鳥山石燕は江戸時代中期に活躍した浮世絵師。正徳2年(1712)~天明8年(1788)。
[蔦屋 重三郎 〈つたや じゅうざぶろう〉 寛延 3年 (1750 )~寛政 9年 5月6日(1797)]
個人の業績と今日の評価>
・肉筆画(美人画など)や、寺社への奉納額(東京都雑司ヶ谷の『大森彦七図』、埼玉県秩父市の円融寺の『景清牢破りの図』など)を制作。奉納額に歌舞伎役者の似顔絵を用いたことで評判を得た。
・浮世絵版画に用いられる「拭きぼかし」の技法を考案し、版本に初めて使用したのは石燕の画集『鳥山彦』(『石燕画譜』とも、1774年)であると伝えられている。
・壮年以降に出版された『画図百鬼夜行』をはじめとする妖怪画の版本で特に名を知られるようになった。
石燕の描く妖怪画は、従来の妖怪絵巻などに見られるような露骨な恐怖感や残酷さではなく、どこかユーモラスで親しみやすい作風が特徴。
今日の評価として、石燕の妖怪画は、後の葛飾北斎や歌川派の絵師たちにも影響を与え、現代の日本の妖怪イメージの形成にも大きな役割を果たしたと考えられる。特に、漫画家の水木しげるも石燕の作品から多くのインスピレーションを得ていた。
弟子の教育・輩出>
石燕は門弟の教育にも熱心で、 かの浮世絵美人画家として知られている喜多川歌麿(美人画で名を馳せ化政文化を代表する浮世絵師の一人)や、戯作(げさ くしゃ)の恋川春町(こいかわはるまち:浮世絵師であると同時に、黄表紙などの戯作者としても活躍)、歌川豊春(うたがわ とよはる:西洋の遠近法を浮世絵に取り入れ、後に浮世絵の一大流派となる歌川派の祖となった)など多くの著名な弟子を輩出。次世代の浮世絵界を担う多くの才能を育て上げた点でも大きな功績があった。
新着コラムはこちら>
〇神田川界隈物語 『鳥山石燕(とりやませきえん)の絵馬』
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd6/
関連情報はこちら>
〇『蔦重の夢が息づく粋まち-台東区』
https://taito-tsutaju.jp/
氏子>神田・日本橋・大手町・丸の内を含む108ヶ町会(200基)
日程 >
5月8日(木) 午後7時 鳳輦神輿遷座祭
5月9日(金) 夕刻 氏子町会神輿神霊入れ
5月10日(土) 終日 神 幸 祭 (神田、日本橋、大手・丸の内、秋葉原巡行)
5月10日(土) 午後3時頃〜 附け祭
5月10日(土) 終日 神幸祭神輿宮入
5月11日(日) 終日 神輿宮入
5月14日(水) 午前11時 表千家家元奉仕献茶式
5月14日(水) 午後5時30分 会場 明神能・幽玄の花(金剛流薪能)
5月15日(木) 午後2時 例 大 祭
大神輿渡御>
平成16年より大神輿渡御は、氏子の百八町会を三ブロックに分けて実施。
神田第1ブロック。 [神保町、猿楽町地区・神田公園地区・中神田13ケ町連合・神田駅東地区・大手町、丸の内地区]
神田第2ブロック。 [外神田連合・秋葉原東部地区連合・岩本町、東神田地区連合]
日本橋ブロック。 東日本橋、馬喰町、横山町、浜町、中洲、 蛎殻町、人形町、大伝馬町、室町、本町地区の受け持ちで渡御が実施される。
本祭りは江戸三大祭りの神田祭りで、宮神輿三基の神幸祭と町会神輿の連合宮入。
宮神輿>
本祭りの年は宮神輿(座寸法4尺1寸、平成10年製作)を担ぐ大神輿渡御。
一之宮:延軒屋根・平屋台造り 瓔珞と錺は京風 祭神:大己貴命 建造年度:昭和27年
*大己貴命(おおなむちのみこと:だいこく様。縁結びの神様。別名:大国主命(おおくにぬしのみこと)
二之宮:延軒屋根・平屋台造り 祭神:少彦名命 台座:三尺建造年度:昭和48年 製作者:下谷・種田豊次郎 *少彦名命 (すくなひこなのみこと:えびす様。商売繁昌の神様)
三之宮:切妻屋根・鳥居を付けず 祭神:平将門命 建造年度:昭和59年
*平将門命 (たいらのまさかどのみこと:まさかど様。除災厄除の神様)
