書名「世事見聞録」(1994年 岩波文庫)*1
著者 武陽隠士(本庄栄治郎校訂 奈良本辰也補訂)
                                                                               太字部分 本書より引用                                    
    物事には光もあれば影もある。それは江戸時代も例外ではない。本書には、江戸時代後期、町人文化の絶頂期であった文化文政時代*2の"影"の部分について詳細に描かれている。
   「武陽隠士」と名乗る著者は、奈良本氏の解説によれば、「江戸の南の方に居を構えた(中略)きわめて日本人らしい心をもった人物」である。
    徳川幕府が開かれて213年、明治維新の52年前の文化13年(1816年)に本書は書かれた。
    町人文化が繁栄を謳歌していた当時の江戸において、いったい何が進行していたのか。それは衰退なのか、それとも新しい時代の、言わば陣痛のようなものだったのか。今回から二回にわたって解き明かしてみたい。前編では、町人文化全盛の時代に、なぜ国家が衰退していると著者が考えたのかについて考察する。

   著者によれば、国家が衰退した一番大きな要因は、町人と遊民*3が、武士や農民よりも富と力をもってしまったことにあった。士農工商制度では低い身分の町人や遊民が、武士や農民よりも勢いを得て増長し、衣食住に多額の費用をかけるのは、国家に損害をもたらすというのだ。

   町人・遊民、だんだん増長して今武士と農民の上に越え、安泰を構へたるなり。かくの如く増長したる億万諸町人・諸遊民の衣食住に費ゆるところ、何程の事にやあらん。これ国家を損害するなり。

   実は、町民や遊民の台頭と、武士や農民の没落とは表裏一体であった。
   日本を大木に例えれば、武士や農民は根本であり、町人や遊民は枝葉に過ぎない。枝葉ばかり繁って根本が枯れてしまったら、大木はやがて倒れてしまう。町人と遊民ばかりが栄えて、武士や農民が苦しむような国家は衰退してしまうというのである。
  背後には経済や社会の大きな変化があった。世の中には贅沢と利欲がはびこり、新しい産業が次々に起こっていた。金銀銅鉄などの鉱物資源は国外に流出し、米穀、雑穀などの地産物から魚貝類などの海産物はことごとく市場経済に飲み込まれ、利潤の多くは町人や遊民の手に渡っていた。町人と遊民には、年貢もなければ、役儀や課役*4、法令もなかった。いくらでも利潤を得ることができたのである。
   一方、武士や農民は、定められた取り分を超えて利益を得ることはできなかった。市場経済の恩恵にあずかることはできなかったのである。

  武士と農民は国家の根本にて、その余の業はその末々に付き添ひたる枝葉にて、なくても済むべきものなるが、二百有余年以来の御知世に依つて、奢侈(しゃし)大いに起り、利欲大いに起り、産業大いに起り、交易利潤の道大いに行はるるに随ひ、億万の諸町人・諸遊民出で来て犯奪を競ふが故なり。まづ山より出づる所の大木・大石・金・銀・銅・鉄・錫・鉛を始め、また地より出づる所の米穀・雑穀・諸産物、及びまた海川より出づる所の貝・魚・藻布とも、みな商賈の手に渡り、利潤の道に入り、諸町人・諸遊民の潤沢となれり。武士と百姓は年々その元種を仕出だすに苦しみけるが、末みな右の如く諸町人・諸遊民の得ものとなり、栄花の種となれり。これ枝葉繁茂して根本を枯朽するに至り、国家の本に立ちし武士と農民、年々取り得る所も分限(ぶげん)5ありて少しも分限の外を得ること能はず。殊に役儀あり、法令あり、年賀あり、課役ありて、年々取り得る限りは残らず失費するなり。町人・遊民は制外となりて役儀もなく、法令もなく、年貢もなく、課役もなく、殊に利益何程も得次第にて分限なく、奢侈も心次第、行状も心のままにて済むなり。

    さてその掘り出したる金銀銅を、今世は国家の宝ともせず、交易利潤のために異国へ渡し遣はす事なり。(中略)正徳の頃か、新井筑後守が取調べし記録に、金銀銅を過半異国へ渡し、わづかに十が一ほど日本に残りしといふ。それまでに異国へ渡したる金銀銅の員数、莫大なり。これ人欲の所為にして、だんだん国土の肝胆を失ひ、山川鬼神も怒り給ふか。

    物価は上昇し生活費の負担も増えていた。武士と農民の人口は減り、代わって町人や遊民の人口が増加していた。町人や遊民の中には、武士や農民を侮り、利欲にまかせて悪逆非道に走るものも出てきた。古来より守られてきた規範はないがしろにされ、法制度も有効に機能しなくなっていた。義理も、しきたりや習わしも、すべてすたれてしまった。不正が横行し、贅沢を競い、悪事を尽くした新事業がつぎつぎと起こっていた。一見華やかで盛況に見えたが、その実、世の中に信義はなくなり、国家は衰退の道を歩んでいた。

   かくの如く利欲の道繁昌するに随ひ、諸品の価高くなり、諸失費多くなりて、武士と農民はいよいよ衰へて人数減り、町人・遊民は人数多くなり、その内に利欲に勝ち、武家を軽しめ、百姓を侮り、栄花に満ち余りたるもの出来、あるいは利欲に迷ひて、悪逆無道を行ひ、上を犯し下を貪る悪徒等あまた出で来、ここにおいて古来の規矩準縄も崩れ、ご法度も立たず、世の義理も風俗も散々(ちりぢり)に乱れゆくなり。(中略)津々浦々・宿々在々まで諸商人・諸職人・遊芸者の遊民、才智才能を尽し、利欲の争ひ、邪曲の犯し合ひ、奢侈の競べ合ひ、悪事の尽し合ひして、工夫の上に工夫を凝らし、おひおひに新規の事ども出で来、繁花になほも賑ひを添へ、花に花を咲かせる世の中のやうに見えて、信義は次第に失せて国家の根本は衰ふるなり。

    町人の経済的成功の背景には、江戸への一極集中があった。参勤交代制度により、江戸には日本中の大名とその家来が集まっていた。江戸の町人たちは、居ながらにして日本中のどことでも商売することができたのである。それは幕府や大名にとっても便利で都合がよかったため、武家のあらゆる取引を町人がとりしきるようになっていった。やがて、武家に限らず寺社や農民など、世の中の取引のほとんどすべてが町人の手に落ちると、町人たちは莫大な利潤を手にした。町人たちがいなければ、世の中全体が回らなくなっていた。町人は増長し、武士を軽んじ、農民を侮るようになっていった。

   御府内*6は日本国中の大小名を始め、末々の軽き侍まで寄り集まり、金銀米銭を費す故、その潤沢にて商売の道繁昌いたす処に、今盛んなること武家に越え、諸事の便利、武威よりも最も通りよく、居ながら国々の欠引きをなし、公儀の御用すら御替金・御上米を始め、諸御用物町人の請け負ひ、また武備に拘はりたる徒士・足軽の受負ひ、旅行の支度、武具・馬具・諸式、残らず町人ならではならぬ世の振合ひ故、いやましに町人の増長する事になれり。すべて武家・寺社・百姓そのほかとも、世の中なべて町人の手に懸かりことごとく利潤を奪はるるなり。依つて世の中の有余は、分厘の塵零までもみな商人が掠め取りて次第に増長する故に、武家・百姓そのほかとも逼迫するなり。右の時勢にて、近来町家の者ども気嵩になり、武士を軽しめ、百姓を侮り、その驕慢、法を越すなり。

   法制度は厳格さを失い、緩みに緩んでいた。
   法は国家の大本であり、厳格に施行されなければならないにも関わらず、贔屓や賄賂、様々な取引や方便によって、骨抜きにされていた。身分の高い者が一つでも法を曲げれば、下層ではあらゆる法が緩んでしまう。同じように、法の執行者(すなわち武士)が、一度でも義理を欠いた軽薄な行いをすれば、社会には千万の悪行がはびこるようになった。

  二百年来、御法度の寛(ゆる)やかになりたる事なれば、崩れたることいくばかりぞや。法は天下の大本なり。すでに神君様*7御制法御条目に、「法を以て義理を破るべし、義理を以て法を破るべからず」と仰せ置かれ、天地自然の義理に借りても法は破るべからずと厳重になし置き給ひしを、あるいは贔屓によりあるいは賄賂によりて、種々に差引き方便を加へておひおひに寛め緩め、当今ここに来たるなり。上にて法一つ寛めば、下にて万法緩むとなり、上に非義軽薄の行ひ一つあれば、下にいたって千万の悪行となる。

 著者は自由経済を否定しているわけではない。適切に運用されるなら、自由経済が国を発展させることを認め、むしろ評価している。問題はその「程度」であり、行き過ぎはよくないと言っているのである。町人や遊民の数が増えすぎて、武士や農民が衰え、山林や田畑、民家が荒れてしまうような自由経済は行き過ぎである。国民の生み出す、米穀、雑穀、諸産物の量には限りがあるのだから、ただ消費するだけの町人や遊民の人口が増えすぎてはいけない。

   もっとも静謐(せいひつ)の御代なれば、諸産業もなくては叶はず、利潤の道もなくては叶はず、奢りの道も人欲を宥(なだ)める道具なれば、これまたなくては叶はず、町人・遊民も国家を補ふ一助にもあるべけれども、しかし当世の如く数多くなりて、国家根本の武士・農民の労(つか)れ衰へ、山林田畑荒れ、民家荒るる程になりては、済みがたきものなり。右の如く、武士の分限は年々極まりあり、国民の作り出す米穀・雑穀・諸産物とも、大概限りある事なれば、これを費す諸町人・諸遊民、すべてむだ食ひの人数も程合ひのあるべきなり。

   このように町人や遊民のような、ただ消費するだけで何も生み出さない者が、国富(米)を生産する者よりも優遇され、繫栄して、人数も増えてしまった社会は、枝葉が繁って根本が枯れた大木のようなもので、国家を衰退させてしまうというのが著者の主張であった。
   ではどうすればいいのか。後編では、国家再建についての、著者の考えを考察する。

つづく

*1世事見聞録(せじけんぶんろく)江戸時代後期における見聞,評論書。7巻。著者は武陽隠士とあるが本名は未詳。文化 13 (1816) 年の自序がある。徳川の治世が次第に本を失い奢侈を増長する方向に流れたことを,当時の武士,農民,寺社人,医業,公事訴訟,町人,遊里売女,歌舞伎芝居,米穀などの産物,山林など,あらゆる職業,風俗,生産などの見聞を通じ,儒教的見地に立って論評している。事実の指摘はあくまで正確で,当時の社会情勢を知る好史料(ブリタニカ国際大百科事典より)
 
*2文化文政時代 江戸後期,文化・文政年間(1804〜30)を中心に寛政の改革後(1793)から天保の改革(1841)に至る時代。大御所時代ともいい,徳川家斉が11代将軍・大御所として君臨した。寛政の改革の遺風は19世紀初めで消滅し,家斉の豪奢と側近の放漫政策が展開。財政難対策には倹約令のほか貨幣改鋳,町人の御用金賦課が行われたが,幕藩財政一般が窮迫し,士風は退廃した。商品経済が農村に深く浸透して貧富の差が増大し,幕藩体制の経済的基盤はすでに崩壊しはじめ,百姓一揆・打ちこわしが頻発した。諸藩はこの時期に専売制を強化して財政難に対処した。一方,対外的にはロシア船・イギリス船の近海出没で海防問題が注目され,幕府の北辺調査,異国船打払令発布となる。また文化面ではこの時期に化政文化が展開した。(旺文社日本史事典 三訂版より)

*3遊民 職につかず遊び暮らしている人。(デジタル大辞泉より)

*4役儀や課役 租税や課税(デジタル大辞泉より)

*5分限(ぶげん) 平安時代末から江戸時代にかけて,その人の社会的身分,地位,財産等を示す語。〈ぶんげん〉ともいう。時代と境遇とにより,何によって示されるかは違うが,鎌倉時代までは所領の広さや家人,郎従の数で示され,室町時代以後は所領の高が中心で,江戸時代の農民は持高,商人は広く財産をもって示される。武士はその分限に従って軍役を勤めることが求められ,分限相応に行動することがよしとされた。そこから分限の語は〈身の程〉とか,〈分際〉とかの意味でも使われた。(世界大百科事典 第2版より)

*6御府内 江戸時代、町奉行の支配に属した江戸の市域。文政元年(1818)、東は亀戸・小名木村辺、西は角筈村・代々木辺、南は上大崎村・南品川町辺、北は上尾久・下板橋村辺の内側と定められた。(デジタル大辞泉より)

*7神君様 徳川家康のこと。

書名   「和辻哲郎座談」(2020年 中央公論社)

著者 柳田國男、幸田露伴、高坂正顕、斎藤茂吉、志賀直哉、谷崎潤一郎、寺田寅彦、内田百閒、

             竹山道雄、安倍能成、今井登志喜、長谷川如是閑 他

   

    没後60年を記念して昨年刊行された和辻哲郎*1の座談集である。その中から、江戸に関わる発言をとりあげてみた。今回はその二回目。

    

   高坂正顕*2の言うように、鎖国の決断は本当に拙速だったのだろうか。すぐに鎖国しないで少し様子を見ていたら、やがて状況が変わって、その後の展開は大きく変わったのだろうか。

 状況はそれほど単純ではなかったと竹山道雄*3は言う。当時、徳川幕府はキリスト教に手を焼いており、その影響は深刻だったからである。

  徳川時代の社会規範は儒教(道徳)だった。現世を超越する神や宗教から人々を遠ざけ、この世にだけ目を向けるように仕向けたのである。しかし、それが中国や韓国に先駆けて近代化を成し遂げる大きな要因となったと竹山は言う。


