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青山富有柿プロフィール
随筆家。1960年岐阜県生。大学卒業後全国紙に勤務。東京在住30年。
江戸下町文化研究会には、世話役の秋元渋柿に誘われて草創期から会員になり現在に至る。このHPでは、「江戸十万日 月日の鼠」のほかに、「江戸魂千夜一話」、「寄席à la carte」(白滝清流)を執筆している。

江戸十万日「月日の鼠」概説
『江戸』の忘れてはならない 話(おもしろいことも少し)が書かれている書籍を紹介します。単なる書評ではありません。 覧古考新して、明日を読み解こうとするものです。読者の江戸への興味関心が広がれば幸いです。

第二十五回 「明治神宮外苑はなぜつくられたのか(後編)

第二十五回 「明治神宮外苑はなぜつくられたのか(後編)」

書名 明治神宮の出現(2005年 吉川弘文館)
著者 山口輝臣

                       * 太字部分 本書より引用

 (明治神宮創建のための)「覚書」が満場一致で議会を通過すると、さっそく調査会を設置することになった。その際に問題になったのが、調査を実行する組織に創建の可否を委ねることになってしまわないか、ということだった。そのため、議会を通過した同じ年の8月、明治天皇を祀る神社をつくることと、そのために調査会を設けることを明確に分け、調査会の権限から神社創建への可否判断を除く方針が、原敬内相*1によって表明された。内務省によれば、明治神宮をつくるのを決めるのは大正天皇だった。ところが実際には、大正天皇が裁可を下せば創建が決定するという訳でもなかった。必要な条件がそろわなければ、創建はかなわなかったのだ。大正天皇の裁可は条件がそろうまでのいわば「内定」期間と位置付けられた。 
 必要な条件とは何だったのか。明治神宮は官国弊社であり、その創立は当時内務省告示によって公布されることになっていた。告示されるのは社名、祭神名、鎮座地、社格のみだ。しかし大正天皇が創建の裁可をくだした大正2年末の時点で、社名は明治神宮、社格は官弊大社がそれぞれ有力であったが決定にはいたっておらず、鎮座地も未定、祭神についても明治天皇とともに維新の英雄たちを祀るべきという意見が少数ながら存在していた。
 調査会は神社奉祀調査会(以下、調査会)と名付けられ、明治天皇を祀る神社をつくるために必要な諸事項を、調査・審議する権限が与えられていた。立法府、枢密院、軍、行政府、宮内省、学界、産業界の代表として選ばれた若干名が内閣によって任命された。国民代表から構成されていることを示すために、調査会はあえて神社についての専門家ではなく、各界の代表者を集めていた。

 大正3年1月15日に開催された第二回調査会において、社格は官幣大社、称号は神宮とすることが決まった。鎮座地は東京府下とすることも決まった。続く第三回で東京のどこにするかが話し合われ、1週間後の1月25日に開かれた第四回調査会で、鎮座地は全会一致で代々木(南豊島御料地)に決定した。代々木が選ばれた理由について、官報は次のように記している。

「すなわち恭しく惟(おも)うに、南豊島御料地(代々木)は、東京近郊に於ける最も広闊幽邃(こうかつゆうすい)の地たり*2殊に御苑林泉の美は自ら神域たるに適し、其の位置市街に接し、而かも塵かんを隔てて、全く別天地を画するの観あり。即ち、御苑と共に此の御料地を以て、神域と定めらるるは、最も其の宜きに適したるものと思考す。公文雑簒簒一三三三)。」

 代々木は最も「広闊幽邃」な地域であること、すなわち自然環境が評価されて選ばれた。二日後の大正3年2月17日、南豊島御料地(代々木)を所管する宮内省へ照会(《公文雑簒》簒一三三三)、一か月後に宮内省が了承し、4月2日に無事上奏を経る(《公文類聚》類一一九四)。代々木の神宮建設は、ここにおいて正式に政府見解となった。
 このころ、調査会の大幅な委員の入れ替えが行われる。新委員の人選は当初とは異なり、歴史家や建築家である東京帝大教授など、専門家が中心となった。組織更新もなされ、調査会内に新しく特別委員会が設けられた。特別委員会に旧委員はひとりも属さず、ほとんどが新委員で構成されていた。委員長には阪谷芳郎東京市長が就いた。襷(たすき)は旧委員の渋沢から阪谷へと渡された。

 調査会が改編された直後の大正3年4月10日、明治天皇の皇后であった昭憲皇太后が亡くなった。特別委員会は最初の議題としてこれを取り上げ、昭憲皇太后を明治天皇とともに明治神宮に合祀することとなった。このときから明治神宮は明治天皇夫妻の神宮となった。

 ところで、外苑について調査会はどのような決定を下していたのだろうか。
 「覚書」には次のように記されていた。すなわち 「①神宮は内苑と外苑とからなること。②内苑は国費によって国が、外苑は献費によって奉賛会が造営すること。③内苑には代々木御料地、外苑には青山練兵場を最適とすること。④外苑には記念宮殿・陳列館・林泉等を建設すること」と。この通りであれば、民間が奉賛会を組織し寄付金を集めて、外苑で記念事業を行うということだ。その場合、調査会の役割は事業の承認と、場所の確保ぐらいしかない。実際、調査会はそれを実行した。①~④は着々と実現していく。

 大正3年(1914)7月、調査はほぼ完了し、続いて造営作業の準備が始まる。大正4年5月1日には、長かった「内定」の期間を終え、正式に明治神宮の創立が発表される。調査会にかわって内務省に明治神宮造営局が設けられた。
 12月14日には外苑の設立発起人会が開かれた。そこには、かつて「覚書」を作成した渋沢、阪谷、中野らが中心となって名を連ねていた。しかしながら、明治神宮が東京のものであってはならないように、それをつくる組織も東京だけのものであってはならなかった。様々な準備を経て、大正4年5月15日に創立準備委員会が開催され、以後は明治神宮奉賛会(以下奉賛会)が外苑造営を担当することになった。総裁には伏見宮貞愛親王がついた。

「創立準備委員の指名は渋沢男(男爵)、阪谷男、中野会頭に一任せんことを発議し、満場之に同意」(明治神宮に関する書類)。会の様子はかつて「覚書」を一任したときそのままのようであり、要するに「覚書」を作成し、「明治神宮を東京へ!」という運動の中心に立った人たちが、そのまま外苑造営のための組織の中心へと横滑りしたということである。~中略~明治神宮が東京にありながら、東京のものであってはならなかったように、それをつくる組織も、かつてのように、東京だけのものであってはならなかった。発起人の呼びかけや趣意書の作成などさまざまな準備の後、大正四年五月十五日に創立準備委員会が持たれ、以後はこの明治神宮奉賛会が外苑造営を担当していく。総裁には伏見宮貞愛親王が戴いた。」

 奉賛会の作成し配布した「明治神宮外苑計画考案」には次のように記されていた。

「神宮は森厳荘重でなければならず、建造物を数多く立てるわけにはいかない。社殿な宝物殿があるとはいえ、国民の至誠は尚望蜀の念なき能はずそこで宜しく別に一区を設けて茲に広大なる外苑を作り遊覧できるような諸施設をつくれば、明治大正の盛世を記念しむことができるだろう、と。」

 神宮の森(内苑)は厳粛で重厚な場所でなければならない。よって建造物を数多く立てることはできない。一方国民は、明治天皇とその時代を記念するために、内苑だけでは足りないと思っている。内苑とは別に外苑を作り、そこに国民が楽しめる様々な施設をつくれば、明治大正という国力盛んな時代を記念することができるだろうという訳だ。

 内苑だけでは物たりないから外苑をつくろうという呼びかけは、寄附金の募集でもあった。明治神宮外苑が国民の賛同によるものであることを示すために、寄附行為は重要だった。富豪による奉加帳方式のものだけではなく、「総ての階級に渉り遺漏なからんこと」を期して、少額の寄付をも奨励した。中には結婚費用を節約して寄附金を捻出した者や、栗を拾って売った小銭を寄附した小学生もいた。奉賛会のこうした姿勢は、明治神宮が国民全体の賛同によってつくられることを示していた。

 国民の奉献は寄附金にとどまらなかった。
各地から十万本を超える木が奉献された。その中には台湾・樺太・朝鮮・関東州など、遠方からのものもあった。大正8年(1919)10月、予算が逼迫する中で、明治神宮造営局書記官であった田沢義鯆(よしはる)によって、労働力の提供、すなわち青年団による勤労奉仕が発案された。勤労奉仕には、大正11年末までに延人数にして十万人余が参加している。参加した個人には、低廉ながら賃金も支払われ、幾多の特権*3が与えられた。勤労奉仕の青年団は意図的に全国から集められていた。それは、明治神宮は東京中心のものという印象を弱める効果をもたらした。
 外苑には競技場に続き、野球場・相撲場・水泳場と、当初の計画になかった運動競技のための施設が次々とつくられ、大正13年には明治神宮競技大会(のちに明治神宮体育大会と改称)が開催された。そして昭和15年(1940)に計画されていた東京オリンピックの会場として、はじめはこの明治神宮外苑が予定された(橋本一夫『幻の東京オリンピック』日本放送協会、一九九四)。外苑にある建造物の多くが、事実上、青年のためのものだった。
 とはいえ外苑の中心施設は、やはり聖徳記念絵画館であった。聖徳記念絵画館は、普通の美術館とは違って、明治天皇の事歴を再現した絵画80枚が、現在に至るまでそのまま展示され続けている。外苑の工事も、大正15年(1926)の9月には竣工。翌月には外苑を明治神宮へと献じる奉献式が行われ、明治神宮外苑はここに完成した。

 明治神宮の内苑が完成して今年で103年、外苑が完成してから97年が経った。
2023年末現在、2024年の着工を目指して神宮外苑の再開発計画*4が進められている。計画では、外苑の樹木約3,000本を伐採することになっているため、環境保護や景観維持の観点から批判の目が向けられている*5。令和版の「風致」問題と言っていいだろう。
明治神宮外苑の敷地は国有地の青山練兵場だった。そこに明治天皇とその時代を記念して、全国から寄せられた寄附金、献木、労働力の提供によって、民間主導でつくられたのが外苑だ。出来上がった外苑はその後、明治神宮奉献会から明治神宮に奉献され、地権者は明治神宮となった(第2次大戦後、GHQに接収されたが、後返還された)*6
 近年、規制緩和によって高層ビルの建設が可能になり、外苑エリアのビジネスチャンスは拡大した。しかし、外苑は多くの国民が訪れる、極めて公共性の高いエリアだ。なおかつ、その創建には当時の多くの国民が関わっている。このようなエリアでは、経済論理だけでことを進めてよいということにはならないだろう。
 外苑の創建に関わってきた当時の経済人もまた、外苑に経済的な効用を求めていた。しかし彼らは、それを第一とせず、常に国民の気持ちによりそいながら、慎重に計画を進めた。当時と今では事情は大きく異なるし、安易な比較は控えなければならないが、渋沢ら当時の経済人は、「外苑は国民のものである」という考えを、終始一貫して持ち続けていたように思える。
 神宮外苑の再開発では、最低でもその「風致」を維持できる範囲で進めてもらいたい。神宮外苑に限らず、すべての公共性の高いエリアの土地開発は、「風致」を維持あるいは高めることを念頭に進めるべきだ。開発者は国民の声に真摯に耳を傾け、大多数の賛同を得てから、計画に着手するべきである。  了

                                                                    *今回をもちまして「月日の鼠 江戸十万日」を終了いたします。
長い間ご愛読いただき、ありがとうございました。

<青山富有柿プロフィール>
随筆家。1960年岐阜県生。大学卒業後全国紙に勤務。東京在住30年。
江戸下町文化研究会の草創期からの会員。

<脚 注>

*1原敬(はらたかし)1856~1921(安政3-大正10)政治家。岩手の生まれ。外務省 退官後、大阪毎日新聞社社長に就任。立憲政友会創立に参画し、逓相・内相を歴任後、総裁に就任。大正7年(1918)平民宰相として初の政党内閣を組織し、交通の整備、教育の拡張など積極政策を行った。東京駅頭で刺殺された。出典 小学館デジタル大辞泉

*2広闊幽邃(こうかつゆうすい)広々と開けていて、奥深く静かなこと。

*3 奉仕が終われば憧れの東京見物が待っていた。宮城や新宿御苑の拝観が特別に許可され、宿泊・食品購入・入浴料などの便宜が図られたほか、新聞社には招待を受け、名士の講演会まで聞くことができ、万一病気になっても済生会などが協力を惜しまないとくれば、行かないという手はないだろう。なお、経費は自弁だったが労賃は低廉ながら支払われた。(本書より抜粋)

*4再開発計画 事業者側の計画では2024年に着工予定、2036年の完成を目指す。28.4㏊の敷地に建物6棟、延べ56万5000㎡の施設を整備し、既存の神宮球場・第2球場の敷地に新・秩父宮ラグビー場を2度にわたって整備するとともに、神宮球場の移設新築工事(第2球場の撤去・解体後、ラグビー場の第1期工事として、現・神宮球場と位置が重なる南側スタンド部分を除く箇所の設置工事を実施、その後現・ラグビー場跡地に新・神宮球場を建設したのち、現・神宮球場の撤去・解体とラグビー場の第2期工事・南側スタンドの設置工事を行う)も実施するほか、オフィスビルなどの複合ビル棟A、宿泊施設やスポーツ関連施設等の入居する複合ビル棟B、公園支援施設や商業施設などの文化交流施設棟、事務所棟などを設置する予定である。(Wikipediaより抜粋)

*5再開発計画への批判 計画への批判は、樹木伐採だけでなく、「景観破壊」「公園が商業ビルに変わってしまう」などの反発とも相まって、昨年(2022年)あたりから急速に広まった。都内在住で異文化理解も専門とする米国人経営コンサルタント、ロッシェル・カップさんが計画中止を呼びかけたオンライン署名には、今月(2023年5月)までの約1年3カ月で約19.5万筆が集まった。朝日新聞デジタル「時時刻刻」「神宮外苑の大規模開発、反対署名19.5万筆 何が問われているのか」(土舘聡一 野村周平 2023年5月16日配信)より抜粋

