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【端午の節句】 5月5日は、徳川幕府は五節句の一つとして重要視をしてきた。

【端午の節句】 5月5日は、徳川幕府は五節句の一つとして重要視をしてきた。
投稿者sibugakisibugaki さんの画像をもっと!   前回更新2025-5-5 23:18    
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画像>『東都歳事記』 「端午市井図(たんごしいのず)」一部 (国立国会図書館蔵)
天保9年(1838)刊の『東都歳事記(とうとさいじき)』に描かれた、江戸の端午の節句の風景。道には、鍾馗様ののぼり、家紋を染めた旗(上:その家の家紋・下:母方の家紋)、鯉のぼりや吹流しがはためき、店には、甲をはじめ武者人形が並べられている。

 5月5日のことを、近頃では、「端午(たんご)の節句」という言い方はあまりせず、もっぱら「子どもの日」と呼ぶようになった。
そもそも端午の節句とは、中国の厄払(やくはら)いの行事が日本に渡来し、大化の改新(645)以後に5月5日の行事に定められ、軒先に菖蒲(しょうぶ)や蓬(よもぎ)を掛けて邪気をはらう風習になったというから、歴史のある年中行事である。江戸時代になり宮中行事としては簡素化されたが、いっぱん庶民のあいだで盛んになったようである。

 江戸時代になって半世紀近くの慶安元年(1648)、この節句に飾る甲(かぶと)の豪華な拵(こしら)えを禁止する町触(まちぶ)れが出された。金糸・銀糸や梨子地(なしじ。うるし塗りに金銀の粉末で描く蒔絵〈まきえ〉)にしてはならないとの触れである。このことから立派な甲人形をあつらえる家もあったことがうかがわれる。   この町触れには、甲を飾ると同時に、軒先に飾る鍾馗(しょうき)や武者、鯉(こい)などを描いた小旗(今のような吹き流しではない)は、絹製ではなく布か木綿にするようにとある。また、豪華でない甲人形なら2、3体を飾ってもよろしいと書かれている。

関連情報はこちら>
>江戸言葉 月ごよみ 『端午の節句』
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/

>江戸の夏行事〜今に継承されているものの由来〜『暦日を踏襲した行事』
http://www.edoshitamachi.com/web/daidougei/

【江戸の物売り】-夏商い-金魚売り 〜夏の風物詩〜「目高かアー、金魚ウー」とよんで売りあるいた。

【江戸の物売り】-夏商い-金魚売り 〜夏の風物詩〜「目高かアー、金魚ウー」とよんで売りあるいた。
投稿者sibugakisibugaki さんの画像をもっと!   前回更新2025-5-5 23:10    
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画像>『世事画報』 市中世渡種 (金魚売) 尾形月耕(国立国会図書館蔵)

金魚屋・金魚うり>
金魚屋は「江戸鹿子」や「西鶴置土産」に、下谷池之端しんちうや市(郎)右衛門の名がある。幕末には本所割下水、谷中、根津、白金あたりに多くあった。金魚うり(物売り)の者はこれらの店から金魚を受けて、売り声も「目高かアー、金魚ウー」とよんで売りあるいた。
今は、こういった街中を売り歩く物売りそのものがいなくなってすっかり久しい・・・

金魚の歴史>
金魚(錦魚)は元和年中に南支那あたりから輸入された事は「和事始」や「大和本草」等にあり、 賞玩用としての流行は元禄以前からで、品評会風のものを、金魚の狂言と云った。

金魚の種類・価格>
『守貞漫稿』*に「形小、尾大にし大腹のものあり、常に尾を上に首に下に遊ぐ、京坂これを蘭虫(らんちゅう)と云う、まるっ子と云うは江人の訛りなり。 大腹に非ずして尾大の者を三都とも朝鮮と云う。各必ず尾は三尖なり。貴価の者は三〜五両に至る」とある。


*「守貞漫稿」(もりさだまんこう)
「江戸時代後期の三都(京都・大阪・江戸)の風俗や事物を説明した一種の類書(百科事典)。著者は喜田川守貞(本名:北川庄兵衛)で、1837年(天保8年)から約30年間にわたり執筆され、全35巻(「前集」30巻と「後集」5巻)にまとめた。この書籍は約1600点の図版と詳細な解説によって、近世風俗史の基本文献とされている。

関連情報はこちら>

>江戸言葉 月ごよみ 『江戸の売り声』
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/index.php?id=8

