2021年9月アーカイブ

書名「世事見聞録」(1994年 岩波文庫)*1
著者 武陽隠士(本庄栄治郎校訂 奈良本辰也補訂)
                                                             『 』 部分 本書より引用
 物事には光もあれば影もある。それは江戸時代も例外ではない。本書には、江戸時代後期、町人文化の絶頂期であった文化文政時代*2の"影"の部分について詳細に描かれている。
「武陽隠士」と名乗る著者は、奈良本氏の解説によれば、「江戸の南の方に居を構えた(中略)きわめて日本人らしい心をもった人物」である。
徳川幕府が開かれて213年、明治維新の52年前の文化13年(1816)に本書は書かれた。
 町人文化が繁栄を謳歌していた当時の江戸において、いったい何が進行していたのか。それは衰退なのか、それとも新しい時代の、言わば陣痛のようなものだったのか。今回から二回にわたって解き明かしてみたい。前編では、町人文化全盛の時代に、なぜ国家が衰退していると著者が考えたのかについて考察する。
 著者によれば、国家が衰退した一番大きな要因は、町人と遊民*3が、武士や農民よりも富と力をもってしまったことにあった。士農工商制度では低い身分の町人や遊民が、武士や農民よりも勢いを得て増長し、衣食住に多額の費用をかけるのは、国家に損害をもたらすというのだ。
『町人・遊民、だんだん増長して今武士と農民の上に越え、安泰を構へたるなり。かくの如く増長したる億万諸町人・諸遊民の衣食住に費ゆるところ、何程の事にやあらん。これ国家を損害するなり。』
 実は、町民や遊民の台頭と、武士や農民の没落とは表裏一体であった。
日本を大木に例えれば、武士や農民は根本であり、町人や遊民は枝葉に過ぎない。枝葉ばかり繁って根本が枯れてしまったら、大木はやがて倒れてしまう。町人と遊民ばかりが栄えて、武士や農民が苦しむような国家は衰退してしまうというのである。
  背後には経済や社会の大きな変化があった。世の中には贅沢と利欲がはびこり、新しい産業が次々に起こっていた。金銀銅鉄などの鉱物資源は国外に流出し、米穀、雑穀などの地産物から魚貝類などの海産物はことごとく市場経済に飲み込まれ、利潤の多くは町人や遊民の手に渡っていた。町人と遊民には、年貢もなければ、役儀や課役*4、法令もなかった。いくらでも利潤を得ることができたのである。
一方、武士や農民は、定められた取り分を超えて利益を得ることはできなかった。市場経済の恩恵にあずかることはできなかったのである。
 『武士と農民は国家の根本にて、その余の業はその末々に付き添ひたる枝葉にて、なくても済むべきものなるが、二百有余年以来の御知世に依つて、奢侈(しゃし)大いに起り、利欲大いに起り、産業大いに起り、交易利潤の道大いに行はるるに随ひ、億万の諸町人・諸遊民出で来て犯奪を競ふが故なり。まづ山より出づる所の大木・大石・金・銀・銅・鉄・錫・鉛を始め、また地より出づる所の米穀・雑穀・諸産物、及びまた海川より出づる所の貝・魚・藻布とも、みな商賈の手に渡り、利潤の道に入り、諸町人・諸遊民の潤沢となれり。武士と百姓は年々その元種を仕出だすに苦しみけるが、末みな右の如く諸町人・諸遊民の得ものとなり、栄花の種となれり。これ枝葉繁茂して根本を枯朽するに至り、国家の本に立ちし武士と農民、年々取り得る所も分限(ぶげん)5ありて少しも分限の外を得ること能はず。殊に役儀あり、法令あり、年賀あり、課役ありて、年々取り得る限りは残らず失費するなり。町人・遊民は制外となりて役儀もなく、法令もなく、年貢もなく、課役もなく、殊に利益何程も得次第にて分限なく、奢侈も心次第、行状も心のままにて済むなり。
 さてその掘り出したる金銀銅を、今世は国家の宝ともせず、交易利潤のために異国へ渡し遣はす事なり。(中略)正徳の頃か、新井筑後守が取調べし記録に、金銀銅を過半異国へ渡し、わづかに十が一ほど日本に残りしといふ。それまでに異国へ渡したる金銀銅の員数、莫大なり。これ人欲の所為にして、だんだん国土の肝胆を失ひ、山川鬼神も怒り給ふか。』
