寄席の始まり

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寄席の始まり

 天保十三年(1842)年二月、幕府は江戸市中取締りの一環として、当時江戸市中に211ヶ所あった寄席(寄、寄場ともいった)を一挙に15軒に制限することにした。
 その15軒を決めるためには、結局営業の古い順によることとした。同年五月、寺社奉行から老中水野忠邦宛て伺書によると、もっとも古いものは延享四年(1747)にできた4軒(芝神明、市谷八幡、牛込赤城明神、飯田町世継稲荷の各境内)である。ついで翌寛延元年(1748) 三田神宮寺境内に1 軒、宝暦六年(1756) 増上寺境内幸橋稲荷境内に1軒、 安永 (1772~81)から寛政 (1789~1801)にかけて浅草境内に3軒できたとある(これら9軒の寄席は、いずれも天保改革時にあっても許されたものである)
 その後も寄席は増加を続け、寛政四年(1792)に西久保八幡境内に1軒(文政末に消滅)、 寛政年中に浅草寺境内に7軒、湯島天神境内に1軒できたほか、寛政・享和 (1789~1804)のころにできたと思われるものが3軒(愛宕金剛院、 八丁堀稲荷の各境内、牛込神楽坂上穴八幡 旅所)あったと記されている(しかしこれらの場の寺社との交渉だけで奉行所に届けてなかったなどの理由で、天保改革の折、15軒のなかに加えられていない)

 文化(1804~18)に入る以前に、20余ヵ所の寄席が江戸市中の寺社領内に存在していたこと、そのなかでもっとも早い設置時期は延享四年(1747)で、同年中に4軒もできたこと、寛政期にかなりの数が輩出していることなどは注目に値する。

 延享四年に初めて4軒の寄席ができた理由は、同年二月、幕府は江戸市中の各所にあった火除地(穴地)で行っていた床見世やそのほか見世物、物売りのたぐいを防火上の必要から残らず取払いを命じたため、生活の場を追われた業者たちがそれぞれ寺社と交渉し、初めて4軒の寄席が成立したのである。

 幕府は今まで空地で行っていた売薬・講談・子供踊り・物真似・揚弓などをそのまま寺社境内で営むことを認めた。したがってこの年に初めて生まれた寄席のおもな内容は、講談・子供踊り・物真似などであったと思われる。

 物真似の内容は役者身振り物真似・声色や遊女・遊客などの身振り・声色、世間一般を写し 浮世物真似(歌・川開きの花火などの物真似、見世物や大道での売りの口上、からくりの歌曲と説明、回向院の開帳場の説明の文句、蛙などの鳴声等)のたぐいであろう。ここでの子供踊りもやがて歌舞伎芝居(いわゆる宮地芝居)となり、小屋も葭簀張出しから二階や三階に桟敷を設けるほど にまでになったのである。

 天明四年(1784)江戸落語の中興の祖といわれる立川焉馬(えんば)が、柳橋で行われた宝合会の席上で余興として小咄を演じ好評をえた。この席には大田南畝などの狂歌師が多数出席していた。焉馬はこれに力をえて同六年(1786)には向島の料亭で初めての落しの会を開いたところ、100をこえる参加者が集まったという。これ以来、焉馬の咄の会は毎年行われたらしく、とくに寛政四年(1792)以後は、毎年正月「咄初め」を、80歳の生涯を終える文政五年(1822)まで30年にわたって続けた。 なかでも寛政七~九年には、月並会が焉馬の自宅や料亭で開かれていた。「咄の会」とは、参加者がそれぞれ自作の小を発表して楽しむ会であった。ついで寛政三年(1791)大坂から岡本万作が来て、日本橋橘町二丁目の籠屋の2階で夜興行の講席を開き、同十年(1798)には神田豊島町藁店で寄席興行をした。万作の場合は単なる落しの同好者の集まりではなく、入場料を徴収した。寺社境内でなく市中の町屋のなかで行われた寄席は、これが最初であろう。

