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Profile
光田 憲雄( みつだ のりを)
日本大道芸伝承家、東京都ヘブンアーティスト、日本風俗史学会会員。現住所、東京都世田谷区北烏山。1946年1月山口県に生まれる。1970年頃から大道芸の世界にのめり込む。
1995年3月記録(『大道芸通信』の発行)・伝承(伝承者養成のための講習会・講演会開催等)・復活再生(イベント等へ出演)を目的に、「日本大道芸・大道芸の会」立ち上げ。
2002年8月東京都主催、第1回ヘブンアーティストコンテスト合格。
主な著書『日本大道芸事典』(岩田書院)『江戸の大道芸人』-庶民社会の共生(<つくばね叢書)など。
大道芸の記録・伝承・復活再生に活動中。
江戸から今に伝わる伝統芸能「大道芸」 概説
『古来から伝わる日本の大道芸は、大きく物売り系と芸能系に分けられる。何れも青息吐息、絶滅まで秒読み段階となった。かつては祭や縁日になくてはならないものであったが、何時の間にか忘れ去られようとしている。
そんな日本の大道芸を伝承するために、25年前に立ち上げたのが、私たち「日本大道芸・大道芸の会」である。元々啖呵口上で人を集め商売するものであったが、物が溢れる現在では商売としては成り立たなくなった。話芸話術のプロセスを研究し伝承することを目標に活動を続けている。現在では聞かれなくなった 「振り売り」の声や「願人坊主」がやっていたものまで、各種資料に基づき復活披露もしている。』
書名 懐旧九十年(1983年 岩波文庫)
著者 石黒 忠悳(いしぐろただのり)
『 』部分 本書より引用
陸軍衛生部軍医制度に生涯を捧げた医師、石黒忠悳の回顧録である。
後編では兵部省へ転じてからの石黒に焦点を当てる。
兵部省からは、軍医頭であった松本良順が、直接石黒の勧誘にやって来た。
もはや断ることはできないと観念していた石黒だが、文部省時代の官僚采配にこりていたので、入省にあたって五つの条件を提示することにした。
一つ目は、松本の在職する間10年間は石黒の在任を保証すること。二つ目は、医官は試験によって採用し、薩・長・土・肥の藩閥による採用は行わないこと。三つ目は、現職の医官にも試験を受けさせ、成績の劣るものは辞めさせること。四つ目は自分(石黒)について風評がたった場合には、必ず本人に真偽を確認してから判断を下すこと。そして五つ目は軍医寮で奏任官*1以上の位につくものは必ず医学者であること。
石黒の提示した五つの条件を、松本は快諾した。そして、責任はすべて負うので失敗を恐れずに思い切って取り組むようにと、石黒に伝えた。
石黒は、兵部省に入省して軍医制度制定のために精神誠意尽くすことを決心する。
明治4年(1871年)、石黒は26歳だった。
『私は松本先生の知遇に感じて兵部に入ろうかとは考えましたが、これまでの経験に懲りていますから、その際、松本先生へ条件を提出しました。第一、松本先生在職の間は、十ヶ年私の在任を保証すること。第二、兵部には薩・長・土・肥出身の人が多く、随って医官にもその藩の人が多いが、医学はその学術において優劣判然たるものゆえ試験を行って人を採用し、毫も藩閥によらぬこと。第三、学術試験を行って現在の医官を淘汰すること。第四、何ごとにても拙者のことにつき風評を生ずる時は、善悪共に必ず親しく拙者にその評言を聞かせた上にて判定を下されたきこと。第五、軍医療の奏任官以上は、必ず医学者を以て補任すること。以上五ヵ条を申し出でたところ、松本先生は悉く快諾して申されるには、それらの個条は皆僕が行わんと期するところで、君の意を労するを須(もち)いぬ。このほかに念のために申しおきたいのは、一旦、君に委ねたことは君の思う通りやってもらいたい、その間に過失が生じた節は責はすべて自分が負う。創業の際、躊躇逡巡*2するのは好くない、大胆に果敢にやってくれるように、とのことでした。』
その後石黒は、西南の役や日清・日露戦争などを経て実績を積んでいく。そして明治20年(1887年)、42歳にして陸軍省医務局次長に昇進すると、同年5月にドイツ陸軍衛生制度視察のため、欧州に旅立った。この洋行には、乃木希典陸軍少将*3や医師の北里柴三郎*4、森林太郎(鴎外)*5らも同行していた。9月にはバーデンで第四回赤十字国際会議*6が開催され石黒も代表委員として列席した。会場には、若き日に学んだ教科書「医学七科」の著者であるポンペが、オランダ代表として列席していた。石黒は初対面のポンペと、勉学に励んだ頃を懐かしく語り合った。
『明治20年の9月、私はバーデンの国都カルルスルーエに開かれた第四回赤十字国際会議に代表委員として参列し、バーデン大公の厚遇を受けました。
この時、各国から来集した代表のなかに、和蘭(オランダ)からは往年我が国に来て医術を伝えたポンペ氏が代表として来ておられました。~中略~そのポンペ氏とこの機会に会合することは私にとって大なる喜びで、初見ですが甚だ懐かしく種々話しました。』
会議の二日目、「赤十字条約中にある列国は相互に恵み、病傷者を彼我の別なく救療する。」という条項を、欧州以外の国にも適用するべきかが、一委員から議題として提出された。
これは石黒にとって、きわめて心外なことであった。欧州以外の加盟国である日本国を代表して、(石黒が)ここに列席しているではないか。それなのに、欧州以外の国に条項を適用するべきかどうかを議題にするのは、おかしいではないか。
納得のいかなかった石黒は、憤然と立ち上がって抗議した。このときドイツ語に通訳したのは、森林太郎すなわち後の文豪・森鴎外である。
『この会議の第二日目に、一委員から「赤十字条約中にある列国は相互に恵み、病傷者を彼我の別なく救療する。」という明文は、これを欧州以外の国にも適用すべきか、という議題が提出されました。私は実に心外のことと憤慨したのです。現にわれわれ亜細亜(アジア)の邦国がこの事業に加盟し、私は日本国の代表としてこれに参列しているのに、かくの如き議題を持出すとは何ごとであるか、この議題がいよいよ討論に付せられようという際、米国からクララバルトン嬢が米国代表で出席していたから、必ず一論あるだろうと待っていたところ、これも一言もない。そこで私は奮然起って、独逸語精通の森林太郎君を通訳として抗議しました。』
「赤十字事業は地域や人種に関わらないと確信したから、日本はこれに加盟し、この会議に出席しているのである。それなのに、欧州以外の国にも条項を適用するべきかなどという議題が提出されるのは意外である。もしこの提案が議題とされるならば、遺憾ながら退席するしかない」。
石黒の抗議に場内は騒然となる。
石黒に加勢して、ポンペが立ち上がった。
「欧州以外にも日本のような文明国が、既に加盟して代表を派遣しているのだから、このようなことは問題にならない」とポンペは主張した。これにロシア代表が続き、他にも同意する委員がいたので議題は撤回された。
このことにより、東洋に日本という歴史と文化のある国があることを、欧州に知らしめるところとなった。