*6明治神宮の地権者 第二次世界大戦後、神宮外苑は1945年9月18日から連合国の進駐軍(連合国軍最高司令官総司令部(GHQ))に接収された。1952年3月31日に返還された。明治神宮球場は「ステートサイド・パーク 」と改名され、進駐軍専用の野球場として使用されていた。「明治神宮外苑競技場」も接収され「ナイルキニック・スタジアム」(ナイル・キニックは米国軍人名)と改名されていた。日本側へ返還される前年の1951年に東京都は風致地区に指定した理由について、大澤昭彦准教授は緑地を保全するため先手を打ったからと述べている。銀杏並木の道路用地は東京都に移管され、競技場はアジアオリンピック開催に備えて国立競技場として文部科学省に移管・改築された。これを除けば、明治神宮外苑の全体は明治神宮が管理しており、広く国民に開放され、都心における大規模で貴重な緑とオープン・スペースになっている。特に、イチョウ並木は東京を代表する並木道として知られている。(Wikipediaより抜粋)         以上

聖徳記念絵画館 .JPG

                                                              














聖徳記念絵画館 (せいとくきねんかいがかん)
聖徳記念絵画館は、わが国最初期の美術館建築で、直線を強調した造形表現により、記念性の高い重厚な外観意匠を実現しており、高い価値が認められる。
鉄筋コンクリート造、建築面積2348.52平方メートル、地下1階、銅板葺。重要文化財指定(2011.06.20)(国指定文化財等データべースより)

 

 

第二十四回「明治神宮外苑はなぜつくられたのか(前編)」

第二十四回「明治神宮外苑はなぜつくられたのか(前編)」
書名 明治神宮の出現(2005年 吉川弘文館)
著者 山口輝臣*1

------------------------------------------------------------------* 太字部分 本書より引用

 明治神宮外苑はなぜつくられたのだろうか。
 明治神宮(内苑)が完成したのは大正9年(1920)11月。外苑はその約6年後の大正15年(1926)10月に完成している。明治天皇が亡くなったのが明治45年(1912)7月30日だから、内苑完成まで約八年、外苑まで約十四年が経過していた。
 明治神宮の祭神である明治天皇は、日本最初の立憲君主だった。立憲君主の死は、我が国にとって初めての経験だった。天皇の葬儀や陵墓についての法律も整備されていなかった。*2法律も先例もないこの事態にどう対処するべきか。新聞各紙には著名人の意見が多数寄せられ、多くの国民が新聞に投書して意見を述べたという。

「大隈重信、板垣退助、徳川慶喜、大倉喜八郎、豊川良平、加藤弘之、穂積八束...この時期に活動していた主要な政治家・実業家・学者はほとんど紙面に登場しているといってよい。今回の死とその後について、明確な専門家はいなかった。法令の解釈から迫ろうにも、法令そのものが足りなかった。記念という行為をなんらかの事業として行えという声は、あらゆるメディアに満ち溢れた。~中略~明治天皇とは直接的な面識のない人までもが、新聞へ投書してまで意見を開陳していた。類比的に言うならば、だれもが関係者として主張していたのであり、希望すればとりあえずだれもが「自由」に企画し、参加することができた。」 *「  」は本書より抜粋

 明治天皇の死から二日後の8月1日、渋沢栄一*3、阪谷芳郎(東京市長)*4、柿沼谷蔵(日本橋区会議長)*5、中野武営(商業会議所会頭)*6、実業家の近藤廉平*7、早川千吉郎*8、星野錫*9が東京商業会議所に集まり、明治天皇の御陵墓の場所を東京にするための運動を開始する。しかし同じ日に、河村金五郎宮内次官から、大喪の礼は青山練兵場、ご陵墓は京都府下紀伊郡堀内村旧称桃山城址に内定した*10という発表があり、この運動はあっけなく頓挫してしまう。ご陵墓を京都に造るのは明治天皇の意思であるとされた。
 渋沢らはあきらめなかった。陵墓がだめならせめて、明治天皇を祀(まつ)る神社、すなわち明治神宮を東京につくろうという構想が浮上する。渋沢らは以後、明治神宮創建を目標に運動を継続していく。
 運動の中核を担ったのは、渋沢、阪谷、近藤、中野の四人だった。東京市長と経済人3人で、政治家や学者、神職はいなかった。渋沢らは、明治天皇の死によってもたらされた不景気を、なんとかしなくてならないと考えていた。少なくとも初期段階の「明治神宮を東京へ!」という運動は民間の経済人主導だった。

 経済人主導との批判に配慮し、8月9日の連合協議会では、渋沢(座長)、阪谷、近藤、中野の経済人4名のほかに、区会議長、市選出代議士、市会議員、府会議員から1名ずつ委員が選出された。12日に開かれた委員会では、具体案を阪谷、中野の両名に一任することが決まる。「覚書」と名付けられた具体案はすぐに出来上がり、14日の委員会、16日の区会議長の会合を経て、20日の連合協議会で異議なく可決された(「明治神宮奉建協議の経過」『竜門雑誌』第二九二号)。「覚書」は明治神宮の創建における最重要文書であり、完成した神宮の姿を先取りしていた。「覚書」の内容は次のとおり。

「①神宮は内苑と外苑からなる。②内苑は国費によって国が、外苑は献費によって奉賛会が造営する。③内苑には代々木御料地(正式には南豊島御料地)、外苑には青山練兵場を最適とする。④外苑には記念宮殿・陳列館・林泉等を建設する。」

 伊勢神宮には「外宮」と呼ばれる場所がある。伊勢神宮の内宮-外宮形式が、明治神宮の内苑-外苑構想の参考にされた可能性は高い。しかし、「外苑」は「外宮」と違って神社の外につくられており、景観も日本庭園ではなく公園のようなものだった。外苑は明治天皇を記念する事業を実行する場であった。それはまったく新しい発想に基づいていた。

「明治神宮は決定的な点で新しかった。外宮を踏襲するのではなく、外苑を「発明」した点で。神社の中に苑をつくるのでも、神社を苑とするのでもなく、神社と苑をつくり、しかもその苑をも神社の部分であるとする点で。そしてその苑を、いわゆる和風の庭園にとどめず、ほとんど公園と言われるようなものへとする点で。中略~内苑-外苑の形式の本当に卓越したのは外苑というアイデアにある。普通には神社とは言い難い諸施設を、外苑なる空間を設定し、そこへつくってしまおうというアイデアにあった。外苑は記念のために設けられる空間なのである。明治天皇の死にともなって数々の案が出された記念事業を実行する場なのである。」

 「内苑」は御料地という皇室の所有地で、「外苑」は練兵場という国有地だ。そこにひとつの神宮をつくろうという構想はいかにして実現したのだろうか。
 8月12日に「覚書」の作成を一任された阪谷と中野は、同じ日に渋沢を交えた3人でさっそく会合を持ち、その2日後に「覚書」は早くも形になっていた。なぜこんなに早く案がまとまったのだろうか。実はこの会議に同席した人物がもうひとりいた。弁護士の角田真平*11だ。神宮の敷地は、明治天皇が存命であれば開催する予定だった即位50周年記念日本大博覧会の敷地予定地と同じ代々木御料地と青山練兵場だった。角田は市区改正局長として博覧会委員だったので、両地の関係を熟知していた。

覚書は八月十二日の委員会で阪谷芳郎・中野武営に一任され、両名は同日午後に渋沢栄一を交えて市役所にて会合を持った。そして二日後には早くも形になっている。さて阪谷の日記には、委員でないにもかかわらず午前中の委員会へと出席し、「覚書」について協議したであろう三頭会談にも同席した人物の名前が記されている。その人の名は角田真平。そして渋沢が「弁護士の角田真平氏が頻りに骨をおって」とのちのち回顧している(雨夜譚談話筆記)。さらに当時の新聞ではこう報道されている。元来青山及び代々木の敷地設計は、阪谷中野両氏の起案なるが如く報告されたるも、実は角田真平氏の立案なるものにて、氏は曩きに市区改正局長として博覧会委員となり、右両地の関係を詳知し居り、博覧会予定敷地を其儘内苑外苑の敷地に充てたるものにて...報知新聞八月二十二日)」

 端的に言えば、日本大博覧会の予定敷地が、明治神宮へと生まれ変わったということだ。大博覧会終了後には、外苑エリアを東京都の公園にすることも既に決まっていたので*12、一時的ではなく、永久に使用する施設を建造することも可能だった。「覚書」は、日本大博覧会の会場予定地をそのまま明治神宮の敷地としただけではなく、博覧会終了後に計画されていた公園を、外苑として実現する案でもあったのだ。

「つまり日本大博覧会の会場は確かに代々木御料地と青山練兵場とが予定されていた。のみならず、敷地の借用や所管換え、さらには周辺の土地の買収へも着手されていた。中止となった日本大博覧会の予定地が神宮へと生まれ変わったということは、間違いなく正しい。~中略~「覚書」は、日本大博覧会の会場予定地をそのまま明治神宮の敷地としただけでなく、博覧会終了後に計画されていた公園ができる暁にはつくられそうなものを、同じ土地に、ただし外苑という名のもとに、つくろうとした案でもある、と。」

 内苑に代々木御料地、外苑に旧青山練兵場が、最有力候補であることは間違いなかったが、東京中心との批判を免れるため、「覚書」にはその他の候補地も列挙されていた。候補地の名乗りを上げる自治体は少なくなかった。*13「明治神宮を東京へ!」という主張は、明治天皇の生まれた京都に御陵を、居住していた東京都に明治神宮をそれぞれつくって、東京と京都のあいだで、棲み分けを行おうとするものだった。候補地の選定で焦点となったのは「由緒」と「風致」だった。
 「由緒」とは明治天皇とその場所との関わりの深さである。また「風致」とは明治天皇を祀るにふさわしい「景勝」や「体裁」をその場所が備えているかということだ。一言でいえば「由緒」は歴史的環境、「風致」は自然的環境を根拠にしていた。「由緒」では天皇が所在した東京が有利だったが、風致では自然の豊かな地方が有利だった。東京とそれ以外の候補地との争いは、「由緒」と「風致」のいずれを重視するかという対立でもあった。
 結論を言えば、「由緒」がより重視されることとなった。候補地選定は、東京都内の候補地による、二次選考へと移行する。しかし、すでに「覚書」の強い影響下にあった東京都の候補地の間では、深い議論はなされなかった。そもそも内務省の規制があり、競合する案を実現するためには様々な調整が必要だった。また、規模の大きさを考慮すれば、自治体にとどまらず、国の関与も避けられなかった。これらの課題の多くをすでにクリアしていた大博覧会予定敷地が有利であることは疑いようがなかった。

覚書の極めて強い影響下にあった東京内の候補地は、東京外の候補地のような特色ある議論を展開していない。神社を勝手につくることへは内務省の規制があったし、構想された神社の規模からいって、そもそも自前でつくれるものではなかった。その上いくつもの案が競合しており、相互の調整も欠かせない。こうして民間の諸案は、なんらかの形で国側と接触する必要があった。国費で建造しようというなら、なおさらである。」

 明治天皇の大喪(9月13日〜15日)後の9月27日、「覚書」は正式に議会に提出された。貴族院では「請願」という形式が取られ、天皇の遷都と居住という「由緒」を理由に、東京に「荘厳」なる神宮の建設を求めるものだった。一方、衆議院ではより重みのある「建議」案として提出された*14。同じ日には、増田儀一*15による「明治天皇頌徳記念事業に関する建議案」も提出された。増田は主宰する雑誌『実業之日本』で、「明治の聖代は何を以て記念し奉るべきか」といったキャンペーンを行なっており、建議の提出はその実践として理解することができる」と主張していた。
 この2つの建議案は一括して委員会で協議され、3月26日には、両案とも満場一致で通過した。                                                                                  ------------------------------------------------------------------------------------後編につづく   

<脚 注>

*1山口輝臣(やまぐちてるおみ)1970年,横浜生まれ。東京大学教授。1992年,東京大学文学部国史学専修課程卒業。1998年,東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了,博士(文学)。九州大学大学院人文科学研究院准教授 【主な編著書】『明治国家と宗教』(東京大学出版会,1999年),『明治神宮の出現』(吉川弘文館,2005年),『天皇の歴史09 天皇と宗教』(共著,講談社,2011年)

*2天皇の死とその周辺については、そもそもそれ(践祚と改元)すら存在しないところが数多くあった。とりわけ死にともなうもっとも基本的な行事ともいうべき葬儀と墓についての規定、すなわち喪儀と陵墓に関する法令はまったく存在していなかった。〜中略~そしてこの空隙は、明治神宮の外苑が完成を見たのと同じ大正十五年(1926)十月、大正の終末を見越して皇室喪儀令や皇室陵墓令が公布されるまで、解消することはなかった。関係者の回顧によれば、これは明治天皇が慎重に検討をしたためといい、巷間ではもっぱらこう伝えられていた。「陛下には『朕に適用さる式令だの』と仰せられて、時の宮内大臣は恐懼措くあたはざりしとの事」(『時事新報』大正元年七月三十日)。*本書より抜粋

*3渋沢栄一(しぶさわえいいち)1840-1931(天保11-昭和6) 実業家。現在の埼玉県深谷市で裕福な農家に生まれる。実家の畑仕事や養蚕を手伝いながら、若いころより本格的に論語を学ぶ。離郷して一橋慶喜(のちの江戸幕府15代将軍、徳川慶喜)に仕え、一橋家の家政の改善などに尽力した。27歳のとき、慶喜の実弟・昭武とともにパリ万博を訪れて欧州諸国の近代的な政治や経済、文化のありようについて造詣を深める。帰国して大蔵省に勤務した後、実業家として生涯に約500の企業設立や運営に関わり、約600の教育機関・社会公共事業の支援および民間外交に貢献した。関わった企業・組織には、日本初の銀行である第一国立銀行(現みずほ銀行)や、日本郵船、東京電力、田園都市(現・東京急行電鉄)、一橋大学、東京証券取引所など がある。2024年に刷新される1万円札の肖像画に起用される予定。(2020-2-18) 出典 朝日新聞出版知恵蔵mini

*4阪谷芳郎(さかたによしお)1863‐1941(文久3‐昭和16) 明治・大正・昭和期の財政 家,政治家。岡山に儒家阪谷朗盧の四男として生まれた。渋沢栄一の女婿。1884年東京大学文学部政治理財科を卒業,直ちに大蔵省に入る。以後主計官,造幣支局長,総務局長,次官として財政の中枢を担い,その間,日清,日露戦争中の財政処理に当たる。1906年西園寺公望内閣の大蔵大臣に就任した。07年勲一等,男爵に叙せられる。退官後,東京市長を経て,17年貴族院議員に互選され,男爵議員を中心とする公正会の指導者として活躍した。出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版

