書名「江戸時代の朝鮮通信使」(講談社)*講談社学術文庫にも所収
著者 李 進煕(リ・ジンヒ)

江戸時代は、日本と朝鮮国の間が最も平和な時期であった。
鎖国(*1)をしたのはキリスト教国と清国だけであって、朝鮮国については全く鎖国しておらず貿易も盛んだった。

そもそも徳川家康は「朝鮮とは争うべきでない」という考えであり、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)にも内心では反対であった。
実際、家康は関ケ原の戦いで勝利して間もない1600年9月、対馬藩主の宗義智(そうよしとし)に朝鮮国との和平交渉を命じている。第二代将軍秀忠も、権勢や利益のためではない、信義にもとづいた国交を強調した。大学頭であった林復斎(はやしふくさい)らが編纂した徳川幕府の外交資料「通航一覧」には「日本朝鮮和交の事、古来の道なり。しかるを太閤一乱の後その道絶えぬ。通好はたがいに両国の為なり。まず対馬より内々書をつかわして尋ね試み、合点すべき意あらば、公儀よりの命と申すべし」と記されている(「通航一覧」*2)。

道のりはけっして平坦ではなかったが、交渉にあたった対馬藩主と東萊(トンネ)府使との地道でねばり強い努力が実を結び、1607年に晴れて日本と朝鮮国の国交は回復した。
いっぽう朝鮮王朝も、対日政策の基本を将軍家との信義を損ねてはならないということにおいた。
国交回復の2年後、1609年には貿易協定も成立する。そして1618年には釜山に日本の海外公館ともいうべき「豆毛浦倭館(トモポワカン)」が完成した。そこでは5~600人の日本人が常駐して外交、貿易の業務に従事した。やがて釜山港には年間50隻をこえる日本の貿易船が出入りするようになる。豆毛浦倭館が手狭になると、1678年には広くて利便性のよい草梁倭館(ソウリョウワカン)へ移り、以後1872年まで日朝外交の拠点として維持された。

徳川幕府の将軍が交代すると、対馬藩主が朝鮮王朝に大慶参判使(たいけいさんぱんし)をおくってこれを報告し、つづいて脩聘参判使(しゅうへいさんぱんし)をおくって使節の派遣を要請したのが、朝鮮通信使の始まりである(当初の3回は通信使ではなく回答兼刷還使〔かいとうけんさつかんし〕と呼ばれた)。
朝鮮王朝は要請をうけいれる礼曹参判(れいそうさんぱん)の書翰を幕府に送り、早速三使(正使・副使・従事官)を任命するとともに、使節一行の編成にとりかかった。正使は礼曹参議(外務省局長クラス)級からえらばれ、文化交流にそなえて第一級の文人、医者、画家がこれに加わった。通信使は1607年から1811年の間に12回にわたって派遣され、第4回以降になると470~500人にもなった。一行は7~8カ月をかけて江戸を往復した。
徳川幕府はもちろん、接遇を命じられた各地の藩主らは、通信使を歓迎し、「将軍一代の盛儀」として盛大にもてなした。それは秀吉の朝鮮侵略によって破綻していた両国の関係を修復し、改めて友好関係にあることを確認しあうまたとない機会となった。

朝鮮通信使は当時の江戸市民の目にはどのように映ったのだろうか。
江戸市民にとって、朝鮮通信使の来京は異国の風俗・文化に接する貴重な機会となった。
当日になると、着飾った江戸市民が早朝から沿道にかけつけ、一行の到着を待ちうけたという。それは一種のお祭りであった。
通信使一行の主要人物が肩書入りで描かれていた浮世絵版画が大人気であったという。沿道の市民は、浮世絵を眺めながら実際の行列に登場する人物の肩書を確かめ、それを仲間同士で楽しんだ。肩書入りの浮世絵版画はよく売れたので、通信使の来日ごとに刊行された。喜多川歌麿の「朝鮮人来朝行列図」(1811年)が有名である。
通信使をもてなす舞楽は定まっていなかった。1682年(天和2年)までは猿楽だったが、1711年(正徳元)度は新井白石の進言で江戸城中の御白書院で雅楽が催された。
いっぽう歌舞伎は不興で急遽別の出し物に変更したという。儒教の国ではたとえ舞楽であっても男女の愛情表現はタブーだった。通信使の宿舎は今日の「東本願寺」(地下鉄銀座線の田原町駅近く 通称「浅草本願寺」)で、当時の様子については、同寺のホームページに詳しく記されている(https://www.honganji.or.jp/index.shtml)。

