江戸言葉 月ごよみ
棚橋正博(たなはしまさひろ)氏プロフィール
1947年秋田県生まれ。 早稲田大学エクステンション(中野校)講師。神奈川大学エクステンション(横浜KUポートスクエア)講師。早稲田大学大学院講師。早稲田大学大学院修了。日本近世文学専攻。文学博士。 黄表紙研究の第一人者で、知られざる江戸の風俗文化を多くの人々に伝えることを使命としている。テレビや講演会などでも活躍中。著書は『式亭三馬』(ぺりかん社)、『十返舎一九』(新典社)、『江戸の道楽』(講談社)、『江戸戯作草紙』『教科書が載せられない名文』『捏造されたヒーロー遠山金四郎』(小学館)など多数 (Web日本語より加筆転載)  

 私たちが何気なく使っていることばの多くが、じつは江戸生まれだってご存じでしたか? 「江戸っ子」なことばたちを、江戸の人たちがどうやって生み出し、どのように育てていったのか、「へえ〜」と思わずいいたくなる知識を、黄表紙や浮世絵の絵などとともにご紹介していきます。 

► CONTENTS
一 月 旧正月と名刺、江戸の大雪、正月の餅、湯屋の正月、七福神詣
二 月 二八(にっぱち)と品川遊郭、「べらぼうめ」と「べらんめえ」、節分と豆男、出替りと契約社員
三 月 雛祭り、隅田川は暴れ川だった、寺子屋入り、江戸の花見、春の夜の夢と千両
四 月 江戸のサラリー事情、藤の花と銭の花、江戸の虫除けと油虫、卯の花と豆腐、デパート商法は
五月 江戸のベストセラーと付録、野暮・通、端午の節句、初鰹、おへそが茶を沸かす
六月 山王祭と喧嘩、梅雨と番傘、6月の花嫁、江戸っ子と傘と日傘、大山詣
七月 七夕、江戸の売り声、江戸の朝顔ブーム、スイカと料理茶屋百川、江戸の花火
八月  年寄の冷や水、江戸の「狆」ブーム、「八朔(はっさく)」とは、冷や水売りと白玉、江戸っ子とそうめん
九月  芋名月、弥次さん北さん、重陽の節句、秋を告げる松虫、初ナスは高級品
十月  にべもない、紅葉狩りと吉原、飲み食べ笑う「えびす講」、戯作者たちの繁忙期
、十一月 江戸の紅葉めぐり、酉の市と熊手、江戸の時計と季節 、酉の市と大火、顔見世興行と千両役者、「七五三」は縁起がいい
十二月  浅草寺の年の市、フグは食いたし命は惜しし、江戸の宝くじ・千両富






 九月



芋名月
                                           
 今年の仲秋(ちゅうしゅう)の名月(旧暦の8月15日の月)は9月21日。首都圏では、中天に浮かぶ丸い大きな月を眺めて夜を過ごす人もいるだろう。
  旧暦では7月、8月、9月が秋の季節ということで、真ん中の8月の月であることから仲秋(中秋)の名月と呼びならわした。明るい月だから「明月」と詠(よ)んだのは中国の古い漢詩で、日本の漢詩でも「明月」と詠む。日本の和歌や俳諧では漢語を使うのをタブーとしたために、8月15日の月を「名に高き月」と称し、「名月」の語を使うようになった。
 名月といえば芭蕉の句、

名月や池をめぐりて夜もすがら

を思い出し、水に映った仲秋の名月を眺めた人もいたことだろう。
  俳諧で名月を詠むのは俗っぽいし、陳腐だと言う向きもあるだろうが、俗でもかまわず、名月の句作りの俳人といえば、小林一茶が代表格であろうか。

  名月をとつてくれろと泣く子哉(かな)

この句は『おらが春』に収められていて、一茶らしい句だと親しまれている。丸い煎餅(せんべい)のような空の月を欲しいと、ねだる子どもの様子が目に浮かぶ。まだ、長男千太郎の生まれる前なので、いかにも子ども好きの一茶らしい句である。これとは別に、