由来>
社伝によると、天平二年(730年)に出雲氏族の真神田臣(まかんだおみ)により武蔵国豊島郡芝崎村―現在の東京都千代田区大手町・将門塚周辺)に創建。
戦国時代になると、太田道灌や北条氏綱といった名立たる武将によって手厚く崇敬された。
慶長5年(1600)、関ヶ原の合戦に臨み徳川家康公が戦勝の祈祷を行ない、9月15日、神田祭の日に見事に勝利。これ以降、江戸幕府の尊崇する神社となり、元和二年(1616年)に江戸城の表鬼門守護の場所にあたる現在の地に遷座、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」の古社。
江戸っ子が神田祭を詠んだ記録(川柳、俳句、狂歌)>
神田祭は天下祭(てんかまつり)、御用祭(ごようまつり)とも呼ばれ、単なるお祭りではなく、自分たちの活気や勢いを象徴する特別なものでした。豪華絢爛な山車や神輿、そして熱気あふれる人々の様子は、まさに江戸の粋そのものでした。
>「神田衆 粋を競うや 衣装まで」
・神田の男たちが、祭りのために粋な衣装に身を包み、その姿を競い合っている様子を描写しています。
>「神の留守 皆浮かれ立つ 神田祭 よいよいの声に 我も我もと」
・神様が留守の間(神輿渡御中)、氏子たちが我先にと神輿を担ぎ、浮かれ騒いでいる様子を面白おかしく詠んでいます。
>「江戸っ子は 生まれながらの 祭り好き 神輿担いで 一喜一憂」
・江戸っ子は生まれつきの祭り好きで、神輿を担いで一喜一憂する様子が、生き生きと表現されています。
連絡先>神田明神 外神田2-16-2 03-3254-0753
詳細情報>神田明神 https://www.kandamyoujin.or.jp/
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水都江戸・東京物語~「第一部「武蔵國・江戸物語」
No10.武士の先駆けだった平将門 (たいらのまさかど)
http://www.edoshitamachi.com/web/suitoedo/
氏子>四十四ヶ町
浅草寺を中心に東/隅田川、西/かっぱ橋道具街通り、南/春日通り、北/吉原のエリア
概要>
江戸期の三社祭。「江戸名所図屏風」(寛永年間初期/出光美術館蔵)の中に祭礼が大きく描かれているのは三社祭。江戸期初期、三社祭が祭礼の歴史の古さ、親しまれ方では神田明神、山王権現(日枝神社)より三社祭のほうが江戸の庶民の間においては人気があったようだ。
東京の初夏を代表する風物詩の一つ。江戸風情の残る下町浅草に三日間で約200万人の人出を超え1年でもっとも活気つく。
浅草神社の祭礼。土曜は氏子44カ町約100基の神輿の連合渡御が行われ、日曜には本社神輿3基の渡御が実施される。
氏子>四十四ヶ町
浅草寺を中心に東/隅田川、西/かっぱ橋道具街通り、南/春日通り、北/吉原のエリア
<東部>花川戸一 浅草馬一 花川戸二 聖天 猿若 田聖睦 浅草馬二 浅草象一 浅草象潟 浅草象三 浅五会 浅草馬三
<西部>浅草二 芝崎東 芝崎西 芝崎中 西浅三北 堤 千草 浅草中 浅草千和 千二西 千二光月 千一南 浅三東 浅草町一 浅草町二 浅草清三
<南部>仲見世 浅草東 浅草中央 浅草西 浅草公園 浅一三栄 西浅草一 寿二 寿一 寿三東 駒形 寿四 雷門田原 雷門西部 雷門中部 雷門東部
日程 >
■5月15日(木) 本社神輿神霊入れの儀 19:~
■5月16日(金) 大行列 13:00~
びんざさら舞奉納14:20~
各町神輿神霊入れの儀15:30~
■5月17日(土) 町内神輿連合渡御 12:00~
巫女舞奉奏(神楽殿) 17:00~
■5月18日(日) 宮出し 7:00~
本社神輿各町渡御 宮出し終
宮入り 19:00~20:00頃
宮神輿>
■一之宮(鳳凰) 吹き返しがない延軒屋根と蕨手(わらびて)が軒下から巻き上がっている 胴に晒を巻く