『われわれは日本帝国の代表は本来赤十字事業なるものには、地理的もしくは人種的差別を設けるものでないと確信してこれに加盟し、ここに出席しているのである。しかるに、かくの如き議題が神聖なる議場に提出せられることは真に意外である。もしこの提案が議題となるならば、われわれは遺憾ながら議席を退くほかない。」と抗議したので議場は騒然となってしまいました。そこで和蘭代表のポンペ氏は、直ちに立って欧州以外にも現に加盟して代表を派遣している日本の如き立派な文明をもっている国があるゆえ、かくの如きことは問題にならぬと主張し、露国代表の一医家、その他の一法律家があいついで同意を表したので、この議題は遂に撤回されるに至りました。これが動機となり、同盟各国の委員は、東洋に我が日本帝国という古い文化の歴史を有する国のあることを明らかに認めた次第でありました。』
石黒*7は、敷かれたレールに乗って育成されたエリートではなかった。
佐久間象山との出会いがなければ、石黒は医師を志すことはなかったかもしれない。仮に志したとしても、故郷で開業医として、平穏に一生を終えたに違いなかった。石黒も、そして象山もまた、幕末の変革期であればこそ輝いた人材であった。
国の形が大きく変わろうとしていた。新政府によって、法律、医療、軍事などあらゆる分野で見直しが進められようとしていた。古いレールをいかにして新しいレールに敷き替えるか。それは、古いレールしか知らないエリートだけでは成し遂げられない難題であった。自ら人生を切り開いてきた、強靭な意思力とバイタリティのある石黒のような人材が求められていた。維新の功労者の多くがエリートではなく、下級武士出身だったのは、理由のないことではなかった。
令和に入ってからも、日本の経済成長率*8は鈍化し続けている。強みであった先端技術力にも陰りが見られ、一人当たりGDPは他の先進国に大きく水を空けられた。識者の中には、このままでは日本が先進国*9の地位を維持できないという者すら出てきた。
日本が再び輝きを取り戻すためには、思い切った改革が必要であるということに、今や異論はないように思われる。明治維新のように、時代に合わなくなった古いレールを、新しいレールに敷きなおさなければならない時期に差し掛かっているのかもしれない。もしそうであるならば、石黒のような人材が再び必要とされているのではないだろうか。 了
*1 奏任官(そうにんかん) 明治官制で、天皇が内閣総理大臣や主管大臣または宮内大臣の奏薦によって任ずる官。三等以下九等までの高等官。(精選版 日本国語大辞典)
*2 躊躇逡巡(ちゅうちょしゅんじゅん) 決心がつかず、ためらってぐずぐずすること。▽「躊躇」はためらう、「逡巡」はしり込みする意。「躊躇」と「逡巡」は類義語で、二語を重ねて意味を強調した言葉。(三省堂 新明解四字熟語辞典より)
*3 乃木希典(のぎまれすけ) [1849?1912]軍人。陸軍大将。長州藩出身。西南戦争・日清戦争に出征。日露戦争では第三軍司令官として旅順を攻略。のち、学習院院長。明治天皇の死に際し、妻とともに殉死。(小学館 デジタル大辞泉より)
*4 北里柴三郎(きたざとしばさぶろう)[1853?1931]細菌学者。熊本の生まれ。ドイツに留学、コッホのもとで研究し、破傷風菌の純粋培養に成功、さらに抗毒素を発見。帰国後ペスト菌を発見し、血清療法を研究。伝染病研究所所長を務めたが、その東大移管に反対し、私財を投じて北里研究所を創立した。(小学館 デジタル大辞泉より)
*5 森林太郎(鴎外)(もりりんたろう もりおうがい)[1862?1922]小説家・評論家・翻訳家・軍医。島根の生まれ。本名、林太郎。別号、観潮楼主人など。森茉莉の父。陸軍軍医としてドイツに留学。軍医として昇進する一方、翻訳・評論・創作・文芸誌刊行などの多彩な文学活動を展開。晩年、帝室博物館長。翻訳「於母影(おもかげ)」「即興詩人」「ファウスト」、小説「舞姫」「青年」「雁」「ヰタ‐セクスアリス」「阿部一族」「高瀬舟」「渋江抽斎」。(小学館 デジタル大辞泉より)
*6 明治19年(1886年)、日本はジュネーブ条約に加盟し、その翌年の明治20年(1887年)には佐野常民 (つねたみ) らが設立した博愛社を「日本赤十字社」に改称して、世界で19番目の国際赤十字社として認証された。
*7 石黒の孫である原もと子は次のように述懐している。「幕末から明治初年へかけて日本医学界の先駆者となり、指導的役割を果たした人物は総じて、緒方洪庵大先生はもとより松本順、佐藤尚中、長与専斎諸先生をはじめ多くは、れっきとした幕臣・御典医あるいは雄藩藩医の子弟、またはそれに準ずる裕福な家庭の出であった。これらの人びとは藩侯の庇護のもとに、それぞれの藩校を経て大阪、長崎、江戸と学習所や私塾で青春を謳歌しつつ学を修めた知識人であって、国の内外に留学するのも思いのままに、学術を磨くにまたとない環境のうちに、さまざまの恩恵を享受していた。」(本書 あとがきより)
*8 経済成長率 定期間(四半期または1年間)に経済規模が拡大する割合。国民総生産または国民所得の実質値の伸び率で表す。(小学館デジタル大辞泉より)
*9 先進国 政治・経済・文化などが国際水準からみて進んでいる国。「先進国首脳会議」(小学館デジタル大辞泉より)。近年になって、一橋大学名誉教授の野口悠紀雄氏やソフトバンク社長の孫正義氏、ユニクロ社長の柳井正氏など著名な学者や経営者から、日本の先進国脱落の危機が警告されている。
江戸の四季を彩る「物売り」 概説(説明)案
「江戸の人々は、今日のようなスーパー、コンビニエンスストアや自動販売機などなく、どのような生活をしていたのでしょうか?
生活日常品やサービスは、「物売り」がそれぞれ何を売りに来たのかすぐに分かるような意匠や売り声を聞かせ、江戸の町を様々な荷物を担いで商品を売り歩いてました。
当時の絵図(挿絵)と川柳(江戸川柳)・草双紙(読み物)などから季節の生活風景を「物売り」から覗きたいと思います。
さらに、各商品のルーツをさぐり今日までの変遷をみたいと思います。」 渋柿
<皆様へ
上記、趣旨をご理解いただき、もう少しわかり易く説明したいと思いますので揉んでください。
書名 懐旧九十年(1983年 岩波文庫)*1
著者 石黒 忠悳(いしぐろただのり)*2
『 』部分 本書より引用
陸軍衛生部軍医制度に生涯を捧げた医師、石黒忠悳の回顧録である。
本書には、歴史を彩った偉人が多く登場する。西郷隆盛や山縣有朋、大山巌など維新の元勲をはじめ、後藤新平、陸奥宗光、児玉源太郎、中江兆民、森鴎外、三遊亭円朝など、その顔触れは多士済々である。本書では人間模様のひとつひとつが、臨場感をもって伝えられており、単なる回顧録を越えた、日本近代史の貴重な記録と言えよう。すべてを紹介できないので、テーマを絞り、今回と次回の2回に分けて内容の一部を紹介したい。前半では著者が医学を志して医学所に進み罷免されるまでを、そして後半では兵部省に転じてからの、軍医としての活動に焦点をあてる。
御家人の家に生まれた石黒は、なぜ医学を志すようになったのか。きっかけは、佐久間象山*3との出会いにあった。19歳のとき、石黒は尊王攘夷の思いを伝えるために、信州松代に佐久間象山を訪ねている。象山の言葉は石黒をおおいに感化し、その後の進路に大きな影響を与えた。尊王攘夷思想への熱い思いを語る石黒に、象山は次のように返した。
『足下ら同志の期するところも皇政復古にあるようだが、この大事を完成するには今の封建を革め郡県にせねばならぬ。そうすると士・農・工・商の別は廃せられることとなる。農・工・商は暫く措いて、士に至ってはすべて俸禄から離れることになるから、何かの生業に就かしめねばならぬ。ところが、三百余年の士の生活は、いずれにも不向きであろう。自分にも成案はないが、この点が実に困難なる問題である。足下らも尊皇論を唱道するからには、かくの如きことまで思い及ばさねばならぬ。』
