幕末の江戸風俗」(岩波文庫) 著者 塚原渋柿園
言語とは、肺臓より流出する空気の、人の発声器によりて声音となり、これに依りて思想を表現する機能を有せるもの、とは古来学者の定義である。
だから言語は風で、これを籟(ふきもの)に譬える。その天籟(てんらい)、地籟、人籟の説は、支那人も古くから言って居る。この風を捉えて運動状態を研究するに、器械無しにはすこぶる困難な仕事であろう。言葉もその通りである。あたかも磁石も風力計も無い時代の風の模様を、野老の伝説かなんどに依って今日調査すると同様ので、到底完全なものの得らるべきで無いは勿論の事、あるいは着手の方法が無いと言っても可(よ)い位のものだろう。 だが幸いに我々は文字なる声音の表象物を持って居る。これに依って古史上に記されてある当時の通用語の使用振り、すなわち問答往復の模様の一斑を知ることをば得るなれども、しかしそれは、文字の上に表わし得られる談話中の要用の箇所のみで、かの甲の要所と乙の要所との間を繋ぐ、謂(いわ)ゆる不要用所の連続、すなわち閑話(その実閑話では無いのなれども)の如きは、到底これを見ることができぬ。いわんやそれが音韻の調子の如きは、語り物もしくは台譜(せりふ)において百中の一、二を今日に存するのみである。しかもそれも、その流派に因(よ)り、その時世に由(よ)りて、かの言い廻し、節まわしの抑揚緩急の異なるもの有る如きを見る時は、それ等(ら)といえどもあるいはその出来立ての当時とは、別種の観ある物に為(な)って居るかも知れぬ。尽(ことごと)く書を信ぜばすなわち書亡きに若(し)かずとまでは言うまいが、つまり一から十までその語り物の音譜等に因(よ)って、当時の句調如此(かくのごと)しなどと言う事の出来ぬは知れてある。
 爾(し)かく「尽(ことごと)く」とは言えぬが、それでもその時代時代の生存語の活動した面影の半面だけでもう覗い得るのは、矢張り右の語り物、もしくは俚歌童謡(文字鎖を重んじた擬古体の筝歌の如きで無い)を除いて外に無い。かの『古事記』の神武記にある「宇陀の高城(たかき)に鷸罟(しぎわな)張る」、「大坂の大室屋に、人多(ひとさわ)に来入り居(お)り」、また「楯並(たたな)めて、伊那佐(いなさ)の山の」などある三つ四つの謡(うた)でも、これを土台にそれからそれへと考えて行くと、当時の口語及び歌謡の音譜の大凡(おおよそ)も見当が附く様な心もする。
『万葉』の「筑波山の嬥女(かがい)」または「真間の手児奈(てこな)」、「末(すえ)の珠(たま)名」の歌なども同じくしかりで。一またこれにはかの音譜の如きは無論無いが、その性質は語り物と同類な、『竹取』『源氏』などの物語の中にも、その時の口語そっくりが出て居るのだろうと思われる箇所もある。それから有名な語り物の『平家』『曽我』などでは、鎌倉の半ば頃から足利の初世時代の手振りの概略が推知せられるが、僕がここに言う江戸語の淵源については、この『平家』『曽我』の跡を続いだ猿楽の狂言(能の間(あい)の狂言)、すなわち文明永正(?)以降の上国の 言語風俗を写したものが、足利、織田、豊臣の三代を歴来(へきた)りて、徳川氏の初世にいたり、江戸に東漸して将軍家より諸大名、旗下武士の上中流の一部の日用語(狭くは士詞(さむらいことば)、広くは山の手詞と云った。すなわち町人詞、下町詞なるものに対して)を漸次に形成したものかとも察せられる。然(そ)して他の一部なる「下町の言語及び風俗」は、これは確かにその能及び狂言より転化し来(きた)れる猿若の歌舞伎。これが感化を受けたるものなるは、恐らく争うべからざる事実であろう。  けれども徳川氏時代に国初と言った天正の江戸入府から、慶長の幕府建設までは、 所謂(いわゆる)兵馬倥惚(こうそう)時節で、東奔西走、人寧処(ねいしょ)するに遑(いとま)あらざる有様であったから、言語の如きも三河、上方、混淆(こんこう)の言辞に、土人の阪東語も交って、恐らく一種のぬたの如き、光明の無きものであったろうとも思われる。