*5柿沼谷蔵(かきぬまたにぞう)1854-1920(嘉永7-大正9)上野国館林(群馬県)生まれ。旧姓は増山。慶応元年(1865年)江戸に出て綿糸業・柿沼谷蔵の店に奉公し、その人物を認められて同家の養子となり、明治12年家督を継ぎ先代の名を襲名して谷蔵と改名、以来業務を拡張して業界にその名を知られるところとなる。更に下野紡績(のちの三重紡績)社長のほか、東京瓦斯紡績、富士瓦斯紡績、東亜製粉、帝国海上保険、第一生命保険などの重役を務め、東京商業会議所特別議員となり実業界で重きをなした。一方、18年から日本橋区議となり公共・教育事業に貢献、日本橋倶楽部、日本橋女学館などの創立にも関わる。大正5年家督を長男に譲り、名を谷雄と改め専ら公共事業に尽力した。出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)

*6中野武営(なかのぶえい)1848‐1918(嘉永1‐大正7) 明治,大正期の実業家,政治家。本来の名前の読みは〈たけなか〉で、〈ぶえい〉は通称。高松藩士の子として生まれ,藩校講道館に学ぶ。1872年(明治5)香川県の官吏となり,のち農商務省権少書記官となる。明治14年の政変(1881)では大隈重信,河野敏鎌らとともに辞職し,改進党創立に尽力する。1890年の第1議会以来衆議院議員に当選8回。この間,東京株式取引所副頭取,理事長,次いで関西鉄道会社社長など各種会社と関連し,1905年,渋沢栄一の後を受けて東京商業会議所会頭となる。出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版 

*7近藤廉平(こんどうれんぺい)1848‐1921(嘉永1‐大正10) 明治・大正期の海運界の重鎮。阿波国麻植郡西尾村生れ。医師玄泉の次男。私塾から大学南校へ進む。星合常恕に従って高知に行き,岩崎弥太郎に知られ,1872年(明治5)三菱会社に入った。吉岡鉱山,高島炭鉱の経営改善で名をあげ,83年三菱汽船横浜支店支配人に抜擢(ばつてき)され,共同運輸との死闘に活躍した。85年日本郵船が成立すると横浜支店支配人に転じ,東京支店,本社の各支配人,理事を歴任し,95年社長に就任した。出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版

*8早川千吉郎(はやかわせんきちろう)1863-1922(文久3-大正11)明治-大正時代の官僚,実業家。加賀金沢藩士の子。明治23年大蔵省にはいり,各種銀行の設立に参画し,貨幣制度調査会幹事となる。33年三井に入社し,のち三井銀行専務理事,常務をつとめ,大正10年満鉄社長。大正11年11月14日死去。60歳。帝国大学卒。出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus

*9星野錫(ほしのしゃく)1855-1938(安政1-昭和13)明治〜昭和期の実業家 東京印刷社長。江戸生まれ。姫路藩校に学び、明治6年印刷職工となった。20年印刷業視察に渡米、帰国後王子製紙入社。29年東京印刷株式会社を創立、専務、社長となった。以後、衆院議員、東京商業会議所副会頭、東京事業組合連合会会長などを歴任。また北海道拓銀、マレーゴム、大日本水産会、大日本製糖、東亜石油などの社長、役員を兼ね、政財界の世話役に任じた。出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)

*10八月一日、河村宮内次官が、大喪を青山練兵場で行うこととともに、陵は京都府下紀伊郡堀内村旧称桃山城址に内定していることを公にした。法令を根拠にできないこの決定は明治天皇の意思によるものとされた。(本書より抜粋)

*11角田真平(つのだしんぺい)1857-1919(安政4-大正8)明治-大正時代の政治家,俳人。明治13年代言人(弁護士)となる。15年立憲改進党の結成にくわわり,東京府会議員,東京市参事会員をへて25年衆議院議員(当選7回)。俳句結社秋声会を主宰した。駿河(するが)(静岡県)出身。号は竹冷(ちくれい),聴雨窓。著作に「聴雨窓俳話」「俳書解題」など。出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus

*12博覧会は、神社や公園などとは違い、期間の限定された一時的なものである。すると期間終了後どうするかということも、これまた考えざるを得ない。跡地利用の問題である。実はこれについては、明治四十年(一九〇七)十二月という計画のかなり早い段階で、半分ほど決まっていた。東京市が、「博覧会閉会後に於て、市の公園に供し度」いと願い出たのに対し、政府側が許可したのである。なお、半分ほどといったのは、これが青山練兵場会場、つまりのちに明治神宮外苑となる土地のみについてのことだからである。(本書より抜粋)

*13候補地は陸軍戸山学校敷地、御嶽山など東京府内に15ヶ所、東京以外では、千葉県国府台、埼玉県は朝日山、宝登山、城峰山の3ヶ所、神奈川県は箱根、横浜の2ヶ所、静岡県富士山、茨城県は筑波山、国見山の2ヶ所など計25ヶ所に及んだ。(本書より)

*14議員法の規定では、請願が、国民の願望を各院が取り次いで政府へと送付するものであるのに対し、建議は院の意見として、政府へ呈出するものとある。つまり請願とは違い、建議は院で主張を一本化する必要がある分、請願より重みのある形式であった。(本書より抜粋)

*15増田儀一(ますだぎいち)1869-1949(明治2-昭和24)明治-昭和時代の出版人,政治家。明治2年10月21日生まれ。読売新聞記者をへて,明治33年実業之日本社を創立して社長となる。「実業之日本」「婦人世界」などおおくの雑誌を刊行。大日本印刷などの創立にかかわる。45年衆議院議員(当選8回,日本進歩党),昭和6年副議長。日本雑誌協会会長。昭和24年4月27日死去。81歳。越後(えちご)(新潟県)出身。東京専門学校(現早大)卒。出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus

明治神宮外苑-平面図 .JPG

1926年に完成した神宮外苑の平面図。
施設は少なく広大な緑のオープンスペースが特徴。
江戸東京博物館所蔵 資料番号/88108185。

第二十三回「日本人の近代化せられない側面に「人」の保持せられているところがある」
書名 津田左右吉歴史論集(2006年 岩波文庫)
著者 津田左右吉*1
*「  」太字部分 本文より引用

 江戸時代の後期にあたる18世紀から19世紀にかけて、ヨーロッパでは産業革命*2が起きていた。産業革命では、綿織物や製鉄業の生産過程で技術革新が進み、蒸気機関の発明・開発は、石炭利用によるエネルギー革命をもたらした。蒸気船や鉄道が発明され、交通革命も起きた。産業革命は社会構造全体に変革をもたらしていた。それは機械文明*3の幕開きだった。
 機械文明の影響が本格的に日本に及び始めるのは、明治維新以降である。最新の生産機械は大量生産を可能にし、日本は急速に工業化していった。機械文明は人々の生活や考え方を変え、影響は日本の社会構造全体に及んだ。
 しかしその一方で、機械文明によって、人々は生活の自由を失い、機械の動きに適応させるために、生活そのものが機械化させられるようになったと津田はいう。一面の事実として言えることは、都会人や、生活の多くを機械力に依存している人々の心理は、自然さや人間らしさを失って、一種異様なはたらきをするようになってしまうということだ。機械の発達は生活に多くの便宜を与え、人々に幸福をもたらしたが、その力の大きさに、人々は圧倒されたのだ。

「機械文明は、極言すると、人のために機械がはたらくのではなくして、人が機械によって動かされ、人が機械を使うのではなくして機械が人を使う、といってもよいような状態を作り出した。それほどでなくとも、人の生活が機械に制約せられて自由を失い、また生活を機械の動きに適応させようとして生活そのものが機械化せられる傾向を生じた。そうしてそのために近代人、特に都会人や機械力に依存することの多いものの心理が、自然さを失い「人」らしさを失って、一種異様のはたらきをすることになる。勿論これは一面の事実であって、機械の発達が人の生活に多くの便宜を与え人の幸福を増進した他の一面の事実のあることは、明らかであるが、機械の力のあまりにも強くあまりにも大きいがために、人はともすればそれに圧倒せられるのである。」 *「 」は本文からの引用

 機械文明がもたらす負の側面を補正するために私たちには何ができるだろうか。
 私たちは、失われつつある「人」を回復し、「人」の権威に立って、「人」の責務を明らかにし、「人」としてのすべての働きを盛んにするべきだと津田はいう。それは、「人」が機械の主人となり、集団を働かせ、群衆の流れに押し流されない自己を保ち続けることだ。

「然らば近代文明の欠陥をどう補正してゆくべきであるか。それは失われんとする「人」を回復し、「人」の権威を立て、「人」の責務を明かにし、「人」のはたらきを全面的に旺盛にすることである。「人」が機械の主人となり「人」が集団をはたらかせ、群集の流れにおし流されずして自己を堅持するようにすることである。」

 一足早く近代化に向かった米国には「伝統的な自由主義的個人主義思想」と「伝統的なキリスト教」とがあり、機械文明の欠陥をある程度補正していた。しかし、日本には「伝統的な自由主義思想」も「伝統的なキリスト教」もなかった。日本は別の方法を探さなければならなかった。方法はふたつあると津田はいう。「日常生活そのもの」と「(日本の)思想の力」だ。

「アメリカは機械文明が最も発達していると共に、アメリカ一流の集団的行動の盛んに行われているところであるが、そこには、伝統的な自由主義的個人主義思想と、本質的にはそれと必しも一致しないところがあるけれどもやはり伝統的なキリスト教とがあって、その欠陥をある程度に補正しているらしい。しかし近代文明の世界に入りこんで来てそれから利益をうけると共に、その欠陥をうけつぐようになった我が国には、そういう伝統が二つともない。そこで日本人はその欠陥を補正するために別の方法を要する。それは一つは日常生活そのものにおいてであり、一つは思想の力によってである。」

 「日常生活そのもの」とはいったい何を意味しているのだろうか。
近代文明によって日本人の生活のすべてが変わったわけではない。そしてこの日本人の生活の変わらなかった側面、すなわち変わらなかった「日常生活のそのもの」に、近代文明によって失われようといている「人」が保持されていると津田はいう。この破壊されようとしている「日常生活そのもの」を建て直すことによって、近代文明の欠陥を補正することができるというのだ。

「前の方についていうと、日本は近代文明の世界に入りこんで来たけれども、日本人の生活のすべてが近代化したのではないことが考えられねばならぬ。この近代化せられない側面に、素朴ではあるが、またそれみずからにいろいろの欠陥を伴ってはいるが、近代文明によってまさに失われんとする「人」の保持せられているところがある。~中略~そこでその傷を癒し破壊せられんしたものを建てなおすことにおいて、近代文明の欠陥を補正する一つの道が開かれるであろう。」

 もうひとつの方法である「思想の力」とは何か。
 すべての学問、特に人と社会に関する学問は、「人」の自覚から出発しなければならないと津田はいう。歴史学は現実の生活の中から「人」としての自覚を呼び覚ますところに出発点がある。歴史を作るのは人だ。そして歴史を作るということは、人が、現実の生活を変え、未来に向けて新しい生活を切り開いていく意義を明かにすることだ。歴史学は、こうして失われつつある「人」を回復し、近代文明の欠陥を補正してゆく思想的根拠を与えてくれるのだ。

「次には近代文明の欠陥を補正すべき思想上のしごと、特に学問のしごとが考えられる。それはすべての学問、特に人に関し社会に関する学問は、「人」の自覚から出発せねばならぬ、ということである。歴史の学においては、現実の自己の生活によって、またそのうちから、「人」としての自覚を喚びさますところにこの学の出発点があるので、人が歴史を作ってゆくものであることを、歴史を作ってゆくというのは、現在の生活に変化を与えて未来に新しい生活を展開させてゆく意義であることが、それによって明かにせられよう。そうしてそれがおのずから機械文明と集合体としての生活とによってまさに失われんとする「人」を回復し、それによって近代文明の欠陥を補正してゆく思想的根拠が得られるであろう。」

 逆に、歴史を知ることで、「人」を知ることもまた始まると津田はいう。なぜなら、歴史学は、人がいかにして(その時点での)未来を作ってきたかを知ることを通して、「人」を知る学問だからだ。太古の昔から、人の行動が記録されてきた理由もここにある。人は行動し、その行動が自己を作り社会をつくることが知られていたからこそ、人々は行動を書き記してきたのだ。

「そうしてそれはまた、逆に、「人」を知ることは歴史をしることによって始めてなされる、ということにもなる。歴史の学は、未来に向って人が如何に歴史を作って来たかを知ることによって「人」を知らしめるものであるからである。遠い昔から人の行動を記した歴史の作られて来たのも、ここに深い根底がある。人は行動するものであり、行動することは自己を作り社会を作ってゆくことであることが、素朴な考えかたながら知られていたからこそ、こういうものが書かれて来たのである。」

 機械文明のもたらす欠陥の補正という任務を果たすために、歴史家は自ら「人」でなくてはならないと津田はいう。機会文明に圧倒され、生活を機械観的に取り扱い、群衆の力や世間の風潮に押し流されて、自己を失い「人」を失ったのでは、歴史を理解し叙述することはできない。歴史学において、「人」を回復するためには、歴史家みずからがまず「人」を回復しなければならない。

「しかし歴史家がかかる任務を遂げるには、歴史家みずからが「人」でなくてはならぬ。機械文明に圧倒せられ、従って人の生活を機械観的に取扱ったり、群集の力にひきまわされ、世間の風潮におし流されたりして、自己を失い「人」を失ったのでは、歴史は解せられず歴史を叙述することはできぬ。歴史の学において「人」を回復せんとするには、歴史家みずからが先ず自己自身において「人」を回復しなければならぬ。」

 IT産業が拡大し、第四次産業革命(インダストリー4.0)*4の時代に入ったと言われて久しい。ここ数年のAI(人工知能)の急速な進歩は、人と機械に協調の余地を残していた第四次産業革命を超え、今や第五次産業革命に突入しつつあると言っても過言ではないだろう。それが、過去のどの産業革命よりも私たちの生活を変えてしまうであろうことは、今やほぼ確実だ。ITの進歩によって私たちの生活の利便性は増し、スマートフォン(以下スマホ)さえあれば、いながらにして日常生活を不便なくすごせるところまできた。