>江戸の夏行事〜今に継承されているものの由来〜『暦日を踏襲した行事』
"・http://www.edoshitamachi.com/web/daidougei/
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【三社祭】 2025年5月16日(金)〜18日(日) 墨田川を船で渡御する浅草三社権現の神輿

【三社祭】 2025年5月16日(金)〜18日(日) 墨田川を船で渡御する浅草三社権現の神輿
投稿者sibugakisibugaki さんの画像をもっと!   前回更新2025-5-4 17:56    
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画像>墨田川を船で渡御する浅草三社権現の神輿 
『東都歳事記 』三月十八日浅草三社権現祭礼- 国書データベース

『東都歳事記」の三社祭礼>
「東都歳事記』の著者である斎藤月岑の家は、先祖代々の町名主で、祖父の時代から「江戸名所図会」出版のために開始した事業を、父が受け継ぎ、さらに自分が引き継いだ。三代がかりで取り組んできたこの『江戸名所図会』 十冊を天保五年(一八三四)に、あと十冊を天保七年に出版した。この計二十冊は江戸の名所旧蹟や街道・海・川・四季の景観など きわめて詳細に記録。
『東都歳事記』の挿絵は、『江戸名所図会』の正確な写生画を描いた長谷川雪旦の絵。

 三社の祭礼については、ほかの祭礼には見られない隅田川の渡御を描かせた。この三体の神輿は、浅草寺の秘仏を隅田川から網で掬いあげ祀った土師中知(はじのまなかち)・檜前浜成(ひのくまのはまなり)・同竹成(たけなり)の三人を奉祀してあるので、船で隅田川を渡御するのが古来からの三社祭礼特別の行事であった。

 右端上部には「三月十八日」と記されており、左端には「三社権現御祭禮」と書かれた大幟が描かれている。絵の中央上部に最後と思われる三の宮の神輿船が見える。 図のように先端部に笹葉の ついた高い四本の竹に木綿垂(ゆうしで)を張り廻した神籬(ひもろぎ)を立てたなかに、神輿が鎮座している。その後方、右舷五挺・左舷五挺の五挺の艪(ろ)を漕いでいる。神輿の前舳先(へさき)側に幟が立っており、その幟と神輿の間に供奉(ぐぶ)の人たちが十数人乗っている。絵の左端中央部にまったく同じ、二の宮の神輿の船と思わ れるのが見える。
右下部に、今一の宮の神輿が上陸しようとしている様子が描かれている。四本の竹の神籬の中央から担ぎ上げられている。 その神輿のすぐ向こうの船には、ゆるやかな蒲鉾(かまぼこ)形の紅白と思われる大胆なデザインの屋根があり、そこに烏帽子(えぼし)狩衣かと思われる礼装に中啓(ちゅうけい)を持った貴人が乗っている。 同じ紅白屋根の船がもう一艘見え、その船には貴人が礼装で三人乗っている。 この絵には見えないが、おそらく同じ船がもう一艘、合計三艘、それぞれ一の宮・二の宮・三の宮の導師役を務めた浅草寺の高僧たちが乗っていたのであろう。二の宮船のすぐ右上の船では、三味線を弾いている人、大太鼓を叩く人、笛を吹いている人が見えるから、この船はおそらくもう二艘ほかにも供奉し、船上渡御中お囃子を演奏しつづけたのであろう。 (参考:『大江戸を歩く』浅草寺日並記研究会)

関連情報はこちら>

>最新ニュース 由来・行事紹介
 http://www.edoshitamachi.com/modules/news/article.php?storyid=480

>公式HP 浅草神社  
 https://www.asakusajinja.jp/sanjamatsuri

【神田祭】 2025年5月8日(木)〜15日(木)「神田衆 粋を競うや 衣装まで」

【神田祭】 2025年5月8日(木)〜15日(木)「神田衆 粋を競うや 衣装まで」
投稿者sibugakisibugaki さんの画像をもっと!   前回更新2025-5-4 17:51    
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画像>『江戸名所図会』 神田明神祭礼 (国立国会図書館蔵)

幟に「大江山凱陣(がいじん)」とある巨木な鬼の頭(かしら)。
昔から有名な源頼光(よりみつ)の大江山鬼退治の物語シーン。
その後ろではほら貝を鳴らして景気をつけている。
乗馬姿の武将が二騎、前は「渡辺の綱(つな)」、後ろに「公時(きんとき)」。

