第一巻 勝海舟、サンフランシスコで月を詠む

第一巻 勝海舟、サンフランシスコで月を詠む

☆勝海舟(1823〜1899)
勝 麟太郎。本所にて生まれる、父は旗本小普請組 勝小吉。直心影流剣術免許皆伝。赤坂にて蘭学塾「氷解塾」を開く。長崎海軍伝習所に入所。咸臨丸にて渡米。神戸海軍操練所を開設。江戸城無血開城を実現。明治維新政府の参議・海軍卿・伯爵。

客臨丸、サンフランシスコ湾に入る

用心しながら船はゆっくりと進んでいった。安政7年2月26日(太陽暦アメリカ時間:1860年3月17日)の今日、アメリカの西海岸が咸臨丸の乗組員たちの眼に入るはずだった。未明には咸臨丸はSan Francisco湾に入っているものと思われたが、一帯を覆う濃霧のために何も見えなかった。しかも昨日までは吹雪や霰に襲われ、さすがの水夫たちも寒気に疲れ果てていた。

やがて、陽が昇るにつれ、左方の雲間に山が浮かんでいるのがぼんやり見えてきた。峰々が長く続いている。右に目を移すと、島が在った。さらに近づいていくと、市街が段々はっきりしてきた。初めて目にする異国の街サンフランシスコは山を背にして海に明るく臨んでいた。目を凝らして見れば、大砲がずらりと並んでいる。まるで城累のようであった。

乗組員たちは甲板に集まっていた。我を忘れて佇む者もいた。「アメリカだ、アメリカだ。とうとうアメリカに着いたぞ!」と叫びながら船の上を走り出す者もいた。

このときの咸臨丸の乗組員は、 軍艦奉行(アドミラル):木村摂津守嘉毅(31歳)、船将(キャプテン):勝麟太郎(38歳)をはじめとして計94名だった。
木村摂津守嘉毅、 勝麟太郎、 佐々倉桐太郎、 鈴藤勇次郎、 浜口興右衛門、 根津欽次郎、 小野友五郎、 伴鉄太郎、 松岡盤吉、 赤松大三郎、 肥田浜五郎、 山本金次郎、 岡田井蔵、 小杉雅之進、 中浜万次郎、 吉岡勇平、 小永井五八郎、 牧山修卿、 田中秀安、 中村清太郎、 木村宋俊、 大橋栄次、 福沢諭吉、 長尾幸作、 齋藤留蔵、 秀島藤之助の、士官26名、

船大工・鍛冶役2名、
塩飽衆水夫35名、
長崎出身の水夫31名、

咸臨丸が浦賀港を出帆したのは今年の1月19日だった。

幕府が北米合衆国へ日米条約批准交換のための使節(正使:新見豊前守正興、副使:村垣淡路守範正、目付:小栗豊後守忠順)を派遣することを決めた。その使節団が乗る米国軍艦Pawhattan号の先駆けとして、咸臨丸はサンフランシスコに直航したのであった。難破した米艦の海軍士官John M. Brookeら11名が乗船しているとはいえ、日本人だけで太平洋を横断してアメリカへ向かうことは、日本国開闢以来の大冒険であった。

出港の日、浦賀の海は西風が強かったが、空は快晴であった。


          【浦賀、咸臨丸出航記念碑】

しかし振り返ってみると、この37日間の航海中はほとんどが雨混じりの日や嵐の日ばかりで、晴れた日は僅か5、6日しかなかった。船は連日大揺れで、飯すらも椀いっぱいに詰め込んでその上から汁をぶっかけ、立って食べる始末であった。そのことに士官たちは苛立ち、水夫に当たった。しかし水夫たちは荒っぽい。刺青をしている男も何人もいた。そんな水夫たちと士官がいがみ合うことも多々あったが、それも今日で終わりだ。

咸臨丸はサンフランシスコ湾の第九埠頭辺りに投錨した。

          【サンフランシスコ、咸臨丸入港記念碑】




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