(竹山)武家は、現世的な実力で天下を取って、それから仏教の叛乱や、切支丹の叛乱で手を焼いて、宗教というものは悪いものであって、人間を気違いにするものだから、宗教を押えつけてしまわなくてはならないというので、キリスト教をすっかり掃滅してしまい、仏教を骨抜きにして、仏教はただキリスト教に対する対抗手段としてのみ意味を認めた。そして宗教の代わりに儒教つまり道徳を盛んにして、儒教をもって人心を統べるイデオロギーにしたので、そのときから日本人の支配的な層の心は、絶対的な超越的な神様とか宗教とかいうものから離れてしまって、只今この世に向かうようになった。このことが、日本人が近代化を容易にするができた一番の中心になったでしょう。


    徳川時代の武家や庶民は驚くほど合理的であった。しかしながら、宗教を完全に根絶することは不可能なことであった。ひとたび政治や経済が不安定になり、民衆の間に不満や不安が蔓延すると、救済への願いを埋め合わせるために、人々は新たに「絶対性」求めたのである。それは、いわば代用宗教のようなものであった。


竹山)しかし人間だからやはり宗教心といったようなもの、宗教的な要求は非常に持っていて、救済への願いとか、現世の不満、不安といったような気持は随分あります。所がそういう宗教的な部分を扱ってくれそうなものには、すぐ絶対性をなすりつけてしまう。つまり代用宗教を見つけるのです。(中略)今の日本人が、何かというとすぐ絶対化してしまうというのは、これは宗教の受持つ部分を、そっちへ肩代わりしているからじゃないかと思います。


  宗教を排したことによって育まれた、江戸人の合理主義的思考は、アジアに先がけて日本の近代化をもたらした。しかし、その一方で、ひとたび政情不安が顕著になると、救済を願う気持ちが、江戸人の心の底に潜んでいた宗教心を呼び覚まし、ぽっかり開いた心の隙間を埋め合わせるために、新たな「絶対性」を見出そうした。

竹山の指摘するような状況は、あらゆる分野で制度疲労が顕在化しつつあった、幕末の江戸の現実だったのではないかと思う。地震や疫病、飢饉などの天災あるいは人的な不正によって、生きるか死ぬかの極限状況に追い込まれたとき、神や宗教に頼らないで、己のみを信じて苦難を乗り越え生き抜く強さを、どれだけの人間が持ち合わせていたのだろうか。


   江戸に貨幣経済が浸透すると、世の中がお金中心に回り始め、貧富の格差が拡大していった。勝ち組と負け組が明確に線引きされ、やがて法による社会秩序の維持もおぼつかなくなっていく。困窮者の中には、法を犯して生きていくか、正直を貫いて自滅していくか、究極の選択を迫られる者も少なくなかった。社会不安は増大し、遠隔地では百姓一揆*4、都市部では打毀し(うちこわし)*5が頻発する。革命への潜在的な希求は、否が応にも増していた。抑圧されていた困窮者の宗教的な渇望が、近代化を後押ししていたということは、十分ありそうなことである。


    高坂と和辻そして竹山が投げかけた主題は、今も形を変えて生き続けている。

日本では5%の悪人が実権を握ったら、現在においても90%は便乗するのだろうか。また、社会不安が増大したら、私たちはまた、新たな「絶対性」を見出して心の空隙を埋めようとするのだろうか。そして現在の日本はどうなのか。

答えは簡単には出ないし、出してはいけない。それは世界のどこにも存在していない。我々自身で創造しなければならないのである。       


1和辻哲郎1889年~1960年]哲学者・倫理学者・文化史家。兵庫の生まれ。京大・東大教授。倫理学の体系化と文化史研究に貢献した。文化勲章受章。著「ニイチェ研究」「古寺巡礼」「風土」「鎖国」「日本倫理思想史」など(小学館/デジタル大辞泉より)


2高坂正顕19001969]昭和時代の哲学者。明治33123日生まれ。高坂正尭の父。西田幾多郎にまなび,昭和15年京都帝大教授。戦争擁護の論陣をはり,21年公職追放となる。解除後,関西学院大,京大の教授をへて36年東京学芸大学長。41,中教審特別委員会主査として「期待される人間像」をまとめた。昭和44129日死去。69歳。鳥取県出身。京都帝大卒。著作に「カント」など(講談社/デジタル版 日本人名大辞典+Plusより)


3竹山道雄19031984]評論家・ドイツ文学者。大阪の生まれ。小説「ビルマの竪琴」、評論「昭和の精神史」など(小学館/デジタル大辞泉より)


4百姓一揆 江戸時代、農民が領主・代官の悪政や過重な年貢に対して集団で反抗した運動。暴動・強訴(ごうそ)・越訴(おっそ)・逃散(ちょうさん)・打ち毀(こわ)しなど種々の形をとった(小学館デジタル大辞泉より)


5打毀し(うちこわし)江戸時代に,おもに都市においてみられた暴動。百姓一揆との違いは,第1に暴動の主体勢力が都市下層民であったこと,第2に原因が米価高騰にあったことである。打毀の対象となったのは,米屋,酒屋,質屋,問屋などの富裕商人たちで,彼らが意識的に米価の吊上げをはかったことから,その影響をいちばんこうむりやすい都市下層民たちにねらわれることとなった。大規模な打毀の例としては享保 18 (1733) 年の江戸におけるものがある。これ以後打毀は激しさを増し,天明年間 (8189) における飢饉に際しては,江戸だけでなく大坂,京都,広島,長崎,石巻など全国に及ぶほどであった。幕末期における打毀は幕府崩壊を早めることになった(ブリタニカ国際大百科事典より)



幕末江戸市中騒動記 東京国立博物館-2.JPG























幕末江戸市中騒動記東京国立博物館蔵/部分





幕末江戸市中騒動記 東京国立博物館-3.JPG























幕末江戸市中騒動記』 東京国立博物館蔵/部分



慶応21866)江戸でおこった打ちこわしを描いた絵。

米屋を襲い、家屋を破壊、商品を台無しにする場面。















書名   「和辻哲郎座談」(2020年 中央公論社)

著者 柳田國男、幸田露伴、高坂正顕、斎藤茂吉、志賀直哉、谷崎潤一郎、寺田寅彦、内田百閒、

             竹山道雄、安倍能成、今井登志喜、長谷川如是閑 他


    没後60年を記念して昨年刊行された、和辻哲郎*1の座談集である。そうそうたるメンバーに圧倒される。博識多才の碩学が、幅広い主題について座談を繰り広げるのだからおもしろくならないわけがない。今回は、その中から、江戸に関わる発言を、2回に分けてとりあげてみよう。

   

   まずは鎖国についての和辻と、哲学者の高坂正顕*2とのやりとりに注目してみたい。

和辻は、鎖国時代に育まれた日本の良さには普遍性が乏しかったと言う。そのため今の日本人(座談会当時の1950年)は、日本の良さから離ようとしているのだが、目の肥えた西洋人から、逆に日本の良さを指摘されて、一種のジレンマに陥っていると言う。また、仮に日本人がその良さに目覚めたとしても、それを保存するのに精一杯で、どうして伸ばしてよいのかわからないのだとも言う。


(和辻)日本の良さはそういう鎖国の時代にできたものが多いので、あまりに特殊で、普遍性が乏しい。だから今の日本人はできるだけそれから離れようとしている。西洋人で眼の見える人だと、こういう良いものがあるじゃないか、といいますが、丁度その「良いもの」を今捨てつつあるのですね。捨てる必要もあるのかも知れないが、一種のジレンマですね。この三百年間に、大事に、育てあげたので、良いには違いないが、将来伸ばして行く道がない。(中略)

藝術だってそうじゃありませんか。お能にしても、歌舞伎芝居にしても、ただ保存するのほかに手がない。


   すぐに鎖国を決断しないで、少し様子を見てから決断していたら、その後の展開はかなり違っていたはずだと高坂は言う。すぐに結論を求めるところに日本人の問題があるのではないか。世界のどこかにすでに結論があり、早くそれを見出そうとするから結論を急いでしまうのではないか。だが、本当は、結論はまだ出ていなくて、世界中の人がそれを求めて模索しているのではないか。日本人は結論がどこかにあると思っているが、それは間違いで、本当は自分たちで創造しなくてはいけないのではないか、と高坂は言う。

しかし、それはたやすいことではないし、時間がかかることである。


(高坂)すぐ結論を求めすぎるということです。よく、こう思うんですよ。いろんな人たちと話すと、どうもその人達の話では世界のどっかに、結論なり、解決なりはちゃんとできているのですね。ただ日本だけが一向に結論を知らないし、またそれを実行に移さない。そのために我々は困りきっているのだ、と。(中略)どっかに解決があって、それを我々が知らないから、というのではなくて、新しい解決が創造されなくちゃならない。我々ももっと忍耐強く、われわれ自身で、我々自身の解決を見出してくるべきではないか。


   この考えに和辻も同意する。そして、結論というものはけっして簡単に得られるものではなく、長い間苦難に耐え、それを乗り越えた後に初めて手にすることができるものであることを、西洋人は、旧約聖書を通して学んでいるのだと言う。


(和辻)そういう仕方をヨーロッパ人に深く教え込んでいるのが、旧約の預言者の文でしてね。(中略)あれは勝利の歴史じゃない。苦難の歴史です。


   しかし、日本においても、徳川家康のような苦労人は、苦難の歴史から学ぶことを知っていたと和辻は言う。ここで和辻が例とするのが、家康が家臣に読むように推奨した、武田氏*3「甲陽軍鑑」*4である。「甲陽軍鑑」は武田氏が滅亡した後、家康が養っていた武田氏の遺臣が著したもので、高坂弾正という武田氏の老臣が、武田勝頼*5に仕えた二人の武士に、統治の心構えや理想について説いた軍学書である。


(和辻)日本でも苦労人の家康は甲陽軍艦というような潰れた家の記録を流行らせています。(略)例えば、便乗派は日本では昔から九十%はある、というような記事もあります。九十は便乗派だが、後は五%が悪人、五%がしっかりした人物なのです。それを見わけるのが上に立っているものの第一の任務だ、というのです。うっかりして五%の悪人に時を得させると、九十%がそっちについちゃう。骨っぽい正義の士が五%いても何にもならない。だから五%の正しい士を見わけて、それに時を得させると、九十%がそっちについて行く。

(高坂)政治の真髄を掴んでますね。流石に。


   日本には昔から、悪人としっかりした人物が五ずついて、残りの九十%は便乗派である。だから、五%の悪人が実権を握ってしまうと、九十%がそれに便乗して国がおかしくなってしまう。したがって五%のしっかりした立派な人物が実権を握るように、上に立つものは見分けるべきであり、それが一番大切な任務である。幕臣たちにこの教えが浸透していたとしたら、徳川時代が二百六十年間続いたのも不思議ではない。

 

   つづく



1和辻哲郎1889年~1960年]哲学者・倫理学者・文化史家。兵庫の生まれ。京大・東大教授。倫理学の体系化と文化史研究に貢献した。文化勲章受章。著「ニイチェ研究」「古寺巡礼」「風土」「鎖国」「日本倫理思想史」など(小学館/デジタル大辞泉より)


2高坂正顕19001969]昭和時代の哲学者。明治33123日生まれ。高坂正尭の父。西田幾多郎にまなび,昭和15年京都帝大教授。戦争擁護の論陣をはり,21年公職追放となる。解除後,関西学院大,京大の教授をへて36年東京学芸大学長。41,中教審特別委員会主査として「期待される人間像」をまとめた。昭和44129日死去。69歳。鳥取県出身。京都帝大卒。著作に「カント」など(講談社/デジタル版 日本人名大辞典+Plusより)


3武田氏 清和源氏。祖は新羅(しんら)三郎義光の子義清で,常陸(ひたち)国武田郷に住

し武田氏と称し,のち甲斐(かい)国へ配流(はいる)されたという。鎌倉時代は甲斐の守護。南北朝時代その支流は若狭(わかさ)や安芸(あき)の守護。甲斐の本宗は室町時代振るわず戦国末期に信玄が出て中部地方一帯に版図を拡大。子の勝頼が1582年織田信長に敗れ滅亡(株式会社平凡社/百科事典マイペディアより)。


4甲陽軍鑑 江戸初期の軍学書。20巻。武田信玄の臣、高坂昌信の著述というが、小幡景憲(おばたかげのり)編纂説が有力。信玄を中心とし、甲州武士の事績・心構え・理想を述べたもの(小学館/デジタル大辞泉より)

5武田勝頼1546〜82]戦国時代の武将 信玄の第4子。上杉景勝とくみ,織田信長としばしば戦い,長篠の戦い(1575)に大敗。1582年,織田・徳川連合軍に甲斐に侵入され,天目山で自刃し,ここに武田家は滅んだ(旺文社日本史事典 三訂版より)



甲陽軍艦 .JPG












甲陽軍鑑

    35寛文・延宝年間(1661-81写 35冊 29.0×22.0㎝ 極彩色絵入り写本。

上質の斐紙に金泥や泥絵具で緻密な挿絵が描かれる。甲陽軍鑑は武田信玄(1521-73)、勝頼(1546-82)二代のいくさを扱った軍記。軍師山本勘介が登場し、甲州流軍学書として知られる。文中や奥書には高坂弾正(こうさかだんじょう/昌信。?-1578)が記した旨が書かれているが、著者は未詳。写真は巻第17永禄元年(1558)信州川中嶋で千曲川を中に信玄と上杉謙信が対面する場面。馬上が信玄、床机に腰掛ける人物が謙信。-国立国会図書館デジタルコレクション-