*『 江戸名所図会』(えどめいしょずえ ) は、全7巻・20冊からなる絵入りの江戸の地誌。親子孫〜三代で完成(斎藤幸雄<さいとゆきお>・ 幸孝<ゆきたか>・幸成<ゆきしげ>:月岑<げっしん>)。
第一巻から第三巻までの 10冊は天保5年〈1834年〉 、第四巻から第七巻までの 10冊は天保7年〈1836年〉に刊行。
寛政から天保に至る、江戸およびその近郊の町・神社・仏閣・名勝地・旧跡・橋・風俗などを多数の絵とともに説明。丁数で 1,160余、ページ数で 2,300余にのぼる大作。

江戸時代、中央区・千代田区を中心とした地域の祭礼>

 江戸時代、江戸では開府以来日吉山王権現(日枝神社)と神田明神は府内にある神社の中でも特に重んじられ、現在の中央区や千代田区を中心とする地域に数多くの氏子町を持ち、各町の氏子たちはその祭礼である山王祭・神田祭に参加していた。それらの町の中には双方の神社の氏子を兼ねているところがあり、また神田明神には境内に摂社として牛頭天王の三社が祀られていたが、その氏子には山王・神田の氏子にして更にこの天王社いずれかの氏子でもあるという町があった。山王祭と神田祭は隔年で交互に行なわれたが、天王三社の祭礼である天王祭は毎年行なわれた。町によっては、一年の内で二度も同じ町内で祭があったということである(なお霊岸島の地域は富岡八幡宮の祭礼にも氏子として参加していた)。このうち天王三社の祭礼については大伝馬町、南伝馬町、小舟町がそれぞれ宮元になっており、祭の名にその町名を冠していた 

 このうち天王三社の祭礼については大伝馬町、南伝馬町、小舟町がそれぞれ宮元になっており、祭の名にその町名を冠していた。これら合せて五つの社の祭礼の時期は以下の通り。
●大伝馬町天王祭(天王二之宮) 6月5日 – 8日
●南伝馬町天王祭(天王一之宮) 6月7日 – 14日
●小舟町天王祭(天王三之宮)  6月10日 – 13日
●山王祭(山王権現)           6月15日 – 16日
●神田祭(神田明神)           9月15日(以上いずれも旧暦)

山王祭と神田祭は天下祭とも呼ばれ、各町から数多くの山車練り物が出て列をなし、神輿に付き添うというものであったが、天王社の三つの祭は山車練り物は一切出ず、それぞれの神輿が氏子町に作られたお旅所に数日留まって各町を渡御した。(wikipedia・江戸祭礼氏子町一覧より)

江戸時代の神田祭巡行路>
 9月15日の暁丑の刻(午前2時頃)、江戸の町を埋め尽くす2年に一度の神田祭ははじまる。勢揃いした町々の山車や附祭は湯島聖堂前・桜の馬場を出発。同じころ神輿の行列や諸大名より出された警固役や神馬も大榊を先頭に神社を出て昌平坂を降り、ここで合流し神田祭の行列は完成する。行列は筋違橋御門から江戸城・外廓内へ入り神田の町々を渡り、さらに田安御門より内廓に入った。朝鮮馬場で一時休憩した後、上覧所前を通過する。上覧所では将軍や御台所(将軍の夫人)、大奥女中たちが祭を楽しんだ。そして行列は竹橋御門を経て大手橋と神田明神旧鎮座地にいたり、ここで獅子の狂いと神事が執り行われた。その後、常盤橋御門から江戸城外を出て町々の山車や附祭はここで解散、神輿の行列は日本橋の町々を通り、大伝馬町・小舟町・南伝馬町の御仮屋へ行き神事を執り行い神社へと向かう。神社への帰途、路次には町々が競って提灯を掲げ神輿の帰りを出迎えた。そして、戌ノ刻(午後8時ころ)頃、神社へ帰社し、天下祭・神田祭は終わりを遂げた。 
 (「江戸時代・神田祭の巡行路」より)


関連情報はこちら>
>公式HP 神田明神 
  https://www.kandamyoujin.or.jp/

>最新ニュース 行事・神輿・由来紹介
  http://www.edoshitamachi.com/modules/news/article.php?storyid=481

>水都江戸・東京物語〜「武蔵國・江戸物語」
  武士の先駆けだった平将門 (たいらのまさかど)
http://www.edoshitamachi.com/web/suitoedo/

>特別展 神田祭と日本橋−氏神・明神さまと氏子・室町一丁目會−
2025年5月7日(水)〜5月19日(月)
午前10時〜午後7時30分
日本橋三越本店 本館1階 中央ホール[入場無料]
https://www.mistore.jp/shopping/event/nihombashi_e/kandamatsuri_50


