書名 懐旧九十年(1983年 岩波文庫
著者 石黒 忠悳(いしぐろただのり

『  』部分 本書より引用

 陸軍衛生部軍医制度に生涯を捧げた医師、石黒忠悳の回顧録である。
後編では兵部省へ転じてからの石黒に焦点を当てる。

兵部省からは、軍医頭であった松本良順が、直接石黒の勧誘にやって来た。
もはや断ることはできないと観念していた石黒だが、文部省時代の官僚采配にこりていたので、入省にあたって五つの条件を提示することにした。
一つ目は、松本の在職する間10年間は石黒の在任を保証すること。二つ目は、医官は試験によって採用し、薩・長・土・肥の藩閥による採用は行わないこと。三つ目は、現職の医官にも試験を受けさせ、成績の劣るものは辞めさせること。四つ目は自分(石黒)について風評がたった場合には、必ず本人に真偽を確認してから判断を下すこと。そして五つ目は軍医寮で奏任官*1以上の位につくものは必ず医学者であること。
石黒の提示した五つの条件を、松本は快諾した。そして、責任はすべて負うので失敗を恐れずに思い切って取り組むようにと、石黒に伝えた。


 石黒は、兵部省に入省して軍医制度制定のために精神誠意尽くすことを決心する。
明治4年(1871年)、石黒は26歳だった。

 『は松本先生の知遇に感じて兵部に入ろうかとは考えましたが、これまでの経験に懲りていますから、その際、松本先生へ条件を提出しました。第一、松本先生在職の間は、十ヶ年私の在任を保証すること。第二、兵部には薩・長・土・肥出身の人が多く、随って医官にもその藩の人が多いが、医学はその学術において優劣判然たるものゆえ試験を行って人を採用し、毫も藩閥によらぬこと。第三、学術試験を行って現在の医官を淘汰すること。第四、何ごとにても拙者のことにつき風評を生ずる時は、善悪共に必ず親しく拙者にその評言を聞かせた上にて判定を下されたきこと。第五、軍医療の奏任官以上は、必ず医学者を以て補任すること。以上五ヵ条を申し出でたところ、松本先生は悉く快諾して申されるには、それらの個条は皆僕が行わんと期するところで、君の意を労するを須(もち)いぬ。このほかに念のために申しおきたいのは、一旦、君に委ねたことは君の思う通りやってもらいたい、その間に過失が生じた節は責はすべて自分が負う。創業の際、躊躇逡巡*2するのは好くない、大胆に果敢にやってくれるように、とのことでした

 その後石黒は、西南の役や日清・日露戦争などを経て実績を積んでいく。そして明治20年(1887年)、42歳にして陸軍省医務局次長に昇進すると、同年5月にドイツ陸軍衛生制度視察のため、欧州に旅立った。この洋行には、乃木希典陸軍少将*3や医師の北里柴三郎*4森林太郎(鴎外)*5らも同行していた。9月にはバーデンで第四回赤十字国際会議*6が開催され石黒も代表委員として列席した。会場には、若き日に学んだ教科書「医学七科」の著者であるポンペが、オランダ代表として列席していた。石黒は初対面のポンペと、勉学に励んだ頃を懐かしく語り合った。

 『明治20年の9月、私はバーデンの国都カルルスルーエに開かれた第四回赤十字国際会議に代表委員として参列し、バーデン大公の厚遇を受けました。
この時、各国から来集した代表のなかに、和蘭(オランダ)からは往年我が国に来て医術を伝えたポンペ氏が代表として来ておられました。~中略~そのポンペ氏とこの機会に会合することは私にとって大なる喜びで、初見ですが甚だ懐かしく種々話しました

 会議の二日目、「赤十字条約中にある列国は相互に恵み、病傷者を彼我の別なく救療する。」という条項を、欧州以外の国にも適用するべきかが、一委員から議題として提出された。
これは石黒にとって、きわめて心外なことであった。欧州以外の加盟国である日本国を代表して、(石黒が)ここに列席しているではないか。それなのに、欧州以外の国に条項を適用するべきかどうかを議題にするのは、おかしいではないか。
納得のいかなかった石黒は、憤然と立ち上がって抗議した。このときドイツ語に通訳したのは、森林太郎すなわち後の文豪・森鴎外である。

 『この会議の第二日目に、一委員から「赤十字条約中にある列国は相互に恵み、病傷者を彼我の別なく救療する。」という明文は、これを欧州以外の国にも適用すべきか、という議題が提出されました。私は実に心外のことと憤慨したのです。現にわれわれ亜細亜(アジア)の邦国がこの事業に加盟し、私は日本国の代表としてこれに参列しているのに、かくの如き議題を持出すとは何ごとであるか、この議題がいよいよ討論に付せられようという際、米国からクララバルトン嬢が米国代表で出席していたから、必ず一論あるだろうと待っていたところ、これも一言もない。そこで私は奮然起って、独逸語精通の森林太郎君を通訳として抗議しました

 「赤十字事業は地域や人種に関わらないと確信したから、日本はこれに加盟し、この会議に出席しているのである。それなのに、欧州以外の国にも条項を適用するべきかなどという議題が提出されるのは意外である。もしこの提案が議題とされるならば、遺憾ながら退席するしかない」。

 石黒の抗議に場内は騒然となる。
石黒に加勢して、ポンペが立ち上がった。
欧州以外にも日本のような文明国が、既に加盟して代表を派遣しているのだから、このようなことは問題にならない」とポンペは主張した。これにロシア代表が続き、他にも同意する委員がいたので議題は撤回された。
このことにより、東洋に日本という歴史と文化のある国があることを、欧州に知らしめるところとなった。

 『われわれは日本帝国の代表は本来赤十字事業なるものには、地理的もしくは人種的差別を設けるものでないと確信してこれに加盟し、ここに出席しているのである。しかるに、かくの如き議題が神聖なる議場に提出せられることは真に意外である。もしこの提案が議題となるならば、われわれは遺憾ながら議席を退くほかない。」と抗議したので議場は騒然となってしまいました。そこで和蘭代表のポンペ氏は、直ちに立って欧州以外にも現に加盟して代表を派遣している日本の如き立派な文明をもっている国があるゆえ、かくの如きことは問題にならぬと主張し、露国代表の一医家、その他の一法律家があいついで同意を表したので、この議題は遂に撤回されるに至りました。これが動機となり、同盟各国の委員は、東洋に我が日本帝国という古い文化の歴史を有する国のあることを明らかに認めた次第でありました

 石黒*7は、敷かれたレールに乗って育成されたエリートではなかった。
佐久間象山との出会いがなければ、石黒は医師を志すことはなかったかもしれない。仮に志したとしても、故郷で開業医として、平穏に一生を終えたに違いなかった。石黒も、そして象山もまた、幕末の変革期であればこそ輝いた人材であった。

 国の形が大きく変わろうとしていた。新政府によって、法律、医療、軍事などあらゆる分野で見直しが進められようとしていた。古いレールをいかにして新しいレールに敷き替えるか。それは、古いレールしか知らないエリートだけでは成し遂げられない難題であった。自ら人生を切り開いてきた、強靭な意思力とバイタリティのある石黒のような人材が求められていた。維新の功労者の多くがエリートではなく、下級武士出身だったのは、理由のないことではなかった。

 令和に入ってからも、日本の経済成長率*8は鈍化し続けている。強みであった先端技術力にも陰りが見られ、一人当たりGDPは他の先進国に大きく水を空けられた。識者の中には、このままでは日本が先進国*9の地位を維持できないという者すら出てきた。

 日本が再び輝きを取り戻すためには、思い切った改革が必要であるということに、今や異論はないように思われる。明治維新のように、時代に合わなくなった古いレールを、新しいレールに敷きなおさなければならない時期に差し掛かっているのかもしれない。もしそうであるならば、石黒のような人材が再び必要とされているのではないだろうか。 了

1 任官(そうにんかん) 明治官制で、天皇が内閣総理大臣や主管大臣または宮内大臣の奏薦によって任ずる官。三等以下九等までの高等官。(精選版 日本国語大辞典)

2 躊躇逡巡(ちゅうちょしゅんじゅん 決心がつかず、ためらってぐずぐずすること。▽「躊躇」はためらう、「逡巡」はしり込みする意。「躊躇」と「逡巡」は類義語で、二語を重ねて意味を強調した言葉。(三省堂 新明解四字熟語辞典より)

3 乃木希典(のぎまれすけ [1849〜1912]軍人。陸軍大将。長州藩出身。西南戦争・日清戦争に出征。日露戦争では第三軍司令官として旅順を攻略。のち、学習院院長。明治天皇の死に際し、妻とともに殉死。(小学館 デジタル大辞泉より)

4 北里柴三郎(きたざとしばさぶろう)[1853〜1931]細菌学者。熊本の生まれ。ドイツに留学、コッホのもとで研究し、破傷風菌の純粋培養に成功、さらに抗毒素を発見。帰国後ペスト菌を発見し、血清療法を研究。伝染病研究所所長を務めたが、その東大移管に反対し、私財を投じて北里研究所を創立した。(小学館 デジタル大辞泉より)

5 森林太郎(鴎外)(もりりんたろう もりおうがい[1862〜1922]小説家・評論家・翻訳家・軍医。島根の生まれ。本名、林太郎。別号、観潮楼主人など。森茉莉の父。陸軍軍医としてドイツに留学。軍医として昇進する一方、翻訳・評論・創作・文芸誌刊行などの多彩な文学活動を展開。晩年、帝室博物館長。翻訳「於母影(おもかげ)」「即興詩人」「ファウスト」、小説「舞姫」「青年」「雁」「ヰタ‐セクスアリス」「阿部一族」「高瀬舟」「渋江抽斎」。(小学館 デジタル大辞泉より)

6 明治19年(1886年)、日本はジュネーブ条約に加盟し、その翌年の明治20年(1887年)には佐野常民 (つねたみ) らが設立した博愛社を「日本赤十字社」に改称して、世界で19番目の国際赤十字社として認証された。

7 石黒の孫である原もと子は次のように述懐している。「幕末から明治初年へかけて日本医学界の先駆者となり、指導的役割を果たした人物は総じて、緒方洪庵大先生はもとより松本順、佐藤尚中、長与専斎諸先生をはじめ多くは、れっきとした幕臣・御典医あるいは雄藩藩医の子弟、またはそれに準ずる裕福な家庭の出であった。これらの人びとは藩侯の庇護のもとに、それぞれの藩校を経て大阪、長崎、江戸と学習所や私塾で青春を謳歌しつつ学を修めた知識人であって、国の内外に留学するのも思いのままに、学術を磨くにまたとない環境のうちに、さまざまの恩恵を享受していた。」(本書 あとがきより)

8 経済成長率 定期間(四半期または1年間)に経済規模が拡大する割合。国民総生産または国民所得の実質値の伸び率で表す。(小学館デジタル大辞泉より)

9 先進国 政治・経済・文化などが国際水準からみて進んでいる国。「先進国首脳会議」(小学館デジタル大辞泉より)。近年になって、一橋大学名誉教授の野口悠紀雄氏やソフトバンク社長の孫正義氏、ユニクロ社長の柳井正氏など著名な学者や経営者から、日本の先進国脱落の危機が警告されている。

書名 懐旧九十年(1983年 岩波文庫)*1
著者 石黒 忠悳(いしぐろただのり)*2
                                                                                                                                                                                                                      『 』部分 本書より引用                    

陸軍衛生部軍医制度に生涯を捧げた医師、石黒忠悳の回顧録である。

 本書には、歴史を彩った偉人が多く登場する。西郷隆盛や山縣有朋、大山巌など維新の元勲をはじめ、後藤新平、陸奥宗光、児玉源太郎、中江兆民、森鴎外、三遊亭円朝など、その顔触れは多士済々である。本書では人間模様のひとつひとつが、臨場感をもって伝えられており、単なる回顧録を越えた、日本近代史の貴重な記録と言えよう。すべてを紹介できないので、テーマを絞り、今回と次回の2回に分けて内容の一部を紹介したい。前半では著者が医学を志して医学所に進み罷免されるまでを、そして後半では兵部省に転じてからの、軍医としての活動に焦点をあてる。

 御家人の家に生まれた石黒は、なぜ医学を志すようになったのか。きっかけは、佐久間象山*3との出会いにあった。19歳のとき、石黒は尊王攘夷の思いを伝えるために、信州松代に佐久間象山を訪ねている。象山の言葉は石黒をおおいに感化し、その後の進路に大きな影響を与えた。尊王攘夷思想への熱い思いを語る石黒に、象山は次のように返した。

足下ら同志の期するところも皇政復古にあるようだが、この大事を完成するには今の封建を革め郡県にせねばならぬ。そうすると士・農・工・商の別は廃せられることとなる。農・工・商は暫く措いて、士に至ってはすべて俸禄から離れることになるから、何かの生業に就かしめねばならぬ。ところが、三百余年の士の生活は、いずれにも不向きであろう。自分にも成案はないが、この点が実に困難なる問題である。足下らも尊皇論を唱道するからには、かくの如きことまで思い及ばさねばならぬ。』

 思いもよらない象山のことばに石黒は言葉を失う。
象山の眼差しは、幕府が倒れた後に向けられていた。維新後には、多くの士族階級が収入を失うであろうことを予見し、その処遇を案じていたのだ。それは石黒本人にも関わることであった。象山の言葉はさら続く。

