投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2022-12-29 16:26:11 (170 ヒット)

江戸の流行語大賞といえば、さしずめ「日本(ニッポン)だ」だろう。これは、安永・天明頃(1772〜89)に流行(はや)った言葉である。田沼意次(たぬまおきつぐ)が推進した殖産政策によって、世は挙げて消費文化に明け暮れるようになっていく頃である。現代で言えば、「日本だ」は「ステキだ」とか「素晴らしい」といった意味で、通人(つうじん)たちが流行(はや)らせ、江戸中に広がった-----

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江戸ことば月ごよみ一月 「江戸の流行語大賞」 
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投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2022-12-29 14:01:06 (161 ヒット)

明治35年(1902)にドイツ語教師として日本の近代化に寄与すべく来日したリヒャルト・ハイゼは、現在の一橋大学や学習院で20数年教鞭をとる中で、皇族をはじめ明治の元勲や知識人たちとも親交をもった。
その中でも世界初の破傷風菌の純粋培養に成功し、ペスト菌を発見し「細菌学の父」とよばれた北里柴三郎とは深い親交があったと思われる。第一次世界大戦後にハイゼは財産を没収され窮地に陥るが、それを救ってくれたのが北里柴三郎である-----

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神田川界隈物語 1月号「日本の精神文化に心酔した リヒャルト・ハイゼ」 
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投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2022-12-3 3:29:25 (232 ヒット)

日本もいよいよ高齢化社会を迎え、年配の人たちは時折、「俺も焼きがまわった」というような言い方をする。若い人には馴染(なじ)みの薄い言葉かも知れない。頭の働きや腕前などが往時の鋭さがなく衰えたことを形容する語である。「焼きが戻る」も同義だとするが、こちらはあまり一般的に使われずに廃(すた)ってしまったようである。
もともとは「焼きが○○○のところへまわる」という言い方であったもので、たとえば「焼きが足へまわる」といった具合に、とんでもないところの足が鍛えられて、肝心なところの腕が鍛えられずにおろそかになるという言い方だったのが、省略されて「焼きがまわる」という言い方になり、それが本来の力が発揮されない意味の否定的なニュアンスとなったものと考えられる。 
「焼き」を使った似たような言葉で「焼きを入れる」(鍛えなおす)というのがある。 『日葡(にっぽ)辞書』を見ると、「焼き上げる」というのは、刀がよく切れるようにすることの意味としている。・・・

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江戸言葉月ごよみ 12月号 「焼きがまわる」
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投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2022-12-3 3:26:34 (223 ヒット)

弦巻川両岸の田畑は耕地整理が行われ、大正末から昭和初期にかけ周辺に住む子どもたちにとっての遊び場は「ハイゼの原」と呼ばれこの原っぱだった。正月に凧揚げ、 またスキーもできた。時に、時代劇の映画ロケが行われたりサーカスの小屋掛けもあったという。
また、鬼子母神近くに住んでいた 秋田雨雀もこの原っぱによく来ていたようである。
「私がはじめて秋田雨雀さんに会ったのもこのハイゼの原であっ た。・・・私は草原の斜面に腰を下ろして、はるか右手の方に見える鬼子母神様を眺めていた。するといつの間にか私の直ぐ左横に一人の男の人が立っているのを発見した。鳥打帽子を冠りステッキを突いていたその人を見た時、私は最初異人さんではないかと思った程だった。色の白い童顔、茶色のコール天のズボンをはいて、今ではルバシカと分かるが黒色のだぶだぶの上衣に腰の辺りを紐でしばった面白い風貌の雨雀は、夕焼けがきれいだねとぽつりと言った」と『雑司ヶ谷界隈』(中村省三) には当時の雨雀の容貌が細かく描かれている。

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神田川界隈物語 12月号 子どもたちの恰好の遊び場 雨雀も訪れた「ハイゼの原」
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投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2022-10-29 22:39:53 (249 ヒット)

「猫ばば」といえば、悪いことをしても素知らぬ顔をすることを言い、
たとえば拾い物をしても、それを返したり届け出たりせず、
コッソリ自分の物にすることなどをいう・・・・・

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江戸言葉月ごよみ 11月号 「猫ばば」
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投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2022-10-29 22:38:46 (289 ヒット)

リヒャルト・ハイゼ(1869〜1940)明治期にお雇やとい外国人として、日本にやってきた親日家のドイツ人。ドイツ語教師として、東京高等商業学校(いまの一橋大学)や学習院で教えた。
学習院では、昭和天皇にドイツ語をハイゼは教えた。雑司ヶ谷で暮らし、その建物は「雑司ヶ谷異人館」と呼ばれていた。1940年北京で亡くなったが、遺言により遺骨は福島県会津若松市の飯盛山に埋葬された。

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神田川界隈物語 11月号『 「異人館」として名物だった リヒャルト・ハイゼの住む家』
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投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2022-10-29 22:37:04 (194 ヒット)

年の瀬の風物詩として今も行われている酉(とり)の市(いち)。
酉の市は、11月の酉の日に行われる鷲(おおとり)神社の祭礼で、江戸時代に盛んになり、年末の商家では酉の市で熊手(くまで)を買い替えて、歳(とし)の市で迎春の縁起物を買い揃えた。
「三の酉」を江戸の大火、振袖火事(明暦3年〈1657〉1月18日)・目黒行人坂火事(明和9年〈1772〉2月29日)・丙寅火事(文化3年〈1806〉3月4日)からみてみると・・・・・

*詳細は>コラム 江戸言葉 月ごよみ 「酉の市と大火 」
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投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2022-9-30 1:25:21 (208 ヒット)

・「七ツ屋」は「ななつや」といい「質屋」さん
・「十三屋」は「じゅうさんや」といい「櫛屋(くしや)」さん
・「十七屋」は「じゅうしちや」といい」「飛脚屋(郵便屋)」さん

詳細はこちら>
江戸言葉月ごよみ 
『七ツ屋、十三屋、十七屋』
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投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2022-9-30 1:22:53 (220 ヒット)

昔し、源義家がこの川の辺り(池袋〜雑司ヶ谷〜江戸川橋)で戦って弓の弦を巻き返したというとこから弦巻川(つるまきがわ)とよばれるようになったと言われる。

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神田川界隈物語 
『起伏にとんだ土地に 水を湛えて流れた弦巻川』
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投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2022-9-2 17:32:42 (238 ヒット)

五代将軍・綱吉は、生類保護の政策を打ち出してからは殺生を伴う鷹狩  を一度も実施しなかった。いったん廃止された放鷹制度は、八代将軍・吉宗によって復活する。

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神田川界隈物語
吉宗による将軍権威の強化 鷹場維持の為の「御犬部屋」
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