書名「大名庭園―江戸の饗宴」(1997年講談社選書メチエ 20203月ちくま学芸文庫)

著者 白幡洋三郎

 

   江戸時代末期には271の大名家が存在したという。
大名屋敷には上屋敷、中屋敷、下屋敷があり、大大名になると、それぞれ複数の屋敷を幕府から拝領していた。裕福な大名は自ら屋敷地(抱屋敷)を買い上げることもあったという。これらすべてを合算すると1,000以上もの大名屋敷があったことになる。
 
それ以外に幕府直参である旗本の屋敷もあった。旗本も上屋敷、中屋敷、下屋敷を拝領していた。旗本は約5,000人いたので、15,000以上の旗本屋敷があったことになる。
これらの武家屋敷すべてに日本庭園があった。江戸は日本庭園に満ちた都市だったのである。

   ところが明治時代に入ると、ほとんどの大名庭園は消滅してしまう。
何とか生き残り、今も往時の姿を偲ばせている大名庭園は、小石川後楽園、六義園、芝離宮、浜離宮など数えるほどしかない。迎賓館(赤坂離宮)、新宿御苑、東京大学本郷校舎内の三四郎池周辺などは、園内の一部に名残をとどめているにすぎない。
明治新政府は多くの大名庭園を桑畑や茶畑に転用した。
当時の主要輸出品は生糸とお茶であった。生糸生産に必要な蚕を飼うために桑畑は不可欠であった。茶畑も同様である。畑に転用されなかった庭園は軍事目的や各種産業振興のための官用地としてとして用いられた。
 
 旧桑名藩で造園家の小沢圭次郎(おざわ けいじろう1は大名庭園の衰退を憂い、旧大名家所蔵の庭園関係文書や図面を買い取ったり、筆写したりして集めた。それらは当時を知ることのできる重要な史料として現在も残っている。しかしながら実際にはその数十倍の大名庭園が存在した。

ところで、日本庭園には禅宗寺院の「石庭風(枯山水)」理想と、桂離宮に代表される回遊式の「王朝風」理想があるという。近代以前には眺めることだけを目指した庭園は存在していなかったのだから、この二つの理想は近代以後の産物であると著者は言う。 
 いったいいつから日本庭園を視覚的な芸術作品と捉えるようになったのか。
きっかけは榎本其角の「後楽園拝見記」(1702年)に始まるいわゆる庭園「拝見記」にあった。初期の拝見記は、庭園を芸術作品とみなしておらず純粋な「お庭拝見」であった。
 それは当時としては新しい造園観であった。
18世紀の後半になるとこのような「拝見記」がつぎつぎに現れた。
 
この「拝見」の思想が庭園を「回遊する」行為と結びついたときに、現在につながる庭園鑑賞の基本姿勢が生まれた。大名庭園では視覚以外の様々な体験(狩りや釣り)が可能であったが、このお庭拝見の思想の広まりによって、回遊の性格が視覚へとよりいっそう純化し、それはやがて「回遊式」とよばれる様式にまで高められた。
 
しかしながら、先に述べたふたつの理想、すなわち「石庭風」理想と「王朝風」理想に照らしてみるならば、大名庭園は見るものに物足りなさを感じさせた。

   日本庭園史界の重鎮である森蘊(もり おさむ2重森三玲(しげもり みれい3は、緊張感のある石組を中心に表現された禅宗寺院の石庭にくらべれば、江戸の大名庭園の芸術性ははるかに劣り、堕落したと言う。
著者はこれに異議をとなえる。
大名庭園はただ眺めて楽しむだけの庭園ではなかった。評価するなら大名庭園のより体験的かつ実用的な側面にも目を向けるべきであるという。
大名庭園の理想は茶事と饗宴を楽しむ「宴遊」にあり、饗宴がない場合にはただ歩きなごむ回遊すなわち「園遊」にあった。
  
江戸初期の大名庭園は政治的な密談を含む儀礼や社交の重要な舞台装置として機能していた。将軍家の訪問(御成)や諸大名との「儀礼」と「交際」のための場だったのである。
それがやがて藩主の家臣たちへの饗応の場としても利用されるようになっていく。そしてさらに時代を下れば、花見や神社の例祭のときに庶民に庭園を開放する大名も現れるようになった。そこには茶室や能舞台があり、花見や鷹狩や鳥追い、ミカン投げや餅投げ、釣りさえできた(「浜御殿」、現在の「浜離宮」)。
大名庭園は鑑賞するよりもむしろ体験する場だったのである。
大名庭園は他の時代には見られない特徴的な空間造形をもつ庭園であり、江戸社会が求める機能を反映していた。視覚体験に限定しないで、庭園がもつすべての機能を日常・非日常の双方から捉えなおした上で庭園を評価するべきである。そうすれば大名庭園の評価は変わるにちがいないと著者は言う。

   本書はもっぱら庭園を作庭する側ではなく、楽しむあるいは利用するものの視点から書かれている。その一方で大名庭園は視覚的な評価に限定されない「総合芸術」であるとも言う。
庭園の芸術性とはいったい何を意味しているのか。
芸術作品を創作するには芸術家の存在が欠かせないのは言うまでもない。日本庭園の場合には作庭家がそれにあたるだろう。石組みや剪定の高度な技術も必要である。ところが本書では夢窓疎石(むそう そせき*4小堀遠州(小堀 政一こぼり まさかず)*5のような優れた作庭家に関する言及がほとんどない。
芸術家にとって創作の目的は普遍的な美の追求であり、その実用的な目的や機能は、創作にあたっての条件あるいは制約にすぎない。
  
著者は京都の禅宗寺院に比べて大名庭園の評価が低いと言うが、それはコンクールの審査基準にクレームをつけているように見えなくもない。優れた芸術家であれば禅宗寺院の庭であろうと大名庭園であろうと、課せられた条件の範囲内で立派な日本庭園を造るのではないか。日本庭園が芸術作品たりえるとしたら、それは用途や目的が何であろうと、昔も今も同じように人々の心をゆさぶるのではないだろうか。
  
江戸時代にも優秀な作庭家や庭師、植木職人が数多く存在していたと思われる。彼らが芸術性の高い日本庭園を数多く作庭した可能性は大いにある。それは図面を見るだけではわからない。残念なことである。

*1)小沢圭次郎(おざわ けいじろう/1842年 - 1932年)は、日本の造園家、作庭家、教育者、文筆家、元桑名藩士。近代初の造園研究者。酔園と号した。(Wikipediaより抜粋) 「明治庭園記」の自序において「王政復古にはじまる明治天皇の治世を文明開化の喜ばしい世の中と肯定したが、ただひとつ「園囿興造の事業」に関しては「退歩」ばかりであった」と述べた(本書より)。

*2)森蘊(もり おさむ/1905年 - 1988年)は、日本の造園史家。庭園研究家。日本庭園の研究者。古庭園を、文献研究、発掘、測量を用いて研究。復元整備された庭園も多数ある。東京工業大学講師、文化財保護委員会技官、文化庁文化財保護審査会委員などを歴任した。(Wikipediaより抜粋)

*3)重森三玲(しげもり みれい/1896年 - 1975年)は、昭和期の日本の作庭家・日本庭園史の研究家。出生名は重森計夫。三玲が作庭した庭は、力強い石組みとモダンな苔の地割りで構成される枯山水庭園が特徴的であるとされ、代表作に、東福寺方丈庭園、光明院庭園、瑞峯院庭園、松尾大社庭園などがある。 (Wikipediaより抜粋)

*4)夢窓疎石(むそう そせき/1275年 - 1351年)。道号が夢窓、法諱が疎石。、鎌倉時代末から南北朝時代、室町時代初期にかけての臨済宗の禅僧。世界遺産に登録されている京都の西芳寺 (苔寺)および天龍寺のほか、瑞泉寺などの庭園の設計でも知られている。(Wikipediaより抜粋)

*5)小堀遠州(小堀 政一こぼり まさかず/1579-1647)。安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名、茶人、建築家、作庭家、書家。2代備中国代官で備中松山城主、のち近江国小室藩初代藩主。官位は従五位下・遠江守。遠州流の祖。道号に大有宗甫、庵号に孤篷庵がある。甫、庵号に孤篷庵がある。「遠州」は武家官位の遠江守の唐名に由来する通称で後年の名乗り。本名は小堀 政一(こぼり まさかず)である。 (Wikipediaより抜粋)


⑨   名所江戸百景 芝うらの風景  .JPG
歌川広重の名所江戸百景(めいしょえどひゃっけい)「芝うらの風景」(しばうらのふうけい) 現在の浜離宮庭園の沖から品川方向を望んだ図。右図の庭園は「御浜御殿」(現浜離宮)と呼ばれた将軍の別荘があった場所。
 
*名所江戸百景「芝うらの風景」を見る ・国立国会図書館デジタルコレクション   https://www.ndl.go.jp/landmarks/details/detail166.html 

*名所江戸百景「芝うらの風景」を江戸切絵図から探す 国立国会図書館デジタルコレクション  
https://www.ndl.go.jp/landmarks/edo/shiba-takanawa-atari-no-ezu.html 