 焉馬や万作の背景には、町々に数多くの「無名のはなし家」たちがいたと考えられる。宝暦(1751~64)から安永にかけて、落しはすでに庶民の間に行われており、嘘の会所で、あるいは遊里や家庭内で、落咄しが語られて笑い興じ、娯楽の少なかった当時としては、大いに喜ばれていたと思われる。落し話、すなわち落語の話である本の内容は、宝暦以降下層町人が話題の中心となり、以前にはごくわずかしか見られなかった医者・番太(町々の木戸の番人)・遊芸者などが多く取り上げられてくる。咄が庶民の生活に密着した場で創造されていることを物語るものである。

 万作が寄席を始めた同じ年に、櫛屋の職人京屋又三郎は花楽と名のって、2、3の友人とともに下谷柳町稲荷社内で「風流浮世おとし噺」の看板をかかげたが、素人の悲しさでわずか5日での種が尽きてしまった。彼は越ヶ谷・松戸(ここで可楽と改名)と1年余りほど江戸周辺回りをして修業をつみ、2年後ふたたび江戸にもどって焉馬らの協力をえて落語会(咄の会)を開くことができるほどに成長した。やがて可楽は文化の初めごろから、寄席で活躍するようになる。

◎2023-08-14 寄席の絵--春色三題噺(しゅんしょくさんだいばなし)ロ絵から.jpgのサムネイル画像

▲春色三題噺(しゅんしょくさんだいばなし)ロ絵から
中央に高座があり、観客たちが口をあけて笑いながら咄を楽しんでいます。
観客が、隣と話をしながら茶を飲み、くつろいでいる様子がわかります。
落語の最盛期にはどの町内にも寄席があり、近所の人が気軽にやって来ました。
ほぼ一日かかる歌舞伎見物にくらべ、落語ははるかに手軽な楽しみでした。

 庶民のあいだで次第に人気の高まりつつあった落しの会に対し、幕府はあまり好意的ではなかった。焉馬に対しては寛政九年(1797)、北町奉行所より落し咄会の催を禁止し、 料理茶屋へはこのような催しものに貸席しないという誓約書 (証文)を提出させている(「類集撰要」)。 しかし落し咄会の禁止はあまり守られなかったらしく、
文化十二年(1815)九月には「近ご新作の落し咄会の催しが多い」として、各町名主に禁止のむねを繰り返し命じている。

 講談は軍談から発展したため、落語とは格式が違うとして初めは両者は混在することはなかったが、伝統の軍書講釈とならんで世話ものを取り入れるようになったのは、やはり宝暦ごろからのようである。そして落語とともに庶民に迎えられ、やがて同じ寄席で演じられるようになった。寛政ごろ、町屋での寄席は手習師匠の家、水茶屋、または空屋などを借りて催した。

  『手習の 師匠 夜な々三国史』

  『夜講釈 宿の亭主は能書也』

  『邪魔になる 柱の多い夜講釈』

  『師匠様 邪魔な柱が二三本』

 上の川柳によって、町での寄席の場所が手習師匠の家であっただけでなく、 手習師匠のな かには講釈師を兼ねるものがあったことが判明する。 このように落語や講談が盛んとなり、庶民の娯楽のなかに次第に根をおろしていくに伴い、寄席の数は急速に増加していったものと思われる。

 天保十三年、寄席の数を制限することについて寺社奉行の伺書によると、延享より享和までに開設したものは前述したように20余あった。そのうち奉行所に無届のものなどは認可しないこととしたため、10ヵ所だけとなった。しかし広い江戸市中で10ヵ所では少なすぎるため、あと4ないし5ヶ所を許可することとし、文化年間に始めたもののなかから、古い順に5軒ほど選んで合計15軒の寄席を許すことになったとある。
 以上の経過からも知られるように、江戸における寄席の発達は、延享年間、 寺社の境内から 始まり、文化に入るまではわずかに二〇20余りにすぎず、そのいずれる寺社境内にあった。そしていまだ市中の町屋では個々に空家や手習師匠などの家を借りるなどのことは盛んに行われていて、定まった寄席はなかったようである。