 物価は上昇し生活費の負担も増えていた。武士と農民の人口は減り、代わって町人や遊民の人口が増加していた。町人や遊民の中には、武士や農民を侮り、利欲にまかせて悪逆非道に走るものも出てきた。古来より守られてきた規範はないがしろにされ、法制度も有効に機能しなくなっていた。義理も、しきたりや習わしも、すべてすたれてしまった。不正が横行し、贅沢を競い、悪事を尽くした新事業がつぎつぎと起こっていた。一見華やかで盛況に見えたが、その実、世の中に信義はなくなり、国家は衰退の道を歩んでいた。
『かくの如く利欲の道繁昌するに随ひ、諸品の価高くなり、諸失費多くなりて、武士と農民はいよいよ衰へて人数減り、町人・遊民は人数多くなり、その内に利欲に勝ち、武家を軽しめ、百姓を侮り、栄花に満ち余りたるもの出来、あるいは利欲に迷ひて、悪逆無道を行ひ、上を犯し下を貪る悪徒等あまた出で来、ここにおいて古来の規矩準縄も崩れ、ご法度も立たず、世の義理も風俗も散々(ちりぢり)に乱れゆくなり。(中略)津々浦々・宿々在々まで諸商人・諸職人・遊芸者の遊民、才智才能を尽し、利欲の争ひ、邪曲の犯し合ひ、奢侈の競べ合ひ、悪事の尽し合ひして、工夫の上に工夫を凝らし、おひおひに新規の事ども出で来、繁花になほも賑ひを添へ、花に花を咲かせる世の中のやうに見えて、信義は次第に失せて国家の根本は衰ふるなり。』
 町人の経済的成功の背景には、江戸への一極集中があった。参勤交代制度により、江戸には日本中の大名とその家来が集まっていた。江戸の町人たちは、居ながらにして日本中のどことでも商売することができたのである。それは幕府や大名にとっても便利で都合がよかったため、武家のあらゆる取引を町人がとりしきるようになっていった。やがて、武家に限らず寺社や農民など、世の中の取引のほとんどすべてが町人の手に落ちると、町人たちは莫大な利潤を手にした。町人たちがいなければ、世の中全体が回らなくなっていた。町人は増長し、武士を軽んじ、農民を侮るようになっていった。
御府内*6は日本国中の大小名を始め、末々の軽き侍まで寄り集まり、金銀米銭を費す故、その潤沢にて商売の道繁昌いたす処に、今盛んなること武家に越え、諸事の便利、武威よりも最も通りよく、居ながら国々の欠引きをなし、公儀の御用すら御替金・御上米を始め、諸御用物町人の請け負ひ、また武備に拘はりたる徒士・足軽の受負ひ、旅行の支度、武具・馬具・諸式、残らず町人ならではならぬ世の振合ひ故、いやましに町人の増長する事になれり。すべて武家・寺社・百姓そのほかとも、世の中なべて町人の手に懸かりことごとく利潤を奪はるるなり。依つて世の中の有余は、分厘の塵零までもみな商人が掠め取りて次第に増長する故に、武家・百姓そのほかとも逼迫するなり。右の時勢にて、近来町家の者ども気嵩になり、武士を軽しめ、百姓を侮り、その驕慢、法を越すなり。』
 法制度は厳格さを失い、緩みに緩んでいた。
法は国家の大本であり、厳格に施行されなければならないにも関わらず、贔屓や賄賂、様々な取引や方便によって、骨抜きにされていた。身分の高い者が一つでも法を曲げれば、下層ではあらゆる法が緩んでしまう。同じように、法の執行者(すなわち武士)が、一度でも義理を欠いた軽薄な行いをすれば、社会には千万の悪行がはびこるようになった。
二百年来、御法度の寛(ゆる)やかになりたる事なれば、崩れたることいくばかりぞや。法は天下の大本なり。すでに神君様*7御制法御条目に、「法を以て義理を破るべし、義理を以て法を破るべからず」と仰せ置かれ、天地自然の義理に借りても法は破るべからずと厳重になし置き給ひしを、あるいは贔屓によりあるいは賄賂によりて、種々に差引き方便を加へておひおひに寛め緩め、当今ここに来たるなり。上にて法一つ寛めば、下にて万法緩むとなり、上に非義軽薄の行ひ一つあれば、下にいたって千万の悪行となる。』