西洋の学問の進歩は恐るべきものである。足下ぐらいの若者は充分我が国の学問をした上、更に西洋の学問をなし、そしてそれぞれ一科の専門を究めることにせねばならぬ。また、そのうちからしっかりした者を西洋に遣し修業せしめることが肝要である。かくて、それぞれの専門家を集めて、国の力を充実し兵備を完成しなければならぬ。足下のような若者はこの心懸けで、身体を達者にしてそれぞれの学問をして行くことが責務であって、徒に悲歌慷慨(ひかこうがい)*4したり、軽躁に騒擾憤死するようなことでは君国のために何の役にも立たぬ。中略~青年はそれぞれ一科の学問を修め、研究を遂げてその結果を挙げるに力(つと)めることが結局、今後、真の攘夷の方法である。』

 西洋の学問の進歩の実態を踏まえるなら、まずは自国の学問を習得し、その上で西洋の学問を学ぶべきである。そしてその中から自ら専門とする分野を選んで、それを究めるべきである。優秀な者はさらに海外で修業させて、それぞれの分野の専門家を育成し、国力を充実させねばならない。若者の責務は、身体を健康に保ち学問に専心することである。いたずらに悲しんだり憤ったり、軽率に騒いで命を落としたりしてはならない。それぞれが専門とする学問を修め、研究を進めて結果を出すことが、結局は真の攘夷の方法である、と象山は説いた。

 このとき石黒には、象山の考えが承服できなかった。「洋書を視ると目がつぶれてしまう」と思うほどに、西洋を嫌悪していたからである。洋学を修めることなど論外であった。石黒は象山への弟子入りを断念して当地を去ることを決心する。

 別れを告げる石黒に対し、象山は次のように声をかけた。

足下のようにまだ春秋に富んでいる者は、今しばらくさようなことを言ういてもよかろう。しかし、早晩必ず横文字を読まねばならぬ場合になる。その時になって初めて横文字は物好きで読むのではない、読まねばならぬ必要があるのだということを自覚するであろう。今のような説を吐くのも、しばらくの間に過ぎなかろう。』

 両親の残してくれた遺産は底を尽き始めていた。幕末において、裕福な武士は限られていた。石黒にも新たに職業を探して生計を立てる必要が生じていた。20歳のことである。

 思案の末、石黒は故郷で整骨医を開業することを決心する。石黒は江戸にもどり、当時名人と言われた整骨医の名倉弥五郎に弟子入りすることにした。

 早速弥五郎を訪ねて弟子入りを願うと、意外なことに断られてしまう。当然引き受けてもらえると思っていた石黒は納得がいかない。なぜ引き受けられないのか、理由を問いただすと、弥五郎はあっさり答えて言った。

それは善い御問いです。それについて御話ししたい。 中略~ 弟は今、松本良順先生に随い、長崎で西洋医学の修業中、倅はまだ八歳ですが、これも成長したら米国に出し、西洋流の医者にするつもりです。私の整骨術も解体新書という西洋翻訳の解剖書を見てからメッキリ進みました。それで私は、医学はどうしても西洋医学でなければならんと考えています。今、貴君の学歴・人格を以ってして、我が子にも望ましからぬ、範囲の狭い整骨術だけを専門にやらせるということは、いかにもお気の毒である故お断りするのです。貴君が一般医学を修めた後に、整骨術を学習なされたいならば、私は悦んで蘊奥をお授けしましょう。』

 このように言われてしまったら石黒も引き下がるよりない。西洋医学を修めてから入門するかもしれないので、その節はよろしくお願いしたい、と言い残してこの場を辞するよりなかった。

 西洋医学とはそれほどまでに優れたものなのか。

 石黒の脳裏には、象山のことばがよぎったに違いない。悩みに悩んだ末、石黒は日本古医学と漢方医学、そして西洋医学を比較してみて、西洋医学が本当に優れているかどうか確認することにした。その結果、最も真実に近いのは西洋医学であることを確信する。

は日本医学の大家佐藤民之助氏を訪うて、日本古医学の大要を聴いてみました。それから漢方については田村という友人が、当時、漢方の大家として学問にかけては浅田宗伯以上と言われた尾台良策の塾におったから、その人に就いてその大要を聞き、その人の示すところによって吉益南涯著傷寒論精義という書を読んでみました。次に西洋医学に転じて、私は英人合信(ハブソン)著全体新論』『西医略論を読んでみました。そうして三つを比較すると、合信の所説が一番真に近いと感じました。』

 石黒は西洋医学を学ぶ決心をした。

 思い起こされるのは佐久間象山のことである。

 象山は、石黒が訪問した翌年、元治元年7月11日(1864年8月12日)に京都で浪士によって殺害されていた。石黒が西洋医学を学ぶ決意をしたのは、象山が暗殺されてからわずか数か月後のことである。石黒は霊前に赴いて、象山に詫びた。

『先生が凶刃に斃れて後数ヵ月にして、もう自発的に横文字を学ばねばならぬ必要に迫られました。それは私が西洋医学を修めることになったからです。その際、私は「祭ニ象山先生一文」一篇を作り、香を焚いて先生の霊前にお詫びを申しました。』

 西洋医学を学ぶために、石黒が最初に師事したのは、医家の柳見仙(やなぎけんせん)だった。柳からは医学と蘭学を学んだ。教科書は当時競って読まれていた、朋百(ポンぺ)*5伝習の『医学七科書*6の写本である。

 日夜勉学に励んだおかげで、やがてオランダ語を解読できるようになり、治療の理解も深まると、そろそろ故郷に帰り開業医となるべきではないだろうか、という考えが石黒の脳裏に浮かぶようになる。しかしここでも気がかりなのは象山の言葉である。田舎で開業医となることは象山先生の思いに反することではないか。思い直した石黒は江戸にとどまってさらなる精進を決意する。

かくの如き姑息の心を出してはさきに医学に志を向けた一念と違う。本当の医学者になり、医界にあって時勢に遅れず、遂に我が国の医学をして西洋各国の医学と並んで馳せ行く程度にまで進歩せしめ、この方面で彼の攘夷の実を挙げることをどこまでも慣行せねばならぬと決心しました。』

 慶応元年(1865)の冬、21歳の石黒は、当時できたばかりの江戸医学所*7に入学した。そして明治元年(1868)に卒業した後も、苦読師(下級教官)としてとどまった。幕府直轄だった医学所は、維新後に大学東校(東京大学医学部の前身)となる。

 維新に際し、医学所を離れていったん帰郷していた石黒は、明治2年(1869)に再び上京して大学東校に勤務し、翌年26歳で大学少助教兼少舎長となった。 すべてが順風満帆に見えた石黒だったが、転機は突然訪れる。明治4年(1871)、文部大臣が江藤新平から大木高任に代わると、その腹心であった書記官に楯突いたことが原因で、文部省を罷免させられてしまう。
しかし、優れた実務家であった石黒の評価は高く、まわりが放っておかなかった。

 しばらくして兵部省から声がかかる。兵部省では、軍医制度創設を担う実務人材を探していた。兵部省にはまだ医官の職制がなく、軍医頭(ぐんいのかみ)に任ぜられていた松本良順*8は、軍医制度の創設を急いでいた。

                                                           後半につづく

*1懐旧九十年1983年 岩波文庫) 
本書では昭和11年2月に東京博文館より発刊された初版から七分の一弱が省略されている。(本書より)

2石黒 忠悳 
旧日本陸軍軍医総監・陸軍省医務局長。弘化2年(1845)に御家人であった父・平野順作良忠の勤務地であった岩代国(福島県)に生まれた。安政2年(1855)に父を、5年には母を亡くし、14歳にして自立を余儀なくされる。万延元年(1860)、父の姉が嫁いでいた越後国三島郡片貝村(今の新潟県小千谷市)の石黒家の養子になり、当地で私塾を開いた。その後、医学を志して江戸へ出て、幕府医学所を卒業後、医学所句読師となる。後に兵部省に転じ、山縣有朋や大山巌に徴用されて陸軍医として活躍、当時の医学界の事実上のトップであった軍医総監にまで上り詰めた。(本書より)

3佐久間象山 (1811〜64)
幕末の朱子学者・蘭学者・兵学者。「ぞうざん」とも読む。信濃(長野県)松代藩士。佐藤一斎に朱子学を学ぶ。のち蘭学に励み,江川太郎左衛門の門に入り洋式砲術を学ぶ。1851年江戸に塾を開き砲術・兵学を教え,西洋技術と東洋精神の融合を説く(東洋の道徳,西洋の芸術)。勝海舟・坂本竜馬・吉田松陰らがその門から輩出。開国論を主張し攘夷論者に京都で刺殺された(旺文社日本史事典 三訂版より)

4悲歌慷慨(ひかこうがい) 社会の荒廃や自らの人生の悲劇を、悲しく歌い、また憤って激しく嘆くこと。悲痛で壮烈な気概のたとえ。(学研 新明解四字熟語辞典より)

5朋百(ポンペ 【Johannes Lijdius Catharinus Pompe van Meerdervoort】(1829‐1908)
幕末に来日したオランダの海軍軍医。日本が系統的な西洋医学を導入するのに大きな役割を果たした。ベルギー生れ。ユトレヒト大学卒,海軍軍医となり,1857年幕府から招かれ第2次海軍伝習所医官として着任。在日5年間,幕府医官松本良順を中心に全国から集まった医学生を中心に,人体解剖・臨床医学講義を含む幅広い教育を行い,これらの多くは講義録として残されている。コレラ予防,性病予防,種痘にも従事。61年彼の要請で長崎養生所を建てたが,これは,日本における近代病院の最初であるとともに,長崎大学医学部の原点ともなっている。(株式会社平凡社世界大百科事典 第2版より)

6『医学七科書 幕府の官医・松本良順が幕命で長崎に赴き、蘭医朋百(ポンぺ)から講受した『医学七科書』の聴講録で、七科とは、物理学・化学・解剖学・生理学・病理・内科・外科で合計45冊あった。従来は、西洋医学と言っても、ただ内科・外科・解剖書等を読んで治療するに過ぎなかったが、爾後は理学・化学・解剖・治療というように順序を立てて学ぶこととなったのは、この朋百(ポンぺ)氏の教則と松本良順の昌道とで始まったもので、これが日本の近代医学発達の基礎となった。(本書より)

7江戸医学所 この医学所は、伊東玄朴氏の大尽力によって当時出来たばかりのものです。そのことは後に述べますが、その初めは在江戸の西洋医家の篤志家が協力して、神田のお玉ヶ池の種痘所を設けたのが基で、それからおいおいと発達して、医学講習所となり、更にこれを官に寄付して官立となり、西洋医学所と改称し、その後西洋という二字を取り去って単に医学所という名称になったのでした。これこそ今の東京帝国大学医学部の前身です。(本書より引用)

8松本良順 (1832~1907)医師。佐藤泰然の次男として生れ,のち幕府医官松本良甫の養子となる。安政4年 (1857) 幕命により長崎に留学,蘭医 J.ポンペについて西洋医術を学び,文久1年(1861) に創立した長崎養生所でポンペを助けて教育と臨床にあたった。同3年6月江戸に帰り,緒方洪庵の跡を継いで幕府の西洋医学所頭取となった。維新の戦いには幕軍方に投じ,官軍に捕われて明治2年(1869) に釈放された。翌年,早稲田に蘭疇医院を開き治療と教育を行なったが,軍医制度発足にあたり山縣有朋の要請で兵部省に出仕。 1873年初代陸軍軍医総監,のち貴族院議員となり,男爵を授けられた。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典より)

     

書名 蘭学事始 付・形影夜話」(1980年 教育社新書<原本現代訳>54より
形影夜話 佐藤昌介校注(日本思想大系64所収)現代語訳
著者 杉田玄白著・浜 久雄訳
                                                   *『 』部分 本書より引用

 日本最初のオランダ語の翻訳書は、杉田玄白*1前野良沢*2らと訳したオランダの医学書「ターヘル・アナトミア」すなわち「解体新書」*3である。翻訳作業は困難を極め、完成までに約4年の歳月を要した。

 玄白はなぜオランダ医学書の翻訳を思いたったのだろうか。
玄白は晩年の著書「形影夜話(けいえいやわ)」*4で、当時の心境を語っている。意外なことに、きっかけは荻生徂徠*5の兵学書「鈐録外書(けんろくがいしょ)」*6だった。そこには、本当の戦さというものは、学者が教えるのとは違って、大将が軍事理論に沿って判断し、勝敗はそのときの条件によって決するものだ、と書かれていた。

 医療もまた軍事と同じではないか。すなわち、理論を学んだ医師が判断し、治療の成否はそのときの条件によるからである。では学ぶべき理論とは何か。それは当時の最先端であったオランダの医学理論であると玄白は考えた。オランダ医学では、医師を志すものは、まず第一に、身体の構造について学ぶべきである、と唱えていた(玄白らは翻訳に先立ち、実際に人体解剖を行い、原書の解剖図が正しいかどうか確認している)。孫子*7呉子*8の兵法が戦さの原理であるように、身体の構造についての正確な知識は医学の原理である。原理を知らなければ、戦さでも医療でも、勝利は覚束ない。

 もちろん、知識だけで的確な治療を施すことはできない。
名医になるためには、豊富な臨床経験が必要である。医療技術を上達させるためには、貧しくて身分が低かろうと、金持ちで身分が高かろうと、招かれたらでかけて行き、頼まれたら自分の妻や子供が患っているように思って親切に、一人でも多く治療するべきであると玄白は言う。

