コラム「江戸蕎麦めぐり」
ほしひかる氏プロフィール
蕎麦エッセイスト、 江戸ソバリエ認定委員長 (江戸ソバリエ協会副理事長) 1944年5月21日生まれ佐賀県出身 1967年中央大学卒後、製薬会社に入社、 営業、営業企画、広報、関連会社の代表取締役などを歴任する。 2004年、製薬会社退職後、広報コンサルタント会社や化粧品会社の顧問をつとめる。 傍ら、2003年に「江戸ソバリエ認定事業」を仲間と共に立ち上げ、現在にいたる。 他に、蕎麦・食文化に関するエッセイや小説を業界紙などに連載中。 「荒神谷遺跡の謎を解く」、「出版会への提言」、「朔太郎と私」、 「日経・余暇開発センター」などがエッセイ賞に入賞。 江戸ソバリエグループ著『至福の蕎麦屋』(ブックマン社)。
《1日目 「江戸蕎麦」始、幻の常明寺と浅草東光院

たいがい物事の始まりは謎である!蕎麦(麺)にしてもそうである。
いつから日本人がそれを食べるようになったかは、正確に分かっていない。ただ信長の時代の、木曾の定勝寺という寺の文書に「蕎麦切(=蕎麦麺)を振舞った」と記載されていることから、戦国時代あるいは室町時代には食べていただろうということが推測されている。

それでは、江戸で蕎麦を食べるようになったのはいつからだろうか?
徳川2代将軍秀忠の代、京の尊勝院慈性という僧が、江戸城に上るため江戸にやって来た。そのとき、仲間である江戸の東光院詮長と近江の薬樹院久運の三人は常明寺で蕎麦切を食べた、と慈性は自分の日記に書き残している。これが江戸蕎麦の初出である。
それによれば、三人は連れ立って風呂に行こうということで出かけたのであるが、生憎風呂屋がいっぱいだったので諦めて、常明寺に寄って蕎麦を食べたというのである。それがどんな蕎麦、どんな汁で、どのような状況で作ったかまでは書かれていない。
また、この常明寺というお寺も江戸の何処に存在していたかが判明していない。会社と同じように寺も吸収されたり、潰れたりして史上から消えることもあるため、残念ながら幻となってしまったのである。
そこで筆者は、江戸城からそう遠くない天台宗寺院、もっと絞れば日枝神社辺りだったではなかったかと勝手に仮説を立てている。というのは、三人が共に天台宗の僧侶であったことや、江戸初期における天台宗の有力な寺社は江戸城付近では東光院、観理院(日枝神社の別当)であったということから、日枝神社界隈に常明寺は存在していたと想定しているわけである。
浅草 東光院 見取り図を見る⇒】【イラスト 川俣静】
一方の、一緒に蕎麦を食べた詮長の東光院は、幸い浅草に存在する。(ちなみに、尊勝院は京都の粟田口に、薬樹院は滋賀の坂本に今もある。) ただし彼らが常明寺で蕎麦を食べたころの東光院は小伝馬町にあったらしい。江戸の町が大きくなるにしたがって、だんだん寺院も外郭へと移っていったのである。
いずれにしろ、江戸の人間として最初に蕎麦を食べたであろう東光院の詮長は、江戸蕎麦を語るとき、重要な蕎麦人として見逃せない。
東光院の案内冊子によると、詮長は家康に正月と九月、江戸城長久の祈願を命じられていたという。こうした特権階級の僧だったからこそ、まだ江戸初期には貴重だった蕎麦を食べられたのかもしれないなどと想像がふくらんでくるが、なにしろ約400年も昔の話である。ぼんやりとした灰色の影だけが浮かぶ謎の僧である。

☆おすすめの浅草のお蕎麦屋さん
・「ほしひかるの江戸東京蕎麦探訪」浅草編1〜4(GTF) ⇒「大黒屋」「蕎上人」のご案内
  http://www.gtf.tv/blog/users/gtf-staff5/?itemid=4168&blogid=113&catid=1107

☆おすすめ単行本「江戸蕎麦めぐり」A5版/128頁

☆さらにお調べになりたい方のために
・『慈性日記』(校訂:林観照『史料纂集』蠡碍化駑狃彰粟会) ・冊子『天台宗 東光院』 (東光院)
・『もち歩き 江戸東京散歩』(人文社)
・ほしひかる「江戸蕎麦学 序曲」(『めん』2004.6)
・ほしひかる「蕎麦夜噺」第13夜(『日本そば新聞』平成18年11月)
・「ほしひかるの蕎麦談義」第58話(フードボイス)
http://fv1.jp/chomei_blog/?p=570

(次回2日目は深大寺です。)

〔蕎麦エッセイスト、江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる〕
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《2日目 名高き「深大寺蕎麦」》