【蔦屋重三郎】大河ドラマ「べらぼう〜主人公〜蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)」

【蔦屋重三郎】大河ドラマ「べらぼう〜主人公〜蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)」高ヒット
投稿者sibugakisibugaki さんの画像をもっと!   前回更新2025-4-1 15:08    
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・寛政3年(1791)3月、寛政改革(松平定信)の出版取締令に触れて財産の半分没収。

・寛延3年1月7日(1750年2月13日)誕生〜寛政9年5月6日(1797年5月31日)病没。
俗称は蔦重、屋号は蔦屋、耕書堂。版元印=富士山型に蔦の葉のマーク。

蔦屋重三郎は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した著名な版元(出版人)で喜多川歌麿や東洲斎写楽などの作品を世に送り出し江戸の出版文化をリードした。
山東京伝の洒落本が寛政改革(松平定信)の出版統制により手鎖50日の処罰を受け、版元の蔦屋重三郎も身代(財産)半分に没収される。


関連コラムはこちら>
江戸言葉 月ごよみ   『手鎖は「てじょう」と読む!』
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/index.php?id=10

画像>
・蔦唐丸 自作 『身体開帳略縁起:3巻』 出版:蔦屋重三郎 寛政9年(1797)  国立国会図書館蔵
戯作に描かれた蔦重。袖に蔦屋の紋(山形に蔦の葉)がついている。

【江戸のお花見スポット】 浅草寺裏手の千本桜

【江戸のお花見スポット】 浅草寺裏手の千本桜
投稿者sibugakisibugaki さんの画像をもっと!   前回更新2025-4-1 14:22    
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・寛保元年(1741)3月 吉原仲之町で、季節ごとに梅や桜を植え替え始める。


・江戸の桜の名所といえば、浅草寺の裏手の千本桜も有名だった。これが植えられたのは寛保元年(1741)3月だから、芭蕉が没したあとのことなので芭蕉(元禄2年(1689)3月27日墨田区から松尾芭蕉が「奥の細道」の旅に出る)は見ていない。この千本桜は、吉原の遊女たちも寄進したもので、その木々には遊女の自筆になる和歌などを書いた札が下がっていたという。翌年春には、花と遊女の筆跡を、江戸っ子たちは楽しんだわけである。もちろん吉原では桜の季節になると、メーンストリートである仲の町に桜の木々をわざわざ植樹して、盛大に花見をしたものだった。


吉原細見≫
・「吉原遊廓」
江戸幕府によって公認された遊廓。
始めは江戸日本橋近くにあり、明暦の大火後、明暦3年(1657年)
浅草寺裏の日本堤に移転し、前者を元吉原、後者を新吉原と呼んだ。

・「花魁(おいらん」
吉原遊廓の遊女の事で位が高い人。
18世紀中ばに吉原の禿(かむろ)、新造といった妹分が姉女郎のことを
おいらんを呼んだことから上位の吉原の遊女を意味する言葉に定着。
江戸時代後期の吉原細見(安永4年)に下位の遊女で散茶50人、座敷持357人、
部屋持534人で総計2021人と記載がある。

・「花魁道中」
花魁は美しく着飾って下男、妹分の遊女を側に置き遊郭内を練り歩くこと。
江戸吉原においては正月、8月1日、高級遊女が盛装を行い廓の中を練り歩いた。
おいらんが揚屋入りする場合は新造を1人から2人程、禿を1人から3人程、
さらには下男を1人引き連れていた。

画像>
江戸自慢三十六興 『新よし原仲の町の桜』 絵師:広重  豊国出版者:平のや 国立国会図書館蔵
・絵は遊女と夜桜を描いた歌川広重の『吉原仲之町』 


>関連コラム
江戸言葉 月ごよみ三月号 江戸の花見
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/index.php?id=3

【上巳(じょうし)の節句】〜桃の節句、雛祭り〜

【上巳(じょうし)の節句】〜桃の節句、雛祭り〜
投稿者sibugakisibugaki さんの画像をもっと!   前回更新2025-4-1 13:40    
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3月3日は、五節句の1つである上巳(じょうし)の節句で、「桃の節句」とも呼ばれる。中国の水辺での厄払いの風習と、日本の身を清める風習や人形を流す風習が混ざって生まれた祭り。雛人形はこの人形が源流。 江戸時代には、京都から江戸に広まり、雛市が立った。日本橋十軒店(じっけんだな)が有名で、『江戸名所図会』などに描かれている。江戸後期には、雛人形飾りが豪華になった。 明治時代には、五節句の廃止で一時期衰退したが、明治半ばには復活した。百貨店でも雛人形が売り出された。 雛市で人形を買い、家で雛人形を飾る習慣は、今も続いている。