 著者は自由経済を否定しているわけではない。適切に運用されるなら、自由経済が国を発展させることを認め、むしろ評価している。問題はその「程度」であり、行き過ぎはよくないと言っているのである。町人や遊民の数が増えすぎて、武士や農民が衰え、山林や田畑、民家が荒れてしまうような自由経済は行き過ぎである。国民の生み出す、米穀、雑穀、諸産物の量には限りがあるのだから、ただ消費するだけの町人や遊民の人口が増えすぎてはいけない。
『もっとも静謐(せいひつ)の御代なれば、諸産業もなくては叶はず、利潤の道もなくては叶はず、奢りの道も人欲を宥(なだ)める道具なれば、これまたなくては叶はず、町人・遊民も国家を補ふ一助にもあるべけれども、しかし当世の如く数多くなりて、国家根本の武士・農民の労(つか)れ衰へ、山林田畑荒れ、民家荒るる程になりては、済みがたきものなり。右の如く、武士の分限は年々極まりあり、国民の作り出す米穀・雑穀・諸産物とも、大概限りある事なれば、これを費す諸町人・諸遊民、すべてむだ食ひの人数も程合ひのあるべきなり。』
 このように町人や遊民のような、ただ消費するだけで何も生み出さない者が、国富(米)を生産する者よりも優遇され、繫栄して、人数も増えてしまった社会は、枝葉が繁って根本が枯れた大木のようなもので、国家を衰退させてしまうというのが著者の主張であった。
ではどうすればいいのか。後編では、国家再建についての、著者の考えを考察する。
                                               つづく
*1世事見聞録(せじけんぶんろく)江戸時代後期における見聞,評論書。7巻。著者は武陽隠士とあるが本名は未詳。文化 13 (1816) 年の自序がある。徳川の治世が次第に本を失い奢侈を増長する方向に流れたことを,当時の武士,農民,寺社人,医業,公事訴訟,町人,遊里売女,歌舞伎芝居,米穀などの産物,山林など,あらゆる職業,風俗,生産などの見聞を通じ,儒教的見地に立って論評している。事実の指摘はあくまで正確で,当時の社会情勢を知る好史料(ブリタニカ国際大百科事典より)
 
*2文化文政時代 江戸後期,文化・文政年間(1804〜30)を中心に寛政の改革後(1793)から天保の改革(1841)に至る時代。大御所時代ともいい,徳川家斉が11代将軍・大御所として君臨した。寛政の改革の遺風は19世紀初めで消滅し,家斉の豪奢と側近の放漫政策が展開。財政難対策には倹約令のほか貨幣改鋳,町人の御用金賦課が行われたが,幕藩財政一般が窮迫し,士風は退廃した。商品経済が農村に深く浸透して貧富の差が増大し,幕藩体制の経済的基盤はすでに崩壊しはじめ,百姓一揆・打ちこわしが頻発した。諸藩はこの時期に専売制を強化して財政難に対処した。一方,対外的にはロシア船・イギリス船の近海出没で海防問題が注目され,幕府の北辺調査,異国船打払令発布となる。また文化面ではこの時期に化政文化が展開した。(旺文社日本史事典 三訂版より)
*3遊民 職につかず遊び暮らしている人。(デジタル大辞泉より)
*4役儀や課役 租税や課税(デジタル大辞泉より)
*5分限(ぶげん) 平安時代末から江戸時代にかけて,その人の社会的身分,地位,財産等を示す語。〈ぶんげん〉ともいう。時代と境遇とにより,何によって示されるかは違うが,鎌倉時代までは所領の広さや家人,郎従の数で示され,室町時代以後は所領の高が中心で,江戸時代の農民は持高,商人は広く財産をもって示される。武士はその分限に従って軍役を勤めることが求められ,分限相応に行動することがよしとされた。そこから分限の語は〈身の程〉とか,〈分際〉とかの意味でも使われた。(世界大百科事典 第2版より)
*6御府内 江戸時代、町奉行の支配に属した江戸の市域。文政元年(1818)、東は亀戸・小名木村辺、西は角筈村・代々木辺、南は上大崎村・南品川町辺、北は上尾久・下板橋村辺の内側と定められた。(デジタル大辞泉より)
*7神君様 徳川家康のこと。

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