*歌川広重(うたがわひろしげ 寛政9年(1797)~ 安政5年(1858)9月6日・61歳 『名所江戸百景』(めいしょえどひゃっけい)は、浮世絵師の歌川広重が安政3年(1856年)  2月から同5年(1858年)10月にかけて制作した連作浮世絵名所絵。 


⑨ 浜離宮 IMG_0530.jpg
現在の浜離宮庭園(はまりきゅうていえん)
東京湾の海水を引く潮入の池と「中島の御茶屋」背景のビル群
*東京都公園協会 浜離宮庭園
https://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index028.html








後楽園 明治36(1903) 国立国会図書館デジタルコレクション-S .JPG
後楽園 明治36(1903) 
国立国会図書館デジタルコレクション

書名 「江戸の英吉利熱~ロンドン橋とロンドン時計」(2006年 講談社選書メチエ)
著者 タイモン・スクリーチ

    日本を訪れた最初のイギリス人は、ウィリアム・アダムス*1(三浦按針 みうらあんじん)である。今から40年前の1980年に話題になったアメリカのテレビシリーズ『将軍 SHOGUN』(しょうぐん 原題:Shōgun)を記憶している方もいるだろう。その主役がウィリアム・アダムスで、英国人俳優のリチャード・チェンバレンが演じていた。
ウィリアム・アダムスはイギリス東インド会社本社に日本との貿易を進言する手紙を送っている。東インド会社は進言を受けて、ジョン・セーリス船長の率いるクローブ号を平戸に送った。こうして日本との貿易が始まる。イギリスから日本への輸出品は毛織物と鉛、そして火薬が中心だった。
残念ながらこの貿易はうまくいかなかった。そのためイギリス国家は平戸を引き上げ、状況を整理してから再度日本に進出することを計画する。一時的撤退である。将軍秀忠から御朱印状をもらい、日本で貿易を再開する権利も有していた。1623年、貿易開始から10年目のことである。

    要するに、イギリスが日本を去ったのは貿易がうまくいかなかったからであり(平たく言えばイギリス商品が売れなかった)、それは鎖国が成立する前のことであった。イギリスはスペインやポルトガルのように憎悪と恐怖で追放されたのではなく、自発的に去ったということである。イギリス東インド会社は、日本で売れる商品をそろえてから出直すつもりであり、それを将軍秀忠も認めていた。しかしながら、イギリス東インド会社との貿易が再開されることはなかった。

    その背景には国際情勢の大きな変化があった。
実はグローブ号が平戸を去ってから50年後の1673年、貿易再開を期してイギリスの「リターン号」が長崎に入港していた。イギリス人の一行は長崎で温かく迎え入れられ、当地で貿易再開までさほどかからないであろうと当初伝えられていた。
しかし状況は一変する。
原因は、オランダ人による幕府への進言にあった。
当時イギリスとオランダは戦争状態にあり、オランダ人はイギリスが貿易を再開するのを快く思わなかった。そのため、11年前にイギリスのチャールズ2世がカトリック教徒であったポルトガル国王の妹と結婚していたことを幕府に伝えたのである。
鎖国の最大の理由はキリスト教、特にカトリック教徒の追放にあったことは当時も知られた事実であった。オランダは、イギリスとポルトガルの親密な関係を吹聴することで、幕府のイギリスに対する警戒感をことさら煽ったのである。結局これが主たる原因となって、イギリスの貿易は再開されず、英国との関係は途絶えてしまう。イギリス船が次に来日するのは18世紀末まで待たなければならなかった。

    しかしながらこの間も日英両国のお互いへの興味関心は途絶えることはなかった。
なぜなら貿易を通じてイギリスの質のよい商品や芸術作品が日本に輸入され続けたからである。当時世界を代表する大都市であった江戸とロンドンは類似点も多く、互いに意識しあう間柄でもあった*2。
先端技術を象徴する品物であった時計や公運儀*3、都市の風景や貴族の肖像、さらには惑星などを描いた絵画は大名や有力商人への贈り物として珍重された。
18世紀も半ばになると科学技術の最先端はオランダからイギリスに移っていた。
日本での測量に初めて用いられた八分儀*4もロンドンのヒース社製だった。特に天球の動きを説明するために用いられた公運儀は、教養人の知識欲を刺激した。「オレリー」と呼ばれたこの公運儀は、司馬江漢*5らの模写によって広まり、イギリスと日本を直接結びつけた。
日本人は時計にも熱狂した。1820年代まではロンドンが時計製造の中心であり、「ロンドン時計」と呼ばれていた。それはヨーロッパの先進技術を体言する品物だったのである。
18世紀末まではイギリスからの輸入品が日本に好印象をもたらしていた。

  しかしそれも長くは続かなかった。
18世紀後半になるとイギリス船の来日や目撃情報が次第に増えていく。
1796年から2年間に渡って、ウイリアム・ブロートン船長が指揮するプロビデンス号が日本の沿海を航海して詳細に調査している。イギリスは急速に帝国主義化していた。
日本人のイギリス像は称賛から警戒へと徐々に変化していく。
転機となったのが、1808年に長崎港に入港したイギリスの軍艦「フェートン号」によるいわゆる「フェートン号事件*6」である。
このときイギリスとオランダは戦争状態にあり、フェートン号も長崎港にいるオランダ船を攻撃するために入港してきたのである。フェートン号は周囲を欺くために、オランダの旗をなびかせて長崎港に入港し、調査のために乗船したオランダ人を投獄した上、拡声機で「出島を焼き払うぞ」と大声で叫んで、長崎の住民を恐怖に陥れた。
この事件の責任をとって長崎奉行は切腹、佐賀藩主の鍋島斉直は100日の軟禁刑に処せられた。フェートン号事件以後、日本ではイギリス警戒論の書物が増えていく。

   フェートン号事件は本国イギリスでも問題になっていた。
たった一隻の戦艦の艦長ペリューが使命を過大解釈したあげく幕府を憤慨させたことは明らかに行き過ぎであった。当時オランダの領地はフランスの支配下にあったが、オランダの元首ウィレム4世(1802年没)が海外のオランダ領地の管理をイギリスのジョージ3世に託していたため、法律的にはイギリスのものであった。ただし出島はオランダの植民地ではなく、幕府からの借用地であったため、移ったのは貿易権だけだったという事情もあった*7。
汚名を晴らして幕府との関係を修復するため、1812年、スタフォード・ラッフルズ*8が、純粋に商業目的での来日を計画しはじめる。イギリス国家の目的は、貿易関係を復活させることと、イギリス国家を代表する外交官を駐在させることであった。イギリスをより豊かにし、日本には近代的な恩恵をもたらす国家的な大プロジェクトとなるはずだった。
しかし、この計画も頓挫してしまう。
1813年ナポレオン帝国が崩壊すると、イギリスに亡命していたオランダ国王が帰国し、オランダは再び独立する。イギリスもこれを受け入れたため、イギリスは出島での貿易権を失ったのである*9。
ペリーが浦賀に現れるのはこの40年後のことである。