画像>
『江戸名所百人美女_十軒店』歌川豊国(三代)、歌川国久(二代)画 東京都立図書館蔵

内裏雛の前で雛人形の冠を持つ女性、コマ絵(右枠内の絵)には雛人形を売る十軒店の風景があります。十軒店は現在の中央区日本橋室町にあった町で、仮設のお店が10軒並んでいたから名付けられた。  江戸では雛市がいくつかあったが、十軒店が一番盛況でった。十軒店の人形師・原舟月が作った古今雛は、現代の雛人形の元になった。江戸時代には豪華な雛人形が禁止されるほど、様々な雛人形が作られた。

関連コラムはこちら>
・江戸の春の楽しみ 『初午」と「桃の節句』
 >http://www.edoshitamachi.com/web/daidougei/

・江戸言葉 月ごよみ 『雛祭り』
 >http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/index.php?id=3

【日本橋】慶長8年(1603)3月3日 初めて日本橋架橋。

【日本橋】慶長8年(1603)3月3日 初めて日本橋架橋。高ヒット
投稿者sibugakisibugaki さんの画像をもっと!   前回更新2025-4-1 13:32    
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・日本橋川に架かる日本橋と、橋を中心とした広域を指す。東海道など五街道の起点で、ここを起点に一里塚が設置されており、現在でも橋の中央鉄塔には日本国道路元標がある。慶長8(1603)年には完成していたと言われる。橋の下を船が行き交うため、石垣上の橋台を高く築き、アーチ状の形状となった。日本橋周辺は江戸の下町の中心であり、幕府の役所、大店が軒をつらね、各地からの人々で賑わった。北側の本船町(ほんふなちょう)、本小田原町(ほんおだわらちょう)辺りには魚河岸があり、幕府に魚を納める役割を果たし、江戸の魚取引の中心として発展した。その後、魚取引は関東大震災をきっかけに築地へ移転した。

・関東に入府した家康は、 江戸を拠点とすることとし、江戸城を築きながら、 戦いに備えたインフラを築造した。 水と米と塩です。このため、水を江戸城に引くため神田上水が築造され、 近郊生産地確保のため 亀有にため池が造られ、塩を運ぶために小名木川が開削。。
さらに家康は、江戸を人流・物流の中心にするため、 日本橋を築造して五街道の起点とするとともに、 江戸湊を造成した。。

詳細コラムはこちら>
・武蔵國・江戸物語『戦いに備えた江戸の最初のインフラ』
 > http://www.edoshitamachi.com/web/suitoedo/PDFNo30.pdf

画像>
・葛飾北斎「東都勝景一覧 上 日本橋」2(一部) ボストン美術館蔵 
"北斎ならではのダイナミックな構図と、緻密な描写によって、日本橋周辺の風景の美しさを表現している。









【蔦重】 屋号を蔦屋、耕書堂。版元印=富士山型に蔦の葉のマーク。

【蔦重】 屋号を蔦屋、耕書堂。版元印=富士山型に蔦の葉のマーク。高ヒット
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大河ドラマ「べらぼう〜主人公〜蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)」

絵>版元として出版物に登場した肖像画。屋号を蔦屋、耕書堂。版元印=富士山型に蔦の葉のマーク。
口上を述べる蔦屋重三郎が描かれた「箱入娘面屋人魚 3巻」京傳 作 1791年(寛政3年) 出典:国立国会図書館デジタルコレクション
「箱入娘面屋人魚(はこいりむすめめんやにんぎょう)」は、江戸時代の作家山東京伝による作品で、1791年に出版されました。この物語は、江戸時代の風俗や文化を背景に、ユーモアと風刺を交えた内容。

プロフィール>
寛延3年1月7日(1750年2月13日)〜寛政9年5月6日(1797年5月31日)
天明3年(1783)9月蔦屋重三郎が、吉原から日本橋通油町(とおりあぶらちょう)に進出。
2025年放送の大河ドラマ「べらぼう 〜蔦重栄華乃夢噺〜」。主人公の「蔦重」こと蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)。
蔦屋重三郎は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した著名な版元(出版人)で喜多川歌麿や東洲斎写楽などの作品を世に送り出し江戸の出版文化をリードした。

