第九回「江戸は日本庭園に満ちた都市であった」

書名「大名庭園―江戸の饗宴」(1997年講談社選書メチエ 2020年3月ちくま学芸文庫
著者 白幡洋三郎

 江戸時代末期には271の大名家が存在したという。
大名屋敷には上屋敷、中屋敷、下屋敷があり、大大名になると、それぞれ複数の屋敷を幕府から拝領していた。裕福な大名は自ら屋敷地(抱屋敷)を買い上げることもあったという。これらすべてを合算すると1,000以上もの大名屋敷があったことになる。
 それ以外に幕府直参である旗本の屋敷もあった。旗本も上屋敷、中屋敷、下屋敷を拝領していた。旗本は約5,000人いたので、15,000以上の旗本屋敷があったことになる。
これらの武家屋敷すべてに日本庭園があった。江戸は日本庭園に満ちた都市だったのである。

 ところが明治時代に入ると、ほとんどの大名庭園は消滅してしまう。
何とか生き残り、今も往時の姿を偲ばせている大名庭園は、小石川後楽園、六義園、芝離宮、浜離宮など数えるほどしかない。迎賓館(赤坂離宮)、新宿御苑、東京大学本郷校舎内の三四郎池周辺などは、園内の一部に名残をとどめているにすぎない。
 明治新政府は多くの大名庭園を桑畑や茶畑に転用した。
当時の主要輸出品は生糸とお茶であった。生糸生産に必要な蚕を飼うために桑畑は不可欠であった。茶畑も同様である。畑に転用されなかった庭園は軍事目的や各種産業振興のための官用地としてとして用いられた。

  旧桑名藩士で造園家の 小沢圭次郎(おざわ けいじろう)*1は大名庭園の衰退を憂い、旧大名家所蔵の庭園関係文書や図面を買い取ったり、筆写したりして集めた。それらは当時を知ることのできる重要な史料として現在も残っている。しかしながら実際にはその数十倍の大名庭園が存在した。 

 ところで、日本庭園には禅宗寺院の「石庭風(枯山水)」理想と、桂離宮に代表される回遊式の「王朝風」理想があるという。近代以前には眺めることだけを目指した庭園は存在していなかったのだから、この二つの理想は近代以後の産物であると著者は言う。 
いったいいつから日本庭園を視覚的な芸術作品と捉えるようになったのか。
きっかけは榎本其角の「後楽園拝見記」(1702年)に始まるいわゆる庭園「拝見記」にあった。初期の拝見記は、庭園を芸術作品とみなしておらず純粋な「お庭拝見」であった。
それは当時としては新しい造園観であった。
18世紀の後半になるとこのような「拝見記」がつぎつぎに現れた。
 
この「拝見」の思想が庭園を「回遊する」行為と結びついたときに、現在につながる庭園鑑賞の基本姿勢が生まれた。大名庭園では視覚以外の様々な体験(狩りや釣り)が可能であったが、このお庭拝見の思想の広まりによって、回遊の性格が視覚へとよりいっそう純化し、それはやがて「回遊式」とよばれる様式にまで高められた。
 
しかしながら、先に述べたふたつの理想、すなわち「石庭風」理想と「王朝風」理想に照らしてみるならば、大名庭園は見るものに物足りなさを感じさせた。

  日本庭園史界の重鎮である森蘊(もり おさむ2重森三玲(しげもり みれい)*3緊張感のある石組を中心に表現された禅宗寺院の石庭にくらべれば、江戸の大名庭園の芸術性ははるかに劣り、堕落したと言う。

 著者はこれに異議をとなえる。
大名庭園はただ眺めて楽しむだけの庭園ではなかった。評価するなら大名庭園のより体験的かつ実用的な側面にも目を向けるべきであるという。
 大名庭園の理想は茶事と饗宴を楽しむ「宴遊」にあり、饗宴がない場合にはただ歩きなごむ回遊すなわち「園遊」にあった。
江戸初期の大名庭園は政治的な密談を含む儀礼や社交の重要な舞台装置として機能していた。将軍家の訪問(御成)や諸大名との「儀礼」と「交際」のための場だったのである
 それがやがて藩主の家臣たちへの饗応の場としても利用されるようになっていく。そしてさらに時代を下れば、花見や神社の例祭のときに庶民に庭園を開放する大名も現れるようになった。そこには茶室や能舞台があり、花見や鷹狩や鳥追い、ミカン投げや餅投げ、釣りさえできた(「浜御殿」、現在の「浜離宮」)。


 大名庭園は鑑賞するよりもむしろ体験する場だったのである。


 大名庭園は他の時代には見られない特徴的な空間造形をもつ庭園であり、江戸社会が求める機能を反映していた。視覚体験に限定しないで、庭園がもつすべての機能を日常・非日常の双方から捉えなおした上で庭園を評価するべきである。そうすれば大名庭園の評価は変わるにちがいないと著者は言う。

