投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2023-2-1 0:45:02 (181 ヒット)

餅網は、餅を焼く網ではありません。富士山の氷溶(こおりとかし:6月1日の山開き、現在は7月1日)まで餅を保存しておくための網。
餅は短冊(が多い)に切り、乾燥させたもの(欠き餅)を餅網にいれ、
風通しのいいところへ掛け富士山山開きの日まで置き、
山開きの日に下ろして火にあぶって食べました。
加賀藩が献上した氷を幕府が食べる6月1日に合わせ、
氷に見立てて氷餅(こおりもち)と呼びました。

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「江戸の春の楽しみ〜「初午」と「桃の節句」〜」
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投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2023-2-1 0:43:40 (175 ヒット)

神田はもと伊勢神宮の御田(おみた=神田)があった土地で、
神田の鎮めのために創建され、神田ノ宮と称した。
承平5年(935年)に平将門の乱を起こして敗死した平将門の首が京から持ち去られ
当社の近くに葬られ、将門の首塚は東国(関東地方)の平氏武将の崇敬を受けた。
主祭神は大己貴命少彦名命平将門命。

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水都江戸・東京物語〜「第一部「武蔵國・江戸物語」
No10.武士の先駆けだった平将門 (たいらのまさかど)
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投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2023-2-1 0:42:06 (186 ヒット)

江戸時代の実際の洗濯では、洗濯盥のなかに灰を主成分にした洗剤を入れていた。当時は、灰はいろいろな方面で利用されていて、庶民生活の洗剤として欠かせず、染物屋では紺色(こんいろ)などの色をあざやかに出せるように灰が利用されていた。「命の洗濯」という言葉は、江戸のことわざ辞典類にも早くから見え、古くからいっぱんに言われていたものであった。

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江戸ことば月ごよみ2月「命の洗濯」
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投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2022-12-29 16:37:24 (196 ヒット)

お正月を迎えるとすがすがしい気持ちになるのは江戸の昔も今も変わりません。しかし、比べてみると変わったことも多いようです。江戸時代には現代のような曜日や休日感覚はなく、正月と盆に加え五節句や寺社の縁日を中心に、仕事を休んでいただけです。また正月2日は、新年の顔合わせ的な要素も強く、仕事は午前で 終え、午後からは祝い膳を囲むことが多かったようです。 改めて江戸の正月風景を見てみましょう-----


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江戸から今に伝わる伝統芸能「江戸の正月風景」
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投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2022-12-29 16:36:48 (155 ヒット)

「東京の未来づくりには、地歴を抜きに考えられません。
この物語は、土木技術者の視点から、地理や文化を織り交ぜ、豆知識としてどこを読まれても良いスタイルになっています。 東京の未来づくりを議論されるとき、この物語が、ささやかでもお役に立てば、望外の喜びです。」(細見 寛)

第1話 武蔵国一之宮は、小野神社と氷川神社
第2話「谷戸」と「江戸」に見る武蔵の原風景
第3話「和同開珎」 に秘められたメッセージ
第4話 万葉集に見る武蔵国の水土
第5話 男神が多い武蔵国


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水都江戸・東京物語〜「第一部「武蔵國・江戸物語」
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投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2022-12-29 16:33:23 (225 ヒット)

江戸時代には、餅を搗く「賃餅屋(ちんもちや)」という商売があった。お客さんの自宅を回って搗く形もあったし、搗いた餅を届ける店もあった。そして、餅の値段は目方(重さ)によって付けられていた。図版は、賃餅屋の店の様子。左では、蒸籠(せいろ)で米を蒸しており、店先にはいろいろな形の餅が並べられている----
井原西鶴(さいかく)の『日本永代蔵(にっぽんえいたいぐら)』(元禄元年〈1688〉刊。巻2ノ1)には、この賃餅にまつわる吝嗇(りんしょく)な男の話が書かれている。