しかるに慶長の八年、徳川氏の始祖が宣下を受けて、江戸に征夷府を建てられた。東都の繁華は俄かに倍(ま)して、京大阪の商賈(しょうこ)は相争うて関東に趨(おもむ)いた。「太閤恩顧の四座の猿楽どもまで京伏見を去って江戸へ移住した」と云う事が古書にあるから、その繁盛につれて市民が言語の紛乱のさまもまた想像に難かなまらずで、原来(がんらい)の土語たる武相の関東べえも、天正以来の旧移住者たる三河靴りも、あるいはこの新来襲者たる上方詞に圧服せられたの奇観を呈したかも知れぬ。ただ惜むべきは、この時分の著書に、今の言文一致を書き現わした江戸の物が無い。『醒酔笑(せいすいしょう)』はあるが作者が京都である、『おあん物語』も可(よ)いが、咄(はな)し手が美濃である、文章が口語で無いからこの目的には向かぬ。『慶長見聞集』(けいちょうけんもんしゅう)と『板坂ト斎筆記』(いたさかぼくさいおぼえがき)『家忠日記』(いえただにっき)の類は江戸の書物とも言われるが文章が口語で無いからこの目的には向かぬ。独り大久保彦左衛門の『三河物語』はやや可(よ)いが、これとても十分とは行かずして、霧の籬を遠く隔てて、髣髴たる花の色を見る位(くら)いのものである。
だがここに注意せねば為(なら)ぬ一事は、徳川氏の始祖が、上国の言語風俗の生温(なまぬる)さを太(いた)く忌(い)まれて、その風を箱根以東へ移すまじと為(せ)られた事である。当時の執政者もこの旨を体した様だが、就中、三代目の将軍なる御人は、その事についての研究の結果か(?)かの「奴風」(やっこふう)なるものを起して、豪邁勇往、死を見る帰するが如しと云う蛮風の鼓吹に、自身すこぶる勖(つと)められたる様である。    
上(かみ)の好む所、下(しも)これより太甚(はなはだしき)ものありであるから、当時髀肉の嘆に堪えなかった旗下の若殿原は、謂ゆる追風に帆で、たちまちその風を江戸八百八町に吹き靡(なび)かせた。それが頭領たる者はかの水野十郎左衛門、加々爪甲斐守、坂部三十郎、吉屋小次郎、山中源左衛門、これ等の輩である。而して在来の東西混淆語の上に、一種異様の急促の野調を加えて、かの作り髭に大角鍔(おおかくつば)、「こわい」と云うは板昆布の帯よりも関東の奴(やっこ)、一と口に言うおびただしい風俗に相応(ふさわしい)しい新語を口にした。これが当時に言う「奴詞(やっこことば)」「六方詞(ろっぽうことば)」また「丹前詞(たんぜんことば)」などとも言ったもの。そのほざき立てる音調は推測に待つより外に無いのであるが、その語句は幸いにその頃の唱歌に遺ってある。かの元禄の『松の葉』に収めてある「三谷踊」「丹前清玄」「寛闊一休」などがその風格の灼けいもので、試みに一、二を引くと、
〇三谷踊(長唄)                    佐山検校作 今度初めてお江戸に住めば、天下輝やく光をくれて、---誰も好いたるお江戸の風(ふう)や、生田昆陽野(いくたこやの)の敦盛(あつもり)様、熊谷笠に破竹杖(はちくづえ)、二つ紋のちん縮緬のべんべを着せて、せんせかしょ。-------さても指(さ)いたる長刀、お気の通った、お若衆様の、いっくに いっくに、血目玉が離され申さない。-----伊達も浮気も命の内よさ。軈て死ぬ死ぬ。ひッ弾(ぴ)け。ウン飲め。騒げ。明日をも知らぬ身に。
〇丹前清玄(吾妻浄瑠璃)               永 閑 節
されども験のあらざれば、不動に向って大声あげ。さりとては さりとては、聞分けもおりないこんだによほい。夜となく昼となく、無食素腹で祈れども、すッきりばッたり験も無し。こりゃまた何ンたる事だによ、ほいほい ほいほい ほいほいよ。一つの奇特を見せ給えと、珠数さらさらと押し揉んで(下略)
〇寛闊一休(同上)                  永 閑 節
一休は御覧じて。こればァりの小雪を、しッちょう(引背負う)ともしッちょうべい。
そン引ともそ引(ビ)くべい。後(しり)から木槌(てこ)さをさッち入れ、しゃッくり引(びき)に引いてくりょ。えんやえんやとな。(下略)