 これが文化以降になると寄席の数は次第に増加の度を早めていった。 文化十二年(1815)75軒、文政(1818~~30)末ごろには125軒といわれている。 北町奉行所の天保二年 (1831)の記録によると、当時、市中の寄席数はおよそ100軒あって、そのうち定見世といって、女義太夫の出る寄席は70軒あり、繁盛する見世は昼夜300人ほどの見物があったとある。
 寺社奉行の何書によると、天保十三年当時、市中には211の寄席があり、そのうち寺社境内は22にすぎず、しかもそれらはおもに延享から宝暦にかけて設けられたものとあるから、文化・文政期以降急速に増加した寄席の大部分は町屋のなかに出現したことは明白である。 なお、浅草寺境内には以前26ヶ所もあったが次第に減少し、天保十三年当時わずかに10ヶ所にすぎなくなったということは、寄席が発祥の地である寺社境内から次第に離れ、町屋のなかで成長発展したことをはっきりと示すものであり、庶民の手ではぐくまれたことを物語っている。

参考書籍//著者:南 和男 書名:江戸古地図物語(1975年 毎日新聞社)より

江戸の味-東京の味

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江戸から東京へ

 東京の味を語る前に、江戸三〇〇年の歴史の中にある味を取り上げて見よう。徳川家康は天正一八年(一五九〇)に江戸に入国したが、徳川政権が確立し天下に号令 したのは慶長一二年(一六〇七) 以後である。しかし、徳川家康その人が質素な生活を信条としたので、衣食住はいずれも江戸の当初では、低調のものであり、食べ物に至っては簡素を極めていた。

 たとえば、家康が大浜の長田平左衛門宅に行った時に、 命じて食べたものは飯、大根のまぜ塩、イナダの汁、田作、ナマス、コンニャクの煮物であったと「続兵家茶話」に書いてある。二代将軍秀忠が、大坂夏の陣の時に 諸大名を招いての宴席で、カブラ汁、おろし大根のナマス、干魚の焼物であったと「駿河土産」に出ている。三代将軍家光の時に、毛利甲斐守秀元、丹羽五郎左衛門長重、蜂須賀蓬庵等は、将軍のお咄し衆という役であったが、この人たちは自宅から毎日弁当を持参して萩の間で食べていたが、お互いに、そのおかずを交換するのを楽しみにしていた。ところがある日、毛利甲斐守の弁当に鯉の煮付があったのを皆で食べその味を大いに賞揚したという。この話は「夜談随筆」に出ているが、タカが、鯉の煮付をそんなに大騒ぎするというのを見ても、食生活の程度の低かった事がわかるだろう。

 江戸の衣食住は初期は住宅の壮麗を競い、中期は衣服に重点を置いたが、食の方は遅々として進展せず、ようやく、江戸後期に至って、かなりの進展を見たものの、 明治維新により、後退し、さらに直したものであるが、 明治・大正・昭和と大別して東京の味を眺めるならば、明治は西洋料理と牛なべが代表し、大正は中華料理の躍進、昭和初期は関西調の料理の東京進出、太平洋戦争後は、国際的交流の華やかさが見られる。

 また、もう一つ、東京の味の特色は東京に特産するものの、本米の味は初めから割合に少なく、加工技術によって生まれる味が多かったが、東京の大都市化に伴い、かつて名物と言われた農産物水産物共に著しく少なくなるか、または滅亡してしまったので、現在の東京の味は厳密に言うならば、全国の優秀な材料を集めて巧みに都の味に仕上げる技術が名物だといってもよかろう。