祭神/土師真中知命(はじのまなかちのみこと) 台座/三尺七寸(112㎝) 建造/昭和25年 製作者/浅草・宮本重義
■二之宮(疑宝珠) 吹き返しがない延軒屋根と蕨手が軒下から巻き上がっている 胴に晒を巻く
祭神/檜前浜成命(ひのくまのはまなりのみこと) 台座/三尺七寸(112㎝) 建造/昭和25年 製作/浅草・宮本重義
■三之宮(疑宝珠) 吹き返しがない延軒屋根と蕨手が軒下から巻き上がっている 胴に晒を巻く
祭神/檜前武成命(ひのくまのたけなりのみこと) 台座/三尺七寸(112㎝) 建造/昭和27年 製作者/浅草・宮本重義
由来>
推古天皇三十六年(西暦六二八年)三月十八日の早朝、隅田川で漁をしていた檜前浜成(ひのくまのはまなり)・竹成(たけなり)の兄弟の投網に仏像がかかり、土地の長の土師中知(はじのなかとも)がこれを観音像と確認、中知が屋敷を寺に改め、出家して深く帰依したのが浅草寺の起こりとされる。寺に隣接する浅草神社には、この三人が神として祭られ、五月には三社祭が催される。(浅草寺縁起)
浅草神社> https://www.asakusajinja.jp/sanjamatsuri
・其角とともに芭蕉門下の双璧という時代も作った。 豪放な其角に対して嵐雪は温雅。 例えば、妻の死後に彼女の長年の夢であっ京都寺社への旅を、亡き妻に代 って果たしたということからも嵐雪の人柄を想像できる。
新着コラムはこちら
>神田川界隈物語
・「芭蕉の門人 服部嵐雪の眠る本教寺」
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画像>http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd6/
・寛政3年(1791)3月、寛政改革(松平定信)の出版取締令に触れて財産の半分没収。
・寛延3年1月7日(1750年2月13日)誕生~寛政9年5月6日(1797年5月31日)病没。
俗称は蔦重、屋号は蔦屋、耕書堂。版元印=富士山型に蔦の葉のマーク。
蔦屋重三郎は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した著名な版元(出版人)で喜多川歌麿や東洲斎写楽などの作品を世に送り出し江戸の出版文化をリードした。
山東京伝の洒落本が寛政改革(松平定信)の出版統制により手鎖50日の処罰を受け、版元の蔦屋重三郎も身代(財産)半分に没収される。
関連コラムはこちら>
江戸言葉 月ごよみ 『手鎖は「てじょう」と読む!』
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画像>
・蔦唐丸 自作 『身体開帳略縁起:3巻』 出版:蔦屋重三郎 寛政9年(1797) 国立国会図書館蔵
> http://www.edoshitamachi.com/modules/myalbum/photo.php?lid=818
戯作に描かれた蔦重。袖に蔦屋の紋(山形に蔦の葉)がついている。
・寛保元年(1741)3月 吉原仲之町で、季節ごとに梅や桜を植え替え始める。
・江戸の桜の名所といえば、浅草寺の裏手の千本桜も有名だった。これが植えられたのは寛保元年(1741)3月だから、芭蕉が没したあとのことなので芭蕉(元禄2年(1689)3月27日墨田区から松尾芭蕉が「奥の細道」の旅に出る)は見ていない。この千本桜は、吉原の遊女たちも寄進したもので、その木々には遊女の自筆になる和歌などを書いた札が下がっていたという。翌年春には、花と遊女の筆跡を、江戸っ子たちは楽しんだわけである。もちろん吉原では桜の季節になると、メーンストリートである仲の町に桜の木々をわざわざ植樹して、盛大に花見をしたものだった。
吉原細見≫
・「吉原遊廓」
江戸幕府によって公認された遊廓。
始めは江戸日本橋近くにあり、明暦の大火後、明暦3年(1657年)