名月や膳に這(はい)よる子があらば

という句もある。
文政2年(1819)6月21日、生まれてわずか13か月で早世した長女の「さと」が生きていれば、という思いをこめた句である。月見に供えるお膳のところへ、可愛さ盛りの娘が生きていれば、ハイハイして寄ってくるだろうという句意である。この句が詠まれた同じ年に「故郷(ふるさと)は蠅(はえ)まで人を刺しにけり」という句を詠んでいる。江戸から故郷へ帰って一家を構え子供が出来ても、故郷は必ずしも歓迎してくれない境遇に一茶は悩んでいた。滑稽味のある一茶の句の中にも、彼の暗い境遇を滲(にじ)ませながら詠まれたものが結構多い。
  名月といっても、旧暦の9月13夜の月も名月と呼ぶ。これは別名「栗名月」。とれた栗を月に供える風習が江戸時代からあり、それに対して仲秋の名月は別名「芋(いも)名月」。
  現代人では、芋といえばジャガイモやサツマイモ、山芋がピンとくるだろうが、江戸っ子のあいだでは、芋といえば里芋のことであった。山芋が滋養強壮力があることは知られているが、里芋も滋養があると江戸っ子たちは信じていたようである。
  土用見舞(立秋前の暑中見舞)として、収穫されたばかりの里芋を芋籠(いもかご)に入れてお客が吉原の妓楼(ぎろう)などへ贈り物する風習があった。親芋と小芋、そして孫芋には塊(かたまり)の形状で多収穫の八頭(やつがしら)があり、里芋は子孫繁栄の縁起物としての贈り物でもあった。



芋たちが地獄でいろいろな目に合うのを朝比奈(あさひな)が巡って見て歩くという、山東京伝(さんとうきょうでん)の黄表紙(きびょうし)『一百三升芋地獄(いっぴゃくさんじょういもじごく)』(寛政元年〈1789〉刊)より。ここは賽(さい)の河原。地蔵が芋たちに、「芋籠へ入れて土用見舞につかわせる」と言っている。


小林一茶…1763〜1827。江戸後期の俳人。信濃の人。江戸に出て俳諧を学び、全国行脚(あんぎゃ)の旅に出る。晩年は故郷に帰って俳諧の宗匠となる。日常生活を平明に詠む俳風を確立させた。



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弥次さん北さん
                                             
落語「三人旅」
「弥次(やじ)さん・北さん」といえば、江戸の戯作者(げさくしゃ)十返舎一九(じっぺんしゃいっく) のベストセラー『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』に登場する主人公、弥次郎兵衛(やじろべえ)・北八のことで、いまも、二人旅をするときに「弥次さん・北さんみたいだね」と言うことがある。「弥次さん・北さん」という言葉は、この作品が生まれてから200年も生きている。
  今年は一九の生誕256年にあたる。11月には、一九の故郷である静岡市の「十返舎一九顕彰会」は毎年、記念イベントを行うという。
  一九の生涯はベールに包まれているところが多い。さまざまなエピソードが伝えられていて、その最たるものは、花火を体に巻き付けるように弟子に遺言し、荼毘(だび)に付すと数条の光の筋が走り参列者を驚かしたという話である。じつは、これは怪談落語の名人林屋正蔵(はやしやしょうぞう)のエピソードとの混同なのだが、相変わらずテレビなどで、この虚像が紹介されることがある。
  ところで、一九の名が日本中に知れ渡ることになった『東海道中膝栗毛』は、ひょんなことから生まれた作品である。一九は、婿入りして失敗し、潤筆料(原稿料)で食っていかなければならなくなり、それでは吉原通いも好きで、中田屋の遊女勝山と良い仲になっていたことでもあり、吉原に取材した潤筆料の高い洒落本(しゃれぼん)をせっせと書き出した。そんな折、本屋の村田屋治郎兵衛から、東海道の名所旧跡の狂歌を詠(よ)んだ楽しい本を作ってくれと依頼された。
 十代の若いときから江戸と大坂を東海道で往復している一九にとっては、最適な要望だった。だが、東海道を詠む狂歌集のような本では芸がないと考えた一九は、村田屋が主宰する落とし噺(小咄。こばなし)の会で持ち寄られた笑い話をネタにしようと考えた。
  一九は、神田の八丁堀あたりに住む弥次郎兵衛と居候(いそうろう)の北八の二人が当時流行していたお伊勢参りの二人旅を思いついた。 『東海道中膝栗毛』の初編は、川柳にはじまり狂詩や狂歌を織り交ぜて、二人を箱根まで旅させて終わる。一九自身が経験した、あるいは耳にした旅の失敗談に、狂言や滑稽話を重ねて、ちょっぴり下品な笑いで包み、弥次さん・北さんのドタバタ喜劇の旅として滑稽本(こっけいぼん)『東海道中膝栗毛』を書いた。
  これが、お伊勢参りなど全国の名所巡りの旅行熱が高まった時流にマッチして、売れに売れた。洒落本の刊行禁止により潤筆料を稼げなくなって、その弱り目の時に再婚もした。そんな一九が、幸運にも大ヒット作に恵まれたのである。一九は『道中膝栗毛』に賭け、続編を次々に出した。弥次・北の凸凹コンビが、東海道にはじまり諸国を旅しながら失敗する『道中膝栗毛』シリーズは出すたびにヒットして、一九と本屋の村田屋にとってドル箱となった。
  落語の「三人旅」は『道中膝栗毛』をイメージして作られたものであるが、その後、弥次・北の『道中膝栗毛』をもとに漫画や映画なども作られて、現代の庶民の楽しみとなっていった。
 一九が原稿料欲しさに書いた小説が、皮肉にも大当たりになり、その後、この版権は他の本屋にとって垂涎(すいぜん)の的となり再版が繰り返され、現代でも生きているのである。