もちろんよい話ばかりではない。
当時の朝鮮国は、儒教文化や、漢文学の先進国であったため、申維翰(シンユハン*3)のように日本の学者をみくだすような発言をする通信使もいた。
司馬遼太郎は申維翰について次のように指摘している。
「申維翰は・・・われわれ後世の者に、すぐれた日本紀行『海遊録』を遺してくれた。まことにみごとな文章だが、日本を見る観察眼が裸眼ではなく、いわば朱子学的であり、さらに科挙の及第者的であることが、小さな瑕瑾(きず)である。~中略~申維翰には申しわけないが、もし日本に科挙の制度があったとしたら、江戸時代の多様さはなかったのである。江戸期は、形だけは朱子学が官学だったが、他の学問が弾圧されるということはなかった。江戸期はキリシタン禁制のほかは、学問思想は、高麗朝や李氏朝鮮にくらべてはるかに自由だった」(『街道を行く』28 朝日新聞社)。
著者も司馬に同調する。
「朝鮮通信使たちは朱子学のモノサシにてらしてすべてを判断したため、うわべの日本しか把えられなかった。朝鮮と異なる支配体制、ちがった価値観の日本社会の底力に気づかなかったばかりか、日本をみくびる態度さえみられるのである」。
さらに「単一の価値観しか許されない社会は、どの時代においても人間の創造的活力をうばい、社会の発展をはばむものだが、そうした弊害は李朝後半期にもっとも顕著にあらわれた。産業が衰退し経済が破綻しても、他の良さに目を向けようとしなかった。」と続く。
江戸時代の日本は学問思想が自由であり、そこで育まれた「多様性」が、日本社会に創造的活力をもたらしていた。それが日本の底力となっていた。朝鮮通信使はそのことに気づかなかった。

やがて徳川幕府が倒され、明治新政府が成立する。
ヨーロッパの新技術を積極的に取り入れていた新政府は、日朝関係を、従来の册封体制*4から条約に基礎づけられた近代的な関係へ変更したいと考えた。
1868年12月、新政府樹立を告げるために、釜山浦入りした対馬藩の家老・樋口鉄太郎が持参した書契には、明治天皇を皇帝として朝鮮国王の上位におき、「勅」という用語が使われていた。册封体制の維持を望んだ朝鮮国にとって、「皇」とは清国にしかゆるされないことばであり、「勅」とは皇帝の詔勅であって、日本がそれを使うのは、朝鮮国王を「臣隷」することを意味した。
東萊府使の鄭顕徳(チョンヒョントク)がいったんそれを漢陽へ伝達するが、朝鮮国は受理を拒否する。交渉はその後も続くが進展はなく、やがて日本政府は1872年5月、草梁倭館を外務省管轄に移し、同年8月外務省大丞・花房義質が釜山に着任して草梁倭館を大日本公館と改称した。
ここに260年にわたる日本国と朝鮮国との善隣外交の歴史は終止符を打った。

本書が刊行されたのは今から32年前の1987年である。江戸時代の日朝関係についてはその後も研究や調査が進み、新たな事実が発掘されているにちがいない。21世紀に入り日本、韓国そして北朝鮮を取り巻く国際的な環境も大きく変わった。
変わらないのは江戸時代の日本が朝鮮国と善隣関係を樹立し、260年間にわたりそれが維持されたという事実である。
なぜそのようなことが可能だったのか。江戸時代は他の時代と何が違ったのか。
私たちが歴史から学ばなければならないことはまだまだ多い。