 ところで、病気には治りやすい病気とそうでない病気があるが、難病への対処のしかたで、医者は上等、中等、下等に分けられると玄白は言う。
難病はほかの医者にゆずって、治しやすい病気だけ治療する医者は、下等である。このような医者は生涯、医術の向上は望めない。難病とわかってからも、患者のために苦心しようとしないで、治療法を変えない医者がいる。これは中等である。では上等の医者とはどのような医者のことを言うのだろうか。玄白は言う。
『上等の医者は、なおしにくいことはもとより知っていながら、患者の息がたえ、脈がなくなるまでは、なんとかして、かならず救ってやろうと、心をひそめ、思いをこがし、心力をつくして治療するものである。このようにすれば、百のうち一つぐらいはうまくいき、最終的に患者の命を救うこともあるものだ。死ぬまでは、このように心残りのないように全力を尽くしたいものである。』

 とはいえ、力量が未熟であるにも関わらず、むやみに難病患者を引き受けるのは避けなくてはならない。
『医者だからといっても、自分が熟達していないことを、なんでもひきうけて、治療すべきことではない。(中略)自分がよく習熟していないことをやって、患者の治療を多くあやまり、そのうえ識者にわらわれるようなこともあるだろうと思う恥ずかしさのため、このたぐいの病気は、みな辞退して治療をひかえるのだ。これは、わたしが信念としているひとつである。』

 今、世界中の科学者や医療関係者が、新型コロナという難敵の正体を突き止めるため、日々研究し続けている。その成果は論文となって、権威ある医学専門誌*9に公表され、世界中で共有されている。玄白らは解体新書の翻訳に4年を要したが、現代ではインターネットを通じて、数時間で最新の研究成果を共有することができる。最先端の医療知識をいち早く取り入れ、実践で活かすことが、可能になったのである。

 最新の医療知識と、豊富な臨床経験から得られる経験知の重要性は、300年前に玄白によってすでに指摘されていた。最先端の研究成果に精通し、臨床経験が豊富な「上等」の医師は、我が国にもたくさんいるはずである。それが、今秋、急速に感染者が減少した要因のひとつと考えることはできないだろうか。感染の予防や拡大防止についても、専門家が最先端の知識をいち早く取り入れ、自国の条件にみあった対策を考えて政府に提言すれば、政治家は医療以外の条件をも考慮したうえで、具体的な政策を実施することができる。そうすれば、PCR検査の運用や、感染が拡大しているエリアでの医師や病床の確保など、個々の医師では解決できない問題についても、より合理的かつ効率的に対処できるのではないだろうか。

 何れにしても、古い理論しか知らない、臨床経験の乏しい医師や専門家では、新型コロナのような未知の難敵との闘いに勝ち目はない。

『原理を学ぶことを第一とし、これを習得してのちに、治療の方法を理解する』
という玄白のことばを、私たちは、今一度思い起こしてみるときなのかもしれない。
                                                               了

*1杉田玄白(すぎたげんぱく) 江戸後期の医学者,蘭学者。名は翼(たすく),号は鷧、斎(いさい),九幸。若狭小浜藩医。明和8年(1771)前野良沢、中川淳庵と江戸小塚原刑場で刑死体の解剖を観察,蘭書《ターヘル・アナトミア》の正確さに驚き,《解体新書》訳述を遂行,蘭学の基礎を築いた。文才にすぐれ随筆が多く,《蘭学事始》《形影夜話》《野叟(やそう)独語》などの著書がある。子の立卿〔1786-1845〕,孫の成卿〔1817-1859〕も蘭方医として名高く,立卿は特に眼科にすぐれ,成卿は幕府の訳官,蕃書調所の教授として活躍した。(株式会社平凡社百科事典 マイペディアより)

*2前野良沢(まえのりょうたく) 江戸中期の医学者,蘭学者。名は熹(よみす),号は蘭化。豊前中津藩医。初め古医方を学んだが,明和6年(1769)青木昆陽から,翌年長崎に行き通詞からオランダ語を学び,杉田玄白らと協力,《解体新書》訳業の中心となった。弟子に大槻玄沢らがある。著訳書《和蘭訳筌》《字学小成》など多数。(株式会社平凡社百科事典 マイペディアより)

*3解体新書(かいたいしんしょ) 日本最初の西洋解剖学訳述書。安永3年(1774)刊。杉田玄白、前野良沢、中川淳庵、桂川甫周らの協力による。本文4巻と序・図1巻からなり,図は小田野直武の制作。本文はドイツ人クルムスの著書の蘭訳本、いわゆる《ターヘル・アナトミア》を訳したもので,のち大槻玄沢により《重訂解体新書》(文政9年(1826))として大成された。(株式会社平凡社百科事典 マイペディアより

*4形影夜話(けいえいやわ) 影法師との対話という形式で、老境の円熟期にあった杉田玄白の医学観を述べたもの。上下二巻。享和2年(1802)の11月に書かれ、長く弟子の間で筆者されて読み継がれていたが、文化7年(1810)11月に刊行された。「医学の今日的課題を的確にとらえ、つねに科学的合理主義の精神で貫こうとしている」(本書の訳者による解説より)

*5荻生徂徠(おぎゅうそらい) (寛文6年(1666)〜享保13年(1728))江戸中期の儒学者。江戸の人。名は双松(なべまつ)。宇(あざな)は茂卿(しげのり)。別号、蘐園(けんえん)。また、物部氏の出であることから、中国風に物(ぶつ)徂徠と自称。朱子学を経て古文辞学を唱え、門下から太宰春台・服部南郭らが出た。著「弁道」「蘐園随筆」「政談」「南留別志(なるべし)」など。(小学館 大辞泉より)

*6鈐録外書(けんろくがいしょ) 荻生徂徠が守山藩の家老である岡田宣汎の質問に応じ、所感の形式で兵学を説いたもので、鈐とは錠まえのことで、兵法のポイントを収録した書物である(本書より抜粋)

*7孫子(そんし) 中国,春秋時代に成立した兵書。《呉子》と並称される。1巻13編で,始計,作戦,謀攻,軍形,兵勢,虚実,軍争,九変,行軍,地形,九地,火攻,用間からなる。最も広く読まれた兵法書。著者は斉の孫武または孫【ぴん】(そんぴん)といわれ,兵法をもって呉に仕えたという。(株式会社平凡社百科事典 マイペディアより)

*8呉子(ごし) 中国古代の兵法書。《孫子》と並称される。作者とされる呉起〔?-前381〕は戦国初期に魏に仕えた。現在の通行本は,唐の陸希声の編。1巻。図国,料敵,治兵,論将,応変,励士の6編よりなり,儒教を加えた兵法書として古来広く読まれた。(株式会社平凡社百科事典 マイペディアより)

*9医学専門誌 New England Journal of Medicine (NEJM)The Lancet、The Journal of the American Medical Association (JAMA)、Nature Medicineなど。

杉田玄白肖像. / 作者 石川大浪画 重要文化財。国立国会図書館蔵

杉田玄白肖像 / 作者石川大浪画
文化9年(1812)正月、80歳を迎えた杉田玄白(1733-1817)の像。「蘭学事始」刊本掲載肖像の原画。
賛は玄白、「荏苒(じんぜん)太平の世に、無事天真を保つ、復是れ烟霞改まり、閑かに八十の春を迎う」と書している。
画家の石川大浪(1765-1817)は名を乗加(のりまさ)といい、旗本、大番組頭を務めた。
狩野派を学んだが、蘭書の挿絵銅版画などから洋風画に親しみ、弟孟高(もうこう)と共に蘭学者の依頼に応えて写生的な解剖図や彼らの肖像画を描き、わが国の洋画史上先駆的な功績を残す。重要文化財。国立国会図書館蔵

書名「世事見聞録」(1994年 岩波文庫)

著者 武陽隠士(本庄栄治郎校訂 奈良本辰也補訂)

 『 』 部分 本書より引用

 前回に続き、「世事見聞録」について紹介する。後編では、著者の国家再建案について考察する。

著者はどうしたら国家を建て直すことができると考えたのだろうか。

  何よりも、国家の根本を頑丈に修復しなければならないと著者は主張する。それは町人や遊民の台頭を阻止し、武士と農民の地位を回復することであった。そのために必要なことは三つ。すなわち、犯罪や不当な商いの大本である度を越えた贅沢や淫欲を断つこと、困窮者を救済すること、そして、故郷を捨てて町人や遊民に転じた者の多くを、再び故郷に返し農民に戻すことである。そうすれば都会の犯罪は減り、荒れてしまった地方は復興し、衰えてしまった民業の利益も増えて、国家の根本は堅固になるに違いない、と著者は考えたのである。

『世上の奢侈・淫欲の筋をことごとく断ちて、利欲犯奪の道を塞ぎ、福有を欠き、貧賤を救ひ、または都会繁花に充満したる町人・遊民、及びそのほか国々に至るまで、すべて遊食する輩を、過半元の土民に復するなり。これ国家を犯し費す利欲の賊を減じて国々荒廃の地を復し、労(つか)れ衰へたる民業を増益し、第一国の本を堅固に復する術なり。』

  国民も変わらなければならないと著者はいう。

身分の上下に関係なく、国民は倹約を旨とするべきである。衣食住は、不足すれば病気や短命の原因になるし、過剰になれば、驕りや怠惰、利欲のもととなり、何れも不善な行いに至ること必定である。今の世は不足している者と、過剰な者が多く、ともに不善をなしている。衣食住に過不足がなく平均的であれば、貧富や苦楽の差はなくなり、費用負担も減って、国民は安心して暮らせるようになるだろう、というのだ。

 

 『一体天下国家を治むるは、上下とも衣食住を安くする本とす。衣食住足らざる時は、あるいは病を生じ、あるいは短命し、あるいは不善をなせり。また衣食住余る時は、あるいは怠り、あるいは奢り、あるいは利欲に募り、かくの如く不善をなせり。足るもあし足らざる悪し。今世すでに偏りて、足らざる多く、余るもの多くありて、いづれともとも不善をなせり。これを平均し、貧福苦楽偏らざる時は、民安く治り安泰ならん。』

  国家の再建には、優れたリーダーの存在が不可欠である。

  著者の理想とするリーダーは、才知と徳行を兼ね備えた忠臣であり、艱難辛苦を一身に引き受けて、国家の存亡を左右する難題に立ち向かい、国民の安全を守り、不正と不道徳を退け、贅沢と安逸に遊んで暮らしているものは近づけず、無法者を罰し、無念の死を遂げそうな者を救い、国民の苦しみや悩みを解消してくれるような人物である。

 

ひねがはくは才徳兼備の忠臣世に顕はれて、身の艱難を避けず、天徳を履(ふ)みて、天下の艱難、国家の安危、宗社*1の存亡、世の邪曲、みな一身に請けて君に奏し奉り、君*2と民の間に立ち、君命を奉じ、新たに厳令を立て、驕奢・安逸・遊食の徒を避け、国賊無道を征して、万民の困窮及び屈死する助け、君の仁をことごとく民に及ぼして民の愁ふるところを解き、民、君を悪給はず、この君をして堯舜*3の君たらしめ、この民をして堯舜の民たらしめ、天地を広大にして日月を清明にし、山川の鬼神を帰服せしめ、四時順気違はず、至治の沢、天下国家に及び、君富み、臣富み、民富むの大業を成就して、上下万世を諷(うた)ひ、羯鼓諫鼓苔を生ずる*4世を発すべき人傑を希所なり。』

  しかしながら、リーダーを期待された武士たちははなはだしく劣化していた。

武家の生活は華美になり、心身は虚弱で忠誠心も薄く、年長者を敬おうともしない。まるで公家か出家、婦人のように軟弱になり、町人や職人のような性根になり、義理も恥も知らない。勝手気ままに悪行を重ね、中には盗賊のようになってしまう者すらいた。

十人中、本物の武士と呼べるものは、もはや二、三人しかいなかった。その二、三人ですら、元禄や享保の武士に比べたらかなり劣っている。武士たちの多くは、国を治める役目を忘れ、国を乱すことばかりしたがるようになってしまった。

今は大名の地面広大にする事、制限なし。衣服の飾り美事になり、酒食の費え多くなり、居宅屋敷の大造になるに随って、内証だんだん減少し、殊に心身虚弱になり、忠信も薄くなり、孝悌の道も失ひ、前にもいふ如く、あるいは公家風になり、あるいは出家・婦人の如き人情になり、あるいは町人・職人などの心根になりて、義理も恥辱も知らず。あるいは放逸無慙のもの、あるいは種々悪行を尽くして盗賊に似寄りたるものになりて、たとへば十人の内七、八人までは右体の武士道を失ひて、実正の侍は十人に二、三人ならんか覚束なし。そのニ、三人も元禄・享保の頃の侍に競ぶれば、さぞ劣りたるものならんか。

一体、武士は国家を治むる役目なるが、その役目の事は打ち忘れ果て、へって天下を乱す事のみ欲するなり。』

江戸時代は封建制度*5の時代である。それは主君が家臣に与える封土(ほうど)を介した、主従関係による支配体制である。封土には、その土地の住民すなわち農民も含まれ、家臣は住民からの年貢(米)を収入としていた。著者の武陽隠士にとって、封建時代の理想は、「徳川幕府の絶対性を念頭に置いての」神国日本であり、「その本領を発揮した時代を二百年以前の神君、即ち徳川家康の時代として考えていた」(「 」内は本書解説より)。

すなわち、徳川家康の治世こそが著者の理想であり、家康の時代に返ることこそが著者の望みだったのである。

 しかしながら、本書が執筆されたのは、時代が大きく変わろうとするときであり、誰もが変化の大きなうねりの中にいた。もはや徳川家康の治世に戻ることは不可能であった。国民に倹約を奨励し、町人になった農民を帰郷させ、農民に戻したところで、変化の大きな流れを阻止することはできなかったに違いない。むしろ、なすべきことは、貧富の格差を是正するための税制改革と、不正を厳しく取り締まる司法改革ではなかったか。

