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藏前神社例大祭 例大祭 6月第1土曜日及日曜日
概要>本年は本社神輿・山車引進行・縁日催行。 例年は、本祭りは隔年(奇数年)に行われ宮神輿が出御して氏子地域を渡御。陰祭には、日曜の午後から5町会の連合渡御があり、江戸通りを中心に各町会を巡り盛上がる。この祭りの日は、浅草橋から蔵前に至る「江戸通り」沿いの各神社(第六天榊神社・須賀神社など) で祭礼が行われ、「祭通り」と化すので有名。 由来>蔵前神社は、徳川綱吉公が元禄6年(1694)石清水八幡宮を勧請して創建。昭和22年に隣接の稲荷神社と相殿・北野天満宮とを合祀、蔵前神社と改称. 江戸時代には別当職の僧侶も在任し、文殊院または大護院の八幡宮とも称されたが、一般には、蔵前八幡あるいは「蔵前の八幡さま」と唱えられ、庶民の崇敬者はなはだ多く、関東地方における名社の一つに数えられた。当社の創建当時は境内地も二千二百七十余坪を有し、勧進大相撲の開催も二十二回におよび、この間大関谷風・大関雷電・関脇小野川などの名力士も当社境内を舞台に活躍し、賑わいを呈した。
古典落語「元犬」(もといぬ)や「阿武松」(おうのまつ)の舞台ともなっており、「元犬」像が落語愛好家によって奉納建立されている。 宮神輿>台座幅/二尺八寸(85㎝) 制作/昭和30年 神輿師/東向島・志布彩義/ 梅に鶯の蕨手 鳳凰が見事。見応えのある華麗な神輿。 地名>蔵前地名の由来:地名は江戸幕府の御米蔵(浅草御蔵)があったことに由来。 社宝>ゆかりの品々は関東大震災、昭和20年3月10日の戦災で悉く焼失。
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~17時00分
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銀杏岡八幡神社例大祭
概要>祭礼は、江戸時代八月十五日に執り行われ、明治の中頃より六月十五日にかわり現在は原則として六月第一土曜、日曜に執り行なう。隣接する浅草橋須賀神社と同日開催で午前は銀杏岡、午後は須賀渡御と取りきめ。 宮神輿>台座幅/二尺五寸(77㎝) 制作/昭和30年、神輿師/神田・宮惣 。延軒屋根・平屋台造り 屋根紋は丸に三つ銀杏、 近くの須賀神社と同寸の錺神輿で胴の極彩色の彫り物が見事。 由来>源頼義・義家が奥州征伐に向かう途中、小高い丘だった当地に銀杏の枝を差して戦勝祈願し、その帰途、康平五年(1062)に当社を創建したと伝えられる(縁起)。 現在の銀杏は戦後明治神宮より移植されたものである。江戸時代に入り福井藩松平家屋敷地となり、松平家の邸内社となる。 享保十年(1725)公収され町内(福井町)の産土神となった。
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~17時00分
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浅草橋須賀神社例大祭
日時>6月3日(土)~5日(日)6月第一日曜(隔年宮出し13時~16時) 概要>6月の第一土曜日、日曜日が例祭。隔年(偶数年)に宮神輿渡御が行われる。 隣接する銀杏岡八幡神社が同型の神輿での渡御が午前中に執り行われ 須賀神社は午後からの渡御。 宮神輿>台座幅/二尺五寸(75㎝) 制作/昭和30年、神輿師/神田・宮惣、延軒屋根、平屋台造り。鳳凰が疫病除けの笹団子をくわえる 銀杏岡八幡神社と同型。 由来>推古天皇九辛酉年(601)武蔵国豊島郡に疫病が流行した折、郷人等が牛頭天王の祠をたてて創始。当社所在地の蔵前は、江戸時代「札差」が軒を並べ氏子にもその札差が多かった。(札差とは、旗本や御家人の代理として禄米を受けることを業とした米商人)彼らは武士への金貸しなども行なって富を得、次第に江戸の経済を動かすほどの勢力を持つようになり江戸時代には 祇園社、蔵前牛頭天王、団子天王、笹団子天王、などと呼ばれ、 経済力のある氏子の札差らに支えられ 祭礼も盛大に行た。
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~18時30分
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今戸神社大祭
氏子>今戸一丁目町会、今戸二丁目町会、今三町会、東一会、日本堤本町会の5ヶ町。 概要>毎年6月の第1土日祭り。 3年に1度大祭、土曜日は大祭式が挙行、日曜日に神社神輿が9時20分に宮出。 宮出し道中」のあと、東一会、日本堤本町会、今戸一、二丁目会、今三町会など氏子5ヶ町を渡御巡幸して 神社に戻るのは午後6時過ぎ。祭りは午後5時半過ぎから6時過ぎまでの宮入道中で最高潮に達し道の両側は大勢の観客で埋まる。 宮神輿>戦災で焼失した旧神輿を模し平成3年に新調。台座幅/三尺五寸(106㎝) 制作/平成3年 神輿師/浅草・宮本重義/ 吹き返しを大きく立ち上げた延軒屋根・平屋台造りでいなせなデザイン。 社宝>境内にある一対の狛犬。文政五年(1822)に今戸焼職人により奉納、最も詳細に江戸時代の今戸焼職人の名前や所属が判明する貴重な資料。 地名 今戸の地名は古くは「今之津」(今津)から「今都」、さらに「今戸」と改称。 江戸の頃、この界隈は今戸焼と称する土器を焼く職人がいて瓦・人形・火鉢・土風呂を産していた。