  江戸期の講談や歌舞伎をはじめ、明治以後の演劇・小説・映画・テレビドラマ・漫画など武田氏を題材とした創作世界にも取り込まれ、現代に至るまで多大な影響力を持っている。







書書名「江戸っ子と江戸文化」(小学館創造選書 1982年)
編者 西山松之助

   江戸は城下町である。
   他の城下町と違うのは、二百を超える地方藩の大名屋敷が存在するところである。そこにいたのは参勤交代で数年の間しか江戸に滞在しない地方武士たちである。一大消費都市であった江戸には上方商人たちも移住し支店を開業した。大名屋敷も支店も、男性ばかりで女性はほとんどいなかった。文久二年(1862年)に参勤交代がなくなるまで、そうゆう状態が続いたのである。
   地方武士も上方商人もついに江戸化しなかったので、やがて徳川家といっしょに三河から上京した武士や町人たちとの間に違いが生じるようになった。
   徳川家とともに江戸に来て、住み着いた町人たちは、やがて江戸っ子と呼ばれるようになる。古文書の中に、江戸っ子という言葉が一番初めに見つかるのは明和八年(1771年)のことである。彼らの多くは下町に住んだ。下町のほとんどが埋立地で、面積は全体の15%ほどしかなかった。この狭いエリアに、総人口の約半分に相当する、およそ50万人の町人が住んでいた*1

(西山)明治二年の統計でも、町人のいる土地は全体の15パーセント、お寺が15パーセント、あとの70パーセントが全部武家屋敷ですからね。~中略~結局、江戸は15パーセントの土地に、人口の半分以上が住んでた。50万以上ですね。だから町家は軒をつらねて、ぎっちり詰まって暮らしていた。

  人が集まれば活気が出る。経済も活性化する。下町エリアには各界の才人たちが集まってきた。時とともに下町は、経済と文化の中心地となり、18世紀後半には、山の手を凌駕するまでになった。
   武士や学者、浮世絵師、お茶やお花の宗匠から噺家まで、ありとあらゆる職種の人々が下町にいた。幕府の役人だった太田蜀山人のように町人になって住み着くものも現れた。そこには当時の文化人が集中していたのである。

(西山)文化の質の高さで下町に憧れて、下町というようになるのは、十八世紀後半のどうも明和(1764~72年)、つまり田沼時代からでしょう。その頃になると、杉田玄白とか平賀源内だとか、あんな連中が下町にずうっといまして、大槻磐水(玄沢)の蘭学塾も、これは京橋にありました。のちに少し移転しますけれども、そうゆうつまり蘭学とか漢学とか、国学、それに生花とかお茶の宗匠、出版から、いろんな美術工芸の生産センターでもある。そういう文化が全部下町、つまり日本橋、銀座、芝のあたりにかけて集中していました。

   知識も情報もお金もそして遊びも、すべて下町に集まっていた。海外の情勢すらいち早く把握していた。才能が集まればそれを求めてまた才能が集まる。見いだされた才能は豊かな資本と技術力によって支えられ、やがて大きく開花していった。下町はクリエイティビティに満ちた江戸の文化創造センターだったのである。生み出された傑作は庶民を楽しませ、時を経て芸術へと昇華していった。浮世絵師に戯作者、役者や噺家が、そして学者たちが、日々知恵とアイデアとセンスを競い合う活気に満ちたエリア、それが下町であった。このようなエリアは、当時、世界のどこにもなかったのではないかと西山は言う。

(西山)江戸のお金持ちというのは大名家ではなくなり商人が金持ちになり、世界の情勢なんかも商人がいちばん早くキャッチする。蘭学だって全部下町で興りますからね。そうなってくると、そういう新知識と、いろんな遊びとかそういうことも、全部下町というものがセンターになる。~中略~ この下町には、各地からやってきた幾多の俊才が流れ込んだ。平賀源内も、林子平も。蘭学の杉田玄白も、また荻生徂徠、賀茂真淵、太宰春台も。そして彼らの著述を出版するための版木師、刷り師などの職人も全部、神田や日本橋あたりに集中している。だから下町は江戸の文化創造センターだったのだと思います。

   文化をけん引するリーダー人材にはことかかなかった。蔦屋重三郎のような出版プロデューサーと腕の良い職人たちが、浮世絵師や洒落本、黄表紙などのベストセラーを量産し、江戸文化を日本全国に広げた。創造性と美意識、そして豊かな経済力を兼ね備えた出版資本が、それを強力に後押ししていた。出版技術の進歩も大きく貢献した。傑作が生みだすための、あらゆる条件がそろっていた。

(西山)多いのは草双紙とか黄表紙で、一万五、六千も売れたといいます。いくら刷っても刷るそばから持っていくという有様で...。ちょっと今の人には考えられないでしょう、そんなに売れたってこと。ベストセラーが当時もう出てきているわけですからね。その頃に江戸っ子が出てきたり、江戸文化が展開してくる。~中略~蔦屋重三郎なんてのは、中でも最高のプランナーだったと、ぼくは思いますね。誰になにを描かせるかといったようなことの発想も、ほとんど全部蔦屋重三郎がやっちゃう。これを描け、なんて全部蔦屋のさしがね。出版資本に大きな創造性と美意識と、そしてまた経済的な展開の能力があったということ、それがいちばん大きなものだと思いますよ。

   下町の町人たちにとって、もはや武士など眼中になかった。
江戸時代は合戦のない平和な時代である。武士に活躍の場はなかった。文化の中心は下町であり、担い手は町人たちだった。武士たちがどんなにいばったところで、その野暮なふるまいを笑われるのがおちであった。特に参勤交代でやってきた地方武士は、方言丸出しで、無骨なふるまいをこけにされ、田舎者扱いされたあげく、川柳や洒落本で笑いのたねにされた。

(西山)「野暮なやの字の屋敷者」というけど、ほんとに江戸っ子が威張れると思うのはいわゆる今の言葉でいう庶民の生活気分なんですね。屋敷者というのはやっぱり野暮なんですね。
~中略~つまり野暮な田舎侍というのは、田舎から来ると下町はすごいという意識が、どうも田沼時代頃からあったようですね。~中略~学問にしても、蘭学者だって金のある連中のほうがいいから町人と親しくなる。
(松島)浮世絵などは、武士を問題にしていませんね。風俗、風景を描くのに役者や遊女や町人などが主題になる。落語にしても、その中にでてくる侍はたいてい笑いの対象にされる。

   江戸っ子は「いき」であった。いきな人とはすなわち、決められた枠(西山はそれを「たが」と呼んだ)からはみ出さないで遊ぶすべを身に着けた者のことをさしていた。そしてそのふるまいの自由さが、決められた枠のすれすれであればあるほど、よりいっそう「いき」であるとされたのである。枠の存在を知らなかったり、知っていても無視して自由そうにふるまうのは野暮とされた。江戸っ子は制約の中の自由に価値を見出していたのである。

(西山)「いき」の世界には制約があります。もう一歩でくずれるというところでくずれていない。たがが全部はずれたところには自由はないので、たがというものがあってはじめて、自分はどういうふうに生きるかということの自由を楽しむ。
  浮世絵にも浮世絵のひとつのたがというものがある。そのたがを、どうたがでなく生きるかというところの自由さが、「いき」を洗いあげたひとつの条件ではないだろうかと思います。
   すれすれなんですよ。そういうたがを意識しないのが野暮。たががあることさえも知らないで、いかにも自由そうなふるまいをしているのが野暮なんですよ。

   江戸下町は、才能あふれる人々が知恵とアイデアとセンスを競い合うクリエイティブなエリアであった。それを出版資本や職人技が支えていた。そこでは様々な個性が入り乱れて、刺激に満ちた日々を送っていた。決められた制約の下で、誰もがぎりぎりまで自由活発に活動していた。
   江戸下町の文化創造センターとしての遺伝子は、今も生きていると思う。浮世絵を生み、歌舞伎を発展させた江戸下町のスケールやパワーを取り戻して、新しい文化を創造し、世界に発信するクリエイティブな可能性に満ちた都市、これこそが21世紀の江戸・東京の目指すべき都市の姿ではないだろうか。


1 明治2年(1869)に 行なわれた市街地面積調査によると、御府内(町奉行の支配に属した江戸の市域のこと)の面積は、武家地38.653km2,寺社地8.799 km2,町人地8.913km2,合計56.365km2。同エリアでは1721年(享保6)に町人人口が50万人を突破、幕末までおよそ50~56万人前後で推移している。人口調査の対象に含まれていなかった武家や寺社の人口を、町人と同じ約50万人と推計すると、江戸の総人口は100~110万人だったと思われる。1801年のロンドンの人口は約86万人、パリは約54万人と推計されており、江戸は世界的な大都市だった。(参考文献:2万分の1「江戸の都市的土地利用図」正井泰夫 1975年)

旧江戸朱引内図(東京都公文書館所蔵)全.JPG




 




旧江戸朱引内図(東京都公文書館所蔵)
[江戸の範囲]
「朱引内」の範囲。文政元年(一八一八)に目付からの問い合わせにたいして絵図面に朱線をもって示した評定所の決定による範囲。

edosyubikizu.jpg










文政6年江戸朱引図(『東京百年史』付録)より簡略化して作図
 港区のあゆみ デジタル版より.

















書名「自歴譜」(岩波文庫1982年)

著者 加太邦憲(かぶとくにのり)



  明治維新後、新政府の最大の課題は不平等条約の改正であった。

  そのためには、近代国家にふさわしい法律を整備し、適切な運用を実現しなければならなかった。西欧の法律知識のある日本人はほとんどいない時代である。専門人材の育成が急務であった。著者の加太邦憲は西欧の法律知識をいち早く修得し、多くの法律専門家を輩出した功労者のひとりである。加太の自伝である本書には、維新前後の日本社会の様子や、新政府で要職についてからの貴重な証言が数多く記されている。ここでは加太本人の履歴に注目し、日本が近代的な法治国家として脱皮していく道筋をたどってみたい。

 

  明治維新の功労者の多くは、人生の初期あるいは前半を江戸時代に過ごしている。

  当時、武士は藩校や私塾で、町人は寺子屋で学問の基礎を学んだ。知育と徳育は一体であり、そこで身に着けた学ぶ姿勢や方法、生き方の知恵は、やがて未知の学問であった洋学に挑戦し、それを修得することを可能にした。それは日本が驚異的な速さで欧米に追い付くための原動力となった。明治維新を成し遂げた大きな要因のひとつに江戸時代の教育の力があったことは疑いない。

 

 著者の加太邦憲は嘉永二年(1849年)、桑名藩士加太喜内の家に生まれた。安政二年(1856年)、7歳になると漢学者の大塚桂から「唐詩選」「三体詩」の手本を与えられて家庭で習字、読書を学ぶようになり、翌年の夏には大塚私塾に通うようになる。安政四年(1858年)に9歳で藩校の「立教館」に入門。これより16歳まで、早朝から私塾にて習字と読書をした後で藩校に出席し、午後は引き続き藩校で復習したり、私塾で学んだりする日々を送る。


  この間、著者は何を学んでいたのか。

 立教館の褒賞制度がその一端を教えてくれる。

「十歳の冬までに四書の素読を終わりたる者には「孔子行状図解」一部、十四歳の冬までに五経の素読終わりたる者には「義経大儀」一部を賞する法にて、即ち予(加太)は十歳に四書、十二歳にして五経を終わりたる故、この賞与には両度とも漏れざりき。」

「 」は本書より抜粋

  10歳の冬までに四書を、14歳の冬までに五経を読了したなら藩から賞されたのである。
著者は10歳で四書を、12歳で五経を読了した秀才だった。
   学んだのは漢学だけではなかった。


   15歳からは武田流の軍事学を学んだ。同じ頃、新陰流の剣術・風伝流の槍術・渡辺流の砲術も学び、剣術と槍術では19歳の時に免許皆伝を与えられている。

将来の藩を背負う人材は文武両道でなければならなかった。

「藩の制、藩士に文武両道を奨励し、楽翁公*1の『文武は車の両輪の如く、文を右に武を左に云々』の語ありて、教員といえども学問の一方に偏する許さず。故に教員二人を一組になし、隔日に登校授業をせしめ、非番日には文武を納めしなり。」

 リーダーには知力だけではなく、それを正しく用いる判断力、腐敗堕落に陥らない倫理力、激務に耐えうる精神力と体力が必要と考えられた。そのために教育において知育・徳育・体育がバランスよくなされるよう配慮されていたのである。

 

  十八歳になると、京都所司代を任じられていた桑名藩主・松平定敬*2に仕えるため、京都勤番を命じられる。幕末動乱のときであり、学問や詩歌を学ぶ時間はなく、もっぱら武芸に励む毎日であった。ただし雨の日だけは西洋兵学を学ぶことができた。当時はまだ翻訳書がなかったため、仏語で書かれた原書を読まなければならなかった。そのためフランス語を学ぶことになる。これが著者の洋学との出会いとなった。習得したフランス語は、後に法律学者として、大きな力となった。


    著者が本格的に洋学を志すのは維新後である。

明治元年に友人から小沢圭次郎*3が書いた英文の手紙を見せられて、自藩に洋学者がいることを知り、さっそく弟子入りする。しかしながら学び始めてから3か月後、洋学は邪道であり異端であるという声が藩校内にあがり、中断を余儀なくされてしまう。著者の洋学への思いは経ちがたく、かくて東京への遊学を志すことになる。