 時代の転換期には、古い規制が進歩の足かせになってしまうことがありうる。同時に、既存法ではさばけない事例が増え、それにつけこんで不正に利益を得るものも出てくる。

大切なことは、時代の変化に対応した新しい法整備と、厳格に法を執行する為政者の覚悟である。法を犯すものは身分の上下に関わらず、厳しく罰せられなければならない。むしろ身分の高いものほど厳格に罰しなければならないだろう。身分が高ければ高いほど、国民に与える影響は大きいからである。贔屓や賄賂、あるいは忖度(そんたく)によって、法の公正がないがしろにされるとき、国家が衰退に向かうのは避けられない。

 その後日本は開国し、二つの世界大戦を経て民主主義国家へと生まれ変わった。高度経済成長期には、国民の所得は順調に増え、一億総中流を実現した。しかし、やがて成長が鈍化しはじめると、限られた成長の果実をどのように分配するかが、政策の大きな課題として再び浮上してきた。トリクルダウン効果*6が期待された新自由主義の経済政策は、望まれた成果を上げることができず、国民の貧富の格差は拡大した。

デジタル化と国際化は加速し、そこに近年の新型コロナによるパンデミックが加わって、今や世の中の仕組み自体が大きく変わろうとしている。封建主義と民主主義との違いはあるが、ともに転換期の時代であるという点で、文化文政時代と現代は似ていなくもない。

  求められているリーダー像もほぼ同じである。それは、主権者を君(将軍)から国民に代えて、著者の主張を読み替えてみればわかる。

すなわち、『身の艱難を避けず、天徳を履(ふ)みて、天下の艱難、国家の安危、宗社の存亡、世の邪曲、みな一身に請けて国民に奏し奉り、国民の間に立ち、国民の命を奉じ、新たに厳令を立て、驕奢・安逸・遊食の徒を避け、国賊無道を征して、万民の困窮及び屈死する助け、仁をことごとく民に及ぼして民の愁ふるところを解』いてくれるようなリーダーである。それは、昔も今も変わらない、日本人の望む、日本人らしいリーダーである。このリーダーは、正しいことをしようとしてかなわず、絶望の果てに自から死を選んだ、本当の忠臣の無念を、きっとくみ取るであろう。また、苦しみながら自宅で病と闘い続けている人々には、いのいちばんに手を差しのべるに違いない

1宗社 国家のこと

2  徳川将軍のこと

3堯舜(ぎょうしゅん) 中国古代で徳をもって天下を治めた聖天子堯(陶唐氏)と舜(有虞氏)。転じて、賢明なる天子の称。堯舜のような聖天子。明君。(精選版 日本国語大辞典より)

4羯鼓(諫鼓)苔を生ずる 君主の善政により諫鼓かっこを鳴らす必要がなくて苔(こけ)が生えるほど、世の中がよく治まっているたとえ。小学館 デジタル大辞泉より)

5封建制度 中世社会の基本的な支配形態。封土の給与とその代償としての忠勤奉仕を基礎として成立する、国王・領主・家臣の間の主従関係に基づく統治制度。また、領主が生産者である農民を身分的に支配する社会経済制度。(小学館 デジタル大辞泉より)

6トリクルダウンtrickle-down原義は、したたり落ちるの富める者が富めば、貧しい者にも自然に富が浸透する、という考え方。富裕層や大企業を優遇する政策をとって経済活動を活性化させれば、富が低所得者層に向かって流れ落ち、国民全体の利益になる、とする。レーガンのレーガノミクスや鄧小平の先富論などが典型。これに対して、有効な所得再配分政策を講じなければ、富は必ずしも低所得者層に向かって流れず、富裕層に蓄積し、貧富の格差は拡大する、との批判もある。通貨浸透。(小学館 デジタル大辞泉より)

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世事見聞録. 初編 / 武陽隠士 [著]

出版地不明 : 出版者不明, 文化13年(1816)序

早稲田大学図書館所蔵

書名「世事見聞録」(1994年 岩波文庫)*1
著者 武陽隠士(本庄栄治郎校訂 奈良本辰也補訂)
                                                             『 』 部分 本書より引用
 物事には光もあれば影もある。それは江戸時代も例外ではない。本書には、江戸時代後期、町人文化の絶頂期であった文化文政時代*2の"影"の部分について詳細に描かれている。
「武陽隠士」と名乗る著者は、奈良本氏の解説によれば、「江戸の南の方に居を構えた(中略)きわめて日本人らしい心をもった人物」である。
徳川幕府が開かれて213年、明治維新の52年前の文化13年(1816)に本書は書かれた。
 町人文化が繁栄を謳歌していた当時の江戸において、いったい何が進行していたのか。それは衰退なのか、それとも新しい時代の、言わば陣痛のようなものだったのか。今回から二回にわたって解き明かしてみたい。前編では、町人文化全盛の時代に、なぜ国家が衰退していると著者が考えたのかについて考察する。
 著者によれば、国家が衰退した一番大きな要因は、町人と遊民*3が、武士や農民よりも富と力をもってしまったことにあった。士農工商制度では低い身分の町人や遊民が、武士や農民よりも勢いを得て増長し、衣食住に多額の費用をかけるのは、国家に損害をもたらすというのだ。
『町人・遊民、だんだん増長して今武士と農民の上に越え、安泰を構へたるなり。かくの如く増長したる億万諸町人・諸遊民の衣食住に費ゆるところ、何程の事にやあらん。これ国家を損害するなり。』
 実は、町民や遊民の台頭と、武士や農民の没落とは表裏一体であった。
日本を大木に例えれば、武士や農民は根本であり、町人や遊民は枝葉に過ぎない。枝葉ばかり繁って根本が枯れてしまったら、大木はやがて倒れてしまう。町人と遊民ばかりが栄えて、武士や農民が苦しむような国家は衰退してしまうというのである。
  背後には経済や社会の大きな変化があった。世の中には贅沢と利欲がはびこり、新しい産業が次々に起こっていた。金銀銅鉄などの鉱物資源は国外に流出し、米穀、雑穀などの地産物から魚貝類などの海産物はことごとく市場経済に飲み込まれ、利潤の多くは町人や遊民の手に渡っていた。町人と遊民には、年貢もなければ、役儀や課役*4、法令もなかった。いくらでも利潤を得ることができたのである。
一方、武士や農民は、定められた取り分を超えて利益を得ることはできなかった。市場経済の恩恵にあずかることはできなかったのである。
 『武士と農民は国家の根本にて、その余の業はその末々に付き添ひたる枝葉にて、なくても済むべきものなるが、二百有余年以来の御知世に依つて、奢侈(しゃし)大いに起り、利欲大いに起り、産業大いに起り、交易利潤の道大いに行はるるに随ひ、億万の諸町人・諸遊民出で来て犯奪を競ふが故なり。まづ山より出づる所の大木・大石・金・銀・銅・鉄・錫・鉛を始め、また地より出づる所の米穀・雑穀・諸産物、及びまた海川より出づる所の貝・魚・藻布とも、みな商賈の手に渡り、利潤の道に入り、諸町人・諸遊民の潤沢となれり。武士と百姓は年々その元種を仕出だすに苦しみけるが、末みな右の如く諸町人・諸遊民の得ものとなり、栄花の種となれり。これ枝葉繁茂して根本を枯朽するに至り、国家の本に立ちし武士と農民、年々取り得る所も分限(ぶげん)5ありて少しも分限の外を得ること能はず。殊に役儀あり、法令あり、年賀あり、課役ありて、年々取り得る限りは残らず失費するなり。町人・遊民は制外となりて役儀もなく、法令もなく、年貢もなく、課役もなく、殊に利益何程も得次第にて分限なく、奢侈も心次第、行状も心のままにて済むなり。
 さてその掘り出したる金銀銅を、今世は国家の宝ともせず、交易利潤のために異国へ渡し遣はす事なり。(中略)正徳の頃か、新井筑後守が取調べし記録に、金銀銅を過半異国へ渡し、わづかに十が一ほど日本に残りしといふ。それまでに異国へ渡したる金銀銅の員数、莫大なり。これ人欲の所為にして、だんだん国土の肝胆を失ひ、山川鬼神も怒り給ふか。』
 物価は上昇し生活費の負担も増えていた。武士と農民の人口は減り、代わって町人や遊民の人口が増加していた。町人や遊民の中には、武士や農民を侮り、利欲にまかせて悪逆非道に走るものも出てきた。古来より守られてきた規範はないがしろにされ、法制度も有効に機能しなくなっていた。義理も、しきたりや習わしも、すべてすたれてしまった。不正が横行し、贅沢を競い、悪事を尽くした新事業がつぎつぎと起こっていた。一見華やかで盛況に見えたが、その実、世の中に信義はなくなり、国家は衰退の道を歩んでいた。
『かくの如く利欲の道繁昌するに随ひ、諸品の価高くなり、諸失費多くなりて、武士と農民はいよいよ衰へて人数減り、町人・遊民は人数多くなり、その内に利欲に勝ち、武家を軽しめ、百姓を侮り、栄花に満ち余りたるもの出来、あるいは利欲に迷ひて、悪逆無道を行ひ、上を犯し下を貪る悪徒等あまた出で来、ここにおいて古来の規矩準縄も崩れ、ご法度も立たず、世の義理も風俗も散々(ちりぢり)に乱れゆくなり。(中略)津々浦々・宿々在々まで諸商人・諸職人・遊芸者の遊民、才智才能を尽し、利欲の争ひ、邪曲の犯し合ひ、奢侈の競べ合ひ、悪事の尽し合ひして、工夫の上に工夫を凝らし、おひおひに新規の事ども出で来、繁花になほも賑ひを添へ、花に花を咲かせる世の中のやうに見えて、信義は次第に失せて国家の根本は衰ふるなり。』
 町人の経済的成功の背景には、江戸への一極集中があった。参勤交代制度により、江戸には日本中の大名とその家来が集まっていた。江戸の町人たちは、居ながらにして日本中のどことでも商売することができたのである。それは幕府や大名にとっても便利で都合がよかったため、武家のあらゆる取引を町人がとりしきるようになっていった。やがて、武家に限らず寺社や農民など、世の中の取引のほとんどすべてが町人の手に落ちると、町人たちは莫大な利潤を手にした。町人たちがいなければ、世の中全体が回らなくなっていた。町人は増長し、武士を軽んじ、農民を侮るようになっていった。
御府内*6は日本国中の大小名を始め、末々の軽き侍まで寄り集まり、金銀米銭を費す故、その潤沢にて商売の道繁昌いたす処に、今盛んなること武家に越え、諸事の便利、武威よりも最も通りよく、居ながら国々の欠引きをなし、公儀の御用すら御替金・御上米を始め、諸御用物町人の請け負ひ、また武備に拘はりたる徒士・足軽の受負ひ、旅行の支度、武具・馬具・諸式、残らず町人ならではならぬ世の振合ひ故、いやましに町人の増長する事になれり。すべて武家・寺社・百姓そのほかとも、世の中なべて町人の手に懸かりことごとく利潤を奪はるるなり。依つて世の中の有余は、分厘の塵零までもみな商人が掠め取りて次第に増長する故に、武家・百姓そのほかとも逼迫するなり。右の時勢にて、近来町家の者ども気嵩になり、武士を軽しめ、百姓を侮り、その驕慢、法を越すなり。』
 法制度は厳格さを失い、緩みに緩んでいた。
法は国家の大本であり、厳格に施行されなければならないにも関わらず、贔屓や賄賂、様々な取引や方便によって、骨抜きにされていた。身分の高い者が一つでも法を曲げれば、下層ではあらゆる法が緩んでしまう。同じように、法の執行者(すなわち武士)が、一度でも義理を欠いた軽薄な行いをすれば、社会には千万の悪行がはびこるようになった。
二百年来、御法度の寛(ゆる)やかになりたる事なれば、崩れたることいくばかりぞや。法は天下の大本なり。すでに神君様*7御制法御条目に、「法を以て義理を破るべし、義理を以て法を破るべからず」と仰せ置かれ、天地自然の義理に借りても法は破るべからずと厳重になし置き給ひしを、あるいは贔屓によりあるいは賄賂によりて、種々に差引き方便を加へておひおひに寛め緩め、当今ここに来たるなり。上にて法一つ寛めば、下にて万法緩むとなり、上に非義軽薄の行ひ一つあれば、下にいたって千万の悪行となる。』
 著者は自由経済を否定しているわけではない。適切に運用されるなら、自由経済が国を発展させることを認め、むしろ評価している。問題はその「程度」であり、行き過ぎはよくないと言っているのである。町人や遊民の数が増えすぎて、武士や農民が衰え、山林や田畑、民家が荒れてしまうような自由経済は行き過ぎである。国民の生み出す、米穀、雑穀、諸産物の量には限りがあるのだから、ただ消費するだけの町人や遊民の人口が増えすぎてはいけない。
『もっとも静謐(せいひつ)の御代なれば、諸産業もなくては叶はず、利潤の道もなくては叶はず、奢りの道も人欲を宥(なだ)める道具なれば、これまたなくては叶はず、町人・遊民も国家を補ふ一助にもあるべけれども、しかし当世の如く数多くなりて、国家根本の武士・農民の労(つか)れ衰へ、山林田畑荒れ、民家荒るる程になりては、済みがたきものなり。右の如く、武士の分限は年々極まりあり、国民の作り出す米穀・雑穀・諸産物とも、大概限りある事なれば、これを費す諸町人・諸遊民、すべてむだ食ひの人数も程合ひのあるべきなり。』
 このように町人や遊民のような、ただ消費するだけで何も生み出さない者が、国富(米)を生産する者よりも優遇され、繫栄して、人数も増えてしまった社会は、枝葉が繁って根本が枯れた大木のようなもので、国家を衰退させてしまうというのが著者の主張であった。
ではどうすればいいのか。後編では、国家再建についての、著者の考えを考察する。
                                               つづく
*1世事見聞録(せじけんぶんろく)江戸時代後期における見聞,評論書。7巻。著者は武陽隠士とあるが本名は未詳。文化 13 (1816) 年の自序がある。徳川の治世が次第に本を失い奢侈を増長する方向に流れたことを,当時の武士,農民,寺社人,医業,公事訴訟,町人,遊里売女,歌舞伎芝居,米穀などの産物,山林など,あらゆる職業,風俗,生産などの見聞を通じ,儒教的見地に立って論評している。事実の指摘はあくまで正確で,当時の社会情勢を知る好史料(ブリタニカ国際大百科事典より)
 