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~19時00分
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第六天榊神社例大祭
日時>6月3日(土)~4日(日)六月の第一土曜日・日曜日 隔年本祭(西暦偶数年)宮出/7:30~宮入/19:00
氏子>柳浅・代地・茅二・宮元・蔵前中央・元蔵三・精華・寿三の八ヶ町。 概要>6月の第一土曜美、日曜日が例祭。隔年(偶数年)に宮神輿渡御が行われる。本社神輿渡御の受け持ち時間の合間に氏子区域内で町会神輿を担ぐ。 宮神輿>台座幅/四尺二寸(127㎝) 制作/昭和初期、神輿師/神田元岩井町・柏原甚吉。黒漆塗り七曜星の紋の延軒屋根、平屋台造り。 由来>日本武尊が、景行天皇四十年庚戌歳(110)に創建したとされる。第六天神社と称し、森田町(現蔵前3丁目)に鎮座していたが、享保4年(1719)浅草御門外、松平市正殿上屋敷跡地(柳橋1丁目)へ遷座。 明治維新の廃仏毀釈により社号を榊神社へ改称、昭和3年、浅草文庫の跡地であった当地へ移転した。
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(継続中)
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白鬚(しらひげ)神社例大祭
2025年 白鬚(しらひげ)神社例大祭
日時 2025年 6月6日(金) 神酒所祓 宵宮参り 6月7日(土) 例祭祭典 宵宮行事 6月8日(日) 神社神輿渡御 場所 東京都墨田区東向島3-5-2 東向島・墨田・堤通・京島・八広・押上 氏子エリア 連絡先 社務所:03-3611-2750 公式HP https://shirahigejinja951.wixsite.com/shirahigejinja 概要> 墨東地区最初の夏祭り。 向島(むこうじま)~江戸期によばれるようになった名で、浅草のほうから隅田川の向こうに広がるあたりをそうよんだことから始まる。昭和39年に向島、向島須崎町、小梅、向島請地町などを合併した。 宮神輿> 祭神:猿田彦大神 台座:四尺三寸(129) 建造年度:嘉永元年 製作者:行徳・後藤直光 特記:延軒屋根・平屋台造りの古神輿 彫金が見事 駒札は拾参番 三年に一度氏子内を渡御。
由来>「墨田区史」による白鬚神社の由緒 牛島神社と共に、本区内でも屈指の古社である。祭神は、主神猿田彦命のほか四神であったが、明治四十年(一九〇七)に同社南にあった諏訪神社の祭神健御名方命を合わせて祭った。「江戸名所図会」は「祭神は猿田彦命なり。祭祀は九月十五日に執行せり。別当は真言宗にして西蔵院と号く。相伝ふ。天暦五年(九五一)辛亥慈恵大師関東下向の頃、霊示によりて近江国志賀郡打下(滋賀県高島郡高島町)よりこの地に勧請し給うとなり。天正十九年(一五九一)に至り神領を付し給ふ」と記しており、境内の、西蔵院住職興元選、加藤千蔭の享和二年(一八〇二)の社碑も同様の略縁起を記し、延寿と航海安全の神として霊験あらたかなりとも書いている。
・社殿は、元治元年(一八六四)に造営された白木造りで、区内では戦災を免れた貴重な建物の一つである。本殿前に、文化三年(一八〇六)銘の、浅草山谷の料てい八百善や吉原松葉屋等が寄進したこま(狛)犬があるほか、境内には多数の石碑がある。 墨水三絶の碑 佐羽淡斎の詩を巻菱湖がてん額し、大窪詩仏が書いている。文政五年(一八二二)建立。(碑文省略)
・鷲津毅堂の碑 三条実美てん額、厳谷一六書による毅堂の伝記碑である。毅堂は名を宣光といい、幕末・明治初期に活躍した漢学者で、明治政府の官職を歴任し、明治十五年(一八八二)に司法権大書記官となったが、同年秋に五八歳で没した。毅堂はまた、小説家永井荷風の母方の祖父でもある。明治十六年の建立。
・隅田川観楓詩並序の碑 天保七年(一八三六)に館柳湾の選によって黒堤(註:墨堤か)に建立され、後年に神社境内に移されたものである。碑文は「墨堤植楓記」というべきもので、石浜(台東区内)の料ていの主婦が、隅田村から小梅村に至る堤上に、かえで(楓)を植えたこと、紅葉の明るさ、美しさが秋の日に映えて人の目を楽しませていることなどを記し、七言絶句五首を添えている。なお、この主婦というのは料てい川口屋の直のことで、彼女は清元の名手であり、また、女傑でもあったという。このほか境内には、四世今日庵元風句碑、浜辺黒人の狂歌碑である黒人塚、中原耕張の筆塚など著名な碑がある。(「墨田区史」より)
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