 上京して最初に師事したのは村上英俊*4でフランス学を学んだ。その後開成学校の博士(教授)で、まだ二十五、六歳だった箕作麟祥(みつくりりんしょう)*5に師事した。麟祥は多忙で満足に授業を受けられなかったため、近くの南校*6に通うことが多くなっていった。


   やがて藩より大学貢進生*7を命じられ南校舎寮に入ることになった。貢進生は英・仏・独語の何れかに加えて語学以外の専門知識を修得した人材を養成するために、大藩より3名、中藩より2名、小藩より1名ずつの秀才を藩費にて貢じるよう政府が命じたもの。総勢350名を数え、舎監は井上毅*8田東助*9らが務めた。他に普通の入舎生と通学生が300400名おり、学派と、成績による等級でクラス分けして凡そ20名の英・米・仏・独人を雇って教授とした。校長は加藤弘之*10で、教頭はオランダ人の宣教師フルベッキ*11が務めた。著者は5名のフランス人教師につき、普通学(一般教養)を修めた。


 ところがこの大学貢進生制度はわずか一年で廃止されてしまう。理由を一言で言うなら各藩から貢じられたのは秀才とは限らなかったからである。怠惰で遊蕩の者も少なくなかった。

  制度は廃止になり著者も退寮を余儀なくされた。しかしながらしばらくして、篤学の者を選び試験を経て南校に再入学させることになったため、成績優秀であった著者は寮に戻ることができた。


  南校を出てから、司法省初の法律専門学校である明法寮学校*12に入学することになる。箕作麟祥が仏国五法(民法・訴訟法・商法・刑法・治罪法)の翻訳作業の際に、難解な箇所についてフルベッキに質問したところ満足な返答が得られなかったため、司法卿の江藤新平*13の判断でフランスから法律家を招聘して箕作の質問に応えさせ、同時に学生を募って翻訳作業をさせることになった。20学生選抜されることになった。法学で身を立てることを決意した著者出願し、漢学と仏語の試験を経て合格、純然たる官費生となった。フランスからは代言人(弁護士)法学士ブスケ(27歳)*14が来日して教授となった。

 

  明法寮学校の卒業生は政府の要職につくことが半ば約束されていた。おもしろくないのは司法省の官僚たちである。法律学校の生徒をしきりに中傷し廃校に追い込もうと画策する。最初は無視していたのだが、廃校運動が盛大になってきたので著者らも黙っていられなくなり、廃校の理由のないことを記して司法卿の江藤新平に提出することになった。日本語と漢学に堪能だったブスケを通訳にして、授業を実地見学した江藤卿は、即興で学生に和文を仏語に翻訳させて教師のリブロースに評価させ、学生の翻訳能力と教師の評価手腕を試した。リブロースの教え方などについても通訳を介して問答したという。

数日して江藤卿から採決が言い渡された。

「評判に反し。学生の成績良好にして将来成功の見込あれば、学校は存続せん」一同が安堵したことは言うまでもない。

 

  明治6年(1873年)パリ大学教授ボワソナード博士(48歳)*15を司法省顧問兼教授として招聘することなった。法律の大家であるボワソナードの講義は個性的だった。いつも手ぶらでやってきて、前日の講義でどこまで話したかを学生に尋ねてから、その続きを講じたという。その様子は次のとおりである。

「その蘊蓄(うんちく)する所豊富なるが故に、講じたき簾々(かどかど)脳中に創出し、止まる所を知らざるを以て自ら秩序なく、時には横道に入り,遂には本道への戻り道を失することありて、到底初学の者には了解し難く、即ち学士以上の大体法律に通じる者に聴かしむる方法なれば、我々最初は困却したり。」

  

   明治9(1876)著者は法学科生徒幹事兼助教に任じられる。当初は一時的に設置された法律専門学校だったが、司法卿の大木喬任(おおきたかとう)*16はさらに100名を入学(入寮)させて拡大、学生は普通学(仏語)4年、法律学4年の計8年間学ぶことになった。法律に関する実務は増加の一途をたどり、外国法律の翻訳や取り調べも増えていた。法律人材の養成は急務だったのである。

 

    洋学の必要性を理解し、積極的に促進した大木卿であったが、その一方で急激な西洋主義への傾斜に危機感を抱いていた。少し長いが引用する。

「政府は一面一般思想が急に西洋主義に傾き、動(やや)もすれば国をも顧みざるものあるに至り、また一面世俗浮薄に流れ行くを憂慮し、もしこのまま放任し置くときは如何なる危険を醸生するや測られず、よって速やかに国家的(或いは東洋的)精神修養に勉めざるからずと心付きたれば、大木司法卿は廟堂において『これ素よりかく無かるべからず。よって予はこの点に注意し、司法の学生は漢学素養の者を選み、入校の上始めてこれに洋学を授くることとせり。これ蓋(けだ)し機宜に適するものと信じるが故なり』と述べたりと言う。」


   大木卿の先見に内閣の諸卿が感服し、授業を見学したいという声があがり、後日、三条実美太政大臣*17有栖川左大臣宮*18山形有朋陸軍卿*19西郷従道海軍卿*20らが学校を訪れ1時間あまり授業を参観したという。

 

  欧化政策は優れた知識や文化を西欧から学ぶことで日本をよりいっそう発展させたが、古くからのよき日本文化を破壊する可能性も秘めており、いかにしてバランスをとるかは、きわめて重大な問題であった。西洋主義に偏った人材による法の運用はとりわけ大きなリスクであるととらえられた。学ぶべき西洋文化や思想とは何か、日本文化(あるいは東洋文化)の何を残し、何を捨てるべきか。そのバランスの塩梅を考えなかった政治家、軍人、官僚そして学者はいなかったのではないか。日本的な(あるいは東洋的な)精神修養に勉めるべきとする大木卿の提言は、江戸時代に生まれ、藩校で学んできた維新政府の重鎮たちの心にしっかり突き刺さったにちがいない。著者も、大木卿の精神修養に注目したところに大いに共鳴し、卓見であると称賛を惜しまない。

 

   江戸時代は育の大切さを知る時代であった。はそれ自体を教えるというよりも、むしろ学問と一体であり、それは武道においても同様であった。

  今日、一部の政治家や官僚による腐敗を目にするにつけ、エリートにこそ徳育が必要であると思わざるをえない。徳を学ばないで育った人材に知識の善用は期待できないからだ。国益に関する重要な判断を迫られたときに、個人や組織の損得が判断基準になるようなことでは困る。

    さりとて「徳」を教えるのは難しい。徳については、古来より多くの先哲が吟味を繰り返し、様々な教えが存在している。その中からひとつを選び、あるいは新たな教義編みだして、これが答えであるとばかりに一方的に教えこめばよいというものではない。それはむしろ育むものである

    ではどうしたら徳を育むことができるだろうか。まずは読書と議論が必要である。武道も役立ちそうだ。江戸時代のひとたちも同じように考えたのかもしれない。


*1楽翁公 松平定信(17581829)。楽翁は官職を辞した後の号。寛政の改革を遂行した。桑名の藩校の立教館は、定信が白河に創設した藩校立教館に因んだもの(本書より)。

*2松平定敬 桑名藩主。京都守護職の会津藩主・松平容保は定敬の実兄。


*
3小沢圭次郎1832~1932)桑名藩士。海軍兵学校教官の後、東京師範学校(東京教育大学、筑波大学の前身)教官および校長心得を歴任。造園家、作庭家、教育者、文筆家、近代初の造園研究者(Wikipedia)。*第九回「江戸は日本庭園に満ちた都市であった」の注1も参照


*4
村上英俊1811~1890)洋学者・フランス学者。日本で初めてフランス語を習得したことで知られる。帝国学士会員、1885年にフランス政府よりレジョンドヌール勲章を授与された(Wikipedia


*5
箕作麟祥(184697)津山藩侍医箕作阮甫の孫。蘭・英・仏学を修め蕃書調所教授手伝並出役・開成所教授職見習・外国奉行支配翻訳御用頭取などを歴任。1870年には太政官制度局中弁江藤新平の命によりフランス民法の翻訳に着手。以来一貫して民法を中心に法典編纂事業に着手した(本書より)


*6南校  東京大学の前身の一。幕末の開成所を明治初年(1868)開成学校、そして大学南校と改称。洋学教育が行われた。明治10年(1877)東京医学校と合併して東京大学となった(デジタル大辞泉)。


*7大学貢進生 旧米沢藩出身の平田東助と旧飫肥藩出身で明治358日(187066日)に大学別当の松平慶永より大学南校の少舎長に任命された小倉処平との建議を受け、明治3727日太政官布告により、当時の各藩は石高に応じ1名から3名の人材を大学南校に貢進することが命じられた。大学南校は、明治政府が洋学を教授するため設置した教育機関であり、開成学校を経て東京大学に発展する教育機関である。(Wikipedia


*8井上毅1845~1895)枢密顧問官,文部大臣を歴任 大日本帝国憲法制定にあたっては,H.ロエスレルなど御雇外国人の助言を得つつ,その骨格を起案した。また教育勅語案文の作成をはじめ,重要案件の起草,意見書の提出など,明治中期の重要問題のほとんどに参画した(コトバンク)


*9平田東助1849~1925)山形の生まれ。山県有朋系の有力官僚として、貴族院議員・法制局長官・枢密顧問官・農商務相・内相などを歴任。特に産業組合法の制定、同組合の育成に尽力した(デジタル大辞泉)


*10加藤弘之1836~1916)幕臣として,開成所准教授,大目付勘定頭をつとめ、維新後の1877年東京大学綜理,90年帝国大学総長,さらに貴族院議員,枢密顧問官,帝国学士院院長などを歴任。


*11グイド・フルベッキ18301890)オランダ生まれ。アメリカのオランダ改革派教会宣教師。1859(安政6)来日して長崎で日本語を習得,禁教下秘かに布教して村田若狭に最初の洗礼を授けた。また,長崎の洋学所,その後身の済美館,さらに佐賀藩の致遠館で英語・フランス語・オランダ語・ドイツ語の語学,政治,科学,兵事などを教え,門下から大隈重信,伊藤博文,横井小楠らの人材が輩出した(平凡社 世界大百科事典)。


*12司法省明法寮学校1871-1875年)は、日本の司法省に設置された法律学校。司法省明法寮ともいう。出身者の多くが裁判官・検察官となり、明治時代の司法を支えた。寮はのちに東京大学法学部に統合された。東京大学法学部の前身(goo Wikipedia


*13江藤新平(1834~1874) 佐賀藩を脱藩して尊王攘夷運動に参加。明治維新後、司法卿として司法制度の確立に尽力。のち参議となり、征韓論を唱える西郷隆盛に同調したが敗れて下野。民撰議院設立建白書に署名。佐賀の乱を起こし、敗れて刑死した(デジタル大辞泉)。


*14ジョルジュ・ブスケ(1846~1937) 司法省が初めて雇用したフランス人法律家。18722月より 763月まで法律顧問兼法学教師として在職し,諸立法作業,司法省法学校生徒の教育に従事した(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)。


* 15ギュスターヴ・エミール・ボアソナード・ド・フォンタラビー(1825~1910)  1852年パリ大学で法学博士号取得,1864年グルノーブル大学,パリ大学の助教授。 1873年日本政府に招聘されて来日。司法省顧問として,刑法 (旧刑法) 治罪法,民法 (旧民法) を起草 (2者は 1882年施行,旧民法は法典論争のため施行されなかった) 司法省法学校,明治法律学校教授を務め,フランスの法律学および自然法思想を講じ,日本の立法事業ならびに法学教育に大きな足跡を残した(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)


*16大木喬任1832~1899)佐賀の生まれ。江藤新平とともに東京遷都を主張、東京府知事に就任。元老院議長・枢密院議長・法相・文相を歴任(デジタル大辞泉)。


*17三条実美1837~1891)幕末・明治前期の公家・政治家。実万(さねつむ)の四男。急進的攘夷派の指導者として、長州藩と提携。文久3年(1863818日の政変で七卿落ちの一人として長州に逃れた。明治維新後は新政府の議定・太政大臣・内大臣などを歴任(デジタル大辞泉)。


*18有栖川宮熾仁親王1835~1895)幕末・明治時代の皇族。有栖川宮幟仁(たかひと)親王の長子。兵部卿(ひょうぶきょう)福岡県知事、元老院議長を務め、1877年の西南戦争には征討総督として出征した。戦後、陸軍大将となり、左大臣、参謀本部長、参謀総長を歴任。 (小学館 日本大百科全書(ニッポニカ))


*19山形有朋1832~1922)陸軍大将・元帥。山口の生まれ。松下村塾に学ぶ。法相・内相・首相・枢密院議長を歴任(デジタル大辞泉)。


*20西郷従道1843~1902)薩摩(さつま)の人。隆盛の弟。はじめ陸軍に属し、台湾出兵を行ったが、のち、海軍大将。海相・内相などを歴任。晩年、元帥となった(デジタル大辞泉)。

 

寺子屋- 一寸子花里.JPG











▲寺子屋の筆子と先生。

文学万代の宝(始の巻・末の巻) 一寸子花画

(いっすんし はなさと)画弘化年間(1844~1848)頃


幕末に日本を訪れた多くの外国人は、日本人の識字率(しきじりつ)の高さ、

特に女性や子供の読み書き能力に驚きの声を挙げています。江戸時代の日本は、

世界最高の教育水準を誇る教育先進国でした。


東京都立中央図書館 デジタルミュージアムより引用




寺子屋の教科書 JPG.JPG





▲寺子屋の教科書 文政2年(1819)刊


①庭訓往来寺子宝(ていきんおうらいてらこだから) 