 その一方で、今から半世紀以上前、津田によって指摘された、機械文明のもたらす欠陥、すなわち「人」の喪失という問題はどうだろう。スマホによって、他人を介さないで直接問題や課題の解決が可能になり、生活の利便性は確実に増した。AIはそれをさらに推し進めるだろう。その一方で、スマホは個人と個人との関係、個人と社会との関係を大きく変えた。この先、個人は、社会は、どこに向かっていくのだろうか。私たちの生活はどうなっていくのか。そこに私たちは幸福を見出すことができるのだろうか。未来に対する見えない不安が今、私たちの心をひそかにおおいつつあるように見える。

 進化した機械文明によって、私たちが再び「人」の喪失に向かっているのだとしたら、私たちは津田に倣って、どんなに文明が進化しようとも、けっして失わせてはならない、私たち日本人の「日常生活そのもの」について、もう一度考えてみる必要があるのではないだろうか。

 同様に私たちは、人がいかにして未来を作ってきたかを、歴史から学びなおさなければならないだろう。その際に留意しておかなければならないことは、「人の生活を機械観的に取扱ったり、群集の力にひきまわされ、世間の風潮におし流されたりして、自己を失い「人」を失って」いる歴史家の叙述からは、多くを学ぶことはできないということだ。自身が「人」である歴史家の叙述を通してのみ、私たちは「人」を知り、未来の作り方を学ぶことができるのだ(とりわけその失敗についての叙述から)。

 「人」を知り、「人」を回復するために、そしてよりよき未来を築き、同じ失敗を繰り返さないために、私たちは歴史から学び続けなければならない。 
                                                                                  了


脚注)
*1 津田左右吉(つだそうきち)1873〜1961大正・昭和期の歴史学者。岐阜県の生まれ。東京専門学校(現早稲田大学)卒。1920年早大教授となる。日本神話に初めて科学的検討を加え,'24年以後『神代史の研究』『古事記及日本書紀の研究』などを発表。'39年に至り蓑田胸喜 (みのだきようき) ら右翼から不敬思想として攻撃され,翌年4著書が発禁,'42年に出版法違反で有罪となった。中国思想の研究にも大きな功績がある。'49年文化勲章受章。出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版

*2 産業革命 市場の拡大による工場制手工業から機械制大工業への変革。1760〜70年代にイギリスに始まり,19世紀を通じて欧米の主要な資本主義諸国や日本で行われた。日本の産業革命は欧米より遅れて日清戦争(1894〜95)のころ,紡績・製糸・綿織物を中心とする軽工業部門に第1次産業革命が,続いて日露戦争(1904〜05)前後に重工業部門の第2次産業革命が進行した。この時期を通じて日本の資本主義が急速な発展をみせたのは,安くて豊富な労働力による。この安い労働力は,一方で国内市場を狭くするので,資本は海外市場を求め,軍事的・侵略主義的な性格をもった。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版

*3 機械文明 道具が機械に置き換えられることにより,人間社会の生産力は増大したが,反面,機械をつくりだした人間が逆に機械に使われる事態となったばかりでなく,人間社会そのものが機械化され,複雑な社会機構を生んだ。この文明形態(→文明)を機械文明という。この社会においては,機械を媒介とする人間の意思疎通,すなわちマス・コミュニケーションの発達がもたらされ,不特定多数の大衆社会における文化の画一化や個人の部分品化が促された。大衆社会の成立は,機械文明の所産であるといえる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典

*4 第四次産業革命(インダストリー4.0)蒸気機関を第一次、電気機関を第二次、製造業の自動化を第三次の産業革命とみなし、インターネットを通じてあらゆる機器が結びつく段階を第四次の産業革命と位置づけたもの。主に製造業を中心に、IoTや人工知能を導入し、自律的・自動的・効率的に製造工程や品質の管理を進め、省エネルギー化などを行い、新たに産業の高度化を目指すというもの。もとは2011年にドイツの産官共同プロジェクトが提唱した産業高度化の概念、インダストリー4.0を指した語。
出典 小学館デジタル大辞泉

第二十二回 「彼らは貧乏だ、しかし高貴だ」

第二十二回 「彼らは貧乏だ、しかし高貴だ」
書名 日本絶賛録(2007年 小学館)
著者 村岡正明

* 太字部分 本書より引用

 ようやく新型コロナの感染拡大が収まり、海外から再びたくさんの観光客が来日するようになった。日本の人気は高く、その魅力を讃える報道が連日マスメディアやネットをにぎわしている。来日した外国人が日本を讃えるのは、もちろん今に始まった話ではない。むしろ遥か昔に日本を訪れた外国人の方が日本と日本人に対する評価は高かったかもしれない。本書を読むとそのように思えてくる。

 西欧人による、日本人についての最初の公式報告は、日本にキリスト教を伝来したスペイン人の宣教師フランシスコ・ザビエルによってなされた。1549年(天文18年)、ザビエルが鹿児島に上陸してからわずか2ヶ月半後のことである。
「先(ま)ず第一に、私達が今までの接触に依って識ことのできた限りに於いては、此の国民は、私が遭遇した国民の中では、一番傑出している。私には、どの不信者国民も、日本人より優れている者は無いと考えられる。日本人は、総体的に、良い素質を有し、悪意がなく、交って頗(すこぶ)感じがよい」(聖フランシスコ・ザビエル書簡集〔下〕アルー神父・井上郁二訳、岩波文庫、1949

 ザビエルの日本人に対する評価は高い。「日本人は武士であろうと平民であろうと、また富裕であろうと貧乏であろうとも、極めて名誉心の強い国民である」「生活には節度があり大部分の住民は読み書きもできる」「妻は一人しか持たず、盗みについてはこんなに信用できる国民をみたことがない」などなど。西欧人から見て、日本人ははじめから特別な存在だったようだ。

 ザビエルの来日から約300年を経た1854年、吉田松陰は同志の金子重之輔とともに、日米和親条約締結のために、下田に停泊していた米国の艦船ポーハタン号に乗り込み、艦長のマシュー・ガルブレイス・ペリーに、米国への渡航を談判した。命がけで乗船してきた二人の若者についてのペリーの感想を、当時の資料から知ることができる。
「彼等は率直に、自分達の目的は合衆国につれて行って貰いたいのであり、世界を旅行し見聞し度(た)いという希望を合衆国で充たし度いのだと打ち明けた。(中略)彼等は教養ある人達で、支那官語(the mandarin Chinese)を流暢に形美しく書き、その態度も鄭重(ていちょう)で極めて洗練されていた。(ペリー)提督は来艦の目的を知るや、自分は日本人をアメリカへ連れて行き度いと思うこと切であるけれども、両人を迎えることが出来ないのは残念であると答えた。(中略)この事件は、同国の厳重な法律を破らんとし、又知識を増すために生命をさえ賭そうとした二人の教養ある日本人の烈(はげ)しい知識欲を示すもので、興味深いことであった。   日本人は疑もなく研究好きの人民で、彼等の道徳的並びに知識的能力を増大する機会を喜んで迎えるのが常である。この不幸な二人の行動は、同国人の特質より出たものであったと信ずるし、又人民の抱いている烈しい好奇心をこれ以上によく示すものはない。ところでその実行は、最も厳重な法律と、それに違反させないようにするための絶えざる監視とによってのみ抑えられているのである。日本人の志向がかくの如くであるとすれば、この興味ある国の前途は何と味のあるものであることか、又附言すれば、その前途は何と有望であることか!」(『ペルリ提督日本遠征記(四)』フランシス・L・ホークス編、土屋喬雄・玉城肇訳、岩波文庫、1958

 ペリー曰く「松陰と重之輔には教養があり、態度は丁重で洗練されていた。ぜひともアメリカに連れていきたいと思ったが、それは(日本の)法律に違反することであり、かなわないことである。誠に残念である。日本人は研究熱心で、道徳的並びに知識的な能力を増す機会があれば、いつでも喜んで受け入れる国民である。二人の行動もこの日本人の特質から出たものであり、それは人々の好奇心の強さを示している。厳重な法律と絶えざる監視が、その実行を阻んでいるのである。日本人の志向が彼らと同じように、強い好奇心と知識欲にあるならば、この国の将来は有望である」。
 ペリーは日本人の好奇心と知識欲の強さ、そして行動力を高く評価していた。

 全国民に美意識が浸透していると言うのは、インド人のノーベル賞文学者ラビンドラナート・タゴールだ。
「他の国では、有能で監視眼のある人たちのあいだにのみ、美を味わう能力が見られるが、この国では、全国民のあいだにそれがひろがっている。ヨーロッパでは、万人のために普通教育がおこなわれ、またその多くの国々では、国民に軍事教練が普及しているが、世界の他のどこでも、この国に見られるような国民的美意識の修行が浸透しているところはない。ここでは、国民全体が美の前に降伏してしまったのだ」。(『タゴール著作集(第十巻)』「日本紀行」森本達雄訳、第三文明社、1987

 日本人の美意識の高さを礼賛する外国人は多い。アメリカの女性教育者で津田塾大学の設立に関わったアリス・マン・ベーコンは、日本人の本能的な美意識は、作り出すものすべてを美しくすると言う。
「日本の職人は、本能的に美意識を強く持っているので、金銭的に儲かろうが関係なく、彼らの手から作り出されるものはみな美しいのです。」(『華族女学校教師の見た明治日本の内側』久野明子訳、中央公論社、1994

 「ひまわり」で有名なオランダ人画家ビンセント・ヴァン・ゴッホは、日本人の自然を大切にする生き方に注目した。
「いいかね、彼らみずからが花のように、自然の中に生きていくこんなに素朴な日本人たちがわれわれに教えるものこそ、真の宗教とも言えるものではないだろうか。日本の芸術を研究すれば、誰でももっと陽気にもっと幸福にならずにはいられないはずだ。われわれは因習的な世界で教育を受け仕事をしているけれども、もっと自然に帰らなければいけないのだ」(ゴッホの手紙〔中〕〈テオドール宛〉JV・ゴッホーボンゲル編、硲 伊之助訳、岩波文庫、1961

 日本人の樹木を愛し、いたわる心が日本の樹木の類まれな美しさもたらしたと言うのは、ギリシャ生まれのイギリス人作家ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)である。
「いったい、日本の国では、どうしてこんなに樹木が美しいのだろう。西洋では、ウメが咲いても、サクラがほころびても、かくべつ、なんら目を驚かすこともないのに、それが日本の国だと、まるで美の奇蹟になる。その美しさは、いかほど前にそのことを書物で読んだ人でも、じっさいに目のあたりにそれを見たら、あっと口がきけなくなるくらい、妖しく美しいのである。葉はいちまいも見えず、ただもう、一枚の大きな薄い膜をかけたような花の霞なのだ。ひょっとしたら、この神ながらの国では、樹木は遠い世のむかしから、この国土によく培われ、人によくいたわり愛されてきたので、ついに樹木にも魂がはいって、ちょうど愛された女が、男のためには紅鉄漿(べにかね)(注1つけて容(かたち)を美しくよそおうように、樹木もまた心を入れて、礼ごころをあらわすものなのだろうか」。(『小泉八雲作品集(5)「日本瞥見記(上)」平井呈一訳、恒文社、1964

 日本人は古来より樹木をいたわり愛してきた。その愛情が日本の樹木をこれほどまで美しくしたのだとハーンは言う。この言葉は近代化の名のもとに樹木を伐採してきた、現代の日本人に重くのしかかる。我々は、美しい樹木を前にして、その美しさをもたらしてくれた先達への感謝の気持ちを失ってはいないだろうか。

 ハーンは東京大学の講義で、「倫理的な美は知的な美より優る」というハーバート・スペンサー(注2)の言葉を紹介している(注3)。倫理的な美とは何か、それは平たく言えば「心の美しさ」である。いたるところで、日本人の心の美しさに接してきたハーンは、このスペンサーのことばを実感していたのではないだろうか。市井の日本人たちから受ける厚意と親切の数々。誠実を旨とし、お礼をしようとしても、受け取らないか、受け取ったとしても、決められた報酬以上は受けとろうとしない。けっして裕福なわけではない。むしろ貧乏である。しかし幸せそうだ。家族に寄り添い、子供をかわいがり、自然を愛し、四季を楽しむ術を心得ている。美意識は高く生活は簡素で清潔だ。ハーンに限らず、多くの外国人が日本人の生活態度に感銘を受けた。

 大正時代の駐日フランス大使ポール・クローデルは、日本の敗戦が濃厚になりつつあった1943年、詩人で思想家のポール・ヴァレリーに次のように語っている。
「私が滅びないことを願う一つの国民がある。それは日本人だ。あれほど興味ある太古からの文明を消滅させてはならない。日本は驚くべき発展をしたが、それは当然で、他の如何なる国民にもこれ程の資格はない。彼らは貧乏だ、しかし高貴だ、あんなに人口が多いのに」(市原豊太著『言霊の幸国』神社新報社、1986

 今も、世界中の人々が日本を訪れ、日本人の振る舞いや心情に触れて感動したという声をよく耳にする。外国人の心を魅了し続けてきたもの、それは一言でいうなら日本人の「心の美しさ」なのではないだろうか。古来より脈々と受け継がれてきた、この「心の美しさ」こそ、日本の最も貴重な財産であり、けっして失ってはならないものである。
 日本人はこの先再び貧乏になるのかもしれない。しかし「心の美しさ」さえ失わなければ、日本人はいつまでも尊敬され続けるであろう。そして、いつの日か多くの外国の人びとから支持されて、日本は再び力強く復活するに違いない。 

                            了                                                           

(注1紅とお歯黒。転じて、化粧(小学館 デジタル大辞泉より)

(注2)ハーバート・スペンサー【Herbert Spencer】1820‐1903 19世紀イギリスの哲学者,社会学者。ダービーに教員を父として生まれた。学校教育を受けず,父と叔父を教師として家庭で育った。ロンドン・バーミンガム鉄道の技師(1837‐45)および《エコノミスト》誌の編集部員(1848‐53)を経て,1853年以後死ぬまでの50年間はどこにも勤めず,結婚もせず,秘書を相手に著述に専念した。大学とは終生関係をもたない在野の学者であったが,著作が増えるにつれて彼の名声はしだいに高まり,とりわけその社会進化論と自由放任主義はJ.S.ミルや鉄鋼王A.カーネギーをはじめ多くの理解者,信奉者を得て,当時の代表的な時代思潮になった(平凡社世界大百科事典 第2版より)