*2文化文政時代 江戸後期,文化・文政年間(1804〜30)を中心に寛政の改革後(1793)から天保の改革(1841)に至る時代。大御所時代ともいい,徳川家斉が11代将軍・大御所として君臨した。寛政の改革の遺風は19世紀初めで消滅し,家斉の豪奢と側近の放漫政策が展開。財政難対策には倹約令のほか貨幣改鋳,町人の御用金賦課が行われたが,幕藩財政一般が窮迫し,士風は退廃した。商品経済が農村に深く浸透して貧富の差が増大し,幕藩体制の経済的基盤はすでに崩壊しはじめ,百姓一揆・打ちこわしが頻発した。諸藩はこの時期に専売制を強化して財政難に対処した。一方,対外的にはロシア船・イギリス船の近海出没で海防問題が注目され,幕府の北辺調査,異国船打払令発布となる。また文化面ではこの時期に化政文化が展開した。(旺文社日本史事典 三訂版より)
*3遊民 職につかず遊び暮らしている人。(デジタル大辞泉より)
*4役儀や課役 租税や課税(デジタル大辞泉より)
*5分限(ぶげん) 平安時代末から江戸時代にかけて,その人の社会的身分,地位,財産等を示す語。〈ぶんげん〉ともいう。時代と境遇とにより,何によって示されるかは違うが,鎌倉時代までは所領の広さや家人,郎従の数で示され,室町時代以後は所領の高が中心で,江戸時代の農民は持高,商人は広く財産をもって示される。武士はその分限に従って軍役を勤めることが求められ,分限相応に行動することがよしとされた。そこから分限の語は〈身の程〉とか,〈分際〉とかの意味でも使われた。(世界大百科事典 第2版より)
*6御府内 江戸時代、町奉行の支配に属した江戸の市域。文政元年(1818)、東は亀戸・小名木村辺、西は角筈村・代々木辺、南は上大崎村・南品川町辺、北は上尾久・下板橋村辺の内側と定められた。(デジタル大辞泉より)
*7神君様 徳川家康のこと。

書名 「和辻哲郎座談」(2020年 中央公論社)

著者 柳田國男、幸田露伴、高坂正顕、斎藤茂吉、志賀直哉、谷崎潤一郎、寺田寅彦、内田百閒、

竹山道雄、安倍能成、今井登志喜、長谷川如是閑 他

                                      『 』 部分 本書より引用

 没後60年を記念して昨年刊行された和辻哲郎*1の座談集である。その中から、江戸に関わる発言をとりあげてみた。今回はその二回目。

 高坂正顕*2の言うように、鎖国の決断は本当に拙速だったのだろうか。すぐに鎖国しないで少し様子を見ていたら、やがて状況が変わって、その後の展開は大きく変わったのだろうか。

 状況はそれほど単純ではなかったと竹山道雄*3は言う。当時、徳川幕府はキリスト教に手を焼いており、その影響は深刻だったからである。

  徳川時代の社会規範は儒教(道徳)だった。現世を超越する神や宗教から人々を遠ざけ、この世にだけ目を向けるように仕向けたのである。しかし、それが中国や韓国に先駆けて近代化を成し遂げる大きな要因となったと竹山は言う。

『 (竹山)武家は、現世的な実力で天下を取って、それから仏教の叛乱や、切支丹の叛乱で手を焼いて、宗教というものは悪いものであって、人間を気違いにするものだから、宗教を押えつけてしまわなくてはならないというので、キリスト教をすっかり掃滅してしまい、仏教を骨抜きにして、仏教はただキリスト教に対する対抗手段としてのみ意味を認めた。そして宗教の代わりに儒教つまり道徳を盛んにして、儒教をもって人心を統べるイデオロギーにしたので、そのときから日本人の支配的な層の心は、絶対的な超越的な神様とか宗教とかいうものから離れてしまって、只今この世に向かうようになった。このことが、日本人が近代化を容易にするができた一番の中心になったでしょう。』

 徳川時代の武家や庶民は驚くほど合理的であった。しかしながら、宗教を完全に根絶することは不可能なことであった。ひとたび政治や経済が不安定になり、民衆の間に不満や不安が蔓延すると、救済への願いを埋め合わせるために、人々は新たに「絶対性」求めたのである。それは、いわば代用宗教のようなものであった。


『(
竹山)しかし人間だからやはり宗教心といったようなもの、宗教的な要求は非常に持っていて、救済への願いとか、現世の不満、不安といったような気持は随分あります。所がそういう宗教的な部分を扱ってくれそうなものには、すぐ絶対性をなすりつけてしまう。つまり代用宗教を見つけるのです。(中略)今の日本人が、何かというとすぐ絶対化してしまうというのは、これは宗教の受持つ部分を、そっちへ肩代わりしているからじゃないかと思います。』

 宗教を排したことによって育まれた、江戸人の合理主義的思考は、アジアに先がけて日本の近代化をもたらした。しかし、その一方で、ひとたび政情不安が顕著になると、救済を願う気持ちが、江戸人の心の底に潜んでいた宗教心を呼び覚まし、ぽっかり開いた心の隙間を埋め合わせるために、新たな「絶対性」を見出そうした。

竹山の指摘するような状況は、あらゆる分野で制度疲労が顕在化しつつあった、幕末の江戸の現実だったのではないかと思う。地震や疫病、飢饉などの天災あるいは人的な不正によって、生きるか死ぬかの極限状況に追い込まれたとき、神や宗教に頼らないで、己のみを信じて苦難を乗り越え生き抜く強さを、どれだけの人間が持ち合わせていたのだろうか。

 江戸に貨幣経済が浸透すると、世の中がお金中心に回り始め、貧富の格差が拡大していった。勝ち組と負け組が明確に線引きされ、やがて法による社会秩序の維持もおぼつかなくなっていく。困窮者の中には、法を犯して生きていくか、正直を貫いて自滅していくか、究極の選択を迫られる者も少なくなかった。社会不安は増大し、遠隔地では百姓一揆*4、都市部では打毀し(うちこわし)*5が頻発する。革命への潜在的な希求は、否が応にも増していた。抑圧されていた困窮者の宗教的な渇望が、近代化を後押ししていたということは、十分ありそうなことである。

 高坂と和辻そして竹山が投げかけた主題は、今も形を変えて生き続けている。

日本では5%の悪人が実権を握ったら、現在においても90%は便乗するのだろうか。また、社会不安が増大したら、私たちはまた、新たな「絶対性」を見出して心の空隙を埋めようとするのだろうか。そして現在の日本はどうなのか。

答えは簡単には出ないし、出してはいけない。それは世界のどこにも存在していない。我々自身で創造しなければならないのである。      

                                                                               

1和辻哲郎1889年~1960年]哲学者・倫理学者・文化史家。兵庫の生まれ。京大・東大教授。倫理学の体系化と文化史研究に貢献した。文化勲章受章。著「ニイチェ研究」「古寺巡礼」「風土」「鎖国」「日本倫理思想史」など(小学館/デジタル大辞泉より)

2高坂正顕19001969]昭和時代の哲学者。明治33123日生まれ。高坂正尭の父。西田幾多郎にまなび,昭和15年京都帝大教授。戦争擁護の論陣をはり,21年公職追放となる。解除後,関西学院大,京大の教授をへて36年東京学芸大学長。41,中教審特別委員会主査として「期待される人間像」をまとめた。昭和44129日死去。69歳。鳥取県出身。京都帝大卒。著作に「カント」など(講談社/デジタル版 日本人名大辞典+Plusより)

3竹山道雄19031984]評論家・ドイツ文学者。大阪の生まれ。小説「ビルマの竪琴」、評論「昭和の精神史」など(小学館/デジタル大辞泉より)

4百姓一揆 江戸時代、農民が領主・代官の悪政や過重な年貢に対して集団で反抗した運動。暴動・強訴(ごうそ)・越訴(おっそ)・逃散(ちょうさん)・打ち毀(こわ)しなど種々の形をとった(小学館デジタル大辞泉より)

5打毀し(うちこわし)江戸時代に,おもに都市においてみられた暴動。百姓一揆との違いは,第1に暴動の主体勢力が都市下層民であったこと,第2に原因が米価高騰にあったことである。打毀の対象となったのは,米屋,酒屋,質屋,問屋などの富裕商人たちで,彼らが意識的に米価の吊上げをはかったことから,その影響をいちばんこうむりやすい都市下層民たちにねらわれることとなった。大規模な打毀の例としては享保 18年 (1733) の江戸におけるものがある。これ以後打毀は激しさを増し,天明年間 (8189) における飢饉に際しては,江戸だけでなく大坂,京都,広島,長崎,石巻など全国に及ぶほどであった。幕末期における打毀は幕府崩壊を早めることになった(ブリタニカ国際大百科事典より)


幕末江戸市中騒動記 東京国立博物館-2.JPG







幕末江戸市中騒動記東京国立博物館蔵/部分


幕末江戸市中騒動記 東京国立博物館-3.JPG






幕末江戸市中騒動記東京国立博物館蔵/部分

慶応2年(1866)江戸でおこった打ちこわしを描いた絵。

米屋を襲い、家屋を破壊、商品を台無しにする場面。

書名 「和辻哲郎座談」(2020年 中央公論社)

著者 柳田國男、幸田露伴、高坂正顕、斎藤茂吉、志賀直哉、谷崎潤一郎、寺田寅彦、内田百閒、

竹山道雄、安倍能成、今井登志喜、長谷川如是閑 他

                                       『 』部分 本書より引用

 没後60年を記念して昨年刊行された、和辻哲郎*1の座談集である。そうそうたるメンバーに圧倒される。博識多才の碩学が、幅広い主題について座談を繰り広げるのだからおもしろくならないわけがない。今回は、その中から、江戸に関わる発言を、2回に分けてとりあげてみよう。

 まずは鎖国についての和辻と、哲学者の高坂正顕*2とのやりとりに注目してみたい。

和辻は、鎖国時代に育まれた日本の良さには普遍性が乏しかったと言う。そのため今の日本人(座談会当時の1950年)は、日本の良さから離ようとしているのだが、目の肥えた西洋人から、逆に日本の良さを指摘されて、一種のジレンマに陥っていると言う。また、仮に日本人がその良さに目覚めたとしても、それを保存するのに精一杯で、どうして伸ばしてよいのかわからないのだとも言う。

『(和辻)日本の良さはそういう鎖国の時代にできたものが多いので、あまりに特殊で、普遍性が乏しい。だから今の日本人はできるだけそれから離れようとしている。西洋人で眼の見える人だと、こういう良いものがあるじゃないか、といいますが、丁度その「良いもの」を今捨てつつあるのですね。捨てる必要もあるのかも知れないが、一種のジレンマですね。この三百年間に、大事に、育てあげたので、良いには違いないが、将来伸ばして行く道がない。(中略)

藝術だってそうじゃありませんか。お能にしても、歌舞伎芝居にしても、ただ保存するのほかに手がない。』

 すぐに鎖国を決断しないで、少し様子を見てから決断していたら、その後の展開はかなり違っていたはずだと高坂は言う。すぐに結論を求めるところに日本人の問題があるのではないか。世界のどこかにすでに結論があり、早くそれを見出そうとするから結論を急いでしまうのではないか。だが、本当は、結論はまだ出ていなくて、世界中の人がそれを求めて模索しているのではないか。日本人は結論がどこかにあると思っているが、それは間違いで、本当は自分たちで創造しなくてはいけないのではないか、と高坂は言う。

 しかし、それはたやすいことではないし、時間がかかることである。

『 (高坂)すぐ結論を求めすぎるということです。よく、こう思うんですよ。いろんな人たちと話すと、どうもその人達の話では世界のどっかに、結論なり、解決なりはちゃんとできているのですね。ただ日本だけが一向に結論を知らないし、またそれを実行に移さない。そのために我々は困りきっているのだ、と。(中略)どっかに解決があって、それを我々が知らないから、というのではなくて、新しい解決が創造されなくちゃならない。我々ももっと忍耐強く、われわれ自身で、我々自身の解決を見出してくるべきではないか。』

 この考えに和辻も同意する。そして、結論というものはけっして簡単に得られるものではなく、長い間苦難に耐え、それを乗り越えた後に初めて手にすることができるものであることを、西洋人は、旧約聖書を通して学んでいるのだと言う。

『(和辻)そういう仕方をヨーロッパ人に深く教え込んでいるのが、旧約の預言者の文でしてね。(中略)あれは勝利の歴史じゃない。苦難の歴史です。』

 しかし、日本においても、徳川家康のような苦労人は、苦難の歴史から学ぶことを知っていたと和辻は言う。ここで和辻が例とするのが、家康が家臣に読むように推奨した、武田氏*3「甲陽軍鑑」*4である。「甲陽軍鑑」は武田氏が滅亡した後、家康が養っていた武田氏の遺臣が著したもので、高坂弾正という武田氏の老臣が、武田勝頼*5に仕えた二人の武士に、統治の心構えや理想について説いた軍学書である。