*1鎖国 日本人の海外往来禁止 (→海外渡航禁止令 ) ,キリスト教禁制,朝鮮 (→朝鮮通信使 ) や琉球との外交関係および中国人,オランダ人との貿易関係を除く他の外国人の日本渡航禁止による孤立状態をさす。寛永 16 (1639) 年から嘉永6 (1853) 年のマシュー・カルブレース・ペリーの来航まで続いた(ブリタニカ国際大百科事典)。実際に「鎖国」という語が幕閣の間で初めて使われたのは1853年で、本格的に定着していくのは1858年以降とされている。さらに一般に普及していったのは明治時代以降である。したがって、いわゆる「鎖国令」とは後世の研究者による講学上の名称で、実際にそのような名称の禁令が江戸時代に発せられていたわけではない(Wikipedia)。
*2通航一覧 江戸幕府の命により大学頭林復斎らが編纂した1566年(永禄9年)から1825年(文政8年)頃までの対外関係史料集(350巻)
*3申維翰1681-? 朝鮮王朝の文官。1719年徳川吉宗(よしむね)の将軍職の襲名をいわう朝鮮通信使の製述官(書記官)として来日。対馬藩の雨森芳洲(あめのもり-ほうしゅう)らとまじわり,『海游録』をあらわした。
*4册封体制とは、中国の歴代王朝の君主(元朝、清朝を含む)たちが自任した、称号・任命書・印章などの授受を媒介として、「天子」と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ名目的な君臣関係(宗属関係/「宗主国」と「朝貢国」の関係)を伴う、外交関係を規定する体制の一種(Wikipediaより)。

                                                                                    













➀東本願寺の朝鮮通信使説明板

















➁「朝鮮通信使来朝図」 羽川藤永筆 神戸市立博物館蔵 JPG.JPG


                                                                                                       


朝鮮通信使来朝図 延享5年(1748)頃 羽川藤永筆















朝鮮人来朝行列記 喜多川歌麿画 文化8 [1811]
国立国会図書館 デジタルコレクション

書名「江戸芸術論」(岩波文庫)
著者 永井荷風
  
永井荷風の江戸芸術論である。
内容は浮世絵が中心である(狂歌論と演劇論も)。
挿絵がいっさいなく、すべてことばで説明しているのが特徴である。
それは荷風が浮世絵を視るときのまなざしであり、その軌跡を追うことで荷風の浮世絵をみつめるときの視点を辿ることができる。それは明治中期に「永井荷風」が見いだした「浮世絵の価値」を知るすべとなる。本書の一番の醍醐味はそこにあると言えよう。
一例として葛飾北斎の『隅田川両岸一覧』の描写を見てみよう。
「第三図は童児二人紙鳶(たこ)を上げつつ走りゆく狭き橋の上より、船の檣(ほばしら)茅葺屋根の間に見ゆる佃島の眺望にして、彼方に横(た)はる永代橋には人通り賑やかに、三股の岸近くには(第四図)白魚船四ツ手網をひろげたり。桜の花さく河岸(かし)の眺め(第五図)は直ちに新緑滴る元柳橋の夏景色(第六図)と変じ、ここに包みを背負ひし男一人橋の欄干に腰かけ扇を使ふ時、青地の日傘携へし女芸者二人話しながら歩み行けり」
本書で紹介されるすべての作品はこのようにことばで詳細に描写される。作家の高橋克彦は後年になって作品がすべてことばで説明されていることに気づき、そのときはじめて本書の本当の価値を悟ったとあとがきに記している。

