう。
  この酉の市は、「浅草の酉の市」と呼ばれていた。図版は、天保9年(1838)刊の『東都歳時記(とうとさいじき)』から。鷲神社には人があふれ、田圃(たんぼ)道を多くの参詣人が歩き、大きな熊手を担いで帰る人もいる。吉原が近いので、酉の市を口実に吉原遊びをする人も多かった。
  またここでは、雑踏のなかで路上博奕(ばくち)も盛んに行われた。富貴開運の神様への参詣と、熊手を買って幸運を手に入れるついでに、賭(か)け事でひと儲(もう)けを願う欲深な庶民の射幸心(しゃこうしん)につけ込んだアイディアといえばそれまでだが、いかにもバブル経済最盛期の安永・天明期に流行(はや)りだした信仰というところである。
  さて、江戸時代の大火の年は、はたして「三の酉」の年だったのだろうか。
明暦3年(1657)1月18日の大火(振袖火事) は、新興都市としての環境も整ってきた江戸を総なめにしたが、この年は11月10日と22日が酉の日で、「二の酉」しかなかった。
  浅草の酉の市がにぎやかになった明和9年(改元安永元年)2月29日の大火(目黒行人坂〈ぎょうにんざか〉火事) の年も、5日と18日の「二の酉」までだった。そして、文化3年(1806)3月4日の大火(丙寅〈へいいん〉の大火)の年も、同じく5日と18日だった。
  「三の酉」の俗信は、少なくとも江戸の大火には、あまりあてはまらないようである。
  ところで、丙寅の大火では、日本橋の火の見櫓(やぐら)も消失するほど江戸の中心街が焼けてしまった。『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』で知られるベストセラー作家・十返舎一九(じっぺんしゃいっく) も、この大火で罹災(りさい)している。前年に息子が誕生、しかし妻を失い(産後の肥立ちが悪かったと思われる)、失意の時に大火に遭い、乳飲み子を抱え亀戸に寓居せざるを得なかった。
  十返舎一九を戯作者(げさくしゃ)として世に送り出した山東京伝(さんとうきょうでん) も、京橋銀座で罹災、蔵が残っただけで、式亭三馬(しきていさんば) も自宅が全焼している。筆まめな彼らは、日記や備忘録(びぼうろく)を付けていたようだが、それらは多くの蔵書とともにことごとく焼け、江戸の貴重な資料が焼失してしまった。




浅草田圃酉の市。鷲神社のにぎわいの様子が描かれている。左上の大きな屋根は浅草寺。その右手側には吉原があった。(『東都歳時記』天保9年刊〈1838〉より

振袖火事…本郷丸山の本妙寺(ほんみょうじ)で施餓鬼(せがき)のために焼いた振袖が空に舞い上がり火事の原因になったので、こう呼ばれた。死者は10万人を超えたとも伝えられ、その供養のために両国に回向院(えこういん)が建てられた。

目黒行人坂火事…目黒から下目黒に下る坂道が行人坂であり、その坂にある大円寺(だいえんじ)が火元であったことから、こう呼ばれた。

十返舎一九…1765〜1831。江戸後期の戯作者。健筆多作の作家で、黄表紙(きびょうし)・洒落本(しゃれぼん)・滑稽本(こっけいぼん)・読本(よみほん)などさまざまなジャンルで活躍した。若い女性読者の紅涙を絞り、別名「泣本」と呼ばれた恋愛小説の人情本(にんじょうぼん)の発案者でもあった。

山東京伝…1761〜1816。江戸後期の戯作者。黄表紙・洒落本の第一人者。『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』など作品多数。浮世絵師・北尾政演(まさのぶ)としても活躍。京橋に煙草(たばこ)入れの店を持っていた。

式亭三馬…1776〜1822。江戸後期の戯作者。日常生活の笑いを会話体を用いて描いた『浮世風呂(うきよぶろ)』『浮世床(うきよどこ)』などが有名。丙寅の火事のあと、本町(ほんちょう)に薬屋を開業して成功した。