思いもよらない象山のことばに石黒は言葉を失う。
象山の眼差しは、幕府が倒れた後に向けられていた。維新後には、多くの士族階級が収入を失うであろうことを予見し、その処遇を案じていたのだ。それは石黒本人にも関わることであった。象山の言葉はさら続く。
『西洋の学問の進歩は恐るべきものである。足下ぐらいの若者は充分我が国の学問をした上、更に西洋の学問をなし、そしてそれぞれ一科の専門を究めることにせねばならぬ。また、そのうちからしっかりした者を西洋に遣し修業せしめることが肝要である。かくて、それぞれの専門家を集めて、国の力を充実し兵備を完成しなければならぬ。足下のような若者はこの心懸けで、身体を達者にしてそれぞれの学問をして行くことが責務であって、徒に悲歌慷慨(ひかこうがい)*4したり、軽躁に騒擾憤死するようなことでは君国のために何の役にも立たぬ。?中略~青年はそれぞれ一科の学問を修め、研究を遂げてその結果を挙げるに力(つと)めることが結局、今後、真の攘夷の方法である。』
西洋の学問の進歩の実態を踏まえるなら、まずは自国の学問を習得し、その上で西洋の学問を学ぶべきである。そしてその中から自ら専門とする分野を選んで、それを究めるべきである。優秀な者はさらに海外で修業させて、それぞれの分野の専門家を育成し、国力を充実させねばならない。若者の責務は、身体を健康に保ち学問に専心することである。いたずらに悲しんだり憤ったり、軽率に騒いで命を落としたりしてはならない。それぞれが専門とする学問を修め、研究を進めて結果を出すことが、結局は真の攘夷の方法である、と象山は説いた。
このとき石黒には、象山の考えが承服できなかった。「洋書を視ると目がつぶれてしまう」と思うほどに、西洋を嫌悪していたからである。洋学を修めることなど論外であった。石黒は象山への弟子入りを断念して当地を去ることを決心する。
別れを告げる石黒に対し、象山は次のように声をかけた。
『足下のようにまだ春秋に富んでいる者は、今しばらくさようなことを言うていてもよかろう。しかし、早晩必ず横文字を読まねばならぬ場合になる。その時になって初めて横文字は物好きで読むのではない、読まねばならぬ必要があるのだということを自覚するであろう。今のような説を吐くのも、しばらくの間に過ぎなかろう。』
両親の残してくれた遺産は底を尽き始めていた。幕末において、裕福な武士は限られていた。石黒にも新たに職業を探して生計を立てる必要が生じていた。20歳のことである。
思案の末、石黒は故郷で整骨医を開業することを決心する。石黒は江戸にもどり、当時名人と言われた整骨医の名倉弥五郎に弟子入りすることにした。
早速弥五郎を訪ねて弟子入りを願うと、意外なことに断られてしまう。当然引き受けてもらえると思っていた石黒は納得がいかない。なぜ引き受けられないのか、理由を問いただすと、弥五郎はあっさり答えて言った。
『それは善い御問いです。それについて御話ししたい。 中略~ 弟は今、松本良順先生に随い、長崎で西洋医学の修業中、倅はまだ八歳ですが、これも成長したら米国に出し、西洋流の医者にするつもりです。私の整骨術も『解体新書』という西洋翻訳の解剖書を見てからメッキリ進みました。それで私は、医学はどうしても西洋医学でなければならんと考えています。今、貴君の学歴・人格を以ってして、我が子にも望ましからぬ、範囲の狭い整骨術だけを専門にやらせるということは、いかにもお気の毒である故お断りするのです。貴君が一般医学を修めた後に、整骨術を学習なされたいならば、私は悦んで蘊奥をお授けしましょう。』
このように言われてしまったら石黒も引き下がるよりない。西洋医学を修めてから入門するかもしれないので、その節はよろしくお願いしたい、と言い残してこの場を辞するよりなかった。
西洋医学とはそれほどまでに優れたものなのか。
石黒の脳裏には、象山のことばがよぎったに違いない。悩みに悩んだ末、石黒は日本古医学と漢方医学、そして西洋医学を比較してみて、西洋医学が本当に優れているかどうか確認することにした。その結果、最も真実に近いのは西洋医学であることを確信する。
『私は日本医学の大家佐藤民之助氏を訪うて、日本古医学の大要を聴いてみました。それから漢方については田村という友人が、当時、漢方の大家として学問にかけては浅田宗伯以上と言われた尾台良策の塾におったから、その人に就いてその大要を聞き、その人の示すところによって吉益南涯著『傷寒論精義』という書を読んでみました。次に西洋医学に転じて、私は英人合信(ハブソン)著『全体新論』『西医略論』を読んでみました。そうして三つを比較すると、合信の所説が一番真に近いと感じました。』
石黒は西洋医学を学ぶ決心をした。
思い起こされるのは佐久間象山のことである。
象山は、石黒が訪問した翌年、元治元年7月11日(1864年8月12日)に京都で浪士によって殺害されていた。石黒が西洋医学を学ぶ決意をしたのは、象山が暗殺されてからわずか数か月後のことである。石黒は霊前に赴いて、象山に詫びた。
『先生が凶刃に斃れて後数ヵ月にして、もう自発的に横文字を学ばねばならぬ必要に迫られました。それは私が西洋医学を修めることになったからです。その際、私は「祭ニ象山先生一文」一篇を作り、香を焚いて先生の霊前にお詫びを申しました。』
西洋医学を学ぶために、石黒が最初に師事したのは、医家の柳見仙(やなぎけんせん)だった。柳からは医学と蘭学を学んだ。教科書は当時競って読まれていた、朋百(ポンぺ)*5伝習の『医学七科書』*6の写本である。
日夜勉学に励んだおかげで、やがてオランダ語を解読できるようになり、治療の理解も深まると、そろそろ故郷に帰り開業医となるべきではないだろうか、という考えが石黒の脳裏に浮かぶようになる。しかしここでも気がかりなのは象山の言葉である。田舎で開業医となることは象山先生の思いに反することではないか。思い直した石黒は江戸にとどまってさらなる精進を決意する。
『かくの如き姑息の心を出してはさきに医学に志を向けた一念と違う。本当の医学者になり、医界にあって時勢に遅れず、遂に我が国の医学をして西洋各国の医学と並んで馳せ行く程度にまで進歩せしめ、この方面で彼の攘夷の実を挙げることをどこまでも慣行せねばならぬと決心しました。』
慶応元年(1865)の冬、21歳の石黒は、当時できたばかりの江戸医学所*7に入学した。そして明治元年(1868)に卒業した後も、苦読師(下級教官)としてとどまった。幕府直轄だった医学所は、維新後に大学東校(東京大学医学部の前身)となる。
維新に際し、医学所を離れていったん帰郷していた石黒は、明治2年(1869)に再び上京して大学東校に勤務し、翌年26歳で大学少助教兼少舎長となった。 すべてが順風満帆に見えた石黒だったが、転機は突然訪れる。明治4年(1871)、文部大臣が江藤新平から大木高任に代わると、その腹心であった書記官に楯突いたことが原因で、文部省を罷免させられてしまう。
しかし、優れた実務家であった石黒の評価は高く、まわりが放っておかなかった。
しばらくして兵部省から声がかかる。兵部省では、軍医制度創設を担う実務人材を探していた。兵部省にはまだ医官の職制がなく、軍医頭(ぐんいのかみ)に任ぜられていた松本良順*8は、軍医制度の創設を急いでいた。
後半につづく
*1懐旧九十年(1983年 岩波文庫)
本書では昭和11年2月に東京博文館より発刊された初版から七分の一弱が省略されている。(本書より)
