第四巻 元禄武士道

第四巻 元禄武士道

― 浅野家残党、吉良邸討入事件 ―


陰暦1702年12月14日(新暦 1703.1.30) ― 寅の上刻(15日の午前3時〜3時40分)。
有明の月が昨日からの積雪を皓々と照らし出し、界隈には月と雪以外なにものも見えなかった。
このときである。静寂の隙間から、いずれも鎖帷子を着用し、槍、刀などの武器を持った異様な男たちが降って湧いたようにして現われ、本所二ツ目の吉良邸へと向って行った。
男たちは、旧赤穂藩の浪人47名であった。
一隊は吉良邸に着くや、素早く表門隊23名、裏門隊24名の二手に分かれ、表門隊は梯子をかけて塀を登り、裏門隊は杉野十平次(27歳)が大槌で打ち破って、全員が邸内へ侵入した。表門隊は大石内蔵助良雄(44歳)、裏門隊は内蔵助の嫡男大石主税良金(15歳)がが指揮をとっていた。内蔵助は丸顔でやや小太りであったが、主税は父親とはちがって堂々たる体格の若者であった。
連中は終始無言であったから、大槌が門を打ち破る音だけが真夜中の空に不気味に響いた。
吉良邸に突入した二隊は素早く準備体制を敷いた。
先ず、堀部弥兵衛(76歳)が起案した《口上書》を竹の先に結えて庭に立てた。《口上書》には浅野家残党と吉良上野介義央の喧嘩開始の挨拶が記してあった。同時に片岡源五衛門(36歳)が北側に隣接する旗本・土屋主税逵直、そして福井藩家老・本多孫太郎長員の屋敷の塀越に、喧嘩開始を大音声で伝えた。この口上自体が「たかが喧嘩、よって手出し無用」を意味していた。それでも助太刀が現れないともかぎらない。そこで内蔵助は土屋主税の動きが鍵になると睨んだ。土屋主税は元久留里藩主・土屋直樹の子であるが、父が改易となったため今は旗本の身分であった。また主税の奥方は八百屋お七の裁きの際に温情を示した南町奉行の甲斐庄正親の妹だった。そのせいか、主税は人情派の旗本として知られていた。ゆえに、「先ずは土屋様に挨拶を」と内蔵助は指示をしていた。読み通り、源五衛門が叫び終わると、土屋屋敷は提灯を塀に並べてくれた。「頑張れ」の声援の表われである。その隣の本多屋敷の主は江戸常勤の役ではない、よって不在のはず。留守役では判断力が弱い。だから、本多屋敷は土屋屋敷の動きに倣うだろう。そして隣接する二つの屋敷がこれであれば、離れた所に構える諸屋敷は静観せざるを得ない。さすれば、吉良邸は孤立化する。遠くまで聞き耳を立てていた内蔵助は、騒ぎが起こっていない様子を確認するや、「土屋殿、かたじけない」とばかりに肯いた。
内蔵助の目の前では、磯貝十郎左衛門(24歳)が、邸内のあちこちに灯火を立てて明るく照らし出した。そのため仲間たちが屋敷内を明確につかむことができた。
潮田又之丞(34歳)が手に入れてきた屋敷図を何度も見て部屋の配置を頭に叩き込んでいた小野寺幸右衛門(27歳)は、武器庫へ走って弓弦を切り、吉良側の飛び道具の使用を不能にした。
その間に源五衛門らの、四方八方への喧嘩宣言も一通り終了した。