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顔見世興行と千両役者
                                          
今年は新型コロナウイルス禍でようやくオープンした新歌舞伎座では、11月1日から顔見世(かおみせ)興業が通常の月よりも豪華な顔ぶれで華やかに行われるだろう。
  江戸の顔見世興行(こうぎょう)も11月に行われていた(大坂では新年正月)。もちろん江戸時代は旧暦であるから、今年で言えば、旧暦11月1日は12月15日である。
  江戸時代の歌舞伎役者は1年契約だったから、11月に新しい役者が揃(そろ)って挨拶し、向こう一年間の役者のラインアップを披露する顔見世興行は、歌舞伎の1年のはじまりの大変重要な行事であった。顔見世の初日には正月元旦と同じように、劇場関係者は正装して祝儀をのべ、3日の間は雑煮で祝った。
 江戸三座 といわれた中村座、市村座、森田座には、櫓(やぐら)が上げられ、劇場前に米俵(こめだわら)などの贔屓(ひいき)連中からの贈り物の品々がうず高く積み上げたれた。それらを見物する人々で芝居町は大いににぎわい、前日から徹夜で入場した観客たちは、初日の幕が上がるのを、今か今かと待った。そして、一日早朝、式三番叟(しきさんばそう)のめでたい舞台から顔見世ははじまった。
  江戸時代の歌舞伎は、娯楽の花形であった。
  一日に千両の商いがある譬(たと)えとして「日千両(ひせんりょう)」という言葉が生まれたのは江戸時代も後半のことだが、日本橋界隈(おもに本小田原町)の魚市場、全盛期の遊廓吉原、そして歌舞伎芝居(三座)の売り上げが一日に千両だったというわけである。
  当時の歌舞伎の入場料は、どのくらいであっただろうか。文化3年(1806)夏興行の市村座では、桟敷(さじき)席が銀20匁(もんめ)、高土間が銀15匁、平土間が銀12匁、土間割合(6人入りの枡席)が1人200文(もん)だった。花道の後ろに切落しという100文(もん)前後の追込み席もあったが、この当時はかなり縮小されていたようである。芝居小屋の建物としての規模は、間口(まぐち)11間(約20メートル)、奥行22間半(約41メートル)だから、今日の大劇場ほどの規模ではなかった。
  大衆席の平土間(ひらどま)の銀12匁といえば、当時の相場でいうと、ほぼ米20升(しょう)、すなわち2斗(と)=30圓冒蠹する。米価で換算するには現在の米の銘柄がまちまちで難しいところだが、標準的な5圍械娃娃葦澆之彁擦垢襪函△よそ18000円くらいになろう。歌舞伎の席料は高かった。ちなみに、この換算の方法で千両を計算すると1億円に相当する。
  計算のついでに、「一日千両」を歌舞伎三座で稼ぎ出したとすると、一座あたりが333両、これを当時の大衆席の平土間の銀12匁で割ってみると、一座あたりの観客動員は1665人。観客に参勤交代の勤番武士や江戸見物人がいたとしても、当時の江戸の人口は160万を超えていたから、一座につき人口0・1%の観客動員数といったところである。
  「千両役者」とは、11月の顔見世興行から翌年10月までの1年間の給金が千両になる役者をいうわけだ。正徳・享保年間(1711〜36)、二代目市川団十郎(だんじゅうろう) は千両役者となり、上方(かみがた)から一時、江戸へも下ってきた若女形(おやま)の初代芳沢(よしざわ)あやめも千両役者となっている。





江戸歌舞伎では、顔見世興行の序幕には『暫』(しばらく)』が不可欠の演目であった。花道の中央で止まってツラネ(長ぜりふ)を述べる見せ場。演じているのは、五代目市川団十郎。(『化物箱入娘』天明元年〈1781〉刊より)

江戸三座…元禄年間には、この三座のほかに山村座があったが、山村座は正徳4年(1714)の江島生島(えじまいくしま)事件で廃絶、以後、休座などの経緯があるが、三座で明治初年まで続く。