   江戸時代にイギリスと直接貿易した期間は平戸での10年間のみであった。
しかしながらこの期間にイギリスが日本に与えた影響は大きかったと著者は言う。
平戸の商館を閉鎖した後もイギリスの思い出は人々の心に残り続けた。また、絵画などの輸入品を通じて日本とイギリスとの間接的な関係は途絶えることなく続いていた。
江戸時代は人々の興味や関心がダイナミックに移り変わる時代であった。
イギリスへの関心も、キリスト教への恐れから西洋美術や先端技術に代表される科学へと移り、幕末になると帝国主義と植民地化に対する警戒心に至った。
著者の言うように、イギリスは日本にとって、中途半端な知識と想像によって形作られた独特の雰囲気をもった国だったのだろう。
程度の差はあれ、それは今もそうだし、これからも変わらないであろう。
(脚注)
*1ウィリアム・アダムス(William Adams, 1564年9月24日 - 1620年5月16日(元和6年4月24日))は、江戸時代初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイングランド人航海士・水先案内人・貿易家。日本名は三浦按針(みうらあんじん "按針"の名は、彼の職業である水先案内人の意。姓の"三浦"は領地のある三浦郡にちなむ)の名乗りを与えられ、異国人でありながら日本の武士として生きるという数奇な境遇を得た。(Wikipediaより抜粋)
*2例えば「江戸が日本最大の、ロンドンがヨーロッパ最大の都市であったのは確かである。この都市を直接比較するものも少なくなかった」「ロンドンも江戸も、規模では他の都市の追随を許さぬほどに成長していった。しかしそれは都市の大きさだけではない。ロンドンも江戸もモノが溢れていたのだ。~中略~もちろん貧困もあったが、日本では元禄(1688~1704年)、イギリスではウィリアムとメアリーの統治期(1689~1702年)は溢れる富の時代だったのだ。経済力さえあれば、一世代前には考えられないような商品が手に入ったのである。このようなモノの過剰に伴って都市に生まれたのが流行(ファッション)という概念である。流行はスピードだ。このスピードでは、日本はイギリスの先を行く」(本書より抜粋)
*3公運儀 天文儀ではく天球の動きを説明するものである。したがって専門家が研究に使用するようなものではなく、知的な一般人への説明用の道具なのだ。テーブルや台の上に置かれ、レバーを回すことによって惑星の相対的な動きを説明するというもので、水平に並べられた惑星が、中央に位置する太陽の周りを動くようにできている。英語では「ワールド・マシーン」や「プラネタリウム」と呼ばれることもある(本書より抜粋)。
*4八分儀 天体や物標の高度、水平方向の角度を測るための道具。測量や航海に用いられ、弧が45°(360°の八分の一)であるところからこの名がついた。測定には平面鏡の反射を利用しており、45°の弧に90°までの目盛りが書き込まれている。(Wikipediaより抜粋)
*5司馬江漢(しば こうかん、延享4年(1747年)-文政元年10月21日(1818年11月19日))は、江戸時代の絵師、蘭学者。浮世絵師の鈴木春重(すずき はるしげ)は同一人物。本名は安藤峻。俗称は勝三郎、後に孫太夫。字は君嶽、君岡、司馬氏を称した。また、春波楼、桃言、無言道人、西洋道人と号す(Wikipediaより抜粋)
*6フェートン号事件 文化5 (1808) 年8月 15日イギリス軍艦『フェートン』号が突如長崎港に侵入した事件。オランダ商船を捕獲する目的で,東インド総督ミントーの政策を受けてイギリスの『フェートン』号がオランダ国旗を掲げて長崎に来港,艦長ペリュー大佐は,オランダ商館員を逮捕し,長崎奉行に飲料水と薪,食糧などを供給するよう要求した。奉行は要求をいれて,燃料,食糧を供給することと引替えに,拘束された人員を釈放返還させ,『フェートン』号は退去して事なきを得た。この事件の責任を感じて奉行松平康英は自決。蘭学者で奉行所鉄砲方高島秋帆らは,この事件を通じて開国の必要を上申したがいれられず,江戸幕府は文政8 (25) 年いわゆる異国船打払令を出して鎖国と海防の強化に力を注ぐことになった(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典より)。
 *7 1795年にフランスがオランダに侵攻して以来、オランダの領地はフランスの支配下にあった。オランダの元首ウィレム4世(1802年没)はイギリスに逃れ、海外の領地の管理を血縁のあるイギリスのジョージ3世に託していた。つまり、ジャワなど海外のオランダ領地は、法律の上ではイギリスのものであった。ただし出島はオランダの植民地ではなく、幕府からの借用地であったため、イギリス領であると言い切ることはできなかったのである。イギリスに移ったのは貿易権だけであった。
*8トーマス・スタンフォード・ビングレイ・ラッフルズ(Sir Thomas Stamford Bingley
Raffles、1781年7月6日 - 1826年7月5日)はイギリスの植民地行政官[1]、シンガポールの創設者である(Wikipediaより抜粋)。
*9 1813年にナポレオン帝国が崩壊すると、イギリスに亡命していたオラニエ=ナッサウ家の一族が帰国し、ウィレム1世が即位して南ネーデルラント(ベルギー、ルクセンブルク)を含むネーデルラント連合王国を樹立した。これが現在まで続くネーデルラント王国(オランダ王国)の始まりである(Wikipediaより抜粋)







書名「江戸=東京の下町から 生きられた記憶への旅」(岩波書店)
著者 川田順造

  著者の川田順造は東京の下町・江東区の高橋で生まれ育ち、パリ大学でレヴィ・ストロース(*1)に師事した文化人類学者である。
  実家が江戸時代から続く商人である著者は、幼少の思い出の中にある江戸の町人文化の面影を手がかりにして、江戸=東京下町の文化を見直し、そこに明治維新で分断されなかった、ひとつの連続した「市民社会」のモデルを見いだそうと試みている。そのアプローチは多岐にわたり、「深川女」「都鳥」「梅若伝説」「芭蕉」「川と橋」「恩師レヴィ・ストロースの日本観」など、興味深くておもしろい話の連続で、全てを紹介したい誘惑にかられてしまう。
   ここでは特に印象深かった「町火消」にまつわる話題にしぼって紹介したい。

    ご存じのように江戸は火事の多い都市だった。
    三度の大火(*2)以外にも、毎年のように火事に見舞われ、長屋の密集した下町では、焼かれては建て直すことを数年ごとに繰り返していた。中でも明暦の大火(1657年 *3)では、江戸城は天守閣ごと焼け落ち、ほとんどの大名屋敷は倒壊したという。
    この大火の翌年に幕府は、従来からの「大名火消」(6万石以上の大名16家が、1万石につき30名の人足を出した火消)に加えて、旗本による「定火消(じょうびけし)」の制度を設けた。さらに、江戸城や重要な社寺、橋、蔵などの消防を大名に分担させたり(所々火消)、出火後の飛び火を防ぐ「方角火消」、大名が近隣の消火のために出勤する「各自火消」など、消防組織を強化した。余談だが、浮世絵師になる前の安藤(歌川)広重は、八重洲町(現在の八重洲)の旗本定火消同心だったという。
    しかしながらこれらすべての消防組織を動員しても頻発する火事にはとうてい対処できなかった。そこで享保年間に、町奉行大岡忠相(*4)によって、町方の店火消(たなびけし)、すなわち、いろは48組に本所・深川16組を加えた町火消64組が組織された。
これらの町火消は、土木工事人足である鳶(とび)の者を中心に、大工、左官などの職人によって組織された。火事場では職人も武士と対等であり、威勢のよさや、梯子や鳶口(*5)を使う仕事の馴れで、町火消が大名火消や定火消をしのぐ活躍をすることが多かったという。
    当時の消火方法は、隣接する家を壊して類燃をくいとめる、いわゆる"破壊消防"であった。木製の手押しポンプの龍吐水(りゅうどすい)(*6)はあったが、消火能力も貧弱であまり普及しなかったらしい。消火活動は命がけで、とりわけ屋根上で燃えさかる炎に勇敢に立ち向かう纏持ち(まといもち)は、江戸町民にとってヒーローであった。

   纏持ちは、市川団十郎(*7)、魚河岸の若い衆とともに、「江戸の三男」ともてはやされた。江戸っ子の代名詞である「いなせ」、「いきおい」、「いさみ」の体現者として、町火消しは憧れの的であった。
   荒くれ男の集団であった町火消衆の間では、功名争いによる喧嘩も絶えなかった。 当時、消火に成功した火消組は、鎮火したあとに所属する組の名前が書かれた「消し札」を立てた。消火活動は共同で行ったので、どこの組がこの消し札を立てるかという、いわゆる「消し口争い」で町火消同士の喧嘩が絶えなかったのである。喧嘩の相手は同じ町火消とは限らず、大名火消や相撲取り(*8)との喧嘩もあり、死傷者が出ることもあった。
    ただし、江戸町民は町火消の喧嘩を楽しんだ。町火消の喧嘩は、黄表紙や講釈、あるいは芝居にも取り入れられて人気を呼んだという。
   「火事と喧嘩は江戸の華」といわれるが、その火事と喧嘩の両方にかかわっていたのが町火消であった。町火消たちの威勢の良さや武士を圧倒する活躍に、江戸町人たちは拍手喝采したのである。
   しかしながら、(著者が言うように)"消防夫"に人気役者が扮して何代にもわたって当たりをとるなどというのは、やはり異常なことに違いない。その異常が当たり前のように成立するところに江戸町人世界の不思議さと面白さがあると著者は言う。

   町火消が歴史の変動期で果たした役割を、彰義隊(*9)による上野の戦いに見ることができる。
   このとき町火消は、彰義隊の側について上野に籠もり、寛永寺(*10)や輪王寺宮(*11)を守ったという。
   とくに新門辰五郎(*12)を頭とする10番の「を」組は、上野に籠もって纏を立て、寛永寺に謹慎中の慶喜を警護した。辰五郎自身は、上野の戦いの前に慶喜に同行して江戸を離れたが、「を」組の子分たちは、彰義隊と共に上野に籠もった。戦後、明治新政府は町火消制度を、江戸奉行所に代わる警視庁管轄下の市部消防組として存続させたが、「を」組は廃止させられたという。
    彰義隊に同情したのは町火消だけではなかった。
266体の彰義隊戦死者の遺骸が雨の中(梅雨の時期だった)に放置され、腐るに任されているのを見兼ねた下谷・円通寺(*13)の23世・佛磨大和尚は、斬首覚悟で遺体を回収し供養した。また、上野には西郷隆盛像の背後に二つの墓石からなる彰義隊の墓が密かに作られた。小さい方の墓石は、明治2年(1869年)、大きい墓石は明治14年(1881年)に造立されている。そこには明治政府にはばかって彰義隊の文字はなく、山岡鉄舟(*14)による「戦死之墓」とだけ刻まれている。
   