 それにしても、消えて惜しい味は羽田の穴子であり、 品川大森の海苔である。業平橋付近は今では車の洪水で有名な地区であるが、江戸から明治初年にかけては名物のシジミが採れたところだ。谷中のショウガも有名だ。今も料理献立の中に、単に谷中と書けば品種のいいショウガの意であるが、生産地は埼玉県その他に移動してしまっている。

 その他に明治時代まであって今はないものに、佃島の東白魚、深川のバカ貝の刺身、目白早稲田付近のミョウガ、 砂村のカボチャ、駒込のナスなどの名物があるが、今は もう昔の語り草にしか過ぎない。

そば

 今はソバといえば、線状になったものを意味するが、初めっからはそうはいわない。大体、ソバは米のように、殻を取り、粒のまま煮て用いるソバ米と称する用い方が、 古くから行なわれた。また、ほとんど時を同じくしてソバを製粉して水を加えてこね、中に、ミソ、刻みネギなどを入れて団子にしてから、平らにし網の上で焼いて用いる方法が行なわれた。

 次にはソバ掻きの時代となり、ソバ切りとなった。ソバ切りは、初め菓子屋で売り出したといわれているが、間もなくウドン屋で売り出された。ソバ切りの方が売行きがよくなり、ウドン屋転じてソバ屋となり、反対にソバ屋でウドンを売るようになったという発展過程を見ている。また、ソバ玉の売行も盛んであった、徳川三代家光の寛永年間に、浅草金竜山浅草寺の境内に大きな榎の木があったが、その下に毎日屋台店を出してソバの下を売る人がいた。玉が大きくて値段が安いので、正直ソバのニックネームを誰かがつけた。これが、屋号になり、その後、馬道通りに店を持った。この店から遠く田圃をへだてて吉原遊郭の大屋根が見えた。古い川柳は「正直のソバからウソの屋根が見え」と詠んでいる。

 その後、江戸のソバは庶民に親しまれて百余年、今に東京名物になっている。江戸時代から今に至るまで「生そば」の看板には変わりがないが、これは一〇〇パーセントソバ粉を用い、ツナギを用いていない意だが、二割のツナギ混入は、当然のこととされていた。 江戸時代の二ハソバは、二割しかツナギを入れていない意でもあるし、時には二八十六文の事もあった。「吉田町二つすませて三つ食い」の場合は、純然たる十六文という価格である 事が判る。この柳句の解釈は省略する。
 ソバというと、信州ソバにあらざれば、本物でないように思われるが、信州ソバの産額は至って少なく、内地物では北海道が多い。また、近年ソバの需要が多くなったので、中国物その他輸入品がかなり増えている。また、昔の二八の割合が逆になり、ソバ粉が著しく少ないソバも見受けられる。

 明治・大正・昭和の初めまでは、移転した時には近所にソバを配る風習があった。いわゆる引越ソバである。 しかし、近頃は団地生活が多くなり、また、生活様式も変わったので、あまり見受けない。ただ、今でも盛んな のは、大晦日の年越しソバであるが、毎月末に晦日(み そか) ソバを食べる風習はすたれてきた。また、入手不足の影響その他のために、ソバの出前制度は次第に少なくなりつつある。 なお全国各地に、名物ソバは数々あるが、やはりソバは東京を代表する味の一つである。

握りずし

 永い間自然ハッコウにより材料そのものを酸っぱくさせてスシを作っていたが、約四〇〇年前から、人工酢が開発され、スシの世界は一変した。 しかし多少の自然ハッコウの力も加えていたので、人工酢を用いるスシが出来、一夜漬のスシ、早漬のスシなどと言っても、実際にはさほど早くスシは作れなかった。
 また、現在のような、 巻ズシではなく、散らしの形態であった。約一八〇年前からぼつぼつ巻ズシが作られて来たが、飯を握り、その上に生または酢漬の魚介を載せるとか、煮物を載せて作る握りズシは約一五〇年この方のものである。
 二代目華屋与兵衛が、現在の握りズシの創始者といわれているが、スシの材料、すなわちスシ種に用いる魚介類は、かつての東京湾の材料をよしとし、他のものは二流品三流品とされていたのである。たとえば、東京湾、特に、現在の羽田飛行場付近で捕れる穴子は日本一の逸品であった。 また、海老、ハマグリなども、他の地方からのものは旅ものと称して軽視した。また味も確かに劣っていたので ある。さらに、東京名物の握りズシの特色を大いに生かしたのは、浅草ノリであった。