*2石黒 忠悳
旧日本陸軍軍医総監・陸軍省医務局長。弘化2年(1845)に御家人であった父・平野順作良忠の勤務地であった岩代国(福島県)に生まれた。安政2年(1855)に父を、5年には母を亡くし、14歳にして自立を余儀なくされる。万延元年(1860)、父の姉が嫁いでいた越後国三島郡片貝村(今の新潟県小千谷市)の石黒家の養子になり、当地で私塾を開いた。その後、医学を志して江戸へ出て、幕府医学所を卒業後、医学所句読師となる。後に兵部省に転じ、山縣有朋や大山巌に徴用されて陸軍医として活躍、当時の医学界の事実上のトップであった軍医総監にまで上り詰めた。(本書より)
*3佐久間象山 (1811?64)
幕末の朱子学者・蘭学者・兵学者。「ぞうざん」とも読む。信濃(長野県)松代藩士。佐藤一斎に朱子学を学ぶ。のち蘭学に励み,江川太郎左衛門の門に入り洋式砲術を学ぶ。1851年江戸に塾を開き砲術・兵学を教え,西洋技術と東洋精神の融合を説く(東洋の道徳,西洋の芸術)。勝海舟・坂本竜馬・吉田松陰らがその門から輩出。開国論を主張し攘夷論者に京都で刺殺された(旺文社日本史事典 三訂版より)
*4悲歌慷慨(ひかこうがい) 社会の荒廃や自らの人生の悲劇を、悲しく歌い、また憤って激しく嘆くこと。悲痛で壮烈な気概のたとえ。(学研 新明解四字熟語辞典より)
*5朋百(ポンペ) 【Johannes Lijdius Catharinus Pompe van Meerdervoort】(1829‐1908)
幕末に来日したオランダの海軍軍医。日本が系統的な西洋医学を導入するのに大きな役割を果たした。ベルギー生れ。ユトレヒト大学卒,海軍軍医となり,1857年幕府から招かれ第2次海軍伝習所医官として着任。在日5年間,幕府医官松本良順を中心に全国から集まった医学生を中心に,人体解剖・臨床医学講義を含む幅広い教育を行い,これらの多くは講義録として残されている。コレラ予防,性病予防,種痘にも従事。61年彼の要請で長崎養生所を建てたが,これは,日本における近代病院の最初であるとともに,長崎大学医学部の原点ともなっている。(株式会社平凡社世界大百科事典 第2版より)
*6『医学七科書』 幕府の官医・松本良順が幕命で長崎に赴き、蘭医朋百(ポンぺ)から講受した『医学七科書』の聴講録で、七科とは、物理学・化学・解剖学・生理学・病理・内科・外科で合計45冊あった。従来は、西洋医学と言っても、ただ内科・外科・解剖書等を読んで治療するに過ぎなかったが、爾後は理学・化学・解剖・治療というように順序を立てて学ぶこととなったのは、この朋百(ポンぺ)氏の教則と松本良順の昌道とで始まったもので、これが日本の近代医学発達の基礎となった。(本書より)
*7江戸医学所 この医学所は、伊東玄朴氏の大尽力によって当時出来たばかりのものです。そのことは後に述べますが、その初めは在江戸の西洋医家の篤志家が協力して、神田のお玉ヶ池の種痘所を設けたのが基で、それからおいおいと発達して、医学講習所となり、更にこれを官に寄付して官立となり、西洋医学所と改称し、その後西洋という二字を取り去って単に医学所という名称になったのでした。これこそ今の東京帝国大学医学部の前身です。(本書より引用)
*8松本良順 (1832~1907)医師。佐藤泰然の次男として生れ,のち幕府医官松本良甫の養子となる。安政4年 (1857) 幕命により長崎に留学,蘭医 J.ポンペについて西洋医術を学び,文久1年(1861) に創立した長崎養生所でポンペを助けて教育と臨床にあたった。同3年6月江戸に帰り,緒方洪庵の跡を継いで幕府の西洋医学所頭取となった。維新の戦いには幕軍方に投じ,官軍に捕われて明治2年(1869) に釈放された。翌年,早稲田に蘭疇医院を開き治療と教育を行なったが,軍医制度発足にあたり山縣有朋の要請で兵部省に出仕。 1873年初代陸軍軍医総監,のち貴族院議員となり,男爵を授けられた。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典より)
書名 「蘭学事始 付・形影夜話」(1980年 教育社新書<原本現代訳>54より
形影夜話 佐藤昌介校注(日本思想大系64所収)現代語訳
著者 杉田玄白著・浜 久雄訳
*『 』部分 本書より引用
日本最初のオランダ語の翻訳書は、杉田玄白*1が前野良沢*2らと訳したオランダの医学書「ターヘル・アナトミア」すなわち「解体新書」*3である。翻訳作業は困難を極め、完成までに約4年の歳月を要した。
玄白はなぜオランダ医学書の翻訳を思いたったのだろうか。
玄白は晩年の著書「形影夜話(けいえいやわ)」*4で、当時の心境を語っている。意外なことに、きっかけは荻生徂徠*5の兵学書「鈐録外書(けんろくがいしょ)」*6だった。そこには、本当の戦さというものは、学者が教えるのとは違って、大将が軍事理論に沿って判断し、勝敗はそのときの条件によって決するものだ、と書かれていた。
医療もまた軍事と同じではないか。すなわち、理論を学んだ医師が判断し、治療の成否はそのときの条件によるからである。では学ぶべき理論とは何か。それは当時の最先端であったオランダの医学理論であると玄白は考えた。オランダ医学では、医師を志すものは、まず第一に、身体の構造について学ぶべきである、と唱えていた(玄白らは翻訳に先立ち、実際に人体解剖を行い、原書の解剖図が正しいかどうか確認している)。孫子*7や呉子*8の兵法が戦さの原理であるように、身体の構造についての正確な知識は医学の原理である。原理を知らなければ、戦さでも医療でも、勝利は覚束ない。
もちろん、知識だけで的確な治療を施すことはできない。
名医になるためには、豊富な臨床経験が必要である。医療技術を上達させるためには、貧しくて身分が低かろうと、金持ちで身分が高かろうと、招かれたらでかけて行き、頼まれたら自分の妻や子供が患っているように思って親切に、一人でも多く治療するべきであると玄白は言う。
ところで、病気には治りやすい病気とそうでない病気があるが、難病への対処のしかたで、医者は上等、中等、下等に分けられると玄白は言う。
難病はほかの医者にゆずって、治しやすい病気だけ治療する医者は、下等である。このような医者は生涯、医術の向上は望めない。難病とわかってからも、患者のために苦心しようとしないで、治療法を変えない医者がいる。これは中等である。では上等の医者とはどのような医者のことを言うのだろうか。玄白は言う。
『上等の医者は、なおしにくいことはもとより知っていながら、患者の息がたえ、脈がなくなるまでは、なんとかして、かならず救ってやろうと、心をひそめ、思いをこがし、心力をつくして治療するものである。このようにすれば、百のうち一つぐらいはうまくいき、最終的に患者の命を救うこともあるものだ。死ぬまでは、このように心残りのないように全力を尽くしたいものである。』
とはいえ、力量が未熟であるにも関わらず、むやみに難病患者を引き受けるのは避けなくてはならない。
『医者だからといっても、自分が熟達していないことを、なんでもひきうけて、治療すべきことではない。(中略)自分がよく習熟していないことをやって、患者の治療を多くあやまり、そのうえ識者にわらわれるようなこともあるだろうと思う恥ずかしさのため、このたぐいの病気は、みな辞退して治療をひかえるのだ。これは、わたしが信念としているひとつである。』
