2021年1月アーカイブ

 第十二回 「もうひとつの火事の話」

書名「江戸の夕栄」(1977年中公文庫)

著者 鹿島萬兵衛

                                                          『 』 部分 本書より引用

 著者の鹿島萬兵衛は嘉永2年(1849)江戸堀江町四丁目(現在の中央区日本橋小網町一丁目一番地)で生まれた。父萬平は三井組の一員で、後に、王子・滝野川紡績工場を設置し、函館には日本昆布会社を設立した実業家であった。著者も父の創業した日本昆布会社の社長や、東京紡績会社の取締役を務めている。

 明治維新のとき著者は二十歳であり、本書は薄れゆく江戸の面影を後世に伝えるべく書き綴られた貴重な記録である。江戸の風俗から経済事情まで様々な逸話が紹介されているが、その中で今回もう一度火事の話を紹介したい。この連載の三回目で文化人類学者による町火消の優れた考察を紹介したが、今回は生き証人による独白である。

 江戸に火災が多かったというのはよく知られた事実である。

なぜそんなに火災が多かったのか。実はかなり放火があったのだと著者はいう。当時は木造家屋が多く、空気の乾燥した冬季になると燃えやすかったという事情もあった。

  江戸出火の原因は阻喪火も多からんが放火もまた甚だ多し。直接の付け火のほか飛火に仮托(かこ)つけての放火、螽斯(きりぎりす)然たる粗造の家屋板葺屋根の冬季乾燥して火口(ほくち)のごとく、蔀板(しとみいた)も反り返り好焚付(たきつけ)となり常に火災の起こるをまつもののごとし。 1

  なぜ放火が多かったのか。そこには何か特別の事情があったのではないか。著者は二つの間接的な要因を指摘する。ひとつは当時の減刑制度、そしてもうひとつは火災後の復興景気への期待である。

 府の真中に火災を吸ひ寄せる一種の引力建物あり。それは他ならず大伝馬町の牢屋敷これなり。この囚獄中には首のなき重罪犯も少なからず、命の親と頼む親分も居れば無実にして入牢せる愛息居るなり。一朝にして火災近く延焼し来れば、獄中の者全部解放し、三日以内に浅草の新寺町の善慶寺に帰来るものを罪一等を減ぜらるるは、昔よりの規定なれば、この三日中は絶えて久しき我家に帰り来たり、可愛ゆき妻子と寝起きすること、とてもこの世には見ること難きあきらめたる我家に入ることも束の間にても許さるるわけゆゑ、本人は申すまでもなく、妻子眷族(けんぞく)の祈らぬもものなからん。分を助けんと思う子分等の出来得る限りの手段を尽くすなるべし。

 火災になると一時的に囚人は解放され、三日以内に戻れば減刑されたのである。というわけで火事を待ちわびている囚人やその家族、子分は少なくなかった。無実の罪で投獄された者もいた。愛する家族や親分の減刑のために火を放ったというわけである。火災が発生したときの囚人たちの喜びはひときわ大きく、牢屋敷では大歓声があがったという。

  誰が知らするにや、火災の牢獄近くに延焼し来るときは大勢の罪人牢内にて鬨(とき)の声を揚ぐる。その声のすさまじきなり。

 もうひとつの要因は火災後の復興需要増大に対する期待である。

火災後の復興景気で職人たちは大いに潤った。被害が大きければ大きいほど収入も増える。そのため職人たちの消火活動が消極的に見えることさえあったという。2

   第二の引力は、本町、大伝馬町、堀留辺には有名の大商家軒を並べゐるが、一朝この辺が火災になれば出入りの諸職人は三年遊んで喰へるとの譬へあるほどゆゑ、力を尽くして消防するや否や覚束なく思はるるなり。

 町火消が復興需要の増大のために本気で消火活動をしなかったというのは聞き捨てならない話である。それは事実なのか。そもそも町火消の消化能力について著者はどのように見ていたのか。それは、一言で言うなら、「意気盛んだが実力はない」という極めて厳しいものだった。

  元来、江戸の消防夫の意気はすこぶる盛んにして古武士の勇あれども、消防の真の力甚だ乏しきものなりき。消防具のごときはなしと断言する憚らず。蔀(しとみ)をはがし塀を破り火勢の連絡を断つの作業は、ほとんど器械を使用せず。稀に刺又を用いて棟木を倒すぐらゐの用をなすに過ぎず、鳶口は喧嘩の時に使用するのみ、消防用に用ひず。竜吐水は纏持ち(まといもち)に水をそそぐくらゐにて消火には大なる役には立ぬものなり。