   江戸町民は火事場で武士を圧倒する町火消に拍手喝采した。その一方、上野の戦いでは彰義隊とともに江戸と徳川家の菩提寺寛永寺を守った町火消を支持し、自らも落ちのびた彰義隊員をかくまうなどして助けた。この心情の違いはいったいどこから来るのか。上野の戦いでは、侍と町人の対立を越えて、将軍慶喜をも含めた江戸への愛着が勝ったとみるべきなのであろうか。しかしながら、このとき、江戸町民の行動は決して組織的ではなく計画性もなかった。心情的な共感はあったが積極的に組織的行動を起こすことはなかったのである。
    
   江戸町人は、生きる権利を守るために、消極的だがしぶとかったと著者は言う。その「消極的でもしぶとく生き抜く覚悟」は、徳川治世下の江戸生活においても、維新の動乱期にも、軍国主義下でも、そして現代においても変わっていないのではないか、それはひとつの価値として認めてよいのではないか。著者は言う。

「どちらから見ても雄偉ではないもの、偉大ではないが、しぶとく消極的であることがもつ価値を、歴史研究、人文研究においても、認めるべきではないだろうか。」

    はっきりと意思を表明し、計画的かつ組織的に行動して目的を達成するのではなく、心情的に共感して消極的な支援はするが組織的な行動には出ない、ただし、しぶとく生き抜く覚悟はある。面々と受け継がれてきたこの江戸町人の特徴は、戦争や災害を生き抜いてきた江戸=東京下町人が見いだしたひとつの価値であり、同時に生きていく知恵であった。

   江戸=東京下町人はこの価値をこれからも守り、継承していくに違いない。

*1クロード・レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss、1908年11月28日 - 2009年10月30日)は、フランスの社会人類学者、民族学者。ベルギーのブリュッセルで生まれ、フランスのパリで育った。アカデミー・フランセーズ会員。専門分野である人類学、神話学における評価もさることながら、一般的な意味における構造主義の祖とされ、現代思想としての構造主義を担った中心人物のひとり。代表作に「悲しき熱帯」(中央公論新社、のち中公クラシックス、1955年)、「野生の思考」(みすず書房、1962年)など。
*2 明暦の大火(明暦3年)、明和の大火(明和9年)、文化の大火(文化3年)
*3振袖火事とも言う。死者は最大で10万7000人と推計される。山の手3箇所から出火し、両日とも北西風により延焼。江戸の大半が被災し江戸城天守も焼失した。江戸時代最大の被害を出した大火であり、江戸の都市計画や消防制度に大きな影響を与えた。(Wikipedia)
*4大岡忠相(1677~1751)。江戸時代中期の江戸町奉行として有名。山田奉行時代,紀伊領と関係のあった問題を紀州藩に気がねせずに解決して,徳川吉宗に認められ,後年,吉宗が将軍に就任したとき江戸町奉行に抜擢されたといわれる。忠相は江戸南町奉行の職にあって越前守と称せられ,その事績と活躍ぶりは「大岡政談」となって世に親しまれている。(ブリタニカ国際百科事典より抜粋)
*5鳶口(とびぐち)とはトビの嘴(くちばし)のような形状の鉄製の穂先を長い柄の先に取り付けた道具。丸太や原木など木材の移動・運搬・積み上げや、木造の建築物の解体や移動(曳き屋)に使用される。古くは鳶職を中心に組織された町火消の消防作業に使われた。このため鳶職という名が冠されたともいわれる。(Wikipedia)
*6消火に用いる手押しポンプ。水のはいった大きな箱の上に押し上げポンプを取りつけ、横木を動かして中の水をふき出させる装置のもの。(精選版日本国語大辞典)
*7市川 團十郞(いちかわ だんじゅうろう、新字体:団十郎)は歌舞伎役者の名跡。屋号は成田屋。市川團十郎家は歌舞伎の市川流の家元であり、歌舞伎の市川一門の宗家でもある。その長い歴史と数々の事績から、市川團十郎は歌舞伎役者の名跡のなかでも最も権威のある名とみなされている。(Wikipediaより抜粋)
*8文化二年二月(1805年3月)に起きた町火消し「め組」の鳶職と江戸相撲の力士たちの乱闘事件。講談や芝居の題材にされた。(Wikipediaより抜粋)
*9 幕末期の1868年(慶応4年)、江戸幕府の征夷大将軍であった徳川慶喜の警護などを目的として渋沢成一郎や天野八郎らによって結成された部隊。江戸幕府より江戸市中取締の任を受け江戸の治安維持を行ったが、戊辰戦争の一環である上野戦争で明治新政府軍に敗れて解散した。(Wikipediaより抜粋)
*10東京都台東区上野桜木一丁目にある天台宗関東総本山の寺院。山号は東叡山(とうえいざん)。東叡山寛永寺円頓院と号する。開基(創立者)は徳川家光、開山(初代住職)は天海、本尊は薬師如来である。徳川将軍家の祈祷所・菩提寺であり、徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠る。17世紀半ばからは皇族が歴代住職を務め、日光山、比叡山をも管轄する天台宗の本山として近世には強大な権勢を誇ったが、慶応4年(1868年)の上野戦争で主要伽藍を焼失した。(Wikipediaより抜粋)
*11北白川宮能久親王(きたしらかわのみや よしひさ しんのう、1847年4月1日〈弘化4年2月16日 〉- 1895年〈明治28年〉10月28日)は、日本の皇族。陸軍軍人。幼名は満宮(みつのみや)。最後の輪王寺宮(りんのうじのみや)として知られる。孝明天皇の義弟、明治天皇の義理の叔父に当たる。
彰義隊が寛永寺に立て篭もった後の5月4日には熾仁親王が江戸城に招いているが、この使いには病であると称して会わなかった。5月15日に上野戦争が発生したが、彰義隊の敗北により寛永寺を脱出、25日に羽田沖に停泊していた榎本武揚率いる幕府海軍の手引きで長鯨丸へ乗り込み東北に逃避、平潟に到着した。東北では輪王寺宮執当覚王院義観ら側近とともに会津、米沢を経て仙台藩に身を寄せ、7月12日に白石城へ入り奥羽越列藩同盟の盟主に擁立された。(Wikipediaより抜粋)
*12新門辰五郎の義父町田仁右衛門は、輪王寺宮の衛士で浅草十番組の頭領だったが、かつて輪王寺が浅草寺の別院伝法院に隠棲した時、新設した通用門を辰五郎が守ったため、「新門辰五郎」と呼ばれるようになった。辰五郎の娘お芳は、慶喜の愛妾だった(本書より抜粋)
*13坂上田村麻呂が開創、源義家が再興したとされる、歴史的にも古い寺院である。特に、源義家が奥州の戦役からの帰途に賊の首を埋めて、この地に塚を築いたことから"小塚原"の地名が起こったともされている。また時代がくだって江戸時代には「下谷の三寺」としてもつとに有名であった。現在、円通寺の境内の一角には、旧幕府軍の幹部によって建てられた碑が並ぶ。そして彰義隊供養を助けた三河屋幸三郎(寛永寺の御用商人)が、戊辰戦争で命を落とした旧幕府軍を弔うために密かに建てた「死節之墓」も境内にある。新政府にたてついた賊軍の戦死者を供養することが憚られた時代(遺体の埋葬を禁ずるというお触れを官軍が出したとも言われるほどのタブーであった)、円通寺だけは埋葬供養の許可を得た唯一の寺院ということで、大っぴらに供養ができるとの理由から参詣する者も多かったといわれる。さらに明治40年(1907年)には、上野戦争の最大の激戦地にあった黒門も円通寺に移設された。(日本伝承大鑑より抜粋)
*14天保7年6月10日(1836年7月23日)- 明治21年(1888年)7月19日)は、幕末から明治時代の幕臣、政治家、思想家。剣・禅・書の達人としても知られる。(Wikipediaより抜粋)





書名「藝術家と社会~加藤周一セレクション4より」(平凡社ライブラリー)
著者 加藤周一(*1)

  今年は加藤周一生誕100周年である。
  加藤周一は江戸芸術をどう見ていたのか。
  1965年に発表された「藝術家と社会」で、江戸時代の芸術家と社会との関係について分析しているので紹介したい。
  加藤は徳川時代(*2)を17世紀前半と後半以降に分け、前半は芸術家と社会とは緊張関係にあったと言う。この時期の芸術家は主に宗教(仏教)を媒介として社会とつながっていた。しかし仏教の世俗化が進むにつれてこの緊張関係はゆるみ、やがて芸術家は社会に直接組みこまれていく。
「すべての日本人が名義上の仏教徒になったのは、まさに、仏教が日本人の心を捉え難くなったときであり、もはや文化的な創造力の中心ではなくなったときである」※以下「」内は本書よりの抜粋
  仏教は世俗化し、文化の担い手ではなくなっていった(*3)。

