第六回「江戸時代の芸術家は、武士化した町人と町人化した武士の接合点にあらわれた」

書名「藝術家と社会~加藤周一セレクション4より」(平凡社ライブラリー)
著者 加藤周一(*1)
 今年は加藤周一生誕100周年である。
 加藤周一は江戸芸術をどう見ていたのか。
1965年に発表された「藝術家と社会」で、江戸時代の芸術家と社会との関係について分析しているので紹介したい。
 加藤は徳川時代(*2)を17世紀前半と後半以降に分け、前半は芸術家と社会とは緊張関係にあったと言う。この時期の芸術家は主に宗教(仏教)を媒介として社会とつながっていた。しかし仏教の世俗化が進むにつれてこの緊張関係はゆるみ、やがて芸術家は社会に直接組みこまれていく。
「すべての日本人が名義上の仏教徒になったのは、まさに、仏教が日本人の心を捉え難くなったときであり、もはや文化的な創造力の中心ではなくなったときである」※以下「」内は本書よりの抜粋
仏教は世俗化し、文化の担い手ではなくなっていった(*3)
 変わったのは仏教だけではなかった。17世紀の中葉において、日本社会の構造自体が大きく変化した。加藤はその特徴を4つにまとめている。すなわち第一に「武士の官僚化」、第二に「町人の擡頭(たいとう)」、第三に「土地生産性の高い集約農業と部落」、そして第四に「鎖国」である。
 第一と第二の特徴はたがいにからみあっていた。
その関係は身分の上下関係によって規定される「縦」の関係と、義理と人情に規定された「横」の関係の対立によって説明される。
 社会の基本構造は「縦」の関係、すなわち忠誠を強制する儒教的観念の体系によって支えられていた。身分の上下関係は武士社会のみならず家族や、親方と徒弟、地主と小作人にまで及んでいた(とはいえその厳格さは町人社会ではゆるく、農村ではさらにゆるかった)。
 その一方で「人情の自然」と「世間の義理」によって規定された「横」の関係は、共同体への所属感と直接つながっていた。そしてこの「人情」を代表し、力強く表現したのが町人であった。この「横」の関係が徳川身分社会の「縦」の関係に対立していた。
 町人社会にとって、儒教道徳は武士社会からの借りものであり、仏教はすでに現世をしばる規範ではなくなっていた。共同体の所属感さえ脅かさなければ快楽の追求は妨げられなかったのである。しかもこの唯一の妨げも、共同体それ自体が、快楽を制度化することによって解決した。
 「徳川時代の町人社会は、快楽の制度化において、未曽有の独創性を発揮した。遊里が発達し、劇場が発達した。三味線の音楽、浮世絵版画、人形芝居と歌舞伎、俳諧のほとんどすべては、直接にそこから生まれてきた芸術である」
成功した町人は伝統的な文化を吸収して武士化し、役人となった武士の下層は町人社会から影響を受けて町人化した。江戸時代の芸術家のほとんどは、武士化した町人と町人化した武士がつくる接合点にあらわれたのである。
 「三味線・浮世絵・人形芝居・歌舞伎・俳諧はまったく町人の文化に組み込まれていた。芸術家たちは、そこで、独創的な形式を発明し、その次にその形式を200年間にわたって洗練した。それはすべて徹底して世俗的な芸術であり、また倫理的価値の体系と深い係わり合いのない芸術である。」
 その一方で、変化の波にもまれながらも室町時代からの古典的な芸術は、武士の上層階級の要請に応えることで維持継承された。
「武士層と町人層の接点に位置した芸術家は、また他方では、武士層殊にその上層の要求に応えようとした。そこで新しい芸術の形式はつくられなかったが、古典的な芸術が維持され、再生産されたのである。将軍家および有力な藩主は、能および狂言の劇団を維持することで、室町時代以来の伝統を襲いだ」
 一般に芸術の形式が著しく変わるのは、社会の構造が大きく変わるか、外からの刺激による。徳川時代の社会の構造は、17世紀半ばまでは大きく変化したが、その後は安定した。鎖国によって外からの刺激はすでに制限されていた。17世紀末に、芸術の形式が一通り出そろうと、その後はその形式を変える要因はなかったのである。