今、世界中の科学者や医療関係者が、新型コロナという難敵の正体を突き止めるため、日々研究し続けている。その成果は論文となって、権威ある医学専門誌*9に公表され、世界中で共有されている。玄白らは解体新書の翻訳に4年を要したが、現代ではインターネットを通じて、数時間で最新の研究成果を共有することができる。最先端の医療知識をいち早く取り入れ、実践で活かすことが、可能になったのである。
最新の医療知識と、豊富な臨床経験から得られる経験知の重要性は、300年前に玄白によってすでに指摘されていた。最先端の研究成果に精通し、臨床経験が豊富な「上等」の医師は、我が国にもたくさんいるはずである。それが、今秋、急速に感染者が減少した要因のひとつと考えることはできないだろうか。感染の予防や拡大防止についても、専門家が最先端の知識をいち早く取り入れ、自国の条件にみあった対策を考えて政府に提言すれば、政治家は医療以外の条件をも考慮したうえで、具体的な政策を実施することができる。そうすれば、PCR検査の運用や、感染が拡大しているエリアでの医師や病床の確保など、個々の医師では解決できない問題についても、より合理的かつ効率的に対処できるのではないだろうか。
何れにしても、古い理論しか知らない、臨床経験の乏しい医師や専門家では、新型コロナのような未知の難敵との闘いに勝ち目はない。
『原理を学ぶことを第一とし、これを習得してのちに、治療の方法を理解する』
という玄白のことばを、私たちは、今一度思い起こしてみるときなのかもしれない。
了
*1杉田玄白(すぎたげんぱく) 江戸後期の医学者,蘭学者。名は翼(たすく),号は?、斎(いさい),九幸。若狭小浜藩医。明和8年(1771)前野良沢、中川淳庵と江戸小塚原刑場で刑死体の解剖を観察,蘭書《ターヘル・アナトミア》の正確さに驚き,《解体新書》訳述を遂行,蘭学の基礎を築いた。文才にすぐれ随筆が多く,《蘭学事始》《形影夜話》《野叟(やそう)独語》などの著書がある。子の立卿〔1786-1845〕,孫の成卿〔1817-1859〕も蘭方医として名高く,立卿は特に眼科にすぐれ,成卿は幕府の訳官,蕃書調所の教授として活躍した。(株式会社平凡社百科事典 マイペディアより)
*2前野良沢(まえのりょうたく) 江戸中期の医学者,蘭学者。名は熹(よみす),号は蘭化。豊前中津藩医。初め古医方を学んだが,明和6年(1769)青木昆陽から,翌年長崎に行き通詞からオランダ語を学び,杉田玄白らと協力,《解体新書》訳業の中心となった。弟子に大槻玄沢らがある。著訳書《和蘭訳筌》《字学小成》など多数。(株式会社平凡社百科事典 マイペディアより)
*3解体新書(かいたいしんしょ) 日本最初の西洋解剖学訳述書。安永3年(1774)刊。杉田玄白、前野良沢、中川淳庵、桂川甫周らの協力による。本文4巻と序・図1巻からなり,図は小田野直武の制作。本文はドイツ人クルムスの著書の蘭訳本、いわゆる《ターヘル・アナトミア》を訳したもので,のち大槻玄沢により《重訂解体新書》(文政9年(1826))として大成された。(株式会社平凡社百科事典 マイペディアより
*4形影夜話(けいえいやわ) 影法師との対話という形式で、老境の円熟期にあった杉田玄白の医学観を述べたもの。上下二巻。享和2年(1802)の11月に書かれ、長く弟子の間で筆者されて読み継がれていたが、文化7年(1810)11月に刊行された。「医学の今日的課題を的確にとらえ、つねに科学的合理主義の精神で貫こうとしている」(本書の訳者による解説より)
*5荻生徂徠(おぎゅうそらい) (寛文6年(1666)?享保13年(1728))江戸中期の儒学者。江戸の人。名は双松(なべまつ)。宇(あざな)は茂卿(しげのり)。別号、?園(けんえん)。また、物部氏の出であることから、中国風に物(ぶつ)徂徠と自称。朱子学を経て古文辞学を唱え、門下から太宰春台・服部南郭らが出た。著「弁道」「?園随筆」「政談」「南留別志(なるべし)」など。(小学館 大辞泉より)
*6鈐録外書(けんろくがいしょ) 荻生徂徠が守山藩の家老である岡田宣汎の質問に応じ、所感の形式で兵学を説いたもので、鈐とは錠まえのことで、兵法のポイントを収録した書物である(本書より抜粋)
*7孫子(そんし) 中国,春秋時代に成立した兵書。《呉子》と並称される。1巻13編で,始計,作戦,謀攻,軍形,兵勢,虚実,軍争,九変,行軍,地形,九地,火攻,用間からなる。最も広く読まれた兵法書。著者は斉の孫武または孫【ぴん】(そんぴん)といわれ,兵法をもって呉に仕えたという。(株式会社平凡社百科事典 マイペディアより)
*8呉子(ごし) 中国古代の兵法書。《孫子》と並称される。作者とされる呉起〔?-前381〕は戦国初期に魏に仕えた。現在の通行本は,唐の陸希声の編。1巻。図国,料敵,治兵,論将,応変,励士の6編よりなり,儒教を加えた兵法書として古来広く読まれた。(株式会社平凡社百科事典 マイペディアより)
*9医学専門誌 New England Journal of Medicine (NEJM)、The Lancet、The Journal of the American Medical Association (JAMA)、Nature Medicineなど。
杉田玄白肖像 / 作者石川大浪画
文化9年(1812)正月、80歳を迎えた杉田玄白(1733-1817)の像。「蘭学事始」刊本掲載肖像の原画。
賛は玄白、「荏苒(じんぜん)太平の世に、無事天真を保つ、復是れ烟霞改まり、閑かに八十の春を迎う」と書している。
画家の石川大浪(1765-1817)は名を乗加(のりまさ)といい、旗本、大番組頭を務めた。
狩野派を学んだが、蘭書の挿絵銅版画などから洋風画に親しみ、弟孟高(もうこう)と共に蘭学者の依頼に応えて写生的な解剖図や彼らの肖像画を描き、わが国の洋画史上先駆的な功績を残す。重要文化財。国立国会図書館蔵
書名「世事見聞録」(1994年 岩波文庫)
著者 武陽隠士(本庄栄治郎校訂 奈良本辰也補訂)
『 』 部分 本書より引用
前回に続き、「世事見聞録」について紹介する。後編では、著者の国家再建案について考察する。
著者はどうしたら国家を建て直すことができると考えたのだろうか。
何よりも、国家の根本を頑丈に修復しなければならないと著者は主張する。それは町人や遊民の台頭を阻止し、武士と農民の地位を回復することであった。そのために必要なことは三つ。すなわち、犯罪や不当な商いの大本である度を越えた贅沢や淫欲を断つこと、困窮者を救済すること、そして、故郷を捨てて町人や遊民に転じた者の多くを、再び故郷に返し農民に戻すことである。そうすれば都会の犯罪は減り、荒れてしまった地方は復興し、衰えてしまった民業の利益も増えて、国家の根本は堅固になるに違いない、と著者は考えたのである。
『世上の奢侈・淫欲の筋をことごとく断ちて、利欲犯奪の道を塞ぎ、福有を欠き、貧賤を救ひ、または都会繁花に充満したる町人・遊民、及びそのほか国々に至るまで、すべて遊食する輩を、過半元の土民に復するなり。これ国家を犯し費す利欲の賊を減じて国々荒廃の地を復し、労(つか)れ衰へたる民業を増益し、第一国の本を堅固に復する術なり。』
国民も変わらなければならないと著者はいう。