関連コラムはこちら>
江戸言葉 月ごよみ   『「べらぼうめ」と「べらんめえ」』
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/

【寛永通宝】2月27日元禄10年(1697)亀戸村に1万5千坪の新銭鋳造場で寛永通宝を造る。

【寛永通宝】2月27日元禄10年(1697)亀戸村に1万5千坪の新銭鋳造場で寛永通宝を造る。高ヒット
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江戸時代の庶民の貨幣は何と言っても、『寛永通宝』

江戸時代、金銀の高額貨幣のほかに、銅や鉄でつくられた「銭(ぜに)」が少額貨幣として使われていた。まん中に穴があいている丸い銭は、紐(ひも)や緡(さし)で束ねられるようになっていた。銭形平次が投げたのもこれで、四文銭(しもんせん)である。日本の中央政府が久々に銭を発行したのが寛永通宝であり、約660年ぶりのことであった。その結果、寛永通宝が市場を席巻し、なんと戦後の昭和28年(1953)まで通用していたことは、年配の人なら記憶されているだろう・・・・・


関連コラムはこちら>
>江戸ことば 月ごよみ 生活とお金 『銭の話』
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/index.php?id=16%20&file=edokotobaseikatsutookane

関連情報はこちら>
>貨幣博物館_日本貨幣史_17世紀金・銀・銅の貨幣の統一
https://www.imes.boj.or.jp/cm/history/content/#HistoryEarlyModern


写真>
寛永通宝:元禄〜寛永江戸亀戸・鋳銭/貨幣博物館蔵

(寛永通宝は、裏面に波形が刻まれているものが4文、刻まれていないものが1文)




【浅草猿若町】2月3日天保13年(1842)歌舞伎中村座・市村座・森田座が浅草に替地。

【浅草猿若町】2月3日天保13年(1842)歌舞伎中村座・市村座・森田座が浅草に替地。 高ヒット
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幕命により、突然誕生した芝居町「猿若町」、
天保13年(1842年)〜昭和41年(1966年)の町名。
町名は江戸歌舞伎の創始者猿若(中村)勘三郎にちなむ。

老中水野越前守忠邦は天保改革の一環(風俗取締・著侈の禁止)として、
天保13年(1841年)10月7日、堺町と葺屋町の芝居小屋が焼けたのを機に、江戸の中心街から離れた当地に移転を命じた。
そして町を三分し、一丁目に中村座、二丁目に市村座、三丁目に河原崎座が小屋掛けして、芝居興行を始めた。(天保14年秋、浅草寺北方に芝居街が完成)


関連コラムはこちら>
>江戸東京下町地名めぐり「猿若町」
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd1/


絵>「名所江戸百景・猿わか町よるの景」
歌川広重筆 江戸時代・安政3年(1856) 
大判 錦絵 37.5×25.4cm 東京国立博物館蔵

【初午(はつうま)】 〜江戸の春の楽しみ

【初午(はつうま)】 〜江戸の春の楽しみ高ヒット
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二月初めの午の日を江戸中至る所で初午祭りを行っていた。
「伊勢屋稲荷に犬の糞」 と言われるほど稲荷神社(町内毎の祠も含む)が多かった江戸、町中至る所で初午祭りを行っていた。

子供達は太鼓を叩きなが各家を廻と、都度お菓子がもらえたから、太鼓は必需品であった。それ用の太鼓を、早ければ小正月の終わった翌日から。 遅くも二十五日頃までには、天秤棒を担いだ振り売り(棒手振り)が、太鼓を賑やかに叩きながら競争で売り歩いていた。
太鼓売りが来るのは、遅くも初午の前日まで。当日になると早暁から油揚売りが売り歩きました。

  こんち(今日=今日と狐の鳴き声コンを掛けた売り声)イ

  うまアの日イ

  あぶらげ(油揚)エ

狐の好物とされるあぶらげをお供え用に、又後でお下がりを皆でいただくために、いなり寿司 (三角稲荷は 狐の耳、俵型は米俵)にして供えるために買い求めた。 初午が終わる (参考・今年の初午は二月六日)と、桃の節句の準備に切り替えた。

一方大人にとっても初午は楽しみであった。その第一は、普段堅く門を閉じている大名屋敷が一斉に門を開けを 開放したからである。中には邸内に櫓を組み賑やかに踊るものもあった。