 品川大森の海でとれるノリを最優秀品とした。今でも、ノリを巻いた塩センベイを品川巻といっているのもその一証である。明治大正の時代には、ノリ巻ズシ一人前を台所口に出前持が届け、運搬用に用いていた岡持のフタをあけるとたんに、ノリのにおいが茶の間にまで流れたという位であった。
 その昔、マグロは下級な魚とされていたから、高級な料理には用いなかった。スシにも同様であったが、今から一二〇年ほど前に、地震による潮流の変化で、近海マグロがたくさん捕れ、処分に困り、スシ屋に使用してもらったところ、大へん好評であり、それから以後スシにマグロはなくてはならぬものとなった。
 その他、材料の扱い方の変わったものもある。エビ、イカは大正時代までは絶対に生のままは用いないものであったが、昭和に入ってからは、生きたエビ、または生のイカを、大いに用いるようになった。また、シャコは高級スシには用いないものであったのが、今では堂々と使っているし、近時はウニ、数の子、タクワン、奈良、キュウリなどが、スシ種に取り入れられている。

 スシというと、江戸前という肩書がよく用いられるが、これは近年のことであり、江戸時代の江戸前とはウナギ専門用語であった。詳しくはウナギの項で述べるとしよう。

 スシ種の変化は著しいが、特に目立つのは煮物ズシが減ったことである。大正時代までのスシには、ハマグリを煮て、こってりしたタレで味付けしたものを必ず用いていたが、今は全然と言ってよいくらい見当たらない。 煮物ズシとして、わずかに残っているのは、穴子だけだ。 握りズシを容器に盛付ける時に飾りに用いる笹の葉、臨の葉が少なくなったので、近頃はビニール製のものが用いられている。切りというような包丁の練磨が行なわれなくなったのも時代の推移で、止むを得まい。しかし、スシの人気は一向に衰えない。前途、益々進展するものと見てよかろう。

天ぷら

 天ぷらは江戸生まれの名物であるが、また、東京にってもその価値は益々上がり、かつ国際的に有名になっ 料理である。天ぷらがいつ出来たか、またその名の起こりは何によるかについては諸説紛々たるものがあるが、 ボルトガル語のテンペロから転じたものと考えるならば、足利の末葉に当たるいわゆる戦国時代のものと考えてよかろう。
 しかし、その言葉は一般には江戸の末期まで用いられていなかったと見てよい。というのは元和二年(一 六一六)の正月家康は駿府(現在の静岡)に隠居していたが、たまたま親しくしていた京都在住の茶人茶屋四郎次郎が訪れ、雑談の末に京都で当時流行している料理に魚の付揚なるものがあるというと、家康は、丁度、人から贈られたタイがあるから、さっそくそれを材料にして付揚をやって見ようとした。ところが家康はそれによっ 中毒し、そのまま起たず、病床にあること四カ月近くになりついに死去したという。
 この時には天ぷらという名が出て来ていないが、その翌年の元和三年に、二代将 軍秀忠が朝鮮から来た使節を岐阜の大垣に招き、一夕の宴を張った時の料理献立の中にテンプラリという料理名が見える。それが天ぷらになったという説もある。