身分の上下に関係なく、国民は倹約を旨とするべきである。衣食住は、不足すれば病気や短命の原因になるし、過剰になれば、驕りや怠惰、利欲のもととなり、何れも不善な行いに至ること必定である。今の世は不足している者と、過剰な者が多く、ともに不善をなしている。衣食住に過不足がなく平均的であれば、貧富や苦楽の差はなくなり、費用負担も減って、国民は安心して暮らせるようになるだろう、というのだ。
『一体天下国家を治むるは、上下とも衣食住を安くするを本とす。衣食住足らざる時は、あるいは病を生じ、あるいは短命し、あるいは不善をなせり。また衣食住余る時は、あるいは怠り、あるいは奢り、あるいは利欲に募り、かくの如く不善をなせり。足るもあしく足らざるも悪し。今世すでに偏りて、足らざるも多く、余るもの多くありて、いづれともともに不善をなせり。これを平均し、貧福苦楽偏らざる時は、民安く治りて安泰ならん。』
国家の再建には、優れたリーダーの存在が不可欠である。
著者の理想とするリーダーは、才知と徳行を兼ね備えた忠臣であり、艱難辛苦を一身に引き受けて、国家の存亡を左右する難題に立ち向かい、国民の安全を守り、不正と不道徳を退け、贅沢と安逸に遊んで暮らしているものは近づけず、無法者を罰し、無念の死を遂げそうな者を救い、国民の苦しみや悩みを解消してくれるような人物である。
『こひねがはくは才徳兼備の忠臣世に顕はれて、身の艱難を避けず、天徳を履(ふ)みて、天下の艱難、国家の安危、宗社*1の存亡、世の邪曲、みな一身に請けて君に奏し奉り、君*2と民の間に立ち、君命を奉じ、新たに厳令を立て、驕奢・安逸・遊食の徒を避け、国賊無道を征して、万民の困窮及び屈死するを助け、君の仁をことごとく民に及ぼして民の愁ふるところを解き、民、君を悪み給はず、この君をして堯舜*3の君たらしめ、この民をして堯舜の民たらしめ、天地を広大にして日月を清明にし、山川の鬼神を帰服せしめ、四時順気違はず、至治の沢、天下国家に及び、君富み、臣富み、民富むの大業を成就して、上下万世を諷(うた)ひ、羯鼓(諫鼓)苔を生ずる*4世を発すべき人傑を希ふ所なり。』
しかしながら、リーダーを期待された武士たちははなはだしく劣化していた。
武家の生活は華美になり、心身は虚弱で忠誠心も薄く、年長者を敬おうともしない。まるで公家か出家、婦人のように軟弱になり、町人や職人のような性根になり、義理も恥も知らない。勝手気ままに悪行を重ね、中には盗賊のようになってしまう者すらいた。
十人中、本物の武士と呼べるものは、もはや二、三人しかいなかった。その二、三人ですら、元禄や享保の武士に比べたらかなり劣っている。武士たちの多くは、国を治める役目を忘れ、国を乱すことばかりしたがるようになってしまった。
『今は大名の地面広大にする事、制限なし。衣服の飾り美事になり、酒食の費え多くなり、居宅屋敷の大造になるに随って、内証だんだん減少し、殊に心身虚弱になり、忠信も薄くなり、孝悌の道も失ひ、前にもいふ如く、あるいは公家風になり、あるいは出家・婦人の如き人情になり、あるいは町人・職人などの心根になりて、義理も恥辱も知らず。あるいは放逸無慙のもの、あるいは種々悪行を尽くして盗賊に似寄りたるものになりて、たとへば十人の内七、八人までは右体の武士道を失ひて、実正の侍は十人に二、三人ならんか覚束なし。そのニ、三人も元禄・享保の頃の侍に競ぶれば、さぞ劣りたるものならんか。
一体、武士は国家を治むる役目なるが、その役目の事は打ち忘れ果て、かへって天下を乱す事のみ欲するなり。』
江戸時代は封建制度*5の時代である。それは主君が家臣に与える封土(ほうど)を介した、主従関係による支配体制である。封土には、その土地の住民すなわち農民も含まれ、家臣は住民からの年貢(米)を収入としていた。著者の武陽隠士にとって、封建時代の理想は、「徳川幕府の絶対性を念頭に置いての」神国日本であり、「その本領を発揮した時代を二百年以前の神君、即ち徳川家康の時代として考えていた」(「 」内は本書解説より)。
すなわち、徳川家康の治世こそが著者の理想であり、家康の時代に返ることこそが著者の望みだったのである。
しかしながら、本書が執筆されたのは、時代が大きく変わろうとするときであり、誰もが変化の大きなうねりの中にいた。もはや徳川家康の治世に戻ることは不可能であった。国民に倹約を奨励し、町人になった農民を帰郷させ、農民に戻したところで、変化の大きな流れを阻止することはできなかったに違いない。むしろ、なすべきことは、貧富の格差を是正するための税制改革と、不正を厳しく取り締まる司法改革ではなかったか。
時代の転換期には、古い規制が進歩の足かせになってしまうことがありうる。同時に、既存法ではさばけない事例が増え、それにつけこんで不正に利益を得るものも出てくる。
大切なことは、時代の変化に対応した新しい法整備と、厳格に法を執行する為政者の覚悟である。法を犯すものは身分の上下に関わらず、厳しく罰せられなければならない。むしろ身分の高いものほど厳格に罰しなければならないだろう。身分が高ければ高いほど、国民に与える影響は大きいからである。贔屓や賄賂、あるいは忖度(そんたく)によって、法の公正がないがしろにされるとき、国家が衰退に向かうのは避けられない。
その後日本は開国し、二つの世界大戦を経て民主主義国家へと生まれ変わった。高度経済成長期には、国民の所得は順調に増え、一億総中流を実現した。しかし、やがて成長が鈍化しはじめると、限られた成長の果実をどのように分配するかが、政策の大きな課題として再び浮上してきた。トリクルダウン効果*6が期待された新自由主義の経済政策は、望まれた成果を上げることができず、国民の貧富の格差は拡大した。
デジタル化と国際化は加速し、そこに近年の新型コロナによるパンデミックが加わって、今や世の中の仕組み自体が大きく変わろうとしている。封建主義と民主主義との違いはあるが、ともに転換期の時代であるという点で、文化文政時代と現代は似ていなくもない。
求められているリーダー像もほぼ同じである。それは、主権者を君(将軍)から国民に代えて、著者の主張を読み替えてみればわかる。
すなわち、『身の艱難を避けず、天徳を履(ふ)みて、天下の艱難、国家の安危、宗社の存亡、世の邪曲、みな一身に請けて国民に奏し奉り、国民の間に立ち、国民の命を奉じ、新たに厳令を立て、驕奢・安逸・遊食の徒を避け、国賊無道を征して、万民の困窮及び屈死するを助け、仁をことごとく民に及ぼして民の愁ふるところを解』いてくれるようなリーダーである。それは、昔も今も変わらない、日本人の望む、日本人らしいリーダーである。このリーダーは、正しいことをしようとしてかなわず、絶望の果てに自から死を選んだ、本当の忠臣の無念を、きっとくみ取るであろう。また、苦しみながら自宅で病と闘い続けている人々には、いのいちばんに手を差しのべるに違いない。
了
*1宗社 国家のこと
*2 君 徳川将軍のこと
*3堯舜(ぎょうしゅん) 中国古代で徳をもって天下を治めた聖天子堯(陶唐氏)と舜(有虞氏)。転じて、賢明なる天子の称。堯舜のような聖天子。明君。(精選版 日本国語大辞典より)
*4羯鼓(諫鼓)苔を生ずる 君主の善政により諫鼓(かっこ)を鳴らす必要がなくて苔(こけ)が生えるほど、世の中がよく治まっているたとえ。(小学館 デジタル大辞泉より)
*5封建制度 中世社会の基本的な支配形態。封土の給与とその代償としての忠勤奉仕を基礎として成立する、国王・領主・家臣の間の主従関係に基づく統治制度。また、領主が生産者である農民を身分的に支配する社会経済制度。(小学館 デジタル大辞泉より)