小田原の宿の旅籠(はたご)に泊まったふたり。五右衛門(ごえもん)風呂の湯につかる弥次さんと、その様子をのぞきに来た北八。このあと、北八が風呂の底を下駄で踏み抜き、大騒ぎとなる。『東海道中膝栗毛』初編(享保2年〈1802〉刊)より。



十返舎一九…1765〜1831。江戸後期の戯作者。本名・重田貞一。駿河府中(現静岡市)、奉行所同心の家の長男として生まれる。大坂で浄瑠璃作者となり、寛政4、5年(1792、3)に江戸に出て蔦屋重三郎に寄食する。寛政7年(1795)に黄表紙(きびょうし)を発表し、以後、洒落本、滑稽本、読本(よみほん)、咄本(はなしぼん)など、次々に出版した。ベストセラー『東海道中膝栗毛』は初編から8編までの18冊、その後、続編、続々編(天保2年〈1831〉)まで刊行された。


林屋正蔵…1780〜1842。初代。文化年間(1804〜1818)怪談噺を創始。戯作もよくして、二代鹿野武左衛門を名のる。



洒落本…江戸後期小説の一様式。遊里を舞台に、男女の会話で遊里の内部や恋のてくだを写実的に描いたもの。一九は吉原・中田屋の新造勝山と馴染(なじ)みになったこともある。



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重陽の節句
                                           
 9月9日は重陽(ちょうよう)の節句である。
中国では奇数を陽数、偶数を陰数と考えていて、その陽数の最大数である「9」が重なる日を佳節(かせつ)として「菊花節(きっかせつ)」と呼び祝ったのが発祥で(もちろん陰暦での9月9日である)、陽の数9が重なるから「重陽の節句」と呼ぶのである。日本では、古くから宮廷行事として観菊の宴などが催され、やがてその風習は庶民にも広まった。
江戸時代、重陽の節句に菊の祝いが行われたことは有名であるが、この日に雛祭(ひなまつ)りが行われたということはあまり知られていないので、まずそれから紹介しようと思う。
江戸の庶民のあいだでは、9月9日のことを「後(のち)の雛祭り」と呼んで、3月3日の雛祭りのように、雛人形を飾って祝う風習があった。おそらく、3×3=9ということで、桃の節句と重陽の節句を重ね合わせたものだろう。
  図版は、重陽の節句に雛段を飾って「後の雛祭り」をする様子。曲亭馬琴(きょくていばきん)合巻(ごうかん)『相馬内裡後雛棚(そうまだいりのちのひなだな)』(文化8年〈1811〉刊)の物語の結びの絵である。馬琴の小説類は観念的なストーリーが多く、『相馬内裡後雛棚』は平安時代に関東地方を支配しようとした武将・平将門(たいらのまさかど。?〜 940)が活躍する時代小説で、時代考証としては必ずしも正しくなかろうが、そうした風習が江戸時代にあつたことから、ここでは描いたと思われる。