(注3)「知的生活は物質的生活よりもより高いものを表しているし、また倫理的生活は、この知的および物質的生活の二つよりもさらにいっそう崇高なものを表している、とみなしてもよいと思われる。要するに、倫理的な美が知的な美よりもはるかに優っているというハーバート・スペンサーの見解は、この問題の解答に対する格好の指針となっている」(小泉八雲東大講義録〈日本文学の未来のために〉ラフカディオ・ハーン 池田雅之=編訳 角川文庫 2019)

参考コラム>

第九回「江戸は日本庭園に満ちた都市であった」http://www.edoshitamachi.com/web/fuyugaki/2020/05/9.html

 

書名 懐旧九十年(1983年 岩波文庫
著者 石黒 忠悳(いしぐろただのり

『  』部分 本書より引用

 陸軍衛生部軍医制度に生涯を捧げた医師、石黒忠悳の回顧録である。
後編では兵部省へ転じてからの石黒に焦点を当てる。

兵部省からは、軍医頭であった松本良順が、直接石黒の勧誘にやって来た。
もはや断ることはできないと観念していた石黒だが、文部省時代の官僚采配にこりていたので、入省にあたって五つの条件を提示することにした。
一つ目は、松本の在職する間10年間は石黒の在任を保証すること。二つ目は、医官は試験によって採用し、薩・長・土・肥の藩閥による採用は行わないこと。三つ目は、現職の医官にも試験を受けさせ、成績の劣るものは辞めさせること。四つ目は自分(石黒)について風評がたった場合には、必ず本人に真偽を確認してから判断を下すこと。そして五つ目は軍医寮で奏任官*1以上の位につくものは必ず医学者であること。
石黒の提示した五つの条件を、松本は快諾した。そして、責任はすべて負うので失敗を恐れずに思い切って取り組むようにと、石黒に伝えた。


 石黒は、兵部省に入省して軍医制度制定のために精神誠意尽くすことを決心する。
明治4年(1871年)、石黒は26歳だった。

 『は松本先生の知遇に感じて兵部に入ろうかとは考えましたが、これまでの経験に懲りていますから、その際、松本先生へ条件を提出しました。第一、松本先生在職の間は、十ヶ年私の在任を保証すること。第二、兵部には薩・長・土・肥出身の人が多く、随って医官にもその藩の人が多いが、医学はその学術において優劣判然たるものゆえ試験を行って人を採用し、毫も藩閥によらぬこと。第三、学術試験を行って現在の医官を淘汰すること。第四、何ごとにても拙者のことにつき風評を生ずる時は、善悪共に必ず親しく拙者にその評言を聞かせた上にて判定を下されたきこと。第五、軍医療の奏任官以上は、必ず医学者を以て補任すること。以上五ヵ条を申し出でたところ、松本先生は悉く快諾して申されるには、それらの個条は皆僕が行わんと期するところで、君の意を労するを須(もち)いぬ。このほかに念のために申しおきたいのは、一旦、君に委ねたことは君の思う通りやってもらいたい、その間に過失が生じた節は責はすべて自分が負う。創業の際、躊躇逡巡*2するのは好くない、大胆に果敢にやってくれるように、とのことでした

 その後石黒は、西南の役や日清・日露戦争などを経て実績を積んでいく。そして明治20年(1887年)、42歳にして陸軍省医務局次長に昇進すると、同年5月にドイツ陸軍衛生制度視察のため、欧州に旅立った。この洋行には、乃木希典陸軍少将*3や医師の北里柴三郎*4森林太郎(鴎外)*5らも同行していた。9月にはバーデンで第四回赤十字国際会議*6が開催され石黒も代表委員として列席した。会場には、若き日に学んだ教科書「医学七科」の著者であるポンペが、オランダ代表として列席していた。石黒は初対面のポンペと、勉学に励んだ頃を懐かしく語り合った。

 『明治20年の9月、私はバーデンの国都カルルスルーエに開かれた第四回赤十字国際会議に代表委員として参列し、バーデン大公の厚遇を受けました。
この時、各国から来集した代表のなかに、和蘭(オランダ)からは往年我が国に来て医術を伝えたポンペ氏が代表として来ておられました。~中略~そのポンペ氏とこの機会に会合することは私にとって大なる喜びで、初見ですが甚だ懐かしく種々話しました

 会議の二日目、「赤十字条約中にある列国は相互に恵み、病傷者を彼我の別なく救療する。」という条項を、欧州以外の国にも適用するべきかが、一委員から議題として提出された。
これは石黒にとって、きわめて心外なことであった。欧州以外の加盟国である日本国を代表して、(石黒が)ここに列席しているではないか。それなのに、欧州以外の国に条項を適用するべきかどうかを議題にするのは、おかしいではないか。
納得のいかなかった石黒は、憤然と立ち上がって抗議した。このときドイツ語に通訳したのは、森林太郎すなわち後の文豪・森鴎外である。

 『この会議の第二日目に、一委員から「赤十字条約中にある列国は相互に恵み、病傷者を彼我の別なく救療する。」という明文は、これを欧州以外の国にも適用すべきか、という議題が提出されました。私は実に心外のことと憤慨したのです。現にわれわれ亜細亜(アジア)の邦国がこの事業に加盟し、私は日本国の代表としてこれに参列しているのに、かくの如き議題を持出すとは何ごとであるか、この議題がいよいよ討論に付せられようという際、米国からクララバルトン嬢が米国代表で出席していたから、必ず一論あるだろうと待っていたところ、これも一言もない。そこで私は奮然起って、独逸語精通の森林太郎君を通訳として抗議しました

 「赤十字事業は地域や人種に関わらないと確信したから、日本はこれに加盟し、この会議に出席しているのである。それなのに、欧州以外の国にも条項を適用するべきかなどという議題が提出されるのは意外である。もしこの提案が議題とされるならば、遺憾ながら退席するしかない」。

 石黒の抗議に場内は騒然となる。
石黒に加勢して、ポンペが立ち上がった。
欧州以外にも日本のような文明国が、既に加盟して代表を派遣しているのだから、このようなことは問題にならない」とポンペは主張した。これにロシア代表が続き、他にも同意する委員がいたので議題は撤回された。
このことにより、東洋に日本という歴史と文化のある国があることを、欧州に知らしめるところとなった。

 『われわれは日本帝国の代表は本来赤十字事業なるものには、地理的もしくは人種的差別を設けるものでないと確信してこれに加盟し、ここに出席しているのである。しかるに、かくの如き議題が神聖なる議場に提出せられることは真に意外である。もしこの提案が議題となるならば、われわれは遺憾ながら議席を退くほかない。」と抗議したので議場は騒然となってしまいました。そこで和蘭代表のポンペ氏は、直ちに立って欧州以外にも現に加盟して代表を派遣している日本の如き立派な文明をもっている国があるゆえ、かくの如きことは問題にならぬと主張し、露国代表の一医家、その他の一法律家があいついで同意を表したので、この議題は遂に撤回されるに至りました。これが動機となり、同盟各国の委員は、東洋に我が日本帝国という古い文化の歴史を有する国のあることを明らかに認めた次第でありました

 石黒*7は、敷かれたレールに乗って育成されたエリートではなかった。
佐久間象山との出会いがなければ、石黒は医師を志すことはなかったかもしれない。仮に志したとしても、故郷で開業医として、平穏に一生を終えたに違いなかった。石黒も、そして象山もまた、幕末の変革期であればこそ輝いた人材であった。

 国の形が大きく変わろうとしていた。新政府によって、法律、医療、軍事などあらゆる分野で見直しが進められようとしていた。古いレールをいかにして新しいレールに敷き替えるか。それは、古いレールしか知らないエリートだけでは成し遂げられない難題であった。自ら人生を切り開いてきた、強靭な意思力とバイタリティのある石黒のような人材が求められていた。維新の功労者の多くがエリートではなく、下級武士出身だったのは、理由のないことではなかった。

 令和に入ってからも、日本の経済成長率*8は鈍化し続けている。強みであった先端技術力にも陰りが見られ、一人当たりGDPは他の先進国に大きく水を空けられた。識者の中には、このままでは日本が先進国*9の地位を維持できないという者すら出てきた。

 日本が再び輝きを取り戻すためには、思い切った改革が必要であるということに、今や異論はないように思われる。明治維新のように、時代に合わなくなった古いレールを、新しいレールに敷きなおさなければならない時期に差し掛かっているのかもしれない。もしそうであるならば、石黒のような人材が再び必要とされているのではないだろうか。 了

1 任官(そうにんかん) 明治官制で、天皇が内閣総理大臣や主管大臣または宮内大臣の奏薦によって任ずる官。三等以下九等までの高等官。(精選版 日本国語大辞典)

2 躊躇逡巡(ちゅうちょしゅんじゅん 決心がつかず、ためらってぐずぐずすること。▽「躊躇」はためらう、「逡巡」はしり込みする意。「躊躇」と「逡巡」は類義語で、二語を重ねて意味を強調した言葉。(三省堂 新明解四字熟語辞典より)

3 乃木希典(のぎまれすけ [1849〜1912]軍人。陸軍大将。長州藩出身。西南戦争・日清戦争に出征。日露戦争では第三軍司令官として旅順を攻略。のち、学習院院長。明治天皇の死に際し、妻とともに殉死。(小学館 デジタル大辞泉より)

4 北里柴三郎(きたざとしばさぶろう)[1853〜1931]細菌学者。熊本の生まれ。ドイツに留学、コッホのもとで研究し、破傷風菌の純粋培養に成功、さらに抗毒素を発見。帰国後ペスト菌を発見し、血清療法を研究。伝染病研究所所長を務めたが、その東大移管に反対し、私財を投じて北里研究所を創立した。(小学館 デジタル大辞泉より)

5 森林太郎(鴎外)(もりりんたろう もりおうがい[1862〜1922]小説家・評論家・翻訳家・軍医。島根の生まれ。本名、林太郎。別号、観潮楼主人など。森茉莉の父。陸軍軍医としてドイツに留学。軍医として昇進する一方、翻訳・評論・創作・文芸誌刊行などの多彩な文学活動を展開。晩年、帝室博物館長。翻訳「於母影(おもかげ)」「即興詩人」「ファウスト」、小説「舞姫」「青年」「雁」「ヰタ‐セクスアリス」「阿部一族」「高瀬舟」「渋江抽斎」。(小学館 デジタル大辞泉より)

6 明治19年(1886年)、日本はジュネーブ条約に加盟し、その翌年の明治20年(1887年)には佐野常民 (つねたみ) らが設立した博愛社を「日本赤十字社」に改称して、世界で19番目の国際赤十字社として認証された。

7 石黒の孫である原もと子は次のように述懐している。「幕末から明治初年へかけて日本医学界の先駆者となり、指導的役割を果たした人物は総じて、緒方洪庵大先生はもとより松本順、佐藤尚中、長与専斎諸先生をはじめ多くは、れっきとした幕臣・御典医あるいは雄藩藩医の子弟、またはそれに準ずる裕福な家庭の出であった。これらの人びとは藩侯の庇護のもとに、それぞれの藩校を経て大阪、長崎、江戸と学習所や私塾で青春を謳歌しつつ学を修めた知識人であって、国の内外に留学するのも思いのままに、学術を磨くにまたとない環境のうちに、さまざまの恩恵を享受していた。」(本書 あとがきより)

8 経済成長率 定期間(四半期または1年間)に経済規模が拡大する割合。国民総生産または国民所得の実質値の伸び率で表す。(小学館デジタル大辞泉より)

9 先進国 政治・経済・文化などが国際水準からみて進んでいる国。「先進国首脳会議」(小学館デジタル大辞泉より)。近年になって、一橋大学名誉教授の野口悠紀雄氏やソフトバンク社長の孫正義氏、ユニクロ社長の柳井正氏など著名な学者や経営者から、日本の先進国脱落の危機が警告されている。

書名 懐旧九十年(1983年 岩波文庫)*1
著者 石黒 忠悳(いしぐろただのり)*2
                                                                                                                                                                                                                      『 』部分 本書より引用                    

陸軍衛生部軍医制度に生涯を捧げた医師、石黒忠悳の回顧録である。

 本書には、歴史を彩った偉人が多く登場する。西郷隆盛や山縣有朋、大山巌など維新の元勲をはじめ、後藤新平、陸奥宗光、児玉源太郎、中江兆民、森鴎外、三遊亭円朝など、その顔触れは多士済々である。本書では人間模様のひとつひとつが、臨場感をもって伝えられており、単なる回顧録を越えた、日本近代史の貴重な記録と言えよう。すべてを紹介できないので、テーマを絞り、今回と次回の2回に分けて内容の一部を紹介したい。前半では著者が医学を志して医学所に進み罷免されるまでを、そして後半では兵部省に転じてからの、軍医としての活動に焦点をあてる。

 御家人の家に生まれた石黒は、なぜ医学を志すようになったのか。きっかけは、佐久間象山*3との出会いにあった。19歳のとき、石黒は尊王攘夷の思いを伝えるために、信州松代に佐久間象山を訪ねている。象山の言葉は石黒をおおいに感化し、その後の進路に大きな影響を与えた。尊王攘夷思想への熱い思いを語る石黒に、象山は次のように返した。

足下ら同志の期するところも皇政復古にあるようだが、この大事を完成するには今の封建を革め郡県にせねばならぬ。そうすると士・農・工・商の別は廃せられることとなる。農・工・商は暫く措いて、士に至ってはすべて俸禄から離れることになるから、何かの生業に就かしめねばならぬ。ところが、三百余年の士の生活は、いずれにも不向きであろう。自分にも成案はないが、この点が実に困難なる問題である。足下らも尊皇論を唱道するからには、かくの如きことまで思い及ばさねばならぬ。』

 思いもよらない象山のことばに石黒は言葉を失う。
象山の眼差しは、幕府が倒れた後に向けられていた。維新後には、多くの士族階級が収入を失うであろうことを予見し、その処遇を案じていたのだ。それは石黒本人にも関わることであった。象山の言葉はさら続く。

西洋の学問の進歩は恐るべきものである。足下ぐらいの若者は充分我が国の学問をした上、更に西洋の学問をなし、そしてそれぞれ一科の専門を究めることにせねばならぬ。また、そのうちからしっかりした者を西洋に遣し修業せしめることが肝要である。かくて、それぞれの専門家を集めて、国の力を充実し兵備を完成しなければならぬ。足下のような若者はこの心懸けで、身体を達者にしてそれぞれの学問をして行くことが責務であって、徒に悲歌慷慨(ひかこうがい)*4したり、軽躁に騒擾憤死するようなことでは君国のために何の役にも立たぬ。中略~青年はそれぞれ一科の学問を修め、研究を遂げてその結果を挙げるに力(つと)めることが結局、今後、真の攘夷の方法である。』

