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【日本橋初売】正月2日の朝市とくに賑わいを見せたのが魚河岸の初売。
sibugaki
2025-1-1 0:50
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朝市は絵にあるように大勢の買い物客であふれかえっていた。
日本橋魚河岸の始まりは、江戸時代初期、徳川家は江戸城内の台所を賄うため大坂の佃村から漁師たちを呼び寄せ、 江戸湾内での漁業の特権を与えました。漁師たちは魚を幕府に納め、残りを日本橋で売るようになった。これが魚河岸の始まりと言われている。
日本橋の魚河岸は関東大震災の被害によって築地に移転されるまで、 江戸および東京の台所として活況を呈していた。
絵>橋本貞秀画「大江戸年中行事之内 正月二日日本橋初売」東京都中央図書館蔵
関連コラムはこちら>「江戸の正月風景」
http://www.edoshitamachi.com/web/daidougei/
【咸臨丸】(かんりんまる) 1月13日万延元年(1860
sibugaki
2025-1-1 0:48
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1月13日万延元年(1860)咸臨丸で勝海舟ら遣米使節が派遣され、幕府の船として初めて太平洋を往復した。
オランダ語の旧名は「Japan」で、ヤパン号、ヤッパン号、ヤーパン号とも書かれる。
「咸臨」とは『易経』より取られた言葉で、君臣が互いに親しみ合うことを意味する。
安政2年(1855)7月、オランダのキンデルダイクにて起工(620トン・100馬力)。
明治4(1871)年9月21日、函館から小樽へ向かう途中泉沢沖で沈没。
写真>1960年発行、日米修好通商百周年記念切手
関連コラムはこちら>
・第一巻 勝海舟、サンフランシスコで月を詠む
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd7/index.php?id=1
【明暦の大火】1月18日明暦3年(1657)
sibugaki
2025-1-1 0:46
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1月18日明暦3年(1657)本郷丸山町の本妙寺より出火、江戸の4分の3が焼失し焼死者十万二千余人の大火。大火後に江戸の都市改造が行われ、御三家の屋敷や寺社が移転し、市区改正や架橋、防火線などの施策が実施された。
火事の多かった江戸の中でも特に3分の1以上を焼き、多数の死傷者を出した『明暦の大火』『明和の大火』『文化の大火』を江戸三大大火と呼ぶ。
絵>『江戸火事図巻』 田代幸春画 江戸東京博物館蔵
関連コラムはこちら>「江戸十万日 月日の鼠」
http://www.edoshitamachi.com/web/fuyugaki/2019/12/
【打ちこわし】 1月25享保18年(1733)享保の打ちこわし。
sibugaki
2025-1-1 0:44
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1月25日享保18年(1733)享保の打ちこわし。
江戸時代最初の打ちこわし。米不足と米価高騰が原因で庶民による米商人(高間伝兵衛)の家屋や米俵を破壊する暴動。
1732年(享保17年)夏に起こった享保の大飢饉による米不足で米価が高騰した際、庶民の間で米価高の原因は徳川吉宗に協力し、米価の安定に尽力していた米商人の高間伝兵衛が米を買い占め、米価をつり上げようとしているという噂が立った。それに対し、幕府は米を供出するなどして米価を下げようとしたが失敗した。
絵>『幕末江戸市中騒動記』 東京国立博物館蔵
慶応2年(1866)江戸でおこった打ちこわしを描いた絵。
米屋を襲い、家屋を破壊、商品を台無しにする場面。
関連コラムはこちら> 江戸十万日 月日の鼠」
http://www.edoshitamachi.com/web/fuyugaki/2021/07/
【忠臣蔵】『赤穂浪士討入』 浅野家残党、吉良邸討入事件
sibugaki
2024-12-7 11:42
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絵>大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしお) - 月岡芳年画「誠忠義士銘々画伝」(ボストン美術館蔵)