江戸芸術は江戸の風俗や文化と切り離せない芸術であった。
荷風は言う。「当時の芸術はその時代とその風景のみならず総ての事物に対して称賛と感謝の情とを以て感興の最大源泉となし、江戸と称する都会のいかに繁華にその生活のいかに面白くいかに楽しきかを描き示さんと勉めたり」。
それは美術としての価値に加えて宗教的な精神的慰藉をも感じさせてくれる「真正自由なる芸術」であった。
江戸後期に海外で高く評価された日本の芸術作品は、政府の庇護のもとに栄えた狩野派のような官営芸術ではなく、庶民の生活の悲哀と細やかな喜びを写した浮世絵であったことを、荷風はまるで我がことのように誇る。浮世絵は大邸宅の大広間で仰ぎ視るような絵画ではなく、小さな部屋で引き出しからそっと出して眺めるような庶民の芸術であった。

歌川広重と葛飾北斎との比較がおもしろい。
荷風によればこの浮世絵の2大巨頭の画風は対照的である。
「北斎の画風は強く硬く広重は軟かく静なり。写生の点において広重の技巧はしばしば北斎より更に綿密なるにかかはらず一見して常に北斎の草画(そうが)よりも更に清楚軽快の思あらしむ。~中略~北斎は山水をを把りてこれを描くに当り山水それのみには飽き足らず常に奇抜なる意匠を設けて人を驚かせり。これに反して広重の態度は終始依然として冷静なるが故にやや単調に傾き変化に乏しき観なきに非ず」。
比較は創作の心理にまでいたる。
「北斎は先立ちて深く意識し、常に期待し、常に苦心して、何らか新意匠新工夫をなさずんば止まざる画家なるべし。然るに広重は更に意を用ふるなく唯見るがまま興の動くままに筆を執るに似たり」。

浮世絵と芝居との関係も興味深い。
江戸庶民の最大の楽しみは芝居であり、興味の関心は役者であった。それが浮世絵にも反映している。役者にとどまらず芝居の背景すら浮世絵の題材であった。
「江戸の市人は俳優に対して不可思議なる情熱を有したり。彼らはただに演劇を見て喜ぶのみならず更にこれを絵画に描きて眺め賞したり。~中略~今延宝元禄より元治慶応に及ぶ俳優画を蒐集してこれを一覧せんには、浮世絵各派画風の推移は自ずからまた各時代の俳優が芸風の変化に思到らしむべし」。

荷風の生きた時代は浮世絵の衰退期であった。衰退期の浮世絵は美術から風俗資料へと変化していく。そしてそれはやがて東京最初の日刊新聞へと連なるのである。
「衰滅期の浮世絵は全く今日の新聞紙に等しき任務を帯びぬ。~中略~浮世絵は実にその名の示すが如く社会百般の事挙て描かずということ無し。~中略~ 浮世絵は比の如く漸次社会的事変の報道となり遂に明治5年芳幾(注1)が一枚絵には明らかに『東京日日新聞』の名称を付するに至りぬ」。

鎖国によって海外からの影響を免れ、国内で独自にはぐくまれた江戸芸術。それは庶民の芸術でもあった。その変遷と価値について、荷風の目を通して解説したのが本書である。
そこには荷風の江戸芸術への深い愛情と尊敬が感じられ、読んでいて心地よかった。

注1)落合芳幾 幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師。明治5年(1872年)、条野伝平、西田伝助とともに「東京日日新聞」の発起人となり明治7年(1874年)10月には錦絵版『東京日日新聞』に新聞錦絵を書き始め、錦絵新聞流行の先駆けとなる。芳幾は明治8年7月まで挿絵を担当していた(Wikipediaより抜粋)。



➀葛飾北斎の絵本『隅田川両岸一覧』





葛飾北斎の絵本『隅田川両岸一覧』
国立国会図書館デジタルコレクション



➁江戸堺町芝居之図  礫川亭永理画 劇場図 .JPG



浮絵 江戸堺町芝居之図  礫川亭永理画 劇場図 国立劇場所蔵
寛政10年(1798)1月顔見世で『花三升芳野深雪』を上演する中村座劇場図か。
③落合芳幾 錦絵版『東京日日新聞』 早稲田大学所蔵JPG.JPGのサムネール画像