内蔵助は、この仇討ちを幕府から「反逆」や「反乱」と見られることを避けるため、常々「たかが男の喧嘩だ」と言っていた。しかし、その割には大石内蔵助はすべからく用意周到な男であった。口では喧嘩と称しながら、やることは戦を想定していた。表門と裏門の連絡係を置き、暗隅での同志確認には「山」「川」の合言葉を用い、携帯品には薬まで揃えていた。
内蔵助は子供のころからの経験で、喧嘩のコツを知っていた。「当たって砕けろ」は無謀であることを、それは勝つことがほとんど稀であることを・・・・・・。それよりか、こうした一つひとつの準備行為、たとえば弓弦を切ることによって自分たちの小さな勝利感や自信がわいてくる。だから、内蔵助は隊員を準備に走り回らせる。ただし、疲れすぎない程度にである。これが内蔵助の深慮であった。
内蔵助が学んだ軍学『東軍流』には「紫の巻」という戦略があった。この紫というのは、赤と青、つまり陽と陰の両面を併せ持つという意であった。そこからすべからく思考、戦略は両面をとるべしというのである。
大石はこの紫の戦略にしたがって、浅野家再興、吉良上野介の仇討ちの両面を志向し、今日の喧嘩においては攻撃と防御の点から作戦を練った。
なにせ、わが一党の平均年齢は37.6歳、対する吉良側は調べによると25歳前後と見受けられる。
大石は攻撃組に青年を投入、防御組に中高年を当てた。とくに高齢者は表、裏門の守備組として配置し、攻撃組は中・青年の三人一組制にし、頭を中年者とし、現場での指示や突差の判断はこの頭に一任した。


そうした上で、さあ一世一代の大喧嘩である。
「目指すは、吉良上野介義央の首!」大石は力強く命じた。
間瀬孫九郎(22歳)らが侍長屋へ走り、飛び出そうとする吉良側の侍を短槍で抑えた。このとき吉良家の家老・小林平八郎、中小姓の齋藤清左衛門、鈴木杢右衛門がやられた。
浅野組は大音声で叫ぶ。「五番隊50名突入!」
すると、馬屋の方に走った組も叫ぶ。「七番隊50名、かかれッ!」
すべて敵を攪乱させる威嚇作戦であった。
玄関へ走った三人組は、家老の長子・左右田源八郎、足軽小頭の大河内六郎左衛門、若い茶坊主の鈴木松竹を斬った。
「トーッ!」 連中は斬るとき、腹の底から思い切り気合をかけた。これは剣の達人・堀部安兵衛(33歳)の日頃の指導であった。「斬り合いは、しょせん喧嘩。その喧嘩は、人の喧嘩も犬の喧嘩も変わりはしない。相手に向かって、思い切り吼えろ。噛み付け!」というのである。確かに、気合がでかければ、それだけおのれ自身に力が湧き、また敵への威嚇にもなる。
ただ、これらは戦いの最中のこと。それよりも内蔵助や安兵衛が一番心配していたのは、仇討ちまでの長い月日における、士気の低下と腕の鈍りである。安兵衛は、「庭に岩を運び入れ、毎日持ち上げて体力を鍛えろ」、「剣術の練習を見るだけでもちがう。道場で座って、見てろ」と皆に要求した。
今宵、討入隊は、安兵衛と杉野十平次と前原伊助(39歳)の借宅に分かれて集合した。そのうちの前原伊助、神崎与五郎(37歳)、倉橋伝助(33歳)、岡野金右衛門(23歳)は、本所二ツ目相生町一丁目に潜伏し、吉良邸を探っていたが、安兵衛は横川勘平(36歳)、木村岡右衛門(45歳)らと、本所林町五丁目の江戸崎屋三右衛門店に剣術指南の看板を掲げていた。また杉野十平次も同じく剣術指南として、本所徳右衛門町一丁目に、同居人武林唯七(31歳)と勝田新左衛門(23歳)と共に住んでいた。赤穂の残党は交代で、これらの道場に顔を出して、戦意喪失と剣使いのコツを忘れないように努めていた。
そんな安兵衛の指導振りを見て、内蔵助は苦笑いをしながら感心したものだった。「勇ましい武闘派の安兵衛と、用心深い私と、思うことは同じだな」と。