 こうして18世紀の江戸芸術の最盛期は、新しい形式をつくりだすことではなく、従来の形式の枠のなかで趣味を洗煉することに専心することができたのである。
 芸術的な形式の変化を免れた江戸芸術に、個人の独立を主張する文学や超越的な価値に奉仕する芸術、あるいは抽象的な構造の秩序によって訴える芸術は生まれなかった。それは情緒的な音色、優美な曲線、極度に洗煉された色彩の配合、自然の材質を最大限に引き出す技巧によってあらわされる芸術であった。
こうして感覚的で享楽的な江戸芸術は、人情の機微と手のこんだ快楽主義の世界のなかで、完璧に磨きあげられていったのである。
 その後日本は開国し、徳川時代の「縦」の秩序は、一時は軍国主義と合流して強化されたが、第二次世界大戦後に崩壊した。しかしながら「横」の構造はいまだ打ち破られていない、というのが本書執筆時(1965年)における加藤の見立てである。
 翻って現在の日本はどうなのか。日本における芸術と社会との関係はどこに向かおうとしているのか。加藤の分析手法はまだまだ使えそうである。
                                          2019年9月19日
*1)加藤周一 1919年東京生まれ。評論家、作家。医学博士(専門は内科学、血液学)。1958年より医業を廃して文筆業に専念。上智大学教授、イェール大学講師、ブラウン大学講師、ベルリン自由大学およびミュンヘン大学客員教授、ブリティッシュコロンビア大学教授、立命館大学国際関係学部客員教授、立命館大学国際平和ミュージアム館長などを歴任。1980年に「日本文学史序説」で第七回大佛次郎賞。「政治と文学」「抵抗の文学」自伝「羊の歌」など著書多数。朝日新聞にコラム「夕陽妄語」を長く連載。2008年没。
*2)徳川時代 加藤は江戸時代ではなく徳川時代と言う。どちらも徳川将軍家が日本を統治していた時代のことで意味は同じである。一般に江戸時代の文化=町人文化とされることが多いので、17世紀前半(すなわち徳川時代初期)は古典芸術や宗教芸術の方が主流であったとする加藤は、混同を避けるために徳川時代としたのかもしれない。
*3)鎌倉時代以来の社会と一線を画した宗教芸術もまた存在していた。
「しかし反社会的な芸術家の鎌倉時代以来の伝統も全く跡絶えたわけではない。南画は、徳川時代の知識人-儒者、僧侶、医者など-が、彼ら自身のためにつくりだした芸術であり、すべての芸術のなかで社会に組みこまれることのもっとも少なかったものである」
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喜多川歌麿「吉原の花」寛政3〜4年(1791〜92)

ワズワース・アセーニアム美術館蔵

喜多川歌麿によって描かれた一連の肉筆画の大作

吉原遊郭の大通り、仲の町に面した引手茶屋と路上を行き来する女性や子供、総計52人もの群像が華やかに描かれている。豪華な衣装が満開に咲き誇る桜の花に映えて、晴れやかに美しい。制作された時期を寛政3〜4年(1791〜92)頃とすると、贅沢を禁止する寛政の改革を諷刺しているとも考えられる。

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一陽斎歌川豊国  [芝居町繁昌之図]

中村座の外観図。揃いの衣裳を身に着けた木戸芸者が客寄せをし、ふく山かつぎ、乗物、馬上の武士、芝居茶屋へ行くとみられる婦人たち等が賑やかに行きかう中村座の芝居前の様子が描かれる。

文化14年(1817 )国立劇場所蔵

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