『(和辻)日本でも苦労人の家康は甲陽軍艦というような潰れた家の記録を流行らせています。(略)例えば、便乗派は日本では昔から九十%はある、というような記事もあります。九十は便乗派だが、後は五%が悪人、五%がしっかりした人物なのです。それを見わけるのが上に立っているものの第一の任務だ、というのです。うっかりして五%の悪人に時を得させると、九十%がそっちについちゃう。骨っぽい正義の士が五%いても何にもならない。だから五%の正しい士を見わけて、それに時を得させると、九十%がそっちについて行く。

(高坂)政治の真髄を掴んでますね。流石に。』

 日本には昔から、悪人としっかりした人物が五ずついて、残りの九十%は便乗派である。だから、五%の悪人が実権を握ってしまうと、九十%がそれに便乗して国がおかしくなってしまう。したがって五%のしっかりした立派な人物が実権を握るように、上に立つものは見分けるべきであり、それが一番大切な任務である。幕臣たちにこの教えが浸透していたとしたら、徳川時代が二百六十年間続いたのも不思議ではない。 

                                                                            つづく

1和辻哲郎1889年~1960年]哲学者・倫理学者・文化史家。兵庫の生まれ。京大・東大教授。倫理学の体系化と文化史研究に貢献した。文化勲章受章。著「ニイチェ研究」「古寺巡礼」「風土」「鎖国」「日本倫理思想史」など(小学館/デジタル大辞泉より)

2高坂正顕19001969]昭和時代の哲学者。明治33123日生まれ。高坂正尭の父。西田幾多郎にまなび,昭和15年京都帝大教授。戦争擁護の論陣をはり,21年公職追放となる。解除後,関西学院大,京大の教授をへて36年東京学芸大学長。41,中教審特別委員会主査として「期待される人間像」をまとめた。昭和44129日死去。69歳。鳥取県出身。京都帝大卒。著作に「カント」など(講談社/デジタル版 日本人名大辞典+Plusより)

3武田氏 清和源氏。祖は新羅(しんら)三郎義光の子義清で,常陸(ひたち)国武田郷に住し武田氏と称し,のち甲斐(かい)国へ配流(はいる)されたという。鎌倉時代は甲斐の守護。南北朝時代その支流は若狭(わかさ)や安芸(あき)の守護。甲斐の本宗は室町時代振るわず戦国末期に信玄が出て中部地方一帯に版図を拡大。子の勝頼が1582年織田信長に敗れ滅亡(株式会社平凡社/百科事典マイペディアより)。

4甲陽軍鑑 江戸初期の軍学書。20巻。武田信玄の臣、高坂昌信の著述というが、小幡景憲(おばたかげのり)編纂説が有力。信玄を中心とし、甲州武士の事績・心構え・理想を述べたもの(小学館/デジタル大辞泉より)

5武田勝頼1546〜82]戦国時代の武将 信玄の第4子。上杉景勝とくみ,織田信長としばしば戦い,長篠の戦い(1575)に大敗。1582年,織田・徳川連合軍に甲斐に侵入され,天目山で自刃し,ここに武田家は滅んだ(旺文社日本史事典 三訂版より)

甲陽軍艦 .JPG

甲陽軍鑑

35寛文・延宝年間(1661-81写 35冊 29.0×22.0㎝ 極彩色絵入り写本。
上質の斐紙に金泥や泥絵具で緻密な挿絵が描かれる。甲陽軍鑑は武田信玄(1521-73)、勝頼(1546-82)二代のいくさを扱った軍記。軍師山本勘介が登場し、甲州流軍学書として知られる。文中や奥書には高坂弾正(こうさかだんじょう/昌信。?-1578)が記した旨が書かれているが、著者は未詳。写真は巻第17永禄元年(1558)信州川中嶋で千曲川を中に信玄と上杉謙信が対面する場面。馬上が信玄、床机に腰掛ける人物が謙信。-国立国会図書館デジタルコレクション-

江戸期の講談や歌舞伎をはじめ、明治以後の演劇・小説・映画・テレビドラマ・漫画など武田氏を題材とした創作世界にも取り込まれ、現代に至るまで多大な影響力を持っている。

第十四回 「江戸下町は文化創造センターだった」

書書名「江戸っ子と江戸文化」(小学館創造選書 1982年)
編者 西山松之助
                                                   『 』部分 本書より引用
 江戸は城下町である。
他の城下町と違うのは、二百を超える地方藩の大名屋敷が存在するところである。そこにいたのは参勤交代で数年の間しか江戸に滞在しない地方武士たちである。一大消費都市であった江戸には上方商人たちも移住し支店を開業した。大名屋敷も支店も、男性ばかりで女性はほとんどいなかった。文久二年(1862)に参勤交代がなくなるまで、そうゆう状態が続いたのである。
地方武士も上方商人もついに江戸化しなかったので、やがて徳川家といっしょに三河から上京した武士や町人たちとの間に違いが生じるようになった。
 徳川家とともに江戸に来て、住み着いた町人たちは、やがて江戸っ子と呼ばれるようになる。古文書の中に、江戸っ子という言葉が一番初めに見つかるのは明和八年(1771)のことである。彼らの多くは下町に住んだ。下町のほとんどが埋立地で、面積は全体の15%ほどしかなかった。この狭いエリアに、総人口の約半分に相当する、およそ50万人の町人が住んでいた*1
『(西山)明治二年の統計でも、町人のいる土地は全体の15パーセント、お寺が15パーセント、あとの70パーセントが全部武家屋敷ですからね。~中略~結局、江戸は15パーセントの土地に、人口の半分以上が住んでた。50万以上ですね。だから町家は軒をつらねて、ぎっちり詰まって暮らしていた。』
 人が集まれば活気が出る。経済も活性化する。下町エリアには各界の才人たちが集まってきた。時とともに下町は、経済と文化の中心地となり、18世紀後半には、山の手を凌駕するまでになった。
武士や学者、浮世絵師、お茶やお花の宗匠から噺家まで、ありとあらゆる職種の人々が下町にいた。幕府の役人だった太田蜀山人のように町人になって住み着くものも現れた。そこには当時の文化人が集中していたのである。
『(西山)文化の質の高さで下町に憧れて、下町というようになるのは、十八世紀後半のどうも明和(1764~72年)、つまり田沼時代からでしょう。その頃になると、杉田玄白とか平賀源内だとか、あんな連中が下町にずうっといまして、大槻磐水(玄沢)の蘭学塾も、これは京橋にありました。のちに少し移転しますけれども、そうゆうつまり蘭学とか漢学とか、国学、それに生花とかお茶の宗匠、出版から、いろんな美術工芸の生産センターでもある。そういう文化が全部下町、つまり日本橋、銀座、芝のあたりにかけて集中していました。』
 知識も情報もお金もそして遊びも、すべて下町に集まっていた。海外の情勢すらいち早く把握していた。才能が集まればそれを求めてまた才能が集まる。見いだされた才能は豊かな資本と技術力によって支えられ、やがて大きく開花していった。下町はクリエイティビティに満ちた江戸の文化創造センターだったのである。生み出された傑作は庶民を楽しませ、時を経て芸術へと昇華していった。浮世絵師に戯作者、役者や噺家が、そして学者たちが、日々知恵とアイデアとセンスを競い合う活気に満ちたエリア、それが下町であった。このようなエリアは、当時、世界のどこにもなかったのではないかと西山は言う。
『(西山)江戸のお金持ちというのは大名家ではなくなり商人が金持ちになり、世界の情勢なんかも商人がいちばん早くキャッチする。蘭学だって全部下町で興りますからね。そうなってくると、そういう新知識と、いろんな遊びとかそういうことも、全部下町というものがセンターになる。~中略~ この下町には、各地からやってきた幾多の俊才が流れ込んだ。平賀源内も、林子平も。蘭学の杉田玄白も、また荻生徂徠、賀茂真淵、太宰春台も。そして彼らの著述を出版するための版木師、刷り師などの職人も全部、神田や日本橋あたりに集中している。だから下町は江戸の文化創造センターだったのだと思います。』
 文化をけん引するリーダー人材にはことかかなかった。蔦屋重三郎のような出版プロデューサーと腕の良い職人たちが、浮世絵師や洒落本、黄表紙などのベストセラーを量産し、江戸文化を日本全国に広げた。創造性と美意識、そして豊かな経済力を兼ね備えた出版資本が、それを強力に後押ししていた。出版技術の進歩も大きく貢献した。傑作が生みだすための、あらゆる条件がそろっていた。
『(西山)多いのは草双紙とか黄表紙で、一万五、六千も売れたといいます。いくら刷っても刷るそばから持っていくという有様で...。ちょっと今の人には考えられないでしょう、そんなに売れたってこと。ベストセラーが当時もう出てきているわけですからね。その頃に江戸っ子が出てきたり、江戸文化が展開してくる。~中略~蔦屋重三郎なんてのは、中でも最高のプランナーだったと、ぼくは思いますね。誰になにを描かせるかといったようなことの発想も、ほとんど全部蔦屋重三郎がやっちゃう。これを描け、なんて全部蔦屋のさしがね。出版資本に大きな創造性と美意識と、そしてまた経済的な展開の能力があったということ、それがいちばん大きなものだと思いますよ。』
 下町の町人たちにとって、もはや武士など眼中になかった。
江戸時代は合戦のない平和な時代である。武士に活躍の場はなかった。文化の中心は下町であり、担い手は町人たちだった。武士たちがどんなにいばったところで、その野暮なふるまいを笑われるのがおちであった。特に参勤交代でやってきた地方武士は、方言丸出しで、無骨なふるまいをこけにされ、田舎者扱いされたあげく、川柳や洒落本で笑いのたねにされた。
『(西山)「野暮なやの字の屋敷者」というけど、ほんとに江戸っ子が威張れると思うのはいわゆる今の言葉でいう庶民の生活気分なんですね。屋敷者というのはやっぱり野暮なんですね。
~中略~つまり野暮な田舎侍というのは、田舎から来ると下町はすごいという意識が、どうも田沼時代頃からあったようですね。~中略~学問にしても、蘭学者だって金のある連中のほうがいいから町人と親しくなる。
(松島)浮世絵などは、武士を問題にしていませんね。風俗、風景を描くのに役者や遊女や町人などが主題になる。落語にしても、その中にでてくる侍はたいてい笑いの対象にされる。』
 江戸っ子は「いき」であった。いきな人とはすなわち、決められた枠(西山はそれを「たが」と呼んだ)からはみ出さないで遊ぶすべを身に着けた者のことをさしていた。そしてそのふるまいの自由さが、決められた枠のすれすれであればあるほど、よりいっそう「いき」であるとされたのである。枠の存在を知らなかったり、知っていても無視して自由そうにふるまうのは野暮とされた。江戸っ子は制約の中の自由に価値を見出していたのである。
『(西山)「いき」の世界には制約があります。もう一歩でくずれるというところでくずれていない。たがが全部はずれたところには自由はないので、たがというものがあってはじめて、自分はどういうふうに生きるかということの自由を楽しむ。
  浮世絵にも浮世絵のひとつのたがというものがある。そのたがを、どうたがでなく生きるかというところの自由さが、「いき」を洗いあげたひとつの条件ではないだろうかと思います。
すれすれなんですよ。そういうたがを意識しないのが野暮。たががあることさえも知らないで、いかにも自由そうなふるまいをしているのが野暮なんですよ。』
 江戸下町は、才能あふれる人々が知恵とアイデアとセンスを競い合うクリエイティブなエリアであった。それを出版資本や職人技が支えていた。そこでは様々な個性が入り乱れて、刺激に満ちた日々を送っていた。決められた制約の下で、誰もがぎりぎりまで自由活発に活動していた。
 江戸下町の文化創造センターとしての遺伝子は、今も生きていると思う。浮世絵を生み、歌舞伎を発展させた江戸下町のスケールやパワーを取り戻して、新しい文化を創造し、世界に発信するクリエイティブな可能性に満ちた都市、これこそが21世紀の江戸・東京の目指すべき都市の姿ではないだろうか。
1 明治2年(1869)に 行なわれた市街地面積調査によると、御府内(町奉行の支配に属した江戸の市域のこと)の面積は、武家地38.653km2,寺社地8.799 km2,町人地8.913km2,合計56.365km2。同エリアでは1721年(享保6)に町人人口が50万人を突破、幕末までおよそ50~56万人前後で推移している。人口調査の対象に含まれていなかった武家や寺社の人口を、町人と同じ約50万人と推計すると、江戸の総人口は100~110万人だったと思われる。1801年のロンドンの人口は約86万人、パリは約54万人と推計されており、江戸は世界的な大都市だった。(参考文献:2万分の1「江戸の都市的土地利用図」正井泰夫 1975年)
旧江戸朱引内図(東京都公文書館所蔵)全.JPG
 
旧江戸朱引内図(東京都公文書館所蔵)
[江戸の範囲]
「朱引内」の範囲。文政元年(一八一八)に目付からの問い合わせにたいして絵図面に朱線をもって示した評定所の決定による範囲。

文政6年江戸朱引図.jpg


文政6年江戸朱引図(『東京百年史』付録)より簡略化して作図
 港区のあゆみ デジタル版より.