 西洋の学問の進歩の実態を踏まえるなら、まずは自国の学問を習得し、その上で西洋の学問を学ぶべきである。そしてその中から自ら専門とする分野を選んで、それを究めるべきである。優秀な者はさらに海外で修業させて、それぞれの分野の専門家を育成し、国力を充実させねばならない。若者の責務は、身体を健康に保ち学問に専心することである。いたずらに悲しんだり憤ったり、軽率に騒いで命を落としたりしてはならない。それぞれが専門とする学問を修め、研究を進めて結果を出すことが、結局は真の攘夷の方法である、と象山は説いた。

 このとき石黒には、象山の考えが承服できなかった。「洋書を視ると目がつぶれてしまう」と思うほどに、西洋を嫌悪していたからである。洋学を修めることなど論外であった。石黒は象山への弟子入りを断念して当地を去ることを決心する。

 別れを告げる石黒に対し、象山は次のように声をかけた。

足下のようにまだ春秋に富んでいる者は、今しばらくさようなことを言ういてもよかろう。しかし、早晩必ず横文字を読まねばならぬ場合になる。その時になって初めて横文字は物好きで読むのではない、読まねばならぬ必要があるのだということを自覚するであろう。今のような説を吐くのも、しばらくの間に過ぎなかろう。』

 両親の残してくれた遺産は底を尽き始めていた。幕末において、裕福な武士は限られていた。石黒にも新たに職業を探して生計を立てる必要が生じていた。20歳のことである。

 思案の末、石黒は故郷で整骨医を開業することを決心する。石黒は江戸にもどり、当時名人と言われた整骨医の名倉弥五郎に弟子入りすることにした。

 早速弥五郎を訪ねて弟子入りを願うと、意外なことに断られてしまう。当然引き受けてもらえると思っていた石黒は納得がいかない。なぜ引き受けられないのか、理由を問いただすと、弥五郎はあっさり答えて言った。

それは善い御問いです。それについて御話ししたい。 中略~ 弟は今、松本良順先生に随い、長崎で西洋医学の修業中、倅はまだ八歳ですが、これも成長したら米国に出し、西洋流の医者にするつもりです。私の整骨術も解体新書という西洋翻訳の解剖書を見てからメッキリ進みました。それで私は、医学はどうしても西洋医学でなければならんと考えています。今、貴君の学歴・人格を以ってして、我が子にも望ましからぬ、範囲の狭い整骨術だけを専門にやらせるということは、いかにもお気の毒である故お断りするのです。貴君が一般医学を修めた後に、整骨術を学習なされたいならば、私は悦んで蘊奥をお授けしましょう。』

 このように言われてしまったら石黒も引き下がるよりない。西洋医学を修めてから入門するかもしれないので、その節はよろしくお願いしたい、と言い残してこの場を辞するよりなかった。

 西洋医学とはそれほどまでに優れたものなのか。

 石黒の脳裏には、象山のことばがよぎったに違いない。悩みに悩んだ末、石黒は日本古医学と漢方医学、そして西洋医学を比較してみて、西洋医学が本当に優れているかどうか確認することにした。その結果、最も真実に近いのは西洋医学であることを確信する。

は日本医学の大家佐藤民之助氏を訪うて、日本古医学の大要を聴いてみました。それから漢方については田村という友人が、当時、漢方の大家として学問にかけては浅田宗伯以上と言われた尾台良策の塾におったから、その人に就いてその大要を聞き、その人の示すところによって吉益南涯著傷寒論精義という書を読んでみました。次に西洋医学に転じて、私は英人合信(ハブソン)著全体新論』『西医略論を読んでみました。そうして三つを比較すると、合信の所説が一番真に近いと感じました。』

 石黒は西洋医学を学ぶ決心をした。

 思い起こされるのは佐久間象山のことである。

 象山は、石黒が訪問した翌年、元治元年7月11日(1864年8月12日)に京都で浪士によって殺害されていた。石黒が西洋医学を学ぶ決意をしたのは、象山が暗殺されてからわずか数か月後のことである。石黒は霊前に赴いて、象山に詫びた。

『先生が凶刃に斃れて後数ヵ月にして、もう自発的に横文字を学ばねばならぬ必要に迫られました。それは私が西洋医学を修めることになったからです。その際、私は「祭ニ象山先生一文」一篇を作り、香を焚いて先生の霊前にお詫びを申しました。』

 西洋医学を学ぶために、石黒が最初に師事したのは、医家の柳見仙(やなぎけんせん)だった。柳からは医学と蘭学を学んだ。教科書は当時競って読まれていた、朋百(ポンぺ)*5伝習の『医学七科書*6の写本である。

 日夜勉学に励んだおかげで、やがてオランダ語を解読できるようになり、治療の理解も深まると、そろそろ故郷に帰り開業医となるべきではないだろうか、という考えが石黒の脳裏に浮かぶようになる。しかしここでも気がかりなのは象山の言葉である。田舎で開業医となることは象山先生の思いに反することではないか。思い直した石黒は江戸にとどまってさらなる精進を決意する。

かくの如き姑息の心を出してはさきに医学に志を向けた一念と違う。本当の医学者になり、医界にあって時勢に遅れず、遂に我が国の医学をして西洋各国の医学と並んで馳せ行く程度にまで進歩せしめ、この方面で彼の攘夷の実を挙げることをどこまでも慣行せねばならぬと決心しました。』

 慶応元年(1865)の冬、21歳の石黒は、当時できたばかりの江戸医学所*7に入学した。そして明治元年(1868)に卒業した後も、苦読師(下級教官)としてとどまった。幕府直轄だった医学所は、維新後に大学東校(東京大学医学部の前身)となる。

 維新に際し、医学所を離れていったん帰郷していた石黒は、明治2年(1869)に再び上京して大学東校に勤務し、翌年26歳で大学少助教兼少舎長となった。 すべてが順風満帆に見えた石黒だったが、転機は突然訪れる。明治4年(1871)、文部大臣が江藤新平から大木高任に代わると、その腹心であった書記官に楯突いたことが原因で、文部省を罷免させられてしまう。
しかし、優れた実務家であった石黒の評価は高く、まわりが放っておかなかった。

 しばらくして兵部省から声がかかる。兵部省では、軍医制度創設を担う実務人材を探していた。兵部省にはまだ医官の職制がなく、軍医頭(ぐんいのかみ)に任ぜられていた松本良順*8は、軍医制度の創設を急いでいた。

                                                           後半につづく

*1懐旧九十年1983年 岩波文庫) 
本書では昭和11年2月に東京博文館より発刊された初版から七分の一弱が省略されている。(本書より)

2石黒 忠悳 
旧日本陸軍軍医総監・陸軍省医務局長。弘化2年(1845)に御家人であった父・平野順作良忠の勤務地であった岩代国(福島県)に生まれた。安政2年(1855)に父を、5年には母を亡くし、14歳にして自立を余儀なくされる。万延元年(1860)、父の姉が嫁いでいた越後国三島郡片貝村(今の新潟県小千谷市)の石黒家の養子になり、当地で私塾を開いた。その後、医学を志して江戸へ出て、幕府医学所を卒業後、医学所句読師となる。後に兵部省に転じ、山縣有朋や大山巌に徴用されて陸軍医として活躍、当時の医学界の事実上のトップであった軍医総監にまで上り詰めた。(本書より)

3佐久間象山 (1811〜64)
幕末の朱子学者・蘭学者・兵学者。「ぞうざん」とも読む。信濃(長野県)松代藩士。佐藤一斎に朱子学を学ぶ。のち蘭学に励み,江川太郎左衛門の門に入り洋式砲術を学ぶ。1851年江戸に塾を開き砲術・兵学を教え,西洋技術と東洋精神の融合を説く(東洋の道徳,西洋の芸術)。勝海舟・坂本竜馬・吉田松陰らがその門から輩出。開国論を主張し攘夷論者に京都で刺殺された(旺文社日本史事典 三訂版より)

4悲歌慷慨(ひかこうがい) 社会の荒廃や自らの人生の悲劇を、悲しく歌い、また憤って激しく嘆くこと。悲痛で壮烈な気概のたとえ。(学研 新明解四字熟語辞典より)

5朋百(ポンペ 【Johannes Lijdius Catharinus Pompe van Meerdervoort】(1829‐1908)
幕末に来日したオランダの海軍軍医。日本が系統的な西洋医学を導入するのに大きな役割を果たした。ベルギー生れ。ユトレヒト大学卒,海軍軍医となり,1857年幕府から招かれ第2次海軍伝習所医官として着任。在日5年間,幕府医官松本良順を中心に全国から集まった医学生を中心に,人体解剖・臨床医学講義を含む幅広い教育を行い,これらの多くは講義録として残されている。コレラ予防,性病予防,種痘にも従事。61年彼の要請で長崎養生所を建てたが,これは,日本における近代病院の最初であるとともに,長崎大学医学部の原点ともなっている。(株式会社平凡社世界大百科事典 第2版より)

6『医学七科書 幕府の官医・松本良順が幕命で長崎に赴き、蘭医朋百(ポンぺ)から講受した『医学七科書』の聴講録で、七科とは、物理学・化学・解剖学・生理学・病理・内科・外科で合計45冊あった。従来は、西洋医学と言っても、ただ内科・外科・解剖書等を読んで治療するに過ぎなかったが、爾後は理学・化学・解剖・治療というように順序を立てて学ぶこととなったのは、この朋百(ポンぺ)氏の教則と松本良順の昌道とで始まったもので、これが日本の近代医学発達の基礎となった。(本書より)

7江戸医学所 この医学所は、伊東玄朴氏の大尽力によって当時出来たばかりのものです。そのことは後に述べますが、その初めは在江戸の西洋医家の篤志家が協力して、神田のお玉ヶ池の種痘所を設けたのが基で、それからおいおいと発達して、医学講習所となり、更にこれを官に寄付して官立となり、西洋医学所と改称し、その後西洋という二字を取り去って単に医学所という名称になったのでした。これこそ今の東京帝国大学医学部の前身です。(本書より引用)

8松本良順 (1832~1907)医師。佐藤泰然の次男として生れ,のち幕府医官松本良甫の養子となる。安政4年 (1857) 幕命により長崎に留学,蘭医 J.ポンペについて西洋医術を学び,文久1年(1861) に創立した長崎養生所でポンペを助けて教育と臨床にあたった。同3年6月江戸に帰り,緒方洪庵の跡を継いで幕府の西洋医学所頭取となった。維新の戦いには幕軍方に投じ,官軍に捕われて明治2年(1869) に釈放された。翌年,早稲田に蘭疇医院を開き治療と教育を行なったが,軍医制度発足にあたり山縣有朋の要請で兵部省に出仕。 1873年初代陸軍軍医総監,のち貴族院議員となり,男爵を授けられた。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典より)

     

書名 蘭学事始 付・形影夜話」(1980年 教育社新書<原本現代訳>54より
形影夜話 佐藤昌介校注(日本思想大系64所収)現代語訳
著者 杉田玄白著・浜 久雄訳
                                                   *『 』部分 本書より引用

 日本最初のオランダ語の翻訳書は、杉田玄白*1前野良沢*2らと訳したオランダの医学書「ターヘル・アナトミア」すなわち「解体新書」*3である。翻訳作業は困難を極め、完成までに約4年の歳月を要した。

 玄白はなぜオランダ医学書の翻訳を思いたったのだろうか。
玄白は晩年の著書「形影夜話(けいえいやわ)」*4で、当時の心境を語っている。意外なことに、きっかけは荻生徂徠*5の兵学書「鈐録外書(けんろくがいしょ)」*6だった。そこには、本当の戦さというものは、学者が教えるのとは違って、大将が軍事理論に沿って判断し、勝敗はそのときの条件によって決するものだ、と書かれていた。

 医療もまた軍事と同じではないか。すなわち、理論を学んだ医師が判断し、治療の成否はそのときの条件によるからである。では学ぶべき理論とは何か。それは当時の最先端であったオランダの医学理論であると玄白は考えた。オランダ医学では、医師を志すものは、まず第一に、身体の構造について学ぶべきである、と唱えていた(玄白らは翻訳に先立ち、実際に人体解剖を行い、原書の解剖図が正しいかどうか確認している)。孫子*7呉子*8の兵法が戦さの原理であるように、身体の構造についての正確な知識は医学の原理である。原理を知らなければ、戦さでも医療でも、勝利は覚束ない。

 もちろん、知識だけで的確な治療を施すことはできない。
名医になるためには、豊富な臨床経験が必要である。医療技術を上達させるためには、貧しくて身分が低かろうと、金持ちで身分が高かろうと、招かれたらでかけて行き、頼まれたら自分の妻や子供が患っているように思って親切に、一人でも多く治療するべきであると玄白は言う。

 ところで、病気には治りやすい病気とそうでない病気があるが、難病への対処のしかたで、医者は上等、中等、下等に分けられると玄白は言う。
難病はほかの医者にゆずって、治しやすい病気だけ治療する医者は、下等である。このような医者は生涯、医術の向上は望めない。難病とわかってからも、患者のために苦心しようとしないで、治療法を変えない医者がいる。これは中等である。では上等の医者とはどのような医者のことを言うのだろうか。玄白は言う。
『上等の医者は、なおしにくいことはもとより知っていながら、患者の息がたえ、脈がなくなるまでは、なんとかして、かならず救ってやろうと、心をひそめ、思いをこがし、心力をつくして治療するものである。このようにすれば、百のうち一つぐらいはうまくいき、最終的に患者の命を救うこともあるものだ。死ぬまでは、このように心残りのないように全力を尽くしたいものである。』

 とはいえ、力量が未熟であるにも関わらず、むやみに難病患者を引き受けるのは避けなくてはならない。
『医者だからといっても、自分が熟達していないことを、なんでもひきうけて、治療すべきことではない。(中略)自分がよく習熟していないことをやって、患者の治療を多くあやまり、そのうえ識者にわらわれるようなこともあるだろうと思う恥ずかしさのため、このたぐいの病気は、みな辞退して治療をひかえるのだ。これは、わたしが信念としているひとつである。』

 今、世界中の科学者や医療関係者が、新型コロナという難敵の正体を突き止めるため、日々研究し続けている。その成果は論文となって、権威ある医学専門誌*9に公表され、世界中で共有されている。玄白らは解体新書の翻訳に4年を要したが、現代ではインターネットを通じて、数時間で最新の研究成果を共有することができる。最先端の医療知識をいち早く取り入れ、実践で活かすことが、可能になったのである。

