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三百数十年 世田谷の分水嶺を流れた品川用水

長年、世田谷に清流を流し続けた用水は戦後の市街地の拡大でそのほとんどは残念ながら往時の面影をとどめる水路空間の姿は見られなくなりました。

    その用水に感謝の意を留め、後世に伝える事が私達に課せられた責務だと思います。


寛文二年(1662)細川越中守が戸越、蛇窪両村の屋敷の庭園遊水地として引水(戸越上水)

寛文六年細川家はこの戸越上水を廃止。寛文七年、品川領宿村の人々が幕府に早損御救いのため用水として使用を願いいで許可され、品川用水として歴史がはじまる。

品川用水は、旧北多摩郡堺村水吐(/武蔵野市堺町3丁目)で玉川上水から分水。世田谷の烏山に入り、粕谷、廻沢、船橋、桜、桜丘を西から東に流下。野沢、下馬を通過し目黒区に入り、次いで品川の旧11ヶ村の水田灌漑を主目的に活用された。全長は約7里(28㎞・品川区役所前)に及ぶ。


2021-04-17  品川上水バナーJPG.JPG




品川用水MAP .JPG



「玉川上水・分水路網が持つ価値」

2015年10月6日 聖教新聞掲載 「江戸と武蔵野の発展支える玉川上水・分水路網が持つ価値」
東京に清流を送る玉川上水の恵みを生かしたまちづ<り ・分水路網の持つ価値につい 
て提唱。
 

聖教新聞紙面はこちらへ⇒20151006.pdf


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