第十三回「維新の影に江戸の徳育あり」

書名「自歴譜」(岩波文庫1982年)

著者 加太邦憲(かぶとくにのり)

                                                                *「 」 部分 本書より引用

 明治維新後、新政府の最大の課題は不平等条約の改正であった。

 そのためには、近代国家にふさわしい法律を整備し、適切な運用を実現しなければならなかった。西欧の法律知識のある日本人はほとんどいない時代である。専門人材の育成が急務であった。著者の加太邦憲は西欧の法律知識をいち早く修得し、多くの法律専門家を輩出した功労者のひとりである。加太の自伝である本書には、維新前後の日本社会の様子や、新政府で要職についてからの貴重な証言が数多く記されている。ここでは加太本人の履歴に注目し、日本が近代的な法治国家として脱皮していく道筋をたどってみたい。

  明治維新の功労者の多くは、人生の初期あるいは前半を江戸時代に過ごしている。

  当時、武士は藩校や私塾で、町人は寺子屋で学問の基礎を学んだ。知育と徳育は一体であり、そこで身に着けた学ぶ姿勢や方法、生き方の知恵は、やがて未知の学問であった洋学に挑戦し、それを修得することを可能にした。それは日本が驚異的な速さで欧米に追い付くための原動力となった。明治維新を成し遂げた大きな要因のひとつに江戸時代の教育の力があったことは疑いない。

 著者の加太邦憲は嘉永二年(1849)、桑名藩士加太喜内の家に生まれた。安政二年(1856)、7歳になると漢学者の大塚桂から「唐詩選」「三体詩」の手本を与えられて家庭で習字、読書を学ぶようになり、翌年の夏には大塚私塾に通うようになる。安政四年(1858)に9歳で藩校の「立教館」に入門。これより16歳まで、早朝から私塾にて習字と読書をした後で藩校に出席し、午後は引き続き藩校で復習したり、私塾で学んだりする日々を送る。

この間、著者は何を学んでいたのか。

 立教館の褒賞制度がその一端を教えてくれる。

「十歳の冬までに四書の素読を終わりたる者には「孔子行状図解」一部、十四歳の冬までに五経の素読終わりたる者には「義経大儀」一部を賞する法にて、即ち予(加太)は十歳に四書、十二歳にして五経を終わりたる故、この賞与には両度とも漏れざりき。」

                                                                    

 10歳の冬までに四書を、14歳の冬までに五経を読了したなら藩から賞されたのである。
著者は10歳で四書を、12歳で五経を読了した秀才だった。
学んだのは漢学だけではなかった。

15歳からは武田流の軍事学を学んだ。同じ頃、新陰流の剣術・風伝流の槍術・渡辺流の砲術も学び、剣術と槍術では19歳の時に免許皆伝を与えられている。

将来の藩を背負う人材は文武両道でなければならなかった。

「藩の制、藩士に文武両道を奨励し、楽翁公*1の『文武は車の両輪の如く、文を右に武を左に云々』の語ありて、教員といえども学問の一方に偏する許さず。故に教員二人を一組になし、隔日に登校授業をせしめ、非番日には文武を納めしなり。」

 リーダーには知力だけではなく、それを正しく用いる判断力、腐敗堕落に陥らない倫理力、激務に耐えうる精神力と体力が必要と考えられた。そのために教育において知育・徳育・体育がバランスよくなされるよう配慮されていたのである。

 十八歳になると、京都所司代を任じられていた桑名藩主・松平定敬*2に仕えるため、京都勤番を命じられる。幕末動乱のときであり、学問や詩歌を学ぶ時間はなく、もっぱら武芸に励む毎日であった。ただし雨の日だけは西洋兵学を学ぶことができた。当時はまだ翻訳書がなかったため、仏語で書かれた原書を読まなければならなかった。そのためフランス語を学ぶことになる。これが著者の洋学との出会いとなった。習得したフランス語は、後に法律学者として、大きな力となった。

 著者が本格的に洋学を志すのは維新後である。

明治元年に友人から小沢圭次郎*3が書いた英文の手紙を見せられて、自藩に洋学者がいることを知り、さっそく弟子入りする。しかしながら学び始めてから3か月後、洋学は邪道であり異端であるという声が藩校内にあがり、中断を余儀なくされてしまう。著者の洋学への思いは経ちがたく、かくて東京への遊学を志すことになる。

 上京して最初に師事したのは村上英俊*4でフランス学を学んだ。その後開成学校の博士(教授)で、まだ二十五、六歳だった箕作麟祥(みつくりりんしょう)*5に師事した。麟祥は多忙で満足に授業を受けられなかったため、近くの南校*6に通うことが多くなっていった。

 やがて藩より大学貢進生*7を命じられ南校舎寮に入ることになった。貢進生は英・仏・独語の何れかに加えて語学以外の専門知識を修得した人材を養成するために、大藩より3名、中藩より2名、小藩より1名ずつの秀才を藩費にて貢じるよう政府が命じたもの。総勢350名を数え、舎監は井上毅*8田東助*9らが務めた。他に普通の入舎生と通学生が300400名おり、学派と、成績による等級でクラス分けして凡そ20名の英・米・仏・独人を雇って教授とした。校長は加藤弘之*10で、教頭はオランダ人の宣教師フルベッキ*11が務めた。著者は5名のフランス人教師につき、普通学(一般教養)を修めた。

 ところがこの大学貢進生制度はわずか一年で廃止されてしまう。理由を一言で言うなら各藩から貢じられたのは秀才とは限らなかったからである。怠惰で遊蕩の者も少なくなかった。

  制度は廃止になり著者も退寮を余儀なくされた。しかしながらしばらくして、篤学の者を選び試験を経て南校に再入学させることになったため、成績優秀であった著者は寮に戻ることができた。

  南校を出てから、司法省初の法律専門学校である明法寮学校*12に入学することになる。箕作麟祥が仏国五法(民法・訴訟法・商法・刑法・治罪法)の翻訳作業の際に、難解な箇所についてフルベッキに質問したところ満足な返答が得られなかったため、司法卿の江藤新平*13の判断でフランスから法律家を招聘して箕作の質問に応えさせ、同時に学生を募って翻訳作業をさせることになった。20学生選抜されることになった。法学で身を立てることを決意した著者出願し、漢学と仏語の試験を経て合格、純然たる官費生となった。フランスからは代言人(弁護士)法学士ブスケ(27歳)*14が来日して教授となった。

  明法寮学校の卒業生は政府の要職につくことが半ば約束されていた。おもしろくないのは司法省の官僚たちである。法律学校の生徒をしきりに中傷し廃校に追い込もうと画策する。最初は無視していたのだが、廃校運動が盛大になってきたので著者らも黙っていられなくなり、廃校の理由のないことを記して司法卿の江藤新平に提出することになった。日本語と漢学に堪能だったブスケを通訳にして、授業を実地見学した江藤卿は、即興で学生に和文を仏語に翻訳させて教師のリブロースに評価させ、学生の翻訳能力と教師の評価手腕を試した。リブロースの教え方などについても通訳を介して問答したという。

数日して江藤卿から採決が言い渡された。

「評判に反し。学生の成績良好にして将来成功の見込あれば、学校は存続せん」一同が安堵したことは言うまでもない。

  明治6年(1873)パリ大学教授ボワソナード博士(48歳)*15を司法省顧問兼教授として招聘することなった。法律の大家であるボワソナードの講義は個性的だった。いつも手ぶらでやってきて、前日の講義でどこまで話したかを学生に尋ねてから、その続きを講じたという。その様子は次のとおりである。

「その蘊蓄(うんちく)する所豊富なるが故に、講じたき簾々(かどかど)脳中に創出し、止まる所を知らざるを以て自ら秩序なく、時には横道に入り,遂には本道への戻り道を失することありて、到底初学の者には了解し難く、即ち学士以上の大体法律に通じる者に聴かしむる方法なれば、我々最初は困却したり。」

  明治9(1876)著者は法学科生徒幹事兼助教に任じられる。当初は一時的に設置された法律専門学校だったが、司法卿の大木喬任(おおきたかとう)*16はさらに100名を入学(入寮)させて拡大、学生は普通学(仏語)4年、法律学4年の計8年間学ぶことになった。法律に関する実務は増加の一途をたどり、外国法律の翻訳や取り調べも増えていた。法律人材の養成は急務だったのである。

 

洋学の必要性を理解し、積極的に促進した大木卿であったが、その一方で急激な西洋主義への傾斜に危機感を抱いていた。少し長いが引用する。

「政府は一面一般思想が急に西洋主義に傾き、動(やや)もすれば国をも顧みざるものあるに至り、また一面世俗浮薄に流れ行くを憂慮し、もしこのまま放任し置くときは如何なる危険を醸生するや測られず、よって速やかに国家的(或いは東洋的)精神修養に勉めざるからずと心付きたれば、大木司法卿は廟堂において『これ素よりかく無かるべからず。よって予はこの点に注意し、司法の学生は漢学素養の者を選み、入校の上始めてこれに洋学を授くることとせり。これ蓋(けだ)し機宜に適するものと信じるが故なり』と述べたりと言う。」

 大木卿の先見に内閣の諸卿が感服し、授業を見学したいという声があがり、後日、三条実美太政大臣*17有栖川左大臣宮*18山形有朋陸軍卿*19西郷従道海軍卿*20らが学校を訪れ1時間あまり授業を参観したという。

  欧化政策は優れた知識や文化を西欧から学ぶことで日本をよりいっそう発展させたが、古くからのよき日本文化を破壊する可能性も秘めており、いかにしてバランスをとるかは、きわめて重大な問題であった。西洋主義に偏った人材による法の運用はとりわけ大きなリスクであるととらえられた。学ぶべき西洋文化や思想とは何か、日本文化(あるいは東洋文化)の何を残し、何を捨てるべきか。そのバランスの塩梅を考えなかった政治家、軍人、官僚そして学者はいなかったのではないか。日本的な(あるいは東洋的な)精神修養に勉めるべきとする大木卿の提言は、江戸時代に生まれ、藩校で学んできた維新政府の重鎮たちの心にしっかり突き刺さったにちがいない。著者も、大木卿の精神修養に注目したところに大いに共鳴し、卓見であると称賛を惜しまない。

 

  江戸時代は育の大切さを知る時代であった。はそれ自体を教えるというよりも、むしろ学問と一体であり、それは武道においても同様であった。

  今日、一部の政治家や官僚による腐敗を目にするにつけ、エリートにこそ徳育が必要であると思わざるをえない。徳を学ばないで育った人材に知識の善用は期待できないからだ。国益に関する重要な判断を迫られたときに、個人や組織の損得が判断基準になるようなことでは困る。

さりとて「徳」を教えるのは難しい。徳については、古来より多くの先哲が吟味を繰り返し、様々な教えが存在している。その中からひとつを選び、あるいは新たな教義編みだして、これが答えであるとばかりに一方的に教えこめばよいというものではない。それはむしろ育むものである

ではどうしたら徳を育むことができるだろうか。まずは読書と議論が必要である。武道も役立ちそうだ。江戸時代のひとたちも同じように考えたのかもしれない。

*1楽翁公 松平定信(17581829)。楽翁は官職を辞した後の号。寛政の改革を遂行した。桑名の藩校の立教館は、定信が白河に創設した藩校立教館に因んだもの(本書より)。

*2松平定敬 桑名藩主。京都守護職の会津藩主・松平容保は定敬の実兄。

*3小沢圭次郎1832~1932)桑名藩士。海軍兵学校教官の後、東京師範学校(東京教育大学、筑波大学の前身)教官および校長心得を歴任。造園家、作庭家、教育者、文筆家、近代初の造園研究者(Wikipedia)。*第九回「江戸は日本庭園に満ちた都市であった」の注1も参照

*4村上英俊1811~1890)洋学者・フランス学者。日本で初めてフランス語を習得したことで知られる。帝国学士会員、1885年にフランス政府よりレジョンドヌール勲章を授与された(Wikipedia


*5
箕作麟祥184697)津山藩侍医箕作阮甫の孫。蘭・英・仏学を修め蕃書調所教授手伝並出役・開成所教授職見習・外国奉行支配翻訳御用頭取などを歴任。1870年には太政官制度局中弁江藤新平の命によりフランス民法の翻訳に着手。以来一貫して民法を中心に法典編纂事業に着手した(本書より)

*6南校 東京大学の前身の一。幕末の開成所を明治初年(1868)開成学校、そして大学南校と改称。洋学教育が行われた。明治10年(1877)東京医学校と合併して東京大学となった(デジタル大辞泉)。

*7大学貢進生 旧米沢藩出身の平田東助と旧飫肥藩出身で明治358日(187066日)に大学別当の松平慶永より大学南校の少舎長に任命された小倉処平との建議を受け、明治3727日太政官布告により、当時の各藩は石高に応じ1名から3名の人材を大学南校に貢進することが命じられた。大学南校は、明治政府が洋学を教授するため設置した教育機関であり、開成学校を経て東京大学に発展する教育機関である。(Wikipedia

*8井上毅1845~1895)枢密顧問官,文部大臣を歴任 大日本帝国憲法制定にあたっては,H.ロエスレルなど御雇外国人の助言を得つつ,その骨格を起案した。また教育勅語案文の作成をはじめ,重要案件の起草,意見書の提出など,明治中期の重要問題のほとんどに参画した(コトバンク)

*9平田東助1849~1925)山形の生まれ。山県有朋系の有力官僚として、貴族院議員・法制局長官・枢密顧問官・農商務相・内相などを歴任。特に産業組合法の制定、同組合の育成に尽力した(デジタル大辞泉)

*10加藤弘之1836~1916)幕臣として,開成所准教授,大目付勘定頭をつとめ、維新後の1877年東京大学綜理,90年帝国大学総長,さらに貴族院議員,枢密顧問官,帝国学士院院長などを歴任。