  変わったのは仏教だけではなかった。17世紀の中葉において、日本社会の構造自体が大きく変化した。加藤はその特徴を4つにまとめている。すなわち第一に「武士の官僚化」、第二に「町人の擡頭(たいとう)」、第三に「土地生産性の高い集約農業と部落」、そして第四に「鎖国」である。
  第一と第二の特徴はたがいにからみあっていた。
  その関係は身分の上下関係によって規定される「縦」の関係と、義理と人情に規定された「横」の関係の対立によって説明される。
  社会の基本構造は「縦」の関係、すなわち忠誠を強制する儒教的観念の体系によって支えられていた。身分の上下関係は武士社会のみならず家族や、親方と徒弟、地主と小作人にまで及んでいた(とはいえその厳格さは町人社会ではゆるく、農村ではさらにゆるかった)。
  その一方で「人情の自然」と「世間の義理」によって規定された「横」の関係は、共同体への所属感と直接つながっていた。そしてこの「人情」を代表し、力強く表現したのが町人であった。この「横」の関係が徳川身分社会の「縦」の関係に対立していた。
  町人社会にとって、儒教道徳は武士社会からの借りものであり、仏教はすでに現世をしばる規範ではなくなっていた。共同体の所属感さえ脅かさなければ快楽の追求は妨げられなかったのである。しかもこの唯一の妨げも、共同体それ自体が、快楽を制度化することによって解決した。
  「徳川時代の町人社会は、快楽の制度化において、未曽有の独創性を発揮した。遊里が発達し、劇場が発達した。三味線の音楽、浮世絵版画、人形芝居と歌舞伎、俳諧のほとんどすべては、直接にそこから生まれてきた芸術である」
  成功した町人は伝統的な文化を吸収して武士化し、役人となった武士の下層は町人社会から影響を受けて町人化した。江戸時代の芸術家のほとんどは、武士化した町人と町人化した武士がつくる接合点にあらわれたのである。
  「三味線・浮世絵・人形芝居・歌舞伎・俳諧はまったく町人の文化に組み込まれていた。芸術家たちは、そこで、独創的な形式を発明し、その次にその形式を200年間にわたって洗練した。それはすべて徹底して世俗的な芸術であり、また倫理的価値の体系と深い係わり合いのない芸術である。」
  その一方で、変化の波にもまれながらも室町時代からの古典的な芸術は、武士の上層階級の要請に応えることで維持継承された。
  「武士層と町人層の接点に位置した芸術家は、また他方では、武士層殊にその上層の要求に応えようとした。そこで新しい芸術の形式はつくられなかったが、古典的な芸術が維持され、再生産されたのである。将軍家および有力な藩主は、能および狂言の劇団を維持することで、室町時代以来の伝統を襲いだ」

  一般に芸術の形式が著しく変わるのは、社会の構造が大きく変わるか、外からの刺激による。徳川時代の社会の構造は、17世紀半ばまでは大きく変化したが、その後は安定した。鎖国によって外からの刺激はすでに制限されていた。17世紀末に、芸術の形式が一通り出そろうと、その後はその形式を変える要因はなかったのである。
こうして18世紀の江戸芸術の最盛期は、新しい形式をつくりだすことではなく、従来の形式の枠のなかで趣味を洗煉することに専心することができたのである。
 芸術的な形式の変化を免れた江戸芸術に、個人の独立を主張する文学や超越的な価値に奉仕する芸術、あるいは抽象的な構造の秩序によって訴える芸術は生まれなかった。それは情緒的な音色、優美な曲線、極度に洗煉された色彩の配合、自然の材質を最大限に引き出す技巧によってあらわされる芸術であった。
  こうして感覚的で享楽的な江戸芸術は、人情の機微と手のこんだ快楽主義の世界のなかで、完璧に磨きあげられていったのである。

  その後日本は開国し、徳川時代の「縦」の秩序は、一時は軍国主義と合流して強化されたが、第二次世界大戦後に崩壊した。しかしながら「横」の構造はいまだ打ち破られていない、というのが本書執筆時(1965年)における加藤の見立てである。
翻って現在の日本はどうなのか。日本における芸術と社会との関係はどこに向かおうとしているのか。加藤の分析手法はまだまだ使えそうである。
                                                     2019年9月19日


(*1)1919年東京生まれ。評論家、作家。医学博士(専門は内科学、血液学)。1958年より医業を廃して文筆業に専念。上智大学教授、イェール大学講師、ブラウン大学講師、ベルリン自由大学およびミュンヘン大学客員教授、ブリティッシュコロンビア大学教授、立命館大学国際関係学部客員教授、立命館大学国際平和ミュージアム館長などを歴任。1980年に「日本文学史序説」で第七回大佛次郎賞。「政治と文学」「抵抗の文学」自伝「羊の歌」など著書多数。朝日新聞にコラム「夕陽妄語」を長く連載。2008年没。

(*2)加藤は江戸時代ではなく徳川時代と言う。どちらも徳川将軍家が日本を統治していた時代のことで意味は同じである。一般に江戸時代の文化=町人文化とされることが多いので、17世紀前半(すなわち徳川時代初期)は古典芸術や宗教芸術の方が主流であったとする加藤は、混同を避けるために徳川時代としたのかもしれない。

(*3)鎌倉時代以来の社会と一線を画した宗教芸術もまた存在していた。
「しかし反社会的な芸術家の鎌倉時代以来の伝統も全く跡絶えたわけではない。南画は、徳川時代の知識人-儒者、僧侶、医者など-が、彼ら自身のためにつくりだした芸術であり、すべての芸術のなかで社会に組みこまれることのもっとも少なかったものである」


書名「江戸時代の朝鮮通信使」(講談社)*講談社学術文庫にも所収
著者 李 進煕(リ・ジンヒ)

江戸時代は、日本と朝鮮国の間が最も平和な時期であった。
鎖国(*1)をしたのはキリスト教国と清国だけであって、朝鮮国については全く鎖国しておらず貿易も盛んだった。

そもそも徳川家康は「朝鮮とは争うべきでない」という考えであり、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)にも内心では反対であった。
実際、家康は関ケ原の戦いで勝利して間もない1600年9月、対馬藩主の宗義智(そうよしとし)に朝鮮国との和平交渉を命じている。第二代将軍秀忠も、権勢や利益のためではない、信義にもとづいた国交を強調した。大学頭であった林復斎(はやしふくさい)らが編纂した徳川幕府の外交資料「通航一覧」には「日本朝鮮和交の事、古来の道なり。しかるを太閤一乱の後その道絶えぬ。通好はたがいに両国の為なり。まず対馬より内々書をつかわして尋ね試み、合点すべき意あらば、公儀よりの命と申すべし」と記されている(「通航一覧」*2)。

道のりはけっして平坦ではなかったが、交渉にあたった対馬藩主と東萊(トンネ)府使との地道でねばり強い努力が実を結び、1607年に晴れて日本と朝鮮国の国交は回復した。
いっぽう朝鮮王朝も、対日政策の基本を将軍家との信義を損ねてはならないということにおいた。
国交回復の2年後、1609年には貿易協定も成立する。そして1618年には釜山に日本の海外公館ともいうべき「豆毛浦倭館(トモポワカン)」が完成した。そこでは5~600人の日本人が常駐して外交、貿易の業務に従事した。やがて釜山港には年間50隻をこえる日本の貿易船が出入りするようになる。豆毛浦倭館が手狭になると、1678年には広くて利便性のよい草梁倭館(ソウリョウワカン)へ移り、以後1872年まで日朝外交の拠点として維持された。

徳川幕府の将軍が交代すると、対馬藩主が朝鮮王朝に大慶参判使(たいけいさんぱんし)をおくってこれを報告し、つづいて脩聘参判使(しゅうへいさんぱんし)をおくって使節の派遣を要請したのが、朝鮮通信使の始まりである(当初の3回は通信使ではなく回答兼刷還使〔かいとうけんさつかんし〕と呼ばれた)。
朝鮮王朝は要請をうけいれる礼曹参判(れいそうさんぱん)の書翰を幕府に送り、早速三使(正使・副使・従事官)を任命するとともに、使節一行の編成にとりかかった。正使は礼曹参議(外務省局長クラス)級からえらばれ、文化交流にそなえて第一級の文人、医者、画家がこれに加わった。通信使は1607年から1811年の間に12回にわたって派遣され、第4回以降になると470~500人にもなった。一行は7~8カ月をかけて江戸を往復した。
徳川幕府はもちろん、接遇を命じられた各地の藩主らは、通信使を歓迎し、「将軍一代の盛儀」として盛大にもてなした。それは秀吉の朝鮮侵略によって破綻していた両国の関係を修復し、改めて友好関係にあることを確認しあうまたとない機会となった。

朝鮮通信使は当時の江戸市民の目にはどのように映ったのだろうか。
江戸市民にとって、朝鮮通信使の来京は異国の風俗・文化に接する貴重な機会となった。
当日になると、着飾った江戸市民が早朝から沿道にかけつけ、一行の到着を待ちうけたという。それは一種のお祭りであった。
通信使一行の主要人物が肩書入りで描かれていた浮世絵版画が大人気であったという。沿道の市民は、浮世絵を眺めながら実際の行列に登場する人物の肩書を確かめ、それを仲間同士で楽しんだ。肩書入りの浮世絵版画はよく売れたので、通信使の来日ごとに刊行された。喜多川歌麿の「朝鮮人来朝行列図」(1811年)が有名である。
通信使をもてなす舞楽は定まっていなかった。1682年(天和2年)までは猿楽だったが、1711年(正徳元)度は新井白石の進言で江戸城中の御白書院で雅楽が催された。
いっぽう歌舞伎は不興で急遽別の出し物に変更したという。儒教の国ではたとえ舞楽であっても男女の愛情表現はタブーだった。通信使の宿舎は今日の「東本願寺」(地下鉄銀座線の田原町駅近く 通称「浅草本願寺」)で、当時の様子については、同寺のホームページに詳しく記されている(https://www.honganji.or.jp/index.shtml)。