②塵劫記九九水(じんこうきくくのみず)

③小野篁歌字尽(おののたかむらうたじづくし)


寺子屋での教育方法は現在とは大きく異なり、読み書きを教えることが基本です。

その教科書には農民の子どもは農民に必要な知識を、商人の子どもは商人としての

必要な知識を学ぶためのものを使います。寺子屋等で使われた教科書を総称して「往来物」と言います。


「稚六芸」とは君子が持っている6種の教養「六芸」になぞらえ、

子供たちの学習に必要な6つの教科をあげたもので、

書は手習いを、数はそろばんを指しています。 

六芸とは、古代中国において士分以上の人に必要とされた教養のことで、

礼(道徳教育)、楽(音楽)、射(弓術)、御(馬車を操る技術)、書(文学)、数(算数)の6種を指します。


東京都立中央図書館 デジタルミュージアムより引用

 



























書名「江戸の夕栄」(1977年中公文庫)

著者 鹿島萬兵衛



   著者の鹿島萬兵衛は嘉永2年(1849年)江戸堀江町四丁目(現在の中央区日本橋小網町一丁目一番地)で生まれた。父萬平は三井組の一員で、後に、王子・滝野川紡績工場を設置し、函館には日本昆布会社を設立した実業家であった。著者も父の創業した日本昆布会社の社長や、東京紡績会社の取締役を務めている。

明治維新のとき著者は二十歳であり、本書は薄れゆく江戸の面影を後世に伝えるべく書き綴られた貴重な記録である。江戸の風俗から経済事情まで様々な逸話が紹介されているが、その中で今回もう一度火事の話を紹介したい。この連載の三回目で文化人類学者による町火消の優れた考察を紹介したが、今回は生き証人による独白である。

 

   江戸に火災が多かったというのはよく知られた事実である。

なぜそんなに火災が多かったのか。実はかなり放火があったのだと著者はいう。当時は木造家屋が多く、空気の乾燥した冬季になると燃えやすかったという事情もあった。

  

  江戸出火の原因は阻喪火も多からんが放火もまた甚だ多し。直接の付け火のほか飛火に仮托(かこ)つけての放火、螽斯(きりぎりす)然たる粗造の家屋板葺屋根の冬季乾燥して火口(ほくち)のごとく、蔀板(しとみいた)も反り返り好焚付(たきつけ)となり常に火災の起こるをまつもののごとし。 1

  

    なぜ放火が多かったのか。そこには何か特別の事情があったのではないか。著者は二つの間接的な要因を指摘する。ひとつは当時の減刑制度、そしてもうひとつは火災後の復興景気への期待である。

 

   『府の真中に火災を吸ひ寄せる一種の引力建物あり。それは他ならず大伝馬町の牢屋敷これなり。この囚獄中には首のなき重罪犯も少なからず、命の親と頼む親分も居れば無実にして入牢せる愛息居るなり。一朝にして火災近く延焼し来れば、獄中の者全部解放し、三日以内に浅草の新寺町の善慶寺に帰来るものを罪一等を減ぜらるるは、昔よりの規定なれば、この三日中は絶えて久しき我家に帰り来たり、可愛ゆき妻子と寝起きすること、とてもこの世には見ること難きあきらめたる我家に入ることも束の間にても許さるるわけゆゑ、本人は申すまでもなく、妻子眷族(けんぞく)の祈らぬもものなからん。分を助けんと思う子分等の出来得る限りの手段を尽くすなるべし。

   

   火災になると一時的に囚人は解放され、三日以内に戻れば減刑されたのである。というわけで火事を待ちわびている囚人やその家族、子分は少なくなかった。無実の罪で投獄された者もいた。愛する家族や親分の減刑のために火を放ったというわけである。火災が発生したときの囚人たちの喜びはひときわ大きく、牢屋敷では大歓声があがったという。


 誰が知らするにや、火災の牢獄近くに延焼し来るときは大勢の罪人牢内にて鬨(とき)の声を揚ぐる。その声のすさまじきなり。


もうひとつの要因は火災後の復興需要増大に対する期待である。

火災後の復興景気で職人たちは大いに潤った。被害が大きければ大きいほど収入も増える。そのため職人たちの消火活動が消極的に見えることさえあったという。2

 

    『第二の引力は、本町、大伝馬町、堀留辺には有名の大商家軒を並べゐるが、一朝この辺が火災になれば出入りの諸職人は三年遊んで喰へるとの譬へあるほどゆゑ、力を尽くして消防するや否や覚束なく思はるるなり。


町火消が復興需要の増大のために本気で消火活動をしなかったというのは聞き捨てならない話である。それは事実なのか。そもそも町火消の消化能力について著者はどのように見ていたのか。それは、一言で言うなら、「意気盛んだが実力はない」という極めて厳しいものだった。

  

   『元来、江戸の消防夫の意気はすこぶる盛んにして古武士の勇あれども、消防の真の力甚だ乏しきものなりき。消防具のごときはなしと断言する憚らず。蔀(しとみ)をはがし塀を破り火勢の連絡を断つの作業は、ほとんど器械を使用せず。稀に刺又を用いて棟木を倒すぐらゐの用をなすに過ぎず、鳶口は喧嘩の時に使用するのみ、消防用に用ひず。竜吐水は纏持ち(まといもち)に水をそそぐくらゐにて消火には大なる役には立ぬものなり。

   

   実力不足の原因は、装備の乏しさにあった

不利な条件のもとで個々の町火消はむしろがんばっていたと言ってよさそうである。ほとんど消火の不可能な状況で町火消は人命救助に努め、しばしばこれを成し遂げていた。わが身を顧みない町火消の勇猛果敢な救援活動に江戸市民は拍手喝采したのである。

  

   『纏持は纏の反面黒こげになるも容易に去らざるを自慢となす。この不完全の水の手消防の不備のうちに、ある特種の場合に四面猛火に包まれ家屋を安全に救助せる例しばしばあり。人を驚嘆せしめしことは毎度なり。


火災の被害は甚大だった。火災保険のない時代である。中流以下の被災者は無一文から出直さなければならなかった。

 

   『今日のごとく火災保険、家具保険等のなき当時にては、三十分前までは大身代の大尽も焼失後は無一物となり、家族打ち集り悲歎に暮るるの例は年ごとに何百人といふを知らす。御府内居住の中流以上の家族が零落せる話を聞くに、十の七八は何々の火事に丸焼やけになって以来かくのごとくの身分に落ちぶれました、と語るもの多かりしは事実なり。


中流以下の家族の被害が大きかった原因には、借家ではなく無理をしてでも持ち家を望んだ江戸っ子のいわば「見栄っ張り」の気質も影響していた。富裕層は土蔵を作って財産を守ったが、中流以下の江戸っ子の家屋に土蔵はなく、つくりもお粗末であった。

 

その家屋は割合に粗造のもの多し。その故はとかく江戸っ子は借家住居を恥とし、商人は店の代呂物(しろもの)に入れる資本よりもまづは家を建つるを誉とす。火災保険などのなき時代に一年に二度または三度も類焼すること珍しからぬ上に、それを我慢に借金しても家を建つるゆゑ、きりぎりす籠然たる建物の多きもまた当然なり。それゆえ富豪は多く土蔵となす。

   

   立ち位置が違えば同じ景色も違って見えるものである。あるいは目の付け所が違うと言ったらいいのか。本書の考察は学者の分析とは一味も二味も違って新鮮で興味深くおもしろい。著者は時代の生き証人であり、資料やデータをもとに歴史を編纂する学者ではない。その立ち位置は武士でも町火消でもない市井の江戸市民である。この連載の3回目で紹介した文化人類学者による町火消についての見事な考察と比較して感じることは、データや資料解読から生み出される歴史描写ではこぼれ落ちてしまう、いわば「時代の息吹」とでもいうべきものは、ことばでしか伝わらないということである。

歴史の真実によりいっそう近づくためには、資料やデータに基づく分析だけではなく、その時代に生きた人々の生の証言を聞かなければならない。

正しい歴史認識には、データや資料の分析と生き証人の証言の両方が必要なのである。

  

   今日、事実認定において統計データによるいわゆるエビデンスが重視される。しかしながら、データになりにくいもの(例えば美しさやおいしさなどの主観的感情など)をデータ化する場合には細心の注意が必要であり、その結果には謙虚であるべきだ。歴史に関して言えば、私はむしろその時代に生きた人たちの発した「ことば」の中に時代の真実が隠れているのではないかと思う。

  

   今という時代の息吹を後の世代に伝えるために、私たちはもっとことばを大切にするべきではないだろうか。もっとことばに注意を払い、ひとりひとりが誠実な発言を心掛けるなら、「時代の息吹」は後世の人びとにいきいきと伝わり、真実の歴史認識に貢献するに違いない。


1   部分 本書より引用


2 町火消だけでは生計が成り立たず、ほとんどの町火消は職人との兼業だった



鎮火安心圖巻-上 .JPG









町火消(三番組の各組)の勢揃い

み組の火消道具の編成が描かれている。


鎮火安心圖巻-中 .JPG


  







町火消二番組、五番組の活躍

屋根に上がった纏いとそれに水をかける龍吐水



鎮火安心圖巻-下.JPG









鎮圧後の町火消八番組(ほ組、か組、た組)と

船に避難した町の人々



国立国会図書館デジタルコレクション  

鎮火安心圖巻 より

嘉永七年甲寅孟秋、武州豊嶋郡峡田領住人、鬼蔦齋書画」と奥書に記されている。作者は峡田領(現在の三河島、町屋一帯は上野寛永寺の領地だったころ峡田(はけた)領とよばれていた。)の人で嘉永年間(18481854)ごろの様子を描いたもの。



第十一回「孫が語る第15代将軍徳川慶喜」

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書名「徳川おてんば姫」(2018年東京キララ社)

著者 井手久美子


   著者は徳川第15代将軍徳川慶喜(慶喜公)の孫である

本書には最後の徳川将軍の孫として育てられた著者の個人的な思い出がつづられている。しかし読者は読み進むにつれて、それだけではないことに気づく。そこには当事者にしか知りえない、興味深い歴史的事実が、ところどころちりばめられているからである。

 

   著者は大正11年(1922年)、当時の東京都小石川区(現在の文京区春日二丁目)にあった徳川屋敷に生まれた。地名の小日向第六天町にちなんで「第六天」と呼ばれた。慶喜公が晩年を過ごしたので「徳川慶喜終焉の地」として知られている。徳川屋敷は第二次大戦後に財産税として物納され、その後跡地には財務省の官舎が建てられたりしたが、現在は国際仏教学大学院大学の敷地になっている。

 

   慶喜公が徳川屋敷にたどり着くまでには紆余曲折があった。

大政奉還後、慶喜公は木綿服、小倉袴に小刀一本の身一つで江戸城を追われた。

最初に赴いた上野・寛永寺に二ヵ月滞在したあと水戸に移り、そこで三ヵ月ほど過ごした。その後静岡に移り住み、以後30年近くの間当地に隠棲した。しかし最後は徳川に縁の深い江戸で暮らしたいと考え、徳川屋敷に移ったのだと著者は言う

 

   江戸に帰還した翌年の明治3563日、慶喜公は明治天皇から公爵を授爵した。

徳川慶喜家ではこの日をご授爵記念日とし、以来毎年「ご授爵の宴」が催されたという。上野精養軒の料理で、招かれた慶喜公ゆかりの人々がもてなされた。

「公爵」は爵位の第一位で、皇族や旧摂関家などの公家、武家(徳川宗家のみ)のほかに、国に偉勲のあった限られた「家」に与えられるたいへん名誉な爵位であった。

明治維新の勲功が認められた慶喜公は、このときすでに公爵に叙せられていた徳川宗家とは別に「徳川慶喜家」を立てることも許された。

明治政府は慶喜公を優遇し、維新の功労者としてその勲功を称えたのである。

この日をもって慶喜公の朝敵の汚名は返上された。

   爵を授爵して11年、大正二年11月に慶喜公は七十七歳で亡くなった。

江戸の人びとは慶喜公を忘れてはいなかった。

葬儀の日、沿道は集まった人々で埋まり、江戸町火消が一番から十番まで総出でお供を
したという。その葬儀は神式であった。「公爵」を与えてくれた明治天皇に感謝の意を表すために、仏式ではなく神式で葬儀を行うようにと、慶喜公が遺言を残していたからである。


   なぜ明治天皇は長く朝敵とされていた慶喜公を維新の功労者として称えたのかについては本書で触れられていない。そこには何らかの状況の変化があったのであろう。あるいは、最初から朝敵でないことはわかっていたけれど、時代がそれを認めることを許さず、30有余年を経てようやくその機会を得たということではなかったか。

そう思うと、日本が大きく方向転換した明治維新には、知られていない功労者がまだまだいるのではないかと思えてくる。

明治維新に限らず、誰に知られることもなく歴史の中に埋もれてしまった功労者はたくさんいるに違いない。いくら年月が経とうとも、私たちは、事実を掘り起こし、正しく評価し、必要があれば顕彰し続けなければならない。

歴史に終わりはないのである。

 

2020-11-谷中霊園 徳川慶喜公墓.jpg

▲徳川慶喜公お墓

東京都指定史跡

徳川慶喜墓(とくがわよしのぶ はか)