大石内蔵助良雄《辞世》
『あら楽し思ひははるゝ身は捨る浮世の外にかゝる雲なし』
吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)を12月15日元禄15年(1702)赤穂浪士討入。本所松坂町の吉良邸を襲撃して義央を討ち取る。
陰暦1702年12月14日(新暦 1703.1.30) ― 寅の上刻(15日の午前3時〜3時40分)。有明の月が昨日からの積雪を皓々と照らし出し、界隈には月と雪以外なにものも見えなかった。
このときである。静寂の隙間から、いずれも鎖帷子を着用し、槍、刀などの武器を持った異様な男たちが降って湧いたようにして現われ、本所二ツ目の吉良邸へと向って行った。
関連コラムはこちら> 小説「江戸人紀」
『第四巻 元禄武士道』
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd7/index.php?id=22
【新大橋架橋】12月7日元禄6年(1693) 新大橋は隅田川で二番目に出来た橋で、先に両国橋ができこれを大橋とよんでいたので新大橋という。
sibugaki
2024-12-7 11:40
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絵>歌川広重・名所江戸百景 『大はしあたけの夕立』(おおはしあたけのゆうだち)安政3年(1856)〜安政5年(1858)にかけて制作した連作浮世絵名所絵。(国立国会図書館所蔵)
広重最晩年の作品であり、その死の直前まで制作が続けられた代表作で、名所江戸百景」の最大傑作とされる作品。
突然降始めた夕立の中をあたふたと駆ける人びと。川並は悠々と筏を操っている。 遠景の対岸に御船蔵が並んでいて、浜町側下流から隅田川を隔て北東を描いている。
関連コラムはこちら> 「第一部 「武蔵國・江戸物語」」
No49 歌川広重「名所江戸百景」の新解釈
http://www.edoshitamachi.com/web/suitoedo/PDFNo49.pdf
【新着コラム】 「足袋(たび)は贅沢品だった」
sibugaki
2024-12-7 9:36
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絵>「守貞漫稿」所掲 足袋屋の看板
江戸の足袋屋は必らず股引腹掛をも製造、併せて手拭をも売っていた。その値段は文化前後(1804-1820年)で一足二百文内外。
「守貞漫稿」によれば『足袋店看板 三都同形也。京坂は専ら屋号を書す者のみなり。江戸は或は屋号或は股引又は大丈夫と書もあり、 股引服用の条に詳かにす必ずたびやにて兼製之もの也。』とあり。
江戸時代は、靴下ではなく足袋(たび)を履(は)いていたが、それはもっぱら寒さしのぎの場合であって、庶民は病気でないかぎり裸足(はだし)の生活が日常だった。足袋は贅沢(ぜいたく)な履物で、多くの人々は裸足で下駄(げた)や草履(ぞうり)などを履いていたし、裸足のままで外を歩くことも珍しくなかった。
明治34年(1901)5月29日、警視庁は裸足禁止令を出しているが・・・・・
新着コラムはこちら>
>江戸言葉 月ごよみ
〇「足袋(たび)は贅沢品だった」
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/
【寄 席】 12月24日弘化元年(1844) 寄席が自由化される。
sibugaki
2024-12-7 9:22
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絵>春色三題噺(しゅんしょくさんだいばなし)春廼家幾久 (はるのやいくひさ)編 一恵齋芳幾(いっけいさいよしいく)画 刊 3巻3冊 加賀文庫
口絵には、三題噺の会の会場の様子が描かれている。中央に高座があり、観客たちが口をあけて笑いながら咄を楽しんでいる。観客が、隣と話をしながら茶を飲み、くつろいでいる様子がわかる。落語の最盛期にはどの町内にも寄席があり、近所の人が気軽にやって来た。ほぼ一日かかる歌舞伎見物にくらべ、落語ははるかに手軽な楽しみだった。
江戸落語の始まりは、17世紀後半に活躍した鹿野武左衛門(しかのぶざえもん)(1649〜1699)によるものといわれている。