*6トリクルダウン(trickle-down)《原義は、したたり落ちるの意》富める者が富めば、貧しい者にも自然に富が浸透する、という考え方。富裕層や大企業を優遇する政策をとって経済活動を活性化させれば、富が低所得者層に向かって流れ落ち、国民全体の利益になる、とする。レーガンのレーガノミクスや鄧小平の先富論などが典型。これに対して、有効な所得再配分政策を講じなければ、富は必ずしも低所得者層に向かって流れず、富裕層に蓄積し、貧富の格差は拡大する、との批判もある。通貨浸透。(小学館 デジタル大辞泉より)
▲世事見聞録. 初編 / 武陽隠士 [著]
出版地不明 : 出版者不明, 文化13年(1816)序
早稲田大学図書館所蔵
書名 「和辻哲郎座談」(2020年 中央公論社)
著者 柳田國男、幸田露伴、高坂正顕、斎藤茂吉、志賀直哉、谷崎潤一郎、寺田寅彦、内田百閒、
竹山道雄、安倍能成、今井登志喜、長谷川如是閑 他
『 』 部分 本書より引用
没後60年を記念して昨年刊行された、和辻哲郎*1の座談集である。その中から、江戸に関わる発言をとりあげてみた。今回はその二回目。
高坂正顕*2の言うように、鎖国の決断は本当に拙速だったのだろうか。すぐに鎖国しないで少し様子を見ていたら、やがて状況が変わって、その後の展開は大きく変わったのだろうか。
状況はそれほど単純ではなかったと竹山道雄*3は言う。当時、徳川幕府はキリスト教に手を焼いており、その影響は深刻だったからである。
徳川時代の社会規範は儒教(道徳)だった。現世を超越する神や宗教から人々を遠ざけ、この世にだけ目を向けるように仕向けたのである。しかし、それが中国や韓国に先駆けて近代化を成し遂げる大きな要因となったと竹山は言う。
『 (竹山)武家は、現世的な実力で天下を取って、それから仏教の叛乱や、切支丹の叛乱で手を焼いて、宗教というものは悪いものであって、人間を気違いにするものだから、宗教を押えつけてしまわなくてはならないというので、キリスト教をすっかり掃滅してしまい、仏教を骨抜きにして、仏教はただキリスト教に対する対抗手段としてのみ意味を認めた。そして宗教の代わりに儒教―つまり道徳を盛んにして、儒教をもって人心を統べるイデオロギーにしたので、そのときから日本人の支配的な層の心は、絶対的な超越的な神様とか宗教とかいうものから離れてしまって、只今この世に向かうようになった。このことが、日本人が近代化を容易にするができた一番の中心になったでしょう。』
徳川時代の武家や庶民は驚くほど合理的であった。しかしながら、宗教を完全に根絶することは不可能なことであった。ひとたび政治や経済が不安定になり、民衆の間に不満や不安が蔓延すると、救済への願いを埋め合わせるために、人々は新たに「絶対性」求めたのである。それは、いわば代用宗教のようなものであった。
『(竹山)しかし人間だからやはり宗教心といったようなもの、宗教的な要求は非常に持っていて、救済への願いとか、現世の不満、不安といったような気持は随分あります。所がそういう宗教的な部分を扱ってくれそうなものには、すぐ絶対性をなすりつけてしまう。つまり代用宗教を見つけるのです。(中略)今の日本人が、何かというとすぐ絶対化してしまうというのは、これは宗教の受持つ部分を、そっちへ肩代わりしているからじゃないかと思います。』
宗教を排したことによって育まれた、江戸人の合理主義的思考は、アジアに先がけて日本の近代化をもたらした。しかし、その一方で、ひとたび政情不安が顕著になると、救済を願う気持ちが、江戸人の心の底に潜んでいた宗教心を呼び覚まし、ぽっかり開いた心の隙間を埋め合わせるために、新たな「絶対性」を見出そうした。
竹山の指摘するような状況は、あらゆる分野で制度疲労が顕在化しつつあった、幕末の江戸の現実だったのではないかと思う。地震や疫病、飢饉などの天災あるいは人的な不正によって、生きるか死ぬかの極限状況に追い込まれたとき、神や宗教に頼らないで、己のみを信じて苦難を乗り越え生き抜く強さを、どれだけの人間が持ち合わせていたのだろうか。
江戸に貨幣経済が浸透すると、世の中がお金中心に回り始め、貧富の格差が拡大していった。勝ち組と負け組が明確に線引きされ、やがて法による社会秩序の維持もおぼつかなくなっていく。困窮者の中には、法を犯して生きていくか、正直を貫いて自滅していくか、究極の選択を迫られる者も少なくなかった。社会不安は増大し、遠隔地では百姓一揆*4、都市部では打毀し(うちこわし)*5が頻発する。革命への潜在的な希求は、否が応にも増していた。抑圧されていた困窮者の宗教的な渇望が、近代化を後押ししていたということは、十分ありそうなことである。
高坂と和辻そして竹山が投げかけた主題は、今も形を変えて生き続けている。
日本では5%の悪人が実権を握ったら、現在においても90%は便乗するのだろうか。また、社会不安が増大したら、私たちはまた、新たな「絶対性」を見出して心の空隙を埋めようとするのだろうか。そして現在の日本はどうなのか。
答えは簡単には出ないし、出してはいけない。それは世界のどこにも存在していない。我々自身で創造しなければならないのである。
了
*1和辻哲郎[1889年~1960年]哲学者・倫理学者・文化史家。兵庫の生まれ。京大・東大教授。倫理学の体系化と文化史研究に貢献した。文化勲章受章。著「ニイチェ研究」「古寺巡礼」「風土」「鎖国」「日本倫理思想史」など(小学館/デジタル大辞泉より)
*2高坂正顕[1900-1969]昭和時代の哲学者。明治33年1月23日生まれ。高坂正尭の父。西田幾多郎にまなび,昭和15年京都帝大教授。戦争擁護の論陣をはり,21年公職追放となる。解除後,関西学院大,京大の教授をへて36年東京学芸大学長。41年,中教審特別委員会主査として「期待される人間像」をまとめた。昭和44年12月9日死去。69歳。鳥取県出身。京都帝大卒。著作に「カント」など(講談社/デジタル版 日本人名大辞典+Plusより)
*3竹山道雄[1903~1984]評論家・ドイツ文学者。大阪の生まれ。小説「ビルマの竪琴」、評論「昭和の精神史」など(小学館/デジタル大辞泉より)
*4百姓一揆 江戸時代、農民が領主・代官の悪政や過重な年貢に対して集団で反抗した運動。暴動・強訴(ごうそ)・越訴(おっそ)・逃散(ちょうさん)・打ち毀(こわ)しなど種々の形をとった(小学館デジタル大辞泉より)
*5打毀し(うちこわし)江戸時代に,おもに都市においてみられた暴動。百姓一揆との違いは,第1に暴動の主体勢力が都市下層民であったこと,第2に原因が米価高騰にあったことである。打毀の対象となったのは,米屋,酒屋,質屋,問屋などの富裕商人たちで,彼らが意識的に米価の吊上げをはかったことから,その影響をいちばんこうむりやすい都市下層民たちにねらわれることとなった。大規模な打毀の例としては享保 18年 (1733) の江戸におけるものがある。これ以後打毀は激しさを増し,天明年間 (81~89) における飢饉に際しては,江戸だけでなく大坂,京都,広島,長崎,石巻など全国に及ぶほどであった。幕末期における打毀は幕府崩壊を早めることになった(ブリタニカ国際大百科事典より)
『幕末江戸市中騒動記』 東京国立博物館蔵/部分
『幕末江戸市中騒動記』 東京国立博物館蔵/部分
慶応2年(1866)江戸でおこった打ちこわしを描いた絵。
米屋を襲い、家屋を破壊、商品を台無しにする場面。
書名 「和辻哲郎座談」(2020年 中央公論社)