落合芳幾 錦絵版『東京日日新聞』早稲田大学所蔵



書名「アンソロジー そば」(PARCO出版)

著者 池波正太郎他

蕎麦を愛する著名人が、それぞれの蕎麦へのこだわりを綴ったアンソロジー。
池波正太郎のしびれるひと言で本書は幕を開ける。
「ひとりで町を歩いていて、ひとりで酒がのみたくなったら、私はまず蕎麦屋でのむ」
もちろんどんな蕎麦屋でもいいというわけではない。
「蕎麦だけは、洋食や天ぷらなぞとちがって、どこで、どのようにして食べさせてもよい、というものではない。(中略)蕎麦も鮨と同様に、きわめて清らかにつくられてなくてはならない。そしてしかるべき店で、これを食べると、味のみでない雰囲気がかもし出され、それをたのしむことができる」
蕎麦は特別なのである。

しかるべき店にこだわったのが杉浦日向子である。
タイトルは「並木藪蕎麦 江戸前ソバ屋の原点」。
「並木には、江戸前ソバ屋に求められるものはすべて揃っている。(中略)並木でなくてはダメなんだという午後がある」
同じ並木藪蕎麦派の山口瞳も言う。
「黙っていても酒が出てくる。『蕎麦屋の酒が一番うまい』のだから仕方がない」

登場するのは正統派の蕎麦好きばかりではない。
昭和天皇の侍従長入江相政は、電車や車に乗っているときも蕎麦屋の看板が気になるほどの蕎麦好きなのだが、その嗜好が少し変わっている。水気の引いた乾いた蕎麦が好みなのだ。
「泥臭かろうが、田舎じみていようが、私はとにかく、水気のいくらか枯れた蕎麦の味を礼賛する。(中略)『へいお待ち遠さま』と前に置かれてから、十三分がいいか、十五分がいいか」

もちろん反対派はいる。色川武大は言う。
「ソバなんてものは茹でたてが値打ちで、茹であげてから三分とたたないうちに、香りは飛ぶし、ノビるし、クタクタのソバなんて喰えたもんじゃない」
しかしその色川は「そばはうどん粉に限る」なぞと言うのだから、嗜好というものはわからない。

 「ヨーロッパに滞在しているときに、いちばん食べたいのは蕎麦である」
というのは立原正秋。この気持ちはよくわかる。
「パリのホテルから鎌倉の家に電話をかけ、明日帰るから蕎麦を用意しておけ、と言ったことがあった。この電話代が八千円かかった。私はこの八千円を惜しいとは思わなかった。とにかく帰宅すれば手打ちの蕎麦を食べられるので、金にはかえられなかった」
本物である。

故郷においしい蕎麦屋がなかったため、上京してから蕎麦の虜になった文化人もいる。
尾辻克彦は「そばというのはもともと食べたことがなかった。大分にはそば屋なんてないのだ。だいたい九州にそば屋がないのである」と言う。もちろん昔の話である。
タモリも「僕は出身が博多ですから、麺類となるとそもそもはうどん、博多うどんなんですよ」。それが「いま、週に4回、最低でも三回はそば屋へ行きます」
いったい蕎麦屋のどこがよかったのか。
「昼間の楽しみというやつだね。まずはビール、それから日本酒。これで癒される。そば屋って本当にいいものだなと思うのは、まさにこのときでね」

関西出身の作家中島らもも同じようなことを言う。
「昼さがりの人気のない店でもりそばを肴に冷たい一杯をやるのは東京人の粋であるようだ。ただし、あまり若い者のすることではない、と僕はずっと控えていた。(中略)一度やるとやみつきになってしまった。とにかく気持ちがいいのだ」
そしてその気持ちのよさを分析して言う。
「ここが肝心なのだが、そば屋には『酔っ払いがいない』のだ。見たことありますか?そば屋で大酒飲んで隣の客にからんだり、友人にかつがれて帰ったりしている人を」
確かに見たことはない。そうゆうやぼな客がいないのが、そば屋という空間なのだ。