 降って文化文政の江戸爛熟期に、作家として有名な山東京伝の実弟岩瀬京山はその著「蜘蛛(くも)の糸巻」と 称する随筆の中で、堂々と天ぷらの始まりと題して、天ぷらの名称は、兄山東京伝の作ったものだ、というのは、 関西からお花利介の二人が、駆落ちして来て、京伝の家に居候していた何日か何十日かの後に、京伝は二人に向かい、商売を始めたらどうだ、看板は書いてあげようといって筆をとると、さらさらと書いたのが天ぷらだ。「こりゃ何のことですか」と訊くと、天竺浪人が江戸にプラプラやって来たから、天プラだ、屋台を出して商売をしたらいいだろう、魚の付揚をやるのだと教えている。
  一 流の作家が、もしすでに天ぷらという言葉が一般に用いられているとしたならば、私が命名してやろうといって、 天プラの名を与えられなかったと思うが、未だ天ぷらという言葉が一般に知られていなかったので、うまい名前をつけたと感じて、岩瀬京山がその起こりを説明したのであろう。

 いろいろの点から見て、天ぷらが盛んになったのは、 江戸の末期からだ、しかし初めの頃の天ぷらは、衣は厚いし煙はもうもうと立ちあがるまことに厄介なものであったが、今の天ぷらは煙は多く出ないし、衣は薄くつけてある。また天ぷらの材料もスシ同様、東京湾の魚介類がよく適する。 ハゼ、穴子、エビ、など全く理想的である。さらにギンボウという小魚に到っては、天ぷら以外どんな料理法をしても味が出ないが、天ぷらにすると真味が出る。

 明治大正の時代に天ぷらは大躍進した。揚方技術の難しいものとして掻揚とツマミがある。掻揚は少なくも五個を揚げて同じ大きさと厚さのものとしなければならないが、これは出来そうで難しいものである。ツマミというのは小海老などを片手で揃えてつまみ、揚ナベに入れ、揚げてから美しい姿でなければならないのだ。

 ところで、明治・大正の天ぷらは、主としてゴマ油を用いていて、モウモウと煙を出すのが当り前であった。 衣はぼってりとした小麦粉の水ときを用いるので、現代の天ぷらの三倍の厚衣をつけていた。今は、普通のサラダ油、又はゴマサラダなど調子の軽い揚油を用いるので、揚りはきれいだし味は淡白である。元来、天ぷらはあまり大きなナベを使わずに、ホンの少しずつを揚げすぐに食べることだ。立食天ぷらとかお座敷天ぷらとかが、繁昌するのは、揚げたての味を珍重するからである。

 天ぷらの材料には車エビが最適である。それも大きいのはよくない、片手に持って、一握半というから、頭と 尾とが出る程度であり、目方にして二五グラムないし三 ○グラム見当のものである。 しかし、もう少し大きいものでないと、顧客にはうけないから、中には相当大きなエビを材料にしている天ぷら屋がある。

 天ぷらには食べる順序がある。 まずエビから始まるのが決りになっているが、エビを一〇尾も食べてからメゴチ、ハゼ、ギンポウ、または穴子など、適当に、材料に変化を持たせて食べれば、かなり多くの量が食べられるが、初めに掻き揚、穴子、イカ、ハゼ、エビという順序を逆にして食べるとふしぎにたくさんは食べられない。

 また、近頃は天ぷらの大量生産の需要もあるし、これに要する揚げ機とも称すべき料理用具が出来ている。も ちろん、少しずつ揚げるのとは味において相違があるが、そんなことは、一部の食についてうるさい人が言うだけであって、栄養本位の給食などの場合には、短時間にたくさん揚げることが必要なのである。

 江戸名物から東京名物となり、さらに世界の天ぷらにまで成長した天ぷらは、万国博覧会を契機として、さら大飛躍を見るであろうが、残念なことに、天ぷら本来の味は昔ながらの東京湾の材料がない限りは望んでも不可能であるかもしれない。 材料は全国各地から集めて行くならば、昔の東京天ぷらに近い味が出るのではあるまいか。それにしても天ぷらの味は今でも東京だと言いたい。