所在地 台東区谷中七二寛永寺墓地内

指定   昭和四四年三月二七日

徳川慶喜(一八三七~一九一三)は、水戶藩主 徳川斉昭の第七子で、はじめは一橋徳川家を継 いで、後見職として将軍家茂を補佐しました。慶応二年(一八六六)第一五代将軍職を継ぎまし たが、翌年、大政を奉還し慶応四年(一八六八)正月に鳥羽伏見の戦いを起こして敗れ、江戶城を明け渡しました。復活することはなく、慶喜は江戶幕府のみならず、武家政権最後の征夷大将軍となりました。駿府に隠棲し、余生を過ごしますが、明治三一 年(一八九八)には大政奉還以来三〇年ぶりに明治天皇に謁見しています。明治三五年(一九〇二) には公爵を受爵 徳川宗家とは別に「徳川慶喜家」 の創設を許され、貴族院議員にも就任しています。大正二年(一九一三)一一月二二日に七七歳 で没しました。 お墓は、間口三・六m奥行き四・九mの切石土留を囲らした土壇の中央奧に径一・七m高さ0・ 七二mの玉石畳の基壇を築き、その上は葺石円墳状を成しています。   平成二二年三月 建設 東京都教育委員会


 

2020-11-上野寛永寺 根本中堂.jpg

寛永寺本堂

旧本堂(根本中堂) は現在の東京国立博物館前の噴水池 あたりにあったが、慶応四年(一八六八)彰義隊の兵火で 焼失した。そのため明治九年(一八七六)から十二年にかけて、埼玉県川越市の喜多院の本地堂が移築され、寛永寺本堂となったのである。寛永十五年(一六三八)の建造 といわれる。

間口・奥行ともに七間(十七・四メートル)前面に三間の向拝と五段の木階、背面には一間の向拝(こうはい)がある。周囲に は勾欄付廻縁(こうらんつきまわりえん)をめぐらしており、背面の廻縁には木階を設けて、基壇面に降りるようになっている。桟唐戸 (さんから/正面中央など)蔀戸(しとみと/正面左右など)板壁など、すべて素木の まである。屋根は入母屋造、本瓦葺、二重棰(たるき)とし、細部の様式は和様を主とする。

 内部は、内陣が土間で、外陣(げじん)と同じ高さの須弥壇(しゅみだん)が設け られている。須弥壇の上に本尊その他の仏像を安置する。 内陣を土間とする構造は中堂造と呼ばれ、天台宗独特のも のである。現在は仮の床が張られ、内外陣ともにすべて畳敷になっている。   平成十六年三月台東区教育委員会



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「慶喜公蟄居葵の間」

根本中堂の裏側「慶喜公蟄居の間」が残されている建物外観写真。

慶喜公は1868年2月12日より4月11日まで2ケ月の間蟄居生活を送った。


書名「江戸・東京の中のドイツ」(2003年講談社学術文庫)
著者 ヨーゼフ・クライナー


本書は、江戸・東京にドイツ人*1しるした足跡を、現在も残るゆかりの地を始点にたどり、当時すでにすぐれて国際的であった首都・東京の姿を浮き彫りにしている。紹介されているエピソードは何れも秀逸で、いまさらながらヨーロッパと日本との縁の深さを感じないわけにはいかない。

著者のヨーゼフ・クライナー*2は執筆当時ボン大学教授であり同大学の日本文化研究所長である。本書は「ケンペルやシーボルトなどのヨーロッパにおける日本研究の先学の業績をフォローする作業の中で問題関心として明確化してきたヨーロッパと日本の比較文明論」の系譜につらなる日本研究の書である。内容は多岐に渡り、著者の関心の幅は広い。すべてのエピソードを紹介したいところだが、そこは本書を直接手に取ってもらうことを読者に期待して、今回は帝都・東京の改造プランを立案したドイツ人の物語を紹介しよう。

明治新政府は首都・東京をどのような都市にしたかったのだろうか。
そのヒントは新政府の欧化政策にある。
新政府の最大の課題は列強と結ばれた不平等条約の改正だった。そのためには軍事、経済の近代化が必要だったが、それだけでは足りなかった。内務卿の伊藤博文と外務卿の井上馨が考えたのは帝都改造、すなわち首都東京の思い切った西欧化*3であった。そうすることで視覚的に近代化をアピールできると考えたのである用地は旧大名江戸屋敷の広大な跡地があった。すでに大規模な都市改造計画が達成されたパリ、ベルリン、ウイーンといったヨーロッパの大都市の手本もあった。都市改造のための条件は整っていた。

 しかしすべてが順風満帆というわけにはいかなかった。日本における都市設計には大きな足かせがあった。日本では古来、四神相応*4に立脚した道教陰陽道*5の地相学に基づいて都市設計をしなければならなかった。
それは簡単に言えば次のようなことである。すなわち、万物の根源力とされる「気」が大海に流れ出てしまう前に、統治者の所在する地点に集中しなければならないとされ、そのためには、北面すなわち都市の背後には高い山があり、前方となる南面には沢畔がなくてはならなかったのである。これを東京に当てはめると次のようになる。すなわち「四神相応の思想によれば政府官庁用地は現在の皇居(当時の皇城)の東南面の南でなくてはならず、東は築地本願寺*6、西は日枝神社*7に囲まれた、日比谷、虎ノ門、霞が関を中心とする一帯以外には考えられなかった」のである。

1880年当時、この地帯には日比谷練兵場(現在の日比谷公園)、薩摩藩島津家、長州藩毛利家、佐賀藩鍋島家などの旧大名江戸屋敷があった。1883年(明治13年)、手始めとしてイギリスの建築家ジョサイア・コンドル*8の設計による鹿鳴館(跡地は旧大和生命本社、現在は日比谷U-1ビル)が建設された。その数年後には帝国ホテルも建てられた。

井上馨はここに西欧式の政府官庁集中計画のマスタープランを求め、最終的に委託されたのがベルリンのエンデ=ベックマン建築事務所*9だった。

エンデ=ベックマンの第一プランはパリ、ベルリンの都市改造がモデルとされた。第一プランでは各官庁の建物は間隔をおいて配置され、間には公園や緑地帯が数多く設けられていた。日比谷には博覧会場として大空間がとられ、会場を二分するように「日本大通り」が走っていた。火災が多かったため、防火ゾーンとしての機能も与えられていた。
この日本大通りの東端からは「天皇大通り」と「皇后大通り」が放射状に斜めにのび、その内側の三角形に今日の有楽町駅付近に中央駅が配置された。
日本大通りの西端からは「国会大通り」が国会議事堂(現在と同じ場所)に向けて上っていた。議事堂の左右には首相官邸と司法省が配され、ここから東の浜離宮まで「ヨーロッパ大通り」が下っていた。ベックマンプランの最重要建築は司法省(現在の法務省)である。司法省庁舎が西欧風の近代建築であれば、それは日本の司法が十分機能している証拠とみなされるであろうと考えたのである。皇居も大きく改造された。驚くべきことにその意匠は、ドイツ・ドレスデンのツインガ―宮殿10を想起させるネオ・バロック様式であった。

   第一プランが実現していたら、東京の風景は一変していただろう。想定どおり条約改正交渉に好影響を与えていたなら、その後の日本の歴史は変わっていたかもしれない。それくらい大胆な改造計画だった。しかしながら、その後日本の政局が一変すると状況は大きく変わった。条約改正交渉に失敗した外務大臣井上馨は失脚し、都市改造計画も頓挫してしまう。同じころ極端な欧化政策の反動で日本固有の伝統に回帰すべきだという運動が各方面に広まりはじめていた。
エンデ=ベックマン事務所の考え方も和洋折衷様式に傾きつつあった。ベックマンは滞在時に精力的に日本の伝統建築を見て回っていた。日本の伝統美術工芸が自らに与えた影響は皆無であるいう立場を堅持しつつも、キヨソネ11、フェノロサ12、ビゲロー13らの日本美術賛辞には毅然とした反論ができなかったと、ベックマンは後年吐露している。ヨーロッパにも建築の東方様式が浸透しつつあった。

 やがて提出されたベックマンの第二プランでは、第一プランは容赦なく切り刻まれ、官庁建設予定地も日比谷に限定されていた。
だが結果としてこの第二プランもほとんどが却下された。実現したのは、今も残っている旧司法省本館(現法務省旧本館)14のみである。旧司法省本館は建築家・河合浩蔵15が工事監理を担当し、1895年に日比谷練兵場(現在の日比谷公園)の西側、旧米沢藩上杉家16江戸上屋敷跡地である千代田区霞が関1-1に竣工した(本書には、江戸中期の南町奉行、大岡越前守忠相17上屋敷跡地と記されているが、そこには現在弁護士会館が建っている)。

その後、東京の西欧化がますます進んだことは言うまでもない。それは官庁エリアにとどまらなかった。特に第二次大戦後の都市の西欧化(欧米化)はめざましい。改造は都市計画にとどまらず、そこに住む人々の生活や文化にまで及んだ。私たちの生活の中に、西欧化はもはや当たり前のように組み込まれてしまっている。
その代償として、私たちは江戸時代まで残っていた美しい風景を失った。良くも悪くも生活習慣や文化も大きく変容した。フェノロサらが絶賛し、ベックマンも否定することができなかった日本独自の美しさも私たちは失ってしまった(もちろんすべてではないが)。

  井上馨は不平等条約の改正のために東京の都市改造が必要と考えた。
しかし本来の都市設計とは、そこに暮らす人々の生活や文化に根差してなされるべきである。すべてを取り戻すことはできないかもしれないが、失われた「日本の伝統美」を復活させるために、もう一度首都設計を考えるときにきているのではないだろうか。
もちろん、すっかり西欧化した東京に配慮して、その意匠は和洋折衷様式である。

 

*法務省HP法務省旧本館(赤れんが棟)フォトギャラリー」http://www.moj.go.jp/hisho/kouhou/hisho06_00222.html


*1 ドイツ人 1815年のドイツ連邦成立までドイツは神聖ローマ帝国の一部だった。その後1867年の北ドイツ連邦、1871年のドイツ帝国、第二次世界大戦後の東西分裂を経て、1990年に現在のドイツ連邦共和国が成立した。本書では「オランダ人、オーストリア人を含んだ中欧人」をドイツ人としている(あとがきより)。


*2 ヨーゼフ・クライナー (Josef Kreiner, 1940年3月15日 - )は、オーストリアの学者。ボン大学名誉教授。専攻は民族学・日本文化研究・沖縄研究(Wikipediaより)。


*3 西欧化(欧化政策)外務卿(後の外務大臣)井上馨を中心として、安政五カ国条約など欧米列強と締結していた不平等条約の改正の実現のために、憲法などの法典編纂と並行して、日本の文化をヨーロッパ風にすることで彼らが国際法の適用対象と して見なす文明国の一員であることを認めさせようとしたのである。その代表的な存在が1883年に完成した鹿鳴館であった。井上自らが鹿鳴館の主人役を務め、華族・政   日比谷にプロシア風の大規模な官庁街を建設する構想が打ち立てられている(官庁集中計画)。また、文化面でも「改良」運動が官民ぐるみで盛んになり、1883年に矢田部良吉・外山正一による「羅馬字会」や同じく渋沢栄一・森有礼による「演劇改良会」が結成され、また欧米を真似て学会を創設する動きも盛んになった。山田美妙らによる言文一致運動もこの時期に発生している(Wikipediaより抜粋)。 


*4 四神相応(しじんそうおう) 東アジア・中華文明圏において、大地の四方の方角を司る「四神」の存在に最もふさわしいと伝統的に信じられてきた地勢や地相のことをいう。四地相応ともいう。なお四神の中央に黄竜や麒麟を加えたものが「五神」と呼ばれている。ただし現代では、その四神と現実の地形との対応付けについて、中国や朝鮮と日本では大きく異なっている(Wikipediaより抜粋)。


*5 道教陰陽道 日本の陰陽道は、陰陽道と同時に伝わってきた道教の方術に由来する方違、物忌、反閇(呪術的な足づかい、歩き方)などの呪術や、泰山府君祭などの道教的な神に対する祭礼、さらに土地の吉凶に関する風水説や、医術の一種であった呪禁道なども取り入れ、日本の神道と相互に影響を受けあいながら独自の発展を遂げた(Wikipediaより抜粋)


*6 築地本願寺 東京都中央区築地三丁目にある浄土真宗本願寺派の寺院。東京都内における代表的な寺院の一つで、京都市にある西本願寺の直轄寺院である。本尊は聖徳太子手彫と伝承される阿弥陀如来立像(Wikipediaより抜粋)。


*7 日枝神社 東京都千代田区永田町二丁目にある神社。江戸三大祭の一つ、山王祭が行われる。旧社格は准勅祭社(東京十社)、官幣大社。大山咋神(おほやまくひのかみ)を主祭神とし、相殿に国常立神(くにのとこたちのかみ)、伊弉冉神(いざなみのかみ)、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)を祀る(Wikipediaより抜粋)。


*8 ジョサイア・コンドル(Josiah Conder、1852年9月28日 - 1920年6月21日) は、イギリスの建築家。工部大学校(現・東京大学工学部)の建築学教授として来日し、傍ら明治政府関連の建物の設計を手がけた。辰野金吾ら、創成期の日本人建築家を育成し、明治以後の日本建築界の基礎を築いた。のちに民間で建築設計事務所を開設し、財界関係者らの邸宅を数多く設計した。日本女性を妻とし、河鍋暁斎に師事して日本画を学び、日本舞踊、華道、落語といった日本文化の知識も深かった(Wikipediaより抜粋)。


*9 エンデ=ベックマン建築事務所 ヘルマン・グスタフ・ルイ・エンデ(Hermann Gustav Louis Ende、1829年3月4日 - 1907年8月10日)。ヴィルヘルム・ベックマン(Wilhelm Böckmann、1832年1月29日 - 1902年10月22日)。いづれもドイツの建築家。               