関連コラムはこちら>
江戸から今に伝わる伝統芸能「大道芸」
・江戸の春の楽しみ〜「初午」
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絵> 「初午祭用太鼓売り」 江戸府内絵本風俗往来 (国立国会図書館所蔵)






【日本橋初売】正月2日の朝市とくに賑わいを見せたのが魚河岸の初売。

【日本橋初売】正月2日の朝市とくに賑わいを見せたのが魚河岸の初売。 高ヒット
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朝市は絵にあるように大勢の買い物客であふれかえっていた。
日本橋魚河岸の始まりは、江戸時代初期、徳川家は江戸城内の台所を賄うため大坂の佃村から漁師たちを呼び寄せ、 江戸湾内での漁業の特権を与えました。漁師たちは魚を幕府に納め、残りを日本橋で売るようになった。これが魚河岸の始まりと言われている。
日本橋の魚河岸は関東大震災の被害によって築地に移転されるまで、 江戸および東京の台所として活況を呈していた。

絵>橋本貞秀画「大江戸年中行事之内 正月二日日本橋初売」東京都中央図書館蔵 

関連コラムはこちら>「江戸の正月風景」
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【咸臨丸】(かんりんまる) 1月13日万延元年(1860

【咸臨丸】(かんりんまる) 1月13日万延元年(1860 高ヒット
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1月13日万延元年(1860)咸臨丸で勝海舟ら遣米使節が派遣され、幕府の船として初めて太平洋を往復した。

オランダ語の旧名は「Japan」で、ヤパン号、ヤッパン号、ヤーパン号とも書かれる。
「咸臨」とは『易経』より取られた言葉で、君臣が互いに親しみ合うことを意味する。  
安政2年(1855)7月、オランダのキンデルダイクにて起工(620トン・100馬力)。
明治4(1871)年9月21日、函館から小樽へ向かう途中泉沢沖で沈没。
  
写真>1960年発行、日米修好通商百周年記念切手

関連コラムはこちら>
・第一巻 勝海舟、サンフランシスコで月を詠む
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【明暦の大火】1月18日明暦3年(1657)

【明暦の大火】1月18日明暦3年(1657) 高ヒット
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1月18日明暦3年(1657)本郷丸山町の本妙寺より出火、江戸の4分の3が焼失し焼死者十万二千余人の大火。大火後に江戸の都市改造が行われ、御三家の屋敷や寺社が移転し、市区改正や架橋、防火線などの施策が実施された。
火事の多かった江戸の中でも特に3分の1以上を焼き、多数の死傷者を出した『明暦の大火』『明和の大火』『文化の大火』を江戸三大大火と呼ぶ。

絵>『江戸火事図巻』 田代幸春画  江戸東京博物館蔵


関連コラムはこちら>「江戸十万日 月日の鼠」
http://www.edoshitamachi.com/web/fuyugaki/2019/12/

【打ちこわし】 1月25享保18年(1733)享保の打ちこわし。

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1月25日享保18年(1733)享保の打ちこわし。
江戸時代最初の打ちこわし。米不足と米価高騰が原因で庶民による米商人(高間伝兵衛)の家屋や米俵を破壊する暴動。

1732年(享保17年)夏に起こった享保の大飢饉による米不足で米価が高騰した際、庶民の間で米価高の原因は徳川吉宗に協力し、米価の安定に尽力していた米商人の高間伝兵衛が米を買い占め、米価をつり上げようとしているという噂が立った。それに対し、幕府は米を供出するなどして米価を下げようとしたが失敗した。

絵>『幕末江戸市中騒動記』 東京国立博物館蔵
慶応2年(1866)江戸でおこった打ちこわしを描いた絵。
米屋を襲い、家屋を破壊、商品を台無しにする場面。

関連コラムはこちら> 江戸十万日 月日の鼠」
http://www.edoshitamachi.com/web/fuyugaki/2021/07/

【忠臣蔵】『赤穂浪士討入』 浅野家残党、吉良邸討入事件

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絵>大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしお) - 月岡芳年画「誠忠義士銘々画伝」(ボストン美術館蔵)
大石内蔵助良雄《辞世》
『あら楽し思ひははるゝ身は捨る浮世の外にかゝる雲なし』

吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)を12月15日元禄15年(1702)赤穂浪士討入。本所松坂町の吉良邸を襲撃して義央を討ち取る。
陰暦1702年12月14日(新暦 1703.1.30) ― 寅の上刻(15日の午前3時〜3時40分)。有明の月が昨日からの積雪を皓々と照らし出し、界隈には月と雪以外なにものも見えなかった。
このときである。静寂の隙間から、いずれも鎖帷子を着用し、槍、刀などの武器を持った異様な男たちが降って湧いたようにして現われ、本所二ツ目の吉良邸へと向って行った。

