日本の大道芸と物売り芸

はじめに

 現在大道芸と言えばジャグリンガやパントマイム、パフォーマンス等を思い浮かべるようになったが、日本にも古来から伝わる大道芸がある。そんな日本の大道芸の紹介をしたい。

 古来から伝わる日本の大道芸は 「物売り系」と「芸能系」に大別される。
「物売り系」は、零細商人の人集め手段が芸に昇華したものである。従って芸では銭をとらず集まった人たちに何らかの商品を渡して対価を得ていた。
 これに対し「芸能系」は、芸自体が商品であるから見た人からは当然のように投げ銭を受けていた。

 そんな物売り系大道芸は、交易と共に始まった。『魏志倭人伝』は、邪馬台国の時代から壱岐や対馬の人々は、すでに各地を回って交易(南北市糴<なんぼくにしてき>)していたと記している。当事のことだから当然露天での対面販売であっただろうが、早く売るためには付加価値を付けた方がいいことは現在と同じである。その付加価値が話芸であり話術である。こうして物売り系大道芸が芽生えた。

 これに対し芸能系大道芸は、天応二年(七八二)七月、桓武天皇が雅楽寮内の散楽戸(雑芸能)を廃止したことに端を発す。職を失った芸人たちは漂泊民となり、散所(不毛の地、又は底へ居住する人たち)や河原へ集まり、そこで芸を披露するようになった。
 こうして散楽は庶民の眼に触れるようになり、田楽や猿楽、蜘舞などへ変化する。猿楽は散楽の音便変化したものであり、ものまね等の滑稽芸を中心に発展したものである。正徳二年(一七一二) 板行の『和漢三才図会』には「幻 戯」(めくらまし)「高絙」(つなわたり)「籠脱」(かごぬけ)「堅物(たてもの)<梯子つかい>」を載せている。

物売り系大道芸

物売り系大道芸の発祥は交易と共に始まると言っても、発展するには時間的経過と経済的ゆとりを必要とする。
京都を中心に上方では室町時代から、新興都市江戸では元禄(一六八八~一七〇四) 以降享保年間(一七一六~三六)頃からであろう。『山城名勝志』「四条立売」に、北朝の応安二年(一 三六九)のこととして次のように記す。
  ○四条立売(今東ノ洞院ノ東富ノ小路二丁ノ之間ヲ号四条立売) 建武以来追加(禁制)
  一ヤクヲコボチウル事 付車クレノ商賈四条町の立ウリ云々
  (軛 を 壊ち 売ること)
  応安二年二月廿七

軛につながれた牛 .JPG


(軛につながれた牛)
「軛」とは「くびき」の事、くびきは首木で、 牛馬などを車につなぐ際首に当て車の輸につないだ。転じて人間の引く荷車等でも物をつなぐ前木をそう呼んだ。
これを壊されると力が入らず重い荷は牽けなくなる。 _
『人倫訓蒙図彙』(元禄三=一六九○板)の「口上商人(あきんど)〈=後の香具師〉」の条に、次のように書く。
万(よろづ)の合薬(あわせぐすり)ならびに鬢付(びんつけ)の類 諸方の市 法会の場等に出 弁舌をもてこれを売る 又は神を誓ひ蛇(くちなわ)を見せ 操(あやつり)
人形を出 物真似をして人を集めてこれを商ふ 顔(つら)の皮一枚の商ひなり

 元禄時代頃まではまだ香具師という言葉がなかったと見え「口上商人」という言い方をしている。
しかし商売の仕方は香具師と同じである。そんな香具師は、元来薬師であり薬売りの事であった。 だから彼らが祖神と仰ぐ「神農黄帝」は、薬屋(製薬会社)の職業神「炎帝神農」と同じなのである。 共に「百艸を嘗めて医薬を知り」に由来している。それ故藩政時代を通じて香具師は薬売りを称していた。それを認めたのが町奉行の大岡越前守であるが、その前に、江戸の物売り事情について少し述べておくと、文政十三年(一八三〇)に書かれた風俗事典『嬉遊笑覧』が次のように纏めている。
  江戸にも京橋に立売といふ処あり 『事績合考』(明和九年=一七七二跋)に ここの事古老の物語を記して云 寛文(一六六一~七三)の頃まで様々の商人おのれおのれが売  物を持て立ならび売たり。刀脇差などの商人弁舌切らして売たるなり。万商ひかくのごとし。四谷本郷浅草芝の端々より出て買たる事故殊の外賑なりし 其後夥しく端々  商店出来て自由になり いっとなく買に来る人なく 物売絶たり。又立売と云ふ名はあらねども是よりさき慶長(一五九六~一 四)の頃『耳聞集』(弘化五年=一八四八板)  に 大橋に毎日刀市立しことをいへり 大橋とは今の常盤橋なり 立ちながら売るゆえ立売といひたるなり

 寛文頃までは、売人が直接商品を持参していた江戸も、次の時代(延宝=一六七三~天和一六八一〜貞享=一六八四~元禄=一六八八~)と進むにつれ、町並みも整い商店も出来るようになった。が、京都や大阪をしのぐようになったのは享保年間頃である。それ以降も江戸の町の発展は続き、享保(一七一六~三六)頃になると名実ともに大都市が完成した。大岡越前守が江戸の町奉行へ就任したのは享保二年である。翌三年から物売り系大道芸人の集団である香具師と接触し、同二十年までに彼らを幕府の末端組織へ組み込む。全国組織である事を利用して、諸藩に入り込みスパイ! 活動をさせるためである。
 だから明治になると維新政府が太政官布告で香具師を禁止されるのである。
  ○明治五年七月八日     太政官布告
  従来香具師ト唱へ来候名目自今被廃止候事
  但銘々商売ノ儀ハ可為勝手事

 以来、「商売ノ儀」を続ける「旧香具師」についての呼称は「テキヤ」となり現在まで続いているのである。由来についてははっきりしないが、規制を逃れるための業界共通語として適当(適当 屋→適屋→テキ屋)に考えられたようである。
 最近は寺社の縁日を主要な商売の場としているようだが、元々人の集まるところなら 何処ででも商売していたし、他地域でも人の多く集まるところなら 何処にでも見世を構えた。平日に店を出す事を「平日<ひらび>」、縁日など特定の日に限る場所を「高市<たかまち>」という。規模によって「大高市<おおたかまち>」等の呼び名があり、全国の祭りや規模を記した「高市帳<たかまちちよう>」もあった。

芸能系大道芸

 物売り系大道芸(香具師)が、幕府末端組織へ組み入れられた頃と前後して、芸能系大道芸も又改組されたようである。芸能系大道芸は、当初穢多頭・弾左衛門の直接支配を受けていた。これが後に非人配下の「乞胸<ごうむね>」に変わるのだが、頂点にいたのは弾左衛門であることに変わりはない。

そんな芸能系大道芸組織をわかりやすいよう、一表に示すと下記の通り(参考のため物売り系と共に示す)。

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この記事について

このページは、江戸東京下町文化研究会が2022年10月18日 20:34に書いた記事です。

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