浅草寺裏の日本堤に移転し、前者を元吉原、後者を新吉原と呼んだ。
・「花魁(おいらん)」
吉原遊廓の遊女の事で位が高い人。
18世紀中ばに吉原の禿(かむろ)、新造といった妹分が姉女郎のことを
おいらんを呼んだことから上位の吉原の遊女を意味する言葉に定着。
江戸時代後期の吉原細見(安永4年)に下位の遊女で散茶50人、座敷持357人、
部屋持534人で総計2021人と記載がある。
・「花魁道中」
花魁は美しく着飾って下男、妹分の遊女を側に置き遊郭内を練り歩くこと。
江戸吉原においては正月、8月1日、高級遊女が盛装を行い廓の中を練り歩いた。
おいらんが揚屋入りする場合は新造を1人から2人程、禿を1人から3人程、
さらには下男を1人引き連れていた。
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江戸自慢三十六興 『新よし原仲の町の桜』 絵師:広重 , 豊国出版者:平のや 国立国会図書館蔵
> http://www.edoshitamachi.com/modules/myalbum/photo.php?lid=817&cid=50
・絵は遊女と夜桜を描いた歌川広重の『吉原仲之町』
>関連コラム
江戸言葉 月ごよみ三月号 江戸の花見
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/index.php?id=3
・3月3日は、五節句の1つである上巳(じょうし)の節句で、「桃の節句」とも呼ばれる。中国の水辺での厄払いの風習と、日本の身を清める風習や人形を流す風習が混ざって生まれた祭り。雛人形はこの人形が源流。 江戸時代には、京都から江戸に広まり、雛市が立った。日本橋十軒店(じっけんだな)が有名で、『江戸名所図会』などに描かれている。江戸後期には、雛人形飾りが豪華になった。 明治時代には、五節句の廃止で一時期衰退したが、明治半ばには復活した。百貨店でも雛人形が売り出された。 雛市で人形を買い、家で雛人形を飾る習慣は、今も続いている。
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『江戸名所百人美女_十軒店』歌川豊国(三代)、歌川国久(二代)画 東京都立図書館蔵
>http://www.edoshitamachi.com/modules/myalbum/photo.php?lid=814
内裏雛の前で雛人形の冠を持つ女性、コマ絵(右枠内の絵)には雛人形を売る十軒店の風景があります。十軒店は現在の中央区日本橋室町にあった町で、仮設のお店が10軒並んでいたから名付けられた。 江戸では雛市がいくつかあったが、十軒店が一番盛況でった。十軒店の人形師・原舟月が作った古今雛は、現代の雛人形の元になった。江戸時代には豪華な雛人形が禁止されるほど、様々な雛人形が作られた。
関連コラムはこちら>
・江戸の春の楽しみ 『初午」と「桃の節句』
>http://www.edoshitamachi.com/web/daidougei/
・江戸言葉 月ごよみ 『雛祭り』
>http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/index.php?id=3
・日本橋川に架かる日本橋と、橋を中心とした広域を指す。東海道など五街道の起点で、ここを起点に一里塚が設置されており、現在でも橋の中央鉄塔には日本国道路元標がある。慶長8(1603)年には完成していたと言われる。橋の下を船が行き交うため、石垣上の橋台を高く築き、アーチ状の形状となった。日本橋周辺は江戸の下町の中心であり、幕府の役所、大店が軒をつらね、各地からの人々で賑わった。北側の本船町(ほんふなちょう)、本小田原町(ほんおだわらちょう)辺りには魚河岸があり、幕府に魚を納める役割を果たし、江戸の魚取引の中心として発展した。その後、魚取引は関東大震災をきっかけに築地へ移転した。
