【江戸東京下町地名めぐり】 江戸三座


江戸三座

 

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  江戸歌舞伎座発祥の地

江戸時代、「日千両」といわれたほど賑わったのが、日本橋の魚河岸・浅草の芝居街と新吉原。特に芝居は女性には人気があった。

 

江戸時代中期から後期にかけて幕府公認の芝居小屋〜中村座・市村座・森田座のことを江戸三座、俗に猿若三座と呼ばれた。

 


〖由来〗

【中村座】

1624年(寛永元年)215

猿若勘三郎が山城国から江戸ヘ来て、日本橋近くの中橋[注1] に猿若座を

開いた。猿若座は幕府公認江戸最初の歌舞伎興行の劇場。二世勘三郎は母方の姓をとって猿若から中村に改姓。それにともなって、座名を中村座と改めた。

1632年(寛永9年)5禰宜町[注2] ヘ移転。

1654年(慶安4年)には堺町[注3] へ移転。

1841年(天保12年)107日火事で焼失。

1842年(天保13年)1月天保の改革により移転先は浅草寺裏聖天町隣接地猿若町[注4] に決定同年10月4日芝居を開始。

1884年(明治17年)11西鳥越[注5] 移転、猿若座と改称。

1893年(明治26年)1月火災で焼失後は再建されず廃座。

【市村座】

1634年(寛永11年)5月に、中村座の近くに泉州から出て来た村山又三郎が村山座を日本橋葺屋町[注6] に開場。

1652年(承応元年)4月市村羽左衛門が興行権を買い取り市村座と改称。

1842年(天保13年)前年の火災と天保の改革で浅草猿若町へ移転。

1892年(明治25年)下谷二長町[注7] へ移転。

1932年(昭和7年)楽屋からの失火で焼失後は再建されず廃座。

【森田座】

1660年(万治3年)森田太郎兵衛(初代森田勘彌)が木挽町[注8] 5丁目に森田座を開場。

1843(天保14) 天保の改革木挽から猿若町へ移転。

負債を抱えており、控櫓の河原崎座が劇場運営を代行。

1856年(安政3年)5月十一代目森田勘彌によって再興。

その後、森田座から守田座へ改称。

1872年(明治5年)新富町[注9] へ移転し新富座と改称。

1923年(大正12年)関東大震災に被災し再建されず廃座。

 

 

 


 [注1],覆ばし:外堀に架かっていた橋。日本橋と京橋の真中にあるので 中橋。現在の中央通りと八重洲通りが交差するあたり。 寛永元年、中橋の橋詰で猿若勘三郎が「猿若狂言尽」を興行、 江戸の常芝居発祥の地。

 [注2]△佑ちょう:江戸初期の町名。椙森稲荷社(新材木町)の禰宜が住んでいたのでこの名がついたという。明暦年間以降町屋が開かれ長谷川町と改称。今、日本橋堀留町2丁目6〜10番辺り。

 [注3]さかいちょう:江戸から昭和8年の町名。 慶長年間に成立した古町。西側の東堀留川に大阪の廻船が入ってくるので、大阪近辺の名勝地堺の名をつけたという。 江戸期歓楽街として賑わう。今、日本橋人形町3丁目・日本橋芳町。

 [注4]い気襪錣ちょう:天保13年から昭和41年の町名。天保の改革により幕命により開かれた芝居町。町名は江戸歌舞伎の創始者猿若勘三郎による。今、浅草6丁目。

 [注5]イ砲靴箸蠅瓦┐舛腓Α明治5年から昭和9年の町名。 明治44年まで浅草を冠称。町名は浅草元鳥越町の西隣りにあったことにちなむ。今、鳥越1丁目、鳥越2丁目5〜9番。 *鳥越の地名は前九年の役(1051〜1062)で源義家が、当地で海を渡る鳥を見て浅瀬があることを知り、渡海に成功。この地の白鳥明神に感謝し鳥越明神とし、付近一帯の地名となったという。

 [注6]Δ佞やちょう:江戸から昭和52年の町名。屋根葺職人が多く居住したことにより町名にした。寛永〜天保年間の200年間賑わった歓楽街。今、日本橋芳町2丁目、日本橋堀留町1丁目。

 [注7]Г砲舛腓Δ泙繊明治5年から昭和38年の町名。 明治44年まで下谷を冠称。町内に二丁町という小道があったことにより町名とする。今、台東1〜2丁目。

 [注8]┐海咾ちょう:江戸から昭和26年の町名。 江戸城修築の時、木挽職人が多く居住したことによる町名。 今、銀座1〜8丁目のうち。

 [注9]しんとみちょう:明治4年から昭和46年の町名。 1〜7丁目があった。町名は西側の大富町にたいしてつくられた。明治5年守田座が猿若町から6丁目(現在の京橋税務署付近)に移転、のち新富座と改称。昭和46年、町域をかえて現行の新富1〜2丁目となる。

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