 内蔵助が見るところ、隊員はいずれも見事な働きを示していた。
「三番隊、敵11名、討ち取ったり!」また庭の方から大音声が飛んできた。
何しろ、吉良側にとっては、明け方の不意打ちである。何がどうなっているのかの判らなずいるとき、不利な情報だけが聞こえてくる。当然不安と恐怖感に襲われる。そこへ突然三人組に取り囲まれる。冷静であれば、敵方も複数になって反撃することも可能であろうが、そのゆとりはない。寝卷姿のままの吉良家の武士たちは、ただ盲滅法に刀を振りまわすだけであった。
そんな中、広間では中小姓の新貝弥七郎と山吉新八郎と小堺源次郎の3人が、激しく抵抗してきた。うち弥七郎と源次郎が玄関の方へ逃げたため、討入組は2人を追って、斬った。書院次の間では笠原長太郎が一刀の下に斬られた。
浅野組は段々荒々しくなってきた。板戸を蹴飛ばし、襖を斬って、上野介を探し、邸内を走り回った。
座敷の庭では堀部安兵衛が吉良家の用人・鳥居利右衛門と激しく闘っていたが、年輩の利右衛門は力尽き、ついに安兵衛の強烈な刀に倒された。
吉良上野介の養子である吉良左兵衛義周も長刀を持って果敢に挑んできたが、眉間と肩を斬られ、肋骨を折って昏倒してしまった。
広間から脱した山吉新八郎は庭の池の端で近松勘六(28歳)と死闘を繰り広げたが、勘六に鬢から口にかけてザックリ斬られ、新八郎は池の中に倒れた。斬った勘六の方も負傷していた。
浅野党の三人組制、すなわち三対一は九対一の効果を発揮し、すべての局地戦において勝利していた。
屋敷内から逃げだそうとする者は、浅野家きっての弓の名手・早水藤左衛門(38歳)が矢を放った。
激闘は1時間以上続いた。
中には矢田五郎右衛門(28歳)のように刀が折れてしまったため、敵の刀を奪って戦う者もおり、向って来る敵は全て斬り伏せられた。
逃げた者は邸内に隠れているかもしれないが、大掃除は終わったはずである。だが、肝腎の上野介の姿がない。
内蔵助が目論でいることは「完璧な勝利」、つまり「味方は無傷、上野介の首は獲る」ことであった。首を獲らずには、大喧嘩にならない。単なる脅しだ。上野介への脅し、それは通用しない。主君浅野内匠頭と同じく、無念の道を歩むことになる。


寅の下刻(午前4時20分〜5時)になった。
「上野介は何処に隠れておる!」大高源五(31歳)が必死になって邸内を探し回った。「今日、必ず上野介は在邸している」との自分の情報で、この日の討ち入りが決定した。それだけに責任重大である。
内蔵助も東の空を見た。あと30分ほどで夜が明ける。梃摺れば上野介の妻の実家である上杉家から援軍が駆け付ける。そうなると近隣の屋敷は勝組に乗じようとし、形勢は逆転、包囲される。包囲とは目の前のことばかりではない。世間からも包囲されることを意味する。内蔵助は内心、やや焦りが沸いてきた。それでも、口にした指示は「時間はある。草の根を抜いても徹底的に探し出せ」だった。「時間はある」とはイザとなったら全員自決の腹を決めるという意でもあった。囲まれたときはこの場で自決、無益な戦いは挑まない。これも内蔵助が描いていた完璧なる勝利のひとつであった。