「三谷踊」の作者佐山検校は、有名な柳川検校加賀都の弟子で、元禄頃までも生存したように古記には有る。しかも吉原の山谷通いを作ったものだから、その年代も明暦以後、寛文延宝天和の頃で、幕府は四代より五代へかかった時であろう。また「丹前清玄」も「寛闊一休」も「永閑節」とあるから、貞亨元禄時代のもの。旗本奴は既に衰えが、町奴はまだ盛んの時。市川流の荒事なる狂言が、大に世に歓迎され始めた頃である。
こう云う工合に、江戸では一種の「関東べえ」なる言語が出来た。そしてこの促音を以て生命とせる新言語は、調子の緩(ぬ)るい上方弁の、兎(と)ても素質に合う様も無いから、ここに至って東西の口語に截然(せつぜつ)たる区画が立てられたものでは有るまいかと思われる。しかもこの六方詞の「頭かッ撲(ぱ)る」の「腰をひン抱(だ)く」のと云った「かッ」「ひン」なる助語は、今日の東京語としても中下の社会に遺って居て、墓なき江戸ッ児(こ)の寂しき競語(きおい)に用いられる。すなわち「頭をこッ撲(ぱ)る」「物をふンべしょる」「ひッかき廻す」「つンのめる」「ひッぱたく」「ひン捻(ねじ)る」、その他「はッつけ野郎(磔(はりつけ)野郎)」「どう盲目(めくら)」「こン畜生」の類。もしそれ芝の新綱、四ッ谷の鮫が橋の共同水道栓の傍らに立って、所謂る井戸端会議なるものを聴くこと半時間せば、如何にこれ等の土地にその関東べえ語の余響を存するの多大なるかを知らるるであろうかで。しかもその語は慶応の以前において、豪宕(ごうとう)、洒落、一擲(いってき)千金、憚(はば)かンながら宵越の銭は持たねえ人種の表白語として、海内(かいだい)に珍重されたものである。
なれども後には(けだし寛政以降)古来疎奔(そもう)の蛮臭を帯びたる高尚ならぬ言語として高尚につらねたものは、市川流の「暫」、「曽我の対面」の朝比奈の台詞等に残っていた。
山の手の大部屋仲間、火消屋敷のガヱン、あるいは市中の鳶の者、ぼて振等の極めて下層なる社会の間に、それでも余勢を逞しくして居た。がまたその間更に一種の「下町詞」なるものが現われた。下町すなわち町家を意昧する。町家と云えば、日本橋、京橋、神田、浅草、下谷の一部を連想する。下町詞はこの各区の大小の商家の慣用語で、けだし今でもその形代(かたしろ)なるものは残って居るだろう。かの清新にして瀟洒、軽佻にして乖猜、娼的妓的の花柳界に持て囃さるるハイカラ調の粋気なるのであるが、僕はこの語の萌芽を、天明以後の洒落本、蒟蒻本(こんにゃくぼん)の畑に捜したら得られようと思って居る。しかもこれを培養したのは幕府十一代の将軍、謂ゆる大御所様なる文恭公の糜政(びせい)である。その音調から、口にする時の態度は、三馬の『小野の馬鹿村』その外の風俗本によく書いてある。出もせぬ洟をチーンチーンと高くかんで、オホンと咳払いして襟を直し、ヱッへへと一つ笑って、さて手を挙げて「諸事諸事」というとある。成る程この風は、今も落語家の前座などが饒舌(しゃべる)る商家の放蕩息子や、それが化身の野幇間(のだいこ)などには好く有る態度で。そしてその風が後には堂々たる武士に移って、本田頭(あたま)に銀烟管(ぎんぎせる)の輩(やから)が「諸事諸事」と言ってる中に、世の中の百事は去ったのだ。幕府の初代は、士民の言語を素朴のものにして、国勢を長じ、その未造は、軽浮のものにして、国威を堕した。この間の消息を熟(よ)く翫味したらば、一個の注戸語の変遷についても、為政家や教育家は自(おのず)から得る所が有ろうも知れぬ。
 


塚原渋柿園(つかはらじゅうしえん:1848-1917)
江戸から明治への転換期を生きた文学者。
喪われた江戸を伝える多くの随想・講演を残した。 幕末の武士・庶民の生活・習慣,明治初期の論壇・文壇など関する,
体験に基づく語りは,貴重な歴史的証言であり,何より興趣つきない読み物として楽しめる。





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