もちろんよい話ばかりではない。
当時の朝鮮国は、儒教文化や、漢文学の先進国であったため、申維翰(シンユハン*3)のように日本の学者をみくだすような発言をする通信使もいた。
司馬遼太郎は申維翰について次のように指摘している。
「申維翰は・・・われわれ後世の者に、すぐれた日本紀行『海遊録』を遺してくれた。まことにみごとな文章だが、日本を見る観察眼が裸眼ではなく、いわば朱子学的であり、さらに科挙の及第者的であることが、小さな瑕瑾(きず)である。~中略~申維翰には申しわけないが、もし日本に科挙の制度があったとしたら、江戸時代の多様さはなかったのである。江戸期は、形だけは朱子学が官学だったが、他の学問が弾圧されるということはなかった。江戸期はキリシタン禁制のほかは、学問思想は、高麗朝や李氏朝鮮にくらべてはるかに自由だった」(『街道を行く』28 朝日新聞社)。
著者も司馬に同調する。
「朝鮮通信使たちは朱子学のモノサシにてらしてすべてを判断したため、うわべの日本しか把えられなかった。朝鮮と異なる支配体制、ちがった価値観の日本社会の底力に気づかなかったばかりか、日本をみくびる態度さえみられるのである」。
さらに「単一の価値観しか許されない社会は、どの時代においても人間の創造的活力をうばい、社会の発展をはばむものだが、そうした弊害は李朝後半期にもっとも顕著にあらわれた。産業が衰退し経済が破綻しても、他の良さに目を向けようとしなかった。」と続く。
江戸時代の日本は学問思想が自由であり、そこで育まれた「多様性」が、日本社会に創造的活力をもたらしていた。それが日本の底力となっていた。朝鮮通信使はそのことに気づかなかった。

やがて徳川幕府が倒され、明治新政府が成立する。
ヨーロッパの新技術を積極的に取り入れていた新政府は、日朝関係を、従来の册封体制*4から条約に基礎づけられた近代的な関係へ変更したいと考えた。
1868年12月、新政府樹立を告げるために、釜山浦入りした対馬藩の家老・樋口鉄太郎が持参した書契には、明治天皇を皇帝として朝鮮国王の上位におき、「勅」という用語が使われていた。册封体制の維持を望んだ朝鮮国にとって、「皇」とは清国にしかゆるされないことばであり、「勅」とは皇帝の詔勅であって、日本がそれを使うのは、朝鮮国王を「臣隷」することを意味した。
東萊府使の鄭顕徳(チョンヒョントク)がいったんそれを漢陽へ伝達するが、朝鮮国は受理を拒否する。交渉はその後も続くが進展はなく、やがて日本政府は1872年5月、草梁倭館を外務省管轄に移し、同年8月外務省大丞・花房義質が釜山に着任して草梁倭館を大日本公館と改称した。
ここに260年にわたる日本国と朝鮮国との善隣外交の歴史は終止符を打った。

本書が刊行されたのは今から32年前の1987年である。江戸時代の日朝関係についてはその後も研究や調査が進み、新たな事実が発掘されているにちがいない。21世紀に入り日本、韓国そして北朝鮮を取り巻く国際的な環境も大きく変わった。
変わらないのは江戸時代の日本が朝鮮国と善隣関係を樹立し、260年間にわたりそれが維持されたという事実である。
なぜそのようなことが可能だったのか。江戸時代は他の時代と何が違ったのか。
私たちが歴史から学ばなければならないことはまだまだ多い。


*1鎖国 日本人の海外往来禁止 (→海外渡航禁止令 ) ,キリスト教禁制,朝鮮 (→朝鮮通信使 ) や琉球との外交関係および中国人,オランダ人との貿易関係を除く他の外国人の日本渡航禁止による孤立状態をさす。寛永 16 (1639) 年から嘉永6 (1853) 年のマシュー・カルブレース・ペリーの来航まで続いた(ブリタニカ国際大百科事典)。実際に「鎖国」という語が幕閣の間で初めて使われたのは1853年で、本格的に定着していくのは1858年以降とされている。さらに一般に普及していったのは明治時代以降である。したがって、いわゆる「鎖国令」とは後世の研究者による講学上の名称で、実際にそのような名称の禁令が江戸時代に発せられていたわけではない(Wikipedia)。
*2通航一覧 江戸幕府の命により大学頭林復斎らが編纂した1566年(永禄9年)から1825年(文政8年)頃までの対外関係史料集(350巻)
*3申維翰1681-? 朝鮮王朝の文官。1719年徳川吉宗(よしむね)の将軍職の襲名をいわう朝鮮通信使の製述官(書記官)として来日。対馬藩の雨森芳洲(あめのもり-ほうしゅう)らとまじわり,『海游録』をあらわした。
*4册封体制とは、中国の歴代王朝の君主(元朝、清朝を含む)たちが自任した、称号・任命書・印章などの授受を媒介として、「天子」と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ名目的な君臣関係(宗属関係/「宗主国」と「朝貢国」の関係)を伴う、外交関係を規定する体制の一種(Wikipediaより)。

                                                                                    













➀東本願寺の朝鮮通信使説明板

















➁「朝鮮通信使来朝図」 羽川藤永筆 神戸市立博物館蔵 JPG.JPG


                                                                                                       


朝鮮通信使来朝図 延享5年(1748)頃 羽川藤永筆















朝鮮人来朝行列記 喜多川歌麿画 文化8 [1811]
国立国会図書館 デジタルコレクション

書名「江戸芸術論」(岩波文庫)
著者 永井荷風
  
永井荷風の江戸芸術論である。
内容は浮世絵が中心である(狂歌論と演劇論も)。
挿絵がいっさいなく、すべてことばで説明しているのが特徴である。
それは荷風が浮世絵を視るときのまなざしであり、その軌跡を追うことで荷風の浮世絵をみつめるときの視点を辿ることができる。それは明治中期に「永井荷風」が見いだした「浮世絵の価値」を知るすべとなる。本書の一番の醍醐味はそこにあると言えよう。
一例として葛飾北斎の『隅田川両岸一覧』の描写を見てみよう。
「第三図は童児二人紙鳶(たこ)を上げつつ走りゆく狭き橋の上より、船の檣(ほばしら)茅葺屋根の間に見ゆる佃島の眺望にして、彼方に横(た)はる永代橋には人通り賑やかに、三股の岸近くには(第四図)白魚船四ツ手網をひろげたり。桜の花さく河岸(かし)の眺め(第五図)は直ちに新緑滴る元柳橋の夏景色(第六図)と変じ、ここに包みを背負ひし男一人橋の欄干に腰かけ扇を使ふ時、青地の日傘携へし女芸者二人話しながら歩み行けり」
本書で紹介されるすべての作品はこのようにことばで詳細に描写される。作家の高橋克彦は後年になって作品がすべてことばで説明されていることに気づき、そのときはじめて本書の本当の価値を悟ったとあとがきに記している。

江戸芸術は江戸の風俗や文化と切り離せない芸術であった。
荷風は言う。「当時の芸術はその時代とその風景のみならず総ての事物に対して称賛と感謝の情とを以て感興の最大源泉となし、江戸と称する都会のいかに繁華にその生活のいかに面白くいかに楽しきかを描き示さんと勉めたり」。
それは美術としての価値に加えて宗教的な精神的慰藉をも感じさせてくれる「真正自由なる芸術」であった。
江戸後期に海外で高く評価された日本の芸術作品は、政府の庇護のもとに栄えた狩野派のような官営芸術ではなく、庶民の生活の悲哀と細やかな喜びを写した浮世絵であったことを、荷風はまるで我がことのように誇る。浮世絵は大邸宅の大広間で仰ぎ視るような絵画ではなく、小さな部屋で引き出しからそっと出して眺めるような庶民の芸術であった。

歌川広重と葛飾北斎との比較がおもしろい。
荷風によればこの浮世絵の2大巨頭の画風は対照的である。
「北斎の画風は強く硬く広重は軟かく静なり。写生の点において広重の技巧はしばしば北斎より更に綿密なるにかかはらず一見して常に北斎の草画(そうが)よりも更に清楚軽快の思あらしむ。~中略~北斎は山水を把りてこれを描くに当り山水それのみには飽き足らず常に奇抜なる意匠を設けて人を驚かせり。これに反して広重の態度は終始依然として冷静なるが故にやや単調に傾き変化に乏しき観なきに非ず」。
比較は創作の心理にまでいたる。
「北斎は先立ちて深く意識し、常に期待し、常に苦心して、何らか新意匠新工夫をなさずんば止まざる画家なるべし。然るに広重は更に意を用ふるなく唯見るがまま興の動くままに筆を執るに似たり」。