関連コラムはこちら> 小説「江戸人紀」
『第四巻 元禄武士道』
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd7/index.php?id=22




【新大橋架橋】12月7日元禄6年(1693) 新大橋は隅田川で二番目に出来た橋で、先に両国橋ができこれを大橋とよんでいたので新大橋という。

【新大橋架橋】12月7日元禄6年(1693) 新大橋は隅田川で二番目に出来た橋で、先に両国橋ができこれを大橋とよんでいたので新大橋という。高ヒット
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絵>歌川広重・名所江戸百景 『大はしあたけの夕立』(おおはしあたけのゆうだち)安政3年(1856)〜安政5年(1858)にかけて制作した連作浮世絵名所絵。(国立国会図書館所蔵)
広重最晩年の作品であり、その死の直前まで制作が続けられた代表作で、名所江戸百景」の最大傑作とされる作品。
突然降始めた夕立の中をあたふたと駆ける人びと。川並は悠々と筏を操っている。 遠景の対岸に御船蔵が並んでいて、浜町側下流から隅田川を隔て北東を描いている。


関連コラムはこちら> 「第一部 「武蔵國・江戸物語」」
No49 歌川広重「名所江戸百景」の新解釈
http://www.edoshitamachi.com/web/suitoedo/PDFNo49.pdf


【新着コラム】	「足袋(たび)は贅沢品だった」

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絵>「守貞漫稿」所掲 足袋屋の看板

江戸の足袋屋は必らず股引腹掛をも製造、併せて手拭をも売っていた。その値段は文化前後(1804-1820年)で一足二百文内外。
「守貞漫稿」によれば『足袋店看板 三都同形也。京坂は専ら屋号を書す者のみなり。江戸は或は屋号或は股引又は大丈夫と書もあり、 股引服用の条に詳かにす必ずたびやにて兼製之もの也。』とあり。

江戸時代は、靴下ではなく足袋(たび)を履(は)いていたが、それはもっぱら寒さしのぎの場合であって、庶民は病気でないかぎり裸足(はだし)の生活が日常だった。足袋は贅沢(ぜいたく)な履物で、多くの人々は裸足で下駄(げた)や草履(ぞうり)などを履いていたし、裸足のままで外を歩くことも珍しくなかった。

明治34年(1901)5月29日、警視庁は裸足禁止令を出しているが・・・・・

新着コラムはこちら>
 >江戸言葉 月ごよみ
 〇「足袋(たび)は贅沢品だった」
 http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/

【寄 席】	12月24日弘化元年(1844) 寄席が自由化される。

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絵>春色三題噺(しゅんしょくさんだいばなし)春廼家幾久 (はるのやいくひさ)編 一恵齋芳幾(いっけいさいよしいく)画 刊 3巻3冊 加賀文庫
口絵には、三題噺の会の会場の様子が描かれている。中央に高座があり、観客たちが口をあけて笑いながら咄を楽しんでいる。観客が、隣と話をしながら茶を飲み、くつろいでいる様子がわかる。落語の最盛期にはどの町内にも寄席があり、近所の人が気軽にやって来た。ほぼ一日かかる歌舞伎見物にくらべ、落語ははるかに手軽な楽しみだった。


江戸落語の始まりは、17世紀後半に活躍した鹿野武左衛門(しかのぶざえもん)(1649〜1699)によるものといわれている。
文化元年(1804)頃に江戸市中には75軒もの寄席があり、19世紀中頃には100軒に達し、200名を超える落語家が存在した。しかし、「天保の改革」(1841〜1843)と呼ばれる幕政改革により、江戸市中にあった寄席は、24軒を残して取り潰しとなった。その後、「天保の改革」を推し進めた老中・水野忠邦(みずのただくに)(1794〜1851)が失脚するとたちまち盛り返し、19世紀後半には、軍談(講談)の席と合わせて300軒以上になっていたといわれている。

関連コラムはこちら> 
○「寄席の始まり」
  http://www.edoshitamachi.com/web/mamesuke/2023/08/post-2.html

○「寄席à la carte(アラカルト)」 『テレビで会えない芸人」』
  http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd8/index.php?id=11

○「寄席à la carte(アラカルト)」 『寄席と独演会。どっちに行きますか?』
  http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd8/index.php?id=14

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