猿若町
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〖江戸東京下町地名めぐり〗
【猿若町】
幕命により、突然誕生した芝居町「猿若町」天保13年(1842年)〜昭和41年(1966年)の町名。 町名は江戸歌舞伎の創始者猿若(中村)勘三郎にちなむ。
老中水野越前守忠邦は天保改革の一環(風俗取締・著侈の禁止)として、 天保13年(1841年)10月7日、堺町と葺屋町の芝居小屋が焼けたのを機に、江戸の中心街から離れた当地に移転を命じた。 そして町を三分し、一丁目に中村座、二丁目に市村座、三丁目に河原崎座が小屋掛けして、芝居興行を始めた。(天保14年秋、浅草寺北方に芝居街が完成) 当地は浅草山之宿町に属したので古川柳に「とんだこと山が川原になりました」とある。江戸歌舞伎の三座、操人形の二座があったので、浅草猿若町は、芝居街あるいは興行街だった。 幕末から、慶応二年、大薩摩座筋違橋外ヘ、結城座米沢町ヘ、 明治5年、守田座新富町ヘ移転。 同17年、猿若座(旧中村座)西鳥越移転。 同25年、市村座二長町ヘ移る。 浅草猿若町は、こうして芝居街から一般の町に大変身。 そして昭和41年10月1日、住居表示制度の実施で、浅草猿若町一・ニ・三丁目の名は消減、全域浅草六丁目に編入。 現在、芝居街猿若町の面影は全く残されていない。
左【江戸猿若町市村座跡の碑】 右【江戸芝屋街猿若町の碑】 守田座跡の碑、これら三碑が建っているだけである。
歌川広重『東都名所 芝居町繁榮之圖』 1843年頃の芝居見物客で賑わう江戸猿若町通り左側手前から中村座・市村座・河原崎座。 それぞれの芝居小屋の入口上方には櫓があがっている。 天保末年 (1843-44)
参考文献/『角川日本地名大辞典』、『江戸浅草 町名の研究』
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