浮世絵と芝居との関係も興味深い。
江戸庶民の最大の楽しみは芝居であり、興味の関心は役者であった。それが浮世絵にも反映している。役者にとどまらず芝居の背景すら浮世絵の題材であった。
「江戸の市人は俳優に対して不可思議なる情熱を有したり。彼らはただに演劇を見て喜ぶのみならず更にこれを絵画に描きて眺め賞したり。~中略~今延宝元禄より元治慶応に及ぶ俳優画を蒐集してこれを一覧せんには、浮世絵各派画風の推移は自ずからまた各時代の俳優が芸風の変化に思到らしむべし」。

荷風の生きた時代は浮世絵の衰退期であった。衰退期の浮世絵は美術から風俗資料へと変化していく。そしてそれはやがて東京最初の日刊新聞へと連なるのである。
「衰滅期の浮世絵は全く今日の新聞紙に等しき任務を帯びぬ。~中略~浮世絵は実にその名の示すが如く社会百般の事挙て描かずということ無し。~中略~ 浮世絵は比の如く漸次社会的事変の報道となり遂に明治5年芳幾(注1)が一枚絵には明らかに『東京日日新聞』の名称を付するに至りぬ」。

鎖国によって海外からの影響を免れ、国内で独自にはぐくまれた江戸芸術。それは庶民の芸術でもあった。その変遷と価値について、荷風の目を通して解説したのが本書である。
そこには荷風の江戸芸術への深い愛情と尊敬が感じられ、読んでいて心地よかった。

注1)落合芳幾 幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師。明治5年(1872年)、条野伝平、西田伝助とともに「東京日日新聞」の発起人となり明治7年(1874年)10月には錦絵版『東京日日新聞』に新聞錦絵を書き始め、錦絵新聞流行の先駆けとなる。芳幾は明治8年7月まで挿絵を担当していた(Wikipediaより抜粋)。



➀葛飾北斎の絵本『隅田川両岸一覧』





葛飾北斎の絵本『隅田川両岸一覧』
国立国会図書館デジタルコレクション



➁江戸堺町芝居之図  礫川亭永理画 劇場図 .JPG



浮絵 江戸堺町芝居之図  礫川亭永理画 劇場図 国立劇場所蔵
寛政10年(1798)1月顔見世で『花三升芳野深雪』を上演する中村座劇場図か。
③落合芳幾 錦絵版『東京日日新聞』 早稲田大学所蔵JPG.JPGのサムネール画像










落合芳幾 錦絵版『東京日日新聞』早稲田大学所蔵



書名「アンソロジー そば」(PARCO出版)

著者 池波正太郎他

蕎麦を愛する著名人が、それぞれの蕎麦へのこだわりを綴ったアンソロジー。
池波正太郎のしびれるひと言で本書は幕を開ける。
「ひとりで町を歩いていて、ひとりで酒がのみたくなったら、私はまず蕎麦屋でのむ」
もちろんどんな蕎麦屋でもいいというわけではない。
「蕎麦だけは、洋食や天ぷらなぞとちがって、どこで、どのようにして食べさせてもよい、というものではない。(中略)蕎麦も鮨と同様に、きわめて清らかにつくられてなくてはならない。そしてしかるべき店で、これを食べると、味のみでない雰囲気がかもし出され、それをたのしむことができる」
蕎麦は特別なのである。

しかるべき店にこだわったのが杉浦日向子である。
タイトルは「並木藪蕎麦 江戸前ソバ屋の原点」。
「並木には、江戸前ソバ屋に求められるものはすべて揃っている。(中略)並木でなくてはダメなんだという午後がある」
同じ並木藪蕎麦派の山口瞳も言う。
「黙っていても酒が出てくる。『蕎麦屋の酒が一番うまい』のだから仕方がない」

登場するのは正統派の蕎麦好きばかりではない。
昭和天皇の侍従長入江相政は、電車や車に乗っているときも蕎麦屋の看板が気になるほどの蕎麦好きなのだが、その嗜好が少し変わっている。水気の引いた乾いた蕎麦が好みなのだ。
「泥臭かろうが、田舎じみていようが、私はとにかく、水気のいくらか枯れた蕎麦の味を礼賛する。(中略)『へいお待ち遠さま』と前に置かれてから、十三分がいいか、十五分がいいか」

もちろん反対派はいる。色川武大は言う。
「ソバなんてものは茹でたてが値打ちで、茹であげてから三分とたたないうちに、香りは飛ぶし、ノビるし、クタクタのソバなんて喰えたもんじゃない」
しかしその色川は「そばはうどん粉に限る」なぞと言うのだから、嗜好というものはわからない。

 「ヨーロッパに滞在しているときに、いちばん食べたいのは蕎麦である」
というのは立原正秋。この気持ちはよくわかる。
「パリのホテルから鎌倉の家に電話をかけ、明日帰るから蕎麦を用意しておけ、と言ったことがあった。この電話代が八千円かかった。私はこの八千円を惜しいとは思わなかった。とにかく帰宅すれば手打ちの蕎麦を食べられるので、金にはかえられなかった」
本物である。

故郷においしい蕎麦屋がなかったため、上京してから蕎麦の虜になった文化人もいる。
尾辻克彦は「そばというのはもともと食べたことがなかった。大分にはそば屋なんてないのだ。だいたい九州にそば屋がないのである」と言う。もちろん昔の話である。
タモリも「僕は出身が博多ですから、麺類となるとそもそもはうどん、博多うどんなんですよ」。それが「いま、週に4回、最低でも三回はそば屋へ行きます」
いったい蕎麦屋のどこがよかったのか。
「昼間の楽しみというやつだね。まずはビール、それから日本酒。これで癒される。そば屋って本当にいいものだなと思うのは、まさにこのときでね」

関西出身の作家中島らもも同じようなことを言う。
「昼さがりの人気のない店でもりそばを肴に冷たい一杯をやるのは東京人の粋であるようだ。ただし、あまり若い者のすることではない、と僕はずっと控えていた。(中略)一度やるとやみつきになってしまった。とにかく気持ちがいいのだ」
そしてその気持ちのよさを分析して言う。
「ここが肝心なのだが、そば屋には『酔っ払いがいない』のだ。見たことありますか?そば屋で大酒飲んで隣の客にからんだり、友人にかつがれて帰ったりしている人を」
確かに見たことはない。そうゆうやぼな客がいないのが、そば屋という空間なのだ。

他にもたくさん紹介したい話がある。例えばカレー蕎麦(カレー南蛮ではない)にこだわる吉行淳之介や、昼飯が全て蕎麦(ただし立ち食いそば)であることが細やかな幸せなのだと言う田中小実昌、酒の肴にと自宅で「そばがき」を作る島田雅彦などである。
画家や音楽家、芸能人から経営者まで総勢38人、各人各様のこだわりが思い入れたっぷりに語られていて、蕎麦の多様な魅力に気づかされる。そこに、地域や世代を越えて愛され続けるゆえんがあるのだと思う。
読み終わって蕎麦屋に行きたくなるのは当たり前、ただしどんな蕎麦を食べたいかは読者しだいである。これもそば、あれもそばである。

●夜蕎麦売 「守貞漫稿」.jpg


蕎麦うりの呼び声
 「そばきりゝ。」 「鹿の子餅」(明和9)
そばィそばィ引、ぶっかけなんばん。」   「髄酎気質」(文化2)風鈴蕎麦の声かすかに遠く、風につれて、 「はな巻、天ぷら、あられでどざゐ、そばィゝ引。「春告鳥」(天保8)
*時代とともにそばの種類がふえることがわかる。
▲風鈴蕎麦の圖 (守貞漫稿所載)







●深川江戸資料館-蕎麦 .JPG

 江戸川柳

「朝顔のひらいたを見ぬ夜そば売」
 「御屋敷の窓から蕎麦に釣を垂れ」
 「現金にかけを売るのは夜鷹そば」
▲江戸時代の蕎麦屋の屋台 
 (深川江戸資料館所蔵)


                     



●『鬼あざみ清吉』歌川豊国 名古屋市博物館所蔵 .JPGのサムネール画像のサムネール画像





▲三代歌川豊国の『鬼あざみ清吉』

 屋台には「二八そば」の看板。
 男は稀代の大盗人、鬼あざみ清吉。
(名古屋市博物館所蔵) 