・関東に入府した家康は、 江戸を拠点とすることとし、江戸城を築きながら、 戦いに備えたインフラを築造した。 水と米と塩です。このため、水を江戸城に引くため神田上水が築造され、 近郊生産地確保のため 亀有にため池が造られ、塩を運ぶために小名木川が開削。。
さらに家康は、江戸を人流・物流の中心にするため、 日本橋を築造して五街道の起点とするとともに、 江戸湊を造成した。。
詳細コラムはこちら>
・武蔵國・江戸物語『戦いに備えた江戸の最初のインフラ』
> http://www.edoshitamachi.com/web/suitoedo/PDFNo30.pdf
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・葛飾北斎「東都勝景一覧 上 日本橋」2(一部) ボストン美術館蔵
>http://www.edoshitamachi.com/modules/myalbum/photo.php?lid=813
北斎ならではのダイナミックな構図と、緻密な描写によって、日本橋周辺の風景の美しさを表現している。
特別展 関連講座①2月22日(土曜日)・②3月1日(土曜日)・⓷3月22日(土曜日)
特別展関連講座① 「彦根藩世田谷領の人々と桜田門外の変」
会場 日比谷図書文化館 日比谷コンベンションホール(大ホール)
住所 〒100-0012 東京都千代田区日比谷公園1-4
日時 2025年2月22日(土曜日)/午後2時~午後3時30分(午後1時30分開場)
講師 角和 裕子(かくわ ゆうこ)(世田谷区立郷土資料館学芸員)
定員 200名(事前申込順、定員に達し次第締切)
参加費 1、000円
特別展関連講座② 「桜田門外の変の描かれ方」
会場 日比谷図書文化館 2階パープルゾーン
住所 〒100-0012 東京都千代田区日比谷公園1-4
日時 2025年3月1日(土曜日)午後2時~午後3時30分
講師 大石 学(静岡市歴史博物館館長/東京学芸大学名誉教授)
定員 200名(事前申込順、定員に達し次第締切)
参加費 1,000円
特別展関連③ まち歩き「歩いて現場検証!桜田門外の変」
開催場所 日比谷図書文化館
〒100-0012 東京都千代田区日比谷公園1-4
会場 千代田区内(三宅坂~外桜田門前~和田倉門前周辺)
講師 日比谷図書文化館 文化財事務室 展示担当学芸員
日時 2025年3月22日(土曜日)
午前10時~午後12時(集合時間:午前9時45分)解散は12時頃、大手町周辺を予定しています。
定員 200名(事前申込順、定員に達し次第締切)
参加費 1,000円
主 催 千代田区立日比谷図書文化館
問い合わせ 03-3502-3340(代表)
公式サイト >概要・申込詳細は
https://www.library.chiyoda.tokyo.jp/information/20250105-hibiyaexhibition_sakuradamongai/
近くは、夏目漱石の『坊ちゃん』の主人公が「べらぼうめ」と啖呵(たんか)を切らせていたり、井原西鶴(いはらさいかく) の浮世草子(うきよぞうし)『日本永代蔵(にほんえいたいぐら)』(元禄元年〈1688〉刊)に「形のをかしげなるを便乱坊と名付け」と見えたり。
さらに江戸初期の辞書『日葡辞書(にっぽじしょ)』にすでに・・・・・
関連コラムはこちら>
江戸言葉 月ごよみ 『「べらぼうめ」と「べらんめえ」』
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/
関連情報はこちら>
台東区文化芸術総合サイト
特設コンテンツ「2025年大河ドラマ主人公 蔦屋重三郎」ページ
https://www.culture.city.taito.lg.jp/ja/tsutaju