*10 ツインガ―宮殿 ドイツ、ザクセン州の州都ドレスデンにあるバロック様式の宮殿で、中庭に庭園を有する。現在は、ドレスデン美術館の重要な構成要素であるアルテ・マイスター絵画館等として利用されている (Wikipediaより抜粋)。


*11 エドアルド・キヨッソーネ(Edoardo Chiossone , 1833年1月21日 - 1898年4月11日)はイタリアの版画家・画家で、明治時代に来日しお雇い外国人となった(Wikipediaより抜粋)。明治天皇や西郷隆盛の肖像画で知られている。


*12 アーネスト・フランシスコ・フェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa、1853年2月18日 - 1908年9月21日)は、アメリカ合衆国の東洋美術史家、哲学者で、明治時代に来日したお雇い外国人。日本美術を評価し、紹介に努めたことで知られる(Wikipediaより抜粋)。


*13 ウィリアム・スタージス・ビゲロー(William Sturgis Bigelow、1850年4月4日-1926年10月6日)は、アメリカ合衆国の医師で日本美術の研究家、仏教研究者。ボストン市出身(Wikipediaより抜粋)。 


*14 旧司法省本館 東京都千代田区霞が関にある歴史的建造物(重要文化財)である。中央合同庁舎第6号館赤れんが棟(ちゅうおうごうどうちょうしゃだいろくごうかんあかれんがとう)ともいう。旧司法省庁舎として1895年に竣工したドイツ・ネオバロック様式の歴史主義建築である。1923年の関東大震災では煉瓦外壁が鉄材補強されていたことでほぼ無傷で乗り切ったものの、1945年の空襲により内装の大部分と屋根を焼失した。1950年に法務府庁舎(1952年からは法務省本館)として再利用されることになるが、それにあたっての改修工事では屋根材(雄勝石のスレートから瓦)等に変更が加えられた。しかし1994年の改修工事では文化財としての観点から創建時の外観に戻され、法務総合研究所及び法務図書館として利用されるようになった。同年12月27日には国の重要文化財に内装を除いて指定されている。この敷地は江戸時代に米沢藩上杉家藩邸(上屋敷)として使われており、その記念碑も建立されている(Wikipediaより抜粋)。


*15 河合浩蔵(かわい こうぞう、安政3年1月24日(1856年2月29日)- 1934年(昭和9年)10月6日)は主に明治・大正期に活躍した建築家。建築学会の前身造家学会の設立に尽力した。ドイツ留学より帰国後、司法省 建築主任として現法務省の建設に携わる。その後関西を中心に活動し、ドイツ風の小寺家は重要文化財となっている(Wikipediaより抜粋)。


*16 米沢藩上杉家 上田長尾家出身の長尾顕景は、同じく長尾家出身の上杉謙信の養子となり、名を上杉景勝と改めた。謙信死後、御館の乱を制し、上杉氏の惣領となり、豊臣秀吉に仕え、陸奥会津120万石(会津藩)を領した。秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは石田三成ら西軍に付いて敗北。しかし、戦後に家康から罪を許されて出羽米沢(米沢藩)30万石減封となり、1664年(寛文4年)に継嗣問題でさらに15万石(屋代・漆山・岩船に預かり地が7万石あり)に減封されたが、家格は国主とされた。減封されたにもかかわらず家臣を減らさなかったため、財政難に陥り、一時は領地を返上することまで検討されたが、第9代藩主上杉治憲(鷹山)による改革などによって藩政を建て直し、明治に至り伯爵(Wikipediaより抜粋)。


*17 大岡越前守忠相 江戸時代中期の幕臣・大名。8代将軍・徳川吉宗が進めた享保の改革を町奉行として支え、江戸の市中行政に携わったほか、評定所一座に加わり、関東地方御用掛(かんとうじかたごようがかり)や寺社奉行を務めた。越前守だったことと『大岡政談』や時代劇での名奉行としてのイメージを通じて、現代では大岡越前守として知られている。通称は求馬、のち市十郎、忠右衛門。諱は忠義、のち忠相(Wikipediaより抜粋)。


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鹿鳴館
掲載資料 東京景色写真版  
刊行年 明治26(1893)
国立国会図書館デジタルコレクション



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日比谷公園音楽堂
最新東京名所写真帖
出版年月日 明42.3
国立国会図書館デジタルコレクション





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旧法務省本館

掲載資料 東京風景
刊行年明治44(1911)
国立国会図書館デジタルコレクション


書名「大名庭園―江戸の饗宴」(1997年講談社選書メチエ 20203月ちくま学芸文庫)

著者 白幡洋三郎

 

   江戸時代末期には271の大名家が存在したという。
大名屋敷には上屋敷、中屋敷、下屋敷があり、大大名になると、それぞれ複数の屋敷を幕府から拝領していた。裕福な大名は自ら屋敷地(抱屋敷)を買い上げることもあったという。これらすべてを合算すると1,000以上もの大名屋敷があったことになる。
 
それ以外に幕府直参である旗本の屋敷もあった。旗本も上屋敷、中屋敷、下屋敷を拝領していた。旗本は約5,000人いたので、15,000以上の旗本屋敷があったことになる。
これらの武家屋敷すべてに日本庭園があった。江戸は日本庭園に満ちた都市だったのである

   ところが明治時代に入ると、ほとんどの大名庭園は消滅してしまう。
何とか生き残り、今も往時の姿を偲ばせている大名庭園は、小石川後楽園、六義園、芝離宮、浜離宮など数えるほどしかない。迎賓館(赤坂離宮)、新宿御苑、東京大学本郷校舎内の三四郎池周辺などは、園内の一部に名残をとどめているにすぎない。
明治新政府は多くの大名庭園を桑畑や茶畑に転用した。
当時の主要輸出品は生糸とお茶であった。生糸生産に必要な蚕を飼うために桑畑は不可欠であった。茶畑も同様である。畑に転用されなかった庭園は軍事目的や各種産業振興のための官用地としてとして用いられた。
 
 旧桑名藩で造園家の小沢圭次郎(おざわ けいじろう1は大名庭園の衰退を憂い、旧大名家所蔵の庭園関係文書や図面を買い取ったり、筆写したりして集めた。それらは当時を知ることのできる重要な史料として現在も残っている。しかしながら実際にはその数十倍の大名庭園が存在した。

ところで、日本庭園には禅宗寺院の「石庭風(枯山水)」理想と、桂離宮に代表される回遊式の「王朝風」理想があるという。近代以前には眺めることだけを目指した庭園は存在していなかったのだから、この二つの理想は近代以後の産物であると著者は言う。 
 いったいいつから日本庭園を視覚的な芸術作品と捉えるようになったのか。
きっかけは榎本其角の「後楽園拝見記」1702年)に始まるいわゆる庭園「拝見記」にあった。初期の拝見記は、庭園を芸術作品とみなしておらず純粋な「お庭拝見」であった。
 それは当時としては新しい造園観であった。
18世紀の後半になるとこのような「拝見記」がつぎつぎに現れた。
 
この「拝見」の思想が庭園を「回遊する」行為と結びついたときに、現在につながる庭園鑑賞の基本姿勢が生まれた。大名庭園では視覚以外の様々な体験(狩りや釣り)が可能であったが、このお庭拝見の思想の広まりによって、回遊の性格が視覚へとよりいっそう純化し、それはやがて「回遊式」とよばれる様式にまで高められた。
 
しかしながら、先に述べたふたつの理想、すなわち「石庭風」理想と「王朝風」理想に照らしてみるならば、大名庭園は見るものに物足りなさを感じさせた。

   日本庭園史界の重鎮である森蘊(もり おさむ2重森三玲(しげもり みれ*3緊張感のある石組を中心に表現された禅宗寺院の石庭にくらべれば、江戸の大名庭園の芸術性ははるかに劣り、堕落したと言う。
著者はこれに異議をとなえる。
大名庭園はただ眺めて楽しむだけの庭園ではなかった。評価するなら大名庭園のより体験的かつ実用的な側面にも目を向けるべきであるという。
大名庭園の理想は茶事と饗宴を楽しむ「宴遊」にあり、饗宴がない場合にはただ歩きなごむ回遊すなわち「園遊」にあった。
  
江戸初期の大名庭園は政治的な密談を含む儀礼や社交の重要な舞台装置として機能していた。将軍家の訪問(御成)や諸大名との「儀礼」と「交際」のための場だったのである
それがやがて藩主の家臣たちへの饗応の場としても利用されるようになっていく。そしてさらに時代を下れば、花見や神社の例祭のときに庶民に庭園を開放する大名も現れるようになった。そこには茶室や能舞台があり、花見や鷹狩や鳥追い、ミカン投げや餅投げ、釣りさえできた(「浜御殿」、現在の「浜離宮」)。
大名庭園は鑑賞するよりもむしろ体験する場だったのである。
大名庭園は他の時代には見られない特徴的な空間造形をもつ庭園であり、江戸社会が求める機能を反映していた。視覚体験に限定しないで、庭園がもつすべての機能を日常・非日常の双方から捉えなおした上で庭園を評価するべきである。そうすれば大名庭園の評価は変わるにちがいないと著者は言う。

   本書はもっぱら庭園を作庭する側ではなく、楽しむあるいは利用するものの視点から書かれている。その一方で大名庭園は視覚的な評価に限定されない「総合芸術」であるとも言う。
庭園の芸術性とはいったい何を意味しているのか。
芸術作品を創作するには芸術家の存在が欠かせないのは言うまでもない。日本庭園の場合には作庭家がそれにあたるだろう。石組みや剪定の高度な技術も必要である。ところが本書では夢窓疎石(むそう そせき*4小堀遠州(小堀 政一こぼり まさかず*5のような優れた作庭家に関する言及がほとんどない。
芸術家にとって創作の目的は普遍的な美の追求であり、その実用的な目的や機能は、創作にあたっての条件あるいは制約にすぎない。
  
著者は京都の禅宗寺院に比べて大名庭園の評価が低いと言うが、それはコンクールの審査基準にクレームをつけているように見えなくもない。優れた芸術家であれば禅宗寺院の庭であろうと大名庭園であろうと、課せられた条件の範囲内で立派な日本庭園を造るのではないか。日本庭園が芸術作品たりえるとしたら、それは用途や目的が何であろうと、昔も今も同じように人々の心をゆさぶるのではないだろうか。
  
江戸時代にも優秀な作庭家や庭師、植木職人が数多く存在していたと思われる。彼らが芸術性の高い日本庭園を数多く作庭した可能性は大いにある。それは図面を見るだけではわからない。残念なことである。

*1小沢圭次郎(おざわ けいじろう/1842年 - 1932年)は、日本の造園家、作庭家、教育者、文筆家、元桑名藩士。近代初の造園研究者。酔園と号した。(Wikipediaより抜粋) 「明治庭園記」の自序において「王政復古にはじまる明治天皇の治世を文明開化の喜ばしい世の中と肯定したが、ただひとつ「園囿興造の事業」に関しては「退歩」ばかりであった」と述べた(本書より)。

*2森蘊(もり おさむ/1905年 - 1988年)は、日本の造園史家。庭園研究家。日本庭園の研究者。古庭園を、文献研究、発掘、測量を用いて研究。復元整備された庭園も多数ある。東京工業大学講師、文化財保護委員会技官、文化庁文化財保護審査会委員などを歴任した。(Wikipediaより抜粋)

*3重森三玲(しげもり みれい/1896年 - 1975年)は、昭和期の日本の作庭家・日本庭園史の研究家。出生名は重森計夫。三玲が作庭した庭は、力強い石組みとモダンな苔の地割りで構成される枯山水庭園が特徴的であるとされ、代表作に、東福寺方丈庭園、光明院庭園、瑞峯院庭園、松尾大社庭園などがある。 (Wikipediaより抜粋)

*4)夢窓疎石(むそう そせき/1275年 - 1351年)。道号が夢窓、法諱が疎石。、鎌倉時代末から南北朝時代、室町時代初期にかけての臨済宗の禅僧。世界遺産に登録されている京都の西芳寺 (苔寺)および天龍寺のほか、瑞泉寺などの庭園の設計でも知られている。(Wikipediaより抜粋)

*5小堀遠州(小堀 政一こぼり まさかず/1579-1647)。安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名、茶人、建築家、作庭家、書家。2代備中国代官で備中松山城主、のち近江国小室藩初代藩主。官位は従五位下・遠江守。遠州流の祖。道号に大有宗甫、庵号に孤篷庵がある。甫、庵号に孤篷庵がある。「遠州」は武家官位の遠江守の唐名に由来する通称で後年の名乗り。本名は小堀 政一(こぼり まさかず)である。 (Wikipediaより抜粋)


⑨   名所江戸百景 芝うらの風景  .JPG
歌川広重の名所江戸百景(めいしょえどひゃっけい)「芝うらの風景」(しばうらのふうけい) 現在の浜離宮庭園の沖から品川方向を望んだ図。右図の庭園は「御浜御殿」(現浜離宮)と呼ばれた将軍の別荘があった場所。
 
*名所江戸百景「芝うらの風景」を見る ・国立国会図書館デジタルコレクション   https://www.ndl.go.jp/landmarks/details/detail166.html 

*名所江戸百景「芝うらの風景」を江戸切絵図から探す 国立国会図書館デジタルコレクション  
https://www.ndl.go.jp/landmarks/edo/shiba-takanawa-atari-no-ezu.html 

*歌川広重(うたがわひろしげ 寛政9年(1797)~ 安政5年(1858)9月6日・61歳 『名所江戸百景』(めいしょえどひゃっけい)は、浮世絵師の歌川広重が安政3年(1856年)  2月から同5年(1858年)10月にかけて制作した連作浮世絵名所絵。 