他にもたくさん紹介したい話がある。例えばカレー蕎麦(カレー南蛮ではない)にこだわる吉行淳之介や、昼飯が全て蕎麦(ただし立ち食いそば)であることが細やかな幸せなのだと言う田中小実昌、酒の肴にと自宅で「そばがき」を作る島田雅彦などである。
画家や音楽家、芸能人から経営者まで総勢38人、各人各様のこだわりが思い入れたっぷりに語られていて、蕎麦の多様な魅力に気づかされる。そこに、地域や世代を越えて愛され続けるゆえんがあるのだと思う。
読み終わって蕎麦屋に行きたくなるのは当たり前、ただしどんな蕎麦を食べたいかは読者しだいである。これもそば、あれもそばである。

●夜蕎麦売 「守貞漫稿」.jpg


蕎麦うりの呼び声
 「そばきりゝ。」 「鹿の子餅」(明和9)
そばィそばィ引、ぶっかけなんばん。」   「髄酎気質」(文化2)風鈴蕎麦の声かすかに遠く、風につれて、 「はな巻、天ぷら、あられでどざゐ、そばィゝ引。「春告鳥」(天保8)
*時代とともにそばの種類がふえることがわかる。
▲風鈴蕎麦の圖 (守貞漫稿所載)







●深川江戸資料館-蕎麦 .JPG

 江戸川柳

「朝顔のひらいたを見ぬ夜そば売」
 「御屋敷の窓から蕎麦に釣を垂れ」
 「現金にかけを売るのは夜鷹そば」
▲江戸時代の蕎麦屋の屋台 
 (深川江戸資料館所蔵)


                     



●『鬼あざみ清吉』歌川豊国 名古屋市博物館所蔵 .JPGのサムネール画像のサムネール画像





▲三代歌川豊国の『鬼あざみ清吉』

 屋台には「二八そば」の看板。
 男は稀代の大盗人、鬼あざみ清吉。
(名古屋市博物館所蔵) 



蕎麦屋の屋台は簡単な屋根・柱つきの台で、
立ち売りをする移動可能な小さな店 



書名「江戸の編集者」(岩波書店「図書」9月号より)
著者 横田冬彦

 江戸時代の出版事情について、岩波書店が毎月発行している雑誌「図書」9月号におもしろい話が載っていた。日本ではじめて発行された農業に関する専門書の話である。その専門書とは、教科書で一度は目にしたことがある宮崎安貞の「農業全書」である。
 この本がどういういきさつで書かれ普及していったのか、京都大学の横田冬彦名誉教授が詳しく解説している。そこには今日で言う編集者とプロデューサーの存在があった。
 日本の商業出版は1630年代頃から本格的に普及し始め、元禄九年(1696年)版の出版目録によれば、当時既に7000点以上の本が出版されていた。
 しかしその中に農業の専門書はまだ一冊もなかった。安貞は自らも農業経営を行いながら各地の先進地農法や農術を研究していた。やがて海外の農業技術にも関心を示すようになり、中国の「農政全書」(明の時代に徐光啓が著した)を参照しながら、日本にも適用できる中国農法がないか模索するようになった。こうして実に40年以上研鑽を続けた成果が「農業全書」であった。
 安貞は自らの研究成果を広く世に示し、多くの農家に活用してもらいたいと思ったに違いない。しかし、果たして当時の農民にこの本は読まれるのか、それ以前に農民に本を読む習慣はあるのか。それが問題であった。この問題を解決したのが、これも教科書で見覚えがある、「養生訓」で有名な貝原益軒である。
安貞から相談を受けた益軒は新興の書肆(出版社兼書店)であった柳枝軒に話を持ち込んだ。益軒と柳枝軒が吟味した結果「農業全書」の出版が決まった。
 なぜ益軒と柳枝軒は「農業全書」が農民に受け入れられると確信できたのか。益軒は元禄元年に奉じていた福岡藩から「筑前国続風土記」という地誌編纂を命じられ現地調査のために領内全域の村を訪れたことがあった。そのときの経験から 益軒は庄屋クラスの農民が本を読むことを知っていたのである。
 もちろん、読むというだけで読んでもらえるほど甘くはない。益軒はより多くの農民に読んでもらうために、様々な工夫を凝らした。図版を効果的に挿入したりして、表記法や体裁を工夫して読みやすくするのはもちろん、福岡藩の後援や御三家徳川光圀の推薦文を得るなど、本の権威付けにも奔走した。
柳枝軒も負けてはいない。「農業全書」の利用法を詳細に解説した別巻「付録」を発行し、どのように読み、利用すべきかの具体例を示して、読者の理解を助けた。
こうした努力のかいがあって「農業全書」は期待通りに普及していったのである。
 伝承によって引き継がれてきた「経験知」は、限られた地域でしか普及することができなかったが、「農業全書」によってもたらされた「書物知」は地域を越えて広がっていった。日本の農業は、それまでの「経験知」による農法から「書物知」を活用する農法へと変わっていったのである。 
それだけではない。「農業全書」以後に発行された農業専門書は、中国農書ではなく「農業全書」を基準書として書かれるようになった。すなわち「農業全書」は農民を単なる受け手としての読者から、自ら思考して意見を表明する読者へと変えたのである。
 「書物知」による洗練された農法が広く普及していくにつれて、日本の農業は格段に進歩した。日本初の農業専門書「農業全書」は日本農業に革命をもたらしたと言っても過言ではないだろう。
 益軒と柳枝軒は「農業全書」の価値とその可能性とをいち早く見抜いた。その発想の柔軟性と先見性そして思考の合理性に学ぶべきところは多い。
江戸初期の二人の出版人がもたらした功績はどんなに称賛しても足りない。

