2019年7月アーカイブ

書名「江戸時代の朝鮮通信使」(講談社)*講談社学術文庫にも所収
著者 李 進煕(リ・ジンヒ)
 江戸時代は、日本と朝鮮国の間が最も平和な時期であった。
鎖国(*1)をしたのはキリスト教国と清国だけであって、朝鮮国については全く鎖国しておらず貿易も盛んだった。
 そもそも徳川家康は「朝鮮とは争うべきでない」という考えであり、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)にも内心では反対であった。
実際、家康は関ケ原の戦いで勝利して間もない1600年9月、対馬藩主の宗義智(そうよしとし)に朝鮮国との和平交渉を命じている。第二代将軍秀忠も、権勢や利益のためではない、信義にもとづいた国交を強調した。大学頭であった林復斎(はやしふくさい)らが編纂した徳川幕府の外交資料「通航一覧」には「日本朝鮮和交の事、古来の道なり。しかるを太閤一乱の後その道絶えぬ。通好はたがいに両国の為なり。まず対馬より内々書をつかわして尋ね試み、合点すべき意あらば、公儀よりの命と申すべし」と記されている(「通航一覧」*2)。
 道のりはけっして平坦ではなかったが、交渉にあたった対馬藩主と東萊(トンネ)府使との地道でねばり強い努力が実を結び、1607年に晴れて日本と朝鮮国の国交は回復した。
いっぽう朝鮮王朝も、対日政策の基本を将軍家との信義を損ねてはならないということにおいた。
国交回復の2年後、1609年には貿易協定も成立する。そして1618年には釜山に日本の海外公館ともいうべき「豆毛浦倭館(トモポワカン)」が完成した。そこでは5~600人の日本人が常駐して外交、貿易の業務に従事した。やがて釜山港には年間50隻をこえる日本の貿易船が出入りするようになる。豆毛浦倭館が手狭になると、1678年には広くて利便性のよい草梁倭館(ソウリョウワカン)へ移り、以後1872年まで日朝外交の拠点として維持された。
 徳川幕府の将軍が交代すると、対馬藩主が朝鮮王朝に大慶参判使(たいけいさんぱんし)をおくってこれを報告し、つづいて脩聘参判使(しゅうへいさんぱんし)をおくって使節の派遣を要請したのが、朝鮮通信使の始まりである(当初の3回は通信使ではなく回答兼刷還使〔かいとうけんさつかんし〕と呼ばれた)。
 朝鮮王朝は要請をうけいれる礼曹参判(れいそうさんぱん)の書翰を幕府に送り、早速三使(正使・副使・従事官)を任命するとともに、使節一行の編成にとりかかった。正使は礼曹参議(外務省局長クラス)級からえらばれ、文化交流にそなえて第一級の文人、医者、画家がこれに加わった。通信使は1607年から1811年の間に12回にわたって派遣され、第4回以降になると470~500人にもなった。一行は7~8カ月をかけて江戸を往復した。
 徳川幕府はもちろん、接遇を命じられた各地の藩主らは、通信使を歓迎し、「将軍一代の盛儀」として盛大にもてなした。それは秀吉の朝鮮侵略によって破綻していた両国の関係を修復し、改めて友好関係にあることを確認しあうまたとない機会となった。
 朝鮮通信使は当時の江戸市民の目にはどのように映ったのだろうか。
江戸市民にとって、朝鮮通信使の来京は異国の風俗・文化に接する貴重な機会となった。
当日になると、着飾った江戸市民が早朝から沿道にかけつけ、一行の到着を待ちうけたという。それは一種のお祭りであった。
 通信使一行の主要人物が肩書入りで描かれていた浮世絵版画が大人気であったという。沿道の市民は、浮世絵を眺めながら実際の行列に登場する人物の肩書を確かめ、それを仲間同士で楽しんだ。肩書入りの浮世絵版画はよく売れたので、通信使の来日ごとに刊行された。喜多川歌麿の「朝鮮人来朝行列図」(1811年)が有名である。
通信使をもてなす舞楽は定まっていなかった。天和2年(1682)までは猿楽だったが、正徳元年(1711)度は新井白石の進言で江戸城中の御白書院で雅楽が催された。
 いっぽう歌舞伎は不興で急遽別の出し物に変更したという。儒教の国ではたとえ舞楽であっても男女の愛情表現はタブーだった。通信使の宿舎は今日の「東本願寺」(地下鉄銀座線の田原町駅近く 通称「浅草本願寺」)で、当時の様子については、同寺のホームページに詳しく記されている(https://www.honganji.or.jp/index.shtml)。
 もちろんよい話ばかりではない。
当時の朝鮮国は、儒教文化や、漢文学の先進国であったため申維翰(シンユハン*3のように日本の学者をみくだすような発言をする通信使もいた。
 司馬遼太郎は申維翰について次のように指摘している。
「申維翰は・・・われわれ後世の者に、すぐれた日本紀行『海遊録』を遺してくれた。まことにみごとな文章だが、日本を見る観察眼が裸眼ではなく、いわば朱子学的であり、さらに科挙の及第者的であることが、小さな瑕瑾(きず)である。~中略~申維翰には申しわけないが、もし日本に科挙の制度があったとしたら、江戸時代の多様さはなかったのである。江戸期は、形だけは朱子学が官学だったが、他の学問が弾圧されるということはなかった。江戸期はキリシタン禁制のほかは、学問思想は、高麗朝や李氏朝鮮にくらべてはるかに自由だった」(『街道を行く』28 朝日新聞社)。
 著者も司馬に同調する。
「朝鮮通信使たちは朱子学のモノサシにてらしてすべてを判断したため、うわべの日本しか把えられなかった。朝鮮と異なる支配体制、ちがった価値観の日本社会の底力に気づかなかったばかりか、日本をみくびる態度さえみられるのである」。
 さらに「単一の価値観しか許されない社会は、どの時代においても人間の創造的活力をうばい、社会の発展をはばむものだが、そうした弊害は李朝後半期にもっとも顕著にあらわれた。産業が衰退し経済が破綻しても、他の良さに目を向けようとしなかった。」と続く。
江戸時代の日本は学問思想が自由であり、そこで育まれた「多様性」が、日本社会に創造的活力をもたらしていた。それが日本の底力となっていた。朝鮮通信使はそのことに気づかなかった。
 やがて徳川幕府が倒され、明治新政府が成立する。
ヨーロッパの新技術を積極的に取り入れていた新政府は、日朝関係を、従来の册封体制*4から条約に基礎づけられた近代的な関係へ変更したいと考えた。
 1868年12月、新政府樹立を告げるために、釜山浦入りした対馬藩の家老・樋口鉄太郎が持参した書契には、明治天皇を皇帝として朝鮮国王の上位におき、「勅」という用語が使われていた。册封体制の維持を望んだ朝鮮国にとって、「皇」とは清国にしかゆるされないことばであり、「勅」とは皇帝の詔勅であって、日本がそれを使うのは、朝鮮国王を「臣隷」することを意味した。
 