吉田忠左衛門(63歳)と千馬三郎兵衛(50歳)と間重治郎(25歳)が台所横の茶道具収納部屋までやって来た。すると収納部屋から音にならないていどの気配がする。三人は戸を蹴破って踏み込んだ。
とたんに食器やら炭などが飛んでくる。
「そこにいたかッ」重治郎が声を発すると、男が二人飛び出して、そのまま斬りかかってきた。中小姓の大須賀治郎右衛門と清水逸学だった。二人は横の台所へ走った。それを三郎兵衛らが追った。一番若い男は「清水逸学」と名乗って、三郎兵衛と対した。その落ち着いた構えから、かなり腕が立ちそうだった。そこへ早水藤左衛門、赤植源蔵(34歳)、潮田又之丞が飛んできた。吉良側は近習の榊原平右衛門が加わった。
さらに浅野党は、堀部安兵衛、矢田五郎衛門(28歳)らが走って来た。
連中は吉良の家臣の中では腕の立つ武士であった。が、なにせ多勢に無勢、ほどなく逸学が安兵衛に斬り伏せられ、他の二人もすぐにやられた。
そのときである。もう一人、物置部屋から、脇差を抜いた男が飛びかかってきた。これを重治郎が槍で突いた。男は老人であった。老人は「もはやこれまで」と覚悟したのか、尻餅をついて脇差を投げ出そうとした。
同時に武林唯七が老人を一刀の下に斬り捨てた。
「うあっ」老人は悲鳴をあげ、絶命した。
横たわった老人をよく見れば、着ているもの、身に着けているものが上等品である。「この老人は何者か?」安兵衛と唯七が顔を見合わせ、同時に忠左衛門の方を見た。忠左衛門も肯いた。「もしや、この男が上野介か?」というわけである。五郎衛門が走り、吉良家の馬番を引っ張って来た。
馬番は震えながら、頷く。
「やはり、そうか!」
五郎衛門が手を放すと、馬番は転がるようにして逃げ出した。
「ピー!」忠左衛門が笛を鳴らした。
「ついに討ち取ったか」と内蔵助ら一党が駆けて来た。
一同は「この男が主君の仇吉良上野介か」と老人の顔を見た。額には確かに傷跡がある。内蔵助は念には念をとさらに検分させた。着物をはがせると、背中にも傷跡がある。主君浅野内匠頭が江戸城松之廊下で切り付けたときものに間違いない。内蔵助は確信した。
「一番槍は、誰だ?」
重治郎が前に進み出た。
内蔵助は命じた。
「首を!」
「はッ」
重治郎は柄を絞るように握り締め、腰を落として太刀を上段に構え、瞬時目を閉じるや、すぐにカッと見開いて、息を止め、一気に太刀を振り下した。
バサッ!
重治郎の稲妻のような殺気が、松の枝に積っていた雪までも落とした。
重治郎は人の首を落としたのは初めてであった。わが人生最大の出来事、その達成感と疲労感が、肩へズシリときた。
 「終わった。」
 男たちは泣いた。
 「エイ、エイ、オー!」原惣右衛門(55歳)と間瀬久太夫(62歳)が音頭をとって、感涙の勝鬨を上げた。

 あとは仕上げだけだった。
 内蔵助は、再び近隣の屋敷へいちいち挨拶に回らせ、その上で火の後始末に気を配った。襲撃後、無人屋敷同然となったところに火でも回れば、討入隊のせいにされ、名を汚すことになる。
それらを確認したところで、内蔵助は引き上げの合図をした。
吉良上野介義央の首は間重治郎が、その槍に括り付けた。

表門前には、近松勘六の家僕・甚三郎が待っていた。勘六は浪人になったとき甚三郎に暇をやったのであるが、「どうしても旦那様に付いていきます」と言って、今日まで行動を共にしていたのである。その甚三郎が「勘六様! ご本懐、おめでとうございます」と叫びながら飛んできた。勘六は山吉新八郎との闘いで負傷したため、腹違いの弟・奥田貞右衛門(25歳)の肩をかりていた。それを見るや、甚三郎は勘六に縋って泣き始めた。勘六と貞右衛門は甚三郎をなだめ、歩き出そうとした。
すると、甚三郎は大きな風呂敷包をほどいて、「おめでとうございます。御祝義でございます」と言いながら、47名に餅と密疳を配り始めた。
「かたぢけない」と言って、皆はそれを大事そうに懐へ仕舞い、両国橋東詰へと移動し、そこで束の間の休息をとった。
「丁度腹が減っていたところじゃ」と言って、餅を喰う者、密疳を割る者もいた。辺りには餅の匂いや密疳の香りが流れ、疲れ切っていた四十七名の顔に生気も戻ってきた。
やがて、「甚三郎、わが生涯で一番旨い餅じゃった。礼を言うぞ。」勘六がそういうと甚三郎は、「旦那様ッ」と言ってその場に泣き崩れた。
「さあ、出発じゃ。」内蔵助が静かに、しかし力強く号令をかけた。
皆は立ちあがった。
目指すは主君浅野内匠頭が眠る高輪の泉岳寺であった。