*11グイド・フルベッキ18301890)オランダ生まれ。アメリカのオランダ改革派教会宣教師。1859(安政6)来日して長崎で日本語を習得,禁教下秘かに布教して村田若狭に最初の洗礼を授けた。また,長崎の洋学所,その後身の済美館,さらに佐賀藩の致遠館で英語・フランス語・オランダ語・ドイツ語の語学,政治,科学,兵事などを教え,門下から大隈重信,伊藤博文,横井小楠らの人材が輩出した(平凡社 世界大百科事典)。

*12司法省明法寮学校1871-1875年)は、日本の司法省に設置された法律学校。司法省明法寮ともいう。出身者の多くが裁判官・検察官となり、明治時代の司法を支えた。寮はのちに東京大学法学部に統合された。東京大学法学部の前身(goo Wikipedia

*13江藤新平(1834~1874) 佐賀藩を脱藩して尊王攘夷運動に参加。明治維新後、司法卿として司法制度の確立に尽力。のち参議となり、征韓論を唱える西郷隆盛に同調したが敗れて下野。民撰議院設立建白書に署名。佐賀の乱を起こし、敗れて刑死した(デジタル大辞泉)。

*14ジョルジュ・ブスケ(1846~1937) 司法省が初めて雇用したフランス人法律家。18722月より 763月まで法律顧問兼法学教師として在職し,諸立法作業,司法省法学校生徒の教育に従事した(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)。

*15ギュスターヴ・エミール・ボアソナード・ド・フォンタラビー(1825~1910) 1852年パリ大学で法学博士号取得,1864年グルノーブル大学,パリ大学の助教授。 1873年日本政府に招聘されて来日。司法省顧問として,刑法 (旧刑法) 治罪法,民法 (旧民法) を起草 (2者は 1882年施行,旧民法は法典論争のため施行されなかった) 司法省法学校,明治法律学校教授を務め,フランスの法律学および自然法思想を講じ,日本の立法事業ならびに法学教育に大きな足跡を残した(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

*16大木喬任1832~1899)佐賀の生まれ。江藤新平とともに東京遷都を主張、東京府知事に就任。元老院議長・枢密院議長・法相・文相を歴任(デジタル大辞泉)。

*17三条実美1837~1891)幕末・明治前期の公家・政治家。実万(さねつむ)の四男。急進的攘夷派の指導者として、長州藩と提携。文久3年(1863818日の政変で七卿落ちの一人として長州に逃れた。明治維新後は新政府の議定・太政大臣・内大臣などを歴任(デジタル大辞泉)。

*18有栖川宮熾仁親王1835~1895)幕末・明治時代の皇族。有栖川宮幟仁(たかひと)親王の長子。兵部卿(ひょうぶきょう)福岡県知事、元老院議長を務め、1877年の西南戦争には征討総督として出征した。戦後、陸軍大将となり、左大臣、参謀本部長、参謀総長を歴任。 (小学館 日本大百科全書(ニッポニカ))

*19山形有朋1832~1922)陸軍大将・元帥。山口の生まれ。松下村塾に学ぶ。法相・内相・首相・枢密院議長を歴任(デジタル大辞泉)。

*20西郷従道1843~1902)薩摩(さつま)の人。隆盛の弟。はじめ陸軍に属し、台湾出兵を行ったが、のち、海軍大将。海相・内相などを歴任。晩年、元帥となった(デジタル大辞泉)。



寺子屋- 一寸子花里.JPG



▲寺子屋の筆子と先生。

文学万代の宝(始の巻・末の巻) 一寸子花画

(いっすんし はなさと)画弘化年間(1844~1848)頃

幕末に日本を訪れた多くの外国人は、日本人の識字率(しきじりつ)の高さ、

特に女性や子供の読み書き能力に驚きの声を挙げています。江戸時代の日本は、

世界最高の教育水準を誇る教育先進国でした。

東京都立中央図書館 デジタルミュージアムより引用

寺子屋の教科書 JPG.JPG



▲寺子屋の教科書 文政2年(1819)刊

①庭訓往来寺子宝(ていきんおうらいてらこだから)

②塵劫記九九水(じんこうきくくのみず)

③小野篁歌字尽(おののたかむらうたじづくし)

寺子屋での教育方法は現在とは大きく異なり、読み書きを教えることが基本です。

その教科書には農民の子どもは農民に必要な知識を、商人の子どもは商人としての

必要な知識を学ぶためのものを使います。寺子屋等で使われた教科書を総称して「往来物」と言います。

「稚六芸」とは君子が持っている6種の教養「六芸」になぞらえ、

子供たちの学習に必要な6つの教科をあげたもので、

書は手習いを、数はそろばんを指しています。 

六芸とは、古代中国において士分以上の人に必要とされた教養のことで、

礼(道徳教育)、楽(音楽)、射(弓術)、御(馬車を操る技術)、書(文学)、数(算数)の6種を指します。

東京都立中央図書館 デジタルミュージアムより引用

 

 第十二回 「もうひとつの火事の話」

書名「江戸の夕栄」(1977年中公文庫)

著者 鹿島萬兵衛

                                                          『 』 部分 本書より引用

 著者の鹿島萬兵衛は嘉永2年(1849)江戸堀江町四丁目(現在の中央区日本橋小網町一丁目一番地)で生まれた。父萬平は三井組の一員で、後に、王子・滝野川紡績工場を設置し、函館には日本昆布会社を設立した実業家であった。著者も父の創業した日本昆布会社の社長や、東京紡績会社の取締役を務めている。

 明治維新のとき著者は二十歳であり、本書は薄れゆく江戸の面影を後世に伝えるべく書き綴られた貴重な記録である。江戸の風俗から経済事情まで様々な逸話が紹介されているが、その中で今回もう一度火事の話を紹介したい。この連載の三回目で文化人類学者による町火消の優れた考察を紹介したが、今回は生き証人による独白である。

 江戸に火災が多かったというのはよく知られた事実である。

なぜそんなに火災が多かったのか。実はかなり放火があったのだと著者はいう。当時は木造家屋が多く、空気の乾燥した冬季になると燃えやすかったという事情もあった。

  江戸出火の原因は阻喪火も多からんが放火もまた甚だ多し。直接の付け火のほか飛火に仮托(かこ)つけての放火、螽斯(きりぎりす)然たる粗造の家屋板葺屋根の冬季乾燥して火口(ほくち)のごとく、蔀板(しとみいた)も反り返り好焚付(たきつけ)となり常に火災の起こるをまつもののごとし。 1

  なぜ放火が多かったのか。そこには何か特別の事情があったのではないか。著者は二つの間接的な要因を指摘する。ひとつは当時の減刑制度、そしてもうひとつは火災後の復興景気への期待である。

 府の真中に火災を吸ひ寄せる一種の引力建物あり。それは他ならず大伝馬町の牢屋敷これなり。この囚獄中には首のなき重罪犯も少なからず、命の親と頼む親分も居れば無実にして入牢せる愛息居るなり。一朝にして火災近く延焼し来れば、獄中の者全部解放し、三日以内に浅草の新寺町の善慶寺に帰来るものを罪一等を減ぜらるるは、昔よりの規定なれば、この三日中は絶えて久しき我家に帰り来たり、可愛ゆき妻子と寝起きすること、とてもこの世には見ること難きあきらめたる我家に入ることも束の間にても許さるるわけゆゑ、本人は申すまでもなく、妻子眷族(けんぞく)の祈らぬもものなからん。分を助けんと思う子分等の出来得る限りの手段を尽くすなるべし。

 火災になると一時的に囚人は解放され、三日以内に戻れば減刑されたのである。というわけで火事を待ちわびている囚人やその家族、子分は少なくなかった。無実の罪で投獄された者もいた。愛する家族や親分の減刑のために火を放ったというわけである。火災が発生したときの囚人たちの喜びはひときわ大きく、牢屋敷では大歓声があがったという。

  誰が知らするにや、火災の牢獄近くに延焼し来るときは大勢の罪人牢内にて鬨(とき)の声を揚ぐる。その声のすさまじきなり。

 もうひとつの要因は火災後の復興需要増大に対する期待である。

火災後の復興景気で職人たちは大いに潤った。被害が大きければ大きいほど収入も増える。そのため職人たちの消火活動が消極的に見えることさえあったという。2

   第二の引力は、本町、大伝馬町、堀留辺には有名の大商家軒を並べゐるが、一朝この辺が火災になれば出入りの諸職人は三年遊んで喰へるとの譬へあるほどゆゑ、力を尽くして消防するや否や覚束なく思はるるなり。

 町火消が復興需要の増大のために本気で消火活動をしなかったというのは聞き捨てならない話である。それは事実なのか。そもそも町火消の消化能力について著者はどのように見ていたのか。それは、一言で言うなら、「意気盛んだが実力はない」という極めて厳しいものだった。

  元来、江戸の消防夫の意気はすこぶる盛んにして古武士の勇あれども、消防の真の力甚だ乏しきものなりき。消防具のごときはなしと断言する憚らず。蔀(しとみ)をはがし塀を破り火勢の連絡を断つの作業は、ほとんど器械を使用せず。稀に刺又を用いて棟木を倒すぐらゐの用をなすに過ぎず、鳶口は喧嘩の時に使用するのみ、消防用に用ひず。竜吐水は纏持ち(まといもち)に水をそそぐくらゐにて消火には大なる役には立ぬものなり。

 実力不足の原因は、装備の乏しさにあった

不利な条件のもとで個々の町火消はむしろがんばっていたと言ってよさそうである。ほとんど消火の不可能な状況で町火消は人命救助に努め、しばしばこれを成し遂げていた。わが身を顧みない町火消の勇猛果敢な救援活動に江戸市民は拍手喝采したのである。

 『纏持は纏の反面黒こげになるも容易に去らざるを自慢となす。この不完全の水の手消防の不備のうちに、ある特種の場合に四面猛火に包まれ家屋を安全に救助せる例しばしばあり。人を驚嘆せしめしことは毎度なり。

 火災の被害は甚大だった。火災保険のない時代である。中流以下の被災者は無一文から出直さなければならなかった。

今日のごとく火災保険、家具保険等のなき当時にては、三十分前までは大身代の大尽も焼失後は無一物となり、家族打ち集り悲歎に暮るるの例は年ごとに何百人といふを知らす。御府内居住の中流以上の家族が零落せる話を聞くに、十の七八は何々の火事に丸焼やけになって以来かくのごとくの身分に落ちぶれました、と語るもの多かりしは事実なり。

 中流以下の家族の被害が大きかった原因には、借家ではなく無理をしてでも持ち家を望んだ江戸っ子のいわば「見栄っ張り」の気質も影響していた。富裕層は土蔵を作って財産を守ったが、中流以下の江戸っ子の家屋に土蔵はなく、つくりもお粗末であった。

その家屋は割合に粗造のもの多し。その故はとかく江戸っ子は借家住居を恥とし、商人は店の代呂物(しろもの)に入れる資本よりもまづは家を建つるを誉とす。火災保険などのなき時代に一年に二度または三度も類焼すること珍しからぬ上に、それを我慢に借金しても家を建つるゆゑ、きりぎりす籠然たる建物の多きもまた当然なり。それゆえ富豪は多く土蔵となす。

 立ち位置が違えば同じ景色も違って見えるものである。あるいは目の付け所が違うと言ったらいいのか。本書の考察は学者の分析とは一味も二味も違って新鮮で興味深くおもしろい。著者は時代の生き証人であり、資料やデータをもとに歴史を編纂する学者ではない。その立ち位置は武士でも町火消でもない市井の江戸市民である。この連載の3回目で紹介した文化人類学者による町火消についての見事な考察と比較して感じることは、データや資料解読から生み出される歴史描写ではこぼれ落ちてしまう、いわば「時代の息吹」とでもいうべきものは、ことばでしか伝わらないということである。

 歴史の真実によりいっそう近づくためには、資料やデータに基づく分析だけではなく、その時代に生きた人々の生の証言を聞かなければならない。

正しい歴史認識には、データや資料の分析と生き証人の証言の両方が必要なのである。

 今日、事実認定において統計データによるいわゆるエビデンスが重視される。しかしながら、データになりにくいもの(例えば美しさやおいしさなどの主観的感情など)をデータ化する場合には細心の注意が必要であり、その結果には謙虚であるべきだ。歴史に関して言えば、私はむしろその時代に生きた人たちの発した「ことば」の中に時代の真実が隠れているのではないかと思う。

 今という時代の息吹を後の世代に伝えるために、私たちはもっとことばを大切にするべきではないだろうか。もっとことばに注意を払い、ひとりひとりが誠実な発言を心掛けるなら、「時代の息吹」は後世の人びとにいきいきと伝わり、真実の歴史認識に貢献するに違いない。

1   部分 本書より引用

2 町火消だけでは生計が成り立たず、ほとんどの町火消は職人との兼業だった

鎮火安心圖巻-上 .JPG

町火消(三番組の各組)の勢揃い

み組の火消道具の編成が描かれている。









鎮火安心圖巻-中 .JPG

  

町火消二番組、五番組の活躍

屋根に上がった纏いとそれに水をかける龍吐水








鎮火安心圖巻-下.JPG


鎮圧後の町火消八番組(ほ組、か組、た組)と
船に避難した町の人々

国立国会図書館デジタルコレクション  

鎮火安心圖巻」 より





嘉永七年甲寅孟秋、武州豊嶋郡峡田領住人、鬼蔦齋書画」と奥書に記されている。作者は峡田領(現在の三河島、町屋一帯は上野寛永寺の領地だったころ峡田(はけた)領とよばれていた。)の人で嘉永年間(18481854)ごろの様子を描いたもの。


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