⑨ 浜離宮 IMG_0530.jpg
現在の浜離宮庭園(はまりきゅうていえん)
東京湾の海水を引く潮入の池と「中島の御茶屋」背景のビル群
*東京都公園協会 浜離宮庭園
https://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index028.html








後楽園 明治36(1903) 国立国会図書館デジタルコレクション-S .JPG
後楽園 明治36(1903) 
国立国会図書館デジタルコレクション

書名 「江戸の英吉利熱~ロンドン橋とロンドン時計」(2006年 講談社選書メチエ)
著者 タイモン・スクリーチ

    日本を訪れた最初のイギリス人は、ウィリアム・アダムス*1(三浦按針 みうらあんじん)である。今から40年前の1980年に話題になったアメリカのテレビシリーズ『将軍 SHOGUN』(しょうぐん 原題:Shōgun)を記憶している方もいるだろう。その主役がウィリアム・アダムスで、英国人俳優のリチャード・チェンバレンが演じていた。
ウィリアム・アダムスはイギリス東インド会社本社に日本との貿易を進言する手紙を送っている。東インド会社は進言を受けて、ジョン・セーリス船長の率いるクローブ号を平戸に送った。こうして日本との貿易が始まる。イギリスから日本への輸出品は毛織物と鉛、そして火薬が中心だった。
残念ながらこの貿易はうまくいかなかった。そのためイギリス国家は平戸を引き上げ、状況を整理してから再度日本に進出することを計画する。一時的撤退である。将軍秀忠から御朱印状をもらい、日本で貿易を再開する権利も有していた。1623年、貿易開始から10年目のことである。

    要するに、イギリスが日本を去ったのは貿易がうまくいかなかったからであり(平たく言えばイギリス商品が売れなかった)、それは鎖国が成立する前のことであった。イギリスはスペインやポルトガルのように憎悪と恐怖で追放されたのではなく、自発的に去ったということである。イギリス東インド会社は、日本で売れる商品をそろえてから出直すつもりであり、それを将軍秀忠も認めていた。しかしながら、イギリス東インド会社との貿易が再開されることはなかった。

    その背景には国際情勢の大きな変化があった。
実はグローブ号が平戸を去ってから50年後の1673年、貿易再開を期してイギリスの「リターン号」が長崎に入港していた。イギリス人の一行は長崎で温かく迎え入れられ、当地で貿易再開までさほどかからないであろうと当初伝えられていた。
しかし状況は一変する。
原因は、オランダ人による幕府への進言にあった。
当時イギリスとオランダは戦争状態にあり、オランダ人はイギリスが貿易を再開するのを快く思わなかった。そのため、11年前にイギリスのチャールズ2世がカトリック教徒であったポルトガル国王の妹と結婚していたことを幕府に伝えたのである。
鎖国の最大の理由はキリスト教、特にカトリック教徒の追放にあったことは当時も知られた事実であった。オランダは、イギリスとポルトガルの親密な関係を吹聴することで、幕府のイギリスに対する警戒感をことさら煽ったのである。結局これが主たる原因となって、イギリスの貿易は再開されず、英国との関係は途絶えてしまう。イギリス船が次に来日するのは18世紀末まで待たなければならなかった。

    しかしながらこの間も日英両国のお互いへの興味関心は途絶えることはなかった。
なぜなら貿易を通じてイギリスの質のよい商品や芸術作品が日本に輸入され続けたからである。当時世界を代表する大都市であった江戸とロンドンは類似点も多く、互いに意識しあう間柄でもあった*2
先端技術を象徴する品物であった時計や公運儀*3、都市の風景や貴族の肖像、さらには惑星などを描いた絵画は大名や有力商人への贈り物として珍重された。
18世紀も半ばになると科学技術の最先端はオランダからイギリスに移っていた。
日本での測量に初めて用いられた八分儀*4もロンドンのヒース社製だった。特に天球の動きを説明するために用いられた公運儀は、教養人の知識欲を刺激した。「オレリー」と呼ばれたこの公運儀は、司馬江漢*5らの模写によって広まり、イギリスと日本を直接結びつけた。
日本人は時計にも熱狂した。1820年代まではロンドンが時計製造の中心であり、「ロンドン時計」と呼ばれていた。それはヨーロッパの先進技術を体言する品物だったのである。
18世紀末まではイギリスからの輸入品が日本に好印象をもたらしていた。

  しかしそれも長くは続かなかった。
18世紀後半になるとイギリス船の来日や目撃情報が次第に増えていく。
1796年から2年間に渡って、ウイリアム・ブロートン船長が指揮するプロビデンス号が日本の沿海を航海して詳細に調査している。イギリスは急速に帝国主義化していた。
日本人のイギリス像は称賛から警戒へと徐々に変化していく。
転機となったのが、1808年に長崎港に入港したイギリスの軍艦「フェートン号」によるいわゆる「フェートン号事件*6」である。
このときイギリスとオランダは戦争状態にあり、フェートン号も長崎港にいるオランダ船を攻撃するために入港してきたのである。フェートン号は周囲を欺くために、オランダの旗をなびかせて長崎港に入港し、調査のために乗船したオランダ人を投獄した上、拡声機で「出島を焼き払うぞ」と大声で叫んで、長崎の住民を恐怖に陥れた。
この事件の責任をとって長崎奉行は切腹、佐賀藩主の鍋島斉直は100日の軟禁刑に処せられた。フェートン号事件以後、日本ではイギリス警戒論の書物が増えていく。

   フェートン号事件は本国イギリスでも問題になっていた。
たった一隻の戦艦の艦長ペリューが使命を過大解釈したあげく幕府を憤慨させたことは明らかに行き過ぎであった。当時オランダの領地はフランスの支配下にあったが、オランダの元首ウィレム4世(1802年没)が海外のオランダ領地の管理をイギリスのジョージ3世に託していたため、法律的にはイギリスのものであった。ただし出島はオランダの植民地ではなく、幕府からの借用地であったため、移ったのは貿易権だけだったという事情もあった*7
汚名を晴らして幕府との関係を修復するため、1812年、スタフォード・ラッフルズ*8が、純粋に商業目的での来日を計画しはじめる。イギリス国家の目的は、貿易関係を復活させることと、イギリス国家を代表する外交官を駐在させることであった。イギリスをより豊かにし、日本には近代的な恩恵をもたらす国家的な大プロジェクトとなるはずだった。
しかし、この計画も頓挫してしまう。
1813年ナポレオン帝国が崩壊すると、イギリスに亡命していたオランダ国王が帰国し、オランダは再び独立する。イギリスもこれを受け入れたため、イギリスは出島での貿易権を失ったのである*9。
ペリーが浦賀に現れるのはこの40年後のことである。

   江戸時代にイギリスと直接貿易した期間は平戸での10年間のみであった。
しかしながらこの期間にイギリスが日本に与えた影響は大きかったと著者は言う。
平戸の商館を閉鎖した後もイギリスの思い出は人々の心に残り続けた。また、絵画などの輸入品を通じて日本とイギリスとの間接的な関係は途絶えることなく続いていた。
江戸時代は人々の興味や関心がダイナミックに移り変わる時代であった。
イギリスへの関心も、キリスト教への恐れから西洋美術や先端技術に代表される科学へと移り、幕末になると帝国主義と植民地化に対する警戒心に至った。
著者の言うように、イギリスは日本にとって、中途半端な知識と想像によって形作られた独特の雰囲気をもった国だったのだろう。
程度の差はあれ、それは今もそうだし、これからも変わらないであろう。
(脚注)

*1)ウィリアム・アダムス(William Adams, 1564年9月24日 - 1620年5月16日(元和6年4月24日))は、江戸時代初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイングランド人航海士・水先案内人・貿易家。日本名は三浦按針(みうらあんじん "按針"の名は、彼の職業である水先案内人の意。姓の"三浦"は領地のある三浦郡にちなむ)の名乗りを与えられ、異国人でありながら日本の武士として生きるという数奇な境遇を得た。(Wikipediaより抜粋)

*2)例えば「江戸が日本最大の、ロンドンがヨーロッパ最大の都市であったのは確かである。この都市を直接比較するものも少なくなかった」「ロンドンも江戸も、規模では他の都市の追随を許さぬほどに成長していった。しかしそれは都市の大きさだけではない。ロンドンも江戸もモノが溢れていたのだ。~中略~もちろん貧困もあったが、日本では元禄(1688~1704年)、イギリスではウィリアムとメアリーの統治期(1689~1702年)は溢れる富の時代だったのだ。経済力さえあれば、一世代前には考えられないような商品が手に入ったのである。このようなモノの過剰に伴って都市に生まれたのが流行(ファッション)という概念である。流行はスピードだ。このスピードでは、日本はイギリスの先を行く」(本書より抜粋)

*3)公運儀 天文儀ではく天球の動きを説明するものである。したがって専門家が研究に使用するようなものではなく、知的な一般人への説明用の道具なのだ。テーブルや台の上に置かれ、レバーを回すことによって惑星の相対的な動きを説明するというもので、水平に並べられた惑星が、中央に位置する太陽の周りを動くようにできている。英語では「ワールド・マシーン」や「プラネタリウム」と呼ばれることもある(本書より抜粋)。

*4)八分儀 天体や物標の高度、水平方向の角度を測るための道具。測量や航海に用いられ、弧が45°(360°の八分の一)であるところからこの名がついた。測定には平面鏡の反射を利用しており、45°の弧に90°までの目盛りが書き込まれている。(Wikipediaより抜粋)

*5)司馬江漢(しば こうかん、延享4年(1747年)-文政元年10月21日(1818年11月19日))は、江戸時代の絵師、蘭学者。浮世絵師の鈴木春重(すずき はるしげ)は同一人物。本名は安藤峻。俗称は勝三郎、後に孫太夫。字は君嶽、君岡、司馬氏を称した。また、春波楼、桃言、無言道人、西洋道人と号す(Wikipediaより抜粋)

*6)フェートン号事件 文化5 (1808) 年8月 15日イギリス軍艦『フェートン』号が突如長崎港に侵入した事件。オランダ商船を捕獲する目的で,東インド総督ミントーの政策を受けてイギリスの『フェートン』号がオランダ国旗を掲げて長崎に来港,艦長ペリュー大佐は,オランダ商館員を逮捕し,長崎奉行に飲料水と薪,食糧などを供給するよう要求した。奉行は要求をいれて,燃料,食糧を供給することと引替えに,拘束された人員を釈放返還させ,『フェートン』号は退去して事なきを得た。この事件の責任を感じて奉行松平康英は自決。蘭学者で奉行所鉄砲方高島秋帆らは,この事件を通じて開国の必要を上申したがいれられず,江戸幕府は文政8 (25) 年いわゆる異国船打払令を出して鎖国と海防の強化に力を注ぐことになった(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典より)。

 *7)1795年にフランスがオランダに侵攻して以来、オランダの領地はフランスの支配下にあった。オランダの元首ウィレム4世(1802年没)はイギリスに逃れ、海外の領地の管理を血縁のあるイギリスのジョージ3世に託していた。つまり、ジャワなど海外のオランダ領地は、法律の上ではイギリスのものであった。ただし出島はオランダの植民地ではなく、幕府からの借用地であったため、イギリス領であると言い切ることはできなかったのである。イギリスに移ったのは貿易権だけであった。

*8)トーマス・スタンフォード・ビングレイ・ラッフルズ(Sir Thomas Stamford Bingley
Raffles、1781年7月6日 - 1826年7月5日)はイギリスの植民地行政官[1]、シンガポールの創設者である(Wikipediaより抜粋)。

*9 )1813年にナポレオン帝国が崩壊すると、イギリスに亡命していたオラニエ=ナッサウ家の一族が帰国し、ウィレム1世が即位して南ネーデルラント(ベルギー、ルクセンブルク)を含むネーデルラント連合王国を樹立した。これが現在まで続くネーデルラント王国(オランダ王国)の始まりである(Wikipediaより抜粋)


八分儀(はちぶんぎ、Octant) .JPG
八分儀


八分儀(はちぶんぎ、Octant)は天体や物標の高度、水平方向の角度を測るための道具。測量や航海に用いられ、弧が45°(360°の八分の一)であるところからこの名がついた。測定には平面鏡の反射を利用しており、45°の弧に90°までの目盛りが書き込まれている。 この機器にちなんだ、はちぶんぎ座という星座がある。 
出典:ウィキペディア(Wikipedia)




08-02-「史蹟三浦按針屋敷跡」 DSC00012.JPG史蹟「三浦按針屋敷跡」 日本橋室町1丁目10−9

『ウイリアム・アダムスは 西暦1564年イギリスのケント州 に生まれ、慶長5年(1600)渡来、徳川家康に迎えられて 江戸に入り、この地に屋敷を給せられた。造船・砲術・ 地理・數學等に業績をあげ、ついで家康・秀忠の外交特に 通商の顧問となり、日英貿易に貢献し、元和6年(1620) 4月24日平戸で没した。 日本名三浦按針は 相模國三浦逸見に領地を有し、また もと航海長であったことに由来し、この地も昭和初年まで 按針町と呼ばれた。』











地球全図 司馬江漢写并刻 .JPG
司馬江漢写并刻 〔寛政6(1794)頃〕刊 銅版筆彩 

司馬江漢(1747-1818)による我が国最初の銅版世界地図で、地球が球体であることがはっきりわかるような図様になっている。初版は『輿地全図』と題されて寛政4年(1792)に出版された。 平賀源内の影響で蘭学に関心を持ち、日本初の腐食銅版画の製作や西洋科学知識の紹介に力を注ぐ。