かばやき

 カバ焼といえばウナギのカバ焼を意味すると見ていいが、カバ焼の語は古くからある。もっとも香疾(かばやき)と書き、一種の大根料理であって、カバヤキダイコンといった。この言葉の転用で現在のカバ焼の名称になったというのは当たらないと思う。江戸中期の斎藤彦麿の「傍廂」(かたびさし)という随筆の中で、その頃はウナギを割かず に口からクシを打って棒状にし直火で焼いた。その形が 蒲(がま)の穂に形も色もよく似ているので、カバ焼の名称が出来たというのは一応うなずける。
 しかしウナギを食用にした歴史は古い。万葉集の中に、大伴家持(やかもち)の歌がある。吉田連石麿(よしだのむらじいそまろ)が、やせているのをあざけって「イソマロに我物申す夏ヤセによしというものぞムナギ取りめせ」といっている。これがヒントで土丑の行事になったというが、どんな食べ方をしていたか明らかでない。千年前頃には、京都の人は宇治川のウナギを自然ハッコウさせ、宇治丸と名付けて賞美したというが、今日のカバ焼は江戸の中頃から夜の屋台店で主として取り扱われ、間もなく腰掛の床店で食べさせられたが、上級の料理屋では用いなかった。

 江戸後期ではウナギ料理を売る店の障子などには大かば焼、または、江戸前かば焼あるいは、単に江戸前としか書いてないこともあった。これで当時の人たちは、この店はウナギのカバ焼を食べさせてくれる店だと判ったのである。江戸前とはカバ焼屋の別名だったのである。江戸末期に「皇都午睡」(みやこのひるね)を書いた西沢一鳳は、関西人であるので、一体江戸前とはどの辺を指すのか判らないので、江戸人にただすと、お城の東大川の西という返事であったので、大体現在の築地から鉄砲州にかけての海よりの地区であることが明らかになったと、その中に書いている。

 明治・大正時代は、ウナギは、概して高級料理の一つ として扱われてきたが、東京のウナギのカバ焼は、蒸し方、焼き方に独自の方法があり、料理法としては、完全に近い立派な手法であり、その味は秀逸である。天然産のいわゆる江戸前のウナギは、なくなってしまったが、全国各地の養殖物が入荷され、その消費高は東京が全国 一である。

 ウナギは割(さ)き方がまずよくなければならないし、焼方にも巧拙がある。俗にサキ三年ヒバチ一〇年というのは、焼き方の難しさを物語っている。今では、ウナギ割きの機械もあるし、炭火を用いないでガス電気で焼く道具も 開発されているが、本来の味は、手焼に及ばない。ウナギ丼は約一五〇年前、芝居に資金を貸すのを業とする大 久保今助という人が、楽屋で簡単にウナギメシを食べる方法として工夫したと言われるが、ウナギ丼も江戸から東京に伝承された独特の料理であり、今ではアメリカ人の間でもイール・ライスの名で知られている。

牛なべ・すき焼

 江戸時代の終わりに近く安政年間に井伊大老の英断 開国に踏み切ってから、諸外国の公使館が江戸市中に設立された。品川東禅寺内のイギリス公使館に出入りし雑貨を取り扱っていた中川嘉兵衛は、ある日、これから牛肉を納入するようにといわれた。仕入先は横浜の八十五番館であるのを指示されたものの、乗物が不便な当時、江戸~横浜間を往復するのは大へんな苦労であった。
 そこで、知人堀越藤吉に頼み、その所有地、白金今里村に屠殺場を設けて牛を屠殺したが、一頭をつぶすとその始末に困ったらしい。 堀越藤吉は、生肉で売るよりは肉料理を売った方が遙かに儲かると考え、慶応三年(一八六七)に芝露月町に御養生牛肉中川の名で牛なべ料理店を開業した。その後、堀越藤吉という人は一かどの事業家になっている。
 しかし、当時はスキ焼とは言わなかった。 牛ナベ店は、その後雨後の竹の子式に増えていった。明治一一年に出た牛肉店番付を見ても数百店有名店の名前が出されている。明治を代表する料理としては牛なべと西洋料理であるといってよかろう。