文化元年(1804)頃に江戸市中には75軒もの寄席があり、19世紀中頃には100軒に達し、200名を超える落語家が存在した。しかし、「天保の改革」(1841〜1843)と呼ばれる幕政改革により、江戸市中にあった寄席は、24軒を残して取り潰しとなった。その後、「天保の改革」を推し進めた老中・水野忠邦(みずのただくに)(1794〜1851)が失脚するとたちまち盛り返し、19世紀後半には、軍談(講談)の席と合わせて300軒以上になっていたといわれている。
関連コラムはこちら>
○「寄席の始まり」
http://www.edoshitamachi.com/web/mamesuke/2023/08/post-2.html
○「寄席à la carte(アラカルト)」 『テレビで会えない芸人」』
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd8/index.php?id=11
○「寄席à la carte(アラカルト)」 『寄席と独演会。どっちに行きますか?』
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd8/index.php?id=14
【玉川上水】 講演会〜11月17日(日)玉川上水を世界遺産にめざす、展示と講演会。
sibugaki
2024-11-10 2:37
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承応元年(1652)11月 玉川上水の工事が、庄右衛門・清右衛門兄弟に命じられる。
江戸城下に水を運ぶために掘削された玉川上水を再生することで、 江戸城外濠や日本橋川が抱える水環境を改善し、さらに、そこから未来につながる東京の水辺のあり方について検討する展示と講演会。
>玉川上水開削工事の画像
線香・提灯の灯りを使って夜間に測量をした想像図
(羽村市郷土博物館蔵)
「第7回玉川上水・分水網上下流連携総括シンポジウム&展示会」
【講演日時】 令和6年11月17日(日)13時30分から(17時終了予定)
【会 場】 都議会議事堂 1F都民ホール(300人収容)
(東京都新宿区西新宿2-8-1)
【展示日時】
令和6年11月15日(金)10時から16時
令和6年11月16日(金)10時から16時
令和6年11月17日(金)10時から16時
【会 場】 都民ホール前ロビー
主催:玉川上水・分水網を生かした水循環都市東京連絡会
共催:東京都、玉川上水ネット、外濠再生懇談会、日本橋水辺再生研究会、水都東京・未来会議
詳細・総合受付>
中央大学 河川・水文研究室(山田正研究室)。
https://hydlab-chuo.jimdofree.com/?pli
・関連情報はこちら
>「暦から読み解く江戸東京」 玉川上水年表
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd8/PDF/tamagawanenpyo.pdf
>水から読み解く江戸東京「玉川上水物語」
http://www.edoshitamachi.com/web/suitoedo/PDFNo36.pdf
>「羽村市郷土博物館蔵」
https://www.city.hamura.tokyo.jp/0000001544.html
>「江戸東京博物館 〜江戸博コレクション〜」
キュレーターズ・チョイスon YouTub
解説 江戸東京博物館 学芸員 眞下祥幸
https://www.youtube.com/watch?v=4O52qxJaEs4
【宝永大噴火山】 11月23日宝永4年(1707)
sibugaki
2024-11-10 2:30
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11月23日宝永4年(1707)宝永の富士山大噴火。有史以来最も激しい富士山が噴火し、江戸市中に灰が雪のように降り積もった。
幕府は、広大な被災地を直轄領地に編入して復旧復興事業を進めた。(崩れた土砂量は約1億2000万㎥と推定)
絵>葛飾北斎の富嶽百景-「宝永山出現」の一部
"宝永4(1707)年の富士山の噴火(宝永噴火)の様子で、全壊した建物に押しつぶされた人や、お年寄りをおんぶしたり、赤ちゃんを抱き、女性とみられる人を連れて逃げたりする人たちが描かれている。(静岡県立中央図書館蔵)
関連コラムはこちら>
その復旧・復活事業で活躍した人物伝。
〇コラム 「富士山噴火の復興で、神様になった伊奈忠順」
http://www.edoshitamachi.com/web/suitoedo/PDFNo39.pdf
【酉の市(とりのいち)】165年以上、酉の市を見つめ続けた猫 !