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江戸ことば月ごよみ1月 正月の餅 「賃餅屋(ちんもちや)」
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投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2022-12-29 16:26:11 (169 ヒット)

江戸の流行語大賞といえば、さしずめ「日本(ニッポン)だ」だろう。これは、安永・天明頃(1772〜89)に流行(はや)った言葉である。田沼意次(たぬまおきつぐ)が推進した殖産政策によって、世は挙げて消費文化に明け暮れるようになっていく頃である。現代で言えば、「日本だ」は「ステキだ」とか「素晴らしい」といった意味で、通人(つうじん)たちが流行(はや)らせ、江戸中に広がった-----

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江戸ことば月ごよみ一月 「江戸の流行語大賞」 
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投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2022-12-29 14:01:06 (161 ヒット)

明治35年(1902)にドイツ語教師として日本の近代化に寄与すべく来日したリヒャルト・ハイゼは、現在の一橋大学や学習院で20数年教鞭をとる中で、皇族をはじめ明治の元勲や知識人たちとも親交をもった。
その中でも世界初の破傷風菌の純粋培養に成功し、ペスト菌を発見し「細菌学の父」とよばれた北里柴三郎とは深い親交があったと思われる。第一次世界大戦後にハイゼは財産を没収され窮地に陥るが、それを救ってくれたのが北里柴三郎である-----

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神田川界隈物語 1月号「日本の精神文化に心酔した リヒャルト・ハイゼ」 
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投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2022-12-3 3:29:25 (230 ヒット)

日本もいよいよ高齢化社会を迎え、年配の人たちは時折、「俺も焼きがまわった」というような言い方をする。若い人には馴染(なじ)みの薄い言葉かも知れない。頭の働きや腕前などが往時の鋭さがなく衰えたことを形容する語である。「焼きが戻る」も同義だとするが、こちらはあまり一般的に使われずに廃(すた)ってしまったようである。
もともとは「焼きが○○○のところへまわる」という言い方であったもので、たとえば「焼きが足へまわる」といった具合に、とんでもないところの足が鍛えられて、肝心なところの腕が鍛えられずにおろそかになるという言い方だったのが、省略されて「焼きがまわる」という言い方になり、それが本来の力が発揮されない意味の否定的なニュアンスとなったものと考えられる。 
「焼き」を使った似たような言葉で「焼きを入れる」(鍛えなおす)というのがある。 『日葡(にっぽ)辞書』を見ると、「焼き上げる」というのは、刀がよく切れるようにすることの意味としている。・・・

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江戸言葉月ごよみ 12月号 「焼きがまわる」
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投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2022-12-3 3:26:34 (215 ヒット)

弦巻川両岸の田畑は耕地整理が行われ、大正末から昭和初期にかけ周辺に住む子どもたちにとっての遊び場は「ハイゼの原」と呼ばれこの原っぱだった。正月に凧揚げ、 またスキーもできた。時に、時代劇の映画ロケが行われたりサーカスの小屋掛けもあったという。
また、鬼子母神近くに住んでいた 秋田雨雀もこの原っぱによく来ていたようである。
「私がはじめて秋田雨雀さんに会ったのもこのハイゼの原であっ た。・・・私は草原の斜面に腰を下ろして、はるか右手の方に見える鬼子母神様を眺めていた。するといつの間にか私の直ぐ左横に一人の男の人が立っているのを発見した。鳥打帽子を冠りステッキを突いていたその人を見た時、私は最初異人さんではないかと思った程だった。色の白い童顔、茶色のコール天のズボンをはいて、今ではルバシカと分かるが黒色のだぶだぶの上衣に腰の辺りを紐でしばった面白い風貌の雨雀は、夕焼けがきれいだねとぽつりと言った」と『雑司ヶ谷界隈』(中村省三) には当時の雨雀の容貌が細かく描かれている。

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神田川界隈物語 12月号 子どもたちの恰好の遊び場 雨雀も訪れた「ハイゼの原」
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