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農業全書 宮崎安貞 著 
出版者_学友館 
出版年月日_明治27年10月

国立国会図書館デジタルコレクション















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農業全書 宮崎安貞 著 
出版者_学友館 
出版年月日_明治27年10月

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江戸の出版量グラフ

平成24年4月27日 神田雑学大学定例講座
講師 橋口侯之介氏(誠心堂書店店主・成蹊大学文学部講師)
「江戸の出版事情」講演録より引用



第一回 幕末の生き証人が語る江戸風俗

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書名「幕末の江戸風俗」(岩波文庫)

著者 塚原渋柿園  

 

著者の塚原渋柿園(じゅうしえん)は1848年(嘉永元年)江戸市谷生まれ。80石の根来(ねごろ)百人組(江戸幕府の鉄砲隊のひとつ)与力で、維新のとき21歳だった。まさに幕末における江戸風俗の生き証人である。「江戸の変遷の有り様を、私が見た通り、否、むしろ出逢ったままのそのままを少しも飾らずに、小説気を離れて話してみようと思う」と言うように、当時の江戸の様子がいきいきと具体的に記されている。維新で生活が一変した武士たちが家禄を没収されて都落ちするときの悲惨な境遇や、武家の商法でまたたくまに全財産を失い没落していく様子が詳細に描かれていて、悲哀を感じないではいられない。

 

一方、庶民はいつもしたたかでしぶとく元気だった。年末最大の行事だった「煤掃い(すすはらい)」の話がおもしろい。陣羽織を着たりひょっとこのお面をつけたりして大騒ぎでばたばたやり、終わったあとは「目出た目出たの若松さアまアよー、えーだ(枝)もさアかアえー(栄え)て、葉もしいげる(茂る)御目出たや。アーヨイ、ヨイ、ヨイ」とみんなで唄って貴賤上下の関係なく胴上げをしたという。おもしろいのはその際に、日頃意地悪な輩を、その復讐とばかりに、「アーヨイ、ヨイ、ヨイ」の最後の「ヨイ」で落としたこと(これを俗に「揚げっ放し」といった)。落とされた方は地面にたたきつけられて目がくらんだり、鼻血を出したり、ひどいときには腰をくじいたり膝を折ったりしたらしいのだが、まわりの「おめでたい」に圧されて苦情も言えず、したがって落としてもおとがめなし。女中たちはこれが楽しみで何日も前から胴上げのときの歌の内容を話し合っていたという。