 実力不足の原因は、装備の乏しさにあった

不利な条件のもとで個々の町火消はむしろがんばっていたと言ってよさそうである。ほとんど消火の不可能な状況で町火消は人命救助に努め、しばしばこれを成し遂げていた。わが身を顧みない町火消の勇猛果敢な救援活動に江戸市民は拍手喝采したのである。

 『纏持は纏の反面黒こげになるも容易に去らざるを自慢となす。この不完全の水の手消防の不備のうちに、ある特種の場合に四面猛火に包まれ家屋を安全に救助せる例しばしばあり。人を驚嘆せしめしことは毎度なり。

 火災の被害は甚大だった。火災保険のない時代である。中流以下の被災者は無一文から出直さなければならなかった。

今日のごとく火災保険、家具保険等のなき当時にては、三十分前までは大身代の大尽も焼失後は無一物となり、家族打ち集り悲歎に暮るるの例は年ごとに何百人といふを知らす。御府内居住の中流以上の家族が零落せる話を聞くに、十の七八は何々の火事に丸焼やけになって以来かくのごとくの身分に落ちぶれました、と語るもの多かりしは事実なり。

 中流以下の家族の被害が大きかった原因には、借家ではなく無理をしてでも持ち家を望んだ江戸っ子のいわば「見栄っ張り」の気質も影響していた。富裕層は土蔵を作って財産を守ったが、中流以下の江戸っ子の家屋に土蔵はなく、つくりもお粗末であった。

その家屋は割合に粗造のもの多し。その故はとかく江戸っ子は借家住居を恥とし、商人は店の代呂物(しろもの)に入れる資本よりもまづは家を建つるを誉とす。火災保険などのなき時代に一年に二度または三度も類焼すること珍しからぬ上に、それを我慢に借金しても家を建つるゆゑ、きりぎりす籠然たる建物の多きもまた当然なり。それゆえ富豪は多く土蔵となす。

 立ち位置が違えば同じ景色も違って見えるものである。あるいは目の付け所が違うと言ったらいいのか。本書の考察は学者の分析とは一味も二味も違って新鮮で興味深くおもしろい。著者は時代の生き証人であり、資料やデータをもとに歴史を編纂する学者ではない。その立ち位置は武士でも町火消でもない市井の江戸市民である。この連載の3回目で紹介した文化人類学者による町火消についての見事な考察と比較して感じることは、データや資料解読から生み出される歴史描写ではこぼれ落ちてしまう、いわば「時代の息吹」とでもいうべきものは、ことばでしか伝わらないということである。

 歴史の真実によりいっそう近づくためには、資料やデータに基づく分析だけではなく、その時代に生きた人々の生の証言を聞かなければならない。

正しい歴史認識には、データや資料の分析と生き証人の証言の両方が必要なのである。

 今日、事実認定において統計データによるいわゆるエビデンスが重視される。しかしながら、データになりにくいもの(例えば美しさやおいしさなどの主観的感情など)をデータ化する場合には細心の注意が必要であり、その結果には謙虚であるべきだ。歴史に関して言えば、私はむしろその時代に生きた人たちの発した「ことば」の中に時代の真実が隠れているのではないかと思う。

 今という時代の息吹を後の世代に伝えるために、私たちはもっとことばを大切にするべきではないだろうか。もっとことばに注意を払い、ひとりひとりが誠実な発言を心掛けるなら、「時代の息吹」は後世の人びとにいきいきと伝わり、真実の歴史認識に貢献するに違いない。

1   部分 本書より引用

2 町火消だけでは生計が成り立たず、ほとんどの町火消は職人との兼業だった

鎮火安心圖巻-上 .JPG

町火消(三番組の各組)の勢揃い

み組の火消道具の編成が描かれている。









鎮火安心圖巻-中 .JPG

  

町火消二番組、五番組の活躍

屋根に上がった纏いとそれに水をかける龍吐水








鎮火安心圖巻-下.JPG


鎮圧後の町火消八番組(ほ組、か組、た組)と
船に避難した町の人々

国立国会図書館デジタルコレクション  

鎮火安心圖巻」 より





嘉永七年甲寅孟秋、武州豊嶋郡峡田領住人、鬼蔦齋書画」と奥書に記されている。作者は峡田領(現在の三河島、町屋一帯は上野寛永寺の領地だったころ峡田(はけた)領とよばれていた。)の人で嘉永年間(18481854)ごろの様子を描いたもの。


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