二代目市川団十郎…1668〜1758。元禄年間の名俳優で、市川家の基礎を確立した。「助六」の現在のスタイルを原型を作った。

初代芳沢あやめ…1673〜1729。元禄期の代表的女形。文化年間の五代目まで続く。


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「七五三」は縁起がいい
                                  
 「七五三(しちごさん)」は年々派手になっているような気がする。新型コロナウイルス禍の今年はどうだろうか。「七五三」は、男児は数えで3歳と5歳、女児は数えで3歳と7歳の11月15日に行う祝儀で、正装して氏神さまなどにお参りする。最近では、11月になると着飾った親子連れで神社が賑わっているのを目にする。
  少子化のこの時代、子どもにお金をかけるのがトレンドなのであろうが、お祝いする子どもの孫親(おじいちゃん、おばあちゃん)が晴れ着を買ってくれるから、親としても張り切ってしまうようだ。
  江戸時代、旧暦の11月15日(今年の太陽暦では12月29日)には、3歳の「髪置(かみおき)」、5歳の「袴着(はかまぎ)」、7歳の「帯解(おびとき)」を祝う行事が行われた。
 「髪置」とは、幼児が髪を結うために髪を伸ばし始める祝い。「袴着」は、男児が初めて袴をはく祝い。  この「袴着」のときに男児は褌(ふんどし)は締めていない。民間の町人社会では10代になっ てから褌のかき始め(締め始め)が行われた。母親方の伯母・伯母から褌はプレゼントされたとい う。そして、その後に15歳前後に大人となる元服(げんぷく)の儀式をおこなう町家もあった。
 武家の男子の場合は、町人が派手にお祝いする七五三より、「袴着」と元服が重要な儀式で あった。徳川家継(いえつぐ) は数え年五歳の10月14日に七代将軍職を継ぐことになった。だか ら「袴着」をする前に将軍になったのである。翌年正月元旦に「袴着」、3月26日に元服して一人 前となってから将軍と宣言した。どうも「理屈と膏薬はどこでも付く」という観がしないでもない。
 「帯解」は、女児が着物に付いている付紐(つけひも)を取り、帯を使い始める祝いである。この日、町人の家庭でも、子どもに晴れ着を着せて、産土(うぶすな)の神社に参詣した。親戚に挨拶回りをし、自宅に客を招いて祝宴を開くこともあった。
  図版は、江戸時代後期の天明5年(1785)の絵本『絵本物見岡(ものみがおか)』より、宮参りの賑わいが描かれた場面である。子どもだけでなく親たちも晴れ着の美しさを競い合っている。
  江戸時代にこのように行われていた行事が、明治になって「七五三」という呼び名で定着していったようだ。
  どうして「七五三」という年齢の祝儀になったのか、理由は今ひとつ判然としないが、中国では古来、奇数は陽数として尊ぶ風習があり、それに影響されて子どものつつがない成長を祈って七・五・三の年齢になったと考えられる。七・五・三を足すと15になり、奇数のはじめの数である1を重ねると11、そこから11月15日の年中行事になったという説は俗説のようだけれど、案外そんなところに由来しているのかも知れない。
  ところで、「七五三」のように、奇数を陽数として「縁起」のよい数とする考え方は、江戸時代にはすっかり定着していた。歌舞伎や小説の題名は、縁起をかついでヒット作となることを願って、奇数の文字数になるように作られていた。
  例えば、歌舞伎『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』、浄瑠璃(じょうるり)『曽根崎心中(そねざきしんじゅう)』、小説『日本永代蔵(にっぽんえいたいぐら)』『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』『南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)』なども、題名は5文字、7文字の奇数である。
  ところが、近代の明治以降の小説の題名となると、『当世書生気質(とうせいしょせいかたぎ)』『舞姫』『坊ちゃん』など、奇数にこだわらなくなった。今年もノーベル文学賞とは縁がなかった村上春樹もこだわっていない。




江戸時代の宮参りの様子。晴れ着を着た一行が神社に入ってゆく。左のほうに頭に揚帽子(あげぼうし。武家の女性が外出する時に用いた被り物)を被って正装している女性と子どもが見える。(『絵本物見岡』天明5年〈1785〉刊)


徳川家継‥・宝永6年(1709)7月3日生まれ。六代将軍家宣(いえのぶ)の第三子。
兄の家千代 ・大五郎が早世したため跡継ぎとなる。正徳2年(1712)10月14日に家宣が没したので七代将軍職を継ぐことになる。 翌年正徳2年4月2日に将軍宣下(将軍宣言)。幕政の実権は間部詮房 (まなべあきふさ)が握 っていた。









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