 東萊府使の鄭顕徳(チョンヒョントク)がいったんそれを漢陽へ伝達するが、朝鮮国は受理を拒否する。交渉はその後も続くが進展はなく、やがて日本政府は1872年5月、草梁倭館を外務省管轄に移し、同年8月外務省大丞・花房義質が釜山に着任して草梁倭館を大日本公館と改称した。
ここに260年にわたる日本国と朝鮮国との善隣外交の歴史は終止符を打った。
 本書が刊行されたのは今から32年前の1987年である。江戸時代の日朝関係についてはその後も研究や調査が進み、新たな事実が発掘されているにちがいない。21世紀に入り日本、韓国そして北朝鮮を取り巻く国際的な環境も大きく変わった。
変わらないのは江戸時代の日本が朝鮮国と善隣関係を樹立し、260年間にわたりそれが維持されたという事実である。
なぜそのようなことが可能だったのか。江戸時代は他の時代と何が違ったのか。
 私たちが歴史から学ばなければならないことはまだまだ多い。
*1鎖国 日本人の海外往来禁止 (→海外渡航禁止令 ) ,キリスト教禁制,朝鮮 (→朝鮮通信使 ) や琉球との外交関係および中国人,オランダ人との貿易関係を除く他の外国人の日本渡航禁止による孤立状態をさす。寛永 16 年(1639) から嘉永6年 (1853) のマシュー・カルブレース・ペリーの来航まで続いた(ブリタニカ国際大百科事典)。実際に「鎖国」という語が幕閣の間で初めて使われたのは1853年で、本格的に定着していくのは1858年以降とされている。さらに一般に普及していったのは明治時代以降である。したがって、いわゆる「鎖国令」とは後世の研究者による講学上の名称で、実際にそのような名称の禁令が江戸時代に発せられていたわけではない(Wikipedia)。
*2通航一覧 江戸幕府の命により大学頭林復斎らが編纂した永禄9年(1566)から1825年文政8年(1825)頃までの対外関係史料集(350巻)
*3申維翰1681-? 朝鮮王朝の文官。1719年徳川吉宗(よしむね)の将軍職の襲名をいわう朝鮮通信使の製述官(書記官)として来日。対馬藩の雨森芳洲(あめのもり-ほうしゅう)らとまじわり,『海游録』をあらわした。
*4册封体制とは、中国の歴代王朝の君主(元朝、清朝を含む)たちが自任した、称号・任命書・印章などの授受を媒介として、「天子」と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ名目的な君臣関係(宗属関係/「宗主国」と「朝貢国」の関係)を伴う、外交関係を規定する体制の一種(Wikipediaより)。







➀東本願寺の朝鮮通信使説明板



















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朝鮮通信使来朝図 延享5年(1748)頃 羽川藤永筆
















朝鮮人来朝行列記 喜多川歌麿画 文化8 [1811]
国立国会図書館 デジタルコレクション

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