◎第六回 「柳家喬太郎の『芝カマ』で考えたこと」
柳家喬太郎の「芝カマ」 *1は人情噺の傑作「芝浜」 *2を底本とした新作落語である。
「芝浜」の単なるオマージュや、パロディではない。むしろ「芝浜」を現代風にアレンジしたのが「芝カマ」である。それは名演奏者が古典的な名曲を大胆にアレンジ(編曲)して、原曲にはなかった新しい価値を生み出すのに似ている。

  「芝浜」のテーマは夫婦愛である。「芝カマ」は、妻が同性のパートナー(いわゆるLGBTQ *3である)に代わっただけで、ストーリー展開は「芝浜」とほぼ同じである。
 人情噺であることに変わりはないので、涙する聴衆も少なくなかった。喬太郎師匠のカマっぽい仕草(マゾッ気もかなり強い)は、底本にはない新しい笑いを加えていた。
 様子が変わったのは、主人公の魚勝が、パートナーの真意を理解し、感謝するあたりからである。ここから話は意外な方向へ展開していく。すっかり感激した魚勝が、「生まれ変わってもまたお前といっしょにくらしたい、お前はどうだい」と問いかけると、大方の予想に反して、パートナーは「わからない」と否定的ともとれる返答をするのである。パートナーはさらに言う「もうお前を卒業する。世間も(同性愛を)認めてくれたし」。
ここで聴衆は考えさせられてしまう。いったいどうゆうこと。

喬太郎師匠は「芝カマ」でいったい何が言いたかったのか。
同性パートナーがここにきて初めて自分の意思をはっきり伝えたことに注目したい。それまで魚勝にはけっして逆らわないで、怒られても殴られても、すべて言われるままに従っていたパートナーが、初めて魚勝に異を唱えるのである。そこに聴衆は「自立」した個人の姿を見るのである。
「世間も認めてくれたし」ということは、それまで世間は認めてくれなかったということである。毎日が差別と偏見との闘いであり、嫌がらせや理不尽な扱いは日常茶飯事だったに違いない。それでも、真面目に正直に生きていたら、みんなが認めてくれるようになった。偏見から解放され、存在を認められたとき、パートナーは初めて自立することができたのである。
  偏見が足かせになって個人が自立できない社会より、まっとうに生きていれば誰でも自立できる社会の方がいいに違いない。であるならば、LGBTQであるかどうかに関係なく、まっとうに生きている人は認められるべきである。パートナーは魚勝に嘘を許され、世間にも認められて、初めて自立した。そして足かせを解かれた囚人のように、自由な人生の一歩を踏み出したのである。

喬太郎師匠には「そんなこと考えてないですよ。それは考えすぎ」と言われそうである。しかし、「芝カマ」に落語の可能性を感じたのは私だけではないと思う。
落語文化を未来永劫継承していくためには、伝統を維持していくだけでは限界がある。求められるのは「古きを温ねて新しきを知る*4」姿勢である。
喬太郎師匠のチャレンジには、これからもおおいに期待したい。                               了



*1芝カマ
 古典落語の名作「芝浜」を底本とした柳家喬太郎の新作落語。

*2芝浜
 なまけ者の魚屋が、芝浜で大金入りの革財布を拾うが、女房はそれをこっそり役所に届け、酔って夢でも見たのだろうと言う。魚屋は改心して働き者となり、後年真相を知る。三遊亭円朝が「酔っぱらい・芝浜・革財布」の三題噺(ばなし)として創作したもの(小学館 デジタル大辞泉より抜粋)

*3 LGBTQ 
《lesbian, gay, bisexual, transgender, questioning》レスビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー・クエスチョニング(性的指向や性自認が未確定の人)のこと(小学館 デジタル大辞泉より抜粋)

*4 古きを温ねて新しきを知る
過去の事跡や先人の知恵に学んで、現在の問題を考える土台とすること(ことわざを知る辞典)




△江戸時代の高座の様子  歌川豊国 画 (国立国会図書館所蔵




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