sibugaki
2024-11-10 2:25
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酉の市は、11月の酉の日に行われる鷲(おおとり)神社の祭礼で、江戸時代に盛んになった。
年末の商家では、酉(とり)の市(いち)で熊手(くまで)を買い替えて、歳(とし)の市で迎春の縁起物を買い揃える。どちらも年の瀬の風物詩として今も行われている。
絵>名所江戸百景 「浅草田甫酉の町詣」の一部
*画像:絵師/広重/出版者/魚栄/刊行年安政4年(1858)/江戸百景(一部)
(吉原妓楼より⾒た⾵景︓ 背後の森は正燈寺)
吉原遊女の部屋の窓から酉の町を眺める猫
名所江戸百景 [浅草田甫酉の町詣 を見る] 全部を見る>
https://www.ndl.go.jp/landmarks/details/detail267.html?sights=otorijinja
関連コラムはこちら>
〇コラム 年の瀬の風物詩「酉の市」と「熊手」
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/index.php?id=12
▶コラム:江戸言葉 月ごよみ 「酉の市と大火」を読む
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/index.php?id=12
▶コラム:江戸魂千夜一話「酉の市(とりのいち)」を読む
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd9/index.php?id=3
【江戸の裏長屋】 裏長屋では店の奉公人や職人、 行商人など江戸の大部分の庶民が生活していた。
sibugaki
2024-11-10 2:21
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画像をみる>長屋の路地>江東区深川江戸資料館
八百屋と舂米屋(つきまいや)の間の長屋木戸をくぐると、裏長屋の生活空間です。路地をはさんで両側に長屋が並びます。
「庶民が暮らす裏長屋」
井戸やトイレ、 路地などの生活空間を共有し、2軒の世帯が背中合わせに住む 〖棟割り形式〗の平屋が普通であった。 長屋は一家族ごとに住まいが区切られていて、 1軒の広さは9尺×2間/約3坪か、9尺×3間/約4.5坪が多く、 「九尺二間の裏長屋」 と称され、 六畳一間の広さが住宅の基本となっている
「江戸お大家(おおや)さんは気楽な商売!?」
『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』の主人公弥次さん・喜多さんが住んでいたような最下層に属する長屋の大家。
落語に出てくる大家(おおや)は裏長屋の大家で、「大家と言えば親も同然、店子(たなこ)と言えば子も同然」というのが決まりゼリフでもある。
大家といっても長屋を所有しているオーナー大家は珍しく、長屋を所有しているオーナーから委託された管理人といったケースが圧倒的におおかった。管理人の大家がもらう管理費はケースバイケースだが、通常は1割で生活も大変だが、とんでもない副収入があった・・・・・
関連コラムはこちら>
>江戸言葉 月ごよみ
〇「大家と言えば親も同然」
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/index.php?id=16%20&file=edokotobaseikatsutookane
関連画像はこちら>
>江東区深川江戸資料館
https://www.kcf.or.jp/fukagawa/josetsu/
*江東区深川江戸資料館(江東区白河1-3-28)
江戸時代末(天保年間)の深川佐賀町の町並みを実物大で再現して
お店や長屋に実際に上がって生活用具などに触れられる「体感型」の展示室がある。
https://www.kcf.or.jp/fukagawa/jos
【安政江戸地震】安 政2年10月2日(1855)関東地方南部で発生した大地震。
sibugaki
2024-10-6 18:53
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【安政江戸地震】
安政2年10月2日(1855)関東地方南部で発生した大地震。
この地震により、江戸では約1万4千軒の家屋が全壊または焼失し、死者数は7千人近くにのぼった。
安政江戸地震の後、江戸では多くのかわら版や浮世絵が発行さた。その中でも特に有名なのが「鯰絵(なまずえ)」。鯰絵は、地震を引き起こすと信じられていた鯰をテーマにした風刺画で、地震後の混乱や復興の様子を描いている。
*鯰絵
鯰絵は、地震を引き起こすとされた鯰を描いた浮世絵。地震後の混乱を風刺し、鯰が人々に懲らしめられる様子や、逆に鯰が復興の象徴として描かれることもありました。鯰絵は非常に人気があり、短期間で多くの種類が制作された。
関連情報はこちら