 最新の医療知識と、豊富な臨床経験から得られる経験知の重要性は、300年前に玄白によってすでに指摘されていた。最先端の研究成果に精通し、臨床経験が豊富な「上等」の医師は、我が国にもたくさんいるはずである。それが、今秋、急速に感染者が減少した要因のひとつと考えることはできないだろうか。感染の予防や拡大防止についても、専門家が最先端の知識をいち早く取り入れ、自国の条件にみあった対策を考えて政府に提言すれば、政治家は医療以外の条件をも考慮したうえで、具体的な政策を実施することができる。そうすれば、PCR検査の運用や、感染が拡大しているエリアでの医師や病床の確保など、個々の医師では解決できない問題についても、より合理的かつ効率的に対処できるのではないだろうか。

 何れにしても、古い理論しか知らない、臨床経験の乏しい医師や専門家では、新型コロナのような未知の難敵との闘いに勝ち目はない。

『原理を学ぶことを第一とし、これを習得してのちに、治療の方法を理解する』
という玄白のことばを、私たちは、今一度思い起こしてみるときなのかもしれない。
                                                               了

*1杉田玄白(すぎたげんぱく) 江戸後期の医学者,蘭学者。名は翼(たすく),号は鷧、斎(いさい),九幸。若狭小浜藩医。明和8年(1771)前野良沢、中川淳庵と江戸小塚原刑場で刑死体の解剖を観察,蘭書《ターヘル・アナトミア》の正確さに驚き,《解体新書》訳述を遂行,蘭学の基礎を築いた。文才にすぐれ随筆が多く,《蘭学事始》《形影夜話》《野叟(やそう)独語》などの著書がある。子の立卿〔1786-1845〕,孫の成卿〔1817-1859〕も蘭方医として名高く,立卿は特に眼科にすぐれ,成卿は幕府の訳官,蕃書調所の教授として活躍した。(株式会社平凡社百科事典 マイペディアより)

*2前野良沢(まえのりょうたく) 江戸中期の医学者,蘭学者。名は熹(よみす),号は蘭化。豊前中津藩医。初め古医方を学んだが,明和6年(1769)青木昆陽から,翌年長崎に行き通詞からオランダ語を学び,杉田玄白らと協力,《解体新書》訳業の中心となった。弟子に大槻玄沢らがある。著訳書《和蘭訳筌》《字学小成》など多数。(株式会社平凡社百科事典 マイペディアより)

*3解体新書(かいたいしんしょ) 日本最初の西洋解剖学訳述書。安永3年(1774)刊。杉田玄白、前野良沢、中川淳庵、桂川甫周らの協力による。本文4巻と序・図1巻からなり,図は小田野直武の制作。本文はドイツ人クルムスの著書の蘭訳本、いわゆる《ターヘル・アナトミア》を訳したもので,のち大槻玄沢により《重訂解体新書》(文政9年(1826))として大成された。(株式会社平凡社百科事典 マイペディアより

*4形影夜話(けいえいやわ) 影法師との対話という形式で、老境の円熟期にあった杉田玄白の医学観を述べたもの。上下二巻。享和2年(1802)の11月に書かれ、長く弟子の間で筆者されて読み継がれていたが、文化7年(1810)11月に刊行された。「医学の今日的課題を的確にとらえ、つねに科学的合理主義の精神で貫こうとしている」(本書の訳者による解説より)

*5荻生徂徠(おぎゅうそらい) (寛文6年(1666)〜享保13年(1728))江戸中期の儒学者。江戸の人。名は双松(なべまつ)。宇(あざな)は茂卿(しげのり)。別号、蘐園(けんえん)。また、物部氏の出であることから、中国風に物(ぶつ)徂徠と自称。朱子学を経て古文辞学を唱え、門下から太宰春台・服部南郭らが出た。著「弁道」「蘐園随筆」「政談」「南留別志(なるべし)」など。(小学館 大辞泉より)

*6鈐録外書(けんろくがいしょ) 荻生徂徠が守山藩の家老である岡田宣汎の質問に応じ、所感の形式で兵学を説いたもので、鈐とは錠まえのことで、兵法のポイントを収録した書物である(本書より抜粋)

*7孫子(そんし) 中国,春秋時代に成立した兵書。《呉子》と並称される。1巻13編で,始計,作戦,謀攻,軍形,兵勢,虚実,軍争,九変,行軍,地形,九地,火攻,用間からなる。最も広く読まれた兵法書。著者は斉の孫武または孫【ぴん】(そんぴん)といわれ,兵法をもって呉に仕えたという。(株式会社平凡社百科事典 マイペディアより)

*8呉子(ごし) 中国古代の兵法書。《孫子》と並称される。作者とされる呉起〔?-前381〕は戦国初期に魏に仕えた。現在の通行本は,唐の陸希声の編。1巻。図国,料敵,治兵,論将,応変,励士の6編よりなり,儒教を加えた兵法書として古来広く読まれた。(株式会社平凡社百科事典 マイペディアより)

*9医学専門誌 New England Journal of Medicine (NEJM)The Lancet、The Journal of the American Medical Association (JAMA)、Nature Medicineなど。

杉田玄白肖像. / 作者 石川大浪画 重要文化財。国立国会図書館蔵

杉田玄白肖像 / 作者石川大浪画
文化9年(1812)正月、80歳を迎えた杉田玄白(1733-1817)の像。「蘭学事始」刊本掲載肖像の原画。
賛は玄白、「荏苒(じんぜん)太平の世に、無事天真を保つ、復是れ烟霞改まり、閑かに八十の春を迎う」と書している。
画家の石川大浪(1765-1817)は名を乗加(のりまさ)といい、旗本、大番組頭を務めた。
狩野派を学んだが、蘭書の挿絵銅版画などから洋風画に親しみ、弟孟高(もうこう)と共に蘭学者の依頼に応えて写生的な解剖図や彼らの肖像画を描き、わが国の洋画史上先駆的な功績を残す。重要文化財。国立国会図書館蔵

書名「世事見聞録」(1994年 岩波文庫)

著者 武陽隠士(本庄栄治郎校訂 奈良本辰也補訂)

 『 』 部分 本書より引用

 前回に続き、「世事見聞録」について紹介する。後編では、著者の国家再建案について考察する。

著者はどうしたら国家を建て直すことができると考えたのだろうか。

  何よりも、国家の根本を頑丈に修復しなければならないと著者は主張する。それは町人や遊民の台頭を阻止し、武士と農民の地位を回復することであった。そのために必要なことは三つ。すなわち、犯罪や不当な商いの大本である度を越えた贅沢や淫欲を断つこと、困窮者を救済すること、そして、故郷を捨てて町人や遊民に転じた者の多くを、再び故郷に返し農民に戻すことである。そうすれば都会の犯罪は減り、荒れてしまった地方は復興し、衰えてしまった民業の利益も増えて、国家の根本は堅固になるに違いない、と著者は考えたのである。

『世上の奢侈・淫欲の筋をことごとく断ちて、利欲犯奪の道を塞ぎ、福有を欠き、貧賤を救ひ、または都会繁花に充満したる町人・遊民、及びそのほか国々に至るまで、すべて遊食する輩を、過半元の土民に復するなり。これ国家を犯し費す利欲の賊を減じて国々荒廃の地を復し、労(つか)れ衰へたる民業を増益し、第一国の本を堅固に復する術なり。』

  国民も変わらなければならないと著者はいう。

身分の上下に関係なく、国民は倹約を旨とするべきである。衣食住は、不足すれば病気や短命の原因になるし、過剰になれば、驕りや怠惰、利欲のもととなり、何れも不善な行いに至ること必定である。今の世は不足している者と、過剰な者が多く、ともに不善をなしている。衣食住に過不足がなく平均的であれば、貧富や苦楽の差はなくなり、費用負担も減って、国民は安心して暮らせるようになるだろう、というのだ。

 

 『一体天下国家を治むるは、上下とも衣食住を安くする本とす。衣食住足らざる時は、あるいは病を生じ、あるいは短命し、あるいは不善をなせり。また衣食住余る時は、あるいは怠り、あるいは奢り、あるいは利欲に募り、かくの如く不善をなせり。足るもあし足らざる悪し。今世すでに偏りて、足らざる多く、余るもの多くありて、いづれともとも不善をなせり。これを平均し、貧福苦楽偏らざる時は、民安く治り安泰ならん。』

  国家の再建には、優れたリーダーの存在が不可欠である。

  著者の理想とするリーダーは、才知と徳行を兼ね備えた忠臣であり、艱難辛苦を一身に引き受けて、国家の存亡を左右する難題に立ち向かい、国民の安全を守り、不正と不道徳を退け、贅沢と安逸に遊んで暮らしているものは近づけず、無法者を罰し、無念の死を遂げそうな者を救い、国民の苦しみや悩みを解消してくれるような人物である。

 

ひねがはくは才徳兼備の忠臣世に顕はれて、身の艱難を避けず、天徳を履(ふ)みて、天下の艱難、国家の安危、宗社*1の存亡、世の邪曲、みな一身に請けて君に奏し奉り、君*2と民の間に立ち、君命を奉じ、新たに厳令を立て、驕奢・安逸・遊食の徒を避け、国賊無道を征して、万民の困窮及び屈死する助け、君の仁をことごとく民に及ぼして民の愁ふるところを解き、民、君を悪給はず、この君をして堯舜*3の君たらしめ、この民をして堯舜の民たらしめ、天地を広大にして日月を清明にし、山川の鬼神を帰服せしめ、四時順気違はず、至治の沢、天下国家に及び、君富み、臣富み、民富むの大業を成就して、上下万世を諷(うた)ひ、羯鼓諫鼓苔を生ずる*4世を発すべき人傑を希所なり。』

  しかしながら、リーダーを期待された武士たちははなはだしく劣化していた。

武家の生活は華美になり、心身は虚弱で忠誠心も薄く、年長者を敬おうともしない。まるで公家か出家、婦人のように軟弱になり、町人や職人のような性根になり、義理も恥も知らない。勝手気ままに悪行を重ね、中には盗賊のようになってしまう者すらいた。

十人中、本物の武士と呼べるものは、もはや二、三人しかいなかった。その二、三人ですら、元禄や享保の武士に比べたらかなり劣っている。武士たちの多くは、国を治める役目を忘れ、国を乱すことばかりしたがるようになってしまった。

今は大名の地面広大にする事、制限なし。衣服の飾り美事になり、酒食の費え多くなり、居宅屋敷の大造になるに随って、内証だんだん減少し、殊に心身虚弱になり、忠信も薄くなり、孝悌の道も失ひ、前にもいふ如く、あるいは公家風になり、あるいは出家・婦人の如き人情になり、あるいは町人・職人などの心根になりて、義理も恥辱も知らず。あるいは放逸無慙のもの、あるいは種々悪行を尽くして盗賊に似寄りたるものになりて、たとへば十人の内七、八人までは右体の武士道を失ひて、実正の侍は十人に二、三人ならんか覚束なし。そのニ、三人も元禄・享保の頃の侍に競ぶれば、さぞ劣りたるものならんか。

一体、武士は国家を治むる役目なるが、その役目の事は打ち忘れ果て、へって天下を乱す事のみ欲するなり。』

江戸時代は封建制度*5の時代である。それは主君が家臣に与える封土(ほうど)を介した、主従関係による支配体制である。封土には、その土地の住民すなわち農民も含まれ、家臣は住民からの年貢(米)を収入としていた。著者の武陽隠士にとって、封建時代の理想は、「徳川幕府の絶対性を念頭に置いての」神国日本であり、「その本領を発揮した時代を二百年以前の神君、即ち徳川家康の時代として考えていた」(「 」内は本書解説より)。

すなわち、徳川家康の治世こそが著者の理想であり、家康の時代に返ることこそが著者の望みだったのである。

 しかしながら、本書が執筆されたのは、時代が大きく変わろうとするときであり、誰もが変化の大きなうねりの中にいた。もはや徳川家康の治世に戻ることは不可能であった。国民に倹約を奨励し、町人になった農民を帰郷させ、農民に戻したところで、変化の大きな流れを阻止することはできなかったに違いない。むしろ、なすべきことは、貧富の格差を是正するための税制改革と、不正を厳しく取り締まる司法改革ではなかったか。

 時代の転換期には、古い規制が進歩の足かせになってしまうことがありうる。同時に、既存法ではさばけない事例が増え、それにつけこんで不正に利益を得るものも出てくる。

大切なことは、時代の変化に対応した新しい法整備と、厳格に法を執行する為政者の覚悟である。法を犯すものは身分の上下に関わらず、厳しく罰せられなければならない。むしろ身分の高いものほど厳格に罰しなければならないだろう。身分が高ければ高いほど、国民に与える影響は大きいからである。贔屓や賄賂、あるいは忖度(そんたく)によって、法の公正がないがしろにされるとき、国家が衰退に向かうのは避けられない。

 その後日本は開国し、二つの世界大戦を経て民主主義国家へと生まれ変わった。高度経済成長期には、国民の所得は順調に増え、一億総中流を実現した。しかし、やがて成長が鈍化しはじめると、限られた成長の果実をどのように分配するかが、政策の大きな課題として再び浮上してきた。トリクルダウン効果*6が期待された新自由主義の経済政策は、望まれた成果を上げることができず、国民の貧富の格差は拡大した。

デジタル化と国際化は加速し、そこに近年の新型コロナによるパンデミックが加わって、今や世の中の仕組み自体が大きく変わろうとしている。封建主義と民主主義との違いはあるが、ともに転換期の時代であるという点で、文化文政時代と現代は似ていなくもない。

  求められているリーダー像もほぼ同じである。それは、主権者を君(将軍)から国民に代えて、著者の主張を読み替えてみればわかる。

すなわち、『身の艱難を避けず、天徳を履(ふ)みて、天下の艱難、国家の安危、宗社の存亡、世の邪曲、みな一身に請けて国民に奏し奉り、国民の間に立ち、国民の命を奉じ、新たに厳令を立て、驕奢・安逸・遊食の徒を避け、国賊無道を征して、万民の困窮及び屈死する助け、仁をことごとく民に及ぼして民の愁ふるところを解』いてくれるようなリーダーである。それは、昔も今も変わらない、日本人の望む、日本人らしいリーダーである。このリーダーは、正しいことをしようとしてかなわず、絶望の果てに自から死を選んだ、本当の忠臣の無念を、きっとくみ取るであろう。また、苦しみながら自宅で病と闘い続けている人々には、いのいちばんに手を差しのべるに違いない