  さて、中国の田園詩人・陶淵明(とうえんめい)は菊の花と酒を愛し、江戸時代の日本では、この日に菊酒を楽しむのが風流人のたしなみとなっていた。江戸では、菊人形などの菊細工が盛んになり、重陽の節句に菊細工の興行などのイベントが行われていた。しかし、それは江戸時代も後半のことで案外と歴史は浅い。
 菊細工は、文化5年(1808)に、麻布狸穴(まみあな)あたりの植木屋が、菊の花で丹頂鶴(たんちょうづる)や帆掛け船の細工を作ったのがはじまりであるが、これはさして評判を呼ばなかったらしい。翌年の文化6年頃から、巣鴨(すがも)の植木屋たちが競って菊細工を作り、出品して興行を打ち、それ以来、巣鴨名物として評判になった。
文化11年(1814)9月には、巣鴨の植木屋たち52軒が盛大な興行を打った。その案内書『巣鴨名産菊乃栞(すがもめいさんきくのしおり)』は、戯作界に隠然たる勢力をもつ烏亭焉馬(うていえんば)の手で刊行され、出品された菊細工の絵には、著名な戯作者たちが詠(よ)んだ狂歌や発句(ほっく)が添えられている。
  ここには、主宰者の焉馬の狂歌も見えるが、珍しい馬琴の狂歌も見られる。馬琴の戯作の師匠だった山東京伝(さんとうきょうでん)や弟の山東京山(さんとうきょうざん)、式亭三馬(しきていさんば)も門下生とともに狂歌を詠み、十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の名も見える(名前だけあって狂歌などは載らないが)。毛色の変わったところでは、焉馬が贔屓(ひいき)にしていた七代目市川団十郎も狂歌を寄せている。売れっ子戯作者たち総出の案内書であった。
狷介固陋(けんかいころう)な馬琴は、親分肌で弟子たちの面倒見がいい三馬を毛嫌いすることはなはだだしかったけれど、ここでは呉越同舟(ごえつどうしゅう)している。



重陽の節句(後の雛祭り)の雛段。ススキや秋の花も飾られている。(『相馬内裡後雛棚』文化8年〈1811〉刊、早稲田大学図書館蔵)

曲亭馬琴…1767〜1848。江戸後期の戯作者。山東京伝に師事して黄表紙(きびょうし)など書くが、のちに勧善懲悪の物語を描いた長編の読本(よみほん)を続々と刊行する。代表作『南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)』は106冊に及ぶ。
合巻…江戸後期、文化年間(1804〜1818)以降、近代初頭まで流行した絵入りの草双紙(くさぞうし)の一種。従来5丁1冊であった草双紙を15丁または20丁で1冊とした。

陶淵明…365〜427。中国東晋の詩人。不遇な官僚生活に見切りをつけて、「帰去来辞(ききょらいのじ)」を賦(ふ)して故郷に隠棲(いんせい)。田園生活や隠者の心境を詩に表した。

烏亭焉馬…1743〜1822。江戸後期の戯作者。江戸本所(ほんじょ)の大工の棟梁(とうりょう)。落語中興の祖と呼ばれ、立川流(たちかわりゅう)の開祖でもある。

山東京伝…1761〜1816.江戸後期の戯作者・浮世絵師。黄表紙・洒落本(しゃれぼん)の第一人者。

式亭三馬…1776〜1822。江戸後期の戯作者・狂歌師。日常生活を細かく描写した滑稽本(こっけいぼん)『浮世風呂(うきよぶろ)』『浮世床(うきよどこ)』が有名。

十返舎一九…1765〜1831。江戸後期の戯作者。ベストセラー『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』をはじめ、多くの作品を残した。

七代目市川団十郎…1792〜1859。歌舞伎役者。あらゆる役をよくこなした江戸末期の代表的名優。歌舞伎十八番を制定し、「勧進帳(かんじんちょう)」を創演した。


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秋を告げる松虫・鈴虫の鳴き声は?