蕎麦屋の屋台は簡単な屋根・柱つきの台で、
立ち売りをする移動可能な小さな店 



書名「江戸の編集者」(岩波書店「図書」9月号より)
著者 横田冬彦

 江戸時代の出版事情について、岩波書店が毎月発行している雑誌「図書」9月号におもしろい話が載っていた。日本ではじめて発行された農業に関する専門書の話である。その専門書とは、教科書で一度は目にしたことがある宮崎安貞の「農業全書」である。
 この本がどういういきさつで書かれ普及していったのか、京都大学の横田冬彦名誉教授が詳しく解説している。そこには今日で言う編集者とプロデューサーの存在があった。
 日本の商業出版は1630年代頃から本格的に普及し始め、元禄九年(1696年)版の出版目録によれば、当時既に7000点以上の本が出版されていた。
 しかしその中に農業の専門書はまだ一冊もなかった。安貞は自らも農業経営を行いながら各地の先進地農法や農術を研究していた。やがて海外の農業技術にも関心を示すようになり、中国の「農政全書」(明の時代に徐光啓が著した)を参照しながら、日本にも適用できる中国農法がないか模索するようになった。こうして実に40年以上研鑽を続けた成果が「農業全書」であった。
 安貞は自らの研究成果を広く世に示し、多くの農家に活用してもらいたいと思ったに違いない。しかし、果たして当時の農民にこの本は読まれるのか、それ以前に農民に本を読む習慣はあるのか。それが問題であった。この問題を解決したのが、これも教科書で見覚えがある、「養生訓」で有名な貝原益軒である。
安貞から相談を受けた益軒は新興の書肆(出版社兼書店)であった柳枝軒に話を持ち込んだ。益軒と柳枝軒が吟味した結果「農業全書」の出版が決まった。
 なぜ益軒と柳枝軒は「農業全書」が農民に受け入れられると確信できたのか。益軒は元禄元年に奉じていた福岡藩から「筑前国続風土記」という地誌編纂を命じられ現地調査のために領内全域の村を訪れたことがあった。そのときの経験から 益軒は庄屋クラスの農民が本を読むことを知っていたのである。
 もちろん、読むというだけで読んでもらえるほど甘くはない。益軒はより多くの農民に読んでもらうために、様々な工夫を凝らした。図版を効果的に挿入したりして、表記法や体裁を工夫して読みやすくするのはもちろん、福岡藩の後援や御三家徳川光圀の推薦文を得るなど、本の権威付けにも奔走した。
柳枝軒も負けてはいない。「農業全書」の利用法を詳細に解説した別巻「付録」を発行し、どのように読み、利用すべきかの具体例を示して、読者の理解を助けた。
こうした努力のかいがあって「農業全書」は期待通りに普及していったのである。
 伝承によって引き継がれてきた「経験知」は、限られた地域でしか普及することができなかったが、「農業全書」によってもたらされた「書物知」は地域を越えて広がっていった。日本の農業は、それまでの「経験知」による農法から「書物知」を活用する農法へと変わっていったのである。 
それだけではない。「農業全書」以後に発行された農業専門書は、中国農書ではなく「農業全書」を基準書として書かれるようになった。すなわち「農業全書」は農民を単なる受け手としての読者から、自ら思考して意見を表明する読者へと変えたのである。
 「書物知」による洗練された農法が広く普及していくにつれて、日本の農業は格段に進歩した。日本初の農業専門書「農業全書」は日本農業に革命をもたらしたと言っても過言ではないだろう。
 益軒と柳枝軒は「農業全書」の価値とその可能性とをいち早く見抜いた。その発想の柔軟性と先見性そして思考の合理性に学ぶべきところは多い。
江戸初期の二人の出版人がもたらした功績はどんなに称賛しても足りない。

農業全書 宮崎安貞  著 出版者_.学友館 出版年月日_明治27年10月jpg.jpgのサムネール画像のサムネール画像のサムネール画像











農業全書 宮崎安貞 著 
出版者_学友館 
出版年月日_明治27年10月

国立国会図書館デジタルコレクション















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農業全書 宮崎安貞 著 
出版者_学友館 
出版年月日_明治27年10月

国立国会図書館デジタルコレクション









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江戸の出版量グラフ

平成24年4月27日 神田雑学大学定例講座
講師 橋口侯之介氏(誠心堂書店店主・成蹊大学文学部講師)
「江戸の出版事情」講演録より引用



第一回 幕末の生き証人が語る江戸風俗

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書名「幕末の江戸風俗」(岩波文庫)

著者 塚原渋柿園  

 

著者の塚原渋柿園(じゅうしえん)は1848年(嘉永元年)江戸市谷生まれ。80石の根来(ねごろ)百人組(江戸幕府の鉄砲隊のひとつ)与力で、維新のとき21歳だった。まさに幕末における江戸風俗の生き証人である。「江戸の変遷の有り様を、私が見た通り、否、むしろ出逢ったままのそのままを少しも飾らずに、小説気を離れて話してみようと思う」と言うように、当時の江戸の様子がいきいきと具体的に記されている。維新で生活が一変した武士たちが家禄を没収されて都落ちするときの悲惨な境遇や、武家の商法でまたたくまに全財産を失い没落していく様子が詳細に描かれていて、悲哀を感じないではいられない。

 

一方、庶民はいつもしたたかでしぶとく元気だった。年末最大の行事だった「煤掃い(すすはらい)」の話がおもしろい。陣羽織を着たりひょっとこのお面をつけたりして大騒ぎでばたばたやり、終わったあとは「目出た目出たの若松さアまアよー、えーだ(枝)もさアかアえー(栄え)て、葉もしいげる(茂る)御目出たや。アーヨイ、ヨイ、ヨイ」とみんなで唄って貴賤上下の関係なく胴上げをしたという。おもしろいのはその際に、日頃意地悪な輩を、その復讐とばかりに、「アーヨイ、ヨイ、ヨイ」の最後の「ヨイ」で落としたこと(これを俗に「揚げっ放し」といった)。落とされた方は地面にたたきつけられて目がくらんだり、鼻血を出したり、ひどいときには腰をくじいたり膝を折ったりしたらしいのだが、まわりの「おめでたい」に圧されて苦情も言えず、したがって落としてもおとがめなし。女中たちはこれが楽しみで何日も前から胴上げのときの歌の内容を話し合っていたという。



江戸の教育事情の話もおもしろかった。幕府が庶民の文教を奨励したため、寺子屋(江戸では手習い師匠と言った)が栄えて、幕末には400件以上あったらしい。何でこんなに多かったかというと、寺子屋を開いて弟子を40~50人もとれば、幕府が当時武士の特権であった「苗字帯刀」を許したから。さして儲からなかったが名誉欲しさに競って寺子屋を開いたという訳である。驚いたのは物理学や天文学を教えていたこと。当時は「日の中には烏(からす)がいて、月の中には兎(うさぎ)がいて、地の底には大鯰(なまず)が棲んでいて髭を動かすと大地震になる」といったいわゆる「須弥山(すみせん)説」が支配的であったにも関わらず、である。禁書とされた洋書の翻訳が、実際にはかなり出回っていたことになる。庶民の多くは西洋の文明がはるかに進んでいることを理解していたらしい。黒船が来た時も人びとはさして不思議に思わず、これではとてもかなうまいとただただ落胆するばかりだったという。草創期の新聞事情が、ほのぼのとしていておもしろい(著者は日本の日刊新聞第一号である横浜毎日新聞の記者だった《その後東京日日新聞に移籍》)。発刊当初は4ページを記事で埋めることができず、最終ページを白紙で出して「読者がご自由にお書きください」と添え書きしていたなんていう話も出てくる。当時新聞界の二大巨頭であった東京日日新聞の福地桜痴(源一郎)と朝野新聞の成島柳北が、新聞体裁論で大激論した話がよほど印象に残ったのか、本書には2回出てくる。ただ、おもしろいのはこの激論の内容よりもその終わり方である。双方が意地の張り合いで決着がつかず、場が気まずくなりかけたころあいを見計らって、「烏森(からすもり)の春本いく」というお婆さんが登場し「書生じゃあるまいし、こんな席でわけのわからない議論なんておよしなさいよ。さあお前たち、何をまごまごしているんだよ。かっぽれでも早く踊りな!」と一喝、これを合図に17~8人の芸妓がなだれこんで来ていっせいに「かっぽれ、かっぽれ!」とやりだして、一同これを幸いに笑っておしまいという終わり方である。このお婆さんは「留め女」と呼ばれていた。こんな呼び名があるところを見ると、議論で喧嘩になることはよくあったのだろう。「留め女」は庶民の知恵のひとつと言えよう。

 

江戸市民に税金がなかったことや江戸ことばの変遷、武士のファッションなど、本書には他にもおもしろい話がたくさんあるがここでは紹介しきれない。興味のある方はぜひご一読を。


女性の先生が教える女の子のための寺子屋(『絵本栄家種(えほんさかえぐさ)』より/勝川春潮 画).JPGのサムネール画像のサムネール画像




女児専門の寺子屋の授業風景

絵本栄家種(えほんさかえぐさ)/勝川春潮 画

寛政2年(1790)








年末 煤払い .JPGのサムネール画像





十二月煤拂 下女胴上げの圖 三代豊国画








.カバー図版 「大横町の夜景」(山本松谷「新撰東京名所図会  明治36年10月JPG.JPGのサムネール画像のサムネール画像






カバー図版 「大横町の夜景」

(山本松谷「新撰東京名所図会 」明治3610

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2018-08-04 青山富有柿 顔写真イメージ .JPGのサムネール画像

青山富有柿プロフィール

随筆家。東京在住。楽しみは祭りと蕎麦。趣味は書店めぐり





江戸十万日「月日の鼠」概説

  

江戸のおもしろい(ためになることも少し)話が

書かれている本を紹介します。

ためになるよりおもしろいを優先します。書評ではありません。

読者の江戸への興味関心が広がれば幸いです。