1宗社 国家のこと

2  徳川将軍のこと

3堯舜(ぎょうしゅん) 中国古代で徳をもって天下を治めた聖天子堯(陶唐氏)と舜(有虞氏)。転じて、賢明なる天子の称。堯舜のような聖天子。明君。(精選版 日本国語大辞典より)

4羯鼓(諫鼓)苔を生ずる 君主の善政により諫鼓かっこを鳴らす必要がなくて苔(こけ)が生えるほど、世の中がよく治まっているたとえ。小学館 デジタル大辞泉より)

5封建制度 中世社会の基本的な支配形態。封土の給与とその代償としての忠勤奉仕を基礎として成立する、国王・領主・家臣の間の主従関係に基づく統治制度。また、領主が生産者である農民を身分的に支配する社会経済制度。(小学館 デジタル大辞泉より)

6トリクルダウンtrickle-down原義は、したたり落ちるの富める者が富めば、貧しい者にも自然に富が浸透する、という考え方。富裕層や大企業を優遇する政策をとって経済活動を活性化させれば、富が低所得者層に向かって流れ落ち、国民全体の利益になる、とする。レーガンのレーガノミクスや鄧小平の先富論などが典型。これに対して、有効な所得再配分政策を講じなければ、富は必ずしも低所得者層に向かって流れず、富裕層に蓄積し、貧富の格差は拡大する、との批判もある。通貨浸透。(小学館 デジタル大辞泉より)

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世事見聞録. 初編 / 武陽隠士 [著]

出版地不明 : 出版者不明, 文化13年(1816)序

早稲田大学図書館所蔵

書名「世事見聞録」(1994年 岩波文庫)*1
著者 武陽隠士(本庄栄治郎校訂 奈良本辰也補訂)
                                                             『 』 部分 本書より引用
 物事には光もあれば影もある。それは江戸時代も例外ではない。本書には、江戸時代後期、町人文化の絶頂期であった文化文政時代*2の"影"の部分について詳細に描かれている。
「武陽隠士」と名乗る著者は、奈良本氏の解説によれば、「江戸の南の方に居を構えた(中略)きわめて日本人らしい心をもった人物」である。
徳川幕府が開かれて213年、明治維新の52年前の文化13年(1816)に本書は書かれた。
 町人文化が繁栄を謳歌していた当時の江戸において、いったい何が進行していたのか。それは衰退なのか、それとも新しい時代の、言わば陣痛のようなものだったのか。今回から二回にわたって解き明かしてみたい。前編では、町人文化全盛の時代に、なぜ国家が衰退していると著者が考えたのかについて考察する。
 著者によれば、国家が衰退した一番大きな要因は、町人と遊民*3が、武士や農民よりも富と力をもってしまったことにあった。士農工商制度では低い身分の町人や遊民が、武士や農民よりも勢いを得て増長し、衣食住に多額の費用をかけるのは、国家に損害をもたらすというのだ。
『町人・遊民、だんだん増長して今武士と農民の上に越え、安泰を構へたるなり。かくの如く増長したる億万諸町人・諸遊民の衣食住に費ゆるところ、何程の事にやあらん。これ国家を損害するなり。』
 実は、町民や遊民の台頭と、武士や農民の没落とは表裏一体であった。
日本を大木に例えれば、武士や農民は根本であり、町人や遊民は枝葉に過ぎない。枝葉ばかり繁って根本が枯れてしまったら、大木はやがて倒れてしまう。町人と遊民ばかりが栄えて、武士や農民が苦しむような国家は衰退してしまうというのである。
  背後には経済や社会の大きな変化があった。世の中には贅沢と利欲がはびこり、新しい産業が次々に起こっていた。金銀銅鉄などの鉱物資源は国外に流出し、米穀、雑穀などの地産物から魚貝類などの海産物はことごとく市場経済に飲み込まれ、利潤の多くは町人や遊民の手に渡っていた。町人と遊民には、年貢もなければ、役儀や課役*4、法令もなかった。いくらでも利潤を得ることができたのである。
一方、武士や農民は、定められた取り分を超えて利益を得ることはできなかった。市場経済の恩恵にあずかることはできなかったのである。
 『武士と農民は国家の根本にて、その余の業はその末々に付き添ひたる枝葉にて、なくても済むべきものなるが、二百有余年以来の御知世に依つて、奢侈(しゃし)大いに起り、利欲大いに起り、産業大いに起り、交易利潤の道大いに行はるるに随ひ、億万の諸町人・諸遊民出で来て犯奪を競ふが故なり。まづ山より出づる所の大木・大石・金・銀・銅・鉄・錫・鉛を始め、また地より出づる所の米穀・雑穀・諸産物、及びまた海川より出づる所の貝・魚・藻布とも、みな商賈の手に渡り、利潤の道に入り、諸町人・諸遊民の潤沢となれり。武士と百姓は年々その元種を仕出だすに苦しみけるが、末みな右の如く諸町人・諸遊民の得ものとなり、栄花の種となれり。これ枝葉繁茂して根本を枯朽するに至り、国家の本に立ちし武士と農民、年々取り得る所も分限(ぶげん)5ありて少しも分限の外を得ること能はず。殊に役儀あり、法令あり、年賀あり、課役ありて、年々取り得る限りは残らず失費するなり。町人・遊民は制外となりて役儀もなく、法令もなく、年貢もなく、課役もなく、殊に利益何程も得次第にて分限なく、奢侈も心次第、行状も心のままにて済むなり。
 さてその掘り出したる金銀銅を、今世は国家の宝ともせず、交易利潤のために異国へ渡し遣はす事なり。(中略)正徳の頃か、新井筑後守が取調べし記録に、金銀銅を過半異国へ渡し、わづかに十が一ほど日本に残りしといふ。それまでに異国へ渡したる金銀銅の員数、莫大なり。これ人欲の所為にして、だんだん国土の肝胆を失ひ、山川鬼神も怒り給ふか。』
 物価は上昇し生活費の負担も増えていた。武士と農民の人口は減り、代わって町人や遊民の人口が増加していた。町人や遊民の中には、武士や農民を侮り、利欲にまかせて悪逆非道に走るものも出てきた。古来より守られてきた規範はないがしろにされ、法制度も有効に機能しなくなっていた。義理も、しきたりや習わしも、すべてすたれてしまった。不正が横行し、贅沢を競い、悪事を尽くした新事業がつぎつぎと起こっていた。一見華やかで盛況に見えたが、その実、世の中に信義はなくなり、国家は衰退の道を歩んでいた。
『かくの如く利欲の道繁昌するに随ひ、諸品の価高くなり、諸失費多くなりて、武士と農民はいよいよ衰へて人数減り、町人・遊民は人数多くなり、その内に利欲に勝ち、武家を軽しめ、百姓を侮り、栄花に満ち余りたるもの出来、あるいは利欲に迷ひて、悪逆無道を行ひ、上を犯し下を貪る悪徒等あまた出で来、ここにおいて古来の規矩準縄も崩れ、ご法度も立たず、世の義理も風俗も散々(ちりぢり)に乱れゆくなり。(中略)津々浦々・宿々在々まで諸商人・諸職人・遊芸者の遊民、才智才能を尽し、利欲の争ひ、邪曲の犯し合ひ、奢侈の競べ合ひ、悪事の尽し合ひして、工夫の上に工夫を凝らし、おひおひに新規の事ども出で来、繁花になほも賑ひを添へ、花に花を咲かせる世の中のやうに見えて、信義は次第に失せて国家の根本は衰ふるなり。』
 町人の経済的成功の背景には、江戸への一極集中があった。参勤交代制度により、江戸には日本中の大名とその家来が集まっていた。江戸の町人たちは、居ながらにして日本中のどことでも商売することができたのである。それは幕府や大名にとっても便利で都合がよかったため、武家のあらゆる取引を町人がとりしきるようになっていった。やがて、武家に限らず寺社や農民など、世の中の取引のほとんどすべてが町人の手に落ちると、町人たちは莫大な利潤を手にした。町人たちがいなければ、世の中全体が回らなくなっていた。町人は増長し、武士を軽んじ、農民を侮るようになっていった。
御府内*6は日本国中の大小名を始め、末々の軽き侍まで寄り集まり、金銀米銭を費す故、その潤沢にて商売の道繁昌いたす処に、今盛んなること武家に越え、諸事の便利、武威よりも最も通りよく、居ながら国々の欠引きをなし、公儀の御用すら御替金・御上米を始め、諸御用物町人の請け負ひ、また武備に拘はりたる徒士・足軽の受負ひ、旅行の支度、武具・馬具・諸式、残らず町人ならではならぬ世の振合ひ故、いやましに町人の増長する事になれり。すべて武家・寺社・百姓そのほかとも、世の中なべて町人の手に懸かりことごとく利潤を奪はるるなり。依つて世の中の有余は、分厘の塵零までもみな商人が掠め取りて次第に増長する故に、武家・百姓そのほかとも逼迫するなり。右の時勢にて、近来町家の者ども気嵩になり、武士を軽しめ、百姓を侮り、その驕慢、法を越すなり。』
 法制度は厳格さを失い、緩みに緩んでいた。
法は国家の大本であり、厳格に施行されなければならないにも関わらず、贔屓や賄賂、様々な取引や方便によって、骨抜きにされていた。身分の高い者が一つでも法を曲げれば、下層ではあらゆる法が緩んでしまう。同じように、法の執行者(すなわち武士)が、一度でも義理を欠いた軽薄な行いをすれば、社会には千万の悪行がはびこるようになった。
二百年来、御法度の寛(ゆる)やかになりたる事なれば、崩れたることいくばかりぞや。法は天下の大本なり。すでに神君様*7御制法御条目に、「法を以て義理を破るべし、義理を以て法を破るべからず」と仰せ置かれ、天地自然の義理に借りても法は破るべからずと厳重になし置き給ひしを、あるいは贔屓によりあるいは賄賂によりて、種々に差引き方便を加へておひおひに寛め緩め、当今ここに来たるなり。上にて法一つ寛めば、下にて万法緩むとなり、上に非義軽薄の行ひ一つあれば、下にいたって千万の悪行となる。』
 著者は自由経済を否定しているわけではない。適切に運用されるなら、自由経済が国を発展させることを認め、むしろ評価している。問題はその「程度」であり、行き過ぎはよくないと言っているのである。町人や遊民の数が増えすぎて、武士や農民が衰え、山林や田畑、民家が荒れてしまうような自由経済は行き過ぎである。国民の生み出す、米穀、雑穀、諸産物の量には限りがあるのだから、ただ消費するだけの町人や遊民の人口が増えすぎてはいけない。
『もっとも静謐(せいひつ)の御代なれば、諸産業もなくては叶はず、利潤の道もなくては叶はず、奢りの道も人欲を宥(なだ)める道具なれば、これまたなくては叶はず、町人・遊民も国家を補ふ一助にもあるべけれども、しかし当世の如く数多くなりて、国家根本の武士・農民の労(つか)れ衰へ、山林田畑荒れ、民家荒るる程になりては、済みがたきものなり。右の如く、武士の分限は年々極まりあり、国民の作り出す米穀・雑穀・諸産物とも、大概限りある事なれば、これを費す諸町人・諸遊民、すべてむだ食ひの人数も程合ひのあるべきなり。』
 このように町人や遊民のような、ただ消費するだけで何も生み出さない者が、国富(米)を生産する者よりも優遇され、繫栄して、人数も増えてしまった社会は、枝葉が繁って根本が枯れた大木のようなもので、国家を衰退させてしまうというのが著者の主張であった。
ではどうすればいいのか。後編では、国家再建についての、著者の考えを考察する。
                                               つづく
*1世事見聞録(せじけんぶんろく)江戸時代後期における見聞,評論書。7巻。著者は武陽隠士とあるが本名は未詳。文化 13 (1816) 年の自序がある。徳川の治世が次第に本を失い奢侈を増長する方向に流れたことを,当時の武士,農民,寺社人,医業,公事訴訟,町人,遊里売女,歌舞伎芝居,米穀などの産物,山林など,あらゆる職業,風俗,生産などの見聞を通じ,儒教的見地に立って論評している。事実の指摘はあくまで正確で,当時の社会情勢を知る好史料(ブリタニカ国際大百科事典より)
 
*2文化文政時代 江戸後期,文化・文政年間(1804〜30)を中心に寛政の改革後(1793)から天保の改革(1841)に至る時代。大御所時代ともいい,徳川家斉が11代将軍・大御所として君臨した。寛政の改革の遺風は19世紀初めで消滅し,家斉の豪奢と側近の放漫政策が展開。財政難対策には倹約令のほか貨幣改鋳,町人の御用金賦課が行われたが,幕藩財政一般が窮迫し,士風は退廃した。商品経済が農村に深く浸透して貧富の差が増大し,幕藩体制の経済的基盤はすでに崩壊しはじめ,百姓一揆・打ちこわしが頻発した。諸藩はこの時期に専売制を強化して財政難に対処した。一方,対外的にはロシア船・イギリス船の近海出没で海防問題が注目され,幕府の北辺調査,異国船打払令発布となる。また文化面ではこの時期に化政文化が展開した。(旺文社日本史事典 三訂版より)
*3遊民 職につかず遊び暮らしている人。(デジタル大辞泉より)
*4役儀や課役 租税や課税(デジタル大辞泉より)
*5分限(ぶげん) 平安時代末から江戸時代にかけて,その人の社会的身分,地位,財産等を示す語。〈ぶんげん〉ともいう。時代と境遇とにより,何によって示されるかは違うが,鎌倉時代までは所領の広さや家人,郎従の数で示され,室町時代以後は所領の高が中心で,江戸時代の農民は持高,商人は広く財産をもって示される。武士はその分限に従って軍役を勤めることが求められ,分限相応に行動することがよしとされた。そこから分限の語は〈身の程〉とか,〈分際〉とかの意味でも使われた。(世界大百科事典 第2版より)
*6御府内 江戸時代、町奉行の支配に属した江戸の市域。文政元年(1818)、東は亀戸・小名木村辺、西は角筈村・代々木辺、南は上大崎村・南品川町辺、北は上尾久・下板橋村辺の内側と定められた。(デジタル大辞泉より)
*7神君様 徳川家康のこと。

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