                                           落語「狸賽(たぬさい)」
残暑に汗を流す毎日である。昼間はまだまだ蝉(せみ)がにぎやかである。夜になると虫の音がちらほら聞こえるが、今年の猛暑はなかなか秋の訪れを感じさせてくれない。
  童謡「虫のこえ」以来、「あれ松虫が鳴いているチンチロチンチロチンチロリン あれ鈴虫も鳴き出してリンリンリンリンリインリン」と、「チンチロリン」と鳴くのは松虫と決まったようだが、江戸人たちの耳にも「チンチロリン」は松虫、鈴虫は「リンリンリン」と聞こえたようなのである。もっとも、庭先で「チンチロリン」と鳴くのは鈴虫だと唱える御仁もいて、百家争鳴の感がないわけでもないが、江戸の博覧強記の人、喜多村信節(きたむらのぶよ)の随筆『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』では、「チンチロリン」は松虫説に軍配を挙げている。
 『源氏物語』では、女三(おんなさん)の宮(みや)が住む家の庭を野原の風情にしようと光源氏が鈴虫を放つ描写があるが(「鈴虫」の巻)、残念ながら虫たちの鳴き声までは伝えていない。平安の貴族たちの耳には、秋の虫たちの鳴き声が、どのように響き聞こえたのであろうか。
  江戸の風流人たちは秋になると、道灌山(どうかんやま。荒川区西日暮里)へと出かけ、秋の夜長を楽しんでいた。図版は、その様子を描いた『江戸名所図会(えどめいしょずえ)』の道灌山虫聴きの図である。本文には次のように書かれている。

殊(こと)に秋の頃は松虫・鈴虫、露にふりいでゝ
清音(せいおん)をあらはす。依(よ)つて雅客幽
人(がかくゆうじん)こゝに来り、風に詠じ月に歌
うてその声を愛せり。

  道灌山からは江戸が一望でき、筑波山(つくばさん)まで望めたという。月明かりに照らされながら、あるいは漆黒(しっこく)の闇がひろがる中で、江戸の街の夜の明かりがちらほらと点在し浮き出す光景を見ながら、そちこちから高らかに響く虫の音に耳を傾けるのは、風流人の雅趣を楽しむ極みであったろう。佐原鞠塢(さはらきくう)が文人たちの協力を得て造った向島百花園(むこうじまひゃっかえん)でも、虫聴きは行われていた。
  ところで、チンチロリンは秋でなくても何時(いつ)も聴いているという江戸っ子もいた。サイコロバクチで、壺笊(つぼざる)の代わりに茶碗を使い、その茶碗にサイコロを入れると鳴る音が松虫のような音色であることから、俗にサイコロバクチを「チンチロリン」とも呼んでいた。
  江戸時代の明和〜寛政年間半ば頃(1764〜 94)までは「めくりかるた」(現代の花札に似ているカードバクチ)が大流行して、サイコロの丁半バクチは一時的に下火になる。「め<りかるた」はルールがむずかしいだけに、江戸のインテリたちも面白がって夢中になるものの約30年で流行がおわり、やがて単純な丁半バクチが復活する。
 落語「狸賽(たぬさい)」は、子狸(こだぬき)を助けた男が恩返しに来た子狸にサイコロに化けてもらい、チンチロリンのバクチでひと儲(もう)けしようと思うが、「天神」(五のこと)という符丁(ふちょう)を子狸が知らず失敗する噺(はなし)である。同じチンチロリンで夜を徹した楽しみでも、片肌脱ぎチンチロリンと「勝負、勝負」の掛け声ばかり、これだと無風流だと叱られそうである。




道灌山に虫聴きに訪れた人々。右には、ゴザを敷いて虫聴きに興じようとする男たち。夕日を眺めたり酒をくみ交わしたりしている。左はその連れか、虫かごを持った子どもを連れた女性たち。(『江戸名所図会』より)

喜多村信節…1783?〜1856。江戸後期の国学者・考証学者。『嬉遊笑覧』は、文政13年(1830)成立の随筆集。江戸の風俗習慣、歌舞音曲などを中心に集めたもの。

『江戸名所図会』…江戸の絵入り地誌。7巻20冊。斎藤幸雄・幸孝・幸成(月岑〈げっしん〉)の親子三代で完成。絵は、長谷川雪旦・雪堤。寛政から天保にいたる江戸やその近郊の名所が収録されている。

向島百花園…今も東京都墨田区東向島にある庭園。文化元年(1804)、骨董商・佐原鞠塢が開いた3千坪にもおよぶ花園。命名は酒井抱一(ほういつ)。徳川家斉(いえなり)や家慶(いえよし)も来訪している。