 本書はもっぱら庭園を作庭する側ではなく、楽しむあるいは利用するものの視点から書かれている。
その一方で大名庭園は視覚的な評価に限定されない「総合芸術」であるとも言う。
 庭園の芸術性とはいったい何を意味しているのか。
芸術作品を創作するには芸術家の存在が欠かせないのは言うまでもない。日本庭園の場合には作庭家がそれにあたるだろう。石組みや剪定の高度な技術も必要である。ところが本書では夢窓疎石(むそう そせき)*4小堀遠州(小堀 政一こぼり まさかず)*5のような優れた作庭家に関する言及がほとんどない。
芸術家にとって創作の目的は普遍的な美の追求であり、その実用的な目的や機能は、創作にあたっての条件あるいは制約にすぎない。

 著者は京都の禅宗寺院に比べて大名庭園の評価が低いと言うが、それはコンクールの審査基準にクレームをつけているように見えなくもない。優れた芸術家であれば禅宗寺院の庭であろうと大名庭園であろうと、課せられた条件の範囲内で立派な日本庭園を造るのではないか。日本庭園が芸術作品たりえるとしたら、それは用途や目的が何であろうと、昔も今も同じように人々の心をゆさぶるのではないだろうか。


 江戸時代にも優秀な作庭家や庭師、植木職人が数多く存在していたと思われる。彼らが芸術性の高い日本庭園を数多く作庭した可能性は大いにある。それは図面を見るだけではわからない。残念なことである。

*1)小沢圭次郎(おざわ けいじろう/1842年 - 1932年)は、日本の造園家、作庭家、教育者、文筆家、元桑名藩士。近代初の造園研究者。酔園と号した。(Wikipediaより抜粋) 「明治庭園記」の自序において「王政復古にはじまる明治天皇の治世を文明開化の喜ばしい世の中と肯定したが、ただひとつ「園囿興造の事業」に関しては「退歩」ばかりであった」と述べた(本書より)。

*2)森蘊(もり おさむ/1905年 - 1988年)は、日本の造園史家。庭園研究家。日本庭園の研究者。古庭園を、文献研究、発掘、測量を用いて研究。復元整備された庭園も多数ある。東京工業大学講師、文化財保護委員会技官、文化庁文化財保護審査会委員などを歴任した。(Wikipediaより抜粋)

*3) 重森三玲(しげもり みれい/1896年 - 1975年)は、昭和期の日本の作庭家・日本庭園史の研究家。出生名は重森計夫。三玲が作庭した庭は、力強い石組みとモダンな苔の地割りで構成される枯山水庭園が特徴的であるとされ、代表作に、東福寺方丈庭園、光明院庭園、瑞峯院庭園、松尾大社庭園などがある。 (Wikipediaより抜粋)

*4夢窓疎石(むそう そせき/1275年 - 1351年)。道号が夢窓、法諱が疎石。、鎌倉時代末から南北朝時代、室町時代初期にかけての臨済宗の禅僧。世界遺産に登録されている京都の西芳寺(苔寺)および天龍寺のほか、瑞泉寺などの庭園の設計でも知られている。(Wikipediaより抜粋)

*5)小堀遠州(小堀 政一こぼり まさかず/1579-1647)。安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名、茶人、建築家、作庭家、書家。2代備中国代官で備中松山城主、のち近江国小室藩初代藩主。官位は従五位下・遠江守。遠州流の祖。道号に大有宗甫、庵号に孤篷庵がある。甫、庵号に孤篷庵がある。「遠州」は武家官位の遠江守の唐名に由来する通称で後年の名乗り。本名は小堀 政一(こぼり まさかず)である。 (Wikipediaより抜粋)

shibaurathumb-240x240-209.jpg
*名所江戸百景「芝うらの風景」を見る ・国立国会図書館デジタルコレクション   https://www.ndl.go.jp/landmarks/details/detail166.html
*名所江戸百景「芝うらの風景」を江戸切絵図から探す 国立国会図書館デジタルコレクション  
https://www.ndl.go.jp/landmarks/edo/shiba-takanawa-atari-no-ezu.html

*歌川広重(うたがわひろしげ 寛政9年(1797)~ 安政5年(1858)9月6日・61歳 『名所江戸百景』(めいしょえどひゃっけい)は、浮世絵師の歌川広重が安政3年(1856年)  2月から同5年(1858年)10月にかけて制作した連作浮世絵名所絵。

hamarikyou-thumb-240x240-217.jpg
現在の浜離宮庭園(はまりきゅうていえん)
東京湾の海水を引く潮入の池と「中島の御茶屋」背景のビル群
*東京都公園協会 浜離宮庭園
https://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index028.html








kourakuen.jpg
後楽園 明治36(1903)
国立国会図書館デジタルコレクション

このブログ記事について

このページは、江戸東京下町文化研究会が2020年5月27日 11:13に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「第八回「イギリスは半ば想像によって作られているような独特の雰囲気を持つ国であった」」です。

次のブログ記事は「第十回「ドイツ人が立案した東京の都市改造プラン」」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。