著者 柳田國男、幸田露伴、高坂正顕、斎藤茂吉、志賀直哉、谷崎潤一郎、寺田寅彦、内田百閒、
竹山道雄、安倍能成、今井登志喜、長谷川如是閑 他
『 』部分 本書より引用
没後60年を記念して昨年刊行された、和辻哲郎*1の座談集である。そうそうたるメンバーに圧倒される。博識多才の碩学が、幅広い主題について座談を繰り広げるのだからおもしろくならないわけがない。今回は、その中から、江戸に関わる発言を、2回に分けてとりあげてみよう。
まずは鎖国についての和辻と、哲学者の高坂正顕*2とのやりとりに注目してみたい。
和辻は、鎖国時代に育まれた日本の良さには普遍性が乏しかったと言う。そのため今の日本人(座談会当時の1950年)は、日本の良さから離ようとしているのだが、目の肥えた西洋人から、逆に日本の良さを指摘されて、一種のジレンマに陥っていると言う。また、仮に日本人がその良さに目覚めたとしても、それを保存するのに精一杯で、どうして伸ばしてよいのかわからないのだとも言う。
『(和辻)日本の良さはそういう鎖国の時代にできたものが多いので、あまりに特殊で、普遍性が乏しい。だから今の日本人はできるだけそれから離れようとしている。西洋人で眼の見える人だと、こういう良いものがあるじゃないか、といいますが、丁度その「良いもの」を今捨てつつあるのですね。捨てる必要もあるのかも知れないが、一種のジレンマですね。この三百年間に、大事に、育てあげたので、良いには違いないが、将来伸ばして行く道がない。(中略)
藝術だってそうじゃありませんか。お能にしても、歌舞伎芝居にしても、ただ保存するのほかに手がない。』
すぐに鎖国を決断しないで、少し様子を見てから決断していたら、その後の展開はかなり違っていたはずだと高坂は言う。すぐに結論を求めるところに日本人の問題があるのではないか。世界のどこかにすでに結論があり、早くそれを見出そうとするから結論を急いでしまうのではないか。だが、本当は、結論はまだ出ていなくて、世界中の人がそれを求めて模索しているのではないか。日本人は結論がどこかにあると思っているが、それは間違いで、本当は自分たちで創造しなくてはいけないのではないか、と高坂は言う。
しかし、それはたやすいことではないし、時間がかかることである。
『 (高坂)すぐ結論を求めすぎるということです。よく、こう思うんですよ。いろんな人たちと話すと、どうもその人達の話では世界のどっかに、結論なり、解決なりはちゃんとできているのですね。ただ日本だけが一向に結論を知らないし、またそれを実行に移さない。そのために我々は困りきっているのだ、と。(中略)どっかに解決があって、それを我々が知らないから、というのではなくて、新しい解決が創造されなくちゃならない。我々ももっと忍耐強く、われわれ自身で、我々自身の解決を見出してくるべきではないか。』
この考えに和辻も同意する。そして、結論というものはけっして簡単に得られるものではなく、長い間苦難に耐え、それを乗り越えた後に初めて手にすることができるものであることを、西洋人は、旧約聖書を通して学んでいるのだと言う。
『(和辻)そういう仕方をヨーロッパ人に深く教え込んでいるのが、旧約の預言者の文でしてね。(中略)あれは勝利の歴史じゃない。苦難の歴史です。』
しかし、日本においても、徳川家康のような苦労人は、苦難の歴史から学ぶことを知っていたと和辻は言う。ここで和辻が例とするのが、家康が家臣に読むように推奨した、武田氏*3の「甲陽軍鑑」*4である。「甲陽軍鑑」は武田氏が滅亡した後、家康が養っていた武田氏の遺臣が著したもので、高坂弾正という武田氏の老臣が、武田勝頼*5に仕えた二人の武士に、統治の心構えや理想について説いた軍学書である。
『(和辻)日本でも苦労人の家康は『甲陽軍艦』というような潰れた家の記録を流行らせています。(中略)例えば、便乗派は日本では昔から九十%はある、というような記事もあります。九十%は便乗派だが、後は五%が悪人、五%がしっかりした人物なのです。それを見わけるのが上に立っているものの第一の任務だ、というのです。うっかりして五%の悪人に時を得させると、九十%がそっちについちゃう。骨っぽい正義の士が五%いても何にもならない。だから五%の正しい士を見わけて、それに時を得させると、九十%がそっちについて行く。
(高坂)政治の真髄を掴んでますね。流石に。』
日本には昔から、悪人としっかりした人物が五%ずついて、残りの九十%は便乗派である。だから、五%の悪人が実権を握ってしまうと、九十%がそれに便乗して国がおかしくなってしまう。したがって五%のしっかりした立派な人物が実権を握るように、上に立つものは見分けるべきであり、それが一番大切な任務である。幕臣たちにこの教えが浸透していたとしたら、徳川時代が二百六十年間続いたのも不思議ではない。
つづく
*1和辻哲郎[1889年~1960年]哲学者・倫理学者・文化史家。兵庫の生まれ。京大・東大教授。倫理学の体系化と文化史研究に貢献した。文化勲章受章。著「ニイチェ研究」「古寺巡礼」「風土」「鎖国」「日本倫理思想史」など(小学館/デジタル大辞泉より)
*2高坂正顕[1900-1969]昭和時代の哲学者。明治33年1月23日生まれ。高坂正尭の父。西田幾多郎にまなび,昭和15年京都帝大教授。戦争擁護の論陣をはり,21年公職追放となる。解除後,関西学院大,京大の教授をへて36年東京学芸大学長。41年,中教審特別委員会主査として「期待される人間像」をまとめた。昭和44年12月9日死去。69歳。鳥取県出身。京都帝大卒。著作に「カント」など(講談社/デジタル版 日本人名大辞典+Plusより)
*3武田氏 清和源氏。祖は新羅(しんら)三郎義光の子義清で,常陸(ひたち)国武田郷に住し武田氏と称し,のち甲斐(かい)国へ配流(はいる)されたという。鎌倉時代は甲斐の守護。南北朝時代その支流は若狭(わかさ)や安芸(あき)の守護。甲斐の本宗は室町時代振るわず戦国末期に信玄が出て中部地方一帯に版図を拡大。子の勝頼が1582年織田信長に敗れ滅亡(株式会社平凡社/百科事典マイペディアより)。
*4甲陽軍鑑 江戸初期の軍学書。20巻。武田信玄の臣、高坂昌信の著述というが、小幡景憲(おばたかげのり)編纂説が有力。信玄を中心とし、甲州武士の事績・心構え・理想を述べたもの(小学館/デジタル大辞泉より)
*5武田勝頼[1546?82]戦国時代の武将 信玄の第4子。上杉景勝とくみ,織田信長としばしば戦い,長篠の戦い(1575)に大敗。1582年,織田・徳川連合軍に甲斐に侵入され,天目山で自刃し,ここに武田家は滅んだ(旺文社日本史事典 三訂版より)
▲ 『甲陽軍鑑』
35巻〔寛文・延宝年間(1661-81)〕写 35冊 29.0×22.0㎝ 極彩色絵入り写本。
上質の斐紙に金泥や泥絵具で緻密な挿絵が描かれる。『甲陽軍鑑』は武田信玄(1521-73)、勝頼(1546-82)二代のいくさを扱った軍記。軍師山本勘介が登場し、甲州流軍学書として知られる。文中や奥書には高坂弾正(こうさかだんじょう/昌信。?-1578)が記した旨が書かれているが、著者は未詳。写真は巻第17、永禄元年(1558)信州川中嶋で千曲川を中に信玄と上杉謙信が対面する場面。馬上が信玄、床机に腰掛ける人物が謙信。-国立国会図書館デジタルコレクション-
江戸期の講談や歌舞伎をはじめ、明治以後の演劇・小説・映画・テレビドラマ・漫画など武田氏を題材とした創作世界にも取り込まれ、現代に至るまで多大な影響力を持っている。