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初ナスは高級品
                                  
 秋の味覚が恋しい季節になった。秋の野菜といえば、秋ナスであろう。
  現代では、野菜はスーパーマーケットなどで一年中売られていて、ナスも季節感を失った野菜のひとつになってしまったが、旬の季節にはたくさん並ぶ。
  江戸時代も、秋ナスは美味とされていたようで、「秋ナスは嫁に食わすな」という諺(ことわざ)があり、秋ナスは味が良いので息子の嫁には食わすなと、舅(しゅうと)や姑(しゅうとめ)が嫁いびりするような解釈が一般的になっている。しかし、これはじつは嫁の体をいたわり、秋ナスは体を冷やすから子作りのためにはよろしくないとか、秋ナスは種が少ないことから子種の少ないことに通じて嫌われたという説もある。
  ナスにまつわる諺は、ほかに「親の意見と茄子(ナスビ)の花は千に一つもむだはない」がある。咲いたナスの花は必ず受精して実をつけるように、親の意見もすべて子のためになるという意味である。たしかに、ナスは花が咲くとほとんど結実するが、この諺と裏腹に、親の意見に耳を傾けない風潮だと嘆くのはいつの時代も同じようである。
  千年も前に中国から渡来し、江戸時代にはもっともポピュラーな野菜になっていたナスだから、この諺はかなり昔から言い古されていたのではないかと考えたいが、文献では、幕末頃に成立した写本『世俗俚諺集(せぞくりげんしゅう)』に見えるのが早い。
 幕末の天保年間(1830〜44)には、ナスは野菜の「初物(はつもの)」の代表格になていった。「初物七十五日」、初物を食べると75日長生きできると言われていたから、江戸っ子たちは初物にフィーバーした。
 「初鰹(はつがつお)」が珍重されていたことは有名である。安永・天明年間(1772〜89)では、初鰹は2両2分もする高級品であったが、それから半世紀後の天保年間頃には、目の下1尺4〜5寸(約42.5〜45センチメートル)の初鰹でも金2分(1両の2分1)程度に下落していた。そのかわりに、野菜の初物は高価を呼び、料理屋では季節に先がけた初物料理が看板になった。
 初物は少しでも早いほど高値で売れるから、江戸時代には野菜の促成栽培も工夫をこらして行われていたようだ。
 雨障子(あましょうじ。紙に油を引いて雨を防いだ障子戸)で囲ったり、あるいは室内に炭火を焚(た)いて暖めて野菜を栽培する、いまで言えばビニルハウスのようにして促成栽培されたナスが売られていた。ほかにキュウリやインゲン、大角豆(ささげ)なども「萌(も)やし物」と称して、季節に先んじて売られていた。
 初ナスを高く売っていたのは幕末と限らず、元禄年間頃(1688〜1704)もおなじであったようで、そのことが井原西鶴(いはらさいかく)の浮世草子(うきよぞうし)『日本永代蔵(にほんえいたいぐら)』(「世界の貸屋大将」)に見える。
  大坂で徹底的なケチとして名が通っていた藤市(ふじいち)という男がいて、彼が商売をやっている店の前に、初ナスを1つで2文、2つを3文で売る八百屋がやって来た。すると迷うことなく、1つで2文のほうを買った。
  ケチな人だけでなく、たいがいの人は割安で得になるから、3文で2つのほうを選んで買うであろう。でも、ケチで名だたる藤市は2文を出して1つだけ買って、こう言ったという。「あとの1文で盛りの時期になれば、大きなナスが1つ買えて得だ」。ケチに徹した男の話である。
  実利をとる大坂と、ミエを張りがちな江戸、現代でも通じるような話である。



野菜を擬人化した十返舎一九(じっぺんしゃいっく)作画の黄表紙(きびょうし)『諺東捕寨掌(ことわざかぼちゃのつる)』(寛政10年〈1798〉刊)より。唐茄子(とうなす)と白瓜(しろうり)夫婦にナスの赤ちゃんが生まれた。お兄ちゃんは白瓜。頭に登場人物の役柄の野菜が描かれているのが面白い。

井原西鶴…1642〜93。江戸前期の浮世草子作者・俳人。大坂の人。俳諧では矢数俳諧を得意として世間を仰天させた。庶民の生活を写実的に生き生きと描いた浮世草子の名作を多数書き、『好色一代男』『好色五人女』などの好色ものや、経済小説とも言える『日本永代蔵』『世間胸算用(せけんむねさんよう)』などで知られる。





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