 ところで牛なべは第一次の欧州戦争の半ば頃、すなわ大正七ー八年にその高級店はスキ焼と改名した。江戸時代に鋤鍬(すきくわ)をナベの代用にしたからスキ焼だという説は当たらない。もし、牛肉を煮るのにはスキクワがよいというならば、牛なべの元祖中川がどうしてそれを用いなかったかと言わなければならない。

 スキ焼の語源は、関西料理の魚スキのスキから来たもので、材料を薄く切る意と解したい。どっちにしても大正の中頃から使われ始めたのはスキ焼であるにせよ、牛なベスキ焼を通じると、これまた、江戸から東京につながる名物の一つである。今ではスキ焼にも関東式と関西式がある。割下を予め作っておき、それで肉をまず煮てから野菜を加える。

 なお大正時代までは五分と称し、白ネギを長さ一センチ五ミリ位の長さに輪切りにしたもの四~五個をナベの中に立てて煮るだけで、豆腐、白タキなどは用いなかった。関西式の煮方は空ナベを火に掛け熱し、牛脂を内部に塗り野菜をたくさん入れ、砂糖を少々加え、次に肉という順序にする。その後でショウ油を適宜注いで味を調えるのである。牛肉すき焼も、肉価が著しく高くなった今日では、大衆料理の域を脱した観がな いでもない。
 また、明治の中頃からは、牛どんと称するものが売り出され人気を博した。価格は安くて満腹出来るので便利であった。近頃、それを再現して売っている店もあるが、評判がいいようだ。

とんかつ

 トンカツとはおかしな名前だ。トンという日本語とカツレットという外国語が仲よく結びついて出来上がった新語である。 大正の頃洋食のコック仲間の用語として誰かが作ったトンカツという名前が商品として脚光を浴びたのは昭和八年である。 現在の台東区上野と浅草区役所の近くにトンカツの看板が出た。前者は楽天という店であり、後者は喜多八だ。どちらかというと上野の方が少し早かったようだ。道行く人はトンカツとは何だろうと首を傾(かし)げてその看板を見た。そこで、トンカツとは厚いカツレツであるからで鉈(なた)切ったような切り方をしてあるというのでトンカツの肩書きに鉈切りと付けたが、鉈で切るほど固いのかと誤解する人もあったらしい。
 しかし、トンカツは誰の口にも適するものだから、たちまち上野名物となり浅草名物となり、次には東京名物となったが、たちまち全国的に専門店がたくさん出来、今では全国どこに行ってもトンカツの看板のないところはあるまい。

 また、その応用品にはカツサンドウィッチ、カツ丼などがある。トンカツの特色は、衣に生パン粉を用いることと生のキャベツを刻んでそえること、それにトンカツソ ースと称する特別のこってりしたソースを用いることだ。それとナイフ、フォークに頼らずにハシで食べる様式も独特のものである。

 ところでここに一つのエピソードがある。 初めてトンカツを営業品目とした当時の制度では、営業の届出と許可を警察でやっているので、書式を型のごとく作り、許可願いを持っていったところ、こりゃ西洋料理かと聞か れたので、いや、そうではありませんと答えると、じゃ日本料理かと再問され、日本料理でもありませんといったところ、どっちにも入らないものでは許可出来ないと言われ、それでは西洋料理の仲間に入れて下さいといって、やっと許可してもらったという。そのトンカツは間もなく大阪で大発展したのを見て、東京にもその作り方の流れを酌む店が多くなってきた。
 何にしてもトンカツは、スキ・焼天プラに続いて世界的に有名になりつつある日本独特の料理である。

著者:多田鉄之助 (ただてつのすけ)  書名:東京生活歳時記(1969年 社会思想社)/本書より