江戸の教育事情の話もおもしろかった。幕府が庶民の文教を奨励したため、寺子屋(江戸では手習い師匠と言った)が栄えて、幕末には400件以上あったらしい。何でこんなに多かったかというと、寺子屋を開いて弟子を40~50人もとれば、幕府が当時武士の特権であった「苗字帯刀」を許したから。さして儲からなかったが名誉欲しさに競って寺子屋を開いたという訳である。驚いたのは物理学や天文学を教えていたこと。当時は「日の中には烏(からす)がいて、月の中には兎(うさぎ)がいて、地の底には大鯰(なまず)が棲んでいて髭を動かすと大地震になる」といったいわゆる「須弥山(すみせん)説」が支配的であったにも関わらず、である。禁書とされた洋書の翻訳が、実際にはかなり出回っていたことになる。庶民の多くは西洋の文明がはるかに進んでいることを理解していたらしい。黒船が来た時も人びとはさして不思議に思わず、これではとてもかなうまいとただただ落胆するばかりだったという。草創期の新聞事情が、ほのぼのとしていておもしろい(著者は日本の日刊新聞第一号である横浜毎日新聞の記者だった《その後東京日日新聞に移籍》)。発刊当初は4ページを記事で埋めることができず、最終ページを白紙で出して「読者がご自由にお書きください」と添え書きしていたなんていう話も出てくる。当時新聞界の二大巨頭であった東京日日新聞の福地桜痴(源一郎)と朝野新聞の成島柳北が、新聞体裁論で大激論した話がよほど印象に残ったのか、本書には2回出てくる。ただ、おもしろいのはこの激論の内容よりもその終わり方である。双方が意地の張り合いで決着がつかず、場が気まずくなりかけたころあいを見計らって、「烏森(からすもり)の春本いく」というお婆さんが登場し「書生じゃあるまいし、こんな席でわけのわからない議論なんておよしなさいよ。さあお前たち、何をまごまごしているんだよ。かっぽれでも早く踊りな!」と一喝、これを合図に17~8人の芸妓がなだれこんで来ていっせいに「かっぽれ、かっぽれ!」とやりだして、一同これを幸いに笑っておしまいという終わり方である。このお婆さんは「留め女」と呼ばれていた。こんな呼び名があるところを見ると、議論で喧嘩になることはよくあったのだろう。「留め女」は庶民の知恵のひとつと言えよう。

 

江戸市民に税金がなかったことや江戸ことばの変遷、武士のファッションなど、本書には他にもおもしろい話がたくさんあるがここでは紹介しきれない。興味のある方はぜひご一読を。


女性の先生が教える女の子のための寺子屋(『絵本栄家種(えほんさかえぐさ)』より/勝川春潮 画).JPGのサムネール画像のサムネール画像




女児専門の寺子屋の授業風景

絵本栄家種(えほんさかえぐさ)/勝川春潮 画

寛政2年(1790)








年末 煤払い .JPGのサムネール画像





十二月煤拂 下女胴上げの圖 三代豊国画








.カバー図版 「大横町の夜景」(山本松谷「新撰東京名所図会  明治36年10月JPG.JPGのサムネール画像のサムネール画像






カバー図版 「大横町の夜景」

(山本松谷「新撰東京名所図会 」明治3610

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2018-08-04 青山富有柿 顔写真イメージ .JPGのサムネール画像

青山富有柿プロフィール

随筆家。東京在住。楽しみは祭りと蕎麦。趣味は書店めぐり





江戸十万日「月日の鼠」概説

  

江戸のおもしろい(ためになることも少し)話が

書かれている本を紹介します。

ためになるよりおもしろいを優先します。書評ではありません。

読者の江戸への興味関心が広がれば幸いです。