途中、一党は永代橋の手前にあった味噌問屋「乳熊屋」までやって来た。ここの主人の作兵衛は大高源吾と共に、俳諧師・宝井其角の門人だったため、暖かい甘酒で迎えてくれた。
ここで、内蔵助は吉田忠左衛門を呼び、彼の使用人である寺坂吉右衛門を列から解き放ち仇討ち成功の報告のため広島の浅野家へ発たせた。一行は赤穂の浪人47名の吉良邸討ち入りの生証人として、また語り部として、生き残ることを願って見送った。
また、吉田忠左衛門も、冨森助右衛門(33歳)と共に、討入の一部始終を報告するために、赤坂汐見坂下の大目付千石伯耆守久尚の屋敷へ向かった。


こうして浅野家の討入隊が泉岳寺に到着したのは、辰の下刻(午前8時20分〜9時)であった。大石内蔵助らは住持の酬山長恩に迎えられ、すぐに主君の墓前に吉良上野介の首級を供えて仇討ちを報告した。
それから泉岳寺の計らいで、酒と食事が供された。
内蔵助らは、万感の思いをもって杯を押し頂き、喉を潤した。酒が身体中の筋肉と神経を解してくれた。
思えば、われらは浅野家再興、吉良上野介の仇討ちの両方を目標に過ごしてきた。うち、仇討ちは本日果たすことができた。残るは浅野家再興。しかし、これは世間の空気からほとんど可能性がないことを悟っていた。これまでは、武士は出世や金のために命を投げ出すことが仕事であった。しかし時代が落ち着き、幕府の目がゆき届くようになると、昔のように命を投げ出してでもという武士のあり方が通用しなくなってきていた。だからわれら47人が腹を切ったとしても、浅野家再興はあり得ないだろう。主君の切腹事件を見ても、手柄よりむしろ失敗を恐れなくてはならない時代である。決して口には出せないが、内匠頭様は犬死であった。それゆえに、残された旧赤穂藩の浪人たちは主君の汚名をまとったまま生きていかなければならなくなった。
となると、
「それでいいのか?」
これが遺臣たちに突き付けられた命題となった。
そこで、考えに考えを重ねた結果、辿り着いたのが「男の喧嘩論」であった。上野介の首を取り、われらも腹を切る。これは決してお上に対する反乱ではない。「名を取る」という、平和の時代の新しい武士道である。とはいっても、内蔵助は浅野家再興を決して捨ててはいなかった。ただ、それは一沫の希望に縋るというものではなく、「変化」あるときへの内蔵助の強かな心構えであった。
内蔵助はもう一杯呑み干した。
「さあ、幕閣どもよ、今度はどう出る! やられた吉良の義子左兵衛よ、残党どもよ、これからどう出る。仮に仇討ちをしようにも腹を切ったオレたちはもういない。絶対に、お前たちの手が届かない所だ。」
皆も、語らずとも納得の顔である。
「これが赤穂の武士道だ!」と。
内蔵助は肴を口にした。「汁、野菜の煮付けの、すべてが旨い。」
後段は蕎麦切だった。垂れ味噌に薬味の梅肉、陳皮、辛味大根、川海苔、鰹節を入れて、蕎麦切を啜る。
「あゝ、旨い♪」
もしかしたらこれが最後の食事かと思えば、味わいも一入である。一同も、食べ終わって箸を置いたが、いま生きているという感動に、震えるくらいの神々しさを覚えるであった。


                   【絵:川俣静(江戸ソバリエ)】

後 談
この事件では、浅野家の仇討組は近松勘六一人が深手を負ったにすぎなかった。対して、吉良上野介義央は首を落とされ、吉良家の者は四十数名も斬られた。
ただ激闘の中、跡継の吉良左兵衛義周だけは昏倒してしまった。そのためにとどめを刺されることなく生き延びて、事件後は領地没収、信州高島藩4代藩主諏訪安芸守忠虎にお預けの身となった。その蟄居生活は厳しく4年後(1706)に、とうとう21歳という若さで短い生涯を閉じた。その間、仕えていたのは近松勘六に斬られ、池の中に落ちたあの山吉新八郎、ただ一人だった。

                         〔完〕

参考:『すみだ歴史読本 忠臣蔵外伝「その日の吉良邸」』(墨田区観光協会)





サイト名: 江戸東京下町文化研究会   http://www.edoshitamachi.com
この記事のURL:   http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd7/index.php?id=22