錦絵に見る安政大地震>消防防災博物館
https://www.bousaihaku.com/fireillustration/3957/
画像> 「大鯰江戸の賑わい」絵 (東京大学地震研究所蔵)
ここでは、鯰がクジラのようにお金を噴き上げ、人々が喜んでいます。このように、地震直後の混乱の過程を経て、復興景気がひろまってくると、鯰は災厄の象徴から福をもたらす世直しの象徴へとかわっていった、と読み解くことができます。
【豊島の鎌倉街道】 「南北に 村を貫く 鎌倉街道」。 鎌倉時代のなごりの道は当地からほとんど消えてしまったが、かすかに地誌をたより地図でたどることができる。
sibugaki
2024-10-6 18:50
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【豊島の鎌倉街道】
鎌倉街道は「・・・面影橋を渡り、 南蔵院境内を抜けて高田村宿坂の関所跡にかかるのである。さらに護國寺裏から西巣鴨の鎌倉橋に出で中仙道を横切り、谷村・瀧野川村を経て王子豊島村に出で、千住にぬけるのである。」との記述がある。
新着コラムはこちら
>神田川界隈物語
・「謎多き鎌倉街道 豊島区のどこを通っていたか?」
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd6/
画像>豊島区の鎌倉街道
「雑司が谷 いろはかるた」(絵と文 矢島勝昭)より
【天保通宝】江戸時代、天保6年(1835))から発行された長円形の銅銭。
sibugaki
2024-10-6 18:48
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【天保通宝】江戸時代、天保6年(1835))から発行された長円形の銅銭。
裏面に「当百」の文字があり、はじめての百文通貨として流通された。
天保通宝を金座所属の江戸浅草橋場町の銭座で鋳造、発行した。
これは小判を模した楕円形で、中央に正方形の穴が開いている銅貨、
量目は5.5匁(20.6g)であった。明治維新後も通用し,明治4年(1871)には1枚で8厘の通用となったが,明治24年(1891)12月末日をもって通用停止となった。
関連情報はこちら
「19世紀前半 文政・天保の改鋳」>貨幣博物館
https://www.imes.boj.or.jp/cm/history/content/#HistoryEarlyModern
画像>「天保通宝」 重さは約20.6グラム、縦50mm、横30mm程度
「大根役者」江戸時代では、街中へ大根売りがやって来ると、いよいよ本格的な冬の到来となる。
sibugaki
2024-10-6 18:45
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江戸時代では、街中へ大根売りがやって来ると、いよいよ本格的な冬の到来となる。
大根は、どんな食べ方をしても食い合わせが悪いということがなく、食中毒にもならないことから「当たらない」食材だといわれた。
そのことから、どんな役柄を演じても「当たらない」俳優を「大根役者」というようになったとの語源説がある。
また、大根は色が白いことから「シロウト」に通じ、演技が下手な素人役者のことを「大根役者」と呼ぶようになったともいわれる。
新着コラムはこちら
>江戸言葉 月ごよみ
・『大根3題―「千六本」「大根役者」「練馬大根」』
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/
画像>江戸野菜の振り売り(棒手振り)の絵。
*「振り売り」:江戸時代の振り売り(棒手振り)は天秤棒の両端に商品を吊り下げて街中を歩き回りながら販売する行商人。特に野菜を売る振り売りは「青物売り」として知られ、江戸の庶民の生活に欠かせない存在。
(『熈代勝覧』(きだいしょうらん)絵巻 べルリン東洋美術館蔵)
*『熈代勝覧』(きだいしょうらん)絵巻
文化2年(1805年)頃、江戸最大の繁華街-日本橋通を今川橋から日本橋を描いた絵巻。
(縦43.7cm、横1232.2cm/人物:1671名/犬:20匹/馬:13頭/牛:4頭/猿:1匹/鷹:2羽/店舗:89店描画)
【富士塚】(ふじづか) 富士信仰に基づき、富士山に模して造営された人工の山や塚。
sibugaki
2024-9-11 19:51
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江戸時代に多く作られ、富士山に登ることが難しい人々が代わりに登拝するためのものとして利用された。
江戸時代の中期に富士信仰が盛んになると、江戸を中心に多くの富士講が生まれ、それに伴い富士塚も多数つくられ、現在東京都内には約50か所に存在するとされる。 当時は「江戸八百八町講中八万人」と言われ、江戸市中の有名な富士塚は特に「江戸八富士」と呼ばれた。
画像は>
歌川広重作『名所江戸百景』に描かれた目黒富士(新富士) ブルックリン美術館蔵。
手前のミニ富士は1819年に建てられた。斜面に沿ったジグザグの道は、実際の山を登るスイッチバックルートを模倣している。
関連コラム詳細はこちら>
・江戸から今に伝わる伝統芸能「大道芸」 江戸の夏行事〜今に継承されているものの由来 ≪山開き≫
http://www.edoshitamachi.com/web/daidougei/
【新着コラム】江戸歌舞伎(後期)のスパースター五代目市川団十郎公演の『暫』(しばらく)を描いた浮世絵。
sibugaki
2024-9-11 19:49
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江戸歌舞伎(後期)のスパースター五代目市川団十郎公演の『暫』(しばらく)を描いた浮世絵。
五代目市川団十郎:元文6年(1741年)〜文化3年 (1806年)は、江戸時代の歌舞伎役者で、成田屋の屋号を持ち、俳名は梅童・男女川(おながわ)・三升・白猿などがある。
『暫(しばらく)』:この演目は、初代市川団十郎が始めたもので、五代目もその伝統を受け継ぎ、特に鎌倉権五郎の役で知られ、豪華な衣装と派手な隈取(くまどり)で観客を魅了した。
上方(かみがた)で観劇といえば人形浄瑠璃(文楽)である。しかし、江戸では人形浄瑠璃は盛んではなかった。
人形を使った筋書通りにキッチリとやる舞台よりも、アドリブと決めゼリフたっぷりの団十郎の豪華な舞台を江戸っ子が好んだ。
画像は>
歌川国政作の寛政8年(1796)五代目市川団十郎公演の『暫』を描いた浮世絵。
コラム詳細はこちら>
・江戸ことば 月ごよみ 『三度の飯と団十郎』
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/
【蔦屋重三郎】(つたや じゅうざぶろう)版元として出版物に登場した肖像画。屋号を蔦屋、耕書堂。版元印=富士山型に蔦の葉のマーク。
sibugaki
2024-9-11 19:46
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蔦屋重三郎
寛延3年1月7日(1750年2月13日)〜寛政9年5月6日(1797年5月31日)天明3年(1783)9月蔦屋重三郎が、吉原から日本橋通油町(とおりあぶらちょう)に進出。
蔦屋重三郎は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した著名な版元(出版人)で喜多川歌麿や東洲斎写楽などの作品を世に送り出し江戸の出版文化をリードした。
2025年放送の大河ドラマ「べらぼう 〜蔦重栄華乃夢噺〜」。主人公の「蔦重」こと蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)。
画像は>山東京傳 作 『箱入娘面屋人魚 3巻』, 蔦唐丸,[寛政3 (1791)]. 国立国会図書館デジタルコレクション
「箱入娘面屋人魚(はこいりむすめめんやにんぎょう)」は、江戸時代の作家山東京伝による作品で、1791年に出版されました。この物語は、江戸時代の風俗や文化を背景に、ユーモアと風刺を交えた内容
関連情報はこちら>
台東区文化芸術総合サイト特設コンテンツ
「2025年大河ドラマ主人公 蔦屋重三郎」ページ
https://www.culture.city.taito.lg.jp/ja/tsutaju
【江戸朱引図】(しゅびきず)江戸幕府が江戸の範囲を定めるために地図上に朱色の線を引いた。この朱引は、1818年(文政元年)に初めて定めらた。
sibugaki
2024-9-11 8:40
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概要
1590年(天正18年)の江戸城築城以来、江戸の市域は拡大を続け、19世紀初頭にはすでにその範囲は不明確となっていた。
1818年(文政元年)9月26日、江戸の範囲を町奉行・勘定奉行が若年寄に区域を答申。それを受けて同年12月、老中・阿部正精(あべまさきよ)によって示された幕府の公式見解が朱引。
江戸の範囲はその地図上に、江戸城を中心とする朱色の線(朱引線)で囲まれた区域として示されている。
画像は>
「旧江戸朱引内図」(1818年、東京都公文書館所蔵)
江戸の範囲はその地図上に、江戸城を中心とする朱色の線(朱引線)で囲まれた区域として示されている。
関連コラムはこちら>
江戸十万日 「江戸下町は文化創造センターだった」
・
http://www.edoshitamachi.com/web/fuyugaki/2021/04/
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江戸 月ごよみ 歴日
隅田川略年表
玉川上水年表
浮世絵師年表
江戸川柳略年表
日本菓子年表
祭(歳)事から読み解く江戸